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カテゴリー: 自分について

オリックスのロべコ買収

2013 FEB 16 1:01:06 am by 東 賢太郎

Netherlands-CIA_WFB_Map-10-10-10ロンドン時代、駆けだしの僕がまず担当させてもらった大きな顧客はオランダの機関投資家でした。アムステルダムはもちろん、ロッテルダム、ユトレヒト、デンハーグ、アイントホ―ヘンなどにある銀行、年金、運用会社などで、ロンドンから数えきれないぐらい何度も出張して各地を駆け巡りました。ロンドンの投資家も資金量は巨大ですが、オランダも当時数十兆円の投資資金があったのです。

まず何より覚えているのは土地に高低差のないことです。とにかく車で行けども行けども平地。「平地酔い」というのがあるのかどうか、とにかくあるはずのアップダウンがあまりになく、しばしば気分が悪くなりました。そういう時はバート君という飛ばし屋の運転手に道端に止めてもらって「立ち○○」などしますが、そうやって風車が点々と回っているだけで何も目に入らない広大な牧草地の中でぷーんと漂ってくる浮世離れした田舎の香水をしばし嗅いでいると、「俺はどうしてスーツを着てこんな所にいるんだろう?」と我とわが身のわけがわからない不思議な気持ちになったものでした。

220px-Delft_-_Universiteitsgebouw_(Rode_Scheikunde)僕はオランダの世界的石油企業の年金が顧客だったのですが、ある日、同社幹部からスポンサーをしている名門デルフト工科大学(ノーベル賞学者3人輩出・右)の経営学講座で僕に講師をしてくれと依頼が来ました。言語はもちろん英語です。オランダ人にとって英語はほぼ母国語に近い水準なのです。当時はやりだった「日本型経営モデル」の講義で1コマ2時間でした。理系の学生ばかりだからどうせ何もわからんだろうとナメていて、とにかく日本のすごさだけはわからせてやろうと気合は入っていました。なにせこちとらMBAを取ったばかりでもあり、まずはアメリカンな「経営学」「経済学」っぽいことをしゃべり、そのアメリカ人だって日本型経営を研究してるぞなどとまくしたてました。その演説が一段落した時です。一番前にいた学生が手をあげ、「日本経済の強さはよくわかったから、江戸時代の日蘭関係について話せ」とリクエストが来たのです。そんな話題は想定外で準備もなく、えっ、こいつら意外に手ごわいなと思ったがもう遅く、仕方ないので「よしっ!」と知ってる限りの知識を並べたてました。どうして長崎に出島を作ったか、当初は洋学=蘭学だったこと、ドイツのターヘルアナトミアも蘭語で読まれたこと、幕府の開成所が新政府によって東京大学の法学部や医学部になったこと、だから今でも東大では法・医・工・文の順番に教授が並ぶ等々。そうすると今度はそれに質問殺到となり、議論が大いに湧きおこってびっくりしました。なるほど、東インド会社は彼らの先祖が作ったんだ、この勢いで来たから幕府もオランダを認めたんだと実感させられる迫力でした。うれしかったので講義の締めくくりに

「日本にとってはオランダこそ西洋への窓口だったんだ、アメリカでもイギリスでもドイツでもないぞ!」

と言うや教室は爆発的な拍手とブラヴォーに沸いたのです。経営学なんてくそくらえだ!講義を終えると10人ぐらいの学生たちが校内を案内すると言って校長室から貴賓室から何から僕を引っ張りまわし、学食のディナーではビールで乾杯乾杯の嵐となりました。こっちも30歳ぐらいの若僧でありすっかり無礼講になって、時計を見るともう夜中の3時ぐらい。僕は頭も朦朧となっていて、「ホテルは?」と聞かれても口からその名前が出そうにないと見るや連中、「まかしとけ!」と勢い込んでデルフト市内のホテルというホテルに手分けして片っ端から電話をし始めるではないですか。こうして長い1日が終わりました。後日ロンドンまで来てくれてわが家に泊まってくれた学生もいました。あの中から偉大な学者が出てくれたらうれしいなあ。これは僕の16年の海外生活を通しても最高に痛快な思い出となっています。

お客様として怖かったのがロべコの日本株投資運用責任者ヤン・オームス氏でした。ロッテルダムに本社を構えるロべコは現在も20兆円超を運用する欧州最大級の投資運用会社です。氏はこっちが勉強不足と見るや推奨を歯牙にもかけてくれず「おとといおいで」という冷たい対応になり、電話も出てくれません。後で聞くと他社にはそうでもなかったそうですが業界1位の野村には期待値が高く、徹底的に鍛えられました。だんだん認められてからは、行くとグルメの氏がお気に入りのレストランでいつもランチにワインとなり、後から大きな発注をいただきました。プロとしての自信を養ってもらった忘れられないアカウントのひとつです。

その名門ロべコがオリックスに2500億円で買収されるというニュースは、僕にとって青天の霹靂です。ジャガーがタタグループに買われてインド車になるに等しいインパクトです。それがいい値段かどうか判断する材料を持っていませんが、オリックスに経営力さえあればいい買い物になる可能性はあります。運用業界ではエルメス、グッチ級のブランドですから。不思議なのはどうして証券会社がこういう買い物をしないのかです。自分で海外運用せず、単に目利きとして輸入国内販売するというのは小売りにおけるデパートと同じです。投資家がネットで世界の業者選別できる時代なのですから、いずれデパートと同じ運命をたどるのではないかと危惧します。

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西洋かぶれ

2013 FEB 8 23:23:45 pm by 東 賢太郎

舟橋さんのブログにこうあり、ピンときました。証券界でクラシックなど聴いている人間ははぐれものです。いや、英語をしゃべるだけでそうかもしれません。

小学校のころ、金持ちの息子たちがどういう理由か知りませんが学校派遣でアメリカへ行きました。僕のような一般人の息子に縁がない話ということぐらい子供心にわかりましたが、なんとなく癪にさわりました。彼らが帰国してアメリカはさあ、などと言ったかどうかは覚えてませんが、どことなく鼻にかけた態度を感じました。それ以来です。西洋かぶれが嫌いになったのは。

その僕が留学などしたというのは運命の皮肉です。しかも、ベンチャーズのテケテケにしびれた延長線だから別にかぶれたわけではないのですが、いかにも「かぶれ者」っぽいクラシック音楽という趣味をもってしまっていましたから、証券業界では一番嫌な奴の部類だったでしょう。気持ちは国士のつもりなのにそう見られないことへの自己嫌悪、僕の半生はそれとの内なる戦いだったような気すらします。

大学オケでバイオリンを弾いていたのを「会社で嫌われるから」と隠す人がいて、ああいう人生は送りたくないと思い、僕は堂々とクラシック好き宣言をしていました。今だに内なる戦いに勝ったわけではないのですが、好き嫌いをはっきり自己主張できない人が世の東西を問わず理解されることはありません。西洋かぶれでもよかったのかなと最近は考えるようになっています。

 

 

58歳になって

2013 FEB 4 23:23:01 pm by 東 賢太郎

なったからどうということは、不思議とありません。よくここまで生きてこられたという感謝の気持ちのみです。生んでくれた両親と、一緒にいてくれた家族と、生まれてこの方知り合った皆さんと、そして、生かしてくれた地球にです。

今日は大阪出張しました

2012 DEC 10 21:21:48 pm by 東 賢太郎

今日は大阪へ日帰り出張でした。

8時9分新横浜発ののぞみでしたが、名古屋の手前から米原あたりまで雪で、大阪着が25分遅れました。

僕は物心つく前から鉄道好きだったようです。物心がつくと線路・車輪フェチとなり、後にこれは金属フェチの特殊部門ということがわかりました。とにかく光る金属をみるとぞくぞくするし、匂いまで好きです。それも元から光っているのではなく金属どうしが接触して摩耗したつやつやの部分に目がありません。電車の線路、車輪はその代表選手みたいなものです。

だから小学校時代は小田急線の床下にある台車部分を毎日緻密に観察していました。当時の絵は電車ばかりですが、細かく書いているのは線路と台車と床下の機械類だけです。昔はブレーキは鉄製のものを車輪にこすり付けて制動しており、夜は接触部分から火花が散ります。その火の粉を線路に侵入して熱いうちに拾うと薄っぺらい金属片になって落ちていて、そのすべすべした表面の銀色の光沢にうっとりしていました(危険ですので絶対にやらないでください、なんのこっちゃ)。

今でも鉄道博物館へ行くと見るのは車輪だけで人が乗る箱より上はほぼ見ません。しかし実際に走行していないと錆びついていて面白くありません。線路もそうで、使われないと錆びついて光沢を失います。逆に錆びた線路にどのぐらい電車が走るとどのぐらい表面が光るか、長年の観察からかなり正確にイメージできます。僕がサンタさんにもらっていたのはもちろん電車模型で、Oゲージという大型のものです(好み通りのものを置いてくれるのでサンタさんの大ファンでした)。走行量と光沢具合の関係というのはOゲージでの長年の実験で体感と化していました。

閑話休題。新幹線はポイントがないので線路フェチには魅力がなく、今までまじまじと見たことがなかったのでしょう。ところが今日、窓から上り車線の線路をボーっと見ていると、驚くべきことに気がつきました。線路は交換後数日以内と考えられ、車輪が通って錆が落ちて光っている筋がおそらく幅1センチ内外という滅多に見られない極細状態でした。その筋が速度200キロでも目視上微動だにしないのです。目線を固定し見ていればふつうは必ずその光輝線は上下に微妙に揺れるのです。それが静止画像を見るかのごとく完全停止状態なのです。日本の線路技術は世界一(旧八幡製鉄)だから新幹線ができました。今日は、57年生きて初めて、その凄さをこの目で実感した日でした。

閑話終了。つまらない話ですみません。

 

プレゼンがうまくなる秘訣教えます(1)

2012 DEC 8 17:17:59 pm by 東 賢太郎

先日、新潟県立大学の学生さんに

「どうやったらプレゼンがうまくなりますか?」

と質問された。そこで「吉野家簡略法」というものを教えた。僕が考案したものすごくわかりやすい方法だ。

プレゼンについて僕はちょっとうるさい。

自分自身、なんといっても踏んだ場数が桁違いに多い。証券営業というのは知らない人に会っていきなり株や債券という目に見えないものを売る商売である。しかも薦めている横で値段が下がったりもする。そんなものを売る営業は他にないから営業業務の最難関コースと言っていいだろう。口しか頼るものは何もないから、プレゼン力=営業力なのだ。

証券マンとしての僕しか知らない人は誰も信用しないが、野村證券に入るまで僕は口べただった。人前でしゃべった経験はほとんどなく、すぐあがってしまい、話もヘタだった。女性を口説くなどという口八丁とは程遠い人間だった(ここだけは今もそう)。しかし入社して大阪駅前の梅田支店営業1課に配属になり、そんなことを言っている場合ではなくなった。日本一厳しい野村の支店営業現場でプライドをもって生きていくには、自分を訓練して変える必要があった。2年半支店にいて、結局成績は同期トップに何度もなったのでなにがしかのプレゼン力を自力で開拓していたのだろう。

そんな「現場たたき上げプレゼンテーター」だった僕が目覚めたのはウォートン・スクールのMBAプログラムでOral Presentationなる授業を受けたときだ。これは単位には関係ないがパスしないとMBAにはなれない。だから米国のトップエリートは全員がこの訓練を受けていると言っていい。5人の学生がある日突然、アトランダムに小教室に呼ばれ、その場で先生からぽんとテーマを渡される。それについて演壇で一人ずつ5分間のスピーチをさせられるのだ。考える時間はわずか5分。僕らのテーマは

「フィラデルフィアでお薦めの3つのレストラン」

だった。こんなものはいつでも「お薦めの3銘柄」を言う訓練を積んだノムラのトップセールスマンにとってなんでもない。しかし問題は僕のスピーチで「なるほど、行ってみようかな」と聴き手である学生4人と先生が思うかどうかだ。「どのレストランをキミが選んだかなんて何の関係もない。キミのスピーチで何人が行動するか?それがすべてだよ。」という先生の一声でそれは始まった。

全員のスピーチがビデオに撮られ、リプレーを見ながら全員で思いっきりケチをつける(そういうルールになっているのだ)。まあ僕だけ英語がヘタなのは仕方ない。そういうことは問題にしない。「先生のほうしか見てないな」、「ポスチャー(身振り手振り)が少ないね」、「言葉に抑揚が足らん」「結論のリピートにパンチがない」・・・出るわ出るわ。たしかに自分でもあれじゃあ行ってみようとは思わんな、と妙に納得までしてしまった。

この授業で教わったことをこれから僕流にアレンジして書いてみる。これだけ知っているだけでもプレゼン力は格段にレベルアップすること請け合いである。ゼミの発表、小論文、入社面接、社内会議、営業、何にでもオールマイティであるからぜひマスターしてほしい。

まず、プレゼンの良し悪しは3つの要素で決まる。大原則である。

①コンテンツ②コンポジション③パフォーマンス

①は要は中味のことだ。プレゼンとは相手を説得して何かをしてもらうためのものである。だから何かしてもらいたい目的がある。たとえば営業なら商品を買ってほしい、ゼミなら先生にいい点をつけてほしい、恋人なら結婚してほしい、政見放送なら投票してほしい、企画会議なら自分のビジネスプランを採用してほしい、僕の例なら「3つのレストラン」に食べに行ってほしい、ということだ。目的が多数あったり何なのかが明確でないプレゼンはコンテンツに欠け、確実に失敗する。

②はその目的行動を促す訴えが説得力を持つためにどう言葉やデータや資料を構成して組み立てるかである。行列のできるレストランなら②はいらない。しかしそういう店があなたに呼び込みを頼みに来ることもない。プレゼンは勝手には起きないことを起こそうと促すためのものだ。つまり「はやらないレストラン」を売り込むことが現実社会ではほとんどなのだ。だから②が非常に重要になるということを覚えておいてほしい。

③はそれをどう演技するかだ。まず「つかみ」というやつが有効だ。これは聴衆しだいで、何国人なのか若いのか年寄か男か女かで当然にやり方が変わる。しかし相手が誰であれつかんでしまえばプレゼンは80%は成功と言われる。僕はできる。相手が米国人でも中国人でも、日本語でも英語でも、①②なんか即興で演壇で考えながらできてしまう。38歳から海外で社長職にありスピーチも仕事のうちだったという特殊経験があるから当たり前だ。もちろんオバマ大統領や真打クラスの落語家はもっと上級者の達人だ。うまくなりたい人にパフォーマンスの練習をしなさいというのは簡単だ。しかしそういう経験が積める人はほとんいないから無責任でもある。むしろ誰でもできる最大公約数的な「イロハのお稽古」こそ有効だ。上記のMBAの授業がそれをシステマティックに教える場であったことはご理解いただけるだろう。

ウォートン・スクールで①②を教わった時、僕は

「これはソナタ形式だ」

とひらめいた。①=メロディー、②=ソナタの作曲、そういうことだ。そして③はできた曲を聴衆の前で演奏する。そういうことだ。①②と③は別なものと考えた方がいい。作曲するというのはプレゼンそのものなのだ。ソナタ形式というのはプレゼンを効果的にする形式論理だ。いいプレゼンは人の心を動かす。だから名曲は何百年も聴き続けられているのだ。

よく考えてみよう

世の中には③がプレゼンだと勘違いしている人が非常に多い

それは間違いではない。でも③で成功するには大統領や名人落語家になろうとするようなものだ。自信のある人はチャレンジすればいいが、これは万人にはお薦めしない。

②にうまくなるという簡単で誰でもできる方法があるのである

それをきちっとマスターして、③は「イロハのお稽古」でやさしくすます。それが最も効率的で賢い。次回、それについてわかりやすく述べる。

(続く)

 

 

アメリカには季節は2つしかない

2012 NOV 4 20:20:20 pm by 東 賢太郎

昔、アメリカ人の野球ファンに聞いた話です。

 

日本には季節が4つある。春、夏、秋、冬。

シンガポールには3つ。Hot、Hotter、Hottest

アメリカは2つしかない。野球があるとき、ないとき。

 

ついに日本に「ないとき」が来てしまった。今日が一年で一番つまらない。人生で大切なものをとりあげられたような気分です。野球に関する限り僕はアメリカ人なみ(以上?)にアメリカンで、じいちゃんも慶応でやっていてDNAとしか説明がつきません。長いことヨーロッパで「ないとき」だった反動かもしれませんが・・・。

現SMCメンバーにそういうキチガイはおられないようですが、ふつうの野球ファンと何が違うか一言で申し上げると「見るなら野球だけ」ということです。「やる」のは別です。ゴルフは下手ではありません。でも見ません。01年全英オープンや89年ウインブルドンのファイナルを特等席で見せてもらいましたが退屈で早く終わらんかなと思っていました。まさしく豚に真珠でしたが見るだけなら僕は多摩川の河原で草野球見た方が楽しいのです。こういう人間は孤独です。

日本の野球場に来ている観衆が野球キチガイかというと99%はちがうでしょう。オリンピックで日の丸をふって応援する人と同じです。競技の細かいことは何でもいいし勝てばいい。僕もカープ戦のときはちょっとそれかもしれません。廣瀬にホームランが出て前の席のユニフォーム着た男の子がハイタッチしてくれると嬉しかったし。でも彼らの輪に入ってメガホンふって立ったり座ったりはしません。やはり見ているのは野球なので。

津坂さんがシネマ・ベスト3にあげられている「Field of dreams」は僕のような人間があの国にはたくさんいる、孤独じゃないんだと勇気づけられる映画でした。

その後しばらく何も起きなかったが、ある日の晩、娘が夕闇に動く人影を球場にみつける。そこにいたのは“ブラックソックス事件”で球界を永久追放され、失意のうちに生涯を終えた“シューレス”ジョー・ジャクソンだった。  

この映画を作った人たちの野球というスポーツへの深い愛情、理解、敬意。それを共有した選手たちへの愛情、理解、敬意。それと同じものがメジャーにいる日本人選手にも注がれているのを見るにつけ、アメリカ人のフェアネス精神に敬意を表します。それが誰か、男か女か、何国人かなどに関わらず、いいものはいい、悪いものは悪いとジャッジする。「空気読む」ではなく、「長いものにまかれる」でもなく、友達が、親が、先生が、マスコミがどう言ったかでもなく、自分の頭で判断する。そして思うだけでなくそれを堂々と意思表示する。反対意見も許容する。フェアネス精神というのはそういう土壌があってこそ生まれる「文明」です。動物界には存在しない人間の英知です。子供にそういう頭をつくってやることこそ教育なのではないでしょうか。

アメリカも長年の黒人差別というダーティな歴史を経てついに肌が白くない大統領を持つ国になりました。そのアメリカだって政治や実業がフェアに行われているとは思いませんし、そのはずもありません。みなそれがわかっているからこそ、スポーツというある意味で純粋培養の世界を作って自分たちの「心の美しい部分」を確認し合っている。スポーツマンシップというのはその素材であり基軸です。そういう大人のバランス感覚がスポーツを支えているのだと思います。

僕は16年かけて40か国ほど訪問しました。日本を入れて6か国に住みました。誤解を恐れずズバリ言います。フェアネス精神という文明を感じた国は2つしかありません。アメリカとイギリスだけです。日本はもちろんドイツ、スイス、香港に素晴らしい方々はたくさんおられ、素晴らしい出会いをたくさんいただきました。しかし社会という広範なレベルで言えば僕はどうしてもそういう結論になります。民主主義と呼ばれるものに結実するイデオロギーはフランスに発しましたがこの2つの国で発展しました。それはフェアネス精神という文明を生む土壌があったことと無縁とは思いません。

たかがスポーツと思われるでしょうか。素行の問題はあったとはいえ歴史に残る大横綱でもあった朝青龍をああいう形ですげなく追い出してしまった日本相撲協会。同じく清原を追い出した巨人軍。スポーツが大事なのか組織が大事なのか?型破りの天才児を管理できない無能力のほうが社会的にはるかに問題、損失だと思うのですが。相撲、野球というスポーツへの愛情、理解、敬意においては横綱審議会や読売の社主なんかより朝青龍、清原のほうがはるかに上でしょう。反対に組織のために貢献すればスポーツマンとして万死に値する「死球なりすまし事件」を起こしても不問に付してしまう。それをフェアネス精神という眼から問題だと判断し糾弾しない社会に僕はいささかの「文明」も感じません。

まったく同じ意味で、明治維新があり敗戦を経たから日本が民主主義国家だなどと一概に言えるとも思いません。毛沢東が統治の道具として持ち出した共産主義と大して変わりはないように思う場面があまりに多いからです。日本は民主主義に関しては発展途上国です。民主党に託してみたらだめだったという人が増えていますが問題の所在はそこではないと思います。同じようなレベルの政治家の間で首のすげ替えを何度やっても学習にならないばかりか、学習しているうちに国がなくなるかもしれないということを、まず有権者こそが学ばねばならないと思います。

日本で野球キチガイであることは本当に孤独です。

②私の好きなシネマ・ベスト3 (東)

2012 NOV 3 17:17:38 pm by 東 賢太郎

もともと映画館という暗くて閉塞感がある所がきらいです。それに加えて文学作品的なものにのっけから関心がありません。おまけに昔大阪でエイリアンというのを見て気持ちが悪くなったのでますます足が遠のきました。したがってこういうお子様ランチ風になってしまいます。

第一位  あしたのジョー

第二位  ゴッド・ファーザー

第三位  Mr.ビーン(シリーズ)

「あしたのジョー」は若かりし大阪時代に先輩と徹夜で見ました。映画館で楽しんだ希少な経験として第一位。1980年映画版と思われます。感動したのでよく覚えてます。

「ゴッド・ファーザー」むんむんする男の掟の世界。最高です。マーロン・ブランドがカッコいい。ファミリーや仁義という感覚は僕の生きてきた証券界に通じるものがありましたが、この10年で急速になくなってしまった。同時に急速に儲からない産業になってしまった。

「Mr.ビーン」イギリス的お笑いの傑作。ビーンのローワン・アトキンソンはオックスフォード卒。映画版は飛行機で見ました。まわりの乗客もこれを見ている人はみんな一人でクスクス笑いをしていて平和な光景でした。

皆さんは家系図をお持ちでしょうか?

2012 OCT 19 11:11:35 am by 東 賢太郎

皆さんは家系図をお持ちでしょうか?我が家はそれがなく、ルーツがよくわかりません。

父方が石川県能登と東京、母方が信州伊那と長崎県諫早です。能登、伊那、諫早は訪ねてみましたが、もうよくはわかりません。伊那の先祖だけは比較的資料がありますが、それでも5代前ぐらいまでです。

性格的には諫早というか九州のブレンドが多いとよくいわれます。しかし自分では北陸人の暗さやねばりもあるように思っています。どこの先祖の血を引いたのかもっと詳しく知りたかったなと思います。亡くなった叔父や叔母にもっと聞いておけば、と後悔するばかりです。

僕がブログを書く動機の一つは、子孫にこういう思いをさせないことです。何かを見たり思ったりしたことを記しておけば、どういう人間だったかぐらいは残ります。それを読んで、アー俺はひいひいひいじいちゃんに瓜二つだなあ、なんて感じる子がいれば面白いなあと思います。たぶん、残してくれてありがとうと言ってくれるんじゃないか。そう信じて、この拙文を閉じることにします。

オトコになった日

2012 OCT 18 0:00:39 am by 東 賢太郎

もちろん変な意味ではありません。

男性のみなさんは10代のころにおそらく、これで俺も男としてやっていける、と思った何事かがあったのではないでしょうか?

昔から男の子の脱皮のために親父をぬいたという何かが大事だと言われます。親父でなくてもいいし、それがどんな些細なことであってもいいそうです。僕が野球をこころから愛しているのは、それが野球でのことだったからです。

多摩川の近くに住んでいたので毎日のように川へ行って石を投げました。親父と思い切り遠くまで投げよう、あの大きな石を狙え、水切りで5回ジャンプだ、などと遊びました。だからボールを投げるなど朝飯前で、小学校のころから野球をやめるまでずっとピッチャーでした。

団地の草野球では敵なしで、中学は野球部がないので仲間チームを作って西川口の大人の草野球リーグでやりました。ここでもほとんど三振で打たれた記憶はあまりありません。だから中学ではちょっと有名で巨人の星が流行っていたころなのでオズマと呼ばれ、九段高校に入ると迷うことなく硬式野球部に入部しました。

初めての体育会、部活で上級生、下級生というカースト制度を知りました。3年生は神、2年生は人間、新人はモノなのです。モノのほうから話しかけるということは一切ありません。命令されるだけです。「はい!」と答えると「はいじゃねえんだよ、イッ!!と言え」と言われ、先輩の汚れ物を洗い、練習ボールの縫い目を縫い、試合では用具の運搬係りです。最初の1-2か月はボールを投げることもバットを振ることもない生活でした。

先輩たちの練習中はとにかく大声出し。「いこうぜいこうぜー」「おーらおーらーおーら」など各人各様の大声を数時間、間断なく出し続けるのです。それだけ。声はいつもガラガラです。昼休みは早飯して部室前に全員集合し、バットの素振り200本です。これが毎日です。遅刻するとケツバット。ヒップをバットでビシッとたたかれます。その日は痛くて教室では中腰で座り、3日はアザが消えませんでした。

3年生でキャプテンで不動の4番サード。桧前(ひのくま)さんという先輩はうっすら青髭のお顔からお言葉からすべてが怖く、特にケツバットの手加減がないことで新人に恐れられていました。しかし対外試合になれば強打のスーパーヒーロー。打たなかった試合はあまり記憶にありません。こちらも不動のエース篠さんとおふたりで敵をなぎ倒し、当時の九段は1リーグ時代の東京都、たしか170-180校あった中で第6シード校とけっこう強かったのです。

3年生最後の試合が、僕のブログ「ピッチャーの謎」にある神宮第2球場での日大一高戦でした。さすがの桧前さんも、そのまま甲子園に出て1試合17奪三振を演じることになる保坂英二(注)の剛速球に浅いセンターフライでした。

(注)3年の夏の東京都大会では、日大鶴ヶ丘に6回コールド勝ちした際、18アウト中17アウトを三振で取った。1回の先頭打者から9者連続三振、ショートゴロを挟み、8者連続三振。この年、ドラフト2位で東映フライヤーズ入団。

 

これが覚えている数少ない桧前さんがヒットを打たなかった試合です。その壮絶な対決をベンチから見て観客のようにシビれていた1年生の僕にとって、その大先輩と2週間後に対決することになろうとは夢にも思っていませんでした。

その翌週、恒例の夏の合宿なる地獄の1週間が尽性園野球場で始まりました。朝6時起床、2、3キロのランニング、朝食。1年生がグラウンド整備をしてそこから炎天下、昼飯以外は日が暮れるまで練習練習また練習。日が暮れてもベースに石灰を塗って走塁練習。水を飲ませないので猛暑でたおれて救急車かという者も出ます。僕は仕方ないので「頭冷やします!」と一声叫んでバケツの泥水を帽子ですくってかぶり、したたる水滴を先輩の目を盗んでなめました。

最終日にOB戦という試合が組まれています。2週間前までレギュラーだった3年生と大学で野球部にいる卒業生からなるOBチームに、1,2年生の新チームが挑戦する試合です。その先発メンバーがほぼ新チームのレギュラー候補ということです。前の日、僕はこの試合で畏れ多くも先発ピッチャーに指名されました。

その日の朝、完全にビビっていた僕は試合前から足がぶるぶる震えていました。落ち着け落ち着けと声に出していい聞かせるなさけない自分。ついにその時間が来てしまい、一塁側のブルペンでさあ投球練習だというときです。あの桧前さんがバットを持ってつかつかと近寄ってきて、人生初めて声をかけてくれたのです。

 

「東、ホームラン打ってやるからな」

 

なんという痛烈な一撃。それだけ言って彼は3塁側ベンチへ消えました。しかし、この一言で僕は変わりました。なぜかふっきれました。よーし、それなら見てろよー。

この試合、完投して7対2で勝ったこと、いきなり先頭にセーフティバントされて出塁されたこと、首にデッドボールを当ててしまった麻生先輩(本当にすみませんでした)が倒れて動かれなくなって騒然としたことぐらいしか戦況は覚えてません。

覚えているのは桧前先輩、あなたとの対決だけです。1打席目、真ん中高めストレート、高ーいピッチャーフライ。2打席目、真ん中高めストレート、高ーいピッチャーフライ。そして3打席目。真ん中高めストレート、高ーいピッチャーフライ。全部三振ねらいの渾身の一球でした。全部ホームランと紙一重の当たりでした。ホンモノのすごさにゾッとしました。一生忘れない真剣勝負、本当にありがとうございます。こころから感謝してます。

試合後、あこがれの篠先輩から呼ばれました。「東、いいものやるよ。」  篠さんのつけていた背番号1のゼッケンでした。人生で最もうれしかったことの一つです。でもその翌年、夏の大会前にまずヒジ、次に肩をこわして登板さえできず、桧前さん、篠さんから頂戴したご期待にお応えすることもなく僕の野球人生は実質1年で終わりました。背番号1から14への降格、転落、屈辱。勝負の世界は厳しいことも野球に教わりました。

3年生になった春、僕に代わってエースになった先発の長嶋君の調子が悪く、初回に3点取られ、ノーアウト満塁の走者を残して急きょ僕に交代。試合はそのまま3-0で負けましたが、そこから9回を完封したのが僕の最終登板になりました。最後のバッターを打ち取ったとき、とても満足で幸せな気分になり、これできっぱり野球をやめようと思いました。これもあの尽性園野球場でした。

試合後、水道でじゃぶじゃぶ頭を洗っているとき、隣で 「2番目のピッチャーよかったね」 と、それが僕と気がつかずにぼそっと声をかけてくれた都立墨田工業高校の選手の方。ありがとうございます。

ピッチャーの謎

僕は大阪人である

2012 OCT 10 14:14:32 pm by 東 賢太郎

ノーベル賞の山中先生、iPS細胞の命名由来が「iPodみたいに世界に広がってほしい」というコメントに感心しました。このマーケティング感覚! ラグビーやジャマなかと呼ばれた話もおもしろいですが、それを何のてらいもなくお話になる先生の人柄がすばらしい。先生は関西のかただなあと思います。

僕は生まれも育ちも東京ですが、社会人の第一歩は大阪です。それまで新幹線で通過したことはあっても、そこで降りようという気がおきたことは一度もありません。大阪のかたには申しわけないのですが当時の僕には、おそろしい、ガラが悪い、阪神ファンのヤジ、映画のヤクザ抗争みたいな刷り込みしかなかったのです。

野村證券に入社して、何の因果かその大阪梅田支店に配属になってしまいました。豊中の社員寮に入ったときの戦々恐々とした気持ちは今でも覚えています。さて阪急宝塚線に乗って初出勤の朝のことです。電車のドアのガラスにふと目をやると、なんと 「指づめにご注意」 とでっかいステッカーが貼ってあるではないですか。そうか、やっぱりそういうところなんだ。大変な所に来てしまった。完全にそう信じこんだ僕はその晩の歓迎会でさっそく女子社員たちの酒の肴になったのでした。

たぬきうどん!というとキツネが出てくる。汁がうすい。アイスコーヒー!というと 「レーコでっか?」 と言われる。冷やし中華!は 「レーメンでっか?」 と言われる。何が違うんだ? エスカレーターで左に立ち止ると突き飛ばされる。・・・・だからさあ、とか言うと 「ええかっこしい」 と言われる。串カツ屋のおばはんには東京モンと見るや 「にいちゃん、二度づけ禁止やで」 と先制攻撃をかまされる。なんじゃここは日本か!という日々。これがあったからこそ、僕はアメリカへ行って一度もカルチャーショックというものを味わったことのない人間に成長できたのです。

結局2年半の滞在でしたが、大阪は僕に鮮烈な印象を刻み、人生のイロハをたたきこみ、素晴らしい人たちとの劇的な出会いを与えてくれました。仕事での成功体験も、全部大阪でできたものが基盤になりました。これがなければその後の僕はありません。社会人としての東賢太郎は100%「大阪人」「関西人」であると胸を張って言うことができます。

山中先生のインタビューには、何ともいえない、やわらかいけどタフネスを裏に秘めた、関西人のエッセンスみたいなものを感じます。これはそのままグローバルに通用します。僕自身、ささやかながらそれで16年間海外の第一線で戦ってこられました。かたや、東京人は 「ええかっこしい」 が権威主義というものになっていないでしょうか。御用商人と堺商人のちがいみたいなものがないでしょうか。

京都大学のノーベル賞の数はどうもそれと無縁でないような気がするんだけどさあ・・・・

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