男の子のカン違いの効用 (5)
2014 NOV 14 19:19:46 pm by 東 賢太郎
もしヒラリー・クリントン大統領の治政になるとすると、それにならって世界中が「女王蜂」の時代に突入します。
それは自然界の法則にかなったことですから容易には逆行しません。生物としても実は相手の方が強い。ところが「か弱い」ということになっていて攻撃もされにくい上に、女王蜂がそれを逆手にとって男にとって逆差別的な制度がどんどんできてくる。そこいらじゅうが「女性専用車」状態になるぐらいの覚悟が必要でしょう。
肉体的なパワーが統治の要件ではない時代、つまり戦争がない時代ではそれが社会の進化のひとつの到達点でしょう。いや戦争はあっても核のボタンを押すのに肉体的パワーは必要ありません。核の抑止力こそが第2次大戦後60年を経て社会を変質させ、女性でも序列の上位に君臨できるようになってきた。高崎のサル山でおきているのと根本的には同質の現象が人間界でもおきていると僕は理解しています。
これからの男子諸君は、したがって、女王蜂さま、つまり女の上司のもとでいかにタンパク源として食われずに生きていくかという術を身につけなくてはなりません。僕のように男にしか通用しないのはもう役立たずなのです。そのためには男はテキを冷徹に観察して行動原理を分析しなくてはなりません。つまり母親の支配下にあって女をカン違いして始まる人生の旅路において、どこかで、なるべく早めに、厳しい現実に目覚めることが大事なのです。
しかし、僕はカン違いを排除しなさい、とくに男の子を持つ世のお母様方にそう教育しましょうと申し上げているわけではありません。第1話に書きました通り、男のカン違いはどんな世になろうと生きていく強い原動力になることは変わりはなく、それがツボにはまった時の破壊力において男しか成しえないパワーを秘めているからです。クラーク博士がどうしてBoys and girlsにしなかったかは知りませんが、世界景気が停滞期に入るかもしれない今こそBoys, be ambitious.であるべき時代なのです。
ところで、フラれた相手のことをいつまでもうじうじと覚えているのは圧倒的に男なんだそうです。女はバイバイと別れればスパッと忘れてしまう。相手が浮気するとだいたいの男は相手を責めますが、女は往々にして浮気相手を攻撃するというのはそれと関係あるかもしれません。
ところがショーペンハウエルが別な側面から面白いことを書いています。女は嫉妬で相手の女を責めるばかりではない、男を縛りつける結婚という制度を脅かす不届き者に女性共同体として制裁を加えているのだというのです。さすが大哲学者、なるほどとうならされます。
女は化粧して着飾ってみてそれで寄ってくる男を大事にしますが、来なくなればポイです。平安時代の通い婚はそれそのものです。いっぽう男はけなげなのもので気に入った女は自分のイメージの中でアイドル(偶像)化しています。相手にポイされても忘れないのは、現実に恋が実ろうと実るまいとそのイメージだけは残像としてのこるためでしょう。やっぱり、女王蜂さまに気に入られようと頑張る雄蜂に見立てるべきは、男です。
大作曲家の伝記を読むと名曲の陰に女ありというのがあまりにたくさんあって、尊敬するマエストロが雄蜂に見えてきて困ります。
ベートーベンにインスピレーションを与えたカノジョはたくさんいました。それにベルリオーズのハリエット・スミッソン、ワーグナーのマティルデ・ヴェーゼンドンク、シューマンとブラームスのクララ・シューマン、ストラヴィンスキーのココ・シャネル、もう数えきれないほどの女が男を迷わせ、「名曲」を書かせたと思われます。
モーツァルトなんか可愛そうに妻のお姉さんアロイジアにつれなくポイされ、熱愛したナンシー・ストレースにはあっけなくロンドンに帰られてしまいました。それぞれのアイドルに愛に満ちたソプラノの名曲を捧げましたが、捧げ物のでっかさではなんといっても妻になったコンスタンツェでしょう。彼女が書いてもらったハ短調ミサ曲k.427の素晴らしさ!これひとつだけでも彼女の人類史への功績をたたえて銅像を建ててあげたいぐらいです。
ところが、逆にそういうことが女性の側から起きた、つまり、男を想うあまりに女が人類史に残る何かを創ってしまったという話はきいたことがないのは僕の勉強不足でしょうか。モーツァルトの姉、メンデルスゾーンの姉、シューマンの妻、みんな弟や夫に劣らない並々ならぬ楽才があったのはきちっと記録にある事実ですが、誰もそれに値する作品を書いていません。それは才能の問題ではなく「女王蜂と雄蜂」だからなのでしょうか。
これは示唆に富むところです。作曲家、画家、科学者、哲学者、教祖がほとんど男ばかりなのは「脳差」であり男と女の脳は構造的に違うのだとするか、前回に書いたように脳の構造、性能ではなく「男女の気質の違い」に帰着させるべきなのか。今回こう書いてきて、どうも「女王蜂はオスを使い捨てる」というのが正解かもしれんぞと思いだしています。
弱いオスが女王に気に入られようと必死に働かせる脳、そういう脳じゃないとできないのが芸術や科学技術なのかもしれません。子供はメスしか産めませんが、オスしか産めないものもあるかもしれません。
たぶん女性には信じられないでしょうが、その昔、アイドルの権化のように輝いていたころの吉永小百合はトイレに行かないと心の中で信じているサユリストがたくさんいました。そう思ってたよという男を僕は何人も知っています。生身の人間を偶像化するというのはカン違いの最たるものですがそれは男のお家芸のような所があります。
もはや宗教みたいなもので本気で信じられてしまえば誰も何も言えず、たぶんその勢いで舞台上のハリエット・スミッソンに見とれていたベルリオーズは一気に幻想交響曲を書いてしまったのです。そしてそれを傍の人間は「才能」と名づけているのです。
女の時代になっても、男の子のカン違いの効用は永遠です。
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女の上司についていけるか?(ナタリーとユリアの場合)
「女性はソクラテスより強いかもしれない」という一考察
男の子のカン違いの効用 (4)
2014 NOV 13 2:02:30 am by 東 賢太郎
女性の時代がやって来る。男はどうすればいいのでしょう?
そんな時代が来ようが来まいが、もしも生物の存在が子孫を残して種を繁栄させることだけを目的としているなら、卵や子を産むことでストレートにその役目を負っているメスが主役なのはそもそもが自然です。
「女王」がいるハチやアリを見れば、主役はメスでオスはおまけ的存在であることは明白です。クモやカマキリは交尾後にメスに食われてタンパク源になります。鳥は孔雀など羽が美しいのはオスで、「美男コンテスト」で相手を選ぶのはメスです。猛獣だって、ライオンのオスは成長すると母親の群れを追い出され他の群れでメスに気に入ってもらわないと群れを作れないのです。
ゴリラ、チンパンジーという高等な哺乳類あたりになるとオスのほうが体も大きく、群れのボスに君臨して優位なように見えてきます。その延長に人間が来るように思えるのです。ところが、ひょっとするとそれは社会的に優位なだけであって、女の方が長寿なのは万国共通ですから生物学的に見ればやっぱり「男はおまけ」という基本原理から抜け出していないんじゃないかとも思ってしまいます。社会は変化しますが生物の原則のほうがずっと根強くて変わらないかもしれないのです。
どうしてサルやゴリラに女王がいないのか?これは面白いテーマです。種の保存に適していないからというのが答えとすると、どうしてそうなのか?高等な知能をもつ動物ほどオスの方が体が大きくなりハーレムができ、優秀なオスをメスが選ぶのではなくオスがパワーでたくさんのメスを得るようになる。そのパワーが物理的な力であるところから知力になるところで、「群れ」は「社会」と呼ばれるものに格上げになります。
だからオスが社会的に優位であることはおそらく高等な知能の裏返しなのですが、それは生物としての種の保存に適するというオス・メス両者の共同戦略なのであって、別にオスの方が優秀だからというわけではないと考えられます。それなのに女性に姓がなかったり参政権がなかったりというのはオスのカン違いの産物であり、社会というものがまだまだ進化途上にあった名残りなのではないでしょうか。
僕はまだ日本が男尊女卑の風潮であった時代に生まれ育ちその影響を受けてきましたが、最近はそれは充分に高等になりきっていないオスのカン違いにすぎないだろうと思うようになっています。そういうオスが減ってくるにつれ、そのカン違いを見越した「どうせ私は・・」なんてメスの引き技も減ってきた。演歌がはやらなくなった時代背景はそういう事ではないかと考えています。
最近、こういうことがおきています。
高崎山自然動物園の猿山ではベンツがボス猿として君臨していたが死亡認定され、新たにゾロメがボス猿に認定された。そんな中、ミルサーというメス猿が頭角を現している。猿の群れの序列はオスのみの修正とみられてきたが、メスのミルサーはボス猿のゾロメに毛づくろいをすることで地位を上げているという。群れのナンバー2であるオオムギにも毛づくろいをし、ナンバー3のカンサーにもハグをするなどしている。地位の高いオスに愛嬌をふりまき味方にすることで、自らの地位を確保している(テレビ朝日)
ミルサーは下位のオスに攻撃されると自分が籠絡している上位のオスを大声で呼んで撃退させるそうです。いやあ、どっかの国の政界や科学界のみならず各界においてこれは日常茶飯事と化しつつあるでしょう。
サラリーマン界においては、これは古来より「ヒトタラシ」「ヨイショ」「ヒラメ」「ジジゴロシ」等と多様な名称で呼ばれる出世の技法としてすでに確立しています。問題はそれを女性が身につけてきているということ、そして本気でやれば女性の方がずっと上手だろうということなのです。
これを「女が強くなった」と見るのは間違いです。終戦直後だって女性と靴下は強くなったと男は嘆いていましたから。こういうメスが出るのも「種の保存に適するというオス・メス両者の共同戦略」の結末でしょう。メスが変わったのではなく変わったのは社会の方であり、社会そのものが変質しているのだとするのが本稿での僕の立場です。
つまり、世界のメス猿が一斉にそう進化しているのではなく、天才サラリーマンのメスが突然変異や食べ物のせいでポンと現れたのでもなく、高崎山自然動物園の猿山という「閉じた社会」において長年のサル同士のつきあいの蓄積から何かそういうメスが出やすいような要因が働いているのではないかと感じます。社会の変質ということです。
社会の変質となればそれは世の中の波です。それに飲まれればたたでさえ弱い男は負けてしまう。それに警鐘を鳴らしておこうということです。
警鐘?例えばこういうことが起きています。精子数の減少という切実な問題です。ネットで調べると「2013年のフランスの最新報告では、15万人について1989年から17年間のデータを解析したところ、精子数が毎年1.9%減少していた」とありました。環境ホルモン、遺伝子組み換え食物など原因はともかく、ただでさえ弱い男は生物としてさらに弱くなっているかもしれません。
ところが男の退化に対して社会の進化は怒涛のように押し寄せ、とどまるところを知りません。世界の政治、経済、軍事のトップに君臨するのは当面のところ米国ですが、その米国の次の大統領は女性になる可能性が高そうに思います。それは名実ともに女性が世界を動かし、支配するということに他なりません。
安倍首相が女性閣僚を登用するのは私見ではその流れを敏感に察知したものだし、長期政権を前提に小渕さんあたりを後継に据えようという深謀があったのだという人もいます。ロシアのプーチンも31歳の元新体操の五輪金メダリストを要職につけ後継候補にするのではないかという話が聞こえます。
いよいよ、人類も 『女王蜂』 に支配される時代が来ているようです。
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男の子のカン違いの効用 (3)
2014 NOV 12 0:00:49 am by 東 賢太郎
親父が怒るのは理屈とパターンがあって読める。まあこういうことをしておけば喜ぶだろうということも。
つまり、だいたいの男は法則性があるのです。しかしお袋はというと、喜ばそうと思って釣って帰ったザリガニやサヤエンドウ豆の小ぶりなやつは「それは食べられないのよ」とにべもなく捨てられる。同じエビでしょといっても「それは汚いの」で説明なしなのは駄菓子と同じ。それやこれやで女は突然爆発したり何をすれば喜ぶかよくわからんという不可解な存在になっていくのです。
いま思うと母にはもうしわけない限りなのですが、男の子というのは理屈で納得しますし単純ですからちょっとしたことで大きくカン違いしてしまうのです。しかしこの単純というのが財産でもあって、現実主義でないからできるということが男には多々あります。同じ親から生まれて脳は変わりないのに男のほうが業績を上げている科学、哲学、作曲、絵画等はそういう男女の気質の違いの結果かもしれません。
気質といえば、演歌で「どうせ私は・・・」いうのは必ず女であって男はありません。いやそういう男もたくさんいるんですが歌にはならない。サマにならないんですね。この「どうせ」というのはうまく英語にならないんです。「どうせ私はそんな女よ」は I’m such a girl at best. とか I may be such a girl if you say so, but what’s wrong? という感じでしょうか。でもどこか変ですね。西洋の女はそもそもそんなことは言わないでしょう。
つまり「どうせ」や「所詮」は西洋語というロジカルな言葉にならないコンセプトなのです。それが女の口から出た瞬間に男の論理思考回路は停止を命じられ、白旗を上げるしか道はなくなります。そこでむやみに反論して戦ったりすると女を泣かせるひどい奴なんてことになって、電車の痴漢の冤罪事件みたいになりかねません。
政府が少子化担当大臣だの女性閣僚だのと無理して持ち上げなくても、これからは女の子は強くなります。親父クライシスがある男が相対的に弱くなるからです。女がだんだん世の中のディファクト・スタンダードを作りだします。それは当然、女の社会進出を有利にするバイアスがかかり、通勤電車の女性専用車両と同じく男は泣き寝入りを強いられるかもしれません。
2年後にヒラリーが米国大統領になれば、それは一気にグローバル・スタンダード化の端緒につきます。そのことはここに書きました。
6年後に東京でオリンピックがあります。何万人という外国人がやってきます。前回、1964年のときもそうでした。しかし大きな違いがあります。前回の日本国は新幹線や高速道路などインフラを懸命に整備し、世界に誇示しました。それはいわば男性原理というかマッチョといいますか、我が国は戦争に負けはしたけれどこんなに国力が回復した強い国だぞという男の主張だったわけです。
ところが今回はどうでしょう。「おもてなし」です。いかつい男の出番じゃない、女性原理がものをいう時代に入っています。
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男の子のカン違いの効用 (2)
2014 NOV 11 0:00:46 am by 東 賢太郎
この人は絶対に俺の球を打てないという天下無敵なカン違いの効用。そのおかげで証券界という魑魅魍魎の世界でともあれクビにはならずに生きてきました。
ところが僕のその術は弱みがあります。女性に通用しないのです。
なぜといって、相手は野球をしませんからどうしようもない。これは思い出すことがあって、一部のおじさんしかわからないでしょうが、横山光輝のマンガ「伊賀の影丸」に左近丸という忍者が出てきます。幻心入道という敵の強豪の忍者が得意の幻術をかけますが左近丸は盲目でそれに気づかず、術がききません。幻心入道は為すすべもなくたおされてしまう。まさに女性とは左近丸なのです。
そう思ったのはドイツでのこと。現地法人の社長になるため銀行監督局でドイツ語の口頭試問があったときです。ただでさえ一夜漬けのいいかげんなドイツ語、それが運悪く試験官は厳しそうな高級官僚の女性だったのです。出てきて目が合った瞬間もう気おくれして冷や汗がにじみ、びしびし質問されてしどろもどろになってしまいました。丸暗記していた文を同じところからくり返して失笑をかう始末。落第寸前でした。相手が男だったらこういう事はなかったと思います。
男の子というのは小学生ぐらいまでは母親の支配下にあるのが普通でしょう。しかし僕の場合は野球はもちろんのことですが、ザリガニを釣って池に落ちたりガケに水を流して滑り降りる遊びで髪の毛まで泥まみれになって帰っても何も文句はいわれず「はなし飼い」状態でした。今も遊ぶことへの意欲と創意工夫は並々ならぬものがあるのはそのおかげです。勉強しなさいと母にいわれたことは一度もありません。
小学校のころ帰りに駅前の駄菓子屋でよく買い食いをしてました。もちろん学校にも親にも隠れてです。ある日、5円玉しかもってなかったのですがそれでも店のやさしいおばあちゃんがいいよと炭酸煎餅と水あめでウサギを作ってくれました。「ボク、こんどは10円はもっておいでね」といわれたので、そうか最低は10円なのか、悪かったなと思い、こんどはお小遣いをためて意気揚々と50円もっていきました。
これがまずかった。おばあちゃんはいっぱいお菓子をくれます。定番である梅シロップで赤い目のウサギ、お米の粒の入った安っぽくていかがわしいチョコレートなど子供心をくすぐるのがいろいろ出てきます。しかも普段はクッピーラムネという小粒なのしかおいてないのが、最後にでっかいオレンジのラムネを「おみやげね」とくれました。
さすがに50円は威力があるなと嬉しくなり、これを思いっきりほおばりながら帰りました。みつからないように玄関の前で呑み込む作戦でしたが、運悪くお袋が玄関から出てきたところでばったり。「あんた、何食べてるの!」とすごい剣幕で口をこじ開けられ吐き出させられます。どんな悪さをしでかしても叱らなかったお袋にあんなに怒られたことはありません。
別にラムネ食っても死なないじゃないかと思ったのですが、理屈はなし。問答無用で駄菓子はだめなのです。この事件いらいおばあちゃんの店には出入り厳禁。なついていたおばあちゃんがきっと良かれと思ってくれたものがお袋は頑としてNOであり、なんとなく女の戦いというか何を信じていいのかよくわからないということになりました。遊びは放し飼いでも食べ物に関する母親の支配は絶対王政に近いものがあったのです。
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男の子のカン違いの効用 (1)
2014 NOV 10 11:11:55 am by 東 賢太郎
カープファンというのは最近でこそ各地に増えていますが、僕が小学校2年生だった昭和38年、東京都生まれの小学生界においてそれを宣言するのがどれだけ「はぐれもの」であったかは皆様の想像を絶するものがあるでしょう。
クラスはもちろん巨人ファンばかりだから当然仲間外れになるわけです。広島に血縁地縁があるわけでもなく、たんなるモノ好きとしては「コストの高い」ことでした。以来51年、僕のカープ愛は周囲に知れわたって今に至っております。
そのころの僕といったら体は女の子より小さく気もケンカも弱く、九九の覚えは悪く勉強ができたという記憶もなく、そんなにつっぱれるほどのものは何もありませんでした。もう少し空気を読んで生きればよかったもんですが、いじめられようが何しようが「自分の好きなものに忠実」というのは三つ子の魂だったようです。
どうしてそういうことになったかというと、バットの持ち方から教えてくれた近所のお兄ちゃんがいて野球に目覚めていたからです。それが広島の選手の応援になりました。そうこうするうち家の前の多摩川で毎日石投げをした成果か、5、6年生時分になると近所の子は僕の投げる球が打てなくなりました。当時は誰もがリトルでやる時代ではなく草野球でしたが後ろで観ていた大人から、こういうとこからよく甲子園に行くんだという話し声がちらっと聞こえたりして、今も覚えているんですからよほど舞い上がったにちがいありません。
何をやっても普通の子だった僕にそうやって唯一の「取り得」ができました。高校野球をやって井の中の蛙だったと気づくまで俺は凄いと「大いなるカン違いの数年間」があったのです。今となると微笑ましいものですが、勉強もケンカも運動も大したことない男の子にとってそういうカン違いはあったほうがいい、ドンキホーテでもいいと思います。
その効用は社会人なってから出ました。出だしは営業職ですからよく人前であがらない方法として手のひらに人の字を書いて呑み込めとか、偉い人と会うときは相手が赤いパンツをはいてると思ってみろ、笑っちゃうだろなんて新人に気を落ち着かせる「おまじない」を先輩からいろいろ教わりました。
どうしても人前でしゃべるのが不得意であったのですが、ある日、強い味方があることに気がつきました。赤パンは不要だったのです。「この人は絶対に俺の球を打てないな、三球三振だな」と思う、これでおしまい。相手が大統領だろうが首相だろうがおんなじ。カン違い時代の気持ちに戻る。するとあがるどころか魔法にかかったように精神的優位にたててしまう。いや、これにどれだけ救われたことか。
男というのは社会で何かしらでつっぱって生きる必要があります。特に交渉ごとや会議やプレゼンは相手に気持ちで押されたり自信をなくして気後れすると即負けです。そういう時に何が役に立つだろう?家柄、人脈、学歴、容貌、度胸、話術?せちがらい話ですが、社会にはそういうものを総動員した男の戦いというものが厳然と在ります。それがある人はいいが、ないならどうしたらいいだろう?
自分の場合なにもなし。学歴に関しては、僕の場合試験は落ちた回数の方が多くて最後の最後に頑張って運があった、それだけ。自分でそう思っているので自信なんかないのと一緒なのです。一番大事なことなのでしっかり書きますが、傍がどう見るかと自分が自信を持てるかはまったく別です。
勉強は嫌いでしたしほめられたこともありませんが野球は何回も大人にほめられ感心された。だから少年の心の中の重みとして比べものにもなりません。その自信も実は大いなるカン違いなのですが、大学受験や人生諸々で壁にぶつかったり失敗して落ち込んだ時は野球のボールを右手で握って寝てました。その感触が無意識に絶対の自信を、俺は大丈夫、負けないぞという確信をくれるのは不思議なほどでした。
それがどんな些細なものでも何であってもいい、とにかく男の子はこれなら負けんというものがあったほうがいいと思います。親御さんはそうなるように見守ってやったほうがいいでしょう。それはその子によってちがいますから押しつけても仕方ないし助けてやることもできませんが、どうせカン違い半分ですから大きくカン違いした方がいいですね。
クラーク博士の Boys, be ambitious. はそういう事だと僕は解釈しています。だからこそ彼は「金や利己心や名声のためならず」と「カン違い」のタガが外れないように、それに続く文言で注釈してます。これを日本的に慎ましく「大志をいだけ」と訳すと意味が分からない。狙いが何であれ ambitiousはまぎれもなく「野心、野望のある」という意味です。
野心はカン違いの自信の代名詞です。「どう考えても無理でしょ」、というのを狙うから野心であって、実力なりに手に入りそうな物を狙うのは「目標」かせいぜいがんばって「夢」です。でも博士は Have a dream. とは言ってない。そんな程度のことは誰でもやるわけで、いちいち偉い先生が訓辞をたれることでもありますまい。
昨年の5月にこういうブログを書きました。若者の欲望が日本を救う 1年半後の今も何ら変わらずそう思います。若者は欲望をたぎられせて、野心、野望を持ってほしい。ここは博士にさからいますが金や利己心や名声の何がいかんのでしょう。それと無縁なものは野心とは言わんでしょう。
今回「女の子」と本稿のタイトルに入れなかったのは博士に習ったわけではなく、実は女の子はちょっと有利だと思っているからです。自分とは別種の生物である親父をぬく必要が必ずしもないからです。男の子は他の男に勝つ前に、自信を持つためにまず自力で親父をぬかなくちゃいけません。フロイトのいうエディプスコンプレックスの克服です。ところが今の世はこれが大変なんです。
これは日本国民全体の課題であります。なぜなら今の2、30代の男性の親父は大なり小なり高度成長期の余熱の恩恵で成功体験をもっている世代だからです。自分の力かどうかは棚に上げて、ともかく、俺は昔こんなすごいことをやったんだと思い込んでいる。かくいう僕もその一人です。この世代間のハンディキャップは親父クライシスといってもいい。それをデフレの経済氷河期に育った彼らが実績で凌駕するのは並大抵のことではないでしょう。男の子が自信を持ちにくい時代なのです。
だからどんな些細なことでもよく、自己満足で構わない。僕はキャッチボールしていて本気で投げたら親父が危ないと思ったことがあって、手加減するようになった。その瞬間に無事それをクリアしました。だから野球が自信の源になったのかもしれませんが、そんな程度のことでいいのです。
でもそれが小学生の時だから手ごたえが重かった。それに比べて受験勉強やクラシック音楽はずっとあとになって来たものであって、僕の感覚ではそんなのは付け焼刃のインチキなんです。自分の本当の素質と思わないのでその自信で生きていくにはいかにも脆弱に思えました。
普通の人は最高学府といわれるところを出ればそれに頼って生きようと思うだろうし、それに自信も持つでしょう。しかし僕はそういう人間にはなれません。一井の野球少年のままなのは、いかにそれ以外に何もなくそれが取り得なことに頼って生きてきたかという裏返しです。
子供なりに速い球が投げられた自信と喜びというのは野球ではたいして助けになりませんでしたが、結局は僕の人格を決めましたし、その後の人生を支える最強の武器になりました。それを使って普通じゃない経験を自らの力で掘り起こすことができました。
それが学歴や学校で教わる知識や学問ではなかったということは、いくら強調しても足りないと感じます。それで人生が決まるわけではないのです。あなたはどういう人ですかと問われれば、そういう人ですと答えるのが一番ぴったりです。東京生まれ東京育ちの僕が51年もカープファン一筋であることはそれの象徴であるように思えます。
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クラシック徒然草-僕がクラシックが好きなわけ-
2014 NOV 2 16:16:27 pm by 東 賢太郎
私は物理学者になっていなかったら、音楽家になっていたことでしょう。私はよく音楽のように物事を考え、音楽のように白昼夢を見、音楽用語で人生を理解します。私は人生のほとんどの喜びを音楽から得ています。
アルベルト・アインシュタイン
先日の皆既月食の時、アマチュア天文好きはほとんどが「観測派」なので友達がおらず子供のころ寂しい思いをしたことを思い出しました。
僕は恒星にしか興味がありません。日食や月食はかくれんぼみたいなもので物理現象でないし、何がおきるか完全にわかっているのだからただのショーです。皆既日食の時はカラスが何をするかの方が気になっていましたし、どうしても赤色超巨星の変光や130億光年先の未知の星雲での出来事のデータの方が気になります。
こういう趣味は幼児のころからはっきりしていて、僕は2歳から無類の電車好きでしたが車輪と線路以外は一切興味がありませんでした。非常に変な子だったと思われます。もしも鉄道会社に入るなら社長でも運転手でもなく線路の補修工をやりたい。今でも彼らを見るとうらやましい気持ちがわきおこります。
恒星の物理現象の何が楽しいの?と聞かれても猫好きとおんなじで、好きだという事実が先に厳存するのであって考えても意味のないことです。実際にそれを見た者はないわけですから頭の中だけの世界ですがそれでもそこに浮かぶイメージは時としてどんな名画より美しいと思います。
音楽も同じことです。どうしてクラシックが好きかというのは、どうして恒星がどうして線路が好きかということと同質です。なぜこの曲はこんなにいいんだろう?これを解明することとシリウスの伴星の質量への関心とは同じであり、シリウスを夜空に見上げるのはその曲を聴くことと同じことです。
音楽は人為的な物理現象です。それを耳にして頭の中に何が浮かぼうと、快感、感情、風景、ポエム・・・なんであろうと勝手です。ただその段階ではもうそれは音ではなく、脳内の現象になっています。それを心象と呼べば、それは聴く人の脳の数だけあります。ある曲を聴いて万人が同じ心象を抱くとは限らないのです。
ラヴェルのボレロを聴くと僕は極めてメカニックなゼンマイ仕掛けの時計を思い浮かべます。ところがさる女性の方があれはセクシーよねとおっしゃって頭が凍りつきました。セクシー? 同じものを見聞きしてかように天と地の差が出る、これは音楽が多面体であって、見事にカットされたダイヤモンドのように見る角度でいろんな魅力があるということなのです。
10年ぐらい前に僕はボレロをシンセでMIDI録音しました。なんとなく時計のゼンマイをばらばらに分解してみたくなったのです。すると、そこには和声や対位法の秘技はちっともなくて、ひたすら単調な2つの旋律とリズムの繰り返し、それに楽器法の多様なスパイスがふりかかっていくだけという造りなことが現実として見えてきました。
つまり、部品にバラしてみるとどのひとつも珍しくもなく、楽器の面白い組合せの効果だってシンセで忠実に再現できてしまう。まるで精巧なプラモデルみたい。作りかけで内部が中空の戦艦大和を上から下から眺めてぞくぞくする、ああいう感じを味わいながら全曲を完成してみて、ああやっぱりこれはゼンマイ時計だったんだよかったと得心したのです。
ちなみにご存知の方も多いでしょう、ロンドンにドーヴァー・ソウル(シタビラメ)で有名なWheelersというレストランがあります。素材は同じヒラメのムニエルですがソースの違いでたしか10何種類ものメニューがあり、どれもうまい(お薦めです)。ボレロはあの舌平目を片っ端から10種類食べるのとおんなじだったんだということです。1種類のソースで10枚はとてもとても。ボレロはピアノリダクションしてもちっとも面白くない曲です。
しかし、そういうことをぶっ飛ばしてセクシーだとかいう人が現れる。「おおジュリエット!そなたの瞳は・・・・」みたいな宝塚風世界が見えてきて、そういうのは僕とは縁遠い世界なもんでもうアウトです。こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない。ここで、日食や月食が好きな子と遊べなくて寂しい思いをした子供時代に戻るのです。
たしかにラヴェルはゼンマイ時計を造ったのですが、もし彼がセクシーという評価を知ったらひょっとして喜んだんじゃないか、それこそ彼の思うつぼだったかもしれない。伝記を読んでいてそう思ったのも事実です。素晴らしい時計ですね、そんな評価は欲しくなかったかもしれない。そう感じてなにかまた寂しい気持ちになったりします。こういう人間は孤独なのです。
そこで後日、ブラームスの4番の交響曲の第1楽章、これも僕にとってはバラバラに分解したくなる対象なのですが、それをMIDI録音してみました。するとこっちはソースではなく食材そのものに多種多様なアミノ酸、タンパク質が含まれたものであることがわかってきました。彼の3度、6度音程がそれの重要要素で、12音の全部を基音とする長短調主和音が含有されていることも。
でもそれはらっきょうをむいたようなもので、何も出てこない。どうして僕が惹きつけられるのか、その効果をもたらす核心、根源は悔しいことに分解した部品は教えてくれないのです。原子論が脳を解明できないのはこういうものでしょうか。音楽としては全然似てませんが、結局これもボレロのセクシーと同様によくわかりませんでした。
そういう、いわば「形而上の何ものか」を名曲といわれるものは含んでいるようです。すると僕はそれを形而下におろして分解したくなる。いろんな人の演奏をいわば「聴感実験」としてきいてみたくなる。そうやってその曲を覚えこんでしまう。その積み重ねで僕は50年もクラシックにのめりこんできたようなのです。分解癖がうずかない曲はぜんぜん関心がない、どうもそういう事のようです。
ブログで譜面をお示ししたくなる部分、そここそ分解したい箇所であって、それこそが僕のブログの主題だからそうしないといけません。今はそういうものの合成効果を僕は好きで、それが感動をくれていると考えています。それは自分だけの心象かもしれないので普遍性があるかどうかは知りません。たぶんないでしょう。日食・月食派の方にはどうでもいいことでしょうが、物理現象派の方にはわかっていただける 一縷の望みをかけております。
僕はリストやマーラーやヴェルディやほとんどのショパンに興味がないことを明かしているので、いくらボロカスに書いても無視してください。所詮好き好きです。なぜといって分解したいところがないのです、一ヵ所も。だから楽譜を見たいとも思わない。おおジュリエット!も僕の音楽観にはいっさい出てきません。
音楽の教科書に載っていた曲はみな名曲だ、聴いてわかなければいけない、わからければあなたがおかしいのだなんていう呪縛はクソくらえなのです。僕は中学まで音楽の成績2の劣等生ですが、ピアノが弾けて笛がうまくて5だった人たちが今の僕よりストラヴィンスキーの音楽について理解していることはたぶんないでしょう。そういうことは育ちや教育や技術ではなく、すぐれて遺伝子のなせるわざと思います。
レコードの批評はくだらないので読みません。つまらない曲の演奏などどうあろうとつまらないわけで、そんな曲を批評できるほど真面目に聴いていること自体趣味が悪い。そういう人のおすすめに従ってみたいとは思わないです。良い曲はプロがちゃんと演奏すればよほどひどい解釈でないかぎり良いはずです。だからCD屋へ行って棚に並んでいる有名演奏家のものを買っておけば間違いはありません。
その曲の本質をより突いた演奏というのはたしかにあります。それは語られるべきですが、それもこれも、曲が良いという大前提があってこそです。必要なことは「良い曲」を探して、それを良く知ることなのです。そしてそれぞれの人によって持つ心象が違うのですから何が良い曲かもかわってきます。他人の評価やおすすめはそれはそれとして、とにかく自分の耳で聴いてみること。それしかございません。
僕はいい曲かどうかを分解したいかどうかで選んでおり、ある人はおおジュリエット!で選んでいる。どっちでもよい。そういう事だということを知ったうえで自分の「良い曲」のレパートリーを増やしていくこと、それを探し求めることこそクラシック音楽の森に足をふみ入れることです。その道を歩いてさえいれば、どんなにレパートリーがまだ少なくとも、「自分の趣味はクラシック音楽です」と堂々と語ることができる、僕はそう思います。
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Why not ? のすすめ
2014 OCT 25 10:10:27 am by 東 賢太郎
アメリカ人にビールやワインをついであげるとき、
Say when.
というと「そこでストップって言ってね」という意味になります。Say when you want me to stop. ということです。
そこでオッケーのところまでくると、That’s fine. もありますが、
When.
の人もいる。なんか妙ですが、whenと言えと命令されたので従っているわけです。英語人の思考回路というのは大変に面白いと思います。
先日、アメリカ人の元同僚と話した時に、ちょっとしたことを頼みました。すると、
Why not?
とくる。notにアクセントが来て語尾は下がる。ワイナァットとナァを強めにいえばいいですね。「どうしてだめなの?」という意味です。君の頼みを私が断るだろうと君が思っている根拠が仮にあるならば言ってみなさい、ということです。字義通りそう書くとケンカを売ってるみたいですがそうじゃなくて、「なんかだめな理由でもあるの?OKに決まってるじゃん」という感じ、一言に集約すれば 「いいとも!」ですね。
単にイエスやOKじゃない、もっと積極的にそれをやろうじゃないか、むしろやりたいですよぐらいのニュアンスがビシッと端的に伝わってくる。それも生返事じゃなくて、一度相手の依頼に応えられるかどうか自分で瞬時に考えてみて、できない理由はないと判断したが何か気がついてないことがありましたっけ?と形だけききかえしてる。頭の回転の速さ、即断力を相手に印象づけることになるのです。
もうひとつ、「僕がNoをいう人間に見えるかい?」というニュアンスがあります。僕はキミの頼みなら90%はイエスだ、10%はよっぽど都合が悪いときだけだろ、で、今回は何の悪い都合があるの?という感じがする。だから君のことを大事に思ってるよという意味合いが出るのです。
この Why not? は前向きな人間関係の構築やメンテナンスに大きな効果があるのです。言われればいい奴だなと感じますし、何ごともpositiveにとる前向きな人間だというイメージになります。アメリカ社会ではそれは重要なことでしょう。
日本語でそれを伝えるのは難しいですが、すぐできそうなことなら「もちろんです、喜んで」、やや難し目なら「やってみます」が近いでしょう。やってみます、は決意表明だから即断力を感じます。しかし、英語だと I’ll try it. ですが try ですからできない可能性も含んでいる。それでも挑んでみたいということだから何ごともpositiveにとる前向きな人間だというイメージは確実に伝わります。頼んだ方も、難しいんだな、できなくても仕方ないな、苦労してたら助けてやろうかなという気持ちになりますからプラスです。
ところがきく話だと、頼んだ上司がそういう気持ちにならない会社、つまり部下は使い倒すだけでそこに人間的な感情や痛みをもたないことという文化の会社があるようです。例えば非正規雇用だとそうなるとか。そういう人間を僕は「爬虫類」と呼んでいます。爬虫類はどこにもいますし、上司は選べませんが、会社全体が爬虫類的である場合、一般にブラック企業と呼ばれる傾向がある会社の可能性があります。
もしあなたが本稿を読まれて、僕が書いたWhy not?や「やってみます」になるほどと共感できる感性がある方なら、あなたは人間関係を前向きに進展させる良いものをお持ちです。まちがいありません。そういう会社への就職は避けられた方がいい。入ってしまったなら辞めるというのも選択肢です。あなたの良さを認めてくれる組織にいたほうが人生幸せになると思います。
その裏返しになりますが、経営者が部下に何かチャレンジさせてほしいと訴えられた時はどうでしょう。有名なのが松下幸之助の「やってみなはれ」です。これはけっこうWhy not? に近いニュアンスを感じます。しかも経営者の言葉ですから大きな迫力があります。字義的 には Try it! であり、 try なのですからできない可能性も含んでいる。そのリスクは経営者にあるのです。この言葉は部下を燃えたたせpositiveにしたことでしょう。頼んだ方も、経営者が難しい決断をしたんだな、失敗は許されないぞ、という気持ちになりますからプラスです。そうなれば会社はしめたものです。
ところがそうは問屋がおろしません。世の中うまくしたもので、部下にも爬虫類がいるのです。上司にリスクを押し付けながらうまくやる奴が。殿の仰せの通り!と言っておいてうまくいったら自分がやりました、失敗したら人のせいにして巧みに逃げる。どこの会社もこれだけで飯を食ってるサラリーマンの達人みたいなのがいます。
何ごともpositiveにとる前向きな経営者だというイメージは部下を常に勇気づけますが両刃の剣でもあります。自分で考え、結果責任を進んでとる有能な部下が育つ反面、爬虫類も増えます。だから冷徹な目で爬虫類は切らなくてはいけない。そういう企業は伸びます。松下幸之助はそういう方だったようです。
以上、何か頼まれた時に返すたった一言のお話です。そこに文化が投影されますし、人間性がにじみ出ますし、人をやる気にさせたりやる気を喪失させたり、会社ですとけっこう怖い人事評価にまでつながってくる可能性すらあります。人の印象や会社や仲間内、世間様での評価に大きく影響しているのは、自分で意識して作っているイメージよりもそういうちょっとしたことだと僕は思っています。
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人に頼られるということについて
2014 OCT 18 6:06:03 am by 東 賢太郎
元いた会社の人がたくさん読んで下さっているということをいろんな人からきいて知っている。だから匿名もわかってしまい、みだりに公表できないこともある。それでも本稿をいま書くのは意味がある。
もうだいぶ前になるが元の会社で同期だった男が、退職するといってきた。入社した時から40で辞めると決めていたんだよとさらっと言い放った。そこで移籍した先が何年かして上場し、株主だった奴はそこも辞めて悠々自適の生活にはいっていた。サラリーマン辞めると朝飯がうまいんだよ、初めてそう思ったよなんて。
当時あの会社に入る連中は多士済々だったが8割はすぐに退社するか2,3年で競争から脱落した。昨今のパワハラ、ブラックなどという言葉をきいてそれがどうしたのと笑ってしまうぐらい凄い会社だった。残って上に行ったのは傑物も多く、下士官クラスの時分にはもう名前が社内中に知れわたっている。それは学歴なんかでは一切なく仕事ができるかどうかだけだ。
アメリカでクラスメートなんかに「40歳でリタイアして本当にやりたいことをやるのが夢だ」なんて話も聞いていたものだから、お前はうらやましいと奴に会うたびに言っていた。本音だ。経済的に大成功でもしないと裕福な脱サラなんて夢のまた夢だ。
ところが奴はだんだん、「俺もそう思ったよ。40で夢を達成したと思った。でも最近そう楽しくもないんだよな」 とぼやく。人生カネだけじゃないんだというなら普通の話で、そうじゃなかった。何でだときくと 「だって、誰も俺を頼ってくれないんだ」 とぽつりとつぶやいた。
会社生活で年季が入ると人に頼られるという経験は誰もそれなりにあるだろう。それを意気に感じるか重荷に感じるかは人それぞれだが、奴は同期トップで部長に登りつめたやり手、押しも押されぬエリートで、チームのリーダーでもある。大勢から頼られまくっていた男であった。
さてこっちははどうなったかというと、こっちはこっちの経緯で退職すると腹を決めたのが2004年、49歳になっていた。これは人生の大きな転機になった。噂がちょっと出たぐらいで3つの会社からお誘いの電話があってびっくりした。発表されたらいくつかの経済誌に勝手記事を書かれた。
まっさきに電話があったところは上場会社で、僕が何者かを骨の髄までよくご存じだった。いきなり株主総会で常務にするからとポストを約束して下さった。社名もトップなら条件面も最高、責任と権限も非常に明確だったから心が動かなかったといったら嘘になる。お忍びで3日連続社長室で話をきいた。仕事は僕の守備範囲であった。
次に来たところはポストはいままでと同じ部長であった。上級部長らしかったが、その責任と権限は、正直のところ元の会社とあまりに仕組みが違うのでよくわからなかった。僕個人についてはそうご存じではなくその時点では元の会社のご威光で声がかかったものだった。元の会社の大先輩方がいらしてそのヒキだと元の会社では思われていたが、そっちへ話が聞こえたのはずっと後だったから黙っていたお詫びにひと苦労した。
1週間ほど考え、後者にお世話になることに決めた。理由は二つある。まず、ここだけがオファーが「プライマリー」という仕事だったことだ。僕はその業務経験がぜんぜんなかったが、いずれ独立起業するためにはそれをやっておきたかった。経験ないですよ、野球とサッカーぐらい違いますがよろしいんですかと自分から正直に申し上げたらいいと即答だった。リスクを取ってくださる、それなら僕もリスクを取ろうと思った。自信は特になかったが、だめでも他で何とかなるさという自信はあった。
二番目は、その時その会社に行けば頼りにされるかもしれないという空気がなんとなくあって、それが心に沁みたことだ。元いたところは流れが変わっていてそう感じなくなっていたことが辞める最大の原因になっていた。人間必要とされるところで働きたいのは誰も一緒だろう。しかしその時はそのことがいかなることよりも大事でハートに強く響いたことはまちがいない。
一番目はやってみたら何ということもなかった。結局、二番目の方が僕のような人間にとっては大きく、その会社を「世の中がぎゃふんと言うほど勝たせたい」と本気になる決定的な原動力になった。そして元いた会社には大変申し訳なかったが大事なところで大いに勝ち、業界ではそこそこ話題になってまた経済誌にネタを提供することになった。お金のために出ていったのでは断じてないことだけはご理解いただけているのだろうか。
だから結果論といわれればその通りだしまだ結論とするのは早いが、僕は奴とは反対のことになったと考えている。経済的に成功するか頼られるか。僕は頼られる方が大事だった。経済的に成功してないで負けているのはいまでも悔しいが。奴と特に親しかったわけではないが、元いた会社で出世頭でいながらすんなり辞めた、権威に媚びないあのいさぎよさとポリシーを貫いたひょうひょうとした姿勢。数ある優秀な同期の中で影響を受けた男のひとりである。
(追記、16年2月2日)
膵臓がんで亡くなった本稿の「奴」、Aがスイスに出張で来て、「お前はうらやましいぜ、こんなとこの社長、一度やってみたかった」というので日曜に山に連れて行ってヘリコプターに乗せてやった。部下だけお供して「お前は?」と不思議がったが、高所恐怖症なのは教えなかった。
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自分で感じる運気のこと
2014 OCT 15 2:02:59 am by 東 賢太郎
毎年この時期になるとプロ野球の戦力外通告の話がでる。ヤクルトの岩村明憲や藤井 秀悟の名前もある。ヤクルトファンではないが神宮で見るしかないので実は最もよく見ている。藤井はDeNAにいるが去年阪神戦を見に行って好投していたのがまだ記憶に新しい。トライアウトに挑戦するようだ。使ってもらえるならやりたいという気力はえらいと思うし、ぜひもう一度チャンスがあればいいなと思う。
自分も職業人としてはとうの昔に峠を越している。それは50才あたりから感じだし、55を過ぎてからは年々下降するのを自覚している。それには勝てないし、無理に筋トレやランニングをしたりで自然に抵抗する気はない。その時間があるならば、そうではなく今しかできないことをやっておきたいと思う。
10年前までは頑張って仕事をこなす、取りに行くというスタンスで生きてきた。それはまだ諸欲が旺盛だったからのことだ。ところがこの5年、諸欲は明白に減退している。欲しいものがなくなってきた。僕は権力欲、名誉欲は元からあまりなく、物質的に欲しいものが減れば金銭欲も消える。
やりたいのは旅行ぐらいだが海外はもう充分満足である。一生分やった。もう欧米には行けなくてもあまり悔いはないし、未踏破の国はあまり関心がない。国内は未踏破県もまだあるが温泉と味覚ぐらいで充分、あるなら歴史スポットめぐりぐらいだろうか。
音楽というのもずいぶんいろんなものをきいたが、今から英雄交響曲みたいなものに新たにめぐり会うことは絶対にないと自信あるほどにきいてしまった。
そう書くとなにか寂しい余生みたいに見えるが、べつにそうなったらなっただし、それが嫌さに力んでみたとてたいしたことは起きないだろう。55で自立して4年、もうくり返したくないような思いをたくさんしてきたが、それでもちゃんと生きているし家族も養えているのだからよかった。そのおかげで何もしなくても何とかなるさという腹のすわりができてしまった。
トライアウトを受ける野球選手の気持ちはわかる。過去の実績は関係ない。今できることで使ってくれる球団があれば幸いですというスタンスはとてもいいと思う。身の丈を自ら知る人だけが入ることのできる境地だろう。
年齢、体力、気力、諸欲の問題ということばかりではなく、自分で感じる運気というものもあって、当分は流れに棹をさすことなく粛々と生きることが色々な観点で最善と思っている。頑張らない人生というのは初体験だが、なにかすがすがしいようにも思う。
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サラリーマンと大器晩成
2014 SEP 23 11:11:53 am by 東 賢太郎
父方の祖父は僕が小学校3年ぐらいで亡くなったが、手相見が当たるので有名な人だった。そのことでひとつだけ覚えているのが、僕の右手の平をじっと眺めて、「この子はタイキバンセイだよ」と諭すように父に言ったことだ。大きな声だった。だからだろうか、その声までくっきりと耳に残っている。もちろん意味など分かる由もなかったが、何か悪い意味ではないなとだけ思った記憶がある。
もう来年60だから、その時の祖父の歳に近いだろう。バンセイするならそろそろしないとおかしいな、なんて勝手なことを思う。これからはこの祖父の予言を胸に抱いて生きていくことになるだろうか。
しかし、だ。若い時に何でもない人が齢をとっただけで晩成するもんだろうか、とも思ってしまう。そういう人は若いときから大器なんじゃないか。英語では人間が練れてオトナになった状態をmatured というが、大器が花咲くという感じではない。これは日本的、あるいは東洋的な大人(たいじん)という概念だろう。
人間には旬がある。スポーツ選手だと10代後半から20代までだろう。たしかに40代のプロ野球選手はいるが、その彼らだってその頃から立派に大器だったのだ。大器晩成なので40歳でドラフト1位指名を受けましたなんてことは絶対にない。
一般の社会人でも、仕事の種類はちがってもやはり旬はあるだろう。体力、知力、経験値がベストのブレンドになるのはおおよそ30代ではないだろうか。証券業で見る限りはそうだ。99%の人はそのあたりで最も脂がのった良い仕事をしている。
旬などとうにすぎているのに、つまり自分でできることの峠は越しているのに、何か大きな力を持っている人だろう、大人(たいじん)というのは。He has great power as he is matured. なんて西洋人に言ってみたところで何のことか通じないだろう。だからこれは儒教的、東洋的な世界でしか起きないことと思われる。
僕は祖父の占ってくれたバンセイを固く信じている。しかし、それでいながら、30代の旬の頃、絶頂期だった自分には何をやってもかなう気がしない。それは、いま仕事で固く結ばれているのはみなあの頃の僕を知っている人たちだということでもわかる。彼らも30代、全盛期だった。お互いガキで地のまま、必死だった姿を知っている。
だから彼らとは今でもごまかしは利かないし背伸びの必要もない。裏切りは絶対にない。お互いに、この仕事を頼めばどういう結果になるかほぼ正確に予測がつく。しかし、40を過ぎてから知り合った人は、野村で一緒に苦楽を共にした人ですら、言葉の端々でああ誤解されてるなとがっかりする。それが良い方の誤解であっても。
それは自分の責任だ。管理職になるころには社内では一定の評価、評判ができあがっている。400人も部下のいる組織に辞令が出ると、異動先では「あの人は・・・」と前もって噂され尽くしている。仕方ないのと面倒なのとでだんだんその通りに振舞うようになってくる。そうするとみんな安心する。それを見てこっちも安心する。
マネジメントとしては楽であるがこれは一種の役者だ。サラリーマンが嫌になった理由はいろいろあるが、本当の自分でない虚像につきあっていくのが疲れたのもそれだ。組織のトップが地のままで勤まるような人は生まれつきのリーダーだと思う。僕はそんな人とは程遠い普通の子で、学校時代は人前でしゃべるのも苦痛だった。
ビリー・ジョエルにHonesty(オネスティ)という名曲がある。彼はこう歌う。
But I don’t want some pretty face
to tell me pretty lies.
All I want is someone to believe.
そういうことだ。30代のころの仲間にあるのは、鉄壁の信頼だ。虚像でつくった信頼はそれも虚像でしかない。自分が脱ぎ捨ててしまわないといけない。そう思ったのでガラにもなかったブログなんかを書いてカミングアウトしている。しかし、書けばかくほど、虚像がなければ30代の自分には逆立ちしてもかなわないということがわかってくる。
権力や権威目当てに生きて勲章をもらうような人はそういう葛藤はないのだろうか。周囲にいないので知らないが、人生の最後になって今が旬だと思えるなら幸せな人生だ。でも僕には、失礼を承知で、あれは生きながらのオマージュに見える。勲章をくれる側の権力、権威に一生を捧げた返礼としての。
祖父がいったバンセイは、今の僕の悩みを乗り越えることだと思っている。幸い50にもなって恵まれた仲間が増えている。それはサラリーマンの同僚とは天と地ほどちがうものだ。これはとっても大事なことだ。someone to believe は「裸になって必死にやっていること」でしか現れないのだと気づいてきた。
30代の自分はまだ虚像なんか欲しくたってなかった。毎日が必死だった。だからこそ信頼できる仲間ができたんじゃないか?旬の時期の自分なら必死になれなかったことがある。50%の力で出来たことが今は必死にならないとできなくなってしまってもいる。それは実は良いことであって、次へのステップになるのかもしれない。それは真の意味で、何ものからも自立することだと考えている。
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