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出雲について考えること

2014 OCT 28 13:13:52 pm by 東 賢太郎

西室が出雲へ行って、先日の佐白に関する興味深いお手紙のことなどを書いてくれました。神話や伝承について僕は詳しいとはいえないのですが、その根っこにある事実については関心がありいま何冊かの本を読んでいます。

それを調べるということは日本国の成り立ちや民族としてのルーツを探ることでもあります。そのひとりである自分のルーツもおぼろげに。これは大変興味深い作業であり、これから時間をかけてじっくり取り組むに足るものと思います。

おおよそ人類のルーツはアフリカ大陸にあるというのが現在の科学の通説です。それが日本列島にあるという人はいません。ということは何万年もさかのぼればの話ですが、日本人は全員がどこからかやってきた人々だということになります。

物事を考える時にはなるべく感情、思い込みをいれず、客観的な態度で取り組まないと真実を見誤ります。当代一の数学者であったケプラーにして、当時のキリスト教的思い込みで「等速円運動」を前提としたために惑星の運行法則を発見するのに30年もかかってしまったのが良い例です。

「日本人は全員がどこからかやってきた」という客観的前提に立てば、その「どこか」が朝鮮半島であろうが中国大陸であろうが一切のエモーションは排除できるはずです。むしろ地理的な観点からその第一候補がユーラシア大陸であることを否定する方が困難でしょう。

本州唯一の在来種である「木曽馬」の先祖はモンゴル馬であることがわかっているそうです。ということはそれを連れて海を渡ってきた人々がいるわけで、彼らが入ってきたルートが朝鮮半島か日本海の対岸かということはさほど重要とは思われません。日本には、少なくとも本州には、もともと馬はいなかったということが大事です。

それと同じことで、日本に製鉄技術を持ち込んできた人々が手紙にあるようにオロチョン族なるユーラシア大陸の人々であったことはなんら不思議なことではありません。それがオロチの語源になったかどうかはまた別なことですが、彼らが神話になるほど影響力を持ったことは考えられることと思います。

日本の製鉄技術は中国(ユーラシア大陸)に1000年、朝鮮半島に500年遅れていたそうです。しかしその事実をもって日本は後進国だ、朝鮮が教えてやった等の感情論に堕落しても不毛です。弟子が先生に常に劣るなら人類は確実に劣化してきたはずです。

新羅の古墳から出たガラスはローマ製だそうですが、近年奈良の新沢千塚古墳群から中国を経由せず西域から新羅経由で入ったローマングラスが見つかったそうです。人も技術もユーラシアではなくローマに根っこがあるということだって一概に否定はできないということです。

日本列島への文物伝播において、その新羅という国が朝鮮半島の中継点として重要であることは多くの本に指摘されています。新羅の慶州から船を出すと海流に乗って列島の中国・北陸地方に漂着します。高句麗からだと北陸、東北地方です。これは古代より物理的、原理的現象です。

福井県の敦賀は、海から来た烏帽子をかぶった人(オホカラの王子とされる)ツヌガアラシト(角がある人)が地名の語源とされます。石川県の小松は高麗津だったという説もあります。そういう伝承を荒唐無稽な民話としてではなく、物理的、原理的現象の帰結としてまず理解してみようとするのが客観的態度と思います。

たたら製鉄技術を持ち鉄製の武器を大量に保有できた部族が海を渡ってきて王権を握り、その地こそ好適な砂鉄を産する出雲であったということは納得できる説ではないでしょうか。技術自体はユーラシア起源(タタール)ですから、先のローマングラスと同じことでそれが中国経由か朝鮮経由かはともかく、出雲に西域と繋がった人が来た可能性は指摘できましょう。

一方、日本を征服した王朝、つまり天孫族の末裔である天皇ですが、少なくとも桓武天皇以降は百済系です。百済はもともと扶余族であり満州あたりの北方騎馬民族とされます。だから出雲を支配した人々(一説では物部氏)とは別民族であって、天孫族と戦って敗れたのだ、それがオロチ伝説であり大国主命の国譲りなのだと説明する人も多くいます。

その経緯を書いた史書というと古事記、日本書紀ですが、これらは藤原不比等の意図で天孫族王権の正当化を図る意図の反映も指摘されております。古代の貿易ルートとして「瀬戸内海から畿内」というものと「広く日本海経由」というものが利権対立し、前者の総元締めがヤマトで後者が出雲であったとする説もあります。前者が百済利権、後者が新羅利権であるため闘争になり、前者が勝ったとするもののようです。

前者の墳墓は前方後円墳です。それに対し後者は出雲に現れて東方に広がっていった四隅突出型古墳であり、こっちのほうが弥生時代と古い。弥生中期にヤマトに古墳はないそうです。つまり出雲が先住の王権であり、何かが起こって後発の大和朝廷が王権を奪ったと考える物証であるようです。

ここで私事になり恐縮ですが、ブログに書きましたが初めて出雲へ行った時に、なんとなくですが、気質的に自分と似たものを感じました。僕の先祖は石川の能登です。先ほどの日本海海流の物理的、原理的現象によれば半島のでっぱりは漂着地だったとは思っていましたが、いろいろ調べると出雲の文物がそうして東進したという物証は数多くあるようです。

例えば高句麗系とみられる前方後方墳の数は、島根33、鳥取3、兵庫7、京都8、福井3、石川26、富山2だそうです。距離的に近い鳥取、兵庫、京都、福井を飛ばして石川が多いのは、出雲からその埋葬文化を持つ民族が海路で東進したことを裏付けそうです。ともかく自分の中で出雲になにか特別なものを感じたというのは普通ではない気がいたします。

さてこの度の日本国を挙げての慶事である千家 国麿様と高円宮典子女王のご成婚は、天穂日命(あまのほひのみこと)の子孫である出雲国造家と皇室のご結婚であるわけですが、記記によればどちらも天照大神の子孫であるとはいえ、祭る神社でいえば伊勢神宮と出雲大社であり、天孫族と出雲族のご結婚でもあります。両者の式年遷宮が初めて一致した事実も思い合わせると歴史的視点からも大変意義深いことのように思われます。

まだ学習が及ばず雑駁な記述になりましたが、これから少しずつ出雲をとりまく歴史や文化を勉強して参ろうと思います。

 

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