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何かしてくれそうな人、してあげたくなる人

2019 DEC 14 20:20:17 pm by 東 賢太郎

人にはなぜか、何かしてくれそうな人、何かしてあげたくなる人がいる。なぜそうなるのかに理屈はなく、血縁とか利害関係もないのにそう感じるのだから不思議だ。すると、ごく自然に、その人とはご縁ができることになる。

「してくれそう」「してあげたくなる」は好き嫌いではない。僕は元からあまりそれがない人間で、例えば初対面の人が生理的に嫌いなどということはまずない。あるとすれば、その人がしたことが許せない、これはある。しかし嫌ったのはその人のした行為であって、典型的な「罪を憎んで人を憎まず」であり、憎むとしても「罪刑法定主義」である。その「法」はまあ僕の私情にすぎないかもしれないから要は好き嫌いでしょといわれればそうかもしれないが、法と書いてしまいたいほどに首尾一貫していると自分で思う。

すると「してくれそう」「してあげたくなる」はなんだろう?もちろん私情ではあるが、若い頃にはなかったし、そんな感情が現れだしたのはこの10年ぐらいのことだ。さらには、僕の心の内奥にそれがあって、それで人を選んだり付きあったりするようになっていることに気がついたのはごく最近である。つまり、事業を始めてそこそこ時がたって、自分に目標ができたから芽生えた新しい感情なのではないか。えっ、50になるまで目標なかったの?と恥ずかしくもあるが、やっぱりなかったのだろうと思うしかない。

その問いに答えるには、少し回り道におつきあいいただくしかない。サラリーマンというのは出世が目標だ。そうでない人もいるが、僕の場合はそうだったという所から僕のサラリーマン人生の最終章がどんなだったかということを全部さらけ出してしまおうと思う。出世は他人が決めることだ。その他人が自分より優れていると信じこめるとは限らない。気に入られるならヨイショ・マンでもホラ吹きでもなんでも構わないという大会に出場することは、僕の場合、非常に難しい何かが内面にある。それをあきらめて野村を飛び出してしまい、何が目標になったか?俺はそんな程度じゃないぞという「承認欲求」だった。だから、もっと自分の実力に対してポジティブな承認をくれそうな会社に移ろうと考えた。そう思い出した2003年頃から話は始まる。この思いは、プロ野球で何か報われなくてFA移籍する人をついつい応援してしまう気持ちとして今でもその片鱗が残っているぐらい強いものだった。

そういう気持ちの時に、たまさかみずほ証券の常務だった横尾さんとお会いした。これが人生を全面的にリセットするきっかけとなった。49才だった。そのご縁で移籍させていただく決断に至ったが、散々お世話になった野村證券には失うものも後ろ髪を引かれるものも莫大にあったし、今もって申しわけなかったという気持ちだ。昨今、外国なみに会社をかわるのが普通の感覚になってきたかもしれないが2004年当時はそうでもなく、日本最大の証券会社の本社のポスト部長だったのだから異例の部類で週刊誌ネタにもなった。

決断の時点でみずほからいただいた条件、つまり肩書や報酬は野村と大差なく確か複数年契約でもなかったから、世間一般的なキャリアアップ転職ではまったくなかった。大変失礼だが当時の客観的事実としてご理解いただきたいが、飛ぶ鳥落としていた野村からみずほ証券というのは格落ちであった。横尾さんによると当時は興銀の悲願であった株式引受業務強化が頭取命令であり、どうしても野村の株式業務の主力を引き抜きたかった。一方で、僕が喉から手が出るほど欲しかったのは「承認」「活躍の場」だったから相思相愛ではあった。ただ、面接官がそれをたった30分で僕にそう思わせた横尾さんという人でなかったら、今の僕は確実になかった。それは単なる因果関係や運命論ではない。日本の大企業ではありえない、たぶん二度とないことを僕はやってしまい、それがつつがなく収まってまだこうして生きていられることを含めてそういっている。

というのは僕はさらにとんでもないことをしでかしてしまうからだ。みずほ移籍から2年たった4月、最年少の執行役員に昇格となった。誰が見ても移籍大成功で順風満帆の出世だったろうが、僕は困っていた。そしてその半年後に、自己都合でみずほをやめてSBIに移籍してしまったのである。それには伏線があった。2004年3月に、野村を辞めるかもしれないと内々にヘッドハンターに伝え、プロ野球ならいわばFA宣言したわけだが、すると “3球団” 、みずほ証券、SBIグループ、そして三菱証券からすぐにオファーがあった。SBIの北尾さんは僕が野村をやめるらしいと噂が出る前後から強い「承認」をくださっていたようでそれがどんなに嬉しかったかは筆舌に尽くせないが、知ったのはみずほ証券にサインした3日後だった。これが前後していれば僕はそっちに行っていたかもしれない。世の中そんなものだ。仕方がない。だからどこかでSBIに行こう、行くのだろうという暗黙の約束と覚悟があったのは誰にも伝えていなかった。

そこでみずほ入社時に経営に「昇格は不要です。55才までに必ず辞めますから助っ人でお願いします。でも、僕はやることは必ずやりますので」とはっきり申し上げた。力がなくて移籍するわけじゃないですよという強い自負があったからだが、こんな事を言って移籍した人はプロ野球界にだってひとりもいないだろう。ひとえにご迷惑をかけたくなかったからではあるが、野村を辞めた時点でもうサラリーマンは卒業したという決意宣言でもあり、55才までには起業するという決心があった。そして2年間、みずほ証券のために全力で戦った。古い野球界の話だが、巨人に江川卓が入団して阪神にトレードされた小林繁が巨人戦で8連勝したようなものでモチベーションは物凄く、自分のプライドのための戦いでもあった。横尾さんにいただいた事前の「承認」が空手形でなかったことは2年間で獲得した株式引受主幹事16本の実績でお見せできたと信じるが、それでさあそろそろと思った矢先の役員昇格だったのだ。思いもよらず、本当に困ってしまった。

そうこうしているうち6月になった。北尾さんからは早く来いといわれ悩んでいたら、にわかに日本航空の2千億円の資金調達の動きが伝わり、周囲のざわざわが風雲急を告げてきた。よしこれだ、やってしまおう。もう辞めていいだろうと考えたのは、16本の主幹事を奪取して僕のやり方を優秀な120人の部下たちが十分に盗んでマスターした、もう僕がいなくてもできると確信したこともある。並みいるライバル社を蹴落としてこの巨大案件を獲得できれば皆さんに退任を快く認めてもらえるだろうと考えた。JAL案件は金額からして多国籍引受にするしかなく、その主幹事(グローバルコーディネーター、GC)を奪取すれば満点の終幕じゃないか。競技に喩えるなら、国体優勝にあたる国内主幹事すら未経験とよちよちだったみずほが、オリンピックの金メダルにあたるグローバルコーディネーターを狙おうというわけだ。やれば間違いなく世界の金融界は仰天であり、どんな経済小説やドラマより痛快でもある。僕の率いる資本市場グループがその尖兵になるのだ。こんな舞台が与えられる証券マンなんて世界のどこにもいないぞと幸運に感謝した。燃えた。

しかし、現実はそう甘くない。GCの引受手数料は巨大である。そこから2か月。斯界の両雄であった野村證券、ゴールドマンサックスとの三つ巴の激闘は壮絶で、両社は収益的にもプライドとしてもJALというメジャーなディールで新参者のみずほに負けるなど辞書に書いてない。各所の小競り合いで銀行員ばかりの部隊の経験のなさが露呈して苦戦、撤退の報告が次々に上がってくる。気ぜわしかった。小競り合いはまだ耐えられたが、株主総会にかけずその直後にローンチするなど論外のルール違反であると日経新聞の論説委員まで敵方について毎日批判記事が出る。本当にやっていいのだろうかと気持ちが揺らいだ。前線を預ってはいたが「撃ち方やめ」の権限があるわけではなく、不安になってひとり横尾さんの部屋へ行って「本当にやりますか?」ときいた。即座に「やるんだよ、やるに決まってるだろう!」と烈火のごとく怒鳴られ、腹が決まった。みずほ証券のGC獲得は社史に残るかどうかは知らないが、僕自身、証券マンとしてやった仕事として後にも先にもこんな大金星はなく、引退試合で満塁ホームランを打たせていただいた気分だ。

それはいい。やることはやった。取った。勝った。で、辞めます。これを横尾副社長の部屋へ告げに行った日はつらかった。もちろん寝耳に水である。一日考えさせてくれとおっしゃった。一日たって、また行った。受理していただいた。この時の会話は書けないが、一生忘れない。土下座したいほど申し訳ないという自責の念で一杯だったが、その気持ちの何倍も、この方は凄い、只者ではないと心底思った。そうしてみずほグループには多大なご迷惑となったが、かねてからの北尾さんとの約束を果たすため僕はSBIに移籍し、期待の表れとしてSBI証券の取締役副社長、SBIホールディングの取締役に就任とあいなった。必死で新しい業務に取り組んだが、無念なことにいろいろな理由があってそこでは結果が出せなかった。100%僕の力不足である。そうこうするうち2008年になっていた。後にリーマン・ショックにつながるサブプライム債の暴落でどこの金融機関も大損していたがみずほ証券にも4千億円の損失が出ていた。新聞には4百億円とあったが、新年のご挨拶に行ったら横尾さんに「実は4千億なんだよな」と告げられ、みずほ証券立て直しのために帰ってきてくれといわれた。役員にしたのに出て行った不届き者を役員で引き戻す。そんなことが日本を代表する金融グループでまかり通るかと耳を疑ったが、現実の話になった。「君が初めてだが、君が最後だろう」といわれた。何も仕事をしなかったのだから今度は北尾さんに申しわけないこととなりお詫びするしかない。

ということで僕は部長で1度、役員で2度、自分から会社を辞め、2010年にみずほからもういいご苦労さんが1度、つまり都合4度も大会社を辞めた。最後のは以前に宣言した55才であり心づもりの通りソナー起業に進ませてもらった。ともあれ全部が上場企業の経営職であり、辞めた理由も引き抜き、自己都合、引き戻しというユニークなものから戦力外通告にいたるまで網羅している。「退職コンサルタント」ができるぞと自嘲しつつ眺めるといかにも忠誠心がないが、戦国時代の武将だってないよと人には言っている。本音はお家・一族郎等のほうが大事。それを口に出して言えなくなったのは徳川時代に武士がサラリーマン化してからだ。忠臣蔵はもう元禄時代には忠臣がフィクション化していたから流行ったのだ。日本国の企業文化は江戸時代を400年も引きずっている。サラリーマンだって個人としては本当は自由に生きたいが弱い者は組織に所属して群れて生きるしかなく、その自嘲が毎年の川柳ネタになっているのだろう。

以上が僕のサラリーマン時代の終楽章だ。出世が目標で第3楽章まできて、終楽章でそれは消えた。代わりに来たのが承認欲求だがそれはそこそこ満たされ、今度はソナー・アドバイザーズの経営という別な曲が始まってもう9年がたっている。ここまで来てしまうとそんなもので右往左往していたあの頃は別世界の話みたいに思えてくるが、大昔の失恋が何故あんなに悔しかったんだろうと他人事みたいに風化しているのに似ている。そしていま、かわりに人生の目標になっているのが「企業の存続」に他ならない。サラリーマン時代は企業など持ってないのだからきわめて新鮮なものであり、他人の評価に翻弄されるという不快さがない実にすがすがしい日々だ。目標が違うのだから今の僕と10年前の僕とは話が合わないだろう。もはや別人なのである。

そこで新たに出てきたのが「何かしてくれそうな人」「何かしてあげたくなる人」という視点である。長年ひたってきたサラリーマンのぬくぬくとした目線がぬけ、僕もとうとう企業家になれたという話なのだ。縁というのは不思議なもので、みずほを去って以来ほとんどお目に掛かっていなかった横尾さんに大手町の地下道でばったりお会いした。去年の秋だ。僕はそこを滅多に歩かないし、横尾さんは経済同友会からノド飴を買いに降りてこられただけの遭遇だった。ほんの立ち話でそこは終わったが、何か感じるものがあった。それこそ、「何かしてくれそうな人」と直感したのだ。帰社してすぐに会長職をお願いしようと腹を決めた。連絡を入れ、それを食事しながら申し上げたのは1,2週間後のことだ。僭越ながら、2004年とは逆に、今度はこっちがどうしても来てほしいと口説く番だった。まったくの空想だが、その時横尾さんの眼に「何かしてあげたくなる人」と映ったのではないかと買いかぶってしまうほど、すんなり「いいよ」という返事をいただいた。2006年に不意にみずほを辞めると申し上げたあの日、大迷惑をおかけして顔に泥を塗るのだから普通の経営者なら激怒して当然なあの時に「この方は凄い、只者ではない」と感じたあれ。あれがなければこれもなかった。

そういう経緯で令和元年のビジネスデー初日である5月7日は、偶然とはいえまるでそう計画したかのようにソナー・アドバイザーズ取締役会長として横尾さんは初出勤された。その時点で産業革新投資機構(JIC)の社長に就任されるとは予想だにしてなかったし、もしも順番が逆であったならソナー会長を引き受けてもらうことは無理だったしこっちもそう動かなかっただろう。僕は実力はないがツキだけはあるとつくづく感じ、天に感謝する。思えば2017年は僕の後厄で限りなくつらい年であり、翌2018年は周囲から「お祓いしろ」と迫られるほどの稀に見る凶年、記憶にないほどのひどい年だった。ただ、悪いなりに必死でもがいたことで一皮むけ、それがベースになって今年は5月から順調だから結果オーライで有難うということだった。そしてもはや潮目が変わっている。横尾さんとの相性、因縁は書いたように別格的、別次元的な何物かであって、僕の長所欠点を熟知しておられ、数々の経営の難所を切り抜けてこられた大先達が取締役で大所高所から取り締まっていてくれることは基本的にじゃじゃ馬の身としてこんなに心強いことはない。

今年もいろいろあったが、今になって大事と思うことは、厄には近寄らないことだ。この仕事は簡単ではない。危険に満ちてもいる。情報を握り、危ないと思ったらすぐ手を引くに限る。心から納得したことだけを愚直にやる。それがお客様から信頼されてリレーションを良好に保つ唯一の道であり、「企業の存続」にはそれしかない。来年は1年で上場に至るプライベートエクイティ案件2つのマンデートがとれる。金額も大きい。ソナーはそうした魅力ある優良案件の発掘(ソーシング)が強みだからそれに徹する会社、プロ集団であり、株式の販売、募集に関わる証券営業的なことはやるつもりは一切ない。だからそれを業とする会社さんが必要であるが、この世界、お客様が欲しがる投資機会を発掘することがすべての競争力の源泉であって、それさえあれば販売したい人はいくらでも寄ってくる。しかも、そこにいよいよ野村のエース級だったパートナーが現れた。これもお互いの運の良さだ。彼は辞めたばかりだが「何かしてくれそうな人」である。もちろん辞めた苦労は身をもってわかる。だから何かしてあげたくなる。9年下の彼とはwin-win関係が築けることは確実だろう。

 

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