Sonar Members Club No.1

カテゴリー: 自分について

ゴッホと色弱

2012 OCT 3 1:01:20 am by 東 賢太郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゴッホの「夜のカフェテラス」です。左がオリジナル。右は赤緑色弱の目で見たものだそうです。

僕が色弱と言われたのは小2のとき。クラスで検査表が読めないのは僕1人でした。子供心に俺は頭が悪いんだろうかと相当ショックでした。この2つの絵は僕には全く同じ絵です。ブログ写真の張り方は宍戸事務局長に指導されたばかりですし、まちがって同じ絵を2回張ったんじゃないかと、これを書きながら今も疑心暗鬼です。

幼稚園時代にお絵かきを習ったようです。木の幹を緑にぬってある(らしい)ので先生が「独創的です」と評を書いてくれています。やさしい先生ですね。親はそのへんで気がついていたと思います。しかし強がりを言うようですが、今の今までこれで生活に困ったことはありません。

ただ高校の担任から受験は文系にしなさいと言われたのはショックでした。野球に明け暮れ高3になっても成績はボロボロ。どうせどっちでもゼロからのスタートに等しかったので、子供のころから好きだった天文をやりたいと言った時のことです。父方は日本色彩学会会長(これも運命の皮肉ですね)とか東芝の最高技術責任者など筋金入りの理数系ぞろい。納得いかない気持ちが残りました。

親父からはお前は理屈っぽい、法学部がいいと決められ、そういうもんかと深く考えずに結局そうなってしまいました。僕は人間が作ったものは野球と音楽を例外としてぜんぜん興味がわかず、やっぱり法律はいかんと悟ったのも後の祭りでした(遊びたい口実も半分でしたが)。救われたのは母方が絵に描いた様な文系商人系宝塚ミーハー系一族だったこと。そっちのDNAを酷使して社会をなんとか生きぬいてはこられました。

これが何色に見えるの?と健常者(あえてそう言います)の方からよく聞かれます。何色といわれても、「僕に見えてるイロ」としか答えようがなく、そのイロは彼にはそう見えないので答えようがないというのが正確な答えです。犬が僕にだけ猫に見えるなら、猫を見たら犬だと答えれば何も問題ないでしょう。そういう問題じゃないということがわかっていただけないのはつらいところです。

僕は人の顔色が赤く見えたことは一度もありません。相手の顔色を読むという大事な処世術が使えません。天文学者以上にサラリーマンは無理でしたね。赤色・緑色・茶色それから水色・ピンク色・灰色なるものは判別困難です。だから僕の秘書をしていただいたやさしい女性たちはみなさん折れ線グラフの色に気を使ってくださいました。

さてゴッホです。彼が見たのは実は右側で、塗ったのは左側だとします。これは彼の色覚が認識した色と取り出した絵の具の色が健常者とは別の対応関係にあったという仮説です。つまり左右とも同じと見えていたということです。僕と同じで。健常者で右側の方が美しいと見る方もいます。僕の目をお貸しして見てもらうと、そう見えるのです。

僕はこういうことを一切知らずにゴッホが好きでした。何故かというと、ほかの画家より色がきれいだからです。オルセー美術館では2時間ゴッホをじっと見ていました。ポスターまで買いました。バルビゾン派と印象派のコーナー近辺で、そこだけ光り輝くがごとくぱっと明るくきれいに見えるのです。不思議でしょう。

ゴッホもそうだったらしいよとあとで教えてくれたのは娘です。やさしいです。

 

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日韓ソフトボール決戦記

2012 OCT 2 16:16:13 pm by 東 賢太郎

アメリカのビジネススクールというのは修羅場です。MBAを取るためにウォートンでは2年で19単位が必要。一つでも足りないとアウトです。社費で来て落第などできません。  しかし外人ハンディキャップなどなく、厳しい教授は50人のクラスで5人はfail(不可)を平気でつけます。

ウォートンの授業料は年間$51,773(2009年)でアメリカで1番高いようです。当時も4万ドルぐらいで円ドルが250円ですからトータル2000万円ぐらいだったことになります。だからアメリカ人はそれを投資と考えていて、いい所に就職しようと死に物狂いで勉強します。そういう彼らと同じ土俵で競争しなくてはなりません。

僕の学年、日本人はほとんどが企業派遣の17人でした。帰国子女もいたりしてみなさん英語力は抜群。英語は不得意科目だった僕はというと選抜時点のTOEFLの点数からしてたぶんビリだったでしょう。最初の1か月は授業で宿題が出たのも気づかないという顔面蒼白レベルからのスタートでした。

1年に秋、春の2学期があります。それが2回。19単位をアメリカ人はだいたい5-5-5-4と履修します(自分で選べます)。5というのは毎日5科目の授業があるということです。授業は先生が一方的にしゃべるものもありますがクラスディスカッション方式が多く、何も発言しないとほぼ確実に落第します。

発言といっても、十分に予習しないとアメリカ人の輪に入れません。この予習というのが地獄で、1授業あたり平均で200ページの教科書とバルクパックという副教材をとにかく「読みまくる」ことに尽きます。ですから5科目履修というのは毎日1000ページの英文を読み、何か自分の意見をまとめてクラスでディーベートするということを意味しています。寝ても覚めてもこの繰り返しでした。

日本ならインプットさえすれば答案用紙相手にそれを正確にアウトプットするだけで合格できます。多少の応用問題はあっても。ところがMBAコースはアウトプットの場がディベートですから何が起きるかわからない。丸暗記では歯が立ちません。ああ言えばこう言うみたいな即応力が大変重視されます。

救いは発言内容の是非ではなく、全体の議論の流れに貢献したかどうかを重視してくれることでした。何でもいいから言え、みんなをかき回せ、という姿勢が評価される。だから僕は①早いうちに手を挙げる(議論が白熱すると英語がわからなくなる)②「それは日本では違う・・・」と自分の土俵に持ち込む、という2大作戦で切り抜けていました。

そういう殺伐とした日々のなかのことです。あるとき韓国人のチー君と飲みに行きました。たしか期末試験が終わってお互いにほっとしていた時です。日本人も韓国人も英語がへたくそ。同じ苦しみを味わっているので仲良くなっていました。すると彼が、お前野球やってたらしいな、こんど日本対韓国でソフトボールをやらないかと言い出しました。 それは面白い。よし、受けて立とうじゃないか。話はすぐまとまりました。

僕は同窓の皆さんに声をかけてまわり、日本代表チームを結成しました。試合当日の朝、親分肌のチー君は韓国代表チームを率いてグラウンドで我々を早や待ち構えています。もちろん友好ムード、ピクニック感覚なのですが両方とも妻帯者は全員が美人の奥方同伴です。ちょっとカッコ悪いことはできないなという感じもありました。試合は攻撃方が自分でピッチャーも出してその球を打つというコリア方式?に決定。国際舞台の交渉力がない日本を地で行ってしまいました。

テキはやろうと言い出すだけあってうまい奴が何人かおり、味方投手が各人の打ちやすい所にうまーく投げてボコボコ打ちます。あれよあれよという間に10点ぐらい取られて、結局大敗してしまいました。「いやーナイスゲーム!じゃあ昼飯にしよう!」上機嫌の韓国チーム。僕らはそれではおさまりません。「チー君、悪いけどもう1試合やんない?」「・・・・?!」

それを潔く受けて立つ韓国チーム。すぐ始まった想定外の第2試合。コリア方式に慣れたのか気合がまさったのか、ついに侍ジャパン打線が大爆発。みんなで打ちまくって快勝してしまいした。死闘が終わると両チームくたくた、足はふらふら。いや、全員がワイフの前で恥かかなくてよかったなあ!最後は両チーム一丸となってそういうムードになり、全員がハグ。日韓が輪になって祝杯。英語へただけど頑張ろーな!

がまんしたので腹がグーグーなっています。奥様方が丹精込めて用意してくれたお弁当は、誰からともなく、日韓で交換して食べようということになりました。いただいたブルゴギやキムチのおいしかったこと!!韓国人っていいやつらだなあ。当時弱冠28歳。それ以来僕はずっとそう思っています。

 

ピッチャーの謎

2012 SEP 29 17:17:11 pm by 東 賢太郎

野球のボールは硬式、準硬式、軟式と3種類ある。後者2つは日本だけのものである。このうち硬式球(写真)を用いる野球を硬式野球と呼ぶ。プロ野球、ノンプロ、高校野球はすべて硬式野球に分類される。

硬式球は141.7-148.8gの重さと決まっている。石のように固い。投手(またはピッチャー)と呼ばれる者はこの物体を投げ、18.44メートル離れたところに横たわる幅43.18センチのホームプレートというゴム製白板の真上を通さないといけない。

なおかつ、投げた硬式球を打とうと待ち構える打者(またはバッター)と呼ばれる厄介者の「ヒザから胸のユニフォームのマークまでの高さ」という約1メートルの上下幅に収めることも同時に求められる。

このゾーンに時速100-160キロの初速で投じた球を90%以上の確率で通せる者というのが硬式野球のピッチャーのおおよその定義であろう。ここに変化球、コーナーワークというバリエーション、応用ワザが加わるが、この定義を満たしていない者はまずいない。というかピッチャーに選ばれない。

ちなみに米球界に進出したナックル姫こと吉田えりちゃんは遠投力は堂々の70メートルを誇り、ストレートは最速101キロ。この定義を満たしていると推察される。逆にイチローは150キロ、ヤクルト古田も147キロを計測したがプロではピッチャーではない。

バッティングセンターというものがある。マシンが投げる球は「生きた球」とは言わない。変化球も来ない。それでも100キロは結構速い。これが打てれば草野球ではレギュラーになれる。120キロをちゃんと打てたら経験者レベル。130キロをポンポン打ったら打席に見物の人だかりができる。

しかし人間が投げると球は生き物に変貌する。これは打席で見たことのある者しかわからないかもしれない。まずなによりも球筋が予測できない。だから怖い。頭を直撃すると死ぬかもしれない。そこで硬式野球部員は打撃練習をしない時も球見(タマミ)という練習をする。投球練習所へ行って、投げているピッチャーの球を打席で(時にはバットを持たずに)ひたすら「目撃」して目を慣らすのである。

高1の夏、東京都大会4回戦。神宮第2球場で当たった日大一高のエース保坂さんの球は忘れられない。ベンチから見て球が浮いている!同じ年、春季大会の桐朋戦では21奪三振、この後に優勝して順当に出場した甲子園では都城に対し毎回、全員の17奪三振!ドラフト2位でプロへ行った。そういう球だ。死球を食らって痛がる先輩のお尻を冷やそうとしたら青アザにボールの縫い目の跡がついていた。背筋がゾッとした。

同じ硬式球を同じ人間が投げて、どうしてあんなに変わるんだろう?選手はみんなそう思ってるから「生きた球」と言う。僕はピッチャーの数だけ人相ならぬ「球相」があると思っている。これが面白い。だから野球場には球相を見に行っている。カープファンとは別の野球ファンという自分がいる。多摩川の少年野球でも、球相のいい子が投げてると何時間でも観戦してしまう。

プロ野球には、投げるならいつでもカネを払って見たいというピッチャーが数人いる。例えば巨人の杉内、ロッテの唐川(故障が心配)、全盛期の工藤。あの球相は、130キロ台のど真ん中のストレートでプロで空振りが取れるという信じ難い結果を生む。メジャーに行った和田(故障が心配)、ロッテの成瀬も比較的近いがやや違う相である。

大嫌いなのは巨人の澤村みたいな筋トレなんかをやるパワーピッチャーだ。砲丸投げでもやったらどうだ。目いっぱいに投げて150キロ以上出しても打たれている。実にだらしなく、美しくない。135キロの杉内はちょっといいともう誰も打てない。省エネだから疲れない。早や3回ぐらいから完全試合をされそうないやーな感じがする。高校野球では、こういう奴と当たってしまったら運を嘆くしかない。

本当に不思議です。同じもの投げてるのに。

 

 

 

 

 

ピッチャーは自信過剰か

日本航空の再上場

2012 SEP 26 16:16:26 pm by 東 賢太郎

2004年に野村からみずほに移籍すると日経ビジネスなど経済誌やら何やら業界紙のようなものまでに記事をガンガン書かれました。こっちは覚悟して辞めたのでいいのですが野村にはご迷惑をおかけしました。取材を受けたわけではなく勝手記事だったので仕方ありませんでした。

当時みずほグループはコーポレート銀行の顧客企業への提案メニューに株式の引受業務を入れようということで、頭取から「エクイティ元年にする」という強いメッセージが飛んでいました。法律で銀行にそれはできませんから、その任務はみずほ証券が負うことになります。しかし銀行系なので株式業務経験のある人材がおらず、そこで僕にお声をかけてくださいました。

しかし僕は海外が長かったので国内の法人業務などやったことがありません。それでもいいんですかと尋ねると、「問題ない。君のことはわかっている。」と言われ、じゃあという気持ちになったのです。給料やボーナスもおおまかなことしか聞かず、もっといい条件を提示していただいた別の会社をお断りして契約書にサインしました。お金より情熱に惹かれたからです。2004年3月のことです。

別に野村が嫌いだったわけではありません。僕を育ててくれたのはまさしく野村です。いいお客様とめぐり合い、こんなに凄い会社はないと思う経験をたくさん積ませていただきました。ただ証券マンとしてはファイナンス業務ででかい仕事をやりたいという気持ちが強く、ウォートン・スクールのMBAもファイナンスで取ったので自信もありました。野村で僕の来た道の延長線上には残念ながらそのチャンスはなさそうでした。

ここから2006年9月までの2年半は、僕のサラリーマン人生で最も楽しく充実した日々でした。法人業務で野村とはライバル関係になるので、例えて言えば同じセ・リーグで別球団に移籍したピッチャーのようなものです。だから経済誌も面白がったのでしょう。巨人軍のような野村相手だと燃えるし、みずほ側はそれを期待して僕を採ったでしょうからベンチや観客席からの視線も半端ではなかったと思います。

しかし、みずほに出社した初日に僕は正直のところ大失敗したと思いました。部下は100人位だったでしょうか。ただ、株式引受経験ゼロ。株を知らない。おとなしい。何をしていいかわからない。質問も出ない。18億円の収益目標でびびっている。これは180億円の間違いかときくと全員が絶句してしまう。その日、同じ野球チームのつもりで来た僕も絶句したまま帰宅したのを昨日のように覚えています。

このチームが2年後に大和証券を株式主幹事リーグテーブル(引受業界のペナントレース順位表)で抜き、高嶺の花だった日本航空の公募増資主幹事まで引き受けさせていただけることを予測した人は証券業界に一人もいなかったでしょう。この1500億円の新株発行増資は野村、ゴールドマンと三つ巴の熾烈な戦いとなり、最終的にみずほがグローバルコーディネーター、トップレフトというインベストメントバンク業務のオリンピック金メダルに相当する地位を勝ち取りました。その過程を述べることは役員だった僕には一切許されませんが、当時の銀行出身の部下たちの大活躍は特筆大書しておきたいと思います。

かように、そこにいたるまでの部員一人一人の成長と活躍は目覚ましいものがありました。素材はみんな優秀でまじめでやる気もあり吸収も早い。初日の心配は銀行と証券のカルチャーの違いだったのです。部員たちは全員で僕を担いでくれ、僕は仕事をたくさんさせられ、足腰立たないぐらいの疲労困ぱい状態から風邪が治らなくなりました。余談になりますが、その時にさすがにまずいと思って名医を探し、知人から紹介を受けたのがSMCメンバーにもなっていただいている神山道元先生なのです。先生に処方していただいた漢方で僕は復活し、以来今日まで風邪もひいたことがありません。

日本航空ですが、あのファイナンスも結果的に無になり、悲しい経営破たんという道が待っていました。残念でしたし、何より当時の投資家にご迷惑をおかけてしてしまいました。政府のてこ入れがあったとはいえ稲盛さんの経営力で再上場に至ったことは慶賀のいたりです。あの僕にとって忘れがたい金メダルはツームストーンという形でわが社の棚に飾られています。

僕と広島カープ

2012 SEP 16 18:18:09 pm by 東 賢太郎

僕は生まれも育ちも東京です。広島には2回しか行ったことがありません。それなのに小学校2年からのカープファンです。

これには理由があります。V9時代の巨人は3番・王、4番・長嶋が全盛時代の常勝軍団でした。そうなると興味はそれを誰が倒すかです。そこで友達は村山、バッキ―の阪神タイガース、僕は大羽進の広島カープとなったのです。

プロ入り前、この大羽進を擁した日大一は王貞治の早実に決勝で負けて甲子園をのがしました。以来宿敵となった両者の対決は手に汗握るものがあり、リベンジに燃える大羽が王を空振りの三振に取るシーンにしびれまくりました。

これには伏線があって、僕は少年サンデーを創刊号から読んでおり、伊賀の影丸(横山光輝)という忍者マンガに心酔していました。テレビでも三匹の侍、素浪人月影兵庫など時代物ばかり。要するに1対1の真剣勝負が大好きの子供で、大羽vs王という対決を完全にその脈絡で楽しんでいたのです。その大羽がいたのがカープでした。

そこに、僕をカープにくぎ付けにした大投手が現れます。外木場義郎です。彼は阪神戦のノーヒット・ノーランで華々しくデビューし、大洋戦でセリーグ記録の16奪三振で完全試合、そしてなんとV9巨人相手にノーヒット・ノーランをやりました。3回というのは史上2人。彼は僕の神であり、中学時代は背番号14をつけてフォームをまね、定期券にはいつも彼の写真が入っていました。

後楽園球場で見た彼のボールは衝撃的な威力で、なぜあんなことができたのか納得しました。松坂もダルもマー君も実物を見ましたが、球威ではまったく及びもつかない違う球です。変化球でいくら三振をとっても僕には邪道で、外木場は直球とカーブだけ。そのカーブも巨人の高田がノイローゼになるぐらい落差がありました。

さてそういう経緯でなったカープファンですが、実は妻と知り合ったのはその1回目の広島でした。大学時代に九州旅行をしての帰り道、聖地であった広島市民球場でヤクルト戦を見るために泊まったユースで偶然会ったわけです。カープファンでなければこういうことは絶対におこっていないわけで、人間の運命というのは不思議なものです。3人の子供も世にいなかったわけですから。こういう縁なので、何があろうとカープを見捨てるわけにはいきません。

さすがに地方は無理ですが、神宮と横浜だけは全部応援に行きます。だいたいカープ側のベンチ上アルプススタンドあたりで焼きソバかたこ焼きとビール2杯が定番です。ファンの方、ぜひご一緒に!

クラシック徒然草-僕の音楽史-

2012 SEP 14 14:14:33 pm by 東 賢太郎

僕の一番古い記憶は、親父のSPレコードを庭石に落として割ってしまったことです。2歳だったようです。中から新聞紙 ? が出てきたのを覚えています。ぐるぐる回るレコードが大好きでした。溝の中に小さな人がはいっていて音を出していると思っていました。

これが昂じたのか、僕はクラシック音楽にハマった人生を歩むこととなりました。作曲や演奏の才がないことは後で悟りましたから聴くだけです。就職した証券会社では、大阪の社員寮に送ったはずの1000枚以上のLPレコードが誤って支店に配送されてしまい、入社早々大騒ぎになったこともありました。

転勤族だったので国内外で24回も引っ越しをしました。そのたびにLP、テープと5000枚以上あるCD、オーディオ、ピアノ、チェロ、楽譜がいつも我が家の荷物の半分以上でした。この分量はクラシックが僕の57年の人生に占めてきた重みの分量も示しているようです。

僕がお世話になった証券業界では僕は変り種でしょう。この業界は オペラのスポンサーはしても社員オーケストラをもつような風土とはもっとも遠い世界の一つです。それでも僕が楽しくやってこれたのはひとえに海外族だったからです。アメリカ、イギリス、ドイツ、スイスに駐在した13年半に、僕はもう2度と考えられないほどの濃くて深い音楽体験をさせてもらいました。

そういうとやれ「カラヤンを聴いた」「バイロイトへ行った」という手の話に思われそうですが、そうではありません。僕はそういうことにあまり関心がなく、書かれた音符のほうに関心がある人間です。たとえば、同じ夜空の月を見て「美しい」とめでるタイプの人と「あれは物体だ」と見るタイプの人がいます。僕は完全に後者のほうです。文学でなく数学のほうが好き。文系なのに古文漢文チンプンカンプンというタイプでした。

高校時代はストラビンスキーの春の祭典、バルトークの弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽(通称、弦チェレ)みたいなものにはまっていました。特に春の祭典は高2のころ1万円の大枚をはたいてスコア(オーケストラ総譜)を買い、穴のあくほど眺めました。この曲は実に不思議な呪術的な音響に満ちていて、それがどういう和音なのか楽器の重ね方なのかリズムなのか、全部を自分で解析しないと気がすまなかったのです。

弦チェレの方は、第3楽章です。ちょっとお化けでも出そうなムードですね。フリッツ・ライナーの指揮するレコードで、チェレスタが入ってくる部分。この世のものとは思えない玄妙かつ宇宙的な音響。なぜかこの演奏だけなんですが。敬愛するピエール・ブーレーズも含めてほかのは全部だめです。これもスコアの解析対象となります。

時が流れて、僕はフランクフルトに住みました。その家はメンデルスゾーンのお姉さん(ファニー)の家の隣り村にありました。そう知っていたわけではなく、たまたま住んだらそうだったのですが。彼はそこでホ短調のバイオリン協奏曲を書きました。あの丘陵地の空気、特に彼がそれを書いた夏の空気をすって生きていると、どうしてああいう第2楽章ができたのかわかる感じがします。あそこを避暑地に選んだ彼と、その場所が何となく気に入った僕の魂が深いところで交感して体にジーンと沁みてくるような感覚。うまく言えませんが、かつてそんなことを味わったことはなかったのです。

こういう感覚は、大好きで毎週末行っていたヴイ―スバーデンという町でもありました。ブラームスの交響曲第3番です。もういいおっさんだった彼はここに住んでいた若い女性歌手に恋してしまい、ここでこの曲を書きました。彼としては異例に甘めの第3楽章はその賜物でしょうが、むしろそれ以外の部分でもこの町の雰囲気と曲調が不思議と同じ霊感を感じさせるのです。この交響曲はこのヴイ―スバーデンとマインツの間を流れるライン川にも深く関係しています。

シューマンの交響曲第3番とワーグナーのニュルンベルグの名歌手第1幕への前奏曲。この2曲はそのライン川そのものです。すみません。どういう意味かというのは行って見て感じてもらうしかありません。このシューマンの名作は後世にライン交響曲と呼ばれるようになりました。シンフォニーのあだ名ピッタリ賞コンテストがあったらダントツ1位がこれです。

名歌手は全部ライン川で書かれたわけではありません。でもあのハ長調の輝かしい前奏曲はヴイ―スバーデン・ビープリヒというライン川べりで書かれたのです。ワーグナーの家は水面にちかく、滔々と悠々と流れるラインが自分の庭になったような錯覚すらあります。太陽がまぶしい秋の朝、目覚めて窓を開けると眼前に滔々と流れるライン川、そこにバスの効いたあの曲が流れる。僕の理想の光景です。

こういう経験をして、僕はだんだんとお月様を見て「美しい」と思う感性も身についてきました。物体だ、という感性が消えたわけではなく、少しはバランスのとれた大人のリスナーに成長できたということでしょうか。基本的にはロマンチストなので、ボエームやカルメンを涙なしに聴き終えたことはないし、ラフマニノフの第2交響曲を甘ったるい駄作だなどとは全く思いません。

しかしメンデルスゾーンのジーンとした感じは、涙が出るとか甘いとかそういう次元の話ではありません。泣くというのは作曲家が仕掛けた作戦にまんまとはまっているということです。そうではなく、作曲家がそういう作戦を練る前の舞台裏で、一緒に昼飯を食ったというイメージなのです。どうも話が霊媒師みたいになってきました。

ところで今、心を奪われているのがラヴェルです。音楽を書く手管、仕掛けのうまさという意味でこの人は最右翼です。もちろん、どの作曲家も聴き手を感動させようと苦労し、手練手管を尽くしています。そうでないように思われているモーツァルトの手管はパリ交響曲について書いた彼の手紙に残っています。しかしラヴェルはその中でも別格。うまいというより、彼は手管だけでできたみたいなボレロという曲も書いています。もうマジシャンですね。ドビッシーと比べて、そういう側面を低く見る人もいます。

僕も、そうかもしれないと思いながら、聴くたびに手管にはまっているわけです。ダフニスとクロエ。このバレエ音楽の一番有名な「夜明け」を聴いて下さい。僕は2度ほどギリシャを旅行してます。あのコバルトブルーの海に日が昇るような情景をこれほど見事に喚起する例はありません。音楽による情景描写というのはよくあります。しかしこれを聴いてしまうと他の作品は風呂屋のペンキ絵みたいに思えてしまいます。そのぐらいすごい。手管だろうがペテンだろうが、この域に達すると文句のつけようもないのです。

僕のラヴェル好きは高校時代にはじまります。春の祭典と同じ感覚で。両手の方のコンチェルトの第2楽章、ピアノのモノローグを弾くのは今でも人生の最大の喜びの一つです。もう和音が最高。ダフニスと同じコード連結が出てくる夜のガスパール第1曲も(これは弾けません)。バルビゾンの小路に似合う弦楽四重奏の第1楽章。僕にとって、ヨーロッパの最高度の洗練とはラヴェルの音楽なのです。

あれもいいこれもいい。 50年も聴いてくるとこうなってしまうのです。しかし50年たっても良さがわからない有名曲もたくさんあります。最後は好みです。もう今さらですから、ご縁がなかったとあきらめることにします。好きな曲は何曲あるか知りませんが100はないと思います。50-60ぐらいでしょうか。

これから、時間はかかりますが、1曲1曲、愛情をこめて、なぜ好きか、どこが好きかを書いていきます。これは僕という人間のIDであり、作曲家たちへの心からの尊敬と感謝のしるしです。読んで聴いて、その曲を好きになる方が1人でもいれば、僕は宣教師の役目を果たしたことになります。聴かずして死んだらもったいないよという曲ばかりです。必ずみなさんの人生豊かにしてみせます。ぜひお読みください!

 

僕の甲子園

2012 SEP 12 14:14:35 pm by 東 賢太郎

先日、たまたま帰りに南武線で通りかかった矢野口駅でふらっと下車しました。日曜日の夕方5時ぐらいでした。ここには尽性園といって、多摩川べりに我が都立九段高校の硬式野球グラウンドがあるのです。

踏切があった駅は高架になっていて、当時の面影すらありません。もう40年近く歩いていない道もかなり様子が違います。それでもなんとなく記憶をたどって、そこへ着きました。

僕は硬式野球部員でした。この尽性園での泥まみれの練習、怖かった先輩たちの顔や声、対外試合の真剣勝負、灼熱地獄だった夏の合宿・・・。なぜそんなに長いこと来ていなかったのかなと不思議に思いながら、その思い出の地を一目見て帰ろうと思ったのです。

ところがなんと、グラウンドへ眼をやると、その硬式野球部員が練習を終え、マウンドで円陣を組んでいるではありませんか。日曜日のこんな時間、構内には立ちいれないものとあきらめていた僕は目を疑い、吸い寄せられるようにバックネット裏までいきました。

円陣は長くつづき、まん中で監督さんが檄を飛ばしているようでした。やっと円陣が解けると、部員たちは散り散りになってグラウンド整備を始めました。こちらに歩いてきた監督さんは僕を見て、帽子を取りました。僕は「40年前のOBです」とだけ名乗りました。

「すみません。今日、秋の大会、1回戦で負けたんです」「ああそうなんだ。それでこうなったんですね。それはお邪魔しました。次、頑張ってください。」・・・・

そんな会話をしてさあ帰ろうと思ったところ、足がふと止まり、僕はついきいてしまいました。

「マウンドに登らせてもらえますか?」

監督さんは、まるでそれを待っていたかのような、誰にも有無を言わせぬような力強い声で、ぽんと僕に言葉を返してくれました。

「もちろんです」

しばらくマウンドのてっぺんでぼう然とホームベースを見ていた僕のとなりで監督さんがききました。

「変わってませんか?」

実は涙でホームがよく見えなかったのですが、

「変わってません」

としっかり答えました。

足元の白いプレートにそっと右手を置いてみると、1年生の時、夏の合宿で初先発した僕は、このプレートの踏み方をよく知らなくて、ベンチからすっとんできた3年生にここでそれを教わったことを思い出しました。

「ここは九段生の甲子園なんですね」

監督さんから最後にいただいたこの言葉を、僕は一生忘れることはありません。

トンボをかけ終わった部員たちはいったいなんだろうと遠まきに僕らを見ていました。もう薄暗くなった中、マウンドを降りた僕がグラウンドに深く一礼すると、誰からともなく「ありがとうございました!」と若い元気で大声の唱和が響きました。

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