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ストラヴィンスキー バレエ音楽「ペトルーシュカ」

2014 FEB 5 12:12:09 pm by 東 賢太郎

日露戦争終結(1905年9月5日)

ロシア第1次革命終結(1907年6月19日)

火の鳥(1910年6月25日、パリで初演)

ペトルーシュカ(1911年6月13日、パリで初演)

春の祭典(1913年5月29日、パリで初演)

第1次世界大戦勃発(1914年6月28日、サラエボ)

 

世界はロシアが大きく突き動かしていました。日露戦争敗戦により南下政策を断念して汎スラブ主義へ舵を切ったロシアの矛先がバルカンへ向かいます。それが汎ゲルマンのドイツや、やはりバルカン侵略をもくろむオーストリア・ハンガリー帝国との対立を生んで第1次世界大戦の引き金となったのは言うまでもありません。そんな激動の中で、当のロシアのバレエ団であるバレエ・リュスが夏季にパリ公演を行うために作曲依頼してできたのが上記の「ストラヴィンスキー3大バレエ」です。そしてこの3曲がその後の音楽史を大きく突き動かすことにもなったのです。

160px-Sergei_Diaghilev_02バレエ・リュス(1909-1929年)はマリンスキー劇場、ボリショイ劇場の夏季休暇中の海外引っ越し公演だけを主催する団体でロシアでの活動はありません。人類初の世界大戦勃発直前という緊迫した時勢なのに、ベル・エポックのパリにはそんな需要があったというのには驚きます。花のパリは伊達ではない。フランス人の異国好きもうかがえ、現在はそれがさらに東の日本のアニメに来ているという歴史的脈絡も透けて見えますね。バレエ・リュスはセルゲイ・ディアギレフ(1872-1929、左)というロシア人の辣腕プロモーターの求心力でのみ成り立っていた「ツアー劇団」で彼の死とともに消えました。フォーキン、ニジンスキー、バランシンという伝説的ダンサーが舞い、ピカソ、ルオー、ブラック、ユトリロ、キリコ、マティス、ミロというキラ星のような画家が舞台や衣装を飾るという豪華さです。音楽はドビッシー、ラヴェル、サティ、プロコフィエフ、ファリャ、レスピーギ、グラズノフ、F・シュミットなどが担当し、ここに無名の若手ストラヴィンスキーも名を連ね、委嘱されてできたのが3大バレエです。ちなみにココ・シャネルも活躍した一人です。ディアギレフ自身もリムスキー・コルサコフに弟子入りして作曲家をめざしたのですが挫折して経営の道に入りました。彼に作曲の才能がなかったことを後世の我々は感謝しなくてはなりません。

「火の鳥」は19世紀ロシアのロマン主義を色濃く残した音楽で、革新的な音も聞こえますが大半がリムスキー・コルサコフの引力圏内に留まっています。それが1年後のペトルーシュカになるとドビッシーに近接し、オーケストレーションは「夜想曲」、管弦楽のための映像の「イベリア」など、ピアノは前奏曲第1、2集を思わせる書法を感じさせます。しかしそれでもメロディーに依存した音楽という性格は火の鳥をひきずっていて、リズムより和声と旋法で新奇さを出す方向性には19世紀の残像があります。

それがさらに1年後の「春の祭典」になると音楽の主要言語としてのメロディーはほぼ姿を消して無機的なイディオムと化し、それに代わってリズムとクラスター化した不協和音による新しい音楽言語によって前作までとは別世界の音楽へと進化します。ドビッシーがペトルーシュカに好意的で「パルシファル以来の作品」とまで持ち上げていながら、春の祭典にいたると一転して「非音楽的な手段によって音楽を作ろうとしている」と批判したのはその2曲の間に横たわる断層の大きさを物語ります。

 

昨日59歳になった僕が、41年前、18歳だった1973年に初めて買ったペトルーシュカのLPはピエール・モントゥー指揮ボスunnamed (47)トン交響楽団(右)でした。ブーレーズ盤は74年発売だからまだ出ていなかったのです。その時点でアンセルメの火の鳥、ブーレーズの春の祭典をすでに持っていて、この曲も何かで耳にはしていたと思いますがその2曲ほど魅かれていなかったかもしれません。人形とはいえペトルーシュカが殺される残酷なストーリー、耳をつんざくトランペット、無機的なドラム、あからさまな複調なんかがあまりピンとこなかったと記憶しています。

ペトルーシュカこの曲の神髄に触れるにはやはり翌年にこれ(左)の洗礼を浴びる必要がありました。待ちに待ったブーレーズ盤。わくわくしながらこれに針を落とすといきなり光のシャワーのように部屋にあふれ出た「謝肉祭の市場」!直撃のKOパンチを食らい、一気にこの曲のとりこになるしかありませんでした。つやつやと磨き抜かれた完璧なピッチの音が見事な音響バランスと透明感で鳴る。広い音場にドーンと響く締まりある低音、虹の色が見えるような木管、金管の倍音。確信をこめた縁取りで躍動するリズム。祭典がクリーヴランドOだったのに対しこちらはニューヨーク・フィルで、禁欲的な凝縮感は一歩譲る感じがあるものの、これも歴史的名盤であることは間違いないでしょう。これを聴いて以来ペトルーシュカというとまずこれが頭に浮かんでしまい、以後は常にこれと比べて聴くという運命に陥ることになりました。

3管編成の1947年版と4管編成の1911年版がありますが、火の鳥ほど決定的な差はありません。オリジナルの11年版をお薦めしますが、演奏さえ良ければあまりこだわる必要はないと思います。バレエ音楽なのでストーリーがあり、それなりに有名ですが僕はあんまり興味も知識もありません。ネットで調べられればいくらも出てきますので悪しからず。今回、本稿を書くために35種類あるペトルーシュカから好きだったものを片端から聴きました。そして、今は3大バレエのうちでこのピアノ付ラプソディのような音楽が一番楽しめるかもしれないなと気がつきました。

若いころのクリストフ・フォン・ドホナーニがハンブルグ国立管弦楽団に稽古をつけてる録画がありました。これは面白い(ドイツ語ですが)。ストラヴィンスキーのスコアがよくわかります。初めての方も、指揮者がただ棒を振っているのではないことが分かりますよ。本番の全曲が続くのでぜひ全部お聴きください(1911年版ではなくコンサートバージョンですが)。79年当時はこの曲にドイツのオケがあまり慣れてない感じがするのが興味深いです。

ドホナーニはハンガリーの高名な作曲家兼ピアニスト兼教師であるエルンスト・フォン・ドホナーニの息子です。指揮者としては当たり前のことをしていますが彼なりの頭の切れ、記憶力、運動神経を感じますね。

しかしながら、この演奏は筋肉質で決して悪くはありませんが、ブーレーズほどの図抜けた煌めきはありません。このレベルの人であっても上には上があるということです。ブーレーズの耳の良さは常人の域でなく、練習は一切の妥協や手抜きなしでオケとは緊張関係に終始したそうです。来日してN響とトリスタンを練習した時には一触即発だったと伝えられます。そうでなければあんな音は出ないと思います。

 

僕のCD棚は7000枚ぐらいが作曲家別に整理されていて、作曲家は出身国別に分類されています。ドイツ人、ロシア人、チェコ人、フランス人…というように。出身国だからヘンデルはドイツ区画に在ります。決してそう意識したわけではないのですが、そのルールに一つだけ例外があって、ストラヴィンスキーはロシアではなくフランス区画の、ラヴェル、ドビッシーの下に位置していることを ”発見” しました。なんと、僕の潜在意識下ではフランス音楽だったわけです。

3大バレエの内で今の僕がフランス音楽的感性がいいなと思うのは断然ペトルーシュカです。冒頭にドビッシーの影響が濃いと書きましたが、ペトルーシュカの部屋、乳母の踊りのオーケストレーションのソノリティなどとてもフランス的であって、後者の木管の書法がラヴェルに影響してダフニスとクロエ(1912年6月8日、パリで初演)の「夜明け」になったのではと想像してしまうほどです。火の鳥では個々の音に旋律、和声として機能的な意味がありましたが、ここではそれを喪失してもはやコラージュの素材、部品という存在になっており、総体としてタペストリーになっているという性質の音に変容しているのです。

そういう音楽はワーグナーのトリスタン、パルシファルに発した書法をドビッシーが牧神午後への前奏曲にて試行し、夜想曲、海、遊戯へと至りますが、他人の手で顕著に記譜された例こそがこのペトルーシュカであり、フランスではフローラン・シュミット、オリヴィエ・メシアン、イタリアでオットリーノ・レスピーギ、アメリカでアーロン・コープランドに伝わっていきます。興味深いことにストラヴィンスキー自身は次作の春の祭典に一見コラージュ手法と見える楽譜を書きますが、それはタペストリーというよりは「和音とリズム」を複合単位としたクラスター手法において連続する和音の各音を別楽器に非連続的に分散した結果としてのコラージュという、上記の脈絡とは違った方向に進化しています。この方向の帰結に「三楽章の交響曲」、「結婚」という傑作が現れるのです。

3大バレエの中でも特にペトルーシュカという作品が音楽史に残したDNAがいかに独特で偉大なものであることがおわかりいただけるでしょうか。フランス系の大指揮者クリュイタンス、ミュンシュ、パレー、マルティノンに録音があるのかどうかよく知りませんがモントゥー、アンセルメ、ブーレーズがフランス的感性、知性にあふれる解釈を残してくれたのが幸いです。特に今回の聴きなおしでは初演者ピエール・モントゥーの3種類の演奏が印象に残りました。ファースト・チョイスとしては冒頭のボストンSO盤がオケの性能が高く録音も優秀でお薦めです。

 

ピエール・モントゥー /  パリ音楽院管弦楽団

unnamed (49)初演のときオケがこう鳴ったのではと想像させる音が聴けます。タペストリーでのフランス風木管の華奢でエッジのある音色は、作曲者がこれをイメージしたと思える色彩にあふれています。ロシア人によるロシア的な楽想の音楽なのにパリでフランス人によって演奏されることを予定していた音楽史上でも異色の作品が3部作であり、これらをロシアの無骨なオケでやるのはお門違いということもわかります。

 

ピエール・モントゥー / フランス国立管弦楽団

unnamed (54)オケの勘違いミスもご愛嬌のライブ録音。「ペトルーシュカの亡霊」のホルンはよれよれでトランペットのソロも危なっかしく、春の祭典なら真っ先にボツの演奏なのですが、そういうことが許せてしまうのがペトルーシュカです。この曲が現代音楽であった息吹を感じることができるという意味でこれは時々じっくりと聴いています。

 

アンタール・ドラティ /  ミネアポリス交響楽団

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知的興奮をそそる名演です。並録の春の祭典を同曲の稿で絶賛しましたが、同じ路線の快速で音響の重心の高いハイドン的なストラヴィンスキーです。因習的な解釈は歯牙にもかけていませんが、なるほどそうも解釈できるのかと感服する説得力があり、ドラティの眼力の凄さに圧倒される思いです。オケは心服して自信を持ってついて行っている感じがスピーカーからうかがえます。こんな指揮者は絶えて久しいですね。

 

コリン・デイヴィス / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

61Z33eQ2rvL__SX425_デイヴィスの同オケによる3部作はスタンダードとしてどなたにでもお薦めできる名演奏です。とにかくオケの技術、音色、ホール音響の3拍子が最高水準でそろっている上に指揮者の解釈もきわめて穏当で模範的であり、非難する部分が全く見当たりません。ブーレーズが冷たくて肌に合わない方でもこれは人肌を感じることができるでしょう。サー・コリンの最高傑作と思います。

 

 

追加いたします(16年1月13日~)

 

マウリツィオ・ポリーニ(p)

アルトゥール・ルービンシュタインの委嘱で書かれたピアノ版(ペトルーシュカより3章)です。

  • 第1楽章:第1場より「ロシアの踊り」
  • 第2楽章:第2場より「ペトルーシュカの部屋」
  • 第3楽章:第3場より「謝肉祭」

大学のころこれが出て、凄いピアニストが出てきたといささかびっくりしたものです。以来ポリーニというとこれとショパンのエチュードとブーレーズのソナタというイメージが定着しました。

 

ルドルフ・アルベルト / セント・ソリ管弦楽団

780大変素晴らしい。聴くたびに興奮を禁じ得ない。このオケはパリ音楽院O、コンセールラムルーO等の楽員による録音用臨時編成らしいが技術は問題なく上級である。ピアノはイヴォンヌ・ロリオでこれもうまく、木管がこれほど細部までカラフルな音色をふりまく録音もそうはない。メシアンの「異国の鳥たち」の初演を指揮したアルベルトはフランクフルト生まれのドイツ人で指揮ぶりは明晰でリズムのエッジも立っているのがペトルーシュカにまことにふさわしい。録音がこれまた明晰で透明。楽器の質感、色彩感いっぱいにクリアに再現され、オーケストラピットを間近で覗き込みながら聴くような心ときめく音楽。i-tunesにあるのでお薦めしたい。

(こちらへどうぞ)

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「火の鳥」

 

 

 

 

クラシック徒然草-田園交響曲とサブドミナント-

2013 AUG 4 1:01:12 am by 東 賢太郎

交響曲第6番パストラル(Pastoral)はベートーベン自身が名づけた2つしかない器楽曲の一つです(もう一つは告別ソナタ)。この表題を「田園」と訳すと、田舎の風景に感動した彼がそれを描写した音画のようにきこえますが、Pastoralは古来よりヨーロッパにある文学、詩歌、絵画、音楽の総合様式の名称でありますから、本来は交響曲第6番「パストラル風」とでも訳すべきものではないでしょうか。1785年に発表されたクネヒトという作曲家の「自然の音楽的描写、または大交響曲」が6番とそっくりの表題をもった5楽章の曲であり、ベートーベンがこれを知っていたことはほぼ確実視されています。だからこそ彼は自らあえて「・・・風」と命名し、5楽章を踏襲してそっくりのプログラムまで加えておいて、「これは音楽による風景描写ではない」とわざわざ断ったのではないでしょうか。それはヴィヴァルディ「四季」、JSバッハ「クリスマス・オラトリオ」、ハイドン「四季」などを経て数多存在し、クネヒトのような作品につながった器に「新しい酒」を盛ってみせるという挑戦状だったように思います。

「・・・風」と言った場合、それは「・・・」ではないのです。それを借景としているだけであって。ノッテボームによればスケッチ帳に曲名を何としようか試行錯誤した形跡があるそうです。そのなかに「Sinfonia caracteristica-oder Erinnnerrung an das Landleben」(性格的交響曲-あるいは田園生活の思い出」というのがあります。 caracteristicaが性格的は苦しいですね。「特別な性格の刻印のある交響曲」といったほうが正確でしょう。「田園交響曲、音画にあらず、田園の享受が人々の心に呼び起こすところの感情が表現されている-そこで二三の感情が描写される」ともあります。第2楽章、第4楽章で鳥の声や雷鳴が描写されているのですがそれは劇のト書きにすぎません。彼はそれを聴かせたいのではなく、それらが喚起する心象風景を音で描くというロマン派音楽の萌芽ともいえる革命的なチャレンジをしているのです。

第6交響曲は、緊張度の高い5番の路線に疲れて気晴らしに書きましたというような安楽な作品ではありません。これも5番の向こうを張る大交響曲であり、見れば見るほど、聴けば聴くほど、その堅固な構造と周到な作曲プランの独創性に驚かされます。冒頭にこのようなメイン・ステートメントとなる主題がいきなり提示されフェルマータで引き伸ばされるのは5番と同じです。

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この山型の弧を2度えがく主題がこの楽章でいかように音列の素材として、また分解されてリズムの部品として何度も何度も繰り返し使われていくのか。第九を暗示する左手の空虚5度(ドローン)が第3,5楽章でいかに和声に意味深い滋味を加えるのか。こういう側面からの分析は先人がやり尽くしてる観があります。

5番も6番も、冒頭素材が生まれながらに内包している音の指向性に添って全体が組み立てられているのは同じです。ところが5番は内側に凝縮、6番は外側に拡散という正反対の性質の素材であり、その結果前者はエネルギーと推進力、後者はゆらゆらと浮遊するような歌謡性という形質を得ることになったように思えます。さらに見れば、5番は建築的な論理構造をもってソナタ形式と不可分に結合していますが、6番はそれがソナタ形式で書かれていることを構造的にも和声的にも忘れてしまうほどゆるやかな形をしています。ベートーベンはエロイカの終楽章に変奏曲を持ち込みましたが、僕はこの田園交響曲にも変奏曲の要素と精神を強く感じるのです。

「変奏こそ、技法的に提示されたベートーベンの創造の核心なのであり、変奏の精神は彼の全生涯を貫いて作品に現れている」(吉田秀和著・ベートーベンを求めて)。ウィーンに出てきたベートーベンはまず即興演奏の名人として有名になります。自作または他人のテーマを自由に即興的に変奏して感銘を与えることで貴族社会に知られていったのです。「彼の即興演奏は非常に輝かしく感動的なものだった。彼はどんな集まりでも、聴き手のすべての目に涙を浮かばせ、なかには声を立ててすすり泣く人もいるほどだった。」(同書によるランドンの引用)。ところがです。「この即興演奏が終わると、彼は大声で笑い出し、自分が引き起こした感情にひたっている聴衆を冷やかすのが常だった。『君たちはバカだ。こんな甘やかされた子供たちといっしょにいられるものじゃない』と彼は叫ぶのだった」(同)。田園交響曲の引き起こした感情にひたっている我々を彼はこうして冷やかすのでしょうか?

田園交響曲が引き起こすある特定の感情。これがどうやってどこからやってくるのか?少なくとも僕は誰かがそれを指摘したのを読んだことがないのですが、その解答のひとつと僕が信じているこのシンフォニーのある重要な特徴について書きたいと思います。それはこの交響曲全編にわたって「トニック(ド)→サブドミナント(ファ)」という進行が支配的であり、「ドミナント(ソ)→トニック(ド)」が決定的に支配している5番と好対照であることです。6番においてはもうすべての音がサブドミナントの方へ特別な引力で引っ張られているといって過言でないほど。こんな音楽は珍しいのです。なぜならソ→ドの解決こそ西洋音楽の文法のイロハのイだからです。音の万有引力の法則と呼んでもいい。あー曲が終わった、という感じがしますからクラシックはこの進行で終わるケースが多いのです。ところが6番の最後はミ→ドで締め。そうではありません。これは第2楽章で鳴いていたカッコーのエコーです。なんておしゃれな終わり方でしょう。反対に5番はソ→ドの嵐です。これでもかといわんばかりに。おれたちは万有引力から逃れることはできないんだ、これが宇宙の原理なんだ運命なんだと説きふせられて終わるのです。

ちょっとわかりにくいですね。おなじみの例で示しましょう。学校の始業式なんかで校長先生が出てきて「起立」と号令がかかって、ピアノが弾くあのC-G-Cの3つの和音があります。Gで「礼」をしますね。では校長のご講話をという落ち着いたムードになります。ではここでC-F-Cと弾いたらどうでしょう。ぜひお家のピアノで試してください。まず、Fで頭を下げるのはちょっと変ではないでしょうか。僕はむしろ上を見上げたくなります。それから、これが重要ですが、Fで落ち着かない感じがしませんか。次にCに戻ってもいいのですが、必ずCに戻るという感じが希薄になります。これがGだと、「次はなに?Cしかないでしょ!」というとても頼りになるお導きを感じますね。これが「音の万有引力の法則」と僕が勝手に名づけたものです。ドミナント(ソ)はトニック(ド)の引力に強力に引きつけれらるのです。C→Fだとご講話どころか「さあ遠足だ」の気分です、もう今日は学校には戻らねえです僕などは。そういう悪がきをご講話にしっかり戻すにはFの後にGをもってきて、その引力でCに戻さないといけないほどFは外交的でふらふらして、しかしその反面 「明るくて希望を感じさせる」 効果があります。

もっとはっきりした例をお見せしましょう。坂本九さんの「上を向いて歩こう」を歌ってみて下さい。サビのところです。「幸せはー雲のー上にー」。この「幸せはー」がF(サブドミナント)なんです。パッと明るく希望の光がさします。これぞC→Fの希望効果です。ところがその次。「幸せはー空のー上にー」今度は「はー」が半音下がってFmになって、すぐに幸せに陰りが出ます。「希望」と「不安定」、お感じになれますか?もうひとつ。ビートルズのA Hard Day’s Nightです。

It’s been a hard day’s night, and I’d been working like a dog
It’s been a hard day’s night, I should be sleeping like a log
But when I get home to you I find the things that you do
Will make me feel alright

青字のところはFです。 声はソを歌っているのに!(Fはファ・ラ・ドです。ソは入ってません)。「いやー今日は疲れたぜ。犬みたいに働いてもう丸太みたいに寝るだけだ。」そう歌っています。そうでしょうか?そうではない。だから But とくるのです。家に帰ると君がいて元気にしてくれるから・・・。 day’sにF(=希望)が鳴るからです。嘘だと思ったらFの代わりにGで弾いてみてください。ホントに疲れて、あーもう今日は寝るだけだー、Good night。君の顔を見る前に丸太になっています、僕は。このワンコーラスでGはたったの一回しか出てきません(イタリック部分)。万有引力をぶっちぎって校長先生ではなく遠足気分なんです、この男は。

だいぶ脱線しました。万有引力で田園交響曲にもどりましょう。もういちど、上の譜面を見てください。このメロディーを歌ってみましょう(移動ドで)。

ミーファーラーソーファミレーソードーレーミーファミレー

この節ですが何かに似ていませんか?これです。

ミーファソソファミレドドレミミーレレー

なんだ。第九じゃないか。どこが似ているんだ?嘘だと思われてしまいそうですね。そういう方は、最初に出てくるソをラに替えて歌ってみてください。ミーファソファミレ・・・・。どうです、似ているでしょう?2番目と3番目の音、ファとラは左手のドと一緒になってFを構成します。ところが第九のこの有名なメロディーはほとんどCとGの和音だけです。Fというとはるか先にサビに一回出るまではまったく出てこないのです。だからこのソをラに替えると急にFの色が現れます。魔法のように。そしてそれが田園交響曲を連想するメロディーに聴こえてしまう。いかに6番がFの色が濃い音楽か、そしてそれが無意識に皆さんの記憶にしっかりと刻まれているか、ご理解いただけるでしょうか。

Fの希望効果。都会から出てきてハイリゲンシュタットの田園風景にふれたベートーベンの心の喜び。同じ場所で数年前に遺書まで書いた男が新たに生きる希望をもって、自分はこんなに元気になったと世に問う自らのポートレイト。それが6番ではないでしょうか。第3楽章スケルツォの農民の踊り。第165小節から220px-B6-3_Scherzo_2.4_Piano始まるトリオはびっくりです。4分の2拍子の素朴かつ力強いスフォルツァンドで16小節にわたってC→F→C7→Fというコード進行です。Gは出てきません。Cがセブンスになるので一瞬あたかもサブドミナント(F)に転調したかのような宙ぶらりんの感覚になります。希望のFにいつまでもい続けたい!この曲のサブドミナント指向の象徴的な場面です。この部分の伴奏のクラリネットをよくお聴きください。非常にビートルズ的です。レノン-マッカートニーのハモリに聴こえるぐらい。この楽章ですが最後になって急にプレストになります。嵐が近づいて雨がぱらついてきたな!すぐわかります。ここはこの交響曲で最も描写的だと僕が思っている部分で、踊っていた農民はクモの子を散らすように退散するのです。

第4楽章は増4度の和音が鳴り響きます。嵐です。ソ・ド・ファの4度、5度の調和が破れ、ティンパニとピッコロが雷鳴を暗示します。ここのスコアはベルリオーズの幻想交響曲の終楽章そっくりです。音の効果でいえばロッシーニのウイリアムテル序曲、メンデルスゾーンのスコットランド交響曲、リムスキー・コルサコフのシェラザードなど遺伝子の伝播は数えたらきりがないほど。そして農民が退散→雷鳴→牧歌という起承転結は鮮やかで、このコントラストが第5楽章の神への感謝の気持ちを高めています。まずクラリネットが第1楽章冒頭と同じくドとソの空虚5度のヴィオラのドローンにのってハ長調の牧歌を奏でます。次にそれがホルンに受け継がれるとチェロがppでそっと低いファを入れます。増4度の支配する不均衡はファ+ド+ソの5度+5度という神の調和に完璧に収斂していくのです。雨上がりの森や丘に金色の陽光がさしこんだような神聖で荘厳な効果は息をのむばかりです!なんてすばらしいんだろう。蛇足ですが、農民が退散→雷鳴→牧歌からこの部分への効果と心象風景が見事に遺伝しているのがストラヴィンスキーの火の鳥のフィナーレなのです。

第5楽章が希望のFに満ちあふれていることはいうまでもありません。喜びに満ちて歌われるこの牧歌主題はモーツァルトのピアノ協奏曲第27番のロンド主題、あの歌曲K.596「春への憧れ」に転用された主題のリズムを想わせます。そしてこの主題についている和音はC-F-G-C-Am-F-Gですが、C-Am-F-Gはモーツァルトが偏愛した和声連結でもあります。結構長くなりました。まだまだこの曲について書き残したいことは山ほどあります。この交響曲は僕が最も愛するものの一つです。これを聴いて頭に体に感じる満足感というのはまた5番のそれとはちがったもので、ベートーベン以外を見渡してもほとんど類のないものです。ベートーベンには冷ややかに「君はバカだ」といわれそうですが、同じバカなら聴かなきゃ損、損です。

そしてこれが残した最も優れた直系の子孫こそ、やはり僕が愛するシューマンの交響曲第3番なのです。それについてはこのブログに書きましたので是非お読みください。

 

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第3楽章)

 

 

(追補)

冒頭主題(下)において、第4小節で一度和音はドミナントに移行してフェルマータで長く伸ばされる。小さいがとても深い沈静感と充足感が交響曲の頭でいきなり訪れるという開始はめずらしい。次に第5小節で和声はF→B♭(つまりC→F)となり、第6小節でヴィオラがe(ミ)、つまりドミナントへ行くが、バスであるチェロはそれを無視してf(ファ)、つまりトニックのまま居座ってしまうため「長7度」という不協和音が鳴る(楽譜の赤丸部分)。

 

pastoral

ここをピアノで弾いてみればわかる。これが不協和音に聴こえないのだ。僕の耳には、「安寧のドミナントへ行くのはまだはやい。これから楽しいことがあるんだ。」と聴こえる。バスのファ(トニック)がそうやってムードを押し戻して主張している。

これと同じことが第5楽章の始めで起こる。まず第1-4小節でクラリネットがハ長調の分散和音のテーマを出す。バスはヴィオラのドとソである。このテーマを第5小節からホルンが受け継ぐと、バスにチェロのファがそっと加わる(赤い部分)。

 

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テーマはミの音を避けるので長7度は鳴らないが、ハ長調(つまりドミナント)の根っこに和声外音のファ(トニック)が神様の陰のように現れる効果は筆舌に尽くしがたい。「安寧のドミナントへ行くのはまだはやい。これから楽しいことがあるんだ。」という天の声が僕には聞こえてくる。僕は仏教徒で聖書もまともに読んでいないが、ここはキリスト教的な雰囲気を感じる。信者にとってこの部分はどう聞こえるのだろう?

 

そして第5楽章のコーダに至る。

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すべては静まって、いよいよ終わりの時を迎える。和声はF→C→F→B♭→C→Fとなり、一度だけサブドミナント(B♭)で上を見るが、すぐにドミナント(C)に打ち消されて鎮められてしまう。安寧のドミナントの時がやってきたのである。思い出していただきたい。F→C→F。これは「校長先生へのお辞儀」の和音だ。遠足は終わったのである。

(こちらへどうぞ)

ベートーベン交響曲第6番の名演

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「火の鳥」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クラシック徒然草-初恋のレコード-

2013 JUN 8 0:00:00 am by 東 賢太郎

高校時代、安物のステレオセットでしたのでFM放送はスピーカーの音をテープレコーダーにひろっていた頃があります。ある日、そうやってN響の春の祭典を録音していると、ある部分で、外で遊んでいる子供の「あっ!」という声が入ってしまいました。それ以来不幸にも、春の祭典を聴くたびにその部分にくるとその「あっ!」が聴こえるようになってしまったのです。もちろんそんな声が本当にするわけではなく、そのテープを繰り返し聞いて焼きついた僕の記憶がフラッシュバックとして再生されてしまうのです。

僕の春の祭典メモリーはブーレーズ盤によって初期化されていますが、実はこうやってどんどん追加情報がインプットされ、蓄積メモリーのすべてが耳で聴いている音楽と同時進行でリプレーされていることがこの経験でわかります。耳で聴いている演奏と記憶リプレーとをリアルタイムで比べて吟味している自分がいるわけで、ずいぶんと複雑な情報処理を脳内でやっているわけです。同曲異演を味わうというのはクラシックにきわだった特徴ですから、「この情報処理回路を持つ=クラシック好きになる」という仮説を立ててもいいと思います。

耳が聴いた音楽>記憶リプレー、という場合にだけ、「今日の演奏会は良かったね」という言葉が初めて出てくるわけで、この「記憶」が膨大で過去の大演奏家の演奏メモリーがぎっしり詰まってくると、少々の演奏で感動することは難しくなってきます。難儀なことです。ちょっとテンポが速かった遅かった、オケがうまかった、迫力があった、舞台が豪華だった、ピアニストが美人だった、要はそんなマージナルなことで評価が揺らぐことはありません。

相撲の世界で、横綱は蹴たぐりや引き技で勝てばいいというものではないといわれます。いわゆる「横綱相撲」が要求されます。うるさいお客さんたちは過去の名横綱の残像と比べて一番一番をじっくり見ているわけです。クラシックの世界も似ているのではないでしょうか。僕と春の祭典の関係でいうと、まずいきなりブーレーズ盤という超弩級の大横綱の相撲が記憶に焼きついたため、あとから聴いた演奏は全部「横綱にあらず」「不合格」という烙印が脳裏で押されてしまうという悲しい歴史をたどっています。

41SPKGNK6SL__SL500_AA300_ブーレーズ盤は10秒単位ごとに「すごい部分」を書き出せるほどすごい演奏で、一方でそのぐらい微細で正確なメモリー(残像)が自分の頭に入っています。だからもう新しい演奏は意味ないのです。100年たってもこれに勝つ人が出るとは思えないし、ブーレーズ本人のライブでさえ完敗だったので、いまさら誰かの春の祭典を聴きに行きたいなどという自分はどこにもいません。聴きたくなったらもちろんこれを取り出すだけですし、何度聴いても鳥肌が立つほど感動させてくれるのです。

こう思うと、最初に「惚れた(ほれた)」演奏というのはけっこう影響が大きいと実感します。初恋の人ですね。これからクラシックを聴くぞという方に申しあげたいのは、その曲を誰の演奏でまず聴くかをこだわった方がいいということです。前述のようにメモリーは日々更新されるからそんなことはないという意見もあるかもしれませんが、僕が今でも親しめていない音楽は出会いが良くなかったかなというケースが多々あります。そういうことを踏まえながら、ブログを書いていこうと思っています。

「都をどり」とストラヴィンスキー(Kyoto-Sado-Russia)

2013 APR 14 20:20:06 pm by 東 賢太郎

 

 

「都をどり」のフィナーレの合奏です。横笛のピャーという超高音での終止、打楽器群の複雑なリズムの乱舞をじっくりお聴き下さい。

 

次にこれをどうぞ。最後の方の鐘と大太鼓のシンコペーションのリズムをじっくりと耳に焼きつけてください。

 

 

この2つから僕が真っ先に思い浮かべる西洋音楽です。

 

 

いかがですか? これはストラヴィンスキーの「春の祭典」からエンディングの「生贄の踊り」です。

僕の頭の中で

京都-佐渡-ロシア

と、何かがピーンと一直線に繋がった気がいたします。

 

 

 

グリーグ ピアノ協奏曲イ短調 作品16

2013 MAR 24 17:17:53 pm by 東 賢太郎

日本では明治維新が起きていた1868年のことです。24歳のノルウェーの若者がピアノ協奏曲を書きました。そしてそれは音楽史に永遠に刻まれる傑作となりました。

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このことはあまり注目されていないのですが、24歳で書いた作品がその人の生涯の代表作となり、しかも世のそのジャンルの代表作として永く生き続けているケースというのはありそうであまりありません。

天才たちの24歳。

ベートーベンは作品1のピアノ三重奏、モーツァルトはイドメネオk.366、ベルリオーズはローマ賞に挑戦、シューマンは作品2の「蝶々」、ワーグナーはまだリエンツィも書いていません、ヴェルディもまだ作品なし、ビゼーは真珠とり、ドビッシーはローマ留学中、ラヴェルは「亡き王女のためのパヴァ―ヌ」、チャイコフスキーは交響曲1番作曲の2年前、ドヴォルザークは作品3の交響曲第1番、マーラーは巨人作曲の4年前、ショスタコーヴィチは「黄金時代」、プロコフィエフは「スキタイ組曲」、プッチーニは「妖精ヴィリー」、バルトークはピアノコンクールで2位入賞、という具合です。24歳というのは侍ジャパンのエース、広島カープのマエケンの歳なんです。

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未完成(25歳)のシューベルト、バラード1番(25歳)のショパン、イタリア交響曲のメンデルスゾーン、ピアノ協奏曲1番のブラームスは早熟ですね。しかし後にさらに大作を書いています。もし一人だけ似た人を探すなら、28~30歳で3大バレエ(火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典)を書いたストラヴィンスキーだけかもしれません

imageグリーグもストラヴィンスキー(右の写真)も、音楽的には田舎であるノルウェー、ロシアの生まれ。イタリア、ドイツの伝統的な作曲法を学びつつも、自分の故郷の土の匂いのする語法をそこに盛りこんだという意味では意外に共通項があります。その語法が画期的だった上に、後世誰も模倣できない個性的なものだったから彼らの作品はそのジャンルの代表作となって生き延びているのです。

グリーグはピアノ協奏曲第2番を構想しましたがついに果たせませんでした。この曲があまりに存在感があり人気もあったからでしょう。ちなみにエジソンが録音機を発明して初めて録音されたピアノ協奏曲はこの曲でした(1909年にバックハウスのピアノで、たった6分に短縮されたそうです)。グリーグは愛するこの若書きのコンチェルトを生涯にわたって改訂し続け、300か所に及ぶ変更の最後の一つが書き込まれたのは彼が64歳で亡くなるわずか数週間前のことだったそうです。動機はともかくやはり作曲家の晩年まで何度も改訂されたストラヴィンスキーの3大バレエと似ています。

400px-Piano_Concerto_in_A_minor,_Op__16;_Introduction冒頭のティンパニ(!)に導かれたピアノによる4オクターヴ・ユニゾンの滝のような下降音型(楽譜・右)はあまりに有名で、クラシックに縁がなくてもこれを聴いたことのない人は少ないでしょう。グリーグは15歳の時にクララ・シューマンの弾く夫シューマンのピアノ協奏曲イ短調をライプツィヒで1858年(59年説もあり)に聴いて影響を受け、このコンチェルトを書いたという説があります。僕もそれを支持します。共に生涯1曲のものであり調性も同じで、この下降音型もシューマンをモデルにしたものではないでしょうか。

作曲して2年後の1870年にローマでグリーグはこの曲の自筆楽譜を携えてヨーロッパimageCAGXO46Y音楽界に君臨していた59歳のフランツ・リスト(右の写真)のもとを訪ねます。リストはそれを初見でオケのパート部分も含めて全曲弾き、聴いていた音楽家たちを仰天させましたが、グリーグは第1楽章が速すぎると控えめに指摘したそうです。そして第3楽章コーダでリストは手を止め「gだ、gだ、gだ、gisじゃないんだ!素晴らしい!」と叫び、そして弾き終えると作曲の才能を褒め称えてくれたとグリーグは両親に手紙を書いています。それは下の譜面(最終ページ)の4小節目、ナチュラルがついている「g(ソ)」のことなのです。イメージ (27)

まさしく、この「ソ」にナチュラルがついていなかったら、この曲は凡庸なもので音楽史に名をとどめることもなかったでしょう。これを書いたグリーグの感性も素晴らしいですし、初見でそれを見抜いてしまうリストの眼力にはただただ驚嘆するしかありません。

このコンチェルトに封じ込められた旋律、リズム、和声の創意の才は尋常ではなく、僕は何度聴いても飽きるということを知りません。シンプルなのにおいしい、例えばカレーやラーメンみたいなもので、いくら食べてもまた食べたい日が来るという食べ物に似て13th_pic_02いるところがありますいや、飽きるどころか自分で弾きたいという欲求に駆り立てられており、最近はピアノに向かうととにかく第1楽章を少しづつ練習するのがルーティーンになっております。また、予想外の変ニ長調で始まる第2楽章アダージョのオケパートを弾くのも至福の時であり 、第17,19小節に出てくる「ため息」としか思えない(低い方から)e♭、b♭、c、g♭の和音や、ピアノが出る直前のホルンにそっと寄り添うデリケートな和音など、グリーグ以外に書いた人は誰もいなかったし後世にも出て来なかった奇跡のような瞬間を自分の指先で味わうと、ああ生きててよかったと思うのです。フルートがうち震えるように吹く第3楽章第2主題は高原の風のように涼やかで、それを受け取ったピアノが奏でて展開していく部分の最高にポエティックでロマンティックでエロティックな和声は誰のものともまったく違い、グリーグ自身もこんな神品は二度と書けていません。書けばきりがないほどマジカルな音に満ちているのがこの曲なのです。憑りつかれたら一生聴き続けるしかありませんからご注意あれ。

 

ディヌ・リパッティ (pf)/ アルチェオ・ガリエラ(cond.) / フィルハーモニア管弦楽団

51F1rAuFkML__AA300_古い録音ですが今でもこれをベストにあげる人が多いのではないでしょうか。異論なしです。リパッティのタッチの美しさは尋常でなく、技術的にも難所を軽々とクリアしていく様は空駆ける天馬のごとし。詩情、リズムの切れ味、力感どれをとっても満点でしょう。第3楽章第2主題の神々しく清楚でクールなこと!これを知ってしまうと他がちっとも清楚に見えなくなるというのも困ったものなのですが・・・(僕はいまだにそうです)。泣く子も黙る名盤中の名盤です。

 

フランス・クリダ(pf) / ズデニェック・マカル(cond.) /  フィルハーモニア管弦楽団

612-161昨年他界したリスト演奏の大家、マダム・クリダのタッチは硬質なクリスタルを思わせます。大概のピアニストが曖昧に弾きとばす部分も明晰に響かせるラテン的な感覚によるグリーグは魅力に富みます。第1楽章第1主題の付点リズムとスタッカートをこれだけ生かした演奏もなかなかないのですが、ここは自分で弾いてみてこのような跳ねるようなリズムが最もグリーグのピアノ作品、例えば抒情小曲集などと比べてしっくりくるのです。マカル指揮のオケも好演でクリダの透明感あるタッチによくフィットした音でサポートしています。

 

ラドゥ・ルプー(pf) / アンドレ・プレヴィン(cond.)/  ロンドン交響楽団

1300393827一言で、美演です。うっとりするほどただただ美しい。シューベルトの即興曲でも紹介しましたがこのルプーというピアニスト、天性の詩人です。フィラデルフィアでモーツァルトの17番の協奏曲を聴きましたが生でもその音の印象は変わりません。その資質はむしろシューマンの見事な第1楽章カデンツァに発揮されていますが、グリーグでも第3楽章第2主題はリパッティを除けばこれがベストです。プレヴィンのサポートも素晴らしく、第2楽章導入部のオケは今もってこれ以上の演奏を聴いたことはありません。触れれば壊れるほどの最高のデリカシーで吹かれるホルン!映画音楽みたいになるぎりぎりの所まで行っていますが下品に陥らないのはさすがプレヴィンです。

 

ハリーナ・ツェルニー・シュテファンスカ(pf) / ヤン・クレンツ (cond.) / ポーランド放送交響楽団 

51iOtyGWYkL__SL500_AA300_シュテファンスカは練習曲で有名なツェルニーの血筋で、ショパンコンクール審査員も務めるショパンの大家です。どこといって派手な所はなく正攻法のグリーグですが音楽の持つ魅力を何度も味わうにはこういう演奏の方がいいのです。リヒテルやルービンシュタインの演奏もあり、言うまでもなくそれぞれ技術的に見事なピアノなのですが、この曲のヴィルトゥオーゾ的な面が勝った印象があります。「うまい」というだけで、それがリパッティのように詩的な側面の印象に資するという感じがしません。この曲の場合そうなると詩情が消えてしまうのです。このシュテファンスカ盤はそれがいいバランスで達成されていて、名匠クレンツのオケも過不足ないサポートをしています。

追加しましょう(16年1月11日~)

 

アール・ワイルド / ルネ・レイボヴィッツ / ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

CD-50アール・ワイルド(1915-2010)ほど日本では等閑視された大ピアニストも少ないでしょう。このグリーグも評判になった記憶はまったくなく、米国のヴィルトゥオーゾ・ピアニストは彼にせよアビー・サイモンにせよ我が国の評論家に完全に無視され、その分、ホロヴィッツひとりが神格化されました。実に馬鹿げきった話であり何か商売の裏事情でもあったかと疑念を持つほどである。これは最高の名演であり深々したタッチのキレはもちろんのこと、緩徐部の詩情もリパッティ級に素晴らしい。もしラフマニノフがこれを弾いたらかくやという渇望を満たす水準のピアノです。12音音楽の泰斗レイボヴィッツの名前も正当な評価にバイアスとなったかと推察されますが最上質の抒情に何の不足もなく、そうだとしたら節穴の耳としか考えようもない。録音も良好であり、ワイルド、レイボヴィッツの名誉のためにもぜひ広く聴かれて欲しいと思います。amazonでearl wild griegと打ち込めばたった900円で入手できます。

 

 

(こちらもどうぞ)

シューマン ピアノ協奏曲イ短調 作品54

 

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ストラヴィンスキー好き

2013 JAN 30 21:21:33 pm by 東 賢太郎

中学の頃からラジオで聴いたある甘いメロディーが気に入っており、あるとき母に歌ってこれ何?と聞きました。「火の鳥かしら・・・」ということで、すぐ新宿のコタニへ行き、「火の鳥を下さい」と言いました。ストラヴィンスキーの名前も知らなかったのです。そこで店員さんが出してきたのがこれ(写真)です。後に知ったのですが、僕の気に入っていたそのメロディーはケテルビーの「ペルシャの市場にて」でした。でもドレミーレドシ・・・は火の鳥の「ホロヴォード(王女たちのロンド)」に確かに似ている。それにしても、母はストラヴィンスキーなんか知らなかったはずなのに、なんで火の鳥の名前がでてきたんだろう・・・。

その時は大変でした。このレコードを大事に抱きかかえるようにして新宿から家に帰り、わくわくして針を落としました。すると、甘いメロディーどころか、低音で弦楽器がゴワゴワと妙な音をたて、バイオリンがヒューヒューと人魂の飛ぶみたいな不気味な騒音を出すではないですか。「なんじゃこりゃ」といきなり仰天。その後も奇天烈な音がさく裂しまくり、今か今かと待っていた「あのメロディー」はついに登場しないまま僕のレコードは決然と終わっていったのでした。この失望感といったらありません。大枚2000円の小遣いが藻屑と消えた瞬間でした。これが何をかくそう僕のストラヴィンスキー初体験なのです。

母に文句はいっさい言いませんでした。きっと名曲に違いない。持ち前の前向き思考でそう信じ、そのレコードを何度もかけてみました。そして、このエルネスト・アンセルメの最後の録音は結局僕の人生の宝物になってしまったのです。「組曲より全曲版がいいよ」と教えてくれたコタニの店員さん。少年はドレミーレドシ・・・だけ買えればいいんだけどなあと意味がぜんぜん分かってなかったんですが、そう、まさに全曲版だったからなのです。高校に入って、小遣いはたいて1万2千円もした大型スコアを買うほど火の鳥に魅せられてしまったのは。ちなみにケテルビーはつまらない曲と後にわかり、いまだに持ってもいません。母の圧勝でした。
ペトルーシュカ                                    「春の祭典」との出会いはブログに書きました。それがあったのも、まずわかりやすい「火の鳥」で耳がトレーニングされていたからです。そして残るはもちろん「ペトルーシュカ」です(右の写真)。このレコード、曲の出だしの5秒?で好きになりました。一目(一聴)惚れ最短記録です。わー、ストラヴィンスキーってマジすっげえ、チョーめっちゃカッコイーじゃん!今どきなら大声でこういう歓声をあげたことでしょう。火の鳥とも春の祭典とも違うこの乾いた色気とゾクゾク感。宝石箱をぶちまけたような、まばゆいばかりにキラキラする光彩に頭がふらつきました。クラシックの魔の道に引きずりこまれた瞬間でした。この一撃があまりに強烈だったために、当時の僕はモーツァルトやベートーベンを聴いても退屈で仕方なく、王道に入るのにずいぶん時間を要することになってしまったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クラシック徒然草-オーケストラMIDI録音は人生の悦楽です-

2013 JAN 26 15:15:08 pm by 東 賢太郎

僕は1991年にマックのパソコン(右)を買いました。米国Proteus製のシンセサイザーとYamahaのDOM30という2種類のオーケストラ音源を電子ピアノで演奏し、MIDIソフトで多重録音して好きな音楽を自分で鳴らしてみるためです。PCに触れたこともなかったからセットアップは大変でした。好きこそものの・・・とはこのことですね。

現代オーケストラから発する可能性のあるほぼすべての音(約130種類)を約50トラックは多重録音できますから、歌以外の管弦楽作品はまず何でも録音可能です。まず音色設定をフルート、オーボエ、クラリネット・・・と切り替えて個別にスコアのパート譜を電子ピアノで弾いて個別にMIDI録音します(高速のパッセージなどは録音時の速度は遅くできます)。相当大変なのですが、全楽器入れ終わったらセーノで鳴らすと立派なオーケストラになっているということです。

弦楽器の音色が今一歩ではありますが、イコライザーなどの音色合成の仕方でかなり「いい線」まではいきます。買ってから21年間に僕が「弾き終わった」曲は以下のものです(順不同)。

モーツァルト交響曲第41番「ジュピター」(全曲)、同クラリネット協奏曲(第1楽章)、同弦楽四重奏曲K.465「不協和音」(第1楽章)、同「魔笛」序曲、同「フィガロの結婚」序曲」、ハイドン交響曲第104番「ロンドン」(全曲)、チャイコフスキー交響曲第4番(全曲)、同第6番「悲愴」(全曲)、同「くるみ割り人形」(組曲)、同「白鳥の湖」(情景)、ドヴォルザーク交響曲8番(全曲)、同第9番「新世界」(第1,4楽章)、同チェロ協奏曲ロ短調(第1,3楽章)、ブラームス交響曲第1番(第1楽章)、同第4番(第1楽章)、ベートーベン交響曲第3番「英雄」(第1楽章)、同第5番「運命」(第1楽章)、シューマン交響曲第3番「ライン」(第1楽章)、ラヴェル「ボレロ」、同「ダフニスとクロエ第2組曲」、同「クープランの墓」(オケ版、プレリュード、メヌエット)、同「マ・メール・ロワ」(オケ版、終曲)、ドビッシー交響詩「海」(第1楽章)、同「牧神の午後への前奏曲」、シベリウス「カレリア組曲」(全曲)、リムスキー・コルサコフ交響組曲「シェラザード」(全曲)、バルトーク「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」(第1、2楽章)、同「管弦楽のための協奏曲」(第5楽章)、ストラヴィンスキー「火の鳥」(ホロヴォード、子守唄以降)、同「春の祭典」(第1部)、ワーグナー「ニュルンベルグのマイスタージンガー」第1幕前奏曲、同「ジークフリートのラインへの旅立ち」、J.S.バッハ「フーガの技法」、同「イタリア協奏曲」(第3楽章)、ヘンデル「水上の音楽」(組曲)、ヤナーチェク「シンフォニエッタ」(第1楽章)、コダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」(歌、間奏曲)、ハチャトリアン「剣の舞」、プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第3番」(第1楽章)、ベルリオーズ幻想交響曲(第4楽章)、ビゼー「カルメン」(前奏曲)

こういうところです。これ以外に、やりかけて途中で放り出したままのも多く あります。成功作はチャイコフスキー4番、バルトーク「オケコン」、シベリウス「カレリア」、ブラームス4番、ドヴォルザークチェロ協、ドビッシー「海」、マイスタージンガーでしょうか。録音はオケ全員の仕事を一人でやるので長時間集中力のいる作業です。生半可な覚悟では取り組めません。ですから以上は僕の本当に好きな曲が正直に出てしまっているリストなのだと思います。弦の音色の限界で、好きなのですがやる気の起きない曲(特にドイツ系の)も多いのですが、総じてやっていない作曲家、マーラー、ショパン、リスト、Rシュトラウスなどは興味がない、僕にはなくても困らない作曲家だと言えます。

もう少し時間ができたらシベリウス交響曲第5番、バルトーク弦楽四重奏曲第4番、ラヴェル「夜のガスパール」にチャレンジしたいです。この悦楽には抗い難く、この気持ち、子供のころプラモデルで「次は戦艦武蔵を作るぞ!」というときと全く同じ感じで、これをやっていればボケないかなあという気も致します。骨董品のアップルに感謝です。

 

(追記)

これらは全部フロッピーディスクに記録していますがハードディスクに移しかえたいと思います。やりかたがわからないので、どなたかご教示いただけるとすごく助かります。

 

 

 

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ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

2012 SEP 29 23:23:53 pm by 東 賢太郎

高1のとき、これに出会った。

ピエール・ブーレーズ指揮クリーブランド管弦楽団のLPレコードである。1969年録音。この曲だけにかかわらず、クラシック音楽の演奏史に永遠に名を刻まれる名盤中の名盤である。

この曲は1913年パリのシャンゼリゼ劇場で初演のおり、その前衛性に反対派などから怒号や口笛が飛びかって会場が大騒ぎとなり、20世紀音楽史上のスキャンダルとして記録されている。

この演奏はそういう人間界の俗臭さとは完璧に無縁である。不細工かつ膨大な計算量を伴う解き方しかなかった数学の難問を、わずか数行で美しく解いてしまった答案用紙を見る気分だ。E=mc²のように。ブーレーズ自身、本当に数学を学んでいたが。この美しいジャケットも見事に曲の雰囲気を描写している。

ブージー・アンド・ホークスのスコア(右)は表紙がボロボロになってしまった。 アルトフルート、ピッコロクラリネット、ピッコロトランペット、バストランペット、ピッコロティンパ二など耳慣れない楽器が出てくる。僕はそれらを耳を凝らしてマニアックに聴いていたが、この演奏はそれがちゃんと聴こえる。聴こえるように演奏され、録音されている感じだ。そんなニッチな所に焦点を当てて商売になるだろうかなどという下世話な頭は微塵もない指揮者にオケも録音技師も全身全霊で奉仕している奇跡的な録音なのである。

「いけにえの踊り」のティンパニでこんなに短3度音程が明確にわかる演奏はない。ティンパニと大太鼓の音色をこれほど差別化した例もない。第1部冒頭部分での木管楽器の倍音までとらえた録音センスの良さは本当に本当にすごい。第2部冒頭(序奏)練習番号80でp(ピアノ)で入る大太鼓(皮はゆるめに張られている感じ)の意味深さは筆舌に尽くしがたい。音楽的にどうでもいいと言われそうだが、このスコアにストラヴィンスキーが封じ込めた信じがたい美の一部であることは誰も否定できまい。

テンポはやや遅めであり、すべての音は完璧に磨かれた、正確極まりないピッチの楽器音でじっくりと丹念に刻み込まれていく。スコアが30段ある室内楽と言って過言ではない(1か所だけトランペットがミスしているが)。では生気に欠けるかというとそうではない。第2部の最後に向けて鉄の塊が徐々に熱していくようにじわじわと過熱してくる。そう演奏しているのではなく、スコアがそう書かれており、それを忠実に抉り出してそうなっているという絶対の説得力を感じる唯一の演奏である。

リズムに関しては鉄槌を打ち込むかのような強靭な理性によるコントロールを知覚する。音や和音の鳴り始めと終結(つまり音価)が厳格な意志で統率され、いい加減に放置された音は最初から最後まで皆無といっていい。練習番号139、pで22発打ち鳴らされるシンバルの最後から4発目がやや野放図に鳴りすぎたのが玉に傷で耳に残ってしまうほど全曲にわたって精密なのであって驚くばかりだ。だからこそ「生贄の踊り」同144の直前の16分の3拍子が16分の2に近いのが昔から気になっていて、生前にお尋ねしたかったことの一つだった。

録音は楽器に近接したマイクの多重録音と思われ練習番号38のドとシのティンパニは位置が左と中央に離れて聞こえる。同22-23ではイングリッシュホルンの裏でティンパニストがシ♭の音合わせをしているのが聞こえる。それをマイクが拾っているのを放置しておりミキシングが徹底した精度であるとはいえない。ティンパニの音程と皮の質感をここまで拾う録音が木管の倍音までも拾うのは納得であり、こういうことは指揮者と録音技師のセンスが合致した幸福な結果だろう。最後の方でブーレーズのオケを追い込むような声が聞こえる部分がありびっくりするが、そこはリハーサルの方を採用したかもしれない。

発売当時「スコアにレントゲンをかけたような」という形容があった。実演では聴こえない音まで聴こえることの比喩だ。そう、これはレコード芸術そのものだ。全音符をこれで刷り込まれた僕には、実演はすべて「いい加減」な演奏に聴こえるので困る。必ず欲求不満になる。だからなるべく聴かない。聴くならティンパニの後ろの席で「ピッコロTim」の高いB(シ)が聴き分けられるかどうか実験の目的だ。何故かこれだけはブーレーズ盤でもわからない。他盤もだめだ。入りにくいのか僕の耳の問題なのか。だから近くで実物を聴きたいのだ。

これは1970年に買った、まさに僕にとって神であるLPから録音したもの。そのあとに出たフォーマットもすべて聴いてみたが、この初出のヴィニールレコードが最も倍音が豊富でありベストで、再発を重ねるほどそれが消えて行っている。SACDになれば音がいいという単純なものでは全くない。第1部の春のロンドまでの木管合奏など、この倍音が演奏の特性を決しているのである。

(レファレンス )

クラシック徒然草―レイボヴィッツの春の祭典―

ブーレーズの春の祭典は実演を2度聴いた。最初は1974年9月5日にNHKホールでニューヨーク・フィルハーモニーと。次は1993年にフランクフルトのアルテ・オーパーでロンドン交響楽団と。当たり前だがレコードと同じ音楽、同じフレージングだったが情報量はプア。前者はベートーベンの2番が前半プロだったが意外に普通だった。面白かったのはむしろエーリヒ・ラインスドルフが1984年にファイラデルフィア管弦楽団を振ったもの。ぎくしゃくした棒でいがらっぽかったが、骨太の演奏で説得力があった。香港で聴いたフェドセーエフ/モスクワ放送交響楽団はティンパニが間違えて一瞬オケがバラバラになりこっちも心臓に悪かったが香港の聴衆は気がついてない感じだった。

この曲は一般にハルサイと呼ばれる。春祭だ。夏祭りみたいなので僕は絶対に使わない。ブーレーズの前衛性などどこ吹く風で、最近は若手指揮者が暗譜で振るとカッコいい「のだめ」流ミーハー曲に堕落してしまった観がある。若い子はラプソディ・イン・ブルーの姉妹曲ぐらいに思っているのだろうか。オジサンたちは若い頃こういうのを大真面目にピリピリ緊張してやっていたんだ。

当時クラスメートと「ブーレーズがブルックナーなんかやったら世も末だね」とジョークを言っていた。そしたら10年ぐらい前に本当にやられてしまった。DGの商売にのせられたのか。ともあれ、これはカラヤンが越後獅子を振ったのと同じぐらいのマグニチュードがある事件だ。センセイどうしちゃったんですか?いや、これも堕落と言ったら失礼だ。世も末ということにしておこう。

最後に、僕の69種類ある春の祭典音源集から:

マイケル・ティルソン・トーマス/ボストン交響楽団

とにかく音がいい。僕はオーディオチェックに使っている。ボストン・シンフォニーホールのいい席はまさにこの音と残響のブレンドである。演奏も凛々しい。若々しい。管楽器がうまい。ティンパニも健闘している。MTトーマスはピアノ連弾でも録音している(これも悪くない)。好きなんだろう。新録音もあるが断然これ。見つけたら即買いです。

小沢征爾/シカゴ交響楽団

リズム感の良さとオケのやる気満々なノリが素晴らしい。ロック、ジャズの感覚。若造の分際で大シカゴSOをここまでドライブしたオザワの青春譜。やっぱり只者じゃなかったんだ。ただし第2部は定番のブージー67年版ではなくアンセルメ盤と同じ部分があり、初めてこれを覚える人には薦められない。通におススメ。

アンタール・ドラティ/ミネアポリス交響楽団

速い。とにかく速い。疾風のごとし。軽い。とにかく軽い。このお茶漬け風味は捨て難い。ハイドン風ストラヴィンスキーの逸品である。買い。デトロイト交響楽団との新盤はフツーのテンポになっている。初めての人はこっちのほうがいい。

イーゴル・マルケヴィッチ/フィルハーモニア管弦楽団

セラフィム盤。一つのスタンダードを作った演奏。もしブーレーズ盤がなければ似たような位置づけに鎮座しただろう。おっかない切れ者指揮者のドライブ力は圧倒的。聴くと疲れるが曲の本質をワシづかみにしている。音もまあまあ。おススメできる。

コリン・デービス/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

コンセルトヘボウの正面特等席の音響がする。うれしい。そのまま理想的なベートーベンができる音による春の祭典というバリューは絶大。オケは非常にうまい。デービスにしては意外なほど燃えてもいる。出た時に「いけにえの踊りで」妙な繰り返しがありのけぞったが修正された。誰でも安心して聴ける。

クラウディオ・アバド/ロンドン交響楽団

76年大学時代にLP新譜発表プロモーション会場で抽選に当たりもらった。懐かしい。しかし演奏も録音も平板で実につまらない。アバドの名前にだまされて買わないこと。

ゲオルグ・ショルティ/シカゴ交響楽団

ウサイン・ボルトが予選でテキトーに流して10秒09という感じのお仕事。大味で細部はええ加減である。ショルティの名前にだまされて買わないこと。

ズビン・メータ/ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

インドの星だった若きメータ。春の兆しのスピード感に「ほほう、これは速い」と柴田南雄さんがラジオでつぶやいたのを覚えている。最期まで勢いがありオケがのっている。打楽器のリズム感、とてもいい。おじさんも若返る快感あり。おススメ。

ピエール・ブーレーズ/フランス国立放送管弦楽団

63年録音。音が古い。 オケの精度は高くない。勢いで押す部分があり熱さもあるのはまだ若い感じ。69年盤があれば不要。

ピエール・ブーレーズ/クリーブランド管弦楽団

DGの91年録音盤。これだけ聴けば名演。音は69年盤よりまったりして角が取れている。しかしあれを知ってしまうと指揮は好々爺にしか聞こえない。ブルックナー路線はこの辺から引かれていたかもしれない。69年盤があれば不要。

エルネスト・アンセルメ / スイス・ロマンド管弦楽団

ストラビンスキーの1歳下だったアンセルメは1883年生まれ。ローザンヌ大学数学科の教授から転身した。彼らが生まれた頃に亡くなったボロディンは有機窒素の定量法を発見した化学者で、作曲は余技だった。この時代の音楽家は音大卒の専門家ではない。そういう時代の息吹を感じるオケ。とても下手である。アンセルメの録音は2種類あるが、どちらもトモダチだった作曲家に意見してスコアを直させたものが聴ける。作曲家はそれをまた直して現行版になった。火の鳥組曲1919年版のように著作権料狙いだったかどうかは知らない。これはフォロ・ロマーノだ。遺跡として訪問価値がある。

ストラヴィンスキー / コロンビア交響楽団

60年録音。先ほどじっくり聴いて、ブーレーズ69年盤はこれを下敷きにしたと聴こえた。ほぼ間違いないと思う。当たり前だが秀でたスコアリーディングであり、このスコアを音にすればこうなり、ブーレーズのようになるのだ(練習番号144の直前の16分の3拍子が16分の2に近い!)。違いはオケの運動神経ということになるが、アマチュアの指揮なのだから仕方ない。大変耳をそばだてるものを含む演奏であり、なるほどそうなのかと目から鱗の部分が続出するが、それらを圧倒的高みで洗練させ厚みを増しストリームラインしたのがブーレーズ/ クリーブランド盤の実体であるといっていい。これをつまらないと思う人は要するにこの曲がよくわかっていないのであり、よりわかりやすいブーレーズ盤をじっくり聴くことをお薦めする。

ヴァレリー・ゲルギエフ / ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団

96年録音。この曲がポップ化し始めた頃を象徴する演奏で、指揮者は人口に膾炙する部分の誇張、拡大解釈につとめ、それがあたかも何か新時代の息吹を革新的な感性で表現したかのようにふるまう。その感性がじっとりとロマン的なものだから曲の神秘的な本質を逸脱していくばかりなのは悲劇的ですらある。聴きとおすのに苦労した。

エヴゲニ・スヴェトラーノフ/ ソビエト国立交響楽団

66年録音。録音はクラリティが高く木管の色気は好感が持てる。「ブーレーズ以前」にしてこのスコアリーディングはレベルが高く、オケの運動能力もすぐれている。ただ金管の咆哮があまりにうるさい。ロシアを去りパリで初演を目論んだ時点で作曲家の頭にこのロシアの下品極まる金管があったとは思わない。練習番号84のミュート・トランペットはまるでジャズの音色で笑ってしまう。第2部前半の神秘感はまるでないが生贄の踊りのリズムは録音当時としては見事である。

ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団

55年モノラル録音。最も早い時期であり、オーマンディーの読譜力の凄さを見る。作曲家は貶したらしいがディズニーが使ったストコフスキー盤の印税はどうだったのだろう。彼は火の鳥1919年盤をそれで作ったくらいカネにうるさかった。まあ「春のロンド」はなんぼなんでも速すぎるし純粋に解釈が気に食わなかった可能性もある。味もそっけもないがこの演奏能力は文句なし。こんな国と戦争してはいけない。

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

77年録音(2回目)。冒頭のファゴットとホルンのリズムからいい加減。バスが効き木管は歌いまくり、総じて和声的、歌謡的要素に感応度が高い。速い部分のメカニックは高度ながらBPOのホルンが音を外す珍しい場面も。第2部序奏は異様にロマン的だ。87-88は和音が異質に聞こえ気持ちが悪く、11連打の減速はマゼールに近い。生贄の踊りの固めのティンパニはなかなか良い。174以降でピッコロ・ティンパニのパートをこれほど強く叩くのも珍しい。僕の耳にはレア物として面白いが一般には色モノの部類だろう。

(補遺)

この音楽は1909年に作曲され1912年9月3日(春の祭典の初演前年)にロンドンで初演された。アーノルド・シェーンベルクの「管弦楽のための5つの小品」(作品16)である。ストラヴィンスキーがこれを聴いていた可能性はないだろうか。

第3曲「色彩」を特徴づける要素を祭典のスコアから引き出したのがブーレーズだ。

 

(演奏・補遺 2月15日~)

ウィリアム・ファン・オッテルロー /  シドニー交響楽団

R-5148349-1385867416-2766_jpegyoutubeで一聴して惹きつけられた。オケの性能はA+クラスだが何よりオッテルローのスコアリーディングが深い。指揮者の耳の良さは音楽に聴き捨てならぬオーラを与えるのである。この曲の野性的側面を充足する運動神経の良さと多彩な楽器の倍音を含むカラリングがうまく調合された魅力的な演奏だ。ティンパニひとつとってもそれが明確。78年録音。彼は同年にメルボルンで事故死したが、シドニーオペラで振った最後の作品が春の祭典だった。

 

ハンス・シュミット・イッセルシュテット / 北ドイツ放送交響楽団

02469年ハンブルグでのライブ(ステレオ)。ブーレーズ前の演奏だが、ティンパニ11連打が遅いぐらいでほとんど全曲違和感がない。ドイツもののイメージのイッセルシュテットだがストラヴィンスキーとは友人で得意としていたらしい。生贄の踊りで一ヵ所バスドラにミスか覚え違いがあるが、これだけできれば当時としては立派としかいえない。彼の手によると三楽章の交響曲(名演だ)が春の祭典と同質の音楽に聞こえるのが面白い。

 

ネーメ・ヤルヴィ / スイス・ロマンド管弦楽団

MI0000968548SROの管による第1部序奏の木管の協奏は良し。春の兆し、なんぼなんでも遅すぎ減点。ロンドのクラの装飾音符が全音低い。バスドラは全然聞こえず減点。第2部の序奏は速めであっさり進行、クラリネットの上昇アルペジオにフルート和音が乗る部分は印象派風で美しい。11連打になんとアッチェレランドがかかり唖然とすると選ばれた乙女は快速でぶっ飛ばす。いけにえはティンパニがいきなり妙な所に鳴り驚くが、大いに暴れまくり大迫力だ。バスドラが欠落したりするが追い込みは盛り上がる。このCDはこれより次のカンティクム・サクルムがききものだ。第2曲はストラヴィンスキーが初めて音列作法で作った楽章で抜群に面白い。ヤルヴィの強烈なオケの統率力がわかる。

 

ズデニェック・コシュラー / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

a0dd73b9-9802-48ae-b23b-fdd4ac9793b1これは僕の知る音源でトップ5入に入る名演である。まずCPOがCPOの音で鳴っている。冒頭のファゴットをはじめ歌う木管、金管は強力だがブラッシーにすぎず節度があり弦はくすんで木質であり、プラハの芸術家の家であたかもベートーベンをやるかのような美しいマストーンと残響で録音されている。そうかと思えば、細部に耳を凝らすとティンパニの音程にこんなに神経を使ったのはブーレーズCBSと双璧であり、春のロンドと第2部序奏のグランカッサの扱いもブーレーズCBSのコンセプトに似る。演奏は概して速めでドラティ旧盤に近く、慣れてない金管がやや危ない(第1部終結)が、この胃にもたれないアレグロの軽さは好ましい。練習番号114のティンパニがこんなに聞こえるのはなく、生贄の踊りの明瞭な短3度などもはや感涙ものだ。繰り返しで半音下がるが、明らかに違う太鼓を叩いておりもちろん音質も違うわけで、eの太鼓の皮の質感が微妙にやわらかいところなどマニア垂涎のご馳走である。この演奏の唯一のリザベーションは練習番号121が遅いことだが良しとしたい。生贄の踊りのリズムが最近の物に比べると弦楽器奏者一人ひとりレベルでまだぎこちないが、1979年時点のチェコ・フィルでここまでの整然としたアンサンブルを構築したコシュラーの指揮技術は高い。これをヘッドホンでじっと聴くのは最高の楽しみだ。

(補遺、10 June17)

エーリヒ・ラインスドルフ / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

ラインスドルフがフィラデルフィア管弦楽団を振ったのは1983年だった。音楽よりも彼の両肘を張ったぎくしゃくしたロボットのような指揮姿の方が印象に残っている。LPOとのレコードは「20chマルチ録音を4トラックに収録するフェイズ4ステレオ録音」というふれこみであり、期待して買ったが音としては別に大したことはなかった。それがこれだ。

 

ルドルフ・アルベルト / チェント・ソリ管弦楽団780

この1956年、パリのサレ・ワグラムで行われた録音を聴きなおして、やはりブーレーズCBS盤のコンセプトに非常に近似していることに気づいた。全曲の演奏時間は50秒しか違わない。アルベルトはフランクフルト生まれのドイツ人だがイヴォンヌ・ロリオ、ドメーヌ・ムジークと録音を多くしておりメシアン、ブーレーズのフレンチ・スクールと近かった。チェント・ソリ管はパリ音楽院管あるいはラムルー管のメンバーが主となりパリ・オペラ座等、他の楽団員が加わった臨時編成のオーケストラであり、バレエ・ルッスの本拠地でストラヴィンスキーも交えて直伝の解釈をベースに共有された当曲の楽曲解釈が1956年には既に整えられており、そこから現れたのが上掲のレイボヴィッツ盤であり、集大成としてのブーレーズCBS盤であったと推測する。当曲のフランスの管による色彩は異色で興味深く、演奏のインパクトも強烈だ。アルベルトは古典派、ロマン派と録音を残したがどれも一聴に値する解釈であり、当盤も春の祭典マニアたる者必携であろう。

 

(こちらへどうぞ)

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

ストラヴィンスキー バレエ・カンタータ 「結婚」

「都をどり」とストラヴィンスキー(Kyoto-Sado-Russia)

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

クラシック徒然草-舞台のヤバい!は面白い?-(追記あり)

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

ベンチャーズとクラシック

2012 SEP 16 4:04:18 am by 東 賢太郎

クラシックというと堅い、退屈、長い、近寄りがたいという人が多く、ポジティブなイメージは癒し、知的、高尚だそうです。日本では音楽市場の10%ぐらいあるそうですが交響曲、オペラのような長い曲を家で真剣に聴くような愛好家は総人口の1パーセントという説もあります。いずれにしても、相当マイナーな存在であることは間違いありません。もったいないことです。

僕は小学校時代にザ・ベンチャーズの強烈な洗礼を受けました。いわゆるテケテケテケです。寝ても覚めてもベンチャーズ。歩きながらもベンチャーズ。ノーキー・エドワーズのマネをしてギターを弾き、本を並べてバチでたたいてメル・テーラーの気持ちになっていました。キャラバンという曲があります。メルのドラムスとドン・ウイルソンのサイドギターの刻みが絶妙にシンクロ。それに乗ってドライブするめちゃくちゃカッコいいノーキーのリードギター。難しいリズムのドラムソロ。レコードがだめになるまで聴きました。

そこに立ち現われたのがビートルズです。ジョンとポールのハモリとノリ。何を言ってるかわからないがなにやらカッコいい英語。女の子の失神。ベンチャーズにない刺激的なコード進行。ポールのものすごいベース。いやーこれはすごい。完全にハマりかけました。そのまま行けば僕はたぶんロックバンド路線に進んでいたと思います。音楽の時間にあの曲を聞かなければ・・・・。

千代田区立一ツ橋中学校。われわれ悪ガキがポール・モーリヤとあだ名していた音楽教師、まじめな森谷(もりや)先生が「今日は鑑賞です」と言ってレコードをかけました。それはモソモソとはじまる退屈きわまりない曲でした。クラシックは聴いてる奴らの感じが大嫌いで、無縁と思っていた僕でした。まあ昼寝にいいか。実は小学校時代に同じシチュエーションで教室の窓から脱走し、母が担任に呼び出しを食らった前科のある僕は、ふとそれを思いだしました。

すると、ちょっとキレイでグッとくるメロディーが出てくるではありませんか。へー、割といいな。仕方ねえ、ちょっとだけ聴いてやるか。まさにその時です。そのメロディーが突然違うコードにぶっ飛んだのは。脳天に衝撃が走りました。ベンチャーズにもビートルズにもない新体験。これは何なんだ?

その曲はボロディンの「中央アジアの草原にて」です。その個所は105小節目、ハ長調のメロディー(注)が3度あがって変ホ長調に転調するところです(こういうのを転調と言います。これからこのように何長調とか何短調とか書くことがありますが、わからなければ無視してください。耳で楽しむためにはどうでもいいです。ただ興味のある方は知りたいと思うので書くことにします)。

(注)このメロディーに似たのがストビンスキーの火の鳥の終曲にも出てきます。ロシア民謡です。なんとも懐かしく平和な感じがします。どっちもホルンが吹きますね。牧歌的なホルンが似合うのです。ベートーベンの田園交響曲。嵐が去って終楽章に入るとまずクラリネット、そしてやっぱりホルンが牧歌的な雰囲気を醸しだします。ボロディンのそこもクラリネット、ホルンの順番です。

この経験が僕をクラシックに引きずりこみました。この曲が入ったレコードとして父が名曲集のLPを買ってくれ、そこに一緒に入っていたワーグナー、チャイコフスキー、ヨハン・シュトラウスも気に入ってしまったからです。

ただ、今でも僕はビートルズ信者です。カーペンターズ、ユーミン、山下達郎などもコード進行が大好きで、ときどき聴いています。往年の歌謡曲やJ-ポップにも名曲と思うものがいくつもあります(コード進行がいいものというのが僕の基準ですが、これは単に僕の好みです)。

さて、ベンチャーズです。京都の雨なんていうしょうもないものをやりだした頃から一気に堕落しました。芸者ワルツなんてやりだすんじゃないか、冷や冷やしたほどの様変わり。ライブのCDもどっかの素人コピーバンドじゃないかという微笑ましい出来。まあそこにいたファンは楽しいんでしょうが・・・。

それでも初期のあのダイヤモンドヘッド、パイプライン、十番街の殺人(テケテケテケの音色が全部違う!)、ウォーク・ドント・ラン、ブルドッグ、アパッチ、テルスター、夢のマリナー号、クルエル・シー、パーフィディアなどなど永遠に色あせることはありません。カッコいい。美しい。

しかし、それにもまして、あのキャラバンなんです、僕には。冒頭のシンバルの一撃で金縛りです。腹にズンと響く中音と低音のタム。土俗的なリズム。究極のアレグロ・コン・ブリオ。完璧に4つの楽器がバランスされた録音。もう芸術としか呼びようがありません。このクオリティの高さはいったい何だったんでしょうか?

クラシック徒然草-僕の音楽史-

2012 SEP 14 14:14:33 pm by 東 賢太郎

僕の一番古い記憶は、親父のSPレコードを庭石に落として割ってしまったことです。2歳だったようです。中から新聞紙 ? が出てきたのを覚えています。ぐるぐる回るレコードが大好きでした。溝の中に小さな人がはいっていて音を出していると思っていました。

これが昂じたのか、僕はクラシック音楽にハマった人生を歩むこととなりました。作曲や演奏の才がないことは後で悟りましたから聴くだけです。就職した証券会社では、大阪の社員寮に送ったはずの1000枚以上のLPレコードが誤って支店に配送されてしまい、入社早々大騒ぎになったこともありました。

転勤族だったので国内外で24回も引っ越しをしました。そのたびにLP、テープと5000枚以上あるCD、オーディオ、ピアノ、チェロ、楽譜がいつも我が家の荷物の半分以上でした。この分量はクラシックが僕の57年の人生に占めてきた重みの分量も示しているようです。

僕がお世話になった証券業界では僕は変り種でしょう。この業界は オペラのスポンサーはしても社員オーケストラをもつような風土とはもっとも遠い世界の一つです。それでも僕が楽しくやってこれたのはひとえに海外族だったからです。アメリカ、イギリス、ドイツ、スイスに駐在した13年半に、僕はもう2度と考えられないほどの濃くて深い音楽体験をさせてもらいました。

そういうとやれ「カラヤンを聴いた」「バイロイトへ行った」という手の話に思われそうですが、そうではありません。僕はそういうことにあまり関心がなく、書かれた音符のほうに関心がある人間です。たとえば、同じ夜空の月を見て「美しい」とめでるタイプの人と「あれは物体だ」と見るタイプの人がいます。僕は完全に後者のほうです。文学でなく数学のほうが好き。文系なのに古文漢文チンプンカンプンというタイプでした。

高校時代はストラビンスキーの春の祭典、バルトークの弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽(通称、弦チェレ)みたいなものにはまっていました。特に春の祭典は高2のころ1万円の大枚をはたいてスコア(オーケストラ総譜)を買い、穴のあくほど眺めました。この曲は実に不思議な呪術的な音響に満ちていて、それがどういう和音なのか楽器の重ね方なのかリズムなのか、全部を自分で解析しないと気がすまなかったのです。

弦チェレの方は、第3楽章です。ちょっとお化けでも出そうなムードですね。フリッツ・ライナーの指揮するレコードで、チェレスタが入ってくる部分。この世のものとは思えない玄妙かつ宇宙的な音響。なぜかこの演奏だけなんですが。敬愛するピエール・ブーレーズも含めてほかのは全部だめです。これもスコアの解析対象となります。

時が流れて、僕はフランクフルトに住みました。その家はメンデルスゾーンのお姉さん(ファニー)の家の隣り村にありました。そう知っていたわけではなく、たまたま住んだらそうだったのですが。彼はそこでホ短調のバイオリン協奏曲を書きました。あの丘陵地の空気、特に彼がそれを書いた夏の空気をすって生きていると、どうしてああいう第2楽章ができたのかわかる感じがします。あそこを避暑地に選んだ彼と、その場所が何となく気に入った僕の魂が深いところで交感して体にジーンと沁みてくるような感覚。うまく言えませんが、かつてそんなことを味わったことはなかったのです。

こういう感覚は、大好きで毎週末行っていたヴイ―スバーデンという町でもありました。ブラームスの交響曲第3番です。もういいおっさんだった彼はここに住んでいた若い女性歌手に恋してしまい、ここでこの曲を書きました。彼としては異例に甘めの第3楽章はその賜物でしょうが、むしろそれ以外の部分でもこの町の雰囲気と曲調が不思議と同じ霊感を感じさせるのです。この交響曲はこのヴイ―スバーデンとマインツの間を流れるライン川にも深く関係しています。

シューマンの交響曲第3番とワーグナーのニュルンベルグの名歌手第1幕への前奏曲。この2曲はそのライン川そのものです。すみません。どういう意味かというのは行って見て感じてもらうしかありません。このシューマンの名作は後世にライン交響曲と呼ばれるようになりました。シンフォニーのあだ名ピッタリ賞コンテストがあったらダントツ1位がこれです。

名歌手は全部ライン川で書かれたわけではありません。でもあのハ長調の輝かしい前奏曲はヴイ―スバーデン・ビープリヒというライン川べりで書かれたのです。ワーグナーの家は水面にちかく、滔々と悠々と流れるラインが自分の庭になったような錯覚すらあります。太陽がまぶしい秋の朝、目覚めて窓を開けると眼前に滔々と流れるライン川、そこにバスの効いたあの曲が流れる。僕の理想の光景です。

こういう経験をして、僕はだんだんとお月様を見て「美しい」と思う感性も身についてきました。物体だ、という感性が消えたわけではなく、少しはバランスのとれた大人のリスナーに成長できたということでしょうか。基本的にはロマンチストなので、ボエームやカルメンを涙なしに聴き終えたことはないし、ラフマニノフの第2交響曲を甘ったるい駄作だなどとは全く思いません。

しかしメンデルスゾーンのジーンとした感じは、涙が出るとか甘いとかそういう次元の話ではありません。泣くというのは作曲家が仕掛けた作戦にまんまとはまっているということです。そうではなく、作曲家がそういう作戦を練る前の舞台裏で、一緒に昼飯を食ったというイメージなのです。どうも話が霊媒師みたいになってきました。

ところで今、心を奪われているのがラヴェルです。音楽を書く手管、仕掛けのうまさという意味でこの人は最右翼です。もちろん、どの作曲家も聴き手を感動させようと苦労し、手練手管を尽くしています。そうでないように思われているモーツァルトの手管はパリ交響曲について書いた彼の手紙に残っています。しかしラヴェルはその中でも別格。うまいというより、彼は手管だけでできたみたいなボレロという曲も書いています。もうマジシャンですね。ドビッシーと比べて、そういう側面を低く見る人もいます。

僕も、そうかもしれないと思いながら、聴くたびに手管にはまっているわけです。ダフニスとクロエ。このバレエ音楽の一番有名な「夜明け」を聴いて下さい。僕は2度ほどギリシャを旅行してます。あのコバルトブルーの海に日が昇るような情景をこれほど見事に喚起する例はありません。音楽による情景描写というのはよくあります。しかしこれを聴いてしまうと他の作品は風呂屋のペンキ絵みたいに思えてしまいます。そのぐらいすごい。手管だろうがペテンだろうが、この域に達すると文句のつけようもないのです。

僕のラヴェル好きは高校時代にはじまります。春の祭典と同じ感覚で。両手の方のコンチェルトの第2楽章、ピアノのモノローグを弾くのは今でも人生の最大の喜びの一つです。もう和音が最高。ダフニスと同じコード連結が出てくる夜のガスパール第1曲も(これは弾けません)。バルビゾンの小路に似合う弦楽四重奏の第1楽章。僕にとって、ヨーロッパの最高度の洗練とはラヴェルの音楽なのです。

あれもいいこれもいい。 50年も聴いてくるとこうなってしまうのです。しかし50年たっても良さがわからない有名曲もたくさんあります。最後は好みです。もう今さらですから、ご縁がなかったとあきらめることにします。好きな曲は何曲あるか知りませんが100はないと思います。50-60ぐらいでしょうか。

これから、時間はかかりますが、1曲1曲、愛情をこめて、なぜ好きか、どこが好きかを書いていきます。これは僕という人間のIDであり、作曲家たちへの心からの尊敬と感謝のしるしです。読んで聴いて、その曲を好きになる方が1人でもいれば、僕は宣教師の役目を果たしたことになります。聴かずして死んだらもったいないよという曲ばかりです。必ずみなさんの人生豊かにしてみせます。ぜひお読みください!

 

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