ネコと鏡とミステリー
2014 JAN 18 18:18:59 pm by 東 賢太郎
ミステリーという小説は謎を投げかけます。①部屋で人が殺されている、しかし、②内側から鍵のかかったその部屋には誰もいない、というように。①と②は矛盾しているので読者は心理的な不快感を覚えそれを解消させたくなりますが、この衝動はアメリカの心理学者、レオン・フェスティンガー(Leon Festinger)が唱えたもので「認知的不協和の解消」と呼ばれます。イソップにちなんで「酸っぱいブドウ理論」ともいわれ、2つあって迷って買わなかった方のブドウは「あれはきっと酸っぱかったのだ」と自分を納得させる心理プロセスのことです。
大学1年目の政治学の講義でこの言葉を習い、政治学よりもそっちの方に興味を抱きました。ミステリーを読みたくなる衝動は①と②の不協和の解消衝動ですが、不協和は不快感ですから本来ストレスがあっていやなものです。そのひと時の不快感よりもその解決によるカタルシスの解消の方が快感度が高いからそういう小説が求められる。謎が大きいほど解決の快感も高いのですね。それは、本来は危険のシグナルである苦味というものがあるビールをおいしいと感じるのと同じことで、ミステリーはとても人間的な遊びに満ちていると思ったのです。
では動物はどうか?
あるとき僕の家に迷い込んできたチビという非常に賢い子ネコに3mぐらい離れたところから鏡を見せました。チビはそこに写ったネコ(自分)を発見して驚き、別のネコだと思って低い姿勢を取って相手を凝視しながら忍び足でゆっくりゆっくり鏡に近寄ってきました。いよいよ鼻先が鏡面にくっつくとクンクン匂いを嗅いで何かを悟ったように裏面に回り込み(おそらくネコがいないことを確認)、それ以来二度といかなる鏡にもまったく反応を示さなくなりました。
しかしクラシック徒然草-ねこの「ごっこ」遊び-に書きましたがネコは「草むらで音を聞いた」、しかし、「行ってみたら鳥はいなかった」という不協和を認知して楽しむことができるのです。これは我々人間が苦味というシグナルを認知して危険を察知することで本能を一度人為的に緊張させておき、しかし、危険どころかノド越しが良くて逆に爽やかじゃないかという「倍返しの解放感」を覚えるという「とりあえずビール!」の快感と同じものをネコは感じることができる証拠であると信じます。
チビは①ネコがいる、しかし、②近寄ってみるとネコはいない、という認知的不協和のようなものは持ったはずで、どうして①②が同時発生したかはともかく、「①のネコ」に反応しても得るものは何もないということを一気に学習したものと思われます。「①のネコ」とは彼女にとっては「鏡に映ったネコ」なのか「あの白いネコ」なのか「自分の姿」のどれかなのですが、鏡をいくら取りかえてみても彼女はもはや知らんぷりでした。マジックのタネを知ってしまったということです。といっても鏡の原理を知ったはずはありませんから、冒頭のミステリーの例でいうと、犯行のトリック(光の反射)という②の理由を知ったのではなく、①のほうがおかしい、つまりそこに死体はなかったのだという「解決」で納得し、不協和を解消したものと思われます。そしてそれが条件反射化して知らんぷりになってしまったということです。
なぜ「死体はない」とチビが理解してしまったか?彼女は、(A)鏡という物体を個別的ではなく集合的に認知して「あれは鏡だ」「鏡の中のネコはいない」と知ったか、それとも、(B)自分かどうかは知らないが「あの白いネコ」に近づいても存在しないことを知ったか、(C)自分の外部から見た姿を認識して「あれは自分だ」と知ったか、どれかということになります。これは証明できませんが、僕の観察ではBかCであり、Aの可能性は低いように思います。あの白いネコが自分だという認識の有無がB、Cの差ですが、人間並みの感性を発揮した彼女の場合、Cであったと思いたいですね。「ふん、馬鹿にすんじゃないわよ知ってんのよ」と僕のマジックに肘鉄を食わせるのが認知的不協和の彼女なりの解消だったのかもしれません。
ミステリーに戻りましょう。冒頭の謎を大胆に仕掛け、うまく解決した先駆者と評されるのが「オペラ座の怪人」の著者フランス人ガストン・ルルー(1868-1927)の「黄色い部屋の秘密」(1908)であります。「①はなかったのだ」というネコの解決は許されないので②を説明する必要があるというのが人間界の宿命であり、以後にそれを正当化する様々な試み(トリック創案)がなされるようになります。鍵にひもがついていたり、秘密の穴から狙撃したり、涙ぐましいものですが大体は興ざめなもので、ルルーの解決は創世記の作である割に比較的ましなほうに入ると思います。
その後、英国のG・K・チェスタトン(1874-1936)の「ブラウン神父シリーズ」(1911-35)、米国のS・S・ヴァン・ダイン(1888-1939)、ジョン・ディクスン・カー(1906-77)が印象的な作品を残しましたが、密室の概念を孤島、走行中の夜行列車、飛行機、雪に閉ざされた山荘などに広げたのが英国のアガサ・クリスティ(1890-1976)です。それぞれ「そして誰もいなくなった」(1939)、「オリエント急行殺人事件」(34)、「雲をつかむ死」(35)、「シタフォードの秘密」(31)ですね。
わが国では横溝正史(1902-81)の「本陣殺人事件」(1946)が皮切りのようです(ちょっと機械的なように思うが)。彼の作品はトリックの妙というより舞台設定と殺人の動機設定のうまさに長所があるようです。特に「動機」というのは大変重要でこれが弱いとトリックの巧拙以前になんで人殺しなんかしたわけ?と拍子抜けしてしまう。横溝の作品はグローバル比較しても大変説得力を感じます。
メカニックなトリックそのものということでいうと、大胆で独創的と感心したのが赤川次郎(1948-)の「三毛猫ホームズの推理」(78)と島田荘司(1948-)の「斜め屋敷の犯罪」(82)でありました。赤川は女子供向けのイメージが強いですが、場面展開の速い筆力とトリック創案には流行するだけのベーシックな能力を感じます。種明かしは礼儀として控えますが、両者にはある共通項がありますね。
僕が最も尊敬するエラリー・クイーン(合作者なので2人をとって1905-82)は書きませんでしたが別稿を設けます。ネコが登場したところでお後がよろしいようで。
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なぜ世界中でミツバチが消えているのか?
2013 DEC 9 11:11:11 am by 東 賢太郎
F1種子とは、実をつけるがその実の中の種は撒いても実をつけないものをいう。1代限りのタネである。細かい仕組みは知らないがターミネーターという遺伝子が組み込まれていて、第2世代になると自分で発芽を抑えるようになっているらしい。これの利点は害虫がつかず、できる実がどれも同質で同じ形であり、見た目がきれいなことにある。
自然に育つ作物は大きさも味もふぞろいで虫に食われやすいそうだ。だから農家は失敗のないF1種子を買う方が安心感を得られるのだろう。しかもこの種子は遺伝子組み換えにより、ある除草剤だけは撒いても枯れないようになっている。だからこれも自社製品であるその除草剤とセットで買うことになる。それも毎年買わなくてはならない。見事な商売である。
先日、関係者が実際に自然栽培農園を千葉と埼玉で経営されている方から聞いた話によると、「自然栽培の畑」と「F1作物の畑」が並んでいると、自然の方だけカラスに食われ、F1の方は全然食べられないそうだ。つまり我々はカラスが避け、子供ができない野菜や果物を毎日食べている。一説によると日本のスーパーに並んでいる果物、野菜の90%近くはF1だそうだ。そんなものを口にして大丈夫なんだろうか?
ミツバチが世界で大量に姿を消しているというのは各所で騒がれ、本にもなって有名になっている。なぜか女王蜂はF1植物の花粉を運んできたオス蜂を避けるらしい。子供ができない。単にその結果の個体数現象なのか大量失踪なのか?F1種子と失踪と関係があるのかないのか。実証的研究が在ってよさそうなものだが、僕は見たことがない。F1種子は世界の食料不足解消のためと称して米国で大量に作られ、輸出されている。TPPでこれがどうなるか、要注目である。
脳内アルゴリズムを盗め
2013 OCT 17 13:13:55 pm by 東 賢太郎
ビッグデータについて書いた。データは個々には数値だ。何も意味しない。集合になって意味を持つ(かもしれない)。「経験」と我々が名づけているものは、個々の体験ではない。そこから拾い出した知恵のことをいう。体験のビッグデータから脳のアルゴリズムが抽出した法則が経験である。抽出は意志の力がするとは限らないし、僕の場合はそうでないことの方が圧倒的に多い。むしろ脳内現象に近い。だからアルゴリズムとあえていう。
僕は暇なとき任意のテーマでWikiサーフィンをする。あえて興味のないテーマを選ぶ。書かれていることが真実とすればだが、少し賢くなった気はする。しかしそこには書いていないことがある。経験だ。ゴッホの絵について画像でもうんちくでもいくらでも知識を得ることはできるが、本物を見た感動という経験はそこからは絶対に得られない。経験は個性ある判断の源である。Wikiを何百万も諳(そら)んじればクイズ王にはなれるだろうが、クイズ王が大発明家や大作曲家になるわけではない。
モーツァルトは異常な記憶力があった。クイズがあれば王者だったに違いない。彼の脳には聴いた音符がすべて集積したと信じるしか説明のつかない逸話がいくつもある。印刷術が未成熟で著作権もない時代、注文に応じてその断片を即時に書きとって売ることだってできた。しかし彼の書いた626の音楽はどれもそれではなく彼の音楽だ。10歳のものから36歳のものまで、そうであることが一貫している。しかもそのクオリティも、おおよそだが、一貫している。
その事実から導かれる結論はこうだ。彼の脳の音楽メモリー容量は人類史上図抜けていたが、ビルトインされたビッグデータ解析アルゴリズムは10歳のころからもっと図抜けていたということだ。後世が「天才」と呼ぶのは後者のほうだ。それをコンピューターがする時代がやがてやってくるのが次世代産業革命だと前回書いた。それが革命でないなら、革命という言葉は牛丼屋の値下げにしか使われない死語と化すだろう。将棋やチェスはプレーヤーの知恵比べではなく、プレーするコンピューターのプログラマーの知恵比べになる予兆はもう既にある。「2001年宇宙の旅」が描いた恐怖の到来が少なくとも12年は遅れたことをエンジニアの卵たちは幸いと思っているだろうか。
僕はWikiサーフィンより本屋にいるのが好きだ。行くと2-3時間は平気でいる。4-5冊は買うがその10倍は立ち読み速読もする。これが脳内のデータ集積物を一気にアップデートする簡易な方法である。図書館ではない。売れない本も置いてあるからだ。何が売れているかもデータだ。どういう装丁かもそうだ。商品製作者の思考が入っているからだ。本屋になりたいわけではない。個々には役に立たないかもしれないが、僕の脳内アルゴリズムが明日それらをどう活かすかは僕自身にもわからないからだ。
本を読むということは思考停止するに等しいとショーペンハウエルは看破した。他人に感じてもらったり考えてもらうということだから、読書はWikiと一緒で我々を賢くも経験豊かにもしない。子どもの頃、本を読まないと馬鹿になるぞと脅かされたが、たくさん読んだだけで利口になるとも限らない。読書の最大の美点は、そうではなくて、他人のすぐれたアルゴリズムを盗むことができることにあると僕は思っている。
たとえば専門家でない者にとって数学とは数学者の脳内アルゴリズムを複製するトレーニングだと思う。たかだか受験数学の話だし、文系の分際で理系の方には僭越をお許しいただきたいが、微分積分にはあれ以来二度と出会っていないのに微積で問題を解いた回路だけは頭に残っている。水が枯れた水路だ。その水路のおかげで、数学とは無縁な問題の水もそこにきれいに流れて解決できたことが僕には何度もある。読書はそれと同じで著者の思考回路のコピーを自分の脳内に複製するという意味においては非常に強力な効能がある。賢くなるとしたらそういう意味においてだ。
本を読むということが思考停止なら、ノウハウ本をショーペンハウエルは何と呼んだだろうと考えると微笑ましい。「これ1冊で・・・」「ネコでもわかる・・・」のたぐいだ。あなたの知能はネコなみですがとまず著者に指摘されて、それに金を払おうという気になる人は日本にしかいないだろう。そもそもネコでもわかるノウハウを知って何の役に立つんだろう。それが売れるならネコだって「ヒトでもできるネズミの捕り方」でも売るだろう。ネコでもだまされない本というのが彼の答えかもしれない。
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ビッグデータへの一考察
2013 OCT 17 0:00:54 am by 東 賢太郎
物事を集合的に観察することで個別事象を見ても気がつかない大きな規則性やトレンドを発見する。観察する対象は何であれ数値化して定量的に把握できるようにし、ボリューム(データ量)、速度(入出力データの速度)、バラエティ(データタイプとデータ源の範囲)を最大化することで「発見」にトライする。
素人である僕の理解はその程度だ。しかしこれは面白い。リンゴひとつから神の摂理を読み解いたニュートンとは対極だ。アームチェアにどっかり座って犯人を指摘する天才型探偵ではなく、足で歩いて泥臭く情報収集する苦労人型名探偵の登場だ。情報が多すぎて従来のデータベース管理ツールやデータ処理アプリでは処理不能なデータの集積物が「BIG」の意味するところだそうだ。
僕は株価、債券価格という非常に不可思議な行動をする数値を長年追ってきた。それを予測することに人生を賭けてきたと言っていい。それはしかし僕の脳に集積したデータベースからの予測であり、そのデータが上記の定義においてBIGであることはない。もしすべての経済関係データベースを証券市場の価格変動履歴に「タグ」づけしてそれがBIG化できれば、予測は可能になるかもしれない。それをモデル化した者はオプション価格決定モデルをつくってノーベル経済学賞を受賞したブラック博士とショールズ博士のそれと同様かそれ以上の業績ということになるかもしれない。
僕は自説があって、産業革命のデリバティブとしての発明は20世紀で出尽くしたと信じている。150年にもわたって人類の生活をグレードアップしたひとつの大きな波が終焉したということだ。それは英国に発し、米国で発展し、中国が米国化した時点で完全に終わる。しかし次の波はきっともう始まっており、それを現象面から指摘すれば、ビッグデータ解析のアルゴリズム化ということだと思っている。ここが21-22世紀の産業革命の起点となり、多様なデリバティブを生んでいくことになるだろう。
そのような話を理系の大学生である息子にした。産業革命はエンジニアが起こすものだ。法学部、経済学部なんて関係ない。パラダイム変換期なのだから既成概念などぜんぶ忘れろ。英語と同じぐらいコンピューター言語をしゃべれ。哺乳類は魚類のデリバティブで元来水中に棲むスペックで遺伝子のほとんどができている。それが陸に上がってもスペック変更できずに微修正(モデルチェンジ)で生きてきた。微修正は変革を生まない。生むのは歪みだ。人間の病気は大半それが原因だ、という本の受け売り話もした。うらやましいことに今の学生は夢のある時代に生まれている。
コンピューター言語はまったくしゃべれない僕だが、そんな話を思いつきでするわけではない。それなりに僕の脳にあるSMALLデータがそう言っている。僕がそれの専門家かどうかとは無縁である。BIGデータが自らの変革ポテンシャルをBIGデータ化することはあるだろうが、変革が起きたというデータ集積がBIG化するにはその端緒にいる僕たちは何世紀か待たなくてはならないだろう。それまではSMALLが勝つことがある。SMALLが脳内で仮説の溝を埋めながら無限に連結して、結果論的にBIGだったということになるかもしれない。アインシュタインの脳内で起きた現象はそれだったのではないかと愚考する。
検索エンジンはパワーがある。しかし人間の脳内で起きる現象をすべてネット検索するのは、たぶん不可能だろう。オンライン化していないものは検索できないからだ。誰も知らない僕の記憶などがそれだ。何世紀も待つことなくその「誰」にビッグデータ解析アルゴリズムがなれるかどうか?なったら産業革命である。
遺伝子の記憶 Ⅲ
2013 OCT 3 20:20:13 pm by 東 賢太郎
数学はこう言います。
数学なんで仕方ない、これが正しいのです。34世代前よりさかのぼるといずれ地球の質量を人間の体重が超えます。あり得ないのでどこかがおかしい。
同じ先祖を皆が数えているからです。
つまり、それを「あり得る」ためにする唯一の数学的な解は、どっかの宗教がいう「人類みな兄弟」がおおよそ正しいと認めることです。厳密に言えば、始祖となったアダム-イヴのペアが2組以上あってお互い親族でなくても成立するので、「みな」兄弟ではないかもしれないが、限りなくそれに近くないと「あり得る」ようにはなりません。この事実は次の例でもわかります。
細胞にあるミトコンドリアは女性を通じてだけ塩基配列が遺伝するのは有名です。子が男だけだと切れるが女が生まれていれば無限に先祖をたどっていける。それによると12万-20万年前にアフリカにいた女性が今いる人類の最も近い共通の祖先とされています。彼女を「ミトコンドリア・イヴ」と呼びます。それが一人しかいなかったというのは俗説で、他にもいたはずだが「たどり得るもっとも最近の共通女系祖先」ということです。これをご参照ください。
「女系を絶やさないレース」の金メダリストが今日現在は彼女だということに過ぎないので、彼女が人類の始祖であるかどうかまではわかりません。ということはあなたが女性であれば、12万年後ぐらいにはあなたがミトコンドリア・イヴさんになっている可能性もあるということです。
こういう時間軸でとらえると、塩基配列(要はDNAです)の原材料はみんなほぼ同じです。少なくとも「人間の形を作れ!」と書いてある塩基配列部分は確実に同じだから、そこからのヴァリアンスに過ぎないという見方もできるかもしれません。老舗の蕎麦屋のタレみたいなもので、同じレシピで作るスープストックがあるが毎日出し入れするので味は毎日微妙に違う。100年たつとけっこう変わっている。我々の個々人の違いはそんなものじゃないかと僕は思っています。
オックスフォード大学遺伝学研究チームによるとジンギスカンの子孫は現在男だけで1600万人いるそうです(Y染色体がマーカーなので、今度は男しかわかりません)。現在のモンゴル族の男女合わせた人口は約1250万人。日本人の多くは蒙古斑が出ますからモンゴル遺伝子が最も色濃く入った外国であり、皆さんも僕もジンギスカンの末裔であってぜんぜん不思議ではありません。ちなみに孔子の末裔は400万人ですから、ご両人の遺伝子を持った文武両道の方が皆さんの中におられても不思議ではないのです。
こう考えると人間の可能性というのは、少なくとも持って生まれた遺伝子が秘めているパワーという意味では、自分で思っているよりもとても大きいかもしれません。ですからそれを発揮できるように日々努力するのが生きるということの大切な意味だろうと僕は常々考えております。持ち腐れで終わってしまえば、それはなかったのと同じことです。
遺伝子の記憶は科学的には証明できないのかもしれませんが、五感の知るところにおいて、僕はあると信じています。科学は進化しています。ニュートンがアインシュタインがマックスウェルが、その時々の最先端理論を覆して新しい宇宙の原理を提示してきたことを僕らは知っています。今の科学が何を証明できるか、僕らに何を教えてくれるかということに、だから、僕はあまり縛られたくありません。自分の五感の声をよく聞いてそれが導いてくれる方向に逆らわずに努力をすることで、人生大きくは間違わずに来たということの方が自分には余程重たいことです。それが正しい方向だったどうか。それはこれを読むであろう僕の1000年後の子孫が判断してくれるでしょう。
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ハワイ島 標高4200mの天文台にて
2013 AUG 29 0:00:53 am by 東 賢太郎
ハワイでオアフ、マウイでなくハワイ島に行った最大の理由は「すばる天文台」のあるマウナ・ケア山に登るためです。息子も天文ファンであり、三脚付カメラも持参しました。
ご存知の方も多いでしょうが、ハワイ島というのは火山が爆発して流れ出た溶岩が固まってできた島です。このように一面が黒いごつごつした溶岩です。
それが車で少し上ると草原になります。写真はパーカー牧場といって、カメハメハ大王の孫娘と結婚したアメリカ人パーカーが経営したもの。一周1700kmという巨大な敷地面積です。元祖、逆タマですね。
もう少し登ります。visitor centerがあって、そこでお弁当をいただきました。ここで標高は2800mとなり、気温も下がるためジャケットを着ました。写真は太陽観測用の望遠鏡で、のぞくと黒点がはっきり見えます。5つありましたが異常に少ないですね。銀河系には恒星が2000億個あり、観測できる宇宙にある大きな銀河は 3500億個といわれています。太陽はそのうちのひとつですが、太陽以外は遠すぎて点にしか見えません。こうして「恒星」を大きな視直系で目で見られること自体、とてもSF的であります。
もう少し登ります。空気は薄くなり気温はさらに下がります。この写真地点で標高3200mぐらいです。どう見ても火星ですね。影が長いことでわかるように日は傾いています。しかし太陽の光り具合は見たことのない強烈さでした。ああ、お日様、お天道様なんかじゃなく、あれはまぎれもない「恒星」なんだ、と強く実感。
この植物は世界に3カ所しか生えない希少種です。30年に1度しか花が咲かず、花を見たものは幸運をつかむそうなので現地の人は毎年登って見に来るそうです。それが今年は咲いていてラッキーでした。遠くに見える丘のような山は巨大で、体積は富士山の64倍だそうです。
いよいよ頂上、標高4200m地点です。気温は5℃。スキーウエアを取り出しました。これが我が国の誇る「すばる望遠鏡」です。山頂には13か国が天文台を持っていますが現地の人にとってこの場所は神の宿る聖地であり、契約で13基しか建設が許可されていないそうです。
こちらは電波望遠鏡です。光学式望遠鏡よりさらに解像度が得られます。
中に入れないのが残念。でも元天文少年としては姿を見るだけでわくわくします。なにせ富士山頂より400mも高いところですから空気は大変薄く、急に動くと体が危険です。ちょっと歩いただけで息が苦しく、貧血で目の前がチカチカしてきました。
標高4200mから見る日没です。あまりの美しさに周囲も絶句。苦労して登った甲斐がありました。
7時少し前の日没後、頂上地点は一般人は立ち入り禁止になります。2600m地点まで下って車を止め、小型望遠鏡をもって天体観測をしました。土星の輪がきれいに見えて感動!これは息子が撮影した「いて座」方面の天の川です。これが銀河系の中心方向で無数の銀河が存在しています。写真ではぜんぜんわからないのですが、すばらしく壮麗な星空でした。こんな澄んだ星空は昔にアリゾナの砂漠の真ん中で度肝を抜かれて以来です。流れ星も何度も見ました。右下方に「さそり座」が見えるのがお分かりですか。さそりののど元にある「アンタレス」と、もうひとつオリオン座の「ベテルギウス」という1等星は赤色超巨星といって大きさは太陽の1000倍ぐらいあります。子どものころ、赤いはずのこの2星がいくら目を凝らしても赤く見えないのが(理由は知りませんでしたが)悔しくて、結局天文の道から遠ざかってしまいました。
このあと8時すぎに満月を2日すぎた月が登ってきましたが、太陽と同じくその明るさに驚きました。野球ができるんじゃないか?と冗談いう人がいたほどです。
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宇宙人のいる星の画像(NASA)
2013 JUL 27 8:08:56 am by 東 賢太郎
下の写真をご覧いただきたい。これは生命体が確実に存在することが立証された惑星のNASAによる貴重な画像である。左の大きめの星をA、右の星をBとすると問題の星はAであり、Bではまだ生命体は確認されていないとのことだ。
米国の宇宙物理学誌「アストロフィジカルジャーナル・レターズ(The Astrophysical Journal Letters)によると、タンパク質合成が可能であり水が存在し得る温度を保つことのできる「ハビタブル・ゾーン」を公転する惑星が数多く確認されているが、この惑星Aはその一つである。しかもAは大きさも組成も「地球型惑星」に属しており、 主に岩石や金属などの難揮発性物質でできている。画像には写っていないが、Aが周回している恒星はスペクトル型がG2V、表面温度約6千度の主系列星であり、我が地球も属している「銀河系」の中心から約3万光年はなれたところに存在しているとされている。
これがAを土星から見た写真(左)、水星から見た写真(右)である。この小さな光の点にどんな生物がいるのか、想像はふくらむばかりだ。宇宙人ときくと眉に唾する人が多い。しかし現に今、こうしてこの惑星A、すなわち地球(Earth)で皆さんは宇宙人の自画像をご覧になっている(Bは言うまでもなく月、Moonである)。科学的な態度とは、証明できないことは眉に唾せず、少なくとも否定はしないということだ。
スーパームーンと地震
2013 JUN 27 0:00:35 am by 東 賢太郎
6月23日はスーパームーンだった。楕円軌道を回る月が地球に最接近する満月日だ。だから月の引力の影響、例えば潮汐力は相対的に強い。ただ太陽との位置関係により最強とは限らない。一般的にスーパームーンと地震とは統計的に有意な相関性は見られないとされている。2005年1月のスーパームーンの2週間前(2004年12月)にスマトラ沖大地震、前回のスーパームーンが2011年 3月20日だったこと。これも偶発事象だったことになる。
満月では太陽が月と反対にある。だから月と太陽の潮汐力は相殺されそうに思えるがそうではない。太陽を公転する地球は重心(ほぼ中心)で太陽引力と遠心力が釣り合っているから、太陽と反対側(遠心力が勝っている)でも大潮になる。今回、そこに近日点(近地点)に来る月の潮汐力が加わるから少なくとも合算した潮汐力は近時的にはピークになる。6月21日は夏至であり、太陽の北半球への露出時間が長いから影響度も大きい。
僕が6月23日に投稿したブログ「ポンペイ島ナンマダール遺跡を見る」には「今日は潮が高いのでボートは出せない、歩いてくれ」と酋長に言われたくだりがある。この時、それがこれだなと思った。ナンマダールへ行ったのは19日だから夏至の2日前でまだ月が高くない午前中だ。「統計的に有意な相関性は見られない」という頭はあったが、そこから数日間は「嫌だな」という意識があった。
グアムで6月22日の朝方、まだベッドにいたのだがミシッという音がしてホテルが揺れたような気がした。寝ぼけていたし、すぐ忘れてしまった。ところがさっき調べると案の定、こういうのが見つかった。今思えば人生初の「海外で経験する地震」だったわけだが、これもやはり偶発事象なのだろうか。
| M5.3 | |
| 発生時刻 | 2013-06-22 07:19:05 (日本時間 – JST) 2013-06-21 22:19:05 (世界時間 – UTC) |
|---|---|
| 震源地 | グアム地域 ( Guam region ) |
| 緯度 | 北緯12.5653度 |
| 経度 | 東経143.7578度 |
| 震源の深さ | 10.80km |
| 詳細情報 | アメリカ地質調査所 |
| 震源地図 | googleマップ |
地震は平時のムーンでもおきているから因果関係はない、という人がいる。それは「肥料をやらなくても育つ稲はあるから肥料の効果はない」というに等しい。何も起きないスーパームーンがあったからない、というのは「羊が無事だった日があるから狼は羊を食べない」というに等しい。地震の予知はおろか原因すら厳密には特定できていないのだから、この因果関係の証明は現代には無理だ。ただしそれは「因果関係がある」という証明だ。「因果関係がない」という証明だって同じぐらい難しいだろう。「統計的に有意な相関性は見られない」はその証明にはなっていない。
ただし、1000年後は知らない。
小惑星最接近
2013 FEB 15 23:23:29 pm by 東 賢太郎
直径約45メートルの小惑星「2012DA14」が、日本時間16日午前4時24分に地球に最接近するそうです。スマトラ沖上空2万7700キロメートルまで近寄るそうです。
これ、自分のアタマが地球とすると、どのへんを通過することになるでしょうか?
地球の(赤道方向の)直径は1万2756キロメートル、人間のアタマの幅は平均で約16センチメートルだそうです。小惑星は地球直径の2.17倍まで接近するので、
アタマから約35センチを通過する
つまり皆さんが今見ているパソコン画面あたりを通ることになります。月は4.8メートル離れていて、その距離の約14分の1です。けっこう怖いニアミスですね。地球にぶつかっていたら1908年のツングースカ大爆発並のエネルギーだったそうです。去年マヤ歴人類滅亡の日が話題になっていましたが、こっちがどうしてあまり話題にならなかったのか不思議です。
(こちらへどうぞ)
なぜ我々は地球にいるのか
2013 FEB 6 17:17:41 pm by 東 賢太郎
皆さん自分がなぜ日本人に生まれたのか、なぜ両親の子として生まれたのかということを考えたことがあると思います。
それに答えるにはまず、なぜ我々は地球という星に生まれたのかを考えねばなりません。地球を第3惑星としてもつ太陽系は銀河系に属します。銀河系には恒星が2000億個あり、太陽はそのなかのありふれたひとつにすぎません。イメージですが、銀河系というクラスの中で勉強も運動も中の下あたりの、ぜんぜん目立たない平凡な子がそこそこトシをとって45歳ぐらいの中年になっているのが我らが太陽なのです。画像(銀河系)のsunという白丸が彼の居場所です。どう見ても中心人物ではなさそうです。
そんな太陽の周りを回る地球に生物がいるということは他の知的生命体からすれば「宇宙人」がいることになりますが、宇宙人はどんなありふれた星にいてもおかしくないということになります。宇宙人はいないと主張するなら、「ではあなたは何者なのですか、なぜここにいるのですか?」という問いに答える必要があるでしょう。上の画像を地球上の縮尺で考えれば皆さんはウイルスの何兆分の一という微小な生物ですが、このブログをお読みの「意識」というものを持った存在です。小さな白丸のなかに64億個の意識がひしめいています。全宇宙には宇宙人の数だけ意識が存在することになります。
自分が「いる」ということがそもそも不思議です。「いる」=「自分が有る」(sein)とは、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」ではないですが、皆さんの意識がそう判断しているということです。しかし、脳科学の本によると、意識というものが何に由来しているのか、それが物理的に脳の中のどの細胞にある(いる)のかは解明されていません。驚くことに、その意識を一時中断させる麻酔というものがどういうメカニズムで効いているのかすらわかっていないのです。
最新の脳研究では実験により「意識は判断に先んじない(後追いである)」「行動のモニターにすぎない」ことがわかっているそうです。ある動作をするときに我々はまず脳が「やれ」と命じてから筋肉が動くと思っていますが、実はそうではなく、動いてしまってから脳が「命じた」と思い込んでいるケースが多いというのです。例えば、心臓の鼓動は意識で左右できませんが、左右できると我々が思っている動作も実は別な所で指令が出ているかもしれません。時々「無意識に何かしてしまった」と自覚することがありますが、そう自覚していないほとんどのケースでもやはり無意識が我々の行為の大部分を司っているかもしれないのです。
動物は遺伝子の乗り物(ビークル)だという学説があります(利己的遺伝子説といいます)。DNAは自分のコピーを増やすために乗り物である皆さんを支配しているというものです。レストランで今日は肉が食べたいなとステーキを注文したとして、それが自分の意思ではなくDNAの命令であるとすれば、皆さんの意識はそれを追認しているだけです。DNAの命令も無意識の一部だとすればこの説も別の角度から意識というものの欺瞞性を表しているような気がします。
こう考えると、意識は行動を支配しているのではなくモニター(監視)しているだけということになります。会社でいえば経営者ではなくコンプライアンス部長みたいなものです。皆さんというものは、本来の能力はコンプラ部長程度の人物が勘違いで社長になってしまった会社みたいな存在かもしれません。そんな会社はいずれ潰れます。人類史を通じて、人間は不完全でどうしようもない原罪を背負っているとして宗教、戒律、法律(特に刑法)がすべての文化圏で発展してきたのは、内的に支配力のない、つまり経営なんかできないコンプライアンス部長を外的な規律で縛るためと考えられないでしょうか。
我々の行動は地球上で行われていますが、その地球というのは我々という光源(プロジェクター)が「行動の像」を投影するスクリーンのようなものかもしれません。「地球にいる」というCGのようなクオリア(脳の中の質感)があってそう信じているだけかもしれないということです。3Dの眼鏡をかけてスクリーンを見ると自分が高層ビルから空中に突き出した板の上にいるかのように見えて足がすくむなどというアトラクションがありますが、それと似たイメージです。
僕は、別な場所(宇宙)にも別なスクリーンがあって、そこでは同じ行動をする自分が違う存在として投影されていて、「どこかに本当にいる自分」の脳の別な部分がそれをモニターしてそこに「いる」と思っている、という考え方に興味を持っています。3Dスクリーンを見て欺瞞世界の主人公になりきっている僕が何人いても構いませんが、主体的に判断しているはずの「本当の自分」は、どこに「いる」のかはともかく、どこかに存在するはず(sollen)です。我々が見知っている死というのは、地球というone of themのスクリーン上に「ゲームオーバー」の文字が出ることにすぎません。
最近の宇宙物理学では我々の住む宇宙は唯一の宇宙ではなく、断続的にビッグバンが繰り返されて次々と別な宇宙が生まれ、各々において別々の物理法則が成り立っていると主張する学者がいます。どこかにいるはずの自分が放射する「行動の像」が、あたかも複数の映画館で同時上映されるがごとく複数の宇宙に「いる」意識によってモニターされており、いま地球にいると思いこんでいる自分がその一つを鑑賞しているのだというのは、映画館どうしが何百億光年も離れているのであり得ないように思えるのですが、意識というのは光速で飛ぶ必要すらなく、「いる」ところには「いる」ので、これは成り立つのです。
ぶっ飛んだお話ですみません。















