いじめにあってる子たちに
2019 AUG 15 21:21:18 pm by 東 賢太郎
唐川の球があっけらかんと打たれる。それがプロだ、日ハムの打撃力だといってしまえばそれまでだが、僕にはショックである。自分があんな感じになりたいと思っていた憧れのタイプの、しかもずっと格上の投手ですら打たれるのだから、結局自分が天狗だった能力なんて世の中では虫けらみたいなもんだという結論になってしまう。ということは、それが男として唯一の自慢だった僕には実はたいした能力はないという冷たい結論になるのである。
こういうショックは大事だと思ってる。そうやって、信じたくないことを客観的に思い知らされて学ぶからだ。それは野球の経験があるからできるのだが、「経験がないことからでも学べる」ということを経験して知ってさえいれば、実は学べるのである。つまり、何でもいいから自分の経験から「学んだぞ」という実感を得る。次に、その実感をもとに、経験はないけどあったらあのケースではこう感じるのではと類推する(自分で考える)。答えは、経験している人をたくさん探して質問してみる。何度もやっていると、だんだん正答率が上がってくる。類推がうまくなるのだ。こうなればしめたものだ。
人は負け、失敗、屈辱から学ぶものだと思う。だから何かしてだめだったらラッキー!と思わなくてはいけない。失敗は自分の弱点を教えてくれる先生だ。それを受け入れることに明るく前向きでいることだ。もし唐川が抑えていれば僕の天狗は64才の今も変わらなかったろう。それは事実でなかったことを眼前でなまなましく目撃してしまい、またひとつ根拠のない空元気が消えた。唐川本人がショックを受けたかどうかはともかく、僕は彼の失敗を通して「地球上で自分が座標軸のどこにいるか」を知る手掛かりをもらった。誰しも自分の良さも欠点もわかっていないものだ。そして、それを正確に知れば知るほど良いことがある。失敗が減るのだ。敵を知り己を知れば百戦危うからずなのである。
己を知らずに百戦を挑み続ければ、誰でもやがて確実に負ける。無敵の人はひとりもいない。世の中に自分より強い者、元気な者、賢い者、強運な者はいくらもいるのである。僕は真剣に頑張った野球と受験で思いっきり負けてしまい、自分を癒して逃がしてあげる道すら失い、若くしてけっこう正確に自分の「たいしたことない実像」を知った。人生で何が幸運だったといえば、それが最高のラッキーだ。だから大人になってから初めてそれを思い知って挫折してしまうという致命傷を負うことがなかった。まことに格好悪い現実なのだが、そこからは負けるケンカはしないという知恵がつき「敗戦率が低い」から生き延びただけだ。勝つ必要はない。勝とうと思うとリスクもあるしそれでも確率は高くない。長いこと負けない方が簡単であり「たまには」いいことがある。その「たま」は意外にも結構あるものであり、それが落ちてきたときつかむ難しい技はいらない。たまたま「そこにいる」だけでいいのである。
若い時はいくら逆境に落ちようと負けようと、めげさえしなければまったく致命傷ではない。僕は小学生のころ、早生まれで体も小さくて女の子に腕相撲を挑まれて負け、読むのも書くのも遅く、何をしてもぐずでのろまでお昼休み中に弁当を平らげることすらできず、勉強はできない方だった。当然ケンカは弱くていじめられたし、性格は変わっていて孤立したし、いま美点凝視で思い出そうとしても何もいいことがない。中学は公立で環境は変わったが美点のなさは似たようなものだった。野球が救いにはなったがまだ草野球であり、勉強だけは精一杯に頑張ったが高校は志望校を落ちた。
ところが、どういうわけか、親がそういう風に教育でもしていたのだろうか、今に見ておれそのうちわかるさという揺るぎない自信が不思議と心の底にあり、何があろうとあわてることがなかった。つまり、今になってみると、鈍感だったのである。僕は身体も暑い寒いに鈍感で衣服に頓着がない。頭痛と胃痛は経験がない。時間も方向も鈍感。人心や空気に鈍感。こういうものは、色がわからないのと一緒こたにして脳があきらめて捨ててしまったと思う。よく「鈍感力」とポジティブにも解釈されるがそんな立派なもんじゃない、ただニブい、ピンボケている、自分ではそんな感じである。
もしもいじめや失敗で悩んでいる人がいたら、生んでくれた親の愛、仮にもしもそれがなくたって、世におぎゃあと生まれて今そうして生きていることの幸せだけを見つめなさい。そして、家庭や学校や周りがどうあろうと、誰がなんといおうと、思いっきり鈍感でいなさい。学校は嫌なら行かなければいい。行くことが義務だと思う社会自体がいじめやパワハラかもしれない。何度も書いたが、僕は学校は行ったが教室では飲み込みが悪くて習わず、家で自分で考えて自分から習った。それでもハンディになんかならないし東大にも入れるのである。いやな奴など気する必要すらない、完全無視で何も感じなくなってしまえば怖いものはない。そして、「いまに見てろよ、そのうちわかるさ」と思ってさえおけば、そんなくだらないものや連中はあなたの人生には、確実に、何の関係もないと経験から断言できる。
僕のブログは今現在でPVが395万5338で、グーグル・アナリティックスによると「すべてのユーザー」の32%が年齢18~34才である。自分の3人の子供もこの年齢層であり、こんなに多くの若者たちが読者の3分の1というのは何年も前から変わっておらず、まさに誇りであり本望だ。僕の文章やコンテンツは分かり易くないし、分かり易くしようという気持ちもない。ただ、若者がこれから自力で運命を切り開いて、強く生きていくためには大事と信じることを書いている。未来の日本を背負って立つ人たちに自分の経験や失敗からの教訓を書いて残しておくのは僕らの世代の最後の仕事と思っている。ひとりでも何かを感じ、学びとってくれ良い人生を歩めたとなれば、この時代に産んでもらって果たすべき義務を果たしたことになるかもしれない。
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非情でなければ生きて行けない
2019 AUG 6 9:09:17 am by 東 賢太郎
ビジネスをするということは非情になることである。冷たくということではない。ハードボイルドな人間というイメージが近い。フィリップ・マーロウのセリフ、「非情でなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きるに値しない(If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.)」の “hard” は「タフ」と訳されているようだが、それならばなぜ筆者のレイモンド・チャンドラーが tough と書いていないのか説明できない。しかも、タフであることと優しいことは両立するから意味が通らない。gentle (優しい、寛大で)の対立概念(両立しない)である hard なら非情(感情に左右されない)というほどの意味だ。ハードボイルド(固ゆで卵)のハードの比喩もそれに掛けているのである。つまり、
情には厚いが、流されないということである。
僕はもともとそういう人間でなかったが、それでは I wouldn’t be alive になろうというひどい目にたくさん遭った。それと、僕の生来の人間に対する価値観が合体し、広い意味での “ファミリー” を守ろうとすると、好むと好まざるとに関わらずそうなるのである。僕はウソが大嫌いだ。好きな人は無論あまりいないだろうが、ウソには悪質なのと仕方ないのがある。仕方ないというのは、見のがすのが大人のマナーという範疇のものだ。これはよくある。「言わぬが花」もマイルドなウソではあり、それがおつきあいの潤滑油になったりもする。
積極的なウソはいわばトリックであって、何らかのこちらの不利益において自己の利益を計ろうとするものだ。ビジネスというものは必ずその計算があるのだからこっちもわかっている。理さえ通っていれば僕は万事を是々非々で聞く。はっきりそう言えばいいのに、言えない理由があるのである。それが何かを知る義務も必要もない。即座に関係終了だから。なぜか?そういう人とのつきあいは、やがて If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. に至ることを知っているからだ。だから問答無用で切る。チャンドラーもそういう男だったんじゃないかと思っている。
この「理さえ通っていれば」という部分が大変に重要だ。それでも「是か非か」はあるが、少なくとも、どんなものでも、僕は必ず真剣にどっちかを考えて判断する。理はないが情でしてくれるだろう、そこをなんとか、わかってくれますよね、という申し出を認めたことはいまだかつて一度もない。判断材料がないからだ。それをしないから情がないと思われても構わない。そういうことが嫌な人間だとわかっていない人、そういう世界やレベルの人とつきあうのは精神衛生上よろしくなく、このトシになって体に悪いことを好んでする理由はない。
僕は韓国に仕事上の友人、知己がたくさんいるがこういう政治情勢になると行き来はできそうもない。しかし彼らはみな理の通った立派なインテリだからつきあっているのであり、一緒こたにしたらそれこそ情に流されているということだ。国と国がどうなろうと彼らとの関係が微塵もおかしくなることはない。国は「挑戦に打ち勝ち、勝利の歴史を国民と共にもう1度作る」と息巻くが、いったい日本の誰が挑戦なんかしてるんだろう?このままだと株もウォンもさらに暴落だろうし財閥は逃げる。経済をぼろぼろにして北朝鮮と対等合併を狙ってるならそれなりに理だが。
アメリカは「俺が一番大事」が理である。困ったちゃんのジャイアン様だが、非情に分かり易いという利点はあり、そもそもないよりましだ。「わかってくれますよね」を無視すると逆切れされるようなことはなく、理でつき合える。日本は外交で gentle である必要など全然ない。If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. でいいのである。日本は早く死んでくれと願ってる「なりすまし」の新聞やテレビがどれなのか、賢明な日本国民がそれを見抜く好機がこの1か月であった。ここからもっと白日の下にさらけ出されるだろう。繰返すが、積極的なウソはいわばトリックであって、何らかのこちらの不利益において自己の利益を計ろうとするものだ。トピックが森羅万象の何であれ、僕は万事に渡り、「なりすまし」のウソつきが虫唾が走るほど嫌いだ。
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人生あと20年だったら何をしますか?
2019 JUL 1 1:01:46 am by 東 賢太郎
高島屋へ家族で食事にいくと「二子玉川50年の歩み」とポスターがある。そうか、あれからもう半世紀になるのか。1969年だから中学3年だった。オープンの時に来てギターを買ってもらったっけ。いまや高級住宅街とされてるらしいが、僕の脳裏にあるニコタマなんてこんなもんだったのだ。
ただ、写真の奥の上野毛の丘陵はお袋が皮手芸教室を始めたときにビラまきを手伝ったが、古くから居並ぶ豪邸に圧倒された。富士山を望む多摩川沿いの丘陵の南西向き斜面は「国分寺崖線」と呼ばれる。成城学園からここを通って田園調布まで続いているが、その記憶があるものだから東京広しといえど国分寺崖線以外に自宅を構えようという気はからっきし出てこなかった。そのために働いたみたいなものだったかもしれない。
いまやこの先あと何年あるかと思うようになってきていて、もう50年前のように夢を持つほどはないのは確実だから、それなら自然に生きるしかないと思っている。仮にあと20年あるとして17万5千2百時間だが、あるかもしれないしないかもしれないものを長いの短いのと考えてもしかたない。要はその17万時間、何をして過ごすか、何で埋めるかが重要なのである。
先日、蔵前国技館で相撲を観ていたら高須クリニックの懸賞がたくさん出ていた。高須院長が砂かぶり最前列におられてお元気そうで、報道によると彼は癌だがこういっておられる。「ムダな健康の知識なんて必要ないよ。だって身体ってコンピュータみたいなもんで、不調だったら原因は身体がわかってる。それで『眠い』とか『これ食べたい』という信号を送ってくるんだから、それに従うのが一番いいの」。そういうことだ。自然に生きようというのは、頭で決めるのではなく体がこうしたいと欲するままにするということだ。
僕の場合べつに長生きしたいということではなくて、17万時間の効用価値を最大化したい。そうすれば、最後になって「いい人生でした、ありがとう」となるだろう。しかし、おしりが見えないのだから「いま」の効用を最大にしながら、いざ終わってみたらトータルで幸せでしたとするしかない。だから結論はこうなる。常に目の前にある「いま」の選択として、
①やりたいことだけやる
②それ以外はぜんぶ捨てる
の2つを同時にする。いつ何時もそう考えて行動する。そうすると義理、人情、忖度みたいなもので惰性でやってきたものはぜんぶ不要という結論になるのではないだろうか。自分で体を張ってビジネスをすると誰にも忖度などいらなくなるのだ。モノは捨てればいいし、つきあいたい人だけとつきあえばいい。
でも身体に従うと言っても、自分が本当はどういう人なのかは誰もわかるようでわからないだろう。社会生活にまみれて手垢がついてしまい、鏡を見ても仮面をかぶった自分しか写っていないからだ。例えば僕は何か日常のありふれた出来事を見て、たぶん何万人に一人もそうは思わないだろうという風に思うことがある。そう生まれているのであって遺伝子の仕業だからどうしようもない。
そこで他の何万人は「**ですよね」と当然のように同意を求めるだろう。こっちはちっともそう思わない。そういうことが嵐のようにあるのである。それでよく証券会社なんかでやってきた。我慢してきたのだ。しかし行動するにあたってはそんなのは無視して100%自分の流儀でしてきた。それでいまがある。つまり我慢など実は一文の値打ちもないということを証明しながら生きてきたのだ。お客様だって一文の値打ちもないことに熱心な人間のサービスを受けたいとは思わないだろう。
ただし、矛盾するようだが、よほどの実力がある人を除いて若い人たちはそれではいけないとも思う。そんな実力なんかおよそ無縁な僕は忍耐、我慢の何十年を生き抜いてきたのだ。世間は大人が動かしている。大人に受け入れられるには多大な我慢がいるし、そうならなければやりたいことはできないのである。やってみればわかる。自分流を通すのは非効率と裏腹であって、時間を空費するし、それで嫌われて挫折した人を僕はたくさん知っている。だから、我慢はしながら、いつか自由を手に入れるぞと爪を研いでその日を虎視眈々と狙えばいい。
もう狙うもののない人生は退屈だが、やりたいことをすれば退屈ではないのだ。そうやって17万時間(?)をアロケートしていく。物事を見て僕と同じ風に反応してくれる人はいないことが分かったが、仮にいたとしてもそれでこっちが面白いかどうかは未体験ゾーンなのでわからない。まったくもって面倒くさい人間だ。いま周囲にいてくださる多くの方々は少なくとも嫌でないということは確実なのだが、なにを面白いと思っているかは言わないで死ぬだろう。どうしてって、それが人生面白いからだ。
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毎日どうやって酔って楽しもう?
2019 MAY 7 1:01:11 am by 東 賢太郎
そりゃあ人に喜んでもらって、自分も喜びをもらう、人生こんないいことはない。うれしいことは楽しいことだ、まいにちそうなれる人生が最高じゃないか。でもまず人だ、自分からじゃない。人の喜びがおおきくなってばくだいなけいけんのないよろこびがやってくる。とにかく人に有難うって言ってもらおう。ごみひろいでもなんでもいいよ、それを毎日探すんだ。ひとつがふたつ、ふたつがみっつ、そうやって幸せはふえてく。するとどこかで幸せはおなか一杯になるよ、そこだ、自分のできることはそこまで。それ以上はいらないからね、あさ目がさめてそうならば、眠くなるまであるがままに過ごそう、何も考えず。
いま,つらいことを抱えている人はたくさんいる。ここにもそこにも、ぼくはしっている。つらいのはできることがないからだよ、誰も見てくれてないからだよ、ひとりぼっちでさびしいからだよ、それならば勇気を出してやってごらん、人に喜んでもらえばぜんぶ消えてなくなるよ。他人の喜びは自分の喜びのレシピなんだ。するとあなたはいつのまにか頼られているよ。それに気がつくよ。もっとつらい人がいることを知るよ。だから悲しんでいる暇なんかなくなるんだ。
やがて、時がたって、少し年をとって、そういうこともいらなくなる時が来る。僕は、清水ミチコさんの大ファンだ、だって喜びをもらえるんんだから。韓国のパククネ元大統領もファンだ。きっといい人なんじゃないかな、でもさびしいんだんだろうな、どうもああいう姉さんにはよわい。それをやってるのがこれだ、清水ミチコさん。いいじゃないか、もう3時間でもやってほしい。
おちこんだとき、ぼくはこれになぐさめられてる。笑いじゃないよ、こころにぐっとくるからまじめだ。ほんとにこんな姉さんいたらいいな、まいにち行くなあ、クネねえ、早く出れるといいね、いのってるよ。
そういやあ最近お見かけしないですね、小池姉さん。いやいや、そうじゃなかった、平成最後の金曜日かな、帝国ホテルでお会いしましたよね、経済同友会の懇親会でしたかね、とてもお元気でなによりで。そうそう片山さつきさんもお会いしたけどね、まあまだまだ小尼だね、小池姉さんのがタイプでございますよ、ほんに。
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バンクシーの落書き騒動
2019 FEB 22 0:00:41 am by 東 賢太郎
むかし何げなく書いたブログです。5年前(2014年)のものです。今や有名になって、世界各国で落書きがバンクシー作品じゃないかと騒ぎになってるが、5年前はほとんど知られてませんでしたね、このブログもあんまり人気はありませんでした。
英語にsarcasticという形容詞があります。これがわからないとバンクシーもわかりません。皮肉って非難、冷笑するという感じですが、そう単純なものではなく「皮肉る」よりもっとスピンがきいて威力があります。英国人が得意というか、このマインドは英国人起源であることはほぼ間違いないと考えるし、英国人を良く知らないとたぶん理解が難しいとも思います。米国人が「It’s terrible!」と直球でけなすところを、あたかも褒めるかのような言葉で変化球でけなすのが英国なのです。
このDismalandなるテーマパークは仮想の「善」です。Disneylandのおちょくりだから、「米国がばらまいた偽善」と読み替えなくてはなりません。ファンタジー、英雄礼賛、退屈な日々からの脱却をうたってナイーブな愚民(idiot)をつくり、絶対勝てない的屋のゲームを競わせ、得体の知れないホットドッグを食わせ、借金でお困りでしょうと更に金利の高いローンを売りつける米国をテーマパークという「善」の象徴の風体を装って馬鹿にしている。しかし更に馬鹿にしているのはそれに気づかず騙されて生きている「あなた」という idiot (馬鹿)なんです、という強烈な毒味を効かせています。
You are so complex that you do not always respond to danger. は「あなたは複雑な人だ。複雑すぎて気がついてない危険なことがありますよ」と表向きでは言いながら「あなたみたいな単細胞の馬鹿はみたことない。日々騙されまくりの人生だね」と言っている。sarcasticというのは言いたいことの真逆を直言しておいて、実は相手を批判したりおちょくったりする変化球のことなのです。言われた方は裏の意味に気がつけば不快なのですが、「ほう、気がついたの?じゃそこまで馬鹿でもないんだね」というニュアンスがあって、それに対して真剣に怒ると今度は救われないという無言の圧力がある。
「このホットドッグ、何のお肉が入ってるか当ててごらん、当たった人は無料にするよ」。「ポーク」「ビーフ」→「はずれです、お金払って」、「いえいえ、実は**じゃないの?」→「当たりです!タダで持ってきな!」、さて、あなた、この**肉のホットドッグ食べますか?はずれ=馬鹿、あたり=賢い、でも食べられない。sarcasticは負けがないのです。常に優位にある。ご参考までに、アッパー(上流階級)の英国人はそうでもないが下のクラスの英国人インテリは「おいしいね」を delicious なんて絶対言わない。米国人の terrific なんて猿なみと思ってる。こう言うのです「Not too bad」。基準がお高い。私は(君たち)猿とは違う。いつも言外にそれを imply したいのです。
僕の仕事は6年間ロンドンで毎日英国人インテリたちと株の取引をすることでした。この「毎日」ってのが大変なことなんです。例えば高校時代は、毎日、昼休みに野球部員は部室に集合して200本のバットの素振りをさせられてました。3年間毎日。だから今でも同世代では体が強いかなと思っています。同じことで、毎日商売で英国人顧客にsarcasticな物言いで苦情を言われていじめられていると、それが伝染して僕自身がsarcasticな人間になってしまっているかもしれない。だから5年前に動画を見てビビッときて、心から気に入って、やっぱりそうかということに感動して、バンクシーなんか誰も知らないだろうけどお構いなく自画像としての「礼賛」のブログ執筆に至ったわけです。
僕は米国礼賛派ではありませんが、そうはいってもお世話になった米国だから、バンクシーの米国おちょくりが気に入ったわけではありません。英国人は judge(審判) になりたがる。それが妙に懐かしいなと、バットの素振りみたいにですね、懐古心がうずいたというところです。6年間英国のクラシック音楽専門誌Gramophoneを愛読し、あれで judge のなり方を心得ました。これで議論がうまくなって随分と得をしました。インテリしか読まない雑誌ですからね、上流階級の英語の単語から言い回しから何から勉強になった。上流は攻撃されないんです英国では。それを覚えたい人にはGramophone購読を強くお勧めしますよ。それで肌で分かったのです、terrific は確かに猿だな、差別だ何だ言っても仕方ないなということが。ただそれを表立って口にしてはいけません。お品がないし、そこでたたかれてしまう。
前に書いたことですが、僕が知る限りそれを最も elegant に intelligent に言いえた名言は、英国人指揮者サー・トーマス・ビーチャム(Sir Thomas Beecham、1879 – 1961)のこれです。これぞ最高傑作である。
Ravinia is the only railway station with a resident orchestra.(ラヴィニアはレジデント・オーケストラを有する世界で唯一の駅である)
ビーチャム卿は怒っているのです。このワン・センテンスで、猿にエロイカはわからんと名誉あるラヴィニア音楽祭を完膚なきまでこき下ろして、呼ばれても二度と指揮に行かなかったのです。でもそう見えないでしょう? カッコいいでしょう? 将来の日本を背負って立つ若者のみなさんはぜひ、こういうことを学んでくださいね、学校の先生は絶対に教えてくれませんからね。
そのココロは、ここにございます。
sarcastic+witty である。これをRavinia駅長や音楽祭委員会が「侮辱だ!差別だ!」なんてやったらサマにもならない。みっともないし、それがそもそも民度で負けてるよねとなって思うつぼにはまってしまう。だからやらないし、この逸話をこじゃれたアネクドートとして音楽祭の栄えある歴史の一幕に組み込んでしまっています。もちろん米国のインテリもスマートなのです。
大英博物館にも似た事件がございますよ。バンクシーに展示品を装ってこんな「原始洞窟壁画」をこっそり置かれ、おちょくれらてしまったのです。博物館は3日それに気がつきませんでした。
しかし、不法侵入罪だなんて下種なことは大英博物館はいわないのですね。ツイッターでこう書いてしまうのです。
The hoax piece is going back on display – ‘officially’ this time – in our #IObject exhibition highlighting the history of dissent and protest around the world.
Listen to co-curator Ian Hislop talk about this piece today at 9.00 on @BBCRadio4: http://ow.ly/xvRt30lB8sK
(この展示品は偽物であり撤去いたしましたが、当博物館が現在展示しております「世界の反抗と抗議活動の歴史」において、このたび「正式な展示品」として復活させる事に致しました。当館の共同館長であるイアン・ヒスロップが9時からBBC第4放送にて当作品につき解説いたします)
知性と教養とお品と格調を持って下種の悪戯をまじめな顔して返し技の悪戯で食ってしまう。日本国外務省と外交官はアジアの英国流でいくべきですね、できるのは日本だけだし、カッコいいから反撃できませんし、すれば猿の猿回しになって失笑買うだけですしね。
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ブログ総閲覧数300万の御礼
2019 FEB 7 1:01:45 am by 東 賢太郎
そう人様をエンターテインできる人間ではなく、ブログの総閲覧数が300万というのは人生で最も想定外の出来事のひとつです。音楽を愛される方が多いのでしょうか、もしそうならちょっとうれしくおもいます。
子供のころブラームスの交響曲第4番がちっとも面白くなくて、「あれは大人の曲なんだ」と敬遠してました。ところがハタチを過ぎても渋すぎで、「そうか、あれはお爺ちゃんの曲なんだ」となりました。30ぐらいになると少しわかってきて、すると今度は「4番は子供にはわからんさ」なんてほざきだしました。
彼がそれを書いたのは52才です。気がついたらこっちは超えていて、一抹の焦りを覚えたものです。そして先日64才になって、いやな予感がして調べたんです。恐れていたとおりでした、なんとブラームスは63才と11か月で死んじゃってるではないですか。
CMで「今年で還暦です」「ええ?お若いですね」なんてやってて、このお爺ちゃん俺より4つも若いのか(がっくり)なんてことが日常茶飯事です。でも、このブラームス博士より年上なのかというショックに比べればかわいいもんです。
「お父さん、ピアノ弾いてるとブラームスみたいだね」と長女が言うのは、もちろんうまいという意味ではありません。壁に飾ってあるこの絵に似ているという意味なのです(体形が)。
ブラームスが消えてしまった。巨星墜つというか、人生の里程標を失ってしまったなあ、次は誰にしようかなあと調べると、一番長生きしたのはたぶんシベリウスなんですね、91才まで。しかし彼も7番を書いて隠遁しちゃってる、それって59才なんです・・・。次はストラヴィンスキーだ(89才)、でも彼も晩年は枯れてますね。
元気なのは80才でファルスタッフを書いたヴェルディ、77でカプリッチョを書いたR・シュトラウスだけどあんまり興味ないなあ・・・。ブルックナーが9番をまだ書いてないぐらいかな(でも未完でしたね)。一縷の望みをかけた敬愛するフランツ・ヨーゼフ・ハイドンさん、最後の交響曲第104番「ロンドン」が63才の作品なのでありました。
ということで、幕はおりました。もうどうあがいても無駄でございます。こんな出涸らしにおつきあいいただいている皆さまには感謝の念しかございません。ほんとうにありがとうございます。
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キャリアハイの仕事は負けからやってくる
2019 JAN 13 14:14:20 pm by 東 賢太郎
大手町を歩いているとたまに呼び止められる。年末にまたそれがあった。みずほで部下だったS君だ。軽く近況を話しながら、彼と行った外交先やゴルフ接待のことなどを次々と思い出していた。彼だけじゃない、最近は銀行がお客様になったり、ご融資もいただいて助けてもらったり、商売のフロントでもメガの第一線でご活躍中のバンカーと一緒に仕事するようになっている。これは僕の人生の辞書には書いてないことだった。
就職のとき、親父が銀行員でどことなく反発があって銀行に就職という発想が持てなかった。母には「あなたは向いてないからね、銀行だけはやめてね」と懇願された。東大法学部には民間なら銀行という空気があって、それに対して付和雷同嫌いの性格が騒ぎだしていたし、そもそも勉強してないのだから受かりもしなかったろう。熱心に誘ってくださったのが三菱Gの名門会社で、10年目に1か月休暇で世界1周できるという雄大なお話に大いに気持ちが動いたが、お世話になっていたらどういう人生が待っていたのだろうといまでも一抹の後悔がある。
野村からみずほに転籍させていただいたのは2004年だ。そういう経緯があったから、入るのは証券会社とはいえガバナンスは銀行にあるという意識がかなりひっかかっていた。というのは、面接は、「銀行頭取からエクイティ引受元年にすると厳命が下っている、証券のその部門を率いてくれ」という話だったからだ。当時のみずほ証券は国内の株式引受で主幹事案件実績がゼロ。主幹事あたりまえの野村證券目線からすれば何もないに等しい。しかも株式業務といっても僕は引受部門の経験がない。それをやってくれというのだから人違いだと思い、はっきりそう申し上げたら返ってきた言葉が「東くん、僕は君のことをよく知っているんだ」だった。
これがY常務との人生初の出会いだったが、実に意味深かったことになる。49才で25年勤めた会社を辞めるのは大きな決断だったが、この30分の面接一回で腹が決まる。動機は仕事内容ではない、「士は己を知る者の為に死す」であった。その証拠に給与、タイトル等の移籍条件の話をするまえに「お世話になります」と電話した。実はその時点で別の銀行系から条件面でずっと上のオファーをもらっていたがお断りの電話を入れた。野村が嫌いになったわけではない。ただあのころ、ひとえに僕の力不足ゆえ、優秀な若手が次々と台頭して出番は確実に減っていた。要は出世競争に負けたわけだ。野球でいうならば「試合に出たい、必要としてくれる球団はないか」という気持ちを止めようがなかった。
母に、ごめん、銀行系に行くことになったと報告したら少し考えて僕の目をじっと見て、「うまくやってね」と言った。母の直観力は凄い。ごまかせたことは一度もない。これが最後の会話だった。いいわけになるが、積極的な気持ちで「行く」ということではなく、行かざるを得なくなってボートに乗った難民みたいなものだった。おそらく、気合が尋常ではなかったから使っていただけただけで、別に僕でなくてもいっぱしの証券マンなら誰でもよかったのではないか。いま思うとそれが時の利というものであって、そういう巡りあわせの瞬間にたまたま良い具合にそこに「居た」だけだ。人生は本当にわからない。
そこから2年が過ぎた。主幹事本数をゼロから16本とし、年度前半の実績で大和証券をぬいた。日本航空のグローバル・コーディネーター(国際主幹事)のトップ・レフトをかけて常連の野村證券、ゴールドマン・サックスとの三つ巴の激戦となり、ついにせり勝った。この戦いに証券マンとして持てるものすべてを投入したし、そんな場を与えていただいたことには身震いするほどの幸運を感じたし、勝てもしたから運もあった。我が業界、国内主幹事ゼロというのは国体でメダルがない選手ということであって、それが突然にオリンピックに出て金メダルを取ってしまったということに等しい。
しかし、そう甘くはない。そこから激烈な反撃にあった。ニューヨークのロードショーでJALのN社長に随行して成田を出発する直前だ、この期に及んでシ団を降りる(辞退する)という会社が出てきて社内は騒然となった。するとウチも考えると同調する所が現れ、ディールが中止に追い込まれるかもしれない異常事態に陥った。暗に「JAL様、主幹事のご選択間違ってませんか?」と数社がつるんだ揺さぶりだった。夜中の3時にホテルの社長の部屋に関係者が全員集合し、僕が東京へ電話して降りる宣言をした大手証券の役員とシビアな談判になった。
押されたら負けだ。幕末の薩長と同じじゃないか、敵は多勢でも天皇はこっちにおられるぞと腹をくくった。おどしすかしの応酬で最悪の事態は回避しながら説明会を開催し、ニューヨーク、ボストンの有力投資家をまわり、疲れ切って帰国のJFK空港ラウンジの椅子で熟睡していたらN社長が探しに来られてねぎらってくださった。帰ったら体重は5キロ減っていた。株主総会直後の増資の決定の仕方についても公然と批判が噴出した。日経新聞の社説で論説委員に連日ぼろ糞にたたかれたが、みずほの経営会議は歯牙にもかけず大成功とたたえてくれた。
もうひとつ、懐かしいのがある。テレビ東京のIPOだ。値決めで議論があって、調印式会場のディズニーシーの会議室でS社長になぜ3000円じゃないんだ(2900円を提案)と激怒されてしまった。当方には考えがあったが何かが至らなかったのだろう、役員でもない君が何様だと調印は見送りとなってしまい、同席の部下たちは凍りついた。翌日ねばった末ついにご理解いただき、公開初日は想定どおり盛況な売買で成功だった。後日の上場祝賀会でS社長が「君の言うとおりだった」と乾杯し女子アナをおおぜい呼んで囲んでくださった。
しかし初めからそううまく進んだわけではない。周囲も部下も銀行員で、仏教徒とキリシタンの会話である。野村では注文を取ることを「ペロを切る」と言い「切ってナンボ」と教える。営業行為というのは顧客によって千差万別の数々の障壁をクリアしないと成立しない。10個あるなら10個撃破してナンボだ。「9個クリアは自己評価で何点?」「90点です」「なに言ってんの、零点だよ」なんていう会話があってシーンとなる。超高学歴部隊でプレゼン資料の厚さを競うみたいな文化があり、下手すると100ページもあって目が点になる。「3ページにしろ」と返すとこんどは彼らの目が点になる。
言い訳も多い。「零点の生徒に言い訳の権利はない」とつっぱねる。最初の部門予算会議で「東君、大変だけど頼むよ」と言われ、数字を見たら120人もいるのに収益予算が16億円だ。誤植と思い「常務、これ一桁ちがってませんか?」と聞いたらまわりは凍った。いけない発言だったらしい。しかし、半年もするとだんだん皆さんの目の色が変わってきた。東芝の公募が取れてしまい頭取賞をいただいた。「零点」「3ページ」が効いたのか、見えないマグマのような力で部下たちが次々とペロを切った。実は優秀だったのだ。結局その年に予算の10倍ぐらいやってしまい、部門の空気は明らかに変わって勝てる軍団になっていた。証券マン人生で最もエキサイティングな思い出だ。
どうして御託ならべばかりだった部隊がああなったのか?おそらくこっちも引受は初心者だったからだ。そんな状態でプロだと迎えられ、尻に火がついていたのだから皆さんに僕の「一生懸命ぶり」が通じたのかなと思う。それでも重石の役みたいなものだからぶれたらいけない。どこへ出てもドンと構えるしかない。それを部下たちが自信をもって使いまくってくれた。大手町で声をかけてくれたS君もそのひとりだ。彼らの自信が顧客企業にハートで通じて、じゃあ初めてだけど一回みずほ証券にまかせてみようとかとなる。それがうまく片付く、もっと自信がつく、我が部もやらなくては、という好循環になったのだったと思う。
こうやって、僕は野村證券で育てていただいて、みずほ証券でキャリアハイの仕事をさせていただいた。どちらだけに恩義があるとは言い難く、両方がセットになってなるべくしてなったという感じだが、ひとつだけ間違いないことがある。「負け」が原動力になったことだ。僕は何が嫌いといって、負けることだ。50才にもなれば普通は残ったガソリンで10年持たせようと低燃費走行にはいるだろう。そこでハイオクを満タンにしてアクセル全開にするなんて、負けの悔しさがなければするはずもなかった。
さらには、その加速で時速200キロ出てなければ、5年後に今度は起業しようなどというターボエンジンが作動することもなく、今ごろは平平凡凡のリタイアに追い込まれて何もすることがなくなっていただろう。僕にとってそれは許せない最悪の事態であり、人生の負けなのだ。しかもその負けは挽回するチャンスはもうないから、事故で大破するようなもの。それも、時速10キロで路肩に乗り上げて動けなくなるみたいなもので、これぞ、まぎれもなく、僕の人生の辞書には書いてないことだった。
望んでそれができたわけでも何を頑張ったわけでもない。たまたま難民になって負け犬のボートに乗って漂着して、そこに居ただけだ。ただ、若いころに普通の何倍もの苦労をしていたからどんな土地でも生き抜く自信と生命力だけはあった。それさえあればいい。居るだけでいいチャンスなど誰にもめぐってくる。つまり、逆境にあっても絶対にあきらめてはいけないということこそ金言なのだ。ただの負けというのはゲームの負けで実はチャージのことであり、あきらめるということは人生の負けでこっちは取り返しはつかない。やり続ける限り、小競り合いにいくら負けても負けたと思う必要はない。勝つまでやればいいだけだ。
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エマ・ドゥ・コーヌ(Emma de Caunes)
2018 DEC 30 22:22:58 pm by 東 賢太郎
エマ・ドゥ・コーヌ(Emma de Caunes、1976年9月9日 – )は、フランス共和国の女優。
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野村證券・外村副社長からの電話
2018 DEC 10 23:23:02 pm by 東 賢太郎
外村さんと初めて話したのは電話だった。1982年の夏のこと、僕はウォートンに留学する直前の27才。コロラド大学エコノミック・インスティトゥートで1か月の英語研修中だった。勉強に疲れて熟睡していたら、突然のベルの音に飛び起きた。金曜日の朝6時前のことだ。
「東くんか、ニューヨークの外村です」「はっ」「きみ、野球やってたよな」「はあ?」「実はなあ、今年から日本企業対抗の野球大会に出ることになったんだ」「はい」「そしたらくじ引きでな、初戦で前年度優勝チームと当たっちゃったんだ」「はっ」「ピッチャーがいなくてね、きみ、明日ニューヨークまで来てくれないか」「ええっ?でも月曜日に試験があって勉強中なんです」
一気に目がさめた。この時、外村さんは米国野村證券の部長であり、コロンビア大学修士で日本人MBAの先駆者のお一人だ。社長は後に東京スター銀行会長、国連MIGA長官、経済企画庁長官、参議院議員を歴任しニューヨーク市名誉市民にもなられた寺澤芳男さんだった。寺澤さんもウォートンMBAで、ニューヨークにご挨拶に行く予定は入っていたが、それは試験を無事終えてのことでまだまだ先だ。なにより、留学が決まったはいいものの英語のヒアリングがぜんぜんだめで気ばかり焦っているような日々だった。しかし、すべては外村さんの次のひとことで決したのだ。
「東くん、試験なんかいいよ、僕が人事部に言っとくから。フライトもホテルも全部こっちで手配しとくからいっさい心配しないで来てくれ」
コロラド大学はボールダーという高橋尚子がトレーニングをした標高1700メートルのロッキー山脈の高地にある。きいてみると空港のあるデンバーまでタクシーで1時間、デンバーからニューヨークは東京~グァムぐらい離れていて、飛行機で4~5時間かかるらしい。しかも野球なんてもう10年もやってないし、相手は最強の呼び声高い名門「レストラン日本」。大変なことになった。
その日の午後、不安になり友達にお願いして久々に肩慣らしのキャッチボールをした。ボールダーで自転車を買って走り回っていたせいか意外にいい球が行っていてちょっと安心はした。いよいよ土曜日、不安いっぱいで朝の飛行機に乗り、午後JFK空港に着くと外村さんが「おお、来たか」と満面の笑顔で出迎えてくださった。これが初対面だった。午後にすぐ全体練習があり、キャッチャーのダンだと紹介されてサインを決めた。外人とバッテリー組むのは初めてだ。「俺は2種類しかないよ、直球がグーでカーブがチョキね」。簡単だった。フリーバッティングで登板した。ほとんど打たれなかったがアメリカ人のレベルはまあまあだった。監督の外村さんが「東、明日は勝てる気がしてきたぞ」とおっしゃるので「いえ、来たからには絶対に勝ちます」と強がった記憶がある。そう言ったものの自信なんかぜんぜんなく、自分を奮い立たせたかっただけだ。ご自宅で奥様の手料理をいただいて初めて緊張がほぐれたというのが本当のところだった。
いよいよ日曜日だ。初めて知ったが、それは第七回日本クラブ主催軟式野球大会というものだった。試合はマンハッタンとクィーンズの間にあるランドールズ・アイランドで朝8時開始である。こっちがグラウンドに着いたらもうシートノックで汗をかいて余裕で待ち構えていたレストラン日本は、エースは温存してショートが先発だ。初出場でなめられていたのを知ってよ~しやったろうじゃないかとなった。板前さんたちだろうか全員が高校球児みたいな髪型の若い日本人、声出しや動きを見れば明らかに野球経験者で体格もよく、こっちは日米混成のおじさんチームで僕が一番若い。初回、先頭打者にストレートの四球。2番には置きにいった初球を左中間2塁打。たった5球で1点取られ、やばいと思った。鳴り物入りでやってきてぼろ負けで帰るわけにはいかない。3番は記憶がないが、4番を三振に取ればマウントできると思って渾身の高めストレートで狙い通り空振り三振にとった。それで平常心に戻り、なんとか2点で抑えた。
勝因は外村監督の「バントでかき回せ」「野次れ」の攪乱戦法に尽きる。これがなかったら強力打線に打ちくずされていただろう。全員が大声を出してかき回しているうちに徐々に僕のピッチングも好調になって空気が変わってきた。第1打席で三振したので外村監督に「次は必ず打ちます」と宣言し、次の打席でファールだったが左翼にあわやホームランを打ち込んだとき、相手投手がびびった感じがして四球になり、勝てるかなと初めて思った。そうしたら不思議と相手に守備の考えられないミスも出て、流れは完全にこっちに来た。ダン捕手のリードが良くてカーブがまったく打たれず、後半はのびのび投げて被安打3、奪三振5で完投し、大番狂わせの11対2で大勝。翌日の日本語新聞の一面トップを飾った。甲子園でいうなら21世紀枠の都立高校が大阪桐蔭でも倒したみたいな騒ぎになった。
午後の飛行機でコロラドに帰ったが外村さんのご指示で持ちきれないぐらいのインスタントラーメンやお米をご褒美にいただき、学校でみんなに配ったら大評判になった。試験のことはからっきし記憶にないが、無事にウォートンへ行けたのだからきっと受かったんだろう。ということはシコシコ勉強なんかしてないで野球でサボって大正解だったわけだ。やれやれこれで大仕事は果たしたと安心したが、それは甘かった。翌週末の2回戦も来いの電話がすぐに鳴り、三菱商事戦だったがまたまたバント作戦でかき回し、10対0の5回コールド、僕は7奪三振でノーヒットノーランを達成した。また勝ったということでこの先がまだ3試合あって、フィラデルフィアからも2度アムトラックに乗って「出征」し、日系企業45チームのビッグトーナメントだったがいちおう準決勝進出を果たした(プロの投手と対決した思い出)。
準決勝で敗れたがそこからが凄かった。決勝戦と3位決定戦はルー・ゲーリックがプレーしたコロンビア大学ベーカー・フィールドで行われたからだ。そんな球場のマウンドに登れるだけで夢見心地で、けっこう普通のグラウンドだなと思ったがアメリカ人の主審のメジャーみたいにド派手なジャッジがかっこよくてミーハー気分でもあった。ベースボールってこんなものなのかと感じたのも宝物のような思い出だ。この試合、まずまずの出来で完投したが、相手投手陣が強力で攪乱戦法がきかず4対2で負けた(被安打2、奪三振5)。思えばこれが人生での最後のマウンドになった。本望だ。甲子園や神宮では投げられなかったけれど、すべてが外村さんのおかげだ。
残念ながら初陣は優勝で飾れず申しわけなかったが、この翌年、ウォートンで地獄の特訓みたいな勉強に圧倒されていた僕は外村さんがアリゾナ州立大学の投手とハーバードの4番でヤンキースのテスト生になった人を社員に雇ってついに念願の優勝を果たされたときき、おめでとうございますの電話をした。我がことのようにうれしかった。アメリカで仕事する以上は野球で負けられんという心意気には感服するばかり。遊びの精神がなかったら良い仕事なんてできない、こういうことを「たかが遊び」にしない、やるならまじめに勝つぞという精神は、仕事は本業だからさらに勝たなくてはいけないよねという強いスピリットを自然に生むのだ。僕みたいな若僧を委細構わず抜擢して火事場の馬鹿力で仕事をさせてしまう野村のカルチャーも素晴らしいが、それをああいうチャーミングでスマートな方法でやってのけてしまうなんて外村さん以外には誰もできなかった。
この大会の結末はというと、決勝戦は日本教育審議会とJALの対決となり、1965年の夏の甲子園1回戦であの平松政次の岡山東を完封した神山投手(日大二)擁する日本教育審議会が1-0の接戦の末に優勝した。JALのエースはニューヨーク・ヤンキースのテスト生で剛球左腕のオザワだった。もう試合を終えていた僕は客席で観戦していたが、この試合は緊迫したプロ並みの投手戦となり球場がかたずをのんだ。
試合後の表彰式で4チームの選手がホームベース前に整列した。各監督への賞品授与式が終わって、いよいよ選手一同のお待ちかね、今大会の「Outstanding Player賞」(最優秀選手賞)の発表である。優勝投手の神山さんと誰もが思っていたらマイクで呼ばれたのは僕の名前だった。一瞬あたりがシーンとなる。各チームのエースの方々の経歴は神山さんが阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)、2位がヤンキース、3位が読売ジャイアンツで素人は僕だけ。しかも4位である。聞き間違いだろうとぐずぐずしていたら、その3人の大エースがお前さんだよ早く出てこいと最後尾にいた僕を手招きし、そろって頭上であらん限りの拍手をくださった。ついで周囲からも拍手が響き渡り、あまりの光栄に頭が真っ白、お立ち台(写真)では感涙で何も見えていない。
これを最後に僕が野球に呼ばれることはなかったから、これが引退の花道みたいになった。高2で肩・ひじを故障して泣く泣く野球を断念した人間だ、おかげでそのトラウマは薄れた。しかし、それもこれも、同じほど信じれられなかった外村さんの電話からはじまったことなのだ。これがその後の長い野村での人生で、海外での証券ビジネスの最前線で、独立して現在に至るまでの厳しい道のりで、どれだけ自信のベースになったか。後に社長として赴任されたロンドンでは直属の上司となり、今度は英国流にゴルフを何度もご一緒し、テニスやクリケットも連れて行っていただいた。国にも人にも文化にも、一切の先入観なく等しく関心を向け、楽しみながらご自分の目で是々非々の判断をしていくという外村さんの柔軟な姿勢は、ビジネスどころか人生においても、今や僕にとって憲法のようなものになっている。
そこからは仕事の上司部下のお付き合いになっていくわけだが、常に陰に日向に気にかけていただき、ときに厳しい目でお叱りもいただき、数えたらきりのないご恩と激励を頂戴してきたが、誤解ないことを願いつつあえて本音を書かせていただくならば、僕から拝見した外村さんの存在は副社長でも上司でもなく、すべてはあのコロラドの朝の電話に始まるニューヨーク野球大会での絆にあった気がする。だから、まず第1にグローバルビジネスの酸いも甘いも知得されなんでも相談できる大先輩であり、第2に、延々とその話だけで盛り上がれる、野村には二人といない野球の同志でもあられたのだ。
きのう、外村さんの旅立ちをお見送りした今も、まだ僕はそのことを受け入れられていない。9月10日にある会合でお会いし、ディナーを隣の席でご一緒したがお元気だった。その折に、どんなきっかけだったか、どういうわけか、不意に全員の前で上述のニューヨーク野球大会の顛末をとうとうと語られ、
「おい、あのときはまだ130キロぐらい出てたよな」
「いえ、そんなには・・・たぶん120ぐらいでしょう・・・」
が最後の会話だった。11月1日にソナーが日経新聞に載ったお知らせをしたら、
東くん
何か新しいことに成功したようですね。おめでとう。
外村
とすぐ返事を下さった。うれしくて、すぐに、
外村さん
ありがとうございます、少しだけ芽がでた気がしますがまだまだです。これからもよろしくお願いします。
東
とお返しした。これがほんとうに最後だった。この短いメールのやり取りには36年の年輪がかくれている。おい、もっと説明してくれよ、でもよかったなあ、という「おめでとう」だ。でもわかってくださったはずだ。そして、もし説明していたら、外村さんはこうおっしゃっただろうということも僕はわかってしまう。
12月5日の夜、外村さんが逝去される前日に、なんだか理由もきっかけもなく、ふっと思いついてこのブログを書いていた。
あとになって驚いた。1982年だって?このブログはコロラド大学に向けて成田空港を出発し、外村さんからあの電話をいただく直前の話だったのだ。どうして書く気になったんだろう?どこからともなくその気がやって来たなんてことじゃない、あれから36年たってかかってきた、もう一本のお電話だったのかもしれない。
外村さん、仕事も人生もあんなにたくさん教わったんですが、野球の話ばかりになってしまうのをお許しください。でも、きっとそれを一番喜んでくださると確信してます。ゆっくりおやすみください。必ずやり遂げてご恩返しをします。
寺尾聰「ルビーの指環」
2018 DEC 5 21:21:22 pm by 東 賢太郎
先生と「サインは V !」のジュン・サンダースは范文雀(はん ぶんじゃく)だ、台湾美人だという話になり、そういえば蔡英文の民進党が国民党に大敗したのは彼女は法学博士でインテリだが人の心がわからんからという話になり、帰宅して僕は范文雀は寺尾聰の奥さんだったことを思い出していた。
調べると「ルビーの指環」が世に出たのは1981年2月のようだから僕はまだ梅田支店にいたはずだが、ぜんぜん大阪とイメージが重ならないのは人事部から「留学だ」と辞令があってもう心が飛んでいた、というより、ウォートンに行けということになったはいいがあまりの英語力のなさに顔面蒼白だったからと思う。アメリカに一緒に来てほしいと家内にプロポーズして、6月に異動で本社に戻った。大阪に別れを告げるのは寂しかったが、2年半ぶりの東京は嬉しかった。
ちなみに当時の野村證券は妻帯者の留学は認めていなかった。なのにプロポーズしてしまった愚か者だったわけだが、妻をとるか留学をとるかという二択の頭はからっきしなかった。両方とる、なんとかなる、そういう超楽観主義だった。人事部長のGさんに馬鹿者と叱られ問題になったが、留学取り消しにはならず翌年2月に無事に式を挙げさせていただいた。もう転勤してるのに梅田支店の先輩同期後輩がたくさん東京まで来てくださったことは忘れない。
しかし留学のほうは大変に問題だった、当時ウォートンの入試はTOEFLの足切りが600点だった。大学入試の英語はちゃらんぽらんだったが社内の選抜試験は2番だったらしく、まあ平気だろうと世の中をなめて何の準備もなく受けたら480点だ。やばいなと思った。たしかもう2回受けてなんとかすべりこんだ。GMATは代々木の予備校に通って、こっちもぎりぎりのセーフだった。
なにせ全米最高峰だぞと先輩に脅されており、エッセイを必死に書いて祈るように願書を封書で送った。それを審査して合否発表は手紙で来るのだが何か月も待てど暮らせど音沙汰もなく、実家で悶々としていた半年はほんとうに辛かった。その間、所属は人事部付で仕事は英語のレッスンである。支店営業からすれば天国だったが、だからこそ不合格だったら支店だぞという思いがあった。
合格を知らせる封書が来たのは何月だったか忘れたが年明けだ。まずはやれやれの安堵、やがて、アメリカに行けるという歓喜、そしてしまいに、MBAなんか俺が取れるのかという恐怖が襲ってきた。「ルビーの指環」は、そのあたりで大流行していたはずだが、曲はよく覚えているのにそういう現実と結びつかないのは不思議だ。
38年ぶりに聴いて、感嘆する。なんてかっこいいんだろう。
寺尾聰は昭和22年生まれで8才上、まさに我々世代をノンポリと馬鹿にしてゲバ棒振ってた団塊のアニキ世代だ。彼に憧れてでっかめのレイバンをかけたっけ。でもこっちはアメリカへ行くんだぜなんて粋がってた。
歌がプロっぽくないのがいい。カラオケできまってる等身大レベル。ビートルズだってそうだし、ユーミンの男バージョンという感じだ。歌詞もいいね。女は別れた男なんか「上書き」しておしまいだが男はこんなもんだ。
枯葉ひとつもない命、あなたを失ってから・・・
それにしてもこの曲、なんでこんなに耳に残るんだろう?何度聞いても飽きない。音楽的な秘密があるわけだが、それは次回にする。
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