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5番サードきぬがさ 背番号3

2018 APR 25 23:23:22 pm by 東 賢太郎

先日息子が93になる親父を東京ドームのカープ戦に連れて行って「広島に龍というピッチャーがいてね、サインをくれてそれであいつはますますカープに入れ込んだんだ」ときいてきた。そういえば小学校のころ部屋の壁に龍憲一のサインを大事に貼っていたのを思い出した。

あのころカープは打線が非力で、巨人の堀内に3打席連続本塁打された挙句にノーヒットノーランを食らった。当時のテレビ中継は9時で終わったものだから、僕はニッポン放送ショウアップナイターを聞きながら「打ってくれ、頼むぞ」とひとり天に祈っていた。部屋は消灯していた。その漆黒の闇と重なって強烈な屈辱の記憶として残っている。

当時のカープで本塁打を打ちそうなバッターというと山本一義、藤井、興津、大和田、それから移籍組の山内ぐらいで、まあそれもたいしたことない。下位打線は超貧打で好投手が出てくると内野も超えない雰囲気すらあった。それに何年も耐えて報われない応援をしてきたものだから、中学あたりになって衣笠、山本浩二がクリーンアップに定着して本塁打をばんばん打ちだしたことなど夢のようだった。

4番センターやまもとこうじ、5番サードきぬがさ・・・

アナウンスが耳に焼きついている。いつもフルスイングだった衣笠のホームランは打った瞬間にわかる痛快な当たりが多く、しかし打球の鮮烈さのわりに大仰なガッツポーズはあまりなく、ダイヤモンドを周回する姿はどこかストイックな謙虚ささえあったように思う。それでも打席では誰も打ててない投手からガツンと一発いきそうな気迫があり、何度も留飲を下げてくれた偉大な打者だ。あの堀内のノーノーの試合に出ていたのかどうか、あの時点でまだ若かったが、もし後年の衣笠だったら彼こそが打ってくれたはずだと思わせてくれる稀有の強打者だったのである。

彼は平安高校からキャッチャーで入団して、すぐに肩を壊した。米軍キャンプのバーに入りびたって自暴自棄の時期もあったときく。巨人や阪神のようなスターぞろいの球団ならそこで終わってしまっただろうし、貧乏で貧打の広島という球団でなければ関根コーチをつけてあそこまで期待をかけて育てなかったように思う。いいチームに入ったし、つかんだ幸運を真摯な努力でものにした人だった。運はきっと誰にも平等に来ていると思うが、ものにした人だけに来たように見えるというものだ。

東京六大学のスターで後から入団してきた同期の山本浩二に強烈なライバル心を燃やしたそうだ。苦労人ならではの自負だ、当然だろう。そこからお互いに意識してしのぎを削る競争となり、お互いが欠点を補って強いところを強くして高いところに昇って行った。これがヘーゲルのアウフヘーベン(止揚)、弁証法的発展だ。そしてその結果として広島カープも高いところに昇っていき、昭和50年にとうとう優勝してしまう。僕が小2でカープファンになって、龍憲一投手のサインをもらってから13年後のことだった。

そこまでの劇的に弱かったカープを知らないファンは鉄人と呼ぶが、13年の辛酸をなめた僕にとって衣笠祥雄さんは救世主だった。心からの感謝を込め、ご冥福をお祈りします。

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Categories:______広島カープ

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