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ランドフスカのモーツァルトは絶品

2026 FEB 13 7:07:15 am by 東 賢太郎

僕がピアノに触り出したのは高1ぐらいだが、ハノンだけやってツェル二ーはすっ飛ばして初めて弾けるようになった曲がJ.S.バッハのインヴェンション第1番ハ長調だ。いきなりバッハとはなんと高邁な入り方だったかと思うが、硬式野球部にいながらそんなことをやっていたのだから我ながら相当変な奴だった。誰かに習ったわけではなくレコードは持ってなかったし譜面から起こしてやったわけだが、どういう風に鳴ればいいのかを知ったのはポーランド生まれのワンダ・ランドフスカ(1879 – 1959)の演奏だった。後にヤマハのクラビノーバをチェンバロ音にして弾くと感じが出て結構ハマった。

ランドフスカとトルストイ

チェンバロによるバッハといえばもう1人、チェコ人のズザナ・ルージイチコヴァ(1927- 2017)をあげなくてはいけない。彼女の平均律第1巻は好きだが、愛好曲のイタリア協奏曲はテンポの揺れが今ひとつ性に合わない。これは好みの問題だから是も非もないが、テンポやアゴーギクやフレージングにおいてしっくりくるのはランドフスカなのだ。バッハの譜面にそんなものは書いてないから良いと思うかどうかは演奏家とのフィーリングの相性しかない。ルージイチコヴァは風貌からして学者然とした感じだが、ランドフスカはビデオのインタビューを見ると音楽に夢みる乙女がおばあちゃんになったみたいな感じで話すと面白そうだ、僕はこういう人は好きな方である。

ランドフスカがピアノで弾いたモーツァルトに衝撃を受けたのはいつだったろう?レコード棚を探しても持っていないようだし、曲も忘れてしまったけれど、とにかくどこかで耳にしたのだ。ユーチューブをサーフィンしてみるとピアノソナタ第9番ニ長調K.311に行き当たった。1938年パリでの録音で、おりから第2次大戦が始まりナチスのパリ侵攻でユダヤ系の音楽家の録音は廃棄されたためか、第2、第3楽章が欠損している。幸い第1楽章は生き残ったが、これがため息がでるほど素晴らしいのだ。

ピアニストの方、誰に伺ってもモーツァルトは難しいという。怖いから弾きたくないという人もいるらしい。聴く側からしても、技術的なミスは歓迎しない。ベートーベンはミスタッチがあっても気にならないのになぜなんだろう。もうひとつ、僕の場合は、パッションがないといけない。ありていに言うなら情熱という意味だが、ロマン派ではないのでニュアンスが違う。その作品にとりつかれてしまい、寝ても覚めても耳鳴りみたいにその曲が頭の中で鳴っていますというような状態。ひょっとして僕がロンドンにいた頃にフィリップスに続々とモーツァルトを録音されて高評価を得ていたいた内田光子さんがそんな感じだったかもしれないが、そこまで憑依してモーツァルトに入り込んでしまうような物が僕の言うパッションなのである。とても上手ですね、でもどうしてあなたはこの曲を弾きたかったんですか?というのが響いてこない。完璧な技術で真珠を並べたように美しく弾いているのだが、憑依もなければ頭も冷静で、美しいモーツァルトをミスなくお届けしようという事務作業に腐心しているようにしか聞こえない。だからどうも心に響いてこないという演奏が多いのである。

ランドフスカの第1楽章はドンピシャだ。すぐ後に書くパリ交響曲の出だしみたいにギャランドで人生の期待にわくわく、次々と主題が湧き出してくるのもそっくりだ。軽い打鍵なのにパッションに満ち満ちており、ソプラノ声部の隠し味のように自然なタッチの使い分け、ハープシコードを思わせる見事なレガートとスタッカート、絶妙なフレーズの伸び縮み、こまたの切れ上がったコケティッシュな装飾音符など、極上の愉悦感のオンパレードだ。快適なテンポですいすいと進んで第1テーマから第2テーマに間を開けずテンポもそのまま飛び込み(素晴らしい!)、曲想に合わせて音色とタッチだけで空気を変える瞬間はまるで魔法のよう。展開部でソプラノとアルトの掛け合いはまるでオペラだ。終結はテンポを落としてppでひっそりと消える。生きる喜びにあふれる歌にめくるめく思いの4分半である。

彼女は後にアメリカに移住してコネチカットの住人になり、自宅でK.311を全曲録音しているので愛奏曲だったのだろう。それも貴重な記録ではあるが、熱も技術もピークにはなく残念だ。パリの街にナチスの軍靴が響くなか、ピアノに向かう彼女の胸の中には何かがあったのだ。ハープシコードを弾く彼女のビデオを見ると “くの字” に鋭角に曲がった指使いにぎょっとする。技術的には深い秘密があるのだろうが、それは素人が詮索できることではない。

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