交響曲を書きたいと思ったこと(1)
2018 NOV 24 16:16:28 pm by 東 賢太郎
時々とてつもない願望がわくことがあって、大学のころ不意に交響曲を書いてみたいと思ったことがある。さっそく対位法、和声法、管弦楽法の書物を買い込んで受験勉強みたいに読んだ。大変まじめにやったと自負する。クラシックがクラシックに聞こえる秘密は対位法にあることを知ったし、機能和声の原理もそうなのだがとても数学に近いということは発見だった。というより、交響曲であろうとなかろうと、数学に必要な能力なしにまともな音楽を書こうというのはあり得ないことであろう。
一般のイメージでクラシックの作曲家というと、ひらめいた美しいメロディを書き留めた文人、詩人みたいなものだろうが僕はジェームズ・ワットやトーマス・エジソンやフランク・ロイド・ライトに近いと思っている。少なくとも理系である。文学や絵画や、音楽でもポップスは文系でも書けるが、クラシックの作曲(composition)は非常に理系的作業であって、モーツァルトもショパンも、文学青年のイメージとは遠く数学、音響工学に長けたエンジニアの基盤があって、そこにあの音楽が「降って来た」からナイスキャッチできたのである。
シンプルに書けばクラシックの作曲は「数の秩序」の支配する王国を作り出すことだ。数の秩序と人間の美醜の感覚は関連があり(これは神の領域で人は作れない)それが感動(聞き手の心の動き)の源泉である。楽音が周波数(ヘルツ)であり和声がその比率値であり、音の強さはデシベルであり長さは時間であるから、音楽の要素はすべてが数である。それに秩序を与える追唱、模倣、反転、シンメトリー等々のミクロ構成原理がマクロとしての形式論を形成するのはフラクタル構造を思わせる。
音楽はそれだけで美しいのであって作曲はだから絵画より彫刻、建築に近似するはずだ。フィレンツェのアカデミア美術館で見上げたダビデ像にはJSバッハのフーガの技法の均整を感じて圧倒されたが、あの感動に彩色は無用でありむしろ肌色に塗れば卑猥なものに貶めかねない。管弦楽法はヘルツを変えずに色を持ち込む技法であって、従って音楽の本質ではない。それはJSバッハの多くの曲に楽器指定がないことでわかる。フーガの技法をどの楽器で演奏しようがよいのはダビデ像があえて白色のままにおかれているのと同じだ(僕は或る調性に色のイメージが出てしまうが、そのこととドビッシーをきいてモネの絵を思い浮かべるような人がいることは別な話である)。という結論に至ったので僕はそれ以来交響曲をピアノで弾いてみる習慣がついた。僕のピアノは乙女の祈りやショパンを弾くためでなくブルックナーの9番などを探索するために存在する。ピアノリダクションを弾かないでスコアの構造を理解するということはよほどの天才でない限り難しいように思う。ショスタコーヴィチは管弦楽曲を聴くそばから頭でピアノに置き換えていたというが、それは作曲家なら誰でも普通のことだろう。
さてそこまで来て、作曲とはそういうものではないのだという至極根本的なことにも気がついた。僕の願望は、仮免でF1レースで勝てるだろうというほどのかけ離れた妄想でしかなかった。しかし逆説的ながら「書ける」と思ったことも事実だ。というのは「交響曲を書くノウハウなんてない」ということだけは分かったからだ。何であれ「交響曲」と表紙をつければその日から交響曲である。誰でも書く権利はあるし著作権だって取得できる。問題はそれが演奏されて世間が良い交響曲だと思ってくれるかどうか、それだけなのだ。
作曲する(compose)という動詞はcom-(いっしょに)+pose(置く)というラテン語が起源だ。「一緒に置く」である。音楽の能力がないならそれをビジネスでやればいい。演奏されて世間が良い交響曲だと思ってくれるかどうか?それはオンリーワンであるかどうかにかかっている。そう切り替えたらどうだろう。というより、幸か不幸か、頭の構造が元からそうなっているようで「これとあれを組み合わせると面白い」ということを寝ても覚めても考えているしそれが飯より好きでもある。
ビジネスでこれを第1主題に、あれを第2にという作業は字義通りcomposeすることに他ならない。この人とあの人でもよい。両方にコネクションがあるのはこの世で僕しかいない、ということはそれをすれば勝手にオンリーワンになるのである。それを発表したら世間は驚くだろうと思うとぞくぞくする。それを構想段階で他人に話して報われた経験はない。この人大丈夫かという顔をされるだけだから説明する意味もない。しかしそういうものほど価値があるのだ。僕は他人のすることをもう少し小賢しくやろうなどということには微塵の関心もない。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
Categories:______自分とは, 若者に教えたいこと
maeda
11/26/2018 | 2:10 AM Permalink
曲を構成する構造が大事で音色は付加的なものという点は仰るとおりと私も思います。よく演奏会できれいな音色だったという感想がありますが、構造が聴こえず音色しか分からなかった人が少なからずいるのではないかと思うことがあります。もちろん、例えばシューマンの交響曲では、音色は重要な要素で、トランペットのパートはトランペットでなければいけません。そこはバッハと違うところですね。そういうこともありますが、主題の提示、展開、和声によって伝えようとしている意味の方が大事であることは言うまでもありません。その基本が意外に理解されていないように感ずることがあります。
東 賢太郎
11/26/2018 | 11:21 AM Permalink
そうですね、初めてメシアンのピアノ曲を聴いたときこの人は鳥の声に色彩を見ているんだと思いましたがのちに調べると彼の音楽語法もリズム細胞、旋法、音高のセリー(音列)といった要素(小構造)を厳格に管理した大構造であって、それによって彼は色のモザイク感覚が作れると考えていたようです。ですから「色彩」が大事でないとは思わないのですが、西洋音楽は底流にこうした頑強な唯物論的思考がJSバッハからブーレーズに至るまであり、「情緒」「あいまいさ」「やわらかさ」を好む日本人には理解しがたい部分かもしれないと思っています(武満を聴くとそう感じます)。ですからまずそれを知るのがクラシック音楽を知るということだと考えてます。構造が情緒に訴えるプロセスは神の領域であって(例えば長調がなぜ明朗かという)、それは永遠に不可知かもしれないが、そうであっても構造が在れば神のごとく訴えることはできるという経験的な思考から出る「神に近づきたいという欲求」こそ作曲家の真のモチベーションなのではないかというのが私見です。