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わかる人、わからない人

2015 OCT 12 14:14:55 pm by 東 賢太郎

ある方がオフィスに来られて、この20日で起業して5年になりますねと申し上げた所、すごいことですと、ぽつりと一言をいただきました。

5年になりますとは折あらばいろいろな方に申し上げていることではありますが、彼のぽつりは胸にささりました。

あとで話してくれたことによると、彼はずっと年下ですが、勤めた会社が苦境の時期を経ていて転職されています。現在は海外の会社のパートナーの地位についている俊英なのですが、その数年間のことは思い出したくないほどのことだったようです。

自分で苦しんで初めてわかることがあります。何もない所から生んだ会社を5年間存続させた重みは、前回会ったのはまだ順調だった3年前ですから、そのころだったらわからなかったでしょうとも。

「わかる」ということばの含蓄は深いですね。わかってくれた彼を、こんどは僕の方が一言だけ聞いて「わかる」のです。わかるのは悟ることへの第一歩かもしれません。

社会というのは人と人のつながりで成り立っていますが、その真ん中に身内という小さな社会があります。家族、友達、仲間、会社、共同体などという。では社会と身内の境目はどこなのかというと、これはなかなか答えるのが難しいことでしょう。

私事ですが僕は本来あんまりしゃべるほうではありません。身内というプライベートな空間ではとくに。しかし社会では多弁にもなり、ときに勇弁でなくてはならない場面もあります。実はそういう自分はあまり好きではなく、社会生活のなかであとから方便としてついてきた技術のようなものです。

身内をおおざっぱにイメージするなら、自分と利害関係があまりないという範囲内の社会ではないでしょうか。そうだとするなら、多弁、勇弁はそれがあるから必要なのです。まったく袖も振り合わぬ人、つまり利害関係のない人に弁は無用でしょう。同様にそれのない身内にもということなのかもしれません。

しかし、僕においては理屈ではなく、わかるなら、いらない。それだけです。そして、わかる人だけが身内というなら、身内にはだからいらないわけです。どうしてか、わかりませんが、言わないでもわかるほうが信頼が強まるという僕のスタイルです。

身内は「わかる」こそが大事であります。すくなくとも僕には。余計なことは言わない、言わないからといって余計な気もお互いに使わない。だからわかるしかないのですが、わかる人を僕はわかるし、わからない人もわかる。

というと禅問答のようだと思われるかもしれません。ところが興味深いことに、その禅の本を読んでいたら

不立文字、教外別伝

とあります。経典の「文言」によるのではなく、「体験」によって釈尊の悟りの内容を自身も悟ることを目指すのが禅宗だそうです。人は心の在りようこそが大事なのであって、言葉はそれを伝える不完全な容器にすぎないと。

その教えをお借りして甚だ身勝手ではありますが、僕は相手の心の在りようを察してあげられることが不完全な言葉をいくらかけることよりも大切だと思います。釈尊の悟りにはほど遠い程度のことですが、日々の人のこころというものも言葉ではうまく伝わらないものだし、それを言わずとも察してあげられることが「おもいやり」の神髄と思うのです。

英語はまず「ハワユー」 「How are you?」  を習います。「ごきげんいかが?」と訳されてますが、ここでyouというのは「あなたの心や体の状態」ということです。「あなたは(今日現在の)あなたの心や体の状態を自分自身でどのように把握していますか?」という、実はけっこうプライベートで微妙なことをきいているのです。しかも質問だから、答える義務があります。

これは考えると妙で、日本人はそういう質問は病気の人にしかしません。そしてそれには 「I’m fine, thank you. and you?」 と答えろと習うんですが、これはますます妙である。人間だからfineでもない日もあるのです。毎日毎朝これを何万回もきかれていると時々 very bad なんてわざとぶすっとして答えたりします。

すいません、尋ねない方がよかったですねってこともあって、普通は「こんにちは」の代用品で軽いタッチで使われますが実はそうでもないことを質問しているということがお分かりいただけると思います。

西洋はそういうやり取りを言葉で毎日かわさないといけない。言葉が人間関係の潤滑油として機能する文化です。

米国でルームメイトが彼女に毎日愛してるを言ってる、あれホントなんです。僕は仮に愛してないならそれはどうしても言わなくっちゃいけないだろうなと思うんですね、それだけは言わないとわからないから。あんなにあたりまえのことを毎日言ったら言葉が軽くなります。そんなに軽いモノならいざという時に百万言ついやしたって何の重みもない、どうするんだろうと逆に心配になりました。

冒頭の後輩は、「すごいことです」のたった7文字で、僕が5年間にいかなる苦労をしてきたかということへの共感を伝えてくれました。もちろん彼は僕の苦労の細かな事例は何も知らないから一般論なのですが、「起業」「5年」「持続」という事実への体験を通した理解があったのでしょう、それが言外にじわりと伝わってきました。

体験を通じて知った者だけが発することのできる共感なので、その体験を持っている僕も、共感ができたのです。お互い様です。千文字の美辞麗句を並べてもかなわないものがある。そして、それをわかる人と、わからない人がいる。わかる人はそういう者同士で身内になれるし、だんだん「わかる人だけの集団」と「わからない人だけの集団」が分かれていきます。

昨今、シャープとか東芝がおかしくなって、だから身内だけの経営はいかん、社外取締役制度を強化しろという声が強まりました。「わからない人」をいれて「わかる人」だけの集団を監視させろということです。しかしどうもおかしい。社内警察官が目を光らせないと則を超えて危ないようなビジネスなら、やめてしまえばいいのです。

僕は事業というものは「わかる人」だけでやるのがいいと信じています。それで道を逸れるなら、それはやっている事業自体がもともと勝算がなかったり倫理的におかしいかもしれないぞと疑うべきなのであって、同族経営や仲良しクラブだったからそうなったという事例はもちろんあるにしても、それは決して事の本質ではないと思います。

異質の「わからない人」が経営の意思決定者にたくさんいれば暴走がないだろうというのはいかにも正論に聞こえますが、正しいことをやっているなら暴走は快進撃と呼ばれるのです。もともと勝算がなかったり倫理的におかしいことは絶対にやらないという仲良しクラブが悪いという理屈はないでしょう。

線路に乗っているかどうか、大事なのはそれだけです。乗っていないのにアクセルを踏むから大事故になる。それをブレーキの利き具合の問題にすり替えてはいけません。ブレーキだけなら事故は起きないが、車は前に進みません。会社は何をやっているのか意味不明になります。

僕は「わかる人」が好きなのではありません。個人的には嫌いだけど、わかる人はいます。好き嫌いとは別なことです。ただ、家庭を作ったり、仕事を成功させたり、なんであれ小さな社会をうまく進めていこうと思えばそういう人といることが円滑なのです。

さきほど「おもいやり」と書きましたが、漢字は「思い遣り」です。「遣る」とは「さしむける」、 「送り届ける」という意味ですから、これは能動的に、こちらからの働きかけとして、「思い」という心の動きをさしあげることであって、うわべのやさしい言葉をかけることや同情してあげることではありません。

これを西洋人に言葉で説明する自信はまったくありません。態度で行くしかないのです。僕が朝っぱらからハワユーにわざとしかめっ面で very bad , and you? なんて答えて相手が笑って、Oh, I’m great, I’m afraid. なんてくる、これはぱっと相手の顔を見て機嫌が良さそうな時しかできないのですが、英米人とだってこうやって「わかる人」の関係になれる。意外に万国共通のものじゃないかと思ったりもします。

 

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