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カテゴリー: 自分について

米国との殺し合いに思う

2014 SEP 14 23:23:55 pm by 東 賢太郎

「米国放浪記」の楽しい思い出にひたった次の週、アメリカと殺し合いをした島に出張。この1週間での気持ちの落差は巨大です。帰りのグアムではアメリカ企業のホストで夕食会をしてもらったので、こちらからはある相談をしました。アメリカさんが好きになったり嫌悪したり、はたまた頼りにしたり。俺ってなんなんだろう。

不思議とクラシックを聞く気がしません。帰国してまだ一度も聞いてません。あれほど入れ込んでいたゴルフはもう1年以上クラブに触ってもいないというのを昔の知人は誰も信じないでしょうが、一番信じられないのは僕自身です。当時にブログを書いていたら、ほとんどの記事はゴルフだったでしょう。いま音楽がそうなってちっともおかしくない、自分はそういう人間になったかもしれないと逆に思うほど。

自分にとって大事なもの、生きていく糧になるものは「関心事」です。趣味とはちがいます。趣味は一生続きますが、関心は消えることがあります。僕は生来、関心事の領域が極度に狭い人間です。天文と野球と猫はいつでもそれで、ゴルフがそれだったこともあるし、クラシック音楽は今までそうかもしれませんが、仕事がそれだったことはほとんどありません。だからサラリーマンの宮仕えは、もちろん懸命にはやったのですが、僕の人生における重みという意味では僅少だったわけで、起業していま初めて仕事が重くなったと思います。

では今の最大の関心事は何かというと、「国」なのです。国ってなんなの?日本国のために300万もの日本人が亡くなった。でも、国にそんなに価値があるものなんだろうか?という疑問があるのです。国とは国民の幸せな人生を守るためにあるはずです。戦争で人生を終えられた方は、ご自分に幸せはなかったわけで、ではそのおかげで誰が幸せになり、亡くなられた方々に誰がどこでどう感謝しているのか?チューク島を見たことで、そのことがまったく分からなくなってしまったのです。

現代人が国と呼んでいるのは、少数の例外をのぞいて国民国家(nation state)のことです。しかし、ヘゲモニー(覇権)というものは昔からあっても、国民国家なんて19世紀半ばまで世界のどこにも存在しなかったのです。日本も徳川時代が終わるまで、誰一人として自分が日本国の国民であるなどとは思っていなかった。なくても良かったものに何故300万人も死ぬ必要があったのか?これが今、どうしてもわからないのです。

これは何故あんな勝てない戦争を始めたのかという意味ではありません。日本国という国体に内在した不条理のことをいっています。では反対側から考えて見ましょう。アメリカは300万人を殺して何を得たのでしょう?なぜ日本を防共防波堤として属州にしなかったのでしょう?日本という国体や天皇家を尊重してくれたのでしょうか?そうとは思えない。そんなお人よしがあんな所業を働くはずがないのです。何か国民が知らない理由があるはずなのです。

では国民の側から見て、もしも昭和20年に日本が全国土を米軍に占領されてハワイの先の州になっていたら?天皇制はなくなり政治家は失業しただろうが我々民衆はどうだっただろう?不幸な人生になっただろうか?そうでなくても西洋かぶれが跋扈してアメリカの亜流に憧れる国民であふれています。ならばアメリカ人になってしまえば?2年間米国に住んだ僕は知っているのです、それはそんなに悪いもんでもないことを。

僕が日本を愛する理由はただ一つ、父祖が、両親が、日本人だからということだけです。生まれた国を愛する義務感からでも、安倍晋三が唱えた「美しい国」だからでもない。先祖の尊厳を異国民に汚されたくない、それだけです。異国民が嫌いなのでもない。子孫が外国人と結婚しても、その人が妥当な人であるなら、それはそれで何でもないことです。君が代は歌うし日の丸に起立もしますが、それは父祖の国だからです。僕の愛国とは、ひとえに家族ゆえのfamily issueなのです。

そう思う方は実は多いのではないかという気がします。忠君愛国というのは日本国というnation stateが保持できないと困る明治以来の既得権者の都合ではないか。だから天皇は神でなくてはならず、神道を起こして仏教を排した。神なのに、それまでの日本史では征夷大将軍にあったはずの陸海軍統帥権を持たせた。これは長州閥が牛耳る陸軍が玉(天皇)をいただいてnation stateを支配する仕組みです。

もしそうなら愛国のフィクションで偽装ボランティアとして従軍し、死んでいった人たちにたいする国家の殺人だったとさえ思います。その国家というのが何たるやといえば、実は天皇すり替えで薩長がテークオーバー(乗っ取り)したものであり、明治維新という事後的に与えられた美称によって国民を欺いているもの、その真相を知っていた西郷隆盛が、薩長を陽動したグラバーらの英国の奸計に気づき西南戦争を仕掛けたものだったのではないでしょうか。

いま僕は職業上、経済上の自由を得た身として、自分だけの時間、つまりショーペンハウエルが人生で最も貴重とする真の「孤独」を得ることができつつあるかもしれません。充実した内面世界を有する者にとって孤独というのはなにかというと、物理的心理的な孤立ではなく、意味のない人や物と接しなくても良い究極の権利、いわば「孤独権」のようなものです。釣り人の夢でいうなら、これこそを夢見て僕は長年働いてきたのでした。

僕が国家に求めることがあるとすると、この「孤独権」を保護してもらうことでしょう。他国、他民族、暴力に蹂躙されたり、財産を没収されたり、法律や宗教で自由を侵害されたりしないことです。それが相応なプライス(税金)で買えるなら、僕は喜んでその国に住むことになります。権力を持つことは孤独を損なうので矛盾です。だから他人に、僕の孤独権を保護できるだけの権力、ヘゲモニーを持っていただくしかありません。選挙では、その仕事をまじめにしてくれそうな政党と候補者に投票するのみです。それがいなければ、仕方ない、海外移住することになると思います。

 

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僕の唯一の迷信

2014 SEP 13 0:00:29 am by 東 賢太郎

 

特に迷信深いことはないが、ひとつだけある。メガネを壊すかなくすことだ。そうすると必ず仕事で何か起きる。良いのも悪いのもあった。過去に3回あり、3回ともすぐに普通でない大きな変化があった。一度はロンドンで、一度は北京で、オフィスで神隠しの様に消えた。金縁でもない使い古しのメガネを誰が盗むものか。そう言ってみんなで探し回ったが、ない。一度は伊豆の温泉で、理由もなく壊れた。

 

そして去る8月21日、また壊れた。古かったからかもしれないが気味が悪いのでそれ以来かけておらず、かけるつもりもない。ミクロネシアへは別なのを携帯した。

 

そうしたら、帰りのグアムのホテルで、心待ちにしていたメールがついに来た。吉報だが、まだ安心とまではいかない。本当なら興奮ものだ。今回はこれが「それ」なのか?

 

そうしたら翌日の午後にホテルがゆれた。地震?ここはグアムだ、まさかと思ったが、ネットで調べたらまちがいなくM4.8だった。

 

こうも色々あるとかなり気味が悪くなっていて、翌日昼の帰国フライトはいつになく緊張した。ただでさえ高所・閉所恐怖症+パニック障害で、椅子に縛られるのは床屋ですら耐えられない。だから窓側席は危険だが、通路席が東京では予約できていない。なんとか取れ、ワインで爆睡して事なきを得たが、飛行機はほんとうにいやだ。あのメールの通りになるなら、今来月はまた海外出張、また飛行機だ!こまったものだ。

 

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伊藤博文と太平洋戦争

2014 SEP 10 11:11:26 am by 東 賢太郎

a9cf0dfac6385096bfdc8e7a81155e90僕の母方松崎家は信州伊那出身、明治の横浜生糸商、田中平八の姉が母の曾祖母である。前職にあった時分、伊那支店長に案内されて平八の駒ケ根の生家である藤島家のご当主宅を訪問し、平八にまつわる貴重な資料や本をいただいた。ご当主の顔立ちが僕のいとこに瓜二つでぎょっとした。

夏の伊那谷から望む南アルプスは実に素晴らしく、2年半を過ごしたスイスを連想した。武田が最後の攻防をした高遠城に立ち、藤島家は武田が落ち延びて竹村姓を名乗った末裔と聞く。現代日本人の多くはこうして遠く戦国武将の血を引いているのではないだろうか。温泉宿に泊まり、赤穂の山麓の美味なるそばを食い、祖父が通った飯田中学(今は高校)を見てから市長に挨拶して帰った。

横浜で晩年過ごし亡くなった平八の墓は神奈川の良泉寺にあるが、なぜか墨田区の木母寺に伊藤博文の揮毫により、平八のニックネームである「天下之糸平」と書かれた、高さ3mある石碑が建立された。中学ぐらいの頃、母の長兄が一族引き連れて法事の折に両方の寺へ連れて行ってくれた。

 

平八と伊藤博文。どういう関係だったかは正確には知らない。早乙女貢著「天下の糸平」(文春文庫)によると平八は商人ながら水戸天狗党の乱に加担して江戸の牢につながれた。思想的原点は横浜閉港を訴える佐幕攘夷急進派だったわけだが、その後なぜか池田屋事件で新撰組に斬られかけている。

ということは討幕急進派の長州に合流していたことになり常識では量り難いが、ともあれ明治新政府が石碑を建ててくれるまで感謝されたのが史実だ。商人の身で政治に関与したのは祖父が公家だったからと思われるが、今後調べたい。

その伊藤ら長州閥が孝明天皇を毒殺し、睦仁親王を誅して大室寅之祐にすり替えたという説が歴史家の鹿島曻氏によってとなえられている。太田龍氏の「天皇破壊史」(成甲書房)にもある。大室寅之祐は山口県熊毛郡田布施町出身で、吉田松陰の命を受けた伊藤博文と木戸孝允が養育していた。

このような俗説を信じるかどうかに当たっても科学的な態度を重んじたいが、この田布施町は岸信介、佐藤栄作と2人の内閣総理大臣を出した日本唯一の「町」である。岸の孫である安倍晋三、大室寅之祐の末裔である橋本龍太郎まで入れると4人である。偶然とは思い難い。

江戸時代、朝鮮は不倶戴天の敵秀吉を倒した徳川幕府とは蜜月関係にあり朝鮮通信使を何度も送っている。それが明治新政府になるとむくむくと征韓論がわきおこるが、強硬に唱えた一人は田布施一派の木戸孝允であり、その妹の子、木戸幸一は昭和天皇の側近として東条 英機を首相に推薦し太平洋戦争開戦に関与した。

300万余の国民を殺したこの戦争への突入と明治新政府の略奪的成立に目をつぶり日清日露までを美化する司馬史観は国民に一時の高揚感こそ与えるが、現実を直視しない国民は道を再度誤るリスクがあると思う。孝明天皇暗殺説に証拠はないが、そう仮定した帰納法は少なくとも日本史の教科書の記述よりも上記の事柄を整合的に説明するように思う。

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長州田布施一派の安倍晋三が首相である我が国。仮説ではあっても明治以降の歴史の真相を知り、明明白白な論理で政治を俯瞰することが大切と思う。

僕は先祖の石碑を建てて立派な文字を書いてくれた伊藤博文を個人的には好きである。しかし私人としての是非と歴史の是非とは違う。

 

 

(追記)

きいたところによると高田万由子という女優さんは糸平の子孫らしい。そうやって辿っていくと誰と血がつながっているかわからない。おんなじ人をご先祖と勘定している、これの解答はそういうことである。  ベテルギウスは85億人の先祖を知っていた

(さらに追記)

藤島家のご当主にいただいた家系図によると、糸平の母方の祖父は「お公卿」とだけある。公卿とは天皇と姻戚関係ある貴族である。名前が明かされていないだけにとても気になっており、誰なのかどうしても知りたい。

横浜富貴楼 お倉

 

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能ある人はNOがない

2014 SEP 6 22:22:46 pm by 東 賢太郎

今日は友人と二子玉川で昼食をしました。開業して4年、近頃はこちらからではなく相談を持ちかけられることが増えました。

証券に関わる仕事というのは中々奥が深く、前回書いた運用アドヴァイスという本業以外にもさまざまな相談があります。そのほとんどは投資銀行業務にくくられるもので、本来は大手証券会社の業務範囲でしょう。しかし案件の性質上大手は使いづらいものがあり、それが人づてに回ってくるのです。

会計士や弁護士はたくさんいますが、僕のようなキャリアの人間でフリーに動ける人は少ないそうです。フィーもお安くはありませんし、数人でやる範囲しか対応できないから大証券のような執行力は毛頭望めません。しかしお客さんのニーズにはその方が合う場合があるのです。

僕は食うための仕事はもうしないと決めました。余計なことに時間を使いたくなく、お金に振りまわされる老後などまっぴらです。もう充分食うための仕事はしたし、子供は大人だし家はあるし、ないのは時間だけです。最後の日に「記憶に残っている日」が何日あるか?それが多い人生を送った者が結局人生の勝者だと思うようになりました。

ただ、自分が自分の意志でソナー・アドバイザーズ株式会社という看板を掲げており、その看板に対してご相談をいただいているのですから、会社の顔は潰してはいけない。それは僕個人の人生観とは全然別な話で、会社は作った瞬間から別人格の、ある意味で公の存在です。株主も社員もいます。だから社長であるうちは、その責任をまっとうしていかなくてはなりません。

そこで僕のモットーですが、「能ある人はNOがない」を実践することにしています。これは  評価をダウンできる5つの法則の第2条です。彼は僕が何者かを知って来ているのです。当然YESを期待してです。個人的にNOでも、会社としていきなりそう言うのは会社が能無しだとなってしまう。仮にお受けできなくても、この業界の人はたくさん知っていますから出来そうな人をご紹介ができます。

彼とはそういう背景をいちいち確認しながら、いくらいい話でもお金のために仕事はしてはいけないのだという人生観の確認をした2時間になりました。それに値するか?という問いをお互いに考えることにして別れました。

 

 

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米国放浪記あとがき-若者に贈る僕の三原則-

2014 SEP 4 0:00:20 am by 東 賢太郎

 

米国放浪記を書きながら、あの激動の23日間を再び辿れたのはなにより新鮮でエキサイティングな体験でした。まるでタイムマシンでもう一度あの旅に出かけたようで、先の結末はわかってるのにワクワクしてしまうのに驚きました。ブログを途中から読んだ人から 「アメリカに行ってたんですね」 と電話があり、いや実はということになりましたが、そういいながらまるで先週ロサンゼルスから帰ってきたみたいに興奮しているのですから妙なものです。

今回ほど日記というものの威力を思い知ったことはありません。もちろん旅の記録として写真もいいのですが、もしあそこに写真があったら電話の主もそうは思わなかったでしょうし、僕自身も文章をすべて「過去形」で書くことになっていました。それは37年も前の日記を書き写すだけの退屈な作業になり、1回のブログで終わったと思います。しかし書くうちに、不思議なことに記憶がどんどん蘇ってきて写真に頼る必要が全くなくなってしまったのです。

皆さんに37年前のグランドキャニオンや記念写真をお見せしても意味がないということもありますが、それ以上に、それを「過去形」にしてしまうのが僕の中で無理になりました。あたかも第九交響曲を、もうなん百回も聴いているのに昨日聴いて再び感動しているようなものです。そんなときに、中学時代に初めて聴いたときの感想を、それはそれで大きなものではあったのですが、書いてみようというのはかえって難しいものです。

あの旅は僕の中で第九と一緒で37年間ずっと鳴り続けてきたものだったのです。だから22歳だった僕の人格や人間としての骨格形成に関与してきたに相違なく、人生で最もインパクトのある旅行だったと思います。あれ以来、気が遠くなるほどたくさんの旅行をしましたが、あれほど毎日のことを細かく生き生きと覚えている旅はないのです。可愛い子に旅をさせてくれた両親に感謝の言葉しかありません。

ただ記憶の有無でいえば、残っているのは強烈に印象に残る情景やイヴェントが多くあったからで、そうでない部分は37年の歳月なりに記憶がきれいに消去されています。日記に書いているのに記憶がぜんぜんないというのもあります。空想は書きたくなかったのでこれはけっこう苦労しました。でも、ないものはいくら頑張っても出てこない。そこだけぽっかり空いたホラ穴みたいに忘却の暗闇に飲み込まれているのです。

そこで悟ったことは、つまり、思い出せない部分はもはや 「なかったこと」 になるということです。ブログに書けないんですから、もう存在しないんです。写真があればいい?違います。同じことです。アルバムに貼ったスナップ写真を見たって、それは撮った瞬間の景色にすぎません。そこで笑っている僕が友達と何を話し、何を考え、何が可笑しかったりやりたかったりしたのかは10年もたてば大概わかりません。写真や動画をたくさん撮って安心するのはかえってホラ穴に飲み込まれる危険があるのです。

そう気がついて僕はあの旅行、1977年の8月のことですが、その前後の7月と9月に何をしていたか考えてみました。そして何も覚えていないことを知って愕然としました。もう見事に 「なかったこと」 なのです。いや、ひょっとして22歳だったあの年の8月以外のすべてが僕にとって 「なかったこと」 なんじゃないか?いや、そうなると大学生活の4年間だって・・・。なんだか寂しい話になってきます。

だからあの旅行に行って良かったというのは、楽しかったばかりではなく、1977年の8月が僕にちゃんと 「在った」 ことを実感させてくれることでもあります。それは僕が死ぬ直前まで在ります。ありがたいことです。この歳になると、ひょっとして人生の最後にそうやって「在った日」 が多いことこそ幸せな人生なのではないかとさえ思えてきます。お金や名誉なんかよりそっちのほうが大切なんじゃないかと。

僕の救いは、それでも手帳に簡略にその日のことを書きつける習慣が若い頃からあったことです。「学食 カレー食う 図書館」、こんな程度ですがないよりましです。これは少年のころからそうで、紅白歌合戦で何時何分に誰が何を歌ったかまで克明に書き、零時の時報と同時に「いま零時」と書き込まないと年が明けた気がしない変な小学生でした。

そうやって刻一刻と年をとっていき、だんだん自分が「できないこと」や「なれないもの」が判明してくる、それにいちいちおびえて、どうしたらそれが増えないかを真剣に悩む子でした。野球選手、天文学者、医者、次々とノーが出ます。その運命のくびきに対抗するには、受け身ではだめだという結論にだんだんとなりました。自分から反撃して不意打ちしてそれをぶち壊す必要があるという風に。

結果的に、このアメリカ旅行こそがそれだったのだと思います。僕の性格からして、大企業に就職してサラリーマンなどというのは、できないもの、なれないものが出尽くして最後に残った出がらしみたいなものです。結局力及ばずそれになってしまったわけですが、なってからもそうじゃないだろうという衝動はいつもマグマみたいに心の奥にくすぶっていました。

あの旅行は、裸一貫で食っていけるという、何の根拠もないですが、でも誰にどんな根拠を示されても揺るがない強い自信をくれました。ひ弱だった僕をタフな男にしてくれたのです。それがあの異国での強烈な経験の数々なのです。異国。これです。日本一周を何回したってそうはなれません。言葉も人間も文化も習慣も違う異国でこそです。

どうしてか?アイデンティティーが皆無だからです。僕らは世間に甘やかされた東大生でしたが、そんなものは米国では微塵の価値もないことを思い知りました。そもそも二十歳やそこらで心の中に建てたプライドという家などたかが知れています。そんな家を一生後生大事にしてリフォームして生きるより、二十歳で一回ぶち壊して更地にした方がいいのです。その方が長じてもっと立派な家が建てられます。

もっと立派な家を建てる方法。それは簡単です。それこそが、僕があの米国放浪から学び取ったエッセンスなのです。

①日記をつけなさい

②自分の頭で考えなさい

③思いっきり遊びなさい

これだけ。これが若者に贈る僕の三原則です。

①日記は「書く」ではなく「つける」のです。スケジュール帳みたいにただ事実を連ねるなら写真と変わりません。事実を書き、それについてどう思ったか感じたか、喜怒哀楽の感情、感動、願望、失望、意見、不満、自己評価、そういう主観的なことを多く記すことです。それを書くというのは昼間の自分を夜の自分が第三者目線でクールに描くことです。この訓練はあなたが将来に困難に直面した時に冷静に対処する力になります。そして、その日にあなたが生きたという存在証明にもなります。

②「自分の頭で」が大事です。ノウハウ本を読むのは禁止です。そんな本に書ける程度のことで解決できるものは人生ではどうでもいいのです。哲学者ショーペンハウエルはノウハウ本どころか読書は馬鹿になるからするなと言っています。正確には、読書は他人の頭で考えてもらうことだ、自分の頭で考えろということです。書いた他人が馬鹿ならあなたはもっと馬鹿になる。読むなら人類史で優れた部類の知性を持つ他人の本にしなさいということ。要は読むなら古典を読めということです。そうすれば人生で迷った時に自分で判断できるからノウハウは不要です。書いてお金儲けをするためだけに必要になります。

③は頭がいい秀才ほど困難な課題です。遊ぶということが分かっていないからです。分かっても「思いっきり」ということが分かりません。中途半端に遊ぶのは時間の浪費なのです。何が「思いっきり」か?自分の頭で考えて下さい。遊ぶことでしか学べないことがあります。遊びの方が世の中の原理や掟をすっきりと示してくれることがあります。それをつかみとれるほど一所懸命に遊ぶということです。学校で学問から学べることは人生のほんの一部でしかないのです。

あれっ、勉強しなさいがない?勉強は当たり前のことです。そのうえでこの三つをやるのです。日々そうしてごらんなさい。あなたの人生は必ず劇的に変わります。三原則を旅に出てするのはもっといい。10倍もいいです。どうしてか?三つとも自然にやることになるからです。旅行日記はつけたくなるでしょう?明日はどこへ行こうか、何を見ようか、何を食べようか、いくら出費できるか?自分の頭で考えるでしょう?そもそも遊ぶために旅行に来ているのでしょう?

旅はすべてが経験です。世の中に出れば、頼れるのは知識ではなく経験です。旅は、体はもちろん頭も強くします。良く、ではなく、強くです。勉強では鍛えられない部分が強くなるのです。強い頭を持つこと。メンタルタフネスを持つこと。これは将来、人生や仕事で苦難、困難にぶつかった時にどんなことよりもパワーの源になります。すべて、僕の経験です。でも昔の人の経験でもあります。「かわいい子には旅をさせよ」、この言葉には千金の重みがこもっているのです。

 

 

「遊びのすすめ」(遊びは戦争のシミュレーション)

米国放浪記(1)

 

 

 

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米国放浪記(9)

2014 SEP 3 1:01:04 am by 東 賢太郎

 

日本食断ちの結果

8月25日、ロングビーチの朝だ。10時にさあ出発となったら車のキーがない。H と I を巻き込んで荷物をひっくりかえしての大騒動となった。10分したら僕のポケットからひょっこりでてきた。最近しょっちゅう家で同様の事件をひきおこして煙たがられているが、これはボケではない。かように天然なのだ。外でチーズバーガーを食べながら 「もうオレンジジュースが飲めなくなるよな」 と3人で合点して今日は特大(ジャンボ)にした。そうしたらそれで体が重くなって動けなくなった。ガス欠というのはあるがガス満で動けない経験はない。「かったるさ頂点」と日記にある。体ごとホームシックになっていた。

それでも午後にベトナム料理屋でカレーを食べようということになった。魚のおいしい北九州育ちの I  だけは「日本食じゃないともうだめだ」と言って一人ゼゼへ出かけて行った。ひと月近く日本食から隔絶されるという経験は戦場か宇宙ステーションでもなければそうは経験できないだろう。16年の海外生活を振り返ってもこの時以来一度もないし、これからも二度とないだろう。この日の立場にいれば99%の日本人は I と一緒にゼゼへ行ったはずだ。変わった日本人だったH と僕は、いい実験台だったかもしれない。

そうはないことだからこの時の実感を一つ記しておくと、握力が増しているという顕著な感じがあって、強い男になったという気がしたのを覚えている。毎日肉を食うときっとそうなるのだ。生まれた時からそうしていればパワーが違うし、何代にもわたってすれば体格も変わるだろう。そうすれば人間性だって同じではないだろう。気候風土もそうだが、食物も人間の気質や文化に大きな影響があるのではないかという思いはこの時にできた。僕はいろんな国に行った先々で土地の人の普段の食事をしてみるが、その習慣ができたのはこのためだ。

 

メータ指揮ロス・フィルを聴く

この日は最後の2つのイヴェントの最初の方、ハリウッドボウルでロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートであった。前日の轍(てつ)から3人とも一緒だ。指揮はズビン・メータである。この当時はメータとロス・フィルのコンビはDeccaからLPを続々とリリースしていて花形だった。期待は高かったが、席があんまり良くなかった。真っ昼間の野外音楽堂というのもしっくりこず、サンフランシスコのマーラーの感動には比べるすべもなかった。前半のプログラムは記憶がない。後半がチャイコフスキーの交響曲第3番であった。これが初めて聴く3番だったはずで、まあまあいい曲だと思った。帰りに道に迷ってしまい長い時間かけて散々な思いでモーテルに戻った。「始め良ければ終わりよし」の格言通り、初めにつまづいたので終わりもだめだった。

 

さらばアメリカ

翌26日、いよいよこれが最後の日だ。10:30にハリウッドのモーテルから最後の出発をした。ビヴァリーヒルズのクレージュへ行ってお袋と妹に頼まれたバッグを買った。ハリウッドのブロードウェイでLPレコードを買ったり土産物を探したりした。夜のフライトが何時だったのかわからないが、特大のハムサンドを食べてから3人一緒にドジャースタジアムへ行った。これが最後の最後のイヴェントだ。ところが全く信じ難いことにこの試合のことは、まるでなかったことであるかのように何も覚えていないのだ。日記も 「ドジャース 5×4 勝ち」 とそっけない。

さっきドジャースのHPを調べたらちゃんとデータが載っていて、相手はセントルイス・カージナルスだったことが分かっている。いつだって野球が好きで、いつだって河原の少年野球だって見たくてたまらない僕が人生で初めて見たメジャーリーガーのゲームだ。3ページぐらいはあってしかるべき日記にこんなに何も書いてないのを発見してしまい、ちょっとほろっとした。自分のことでお許しください。掛け値なしに、来年還暦になる僕は若者3人をよくやったねとほめてやりたいのです。H 君、I  君は卒業後、別々の大手金融機関の幹部となって大活躍することになる。この旅がこんなに楽しくて、永遠の思い出となったのは2人のおかげだ。

日記はこの日のしめくくりにぽつんと「Avis(エイヴィス)」とだけ、そして次のページに大きな字でこう書いて終わっている。

「総走行距離 3566マイル=5705.6km」

その晩のこともロス空港の様子も記述はない。もちろんスチュワーデスに水を注文したこともない。みんな忘れてしまったが、羽田空港に迎えに来た父と母のほっとした笑顔だけくっきりと覚えている。

 

 

(ご精読ありがとうございました)

 

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私の忘れられない旅(1)

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米国放浪記(8)

2014 SEP 2 7:07:20 am by 東 賢太郎

 

思い出のサンフランシスコ

大変な目にあった翌日、8月20日。シスコは今日で最後になるので南北飯店でチャーハンを食べて元気をつけ、ユニオンスクエアを歩き、ケーブルカーに乗り、そしてあまりに景色がいいのでついに金門橋を徒歩で渡ってしまった。本当に若い。3人とも時間を忘れている。髪はぼさぼさ、薄汚れたジーパン、派手なTシャツ、畳のサンダル、カウボーイハットに濃いサングラスのいでたちである。僕らがどこの誰か構う者はいない。この旅はそういう日常のいっさいがっさいをぶち壊してくれるものだった。殻を脱ぎ捨てると別なことができる。

ロサンゼルスに南下する道を僕らは海岸線に沿った1号線と決めた。かなり大回りにはなるが、景色のほうを選んだのだ。運転の僕はあまり見る間がなかったが、たしかに海沿いは抜群にきれいだった。H の歓声が上がる。豪邸が静かに並んでいる。映画のシーンみたいだ。金持ちというのは万国共通で高台か水の見える場所を選ぶ。ここはその両方がある。昼時に港町モンタレーについた。有名なゴルフ場のペブルビーチが近い。別荘地と見え不動産屋が多いのは東京でいえば川奈みたいなロケーションだからだろう。当時ゴルフに興味がない僕らはここのフィッシャーマンズワーフを見物してカキを食べた。生ものなんて久しぶりだ。これは美味だった。

撃墜王になる

景色はいくら良くてもだんだん飽きてくる。運転は荒っぽくなり、海岸線沿いのくねくね道にもかかわらず結局また例の抜きっこに興じることになった。フォードは自分の戦闘機みたいに自在に操れるようになっていて「7機撃墜」とある。曲線で30-40kmは軽く速度オーバーの抜きっこだから大変に危ない。思えばこの旅行でハイウェイパトロールは2,3回しか見ていない。つかまらなかったのは運が良かっただけだろう。時効なのでこうして白状するが、若い人は絶対にまねしないでいただきたい。暗くなってきてさすがに運転に危険を感じた。昨日の疲れが出た。H にハンドルをまかせてしばらく熟睡した。ポテトチップス、ポップコーン、オレンジジュースが散らばって後部座席はゴミの山だった。

ロスに戻る

前回やっかいになったいつでも空室がありそうな3番街のジェリーズ モーテルが満杯だった。空室アリはネオンサインで vacancy と出ている。それが No vacancy とあったのだ。仕方なく別のを探した。最初に書き忘れたが、日本からロスに着いた翌日にアナハイムのディズニーランドへ行っている。珍しくて面白くて2日も遊びほけている。この5年後の留学中に家内とフロリダのディズニーワールドも行ってやはり数日遊んでいる。東京のは行ってないがだから勝手はわかる。大人も楽しめる遊園地。すばらしい。でもやはりあの感動は子供の特権みたいなものがある。子供として本場で遊べたのは幸いだった。アメリカ体験の原型となったのはマックとディズニーランドだ。それなりに王道だった。

翌21日はハリウッドへ行きプールで泳いだりした。映画などそっちのけでゼゼという日本メシ屋に行った。久々の納豆に感激したのは日本食原理主義の I だ。もちろん僕も H もうれしかったが、値段の割にあんまりうまいという味ではなかった。うまいと懐かしいとはぜんぜん違う。これならA1のステーキの方がいいなと僕はすっかりアメリカンになっていた。東海岸に留学したり海外に16年も住むことになろうとはその時点では夢にも思わなかったが、アメリカに住んでも平気だなと思ったのは覚えている。食いものだけの話だが。

ロスはたった一度来ただけなのに家に帰ってきたという感覚になるのは妙なものだ。急に安心してしまったが、ここでもコンサートと野球に懲りずにこだわった。チケットを買いたいがどこで買うかわからない。結局、翌22日にハリウッドボウルとドジャースタジアムへそれぞれ行って買えた。まだそれまで日にちがある。それなら最後にサンディエゴへ行ってこようということになる。ロスからはさらに南下だ。どうしてということもないが米国海軍第7艦隊基地、パロマ山天文台を見てサファリパークへ行ってみようということになった。その2日をまたディズニーランドでとならなかったのはちょっとオトナだ。

南国サンディエゴ

サンディエゴはロスの南方200km弱にあり、30kmも行けばメキシコとの国境である。ここは文化的にはほぼメキシコだ。素晴らしいビーチがあり青い海がまぶしい。しかし、僕が書けるのは23日にミッションベイパークで泳いだことと、白い砂浜でビーチボールでサッカーをして I が名技を見せたことぐらいだ。艦隊を見た記憶はうっすらとしかない。というのは疲れていて日記の記述がぐっと減っているからだ。こうなると37年の歳月の壁が立ちはだかる。22日には「モーテルもレストランもない」とあり「正装して49ドルのディナーをした」とある。3人まとめて20ドルの宿泊をしていた僕らには痛かった。食べたかったわけではない。それしか選択肢がなかったということのようだ。水色のスーツが最後の役目を果たした。「飲んだワインはピノット・ノイア」とある。ピノ・ノワールのことだろう。ワイン名を書いたつもりだがこれが品種名だということなどもちろん知らない。ワイン名は書いたがホテル名はない。

24日はメキシコ風の朝食を食べエスコンディドからパロマ山へ登り標高1700mの有名なパロマ山天文台まで行った。 当時は世界最大である口径5m反射望遠鏡 を有していた。天文少年には大感激だったはずだが、どうしたことかそれほど記憶がない。疲れていたのだろうか。記述がないと何も書けない。悲しいことだ。山からの復路で ライオン サファリ パークへ寄った。ここはライオン好きゆえにそこそこ覚えている。車でそのまま入る。シマウマ模様のジープがたくさんいる。馬が交尾を始めてしまい I が自慢のビデオカメラで撮った。帰国後の上映会でフィルムの半分はそれだったことが判明した。ロング ビーチのインペリアル400モーテルに宿をとり、パンナムにフライト・リコンファームの電話を入れた。

いよいよこの時が来た。長いようであっという間だった旅がそろそろ終わりに近づいていた。

 

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米国放浪記(9)

 

 

 

 

 

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米国放浪記(7)

2014 SEP 1 13:13:06 pm by 東 賢太郎

サンフランシスコと文化

8月19日、目覚めると外は雨だった。サンフランシスコは真夏というのに本当に寒いが、雨だとさらに寒い。灼熱の砂漠から都会に戻って5日目、すっかりこの気候に慣れていた僕は前の日にLPレコードを4枚買い込んで音楽モードになっていた。経験してみるとわかる。デスバレーでモーツァルトを聴きたくなる人はきっと稀だろう。和辻哲郎の名著 『風土』によれば砂漠気候は生命を殺す。人間とは対立関係にある。暑さで死ぬかもしれない日々の中でのんびり音楽を作ったり聴いたりという文化は育たない。アメリカという国は芸術が育つところとそうでないところが一日でドライブできる距離で隣にある。

もうひとつある。芸術というのは作ったりやったりする方はともかく、享受する方は基本はヒマ人である。音楽や絵など愛でても一銭の飯の種にもならない。カネの心配がなく、明日誰かに命を狙われることもなくのうのうと生きていける精神的な余裕でもなければとうてい無縁なものだろう。それゆえに、逆説的に、そんな無駄なものを愛好できるというのはカネに困ってないセレブだというステータスシンボルになると考える人たちが出てくる。僕は2週間アメリカ人を観察して、この人たちが多少成功してカネを持ったところでそういうスノッブになるだけだろうと思っていた。

アメリカと戦争して負けた当時の日本の知識人は大なり小なりそう思う、いや思いたい傾向があった。物量に負けたんだ。人間は程度が低い。良くて成金のスノッブだ。そんな連中でも使える近代兵器戦に負けたのだと。こんな国と戦争してはいけなかった、そう述懐する人の言葉には、こんな高貴な精神と文化を持つ我が国がという優越感を無理にでも確認したい心が隠れている。しかしそうではないのだ。安ホテルをハシゴする僕らのような旅行者が接するところに本当のヒマ人はいない。文化や哲学や科学を創造する精神は見えない奥の院に隠れている。いいものは自分から売り込みになど来ないのだ。

人生で初めて海外の交響楽団を聴きに行って、僕はアメリカという国家の目に見えない「階級」というものを肌で感じ取った。それは身なりやふるまいではない。そこに集まった人々の気や雰囲気とでもいうしかない何かが発している強靭なパワーだ。街で働いている人たちが小金を持ったところでとうていブレークできないような。そんな街をはいずりまわって喜んでいる僕などがとうていブレークできそうもないような。そう思って怯(ひる)んだ。その時は。サンフランシスコには全米トップ10にランクされるオーケストラがあり、オペラハウスがある。オークランドに野球の球団はあってもそれはない。あのスタンドの中国人の売り込みは正しかった。ここはやっぱりシティなのだ。

いちばん命が危なかったとき

この日、H と I はアスレチックス対インディアンスの試合を見に球場に、僕だけはサンフランシスコ交響楽団の演奏会に行くことになっていた。ベイブリッジを超えてもと来た24号線を戻り、ウォルナット クリークからイグナチオ ロードを通って野外音楽堂である演奏会場のコンコード・パヴィリオンに僕を降ろすと、二人は去った。

現在のコンコード・パヴィリオン(待ったのは右手のスペース)

この場所は街中のコンサートホールと違い、車でなければ来ないような人里はなれた丘の上である。この時、僕が彼らを球場に送って車をキープしていればよかった。球場は街中だから待たされても待つ場所はいくらもあるし彼らも野球をゆっくり見られた。そうしなかったのはコンサートが午後8時からで、終演は10時とみたからだ。まさかこの日に限って試合が延長戦になって12時を回ってもやるとは想定がなかった。

ここで僕が楽しんだコンサートはこのブログに書いた。そしてその顛末も。

マーラー交響曲第1番ニ長調 「巨人」

あんまり思い出したくないことだが記録としてもう少し詳しく書こう。終演と同時に聴衆はあっという間に車で消えていく。まだ二人は来ていない。あんなに大勢いた人はついに僕だけになった。遠くの街灯ひとつを残して電気が消えてあたりは真っ暗になった。この電気を消された瞬間の不安を、まだはっきりと脳裏にうかべることができる。ホールからは追い出され、雨上がりでことさら寒かったその晩に僕はぽつんと丘の上でひたすら二人の迎えを待つはめになった。服装はこの旅行のために買ってもらった水色のスーツだが風があってあまりに寒く、落ちていた新聞紙を背中に入れて体温を失わないようにした。一時間たってもまだ迎えは現れる気配もない。

そうこうするうち、丘の下の方から大型の野犬とおぼしき群れがこちらに音もなくやってくるのが目に入った。背筋が凍った。犬種は知らないが屈強の5-6頭だった。俊敏な足どりが何か絶望感をかきたてる。工事中のむき出しの土管があった。あわてて中に身をひそめた。すると目が光っている先頭の犬が近づいてきて僕のいる土管を向こう側から覗き込んだ。吠えもうなりもしない。じっと僕を見ている感じだった。何か考える余裕などない、ただただ体が凍りついて動けなかった。この時だけは人生万事休すと思った。何が起きたのかはわからない。不意に犬たちは一斉に僕を無視し、散り散りに足音もなく闇の中へ去っていった。

あそこで襲われていたらひとたまりもなかった。助けも来ようがなかった。僕についている先祖の霊か何かが犬を追っ払ったのだろうか?そうとでも考えるしかないほどキツネにつままれたような犬たちの退散だった。あいつらが気が変わって戻ってきたらまずい。とにかくここにとどまるのは危険と判断し、車道を延々と歩いて下った。二人は事故でも起こしたかと思った。であればもう来ないかもしれない。ヒッチハイクでモーテルまで帰るしかない。それでもしばらくは歩いている僕に連中が気がつくように運転者から顔が見える側を歩いた。そうしたらクラクションをブーブー鳴らされ、わざわざ窓を開けて「バカヤロー」と片言の日本語で罵声を浴びせていった奴らがいる。この野郎と思ったがどうしようもない。

しばらくして二人が路上を遭難者みたいに歩く僕を見つけた時はもう夜中の12時を回っていた。H も I も僕がこういう事態になっているとは想像もできなかった。それでも心配になり延長戦を途中で切り上げてきてくれたのだ。もう言葉も出ず、寒さと空腹をいやすためサンボズというチェーン店にはいった。何を食べたか記憶もない。ケータイのある今ならこんなひどい目にあうことはない。いい時代になった。日記には 「死ぬ思いをする」 とだけある。この放浪で3度目の、それも最もシリアスな死にかけだった。

 

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米国放浪記(8)

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

 

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米国放浪記(6)

2014 AUG 31 18:18:54 pm by 東 賢太郎

 

憧れは現実が凌駕することを知る

8月15日、オークランドのモーテルを午前10:45に出発するとすぐにスタンドに寄って憧れのサンフランシスコへの道を聞いた。今度は近すぎてあきれられた。ガスを入れ、車のコンディションにナーバスになっていた H がオイル点検をたのむと中国人風の店員が「換えた方がいい。でも都会のは汚いよ(It’s dirty in the city)」とシスコに行く前にここで換えろと暗に脅す。すごいセールストークがあるもんだ。そんなのに騙されるほどジーンズにTシャツにタタミのサンダル履きの僕らは馬鹿者に見えていたらしい。オークランドはシティじゃないというのは学習だった。だからジャイアンツじゃなくてアスレティックスがあるんだ。

75セント払ってベイブリッジを渡るとすぐサンフランシスコである。良い天気だが橋は混んでいた。右手のフィッシャーマンズ・ワーフへ進むと、鼻にペンキを塗ったアニキのパーキングに駐車して意気揚々と歩き回る。海風にそよぐ舟、ヨット、ボートの白さがまぶしい。大道芸人やヘリコプターの発着が珍しく、しばらく立って見た。腹がへってきたのでガイドブックを見るとここの名物はカニだと書いてある。食い物に一家言ある I が「カニ?日本人だよ、俺たち。そんなのどうせうまくないよ、もっと安パイで行こう」と言う。そこまでの経験から説得力があった。あちこち探し回って、ちょっと値の張るスパゲッティ―にした。舌鼓を打つとはいかなかった。久々にうどんを食ったと思えばいいよな。全員が打ったのは相槌だった。

 

安いものは安物であることを学ぶ

そこの主人が安いモーテルを教えてくれた。オアシス・モーテルだ。探しまわる僕らの前に立ちはだかったのは急な坂だ。さすがのフォードも登らないんじゃないかとビビった。「ものすごい あぜん!!」と日記に大書している。国分寺崖線を喜多見から成城学園にあがる不動坂というのがある。あれが僕の急坂だったが、ここは街中が不動坂みたいなもんだと思った。モーテルは坂の途中にあった。26ドル、たしかに安い。あの店、味はひどいが情報はさすがだと喜んだ。ところが入ってみると何もかもがすさまじいオンボロだ。ロビーにシャンデリアのつもりらしい物体がぶら下がっているのを見て、スパゲッティと似たもの同士だったことを合点した。エレベーターは階段なら3往復できるぐらいの速度を実直に保った。「これは江戸時代のだね」、部屋の電話を珍しそうになでながら H が言った。

夕食をとろうと外へ出て、H は「涼しいね」と言った。僕は「寒い」と、I は「こごえる」と言った。同じものでも人間の反応は違う。天安門ガスステーションで給油していたら「日本人に道をきかれた」と書いてある。面白かったのだろう。将来ソウルの路上で韓国人に道をきかれることになることを僕はまだ知らない。昼のスパゲッティの仇討ぐらいの勢いで僕らは一路、チャイナタウンを目ざしていた。うまいラーメンが食えるならもう何を捨ててもいい。いちばん良さげに見えた湖南楼に入り、まずクアーズを飲んだ。ビールというとそれになっていた。うまかった。そして待ちに待ったポーク・ヌードルが来た。東洋の味に飢えたオオカミみたいだった僕らは、「うどんを食ったと思えばいいよな」、と二度目の相槌を打った。

ここで日記は 「半分すぎた 気持ちをひきしめる」と書く。

翌16日。市営パーキングの地下4階に車を停めるとHが三菱バンクで金をおろした。370ドルの後遺症は大きかったのかそれでV8を飲み感激していた。想定外に寒いということで、デパートのメイシーズで服を買おうということになった。靴や帽子のでっかさとセンスの悪さには笑いをこらえるのに苦労した。やっとカッコいいジャンバーをみつけ140ドルで買った。このデパートで意見が割れた。HとIは大リーグの試合が見たいといいだした。僕はそれに心が動いたが、サンフランシスコ交響楽団も聴きたかった。夜はチャイナタウンに再度挑戦となる。麺はだめだということでご飯ものにした。牛メシの出来そこないみたいのが来た。餃子が主食になった。やけくそでウィスキーのオールド・クロウを買って酒盛りをした。これがまた不味かった。浪人したHと僕はなぜか駿台の話でもりあがった。

 

後悔は37年も先には立たず

翌17日はゴールデンゲートブリッジを渡った。市電にのってあちこち行ったはずだが日記には何も書いてない。18日もたいしたことを書いていない。食い物ばっかりで恥ずかしいがよっぽどスパゲッティに飢えていたのがカン詰を買ってまた大ハズレしている。良かったのはメキシカンステーキとビールのドサキスだけだ。記憶は消え去っているから何をしていたかわからない。都会は刺激に満ちている。しかしそれはみんな所詮が人工物だ。作った者の計略通りカネ目当ての刹那の刺激をもらうだけなのだ。自然は打算がない。退屈に思えてもこうして37年たってもずっしりと残る何物かを与えてくれる。後に僕はこの街に仕事で何度も来る。海外のいろんな都市でいやというほどの時間を過ごすことにもなる。ヨセミテに一週間でもいればよかったのだ。

気持ちをひきしめた僕は一人でオーケストラを聴くことに決めた。二人はアスレティックスとインディアンズのチケットを買った。これが大変なことを巻き起こすことになるとも知らず。

 

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米国放浪記(7)

 

 

 

 

 

 

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米国放浪記(5)

2014 AUG 30 19:19:03 pm by 東 賢太郎

 

グーグルマップで推理する

日記というのは登場人物は自分なのだし、確実に自分のしたことを書いている。それでも40年近く前のこととなれば細かいことはほぼ忘れているし、文字も解読不能だったり意味不明だったり、まるで古文書だ。

そこで本稿を書くにはグーグルマップで記憶をたどるという方法が有力ということがわかってきた。これはエキサイティングな作業だ。どのルートを行ったかどこに泊まったかはその刹那はあまりに自明なことだったのだろう、ほとんど書いていないので推理するしかない。マップを丹念に見ると意外なことに、ところどころに見覚えのある地名がある。見て初めて思い出す程度のかすかな記憶だが、それでも「記憶がある」ということだけははっきりと自信を持てる記憶だ。それがあればその道を通ったということであり、それをつないでいくとルートがわかるという寸法だ。

デスバレーで泊まったモーテルだが、2日間のバクチで疲れていて行き当たりばったりに飛び込んだだけで、これがわからない。ところがマップを見るうち、ファーニス・クリーク・インという単語が、日記には書いてないが、天のどこからかひらひらと降ってきた。こういうのは奇跡みたいに感じる。ひょっとしてと思い検索すると、同名のモーテルが出てくる。テニスコートもある。その場所から南下するとバッドウォーターまで20kmほどでイメージに合う。眼球が熱いほどだったことからもあれは国立公園内のモーテルで、そこまで190号線を来ていた可能性が浮上してきた。翌日もその道を西へ行っているのは別な根拠から確実なので、断定はできないがその可能性が高い。昨日「たぶんアマーゴサ・バレーあたりだったろうが」と書いたのは訂正となりそうだ。

重箱の隅をつつくようだが、そんなことにこだわっているのは理由がある。そうすることでさらに頭の奥底に埋もれていた別の記憶がおまけで降ってくる(蘇ってくる)のを知ったからだ。眼球が熱いなんてあれ以来一度もないのにその感じをちゃんと思い出した。するとその時のほかのことを体が思い出した。こんな経験は初めてだ。人間の記憶メカニズムは面白いと思う。なにか脳が若がえった気がして元気まで出てきた。それからもうひとつ理由がある。これを読んで同じ行程を行っていただく積極的な意味やメリットは何もないが、こと僕の子孫であればそれも一興かもしれないと思った。だからちゃんと辿れるようにしてあげたいのだ。

さらばデスバレー

starlight-motelバッド ウォーターを後にして、僕らは190号線でデスバレー国立公園を横切り、395号線を北上してビッグ パインという街のスターライト・モーテルに宿をとる。これは日記に名前があるから確実だ。これも現存するようなのでネットの写真を貼っておく。モーテルというのはおおよそこういう感じのものだ。ここで虹を見た。「魔女みたいなばあちゃん」のレストランで食事し、シャーベットを食べ、バーへ行ってビリヤードに興じている。ハシゴを試みたがそっちの店では21歳未満と思われて断られた。日本人はだいたい子供に見られるのだ。

翌8月14日、9時に起きると395号線をさらに北上。ビショップ(書いてないがこの名も記憶にある)を通過して約150kmさきのリー ヴァイニングの家族経営の店でフレンチトーストを食べた。この町はネットで見ると海抜2067 mとあるから富士山でいうと四合目あたりまで、マイナス85mから一気に登ってきたことになる。リー ヴァイニングはヨセミテ国立公園の東の玄関口だ。左折するところをわからずにモノ湖まで行ってしまい、引き返して120号線をひたすら西に進んだ。

ブレーキのジョーと死闘

ここまで走ると僕は運転に死ぬほど飽き飽きし、いらいらしていた。ペーパードライバーの H にやらせるのは不安だし、I は免許を持っていない。仕方ない。山道なのに前の車を追い回してこずきまわして抜くことだけ楽しみにした。だいたいみんな怖がって路肩に逃げた。運転は男勝りにうまい母親の血を引いてうまかったが、いま思えばただの暴走族だ。ところが僕に対抗してくるダッツンが目の前に現れた。いまだ!っとアクセルに足をかけるといいタイミングでブレーキを踏んで牽制してくる。神経戦だ。「こいつはてごわい。ブレーキのジョーだ」。よくわからないがH がそう命名した。

ヨセミテ・ヴィレッジは広大な公園のへそに当たる。徐行運転に入ったところで熊が目の前を横切ってびっくりした。車を停めると「ジョー」が降りて近づいてきた。ものすごい髯もじゃで熊よりも熊みたいなにいちゃんだった。僕に向って何かひとこと言った。文句やケンカを売るという感じではない。日記にその言葉は Life is a but dream. と殴り書きしてあるが、文法が変だ。Life is a bad dream か Life is but a dream. のどっちかと思われる。後者かもしれない。「坊や、人生はうたかただ、気をつけな」。ジョーは熊どころか哲人だったと思うことにしている。

車は元気、僕らはガス欠

ここからは歩くしかない。370ドル落とした H はカネがない。写真を撮るまねだけ。数十メートルもある巨岩やら水無しの滝やらを見物したが、なにぶんこの2日で火星と金星を見た直後だ。たいしたインパクトはなかった。覚えているのはトップレスのおねえさんだけだ。ここで完全にバテて体調を崩していた僕は、初めてHに車のキーを渡すことになった。隣で教習所みたいに指導しながらも始めは危なっかしくてどこかに一度ぶつけた。なんとか120号線を西へ無事に走り、僕らはシェラネバダ山脈を横断して平地に降りてきた。オークデール、マンテカを通って580号線に入る。「とにかく海まで行け。そこがシスコだぞ。」ちょっと熱がでてきていた僕のナビは大変アバウトになっていた。

ああ勘違い

その海が見えてきた。意外に早い。砂漠の死の谷から生還だ。サンフランシスコだ、もうだいじょうぶだ!こんなにたくさんの信号を見るのは久々でプッシーキャットなんてキャバレーもある。人里恋しかった僕らは喜びいさんで黒人のお姉さんのいる店で特大のステーキを注文した。場所は7番街。モーテルに飛び込んで値段に驚いた。16ドル?シスコは高いよといわれてたのにこれは掘り出し物だ。ホテル代の相場カンがついていた僕は即決で三泊契約の「大人買い」をした。何か変だとは感じていたが、それは部屋で地図を広げてすぐ判明した。「H、I、悪い。ここはサンフランシスコじゃない、オークランドだ」。

受付でけげんな顔をされながら僕らは契約を一泊に変更し、コーラを買おうと思って外へ出た。もう真っ暗である。探すが店がどこにもない。黒人ばっかりのディスコがあったので、そこでビールとスクリュードライバーを飲むことにした。発熱などおかまいなしだ。あたりはどうやら駅の操車場だった。中に侵入したくなり無断で入った。列車がたくさん停まっていて、暗いのをいいことに並んで立ちションをしていたらまずいことに駅員だか警官だかが歩いてきた。3人で列車の下に隠れてやり過ごした。これはスリル満点だったが、へたをすると撃たれていたかもしれない。Life is  but a dream だ。

 

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米国放浪記(6)

 

 

 

 

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