N響定期 エド・デ・ワールトを聴く
2015 MAY 16 2:02:07 am by 東 賢太郎
指揮:エド・デ・ワールト、メゾ・ソプラノ:マレーナ・エルンマン
ラヴェル/組曲「マ・メール・ロワ」
ラヴェル/シェエラザード ショーソン/愛と海の詩
ドビュッシー/交響詩「海」
明日は仕事なので金曜に振り替え。席は自分のより良かった。今日の収穫はメゾ・ソプラノのマレーナ・エルンマンだった。オケによる間奏曲のあいだも彼女は顔の表情を変える。まるでオペラだ。
そのぐらいどうしたと思われそうだが、それだけで舞台を支配していると言ったらどうだろう。なにせ堂々たる金髪の長躯であり、2曲を別のドレスで歌ったが多くの男性はまずビジュアルで圧倒されたのではなかろうか(僕はそうだ)。
声の質は中音域が倍音に富む。ソプラノで耳元(鼓膜)に響く声質はあるがメゾではアグネス・バルツァア以来の経験だ。とりわけ、これも倍音がふくよかだった第1フルート(良かった)とからむラヴェル第2曲は絶品だった。
youtubeを見ると彼女はスウェーデンではポップス界の大スターでもあるのに驚いた。昨日聴いた人はこの歌手が同一人物であることに目を疑うだろう。
女性は化ける。わけがわからない。こうはいかない男は呆気にとられ、そして舞台は支配されるのだ。
マ・メール・ロワは普通の出来。これはジュリーニやチェリビダッケの実演も聴いたが、そっちも大したことがなかった。細かいところまで自分の好みが確立しているのでなかなか難しい。せめてバレエ版でやってほしかった。
メインのドビッシーは微視的なアプローチではない割に音楽に内から湧き上がる生気がない。白眉の第2楽章は細分化されたリズム分子が時間の関数として変化するような音楽であり、ややこしい言い方になるが他に術がないのでお許しいただくと、時間で微分すると傾きが「立つ」ような表現が必須と僕は感じている。それはうまくいってなかった。
その視点を理解しているのはブーレーズの旧盤だけだが、フランクフルトで聴いたウルフ・シルマーという指揮者(バンベルグSO)は完璧だった。彼はどうしてもっと表舞台に出てこないのか不思議でならない。
そうでないアプローチならもっと熱量が必要だ。微分しないでも、誰もが聞いてわかる音楽の摂理に添って増減するものが(シャルル・ミュンシュみたいに)。それも今一つだからどっちつかずの印象だった。
デ・ワールトは比較的好きな部類の指揮者でありだいぶ前に読響でやった「さまよえるオランダ人」など楽しんだのだが。彼のデリケートな美質はシェラザードに最も出ていたように思う。
伊藤亮太郎氏のコンマスは良いのではないだろうか。
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