織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー
2015 AUG 20 23:23:57 pm by 東 賢太郎

AがBを殺そうと周到に準備した殺人計画があった。計画のシナリオが進行中にAの共犯者Cが裏切ってAを殺してしまった。殺す予定だったBは事前にCから計画を聞いて共謀しており、Aはそれを知らなかった。B,Cは殺人計画も共謀の事実も闇に葬ったため、「周到な準備」が殺人現場に不可解な謎として残ったのである。
この筋書きでエラリー・クイーンなら一級品のミステリーを書いてくれそうな気がする。
今回の出張で本能寺に行ってみようと思ったのはそれに関係があることは後述する。中学の修学旅行で泊まった聖護院御殿荘という旅館名だけ何故か覚えているが、部屋で相撲をとったことと本能寺を見たことしか記憶がない。しかしその本能寺は秀吉の命で移築されたもので、あの事件の起きた場所ではないことを後で知った。僕の史跡好きは土地、地面に根差している。それが本能寺で在る無いではなく、その事件が起きた場所でないと欲求を満たすものではない。
それは何のことはない、こんな場所だった。
路標には「此附近 本能寺跡」と書いてある。「本能寺跡」ではなくて、「このへんが本能寺の跡」である。「信長はこの辺にいた」まで明らかにしたい僕としては大変に生ぬるいが仕方ない。
この道(蛸薬師通)を右に油小路通まで行くとこれがある。これが「本能寺跡」だそうだが、「このへん」と「ここ」が両立している先の路標との整合性がまったくわからない。わからんならわからんとしてくれた方が正確な情報というものだ。
織田家の嫡男で信長の後継者と目された織田信忠は、走れば5,6分の距離である妙覚寺にいた。信長と同様に、これまた無防備であり、父子ともにこの襲撃を想像だにしていなかったように見える。地図の左下黒丸が本能寺、右上が妙覚寺であり、光秀軍はこの間を疾風怒濤の如く走ったのだ。
もちろん僕はこの2点間を明智軍の気持ちになって歩いた。信忠が逃げ込んで切腹した場所は二条新御所で、この京都国際マンガミュージアムの裏手あたりだ。
なぜ天下人目前の権力者信長はまったく無防備の少数の手勢でここにおり、いとも簡単に光秀の手にかかってしまったのか?修学旅行でそう話を聞いて、その場で変だなと思って、今は亡き親友の丸山に「おい、本能寺って、変だよな」とまじめに言ったら、冗談と思った奴が「バーカ」と返した。それ以来、長年にわたって僕の中でくすぶる謎であったのだ。
その謎を快刀乱麻で解いてくれた本こそ、光秀の末裔、明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)である。信長はこの日、本能寺の茶会に堺にいる家康を招き、光秀に命じて家康を討たせる手配をしていた。家康に不信感をいだかせぬための意図した無防備だったのだ。
もういちど冒頭の太字に戻る。A=信長、B=家康、C=光秀であるというのがこの本の示す「解」だ。そうした試みは過去にいくらもあるが、この説がパワフルなのは、殺人現場に残っていた不可解な謎はもちろん、本能寺の変に関して我々が謎と思っていたこと、軽すぎる光秀の動機、速すぎる秀吉の中国大返し、話がうますぎる家康の伊賀越えなどが腑に落ちるように見事に説明できてしまうことだ。
明智氏(以下、光秀ではなく憲三郎氏)の方法論は僕がこのブログで説明した帰納法(厳密にはアブダクション)、つまり「もしAならBがうまく説明できる」というものだ。
明智氏はご先祖光秀にきせられた「利己的動機による信長殺害の単独犯」という汚名を科学的な方法でそそぐことにほぼ成功されているように思う。氏が「三面記事史観」として否定しようと試みておられるものは、僕のブログの「トンデモ演繹法」のことであり、この方が論理学的には正確だ(三面記事が間違っているとは限らないので)。
ブログでは、
僕は「刑事コロンボ」が好きだが彼の方法はアブダクションだから物証がないと逮捕できない。それがない場合が面白い。アブダクションで得た結論Bを正しいと仮定して今度は華麗に演繹法に転じてみせ、犯人にカマをかけて尻尾をつかむ。だめを押すのは物証か演繹なのだ。
と書いた。氏の試みを「ほぼ成功」と書かせていただいたのは、物証か演繹がないと成功とは言えないからだ。論理的に、誰が何と言おうと、そうなのだ。しかし、秀吉、家康によって完全犯罪に仕立てられてしまったため物証は永遠に失われたものの、氏は文献を丹念にあたられて演繹に近い解釈を(まだ解釈ではあるが)提示している。僕はその文献の正誤や新解釈の適合性を判定できないので「ほぼ」がはずれることはないが、それでも、心象としてはかなりゼロに近い。
それは氏の①事実(fact)に対する謙虚な姿勢と、②それを証明するフレームワークとなる上記の論法の適切さによる。つまり、テーマに向き合うスタンスが「理系的」なのである。僕は歴史本が好きでたくさん読んでいるが、①②が弱いため科学的でなく、数学で頭を鍛えた人の論証ではなく、馬鹿らしくなって途中で捨ててしまうものが多い。要は文系的なのである。そんな程度の物証や論考でよくそこまで言ってしまいますねという体のものが多く、学術的なものでも小説や講談とかわらんという印象を持つことが多い。歴史が文系だなどとアホなことを誰が決めたのだろう。
明智氏のこの本にはそれがなく、そういう低次元のものは排すべきという氏のインテリジェンスが基本スタンスとして全書を貫いており、説得力を獲得している。僕は歴史ファン、信長好きとして楽しんだが、上質のミステリーでもあった。名探偵が「真犯人はあなたです」と真相の解明があって、なるほど!と膝を打った時のような快感を覚えたという意味で。学生さんには歴史本としてはもちろん、物事を論証し、説得力を獲得するための広く応用可能な教科書としてこれを一読されることを強くお薦めしたい。
本能寺の変ばかりか、氏の仮説は秀吉の治世以後の日本史にも強力な説明力を有するのであり、物証が葬られ、あるいは意図的に捏造までされた中で、客観的な視点からの説明力の優劣を問うならば、これは他のいかなる仮説をも凌駕するものであると思料する。仮説(しかもはるかに説明力に劣る)を真相として書いてしまっている日本史の教科書は改められるべきではないか。少なくとも僕は今後、氏の史観を座標軸として、本能寺以後の日本史観を根底から覆そうと思う。真実とは「それらしく見える」ではなく、「そうでなくては説明できない」所に存在する。それが唯一無二の科学的態度であるからである。
余談だが、当書の読後感としてジョセフィン・テイの推理小説である「時の娘」(The Daughter of Time)を思いだした。古典的名品であり、リチャード3世による幼い2人の甥殺し(ロンドン塔に幽閉したとされる)の冤罪を現代人である警部が入院しながら解いていく。前掲書とあわせてお薦めしたい。ちなみに、このタイトルはTruth is the daughter of time.(真実は時が明らかにする)からきている。本能寺の変には、いよいよその時が来たのだと目からうろこの思いである。
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安土城跡の強力な気にあたる
2015 AUG 17 1:01:00 am by 東 賢太郎

京都と近江を一人であちこち歩きました。観光ではないので一人がいいのです。というのは何かを見たい知りたいというよりも、そこに身を置いて「諸々を五感で感知する」のが目的だからです。いままで知識だけだった土地に実際に立って空気を吸って、初めてそこに関する歴史、風土、文化を頭に入れ、あれこれと思考する準備ができます。過去、ずっとそうやってものごとを理解してきた自分なりの方法論です。
特に無理なスケジュールではなかったのですが、どういうわけか心身ともに疲れ果てております。新しいものが頭にぎゅっと入っていて、その分量があまりに膨大なので消化できておりません。オーバーロードで頭の働きも鈍い。ブログを書こうにもどこからどう始めたらいいか、いちいち書いたら何十稿にもなりそうだし、そもそもその元気がありません。
わけわからないことで申し訳ないのですが、安土城跡には本当に疲れました。屋久島の山道みたいな石段を500段も登るのですが、足が疲れたからではありません、なにやらとても重いものをしょってしまった。
延々と登らされるてっぺんの天守閣跡まで重臣の屋敷が左右に配されるので、シンプルな構造ですが攻め落とすのは困難だったでしょう。猛暑でしたから汗だくでしたが、やっと着きました。
天守跡に立って琵琶湖をのぞんだ時にはっと思いました。秀吉が朝鮮攻めのために九州の松浦北端に築いた名護屋城から玄界灘をのぞんだ景色にそっくりなのです(写真・下)。
信長は安土城の天守から湖の彼方に京を見ていた、秀吉は海の彼方に朝鮮半島を見ていた。秀吉の脳裏には安土城天守からの眺望が焼きついていたに違いなく、琵琶湖の向こう側に信長が何を見ていたかも知っていた。ああ彼は信長に憧れ、信長を凌駕したかったんだなあ、天守跡に立って風に吹かれながらそんなことを空想するわけです。
教科書に書いてないし確証もないのですがそう直感します。こういう想いを歴史のロマンとでも言うのでしょうが、僕はロマンというよりも、彼らと同じものを見て彼らの目でものを考えてみたいという実証的な関心だけです。
天守跡に1時間近く居座って「信長の目線」を体感しようとしていたら、どういうわけかがっくりと疲れてしまった。比較的に健脚なのでそんな経験はいっさいないのですが、真剣に下りの帰り道は大丈夫かなと心配になりました。やおら帰路を下りはじめるとしばらくしてポツポツと来はじめ、やがて、いったい何事かというほどの土砂降りになりました。散々な思いでやっと入り口にたどり着き、まいったなどうしようと雨宿りすると、すっと雲が割れてきて晴れ間がのぞき、以後は一滴も降りませんでした。
信長という武将はとても気になる存在でしたが身近ではありませんでした。この日はなにか強力な気に当たり洗礼を受けたようで、ますます彼を知ってみようと思った次第です。帰路に立ち寄ったイエズス会のセミナリオはキリスト教を保護した信長が西洋音楽を聴いた場所として有名です。
彼が天下を取っていたら鎖国はなかったろうし、日本はまったくちがった国家となっていたでしょう。
この前日に京都では、彼の終焉の地である本能寺跡に行きました。ここが日本国の命運を変えた場所です。いまは高校や老人ホームが建っています。明智軍はここから北へ上がり、二条御所にいた信長の嫡男・信忠も討ちとった。そこは京都国際マンガミュージアムになっています。平和っていいもんだなと思いました。
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京都花街はグローバル化すべし
2015 AUG 14 0:00:10 am by 東 賢太郎

博多から新幹線で京都へ入りました。クラスメートでありSMCメンバーでもある梶浦とビジネスの話でした。
夜は梶浦おすすめの洋食屋さん、仕上げはお茶屋さんのしげ森さんのバーでくつろがせてもらいました。
先日の歌舞伎とまったく同じことを思うのですが、花街は京都の雅びな文化であります。難しいことをいう気はありません。だから女性のお客さんも大勢来ています。
それでも今のままだと衰退しかねない。舞妓さんのなり手がなくなれば必然的に滅びるし、旧態然のお客さんと業界の関係はもう古いでしょう。
芸妓さん、舞妓さんの芸はアートと思いますがそれは外国人のほうが評価しているようで、しげ森さんは海外から呼ばれていて近々ロサンゼルスに行くそうです。まさに親善大使という言葉がふさわしい。
なにも客は京都の旦那だけではなく、日本人だけでもなく、世界でいいのです。その価値があります。そうなれば業界が変わるし、舞妓はAKBみたいであり文化財でもある世界でユニークな存在になるでしょう。
しげ森のおかあさん、森田さんの話を聞いて感じたことなのですがおおいに賛同いたします。日本文化を世界に発信する気持ちでSMCでは森田さんをご紹介して参ろうと思います。
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美食と体重の関係について
2015 JUL 25 23:23:16 pm by 東 賢太郎

ミクロネシアの出張中は一日一食主義は忘れ、食事は皆さんとご一緒に三食楽しくいただきました。
グアムのヒルトンのシーフード・レストランです。
巨大なエビのしっぽかと思ったら、シャコでした。
ミクロネシア(チューク島)ではやっぱりこれですね。渇いたのどに最高です。
おまけに帰国してすぐ、金曜は中村兄とSMCメンバー店の「まめ多」さんで舌鼓を打ったのです。いつもおまかせ。女将さんの心のこもった料理にほっとなごみます。和食の美味に美酒。疲れを癒していただきました。
中村とは博多ツアーの打ち合わせでしたが当方の仕事の話もすこし。たまたまですが非常に面白い案件があり、そんなに難しい話でもなくてメンバーで共有できれば皆さんのメリットもあろうかということです。
さて、そうこうして今朝ですが体重計に乗ったところ、出張まえ73kgだった体重が75kgになってました。恐れていたことです。
そこで今日は二子玉川まで往復10km走りましたが、午後でしたがまだまだ陽射しは強く最高気温は33度の猛暑だったようです。多摩川べりは走る人影もなく、グラウンドもあいているしいつもの猫までが疎開してかおらず。
これをなんということもなく走れてしまう自分には結構おどろきました。走りながらやばかったら即やめようと思って気をつけてた循環器も呼吸器も足腰もぜんぜん問題なく、むしろ汗かいて爽快感すらあり、やや遅めペースですが完走しました。天と両親に感謝。
日射病とか熱射病には縁はなしです。野球部の人間からすればこんなの屁の河童なんですが、なんせ還暦の身ですからね、ちょっと自信つきました。頭は疲れてますがまだまだ体はぜんぜん若い、いけるぞと。
滝のような汗をかき、風呂を浴びて、さて体重計に再度乗ります。71.5kg。
水分と塩分が出てこれ。夕食は普通にとって、のどがすごく渇いて水をたくさん飲んでまた74kgになってしまいました。実質1kg減です。ボラティリティ―が高い。こりゃまだ本物じゃないですね。しかし、だんだん塩分がポイントだということが分かってきました。塩を減らして何十キロか走破すれば、夢の60kg代が見えてきそうです。
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赤いと思われる借景を二枚
2015 JUL 23 16:16:23 pm by 東 賢太郎

西室の朝やけ、夕やけの写真がたいへん面白いですね。それをみていていて、色覚がちがう僕のきれいと普通の人のきれいは違うんだろうなということが、もちろん今までもずっと思って生きてきているのですが、ますますそう思うのです。
この写真は今回撮ってきたミクロネシアの夕陽なんですが、撮った時点ではあることに感動があってシャッターをおしました。それが失敗で、さっきいらねえなって消そうとしていたものです。「あること」は最後に書きます。
これはまちがってシャッターおしちゃったかなと思って捨てかけてました。
この2枚が登場することになったのは赤いかもしれないと思ったから。西室が赤い、胸騒ぎがすると書いたのが僕にはそうでもなくてますます自信がなくなってしまった、それは僕の方が西室よりもより一般からとおい、要は色弱度が重いということなんだろう、そんなおれが判断しちゃ写真がうかばれないと思ったのです。
こちらをご覧ください。これがミクロネシアの朝6時すぎです。上の2枚と同じ西の海を見ています。
これはなんかモヤっていて、やっぱり捨てようとしていた。空のブルーですね、これに反応して撮ったにちがいない。いま見ていると日本の6倍ある紫外線がじりじりきて首すじが痛くなってきそうだなあという感覚がおそってきます。
「(芥川龍之介が)思わず筆をとって文章を書きつけるまでに彼の感性が発酵していなかったため、意識に残らなかったのではないか」
西室の文章ですが、なるほど、感性が発酵するという表現がいい。色を見て感性が発酵して文学になる。そういうことかもしれない。
ぜんぜん発酵せずに写真を捨てかけていた僕のきれいと普通の人のきれい。文学的才能の欠如はさておき、やっぱり両者は違うのだろうとますます思います。色のないものはないですからね、そこが違っている僕のきれいは、視覚に関するかぎり万事で違っていて不思議なしです。
酔って人の顔が赤いとか青いとかきくと豆まきの赤鬼・青鬼を連想。桜吹雪は白い。お絵かきで木は幹も緑に塗ってました。三毛猫は描けない。地下鉄の路線図はごちゃごちゃ。女性の化粧は白っぽくなるだけで究極は舞子。真っ赤はよくわかるのでマリリン・モンローは歩くクチビル。
ということで、最初の写真の「あること」に戻ります。これを撮った唯一の理由は「太陽が丸く見えたから」です。映るかなと思ったら映ってなかった、だから捨てようと。
丸いもの、球体に弱いのです。色より形が大事なんです。それはもの心ついた時からで、東大教養学部時代に哲学の井上忠先生が「パルメニデスの有」なるものを授業でやって、それが何かはついに最初から最後までわからなかったのですが、「完全なものは球体をしている」というフレーズだけは天啓のようにスッとわかったのです。
丸いものというと子供のころ山手線、中央線、総武線の屋根の上に並んでた通気口のまあるいの、なぜかあれがよく飲まされてたエビオスの色と質感に見えて気になって仕方なく、国電を見下ろすポジションに電車が来ると毎度そわそわして窓に張りついて、どうしても触ってみたい、できれば盗んででもひとつ欲しいという小学生でした。
地球が球体である。僕は飛行機で窓から毎回欠かさずにそれを視認します。高所恐怖症なので必ずアイル席ですが、窓側席の人の怪訝な視線を顧みずします。月や金星や木星もそう見える。しかし太陽は影がないからそう見えないのです。だから僕には太陽が球体というのは仮説に過ぎない。本当にそうなんだろうか、そうならぞくぞくします。触ってみたい、それは電車のまあるいのを見たときと同じ欲求です。
太陽というのは宇宙で唯ひとつ、肉眼で視直径が確認できる恒星であります。それだけで観音様みたいにありがたく、ひれふして拝むに値する。日没で太陽の輪郭の丸さが肉眼で見えると、その触った質感を想像してしばし恍惚とする。そういう小学生であり、パルメニデスの「完全なものは球体をしている」は、当たり前だろそんなのというふてぶてしい納得感、既視感で満たされたのです。
それをミクロネシアの日没で見つけた。それが最初の写真であり、ところがぜんぜんそう映ってなかった。そういうお粗末な顛末でありました。
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大和、武蔵、五十六、慰安婦、そして戦争という愚
2015 JUL 21 18:18:57 pm by 東 賢太郎

「夏島」(トノワス島またはデュブロン島)は戦時中つけられた和名であり、前回は時間がなく上陸できませんでした。このブログに書いた春島の「ザビエル高等学校の高台から眺めた」写真の島です。
この島こそが、このブログで「お気の弱い方はご覧にならないことをおすすめします」と書いたビデオにある、米軍による真珠湾攻撃の報復とされる大空襲の標的となった夏島です。
1944年2月17、18日、戦死傷者は1万5千人、環礁内に沈められた日本軍船舶は100隻近く、撃墜された航空機(2百数十機)に至ってはその実数は不明のままです。連合艦隊は敵の無線を傍受してパラオに移動しており被害にあったのは基地と輸送船でした。
戦艦大和と武蔵が並んだ写真はこれ1枚しかないそうです(右が武蔵とみられる。「戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦〈2〉、朝雲新聞社)。1943年5月とあるので山本五十六長官の戦死直後の姿と思われます。
これはそのあたりと思われる船上から後方の春島を撮ったもの。島の形はそのままです。
船の前方に見えるのが武蔵を係留していたブイです(後方は春島、ここまで流された)。
写真下は夏島の水上艇飛行場です。ここから第27代連合艦隊司令長官・山本五十六(右)はラバウルに向けてトラックからの最後の離陸をし、ゼロ戦滑走路だった写真対岸の竹島からゼロ戦数機が護衛についた。そしてラバウルから前線視察のため向かった1943年4月18日にブーゲンビル島上空で撃墜され戦死しました。山本五十六の視察飛行は戦艦武蔵からの無防備な暗号電文が米軍に傍受され狙い撃ちにあった。海軍派遣でハーバード大学に留学しナショナルジオグラフィックまで定期購読していた山本五十六ですが、配下の軍はそのレベルになかった。敵将である太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツは山本を殺せばもっと優れた司令長官が現れるのではないかと暗殺命令を下すことを逡巡したが、太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンから「山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」との回答を得て命令書を作成したそうです。敵ながらあっぱれの諜報力であり、傍受にとどまらずそこまでつかんでこそインテリジェンスを成すのです。そしてそれほどの将が戦死すれば日本の士気、モチベーションが大きく低下することを見越した狙い撃ちだった。これまで僕はブログでインテリジェンスとモチベーションの重要さを何度も指摘してきましたが、それをご理解いただけると思う。あの戦争は物量で負けたことになっているが僕はそうは思わない。智恵がなかったから負けたのです。「東さん、知ってるかい、今の子はやまもとごじゅうろくって読むんだよ」、そういう危機感から東映に役所 広司主演の映画制作を働きかけた僕のお客さんが言ってました。名前を覚えるのも大事だが彼の戦死から敵軍の意思決定の要諦を学ぶことが弔いになるのではないかと思うのです。
山本五十六ら司令長官公邸があり帝国海軍司令本部を置く要塞と化していた夏島には2万人の日本人が住み、港の周辺に商店街、学校、病院、百貨店、映画館、野球場、芝居小屋、料亭、遊郭までありました。遊郭は女性が900人おり軍の職位で格式が決まっていたそうです。料亭、商店等と同様に経営側からはビジネスでもあり客側からは慰安婦と言わば言えぬこともない。
下の写真は商店街跡です。この道の両側に商店がびっしりと立ち並び、雨が降っても店先の軒を伝って濡れることがなかったそうです。今はただ灼熱のジャングルをぬう一本道であり、往時をしのぶものはかけらもありません。2万人の居留がうたかたの夢の如し、秀吉が朝鮮出兵の根城とした佐賀・松浦半島の名護屋城跡の光景を思い出しました。
狩り出され何か月も故国、家族と隔絶された幾万の男たちが明日死ぬかもしれないという環境におかれて管理される事態というのは南洋のジャングルのど真ん中に百貨店が出現するほど異常なことです。そういう状況において慰安がいいことだ悪いことだと言ってみても仕方なく、女性がかわいそうでもあるが意に反して徴兵され戦火で殺されていった男たちもかわいそうなのです。男女平等に全員が戦争遂行責任者である国に補償、賠償を求めたらいいのだろうが、戦争という行為においてそんな議論が出た国は聞いたことがありません。人間はそんなによくできた理性的な動物でもないしそうだからこそ戦争をした。まずどうしたら戦争が起きなくなるか、智恵を磨いて考えるべきではないでしょうか。
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オローラ島での瞑想
2015 JUL 21 0:00:33 am by 東 賢太郎

今回はもうひとつ、一昨年にミクロネシアに設立した会社の定例の株主総会、取締役会も行いました。間に入っているMRA(Micronesia Registration Advisors, Inc.)は米国人経営の政府エージェントであり、ミクロネシアへの補助金援助を打ち切る予定になっている米国が後ろ盾になって海外企業家を誘致し、財政的な独立を援助するスキームとなっています。
そのパワー・バランスの変化に目をつけているのが中国であり、4島の一つヤップ島では大規模なゴルフ場付リゾートホテル開発を進めようとして住民と対立しています。ミサイル戦の時代に入り、グアム以南の太平洋諸島は米国にとって戦略的重要度を失って米軍は退却の方向であるため中国が進出を虎視眈々と狙っていると思われます。太平洋の反対側でニカラグアに運河まで作ろうかという国です。沖縄、尖閣、台湾、フィリピンを超えた外洋に彼らの戦略的視点は移っています。
L社社長とはそういう観点からの問題意識の共有をさせていただいており、お金儲けや節税ということではなく日本のゆかりの地に日本人の手で何ができるかということを常に考えております。電力をはじめとするインフラ整備はその可能性の一つであり、インフラなくして産業はなく、産業なくして雇用も税収もないわけです。満足な教育もなくそれを推進する人材も育ちません。
そのような眼でこの国を観察しますと、国家の基盤やその発展というものが何を必要条件として進むのかが肌で分かります。明治時代の日本国も規模こそ違え同様のプロセスを経て近代国家を形成したのですが現代の日本国のぬるま湯につかってそれを体感するのは困難です。ミクロネシアに3度来てそれを知ったことは僕にとっては事業を超えたモチベーションになりつつあります。
問題は現在のミクロネシアの年配の人々に豊かになろうという意欲が希薄なことで、こればかりは社会システム、教育、労働に対する価値観などに起因した難しい底流です。自給自足で満足な生活を無理に変えることが善ではありません。だからそれをアメリカンなもの、物質文明、消費社会という方向ではなく、日本的なやわらかな共存共栄社会、金銭を仲介しない助け合う社会という方向でより生活の満足度を上げられるというのがいいのではないかと考えます。
そういう考えがふと出てきたのは、今回連れて行ったいただいたオローラ島でしばし休憩しているときのことでした。オローラ島は帝国海軍司令本部があり連合艦隊停泊地であった夏島の東方沖に位置するサンゴ礁の小島であります。
我々が今回宿泊したブルー・ラグーンから小舟で30、40分でこんな色の海になります。
これがオローラ島です。
ごく少人数の宿泊もできますし無人島ではないですが、一周歩いても5分もかからない小島です。電気もガスもWiFiもなし。南洋の孤島というのはいっさいの日常的思考を断ち切る力があります。
ミクロネシアは自然環境からいえばゴルフ場とビーチこそないが一級のリゾートになり得るでしょう。ただ我々日本人には他の国の人とは違った思いがある。なにせ目の前の海には何十隻という日本の艦船やゼロ戦が沈んでいるのです。
南国の潮風で緊張は弛緩するのですが、こんな気候風土の地に巨大な基地を建造した海軍の知恵と努力というものは戦争の是非とはべつなところで日本人の有能さと勤勉さについて強く語りかけるものでした。昭和16年に無謀な戦争に思慮なく突入した責任は問われるべきものですが、思慮なく戦争反対を唱えれば何も起きない平和な国が保てるというものでもないというのはこの地に来て戦争の歴史をみればわかる。
戦争はくり返したくないと叫ぶのは同感なのですが、何も学ばずにそれをくり返すのも甚だいけない。おばあちゃんがこういったと涙を流す女性原理で大国間の国際政治という非情なインテリジェンスの戦いは動かない。怜悧で貪欲な連中のパワー・バランスの中で、軍隊もなしに大国でいられる国が百年後に果たしてあるのだろうかと真剣に思います。カルタゴの運命をたどらないためにも、日本国には徹底した非情なインテリジェンスとそれを形成する情報が必須です。ただのハンタイは無智なのです、無智は国際政治に何の影響力もなく、無力です。
戦争を本当にしたくないなら、誰であれ智恵の形成に向けてパブリックにものを言い、歴史観とコモンセンスをもって参画し、自民党はそれに聞く耳を持つべきであろう。
そういうことを考えるに、この島はとてもいい場なのではないか、そう思いました。
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ミクロネシア電力案件
2015 JUL 20 21:21:03 pm by 東 賢太郎

先週よりミクロネシアに出張中のため、ブログは中断いたしました。
同国訪問はこれで3回目です。同国にて可能性のある事業はいくつかありますが、そのひとつとして発電があります。日本の電気料金は個人向けで23-30円/KWH(京電力)ですがミクロネシアはディーゼル主体(一部は太陽光)で50-60円ほどです。停電が多いという事情もあります。
今回はチューク州、ポンペイ州の電気事業部門幹部および民間事業者にホテルにご参集いただき、小型水力発電のシステムなどいくつかの提案を含めたプレゼンテーションを行ったものです。結果は相応のご関心をいただく形となり、今後の進展が期待されます。
本件は単なる営利目的だけの案件とは一線を画し、現地国民の生活と福祉の向上に連なるという使命感をもって行っており、技術供与する会社様はもとより顧問を務めさせていただいているL社様との共同プロジェクトとして関わらせていただいているものです。
事業プランとしては当然ながら採算性の精査が必要ですが、水力(マイクロ・ハイドロ・プラント)ですと設営初期費用が24時間稼働で約2年で回収可能であるなど現実的であります。商社等を経由することなく政府と直接に折衝したわけですが、むしろ当方の趣旨がストレートに伝わったと思われます。
このような事業を前提にL社様および弊社ソナー・アドバイザーズ株式会社が一定額の資本金をもってミクロネシア連邦にリスクをとって起業しているわけであり、そのコミットメントが先方政府関係者との間の信用を築いているということが確認できた会議ともなりました。
今回もグアム経由で去年と同様にチューク島に一泊しました。昨年と様子は変わっておらず、例のがたがた道がほんの一部舗装された程度でありました。前回行かなかった帝国海軍司令本部のあった「夏島」に行くことができましたが、終戦から70年ということもあり感ずるところがありました。
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最高の夏だった地中海クルーズ(今月のテーマ 夏休み)
2015 JUL 12 0:00:03 am by 東 賢太郎

夏休みは何回あったんだろう。物心ついた幼稚園からとすればかれこれ55回ぐらいか、そんなにあったのか!
全部がそれなりに楽しかったのでしょうが全部を覚えてるわけでもない。よほど印象に残ることをしていないと60になれば悲しいかな忘れるもんです。
なかでも、スイス駐在時代の最後の夏に家族で行った地中海クルーズは最高の思い出かもしれません。よく覚えている。クルーズはいまどきは行かれた方がけっこう多いかと思いますが、86年ロンドン時代にもギリシャの島めぐりクルーズをしましたが東洋人はひとりもおらず、この2回目でも子供連れが珍しがられたような時代でした。こういうのにスッと入れたのも海外勤務あってのことでした。いまだったらちょっと面倒くさいかもしれない。
1997年7月27日にチューリヒからスイス航空でイタリアのジェノヴァに飛びました。まだ長女は9才、次女は7才、長男は3才とかわいい盛りでした。ヴァウチャーを見てみると空港に昼前についたようです。きっちりしたスイス人の世界からええ加減でスリの多いイタリア人世界に入ったぞと頭のスイッチを切り換えます。
子供3人というのは夫婦の4本の手に余るのでこれまた危険です。出迎えのバスを何とか探し、両手いっぱいの荷物といっしょに子供も運び込んだという感じで無事に乗船すると、うれしいよりもほっとしてが気が抜けました。
一連の乗船手続きを済ませるといよいよ出航です。やっと家族だけのプライベートで静かな空間になる。汽笛が鳴っていよいよ出航。緊張の瞬間です。向かう先はどこまでも真っ青な地中海。そこから8日間の船旅でした。だんだん遠ざかるジェノヴァの街並みと丘陵が霞みのかなたに消え、夕闇が波ひとつない大海原をすっぽりとおおうと夕食です。黄金のような時間でした。
レストランはテーブルが8日間同じです。イタリアンがメインでこれが一番美味ですがメニューは毎日趣向がかわり飽きることはなし。ホールでは音楽、ショー、マジック、ダンスなど夜遅くまでアトラクションがありカジノがあり、デッキでカクテルを飲みながら寝そべっても快適で、ホテルごと移動して朝めざめると翌日の停泊地に着いているのだから贅沢です。
そして上陸すると英、仏、独語のガイドがいるバスにそれぞれ乗って当地をあちこち観光する。 寄港したのは2日目カプリ島、3日目シチリア島(パレルモ)、4日目チュニジア(チュニス)、5日目マジョルカ島(パルマ)、6日目イビサ島、7日目バルセロナです。船の名前はメロディ(Melody)でした。
カプリ島の昼飯のパスタは最高で、今でも覚えてる。快晴でした。丘の上のかなり高台の館風レストランで垂直に近い下に深いブルーの海。人生かつて見た最も美しい景色の一つです。ローマ皇帝のティベリウスがここに別荘を建てて治世の後半を過ごしたのも納得です。そしてクルーザーで沖に出て、小舟に乗り換えて「青の洞窟」です。天候によってダメな日もありラッキーでした。この島は行く価値があります、ぜひお勧めしたいと思います。
3日目のシチリア島はどうしてもマフィアのイメージがありパレルモの街をバスで行っても街は殺伐として見えました。丘の上の寺院のようなところから海を見たことぐらいの記憶ですが、ここの絶景もすごいものでした。飲んだワインのセッコがカラッとした空気にしっくりしていた、これ以来シチリアの白というとここを思い出します。街の雰囲気ですがローマとアラブが混じった独特のもので、ジャック・イベールの交響組曲『寄港地』(第1曲がローマ~パレルモ)が見事に描いてます。
そして4日目はアフリカに渡ってチュニスです。シチリアは観光に子供たちを連れて行ったのですが、なんとなく防御本能が働き、この街では船に3人置いていきました(そういう親のため子供用プレイルームが完備している)。どうしてそうしたのかもう忘れてましたが、3月にあった博物館の襲撃事件に続き先月26日にはビーチリゾートでISによる発砲で観光客38人が死亡する近代チュニジア史で最悪の襲撃事件が起きており、やはり危ない場所だった。英国政府が自国民に退避勧告したようで、もう観光どころではない場所になってしまいました。
ここのハイライトはカルタゴ遺跡です。これが見たかったからこのクルーズを選んだようなものでした。船はチュニスに停泊します。カルタゴはチュニス市ではありません。街を離れてバスでけっこう走った小高い丘の上「ビュルサの丘」にありました。カルタゴはここから地中海貿易を支配し、シチリア島をめぐってローマと対立して第1次ポエニ戦争でその領有を失いました。そこでイベリア半島の開発に注力し、名将ハンニバルが象を伴って進軍してローマをあわや陥落まで追い詰めたが戦線は膠着。大スキピオに攻められたカルタゴがハンニバルを呼び戻してローマ軍と戦ったがザマの戦いで敗れました(イベリア半島経営がわが国の満州にかぶります)。
この第2次ポエニ戦争の講和条件が厳しく、ローマへの船の引き渡しと多額の賠償金支払いと共に「アフリカの近隣国と勝手に戦争したらいかん」というのがあった。ローマの許可がいるのであってこれは憲法第9条と日米安保体制と見事にかぶるわけです。ところがカルタゴの西隣にはヌミディアという凶暴な国があった。第2次ポエニでローマと同盟を組んでいるいわば連合国です。こいつがそれをいいことにカルタゴ領を頻繁に侵略してきた(これも中国のあいつぐ領海侵犯とかぶります)。
ついに堪えきれなくなったカルタゴはヌミディアを攻撃。ローマに使者を送って開戦の許可を求めるが、元老院のカルタゴ撲滅論者らがそれを認めず勝手な攻撃は条約違反であるとしてカルタゴの武装解除、市民の立ち退きを決めた(ここも真珠湾の発端とかぶる)。そしてそれに激怒したカルタゴは籠城を決め3年も抵抗を試みたが、もうハンニバルはいなかった。将軍職を退いて首相に当たる職にありましたが国政の改革を断行したため一部貴族に追い出されてシリアに亡命、ローマの追っ手の前に毒をあおいで自殺してました。
BC146年、この第3次ポエニ戦争でカルタゴはローマの小スキピオという男に徹底的に殲滅されたのです。カルタゴが建設されたのは紀元前816年で、それから668年間続いた国家が消えた。籠城した市民がここで15万人殺され5万人が捕虜となり、市街は更地になるまで17日間燃やされぺんぺん草も生えないように塩までまかれた。これは軍人同士の殺し合いという戦争の概念にはとうてい当てはまらないおぞましい限りの大虐殺、民族抹殺であり、戦争はそこまで正当化できるものでもないし、そこにいかなる正義があったと主張しようにも白々しいだけの衝撃的な数字です。
実際にその土地に立ってみてそう感じましたが、思えば我が東京の地だってそういうことがあった。1945年になって民間人10万人が一夜にして殺された米空軍司令官ルメイによる東京大空襲です。カルタゴは2160年前のことだが東京が焼夷弾で焼き尽くされたのは僕が生まれるほんの10年前のことでした。近代世界史で最悪の民間人襲撃事件でしょう。ルメイは民間人襲撃について、日本人は家で武器を作っている、武器工場を攻撃したのだと述べています。
そしてさらに推定14万人が殺されたという広島、そして長崎の原爆投下、これは一体なんだったのかと思う。ましてそのルメイが勲一等旭日章の叙勲者という力学は一体なんなのか、日本国の叙勲というもの、ひいては日本国というものはなんなのか。第2次ポエニ戦争でのカルタゴと同じく、敗戦国なのです。だから現代のわれわれはこの疑問を引きずったまま未解決の国に住んでいるのです。1945年を終戦というのはおかしい。カルタゴの運命を日本国民は記憶しておくべきでしょう。そしてカルタゴが殲滅された経緯が既述のようにいちいち敗戦後の日本(すなわち今)と嫌らしくかぶってくるのだということも。
だいぶ話がそれました。カルタゴ遺跡を後にチュニスの街へ戻ると、雑踏はもうアラブ系アフリカのムードです。どんな映画のシーンより迫力ありました。きょろきょろしながら雑踏をかきわけ、道行く人々の顔をしげしげと眺めながら、カエサルが進軍しクレオパトラと出会った古代エジプトもこんなものだったんだろうか、パルミラ王国のゼノビアもあんな女だったんだろうかなど歴史ロマンにひたりました。
ここまでが強烈過ぎたのか、マジョルカ、イビサはあんまり覚えてない。海岸で子供と遊んだぐらいでまあ普通のヨーロッパの島でした。昔からいかにショパンに興味ないかお分かりいただけると思います。そしてバルセロナなんてのは1度すでに行ってたし普通のヨーロッパの街であり、特に僕はガウディの妙ちくりんなあれが大嫌いなもんでさっぱりでした。
ジェノヴァに戻ってきてフライトまで少しあったのでタクシーを借り切って観光しました。子供に水族館を見せたりコロンブスの家を見たり。ランチをしたレストランZeffirinoはイタメシに食傷気味だったにもかかわらずかつて食したイタメシのベスト3に入る最高のものでした。ぜひ一度行かれるといいです。youtubeで見つけたのでご覧ください。
運ちゃんがいい奴であちこちで家族写真を撮ってくれ、アルバムの最後にジェノヴァがかなりの分量があるのもスマホのないこの時代ですね。ええ加減だけどにくめないイタリア。僕の地中海好きはこのとき決定的となりました。
すばらしい思い出を運んでくれた船、ミス・メロディ(Melody)はこれです。
さっきWikipediaを見てみると1982年に建造され大西洋クルーズに使われていましたが、我が家がお世話になった1997年にこのMSCという船会社が買って地中海クルーズに就航させたからデビューのころだったことがわかりました。こういうことがすぐわかるのも便利な時代になった、あのころネットがあったらもっと情報があって楽しめた。今の若い人は幸せです。
その後、メロディは南アフリカ航路になって2009年にはソマリアの海賊の攻撃を受けて大きなニュースになったようですが知りませんでした。そして12年に日本の船会社に売られたので会う機会はあった、残念です。翌年は韓国に売られさらにヨーロッパへ戻り、13年の11月に引退が発表されました。現在はインドのコングロマリットが購入し、Qingとういう船名に変わってインドの西海岸のゴア市で海上ホテルとして余生を送っているそうです.
もう一度会ってみたい。強くそう思います。
(こちらもどうぞ)
イベール 交響組曲「寄港地」
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屋久島探訪記(了)
2014 DEC 10 17:17:27 pm by 東 賢太郎

屋久島は人ものんびりしていてとてもいいもんです。たった5日でしたが、最後の日は尾之間温泉の熱めの湯につかり地元のおじいちゃんとしばし話をしました。自然のおおらかさと人々の柔らかさ、とても魅力でした。
屋久杉も温泉も野菜も魚もそうですが、この島にたちこめている太古の昔からの大地の気、生命力のようなものがあるように思います。食事の時に「いただきます」というのは食べるものの命をいただくという意味だそうですが、今回ここへ行って食事をいただいて、初めてそれを実感しました。
ひとことでいえば我々も大地とつながっているということです。杉は山と、温泉は海とつながっている。食材もみな海や土の香りがする。当たり前にきこえるかもしれませんが東京にいれば人はコンクリートやアスファルトで大地と遮断されています。そのことをいっさい不思議にも思わず、人間が作った人工のジャングルを森だと「錯覚」して生活しています。
それは動物たちが野生でいるか動物園にいるかほど違うものだと思います。動物園で生まれた子猿はおそらく森というものを一生想像もしないでしょう。それと似た存在かもしれない僕たちが人口の森の生活で価値があると思い込んでいるものは、実は自然の森では誰もいらないものかもしれない。僕たちは無用の競争をするように価値観を刷り込まれて生きているのかもしれないということです。
山の奥のにはいると、杉の大木に江戸時代の職人が打ち込んで抜けなくなり放置された斧が今も残っているそうです。数百年前の時代とそういう日常の肌感覚での交信ができてしまう近さ、同時性というのはコンクリートのジャングルでは想像もできません。その職人たちが見ていた森の光景も、吸っていた空気も今と変わらなかったのでしょう。縄文時代から手つかずという巨魁な時間の塊に触れたような気がします。
今回、思えばお話しした人はほぼ全員が移住者でしたね。聞いたお話を忘れないうちに書いておきましょう。こんな感じです。
「何より物欲が消えました。ここにいると必要なものだけで満足になってくるんです。不思議ですよ。ブランド品を買いまくっていた私って何だったんだろうって・・・」
「都会にいるとね、あくせく働かないと生きていけないし、でもだいたいが働いてお金ためて使わずに死んじゃうでしょ。あれ、なんか変ですよね」。
「自給自足の人、いっぱいいますよ。畑やって魚釣って。いるぶんだけ働いて、あとは毎日を楽しむ。だからお年寄りが元気なんです、ここ。」
「わしゃ富山です。60で会社首んなってここに旅行来てね、すぐ住みついたですよ。あんまりいいんで。それからもう25年農家をしてね、毎朝この温泉に入ってます」。
「総選挙ですか?あんまり興味ないですね。選挙カーもいないし。ここ、独立国みたいなもんだから」。
「銀行は鹿児島銀行でメガはないです。1万3千人ですから。私、ATMは郵便局使ってますが一度機械がこわれました。すぐ直りますと言われて、直ったのは翌日でした。でも誰も文句いわないんですよ、ほんとゆっくりペースなんです」。
「レンタカーのドアキーがロックできない?いまレストランの前で?そうですか。そちらまで行くにはややお時間がかかるので、では、そうですね、お食事の際はドアだけ締めてください。あっ、貴重品はお持ちくださいね」。
「屋久島は花崗岩ですから杉には厳しい環境だったんです。だから倹約して生きて年輪の幅が狭いです。すると脂がたまって腐らず虫がつきにくく、千年も生きられます。杉も人も粗食なほうが長生きするんでしょうかね」。
「杉の生命力は強いですよ。大木が倒れるとその上にまたがってはえます。それが江戸時代に伐採されて切り株となって、そこから3代目がまたはえてます。一代目からだともう何千年か見当もつきません」。
「還暦、そうですか。そこで千年杉のパワーをいただくっていいですね。縄文杉は年齢が2千年~7千年といわれます。幅が大きいのがどうしてって?誰もわからないんです。いちばん長生きの生き物ですよ、がんばって会ってきてくださいね」。
「縄文杉まで行ければ普通の山は大丈夫。富士山も登れます。」
「ハマる人は多いです。某居酒屋チェーンの社長は毎月来られて毎回1930mの宮之浦岳を登られてます。もう60-70回かな。歩くの速いですよ、普通の人の半分ぐらいの時間で降りてきますから。70歳までに100回はやるそうです」。
「屋久って名前のセンスがいまいちなんです。屋久杉ランドなんてサイテーですよね。はじめテーマパークかと思いました。でも本格的な杉が見れますよ」。
「大王杉って立派ですよね。これ見たらもういいよってぐらい。でももう30分苦労して登って縄文杉見ちゃうと、やっぱり上があるって思うんです。ところが、その縄文杉よりもっとすごいのが5本ぐらいあるそうです。奥の方に。誰も見たことないんですが」。
「人間と家畜以外の動物は6種類しかいません。多いのが鹿とサルです。おたがい襲わないので共存共栄です。動物もおだやかですね」。
「千年たたんと屋久杉とは呼ばんで小杉といいます。だから九百歳だってまだ子供なんですよ」。
今回、一週間休もうと思い立ったのは還暦もあるのですが耳鳴りもありました。医者曰く「原因はいまだわからない」が「ストレスでなる可能性はある」。要は休めということです。直感でまずいなと思い、そうしました。それが不思議なことに今のところ耳鳴りはほとんど消えています。原因もわからないものを直す原因がなんだったのか、とくに心当たりはありません。未知の屋久パワーです。
帰りの鹿児島空港で羽田行の便を40分ほど待っていたら、なんだか急に周囲がざわざわしはじめました。窓を見るとこういうことになっていました。さっきまで何もなかったのに。
ずいぶんでっかい虹です。空港の人に「よくあるんですか?」と尋ねると、「私は初めてですね」。この不思議な旅の終わりを象徴するようでした。
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