N響/下野竜也 の名演
2017 JAN 29 9:09:08 am by 東 賢太郎
指揮:下野竜也
ヴァイオリン:クリストフ・バラーティ
マルティヌー/リディツェへの追悼(1943)
フサ/プラハ1968年のための音楽(管弦楽版╱1969)
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
前半は二つとも初めての曲でした。第1曲のマルティヌーは「1942年にナチ親衛隊によって住民が虐殺され、強制収容所に連行され、村ごと焼き払われて地図上から姿を消してしまったリディツェという村のための追悼曲」で「プラハ北西15キロほどのこの村は、ナチの親衛隊長で、ユダヤ人絶滅作戦を策定したラインハルト・ハイドリヒをチェコ空軍有志が暗殺した事件で、暗殺部隊をかくまったことへの報復として抹殺された」(プログラムより)。
こんな壮絶なことが行われたのかと絶句。我が国はこのナチと同盟を結んだとはいえ、杉原 千畝、樋口 季一郎のようにユダヤ人を救済した人物までいました。日本軍に近隣国で戦時を超えた行為があった可能性は完全に否定はできないですが、日本民族の底辺にある倫理観、生死観からいかなる民族であれ絶滅作戦のごときおぞましき狂気まで共有したはずはなく、同列に論じられるのもかなわないと再認識であります。
悲痛に半音引き裂かれるような和声で開始し、重さと暗さが支配。それが深い祈りの和声と交差して天に昇華していくさまは心の奥底まで響きました。ぜひこれを聴いてみてください。
第2曲は1968年、プラハの春のソ連軍による弾圧でワルシャワ条約機構軍の戦車が街を蹂躙した事件に対する作曲家フサの怒りの表現でしょう。金管、打楽器、鐘など凄まじい音圧で迫り圧巻の音楽でありました。
下野竜也を絶賛したい。これだけ意味深いプログラムで打ちのめしてくれる指揮者がいま何人いるでしょうか。不断の好奇心をもって勉強を重ねないとこれだけの活動はできません、N響(コンマス伊藤亮太郎)もそれを受け止めましたね。つまらない外人呼んでくるなら下野を何度でも聴きたい、それほど気迫のこもった高い精度とボルテージの演奏でした。
後半はクリストフ・バラーティ の独奏でブラームス。この曲は僕にとって大事な音楽のひとつです。バラ―ティの感想は難しい。まず音の木質の豊潤な美しさはトップクラスと思います。1703年のストラディ「レディ・ハームズワース」で、僕が聴いたうちではアナスタシア・チェボタリョーワがメンデルスゾーンを弾いた絶品の中音域に唯一匹敵するもの。アンコールのバッハ(無伴奏のパルティータ3番 ガヴォットとロンド)はいつまでも聴いていたいレベルでした。しかしリザベーションがあります。
それを説明するにはテニス。昨日見ていた全豪オープンの準決勝、ナダル対ディミトロフ戦でナダルが接戦を制しましたがディミトロフは本当に惜しかった、最終セットのバックハンドの精度が低かったゆえ何本か落としたレシーブのリターン、あれさえ決まっていればフェデラー戦もいけたんじゃないか。それですね、バラーティに言いたいのは。彼の場合、音程です。
ほんのちょっとした、それも決めの音じゃないからいいじゃないかという声もあるでしょうが、僕は精度を書いて無頓着に感じてしまう。惜しい。それだけの素材だから求めたくなるのですが・・・。第2楽章アダージョは非常に良かったですね。遅い部分は文句なしで体質に合ってます。名器の美点が引き出されて、楽器もこういう相性の良い奏者にめぐりあえば幸福な音を出します。
第1楽章のコーダ、夢の中を天に登るようなppですね、最高の聞かせどころですからね、あそこは欲を言えば下野にもうすこし粘ってソロを引っ張って歌わせてほしかった。彼は性格がいいんでしょうか合わせてしまってバラーティもあんまり自己主張をしないタイプのようで残念ながらあっさりいってしまった。まあ良しとしましょう。
最高のコンサートでした。
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カルメンが生き残った理由(今月のテーマ インテリジェンス)
2017 JAN 26 12:12:49 pm by 東 賢太郎
昨日は次女と新国立劇場のカルメンでした。何度聴いてもいいですね。ホセのマッシモ・ジョルダーノは演技力もあって後半はよかったかな、ミカエラの砂川涼子は健闘でした。オケの東京SOはいい音が出てましたね。前から4列目で美しい舞台も楽しみました。
娘たちは幼稚園のころからオペラやバレーへ連れて行ってるのですが、今もこうしてきいてくれるのはうれしいことです。彼女は魔笛、ヘンゼルとグレーテル、白鳥の湖、くるみ割り人形なんて子供向きから、ボエーム、コシ・ファン・トゥッテ、イエヌーファ、エレクトラなんて大人物まできいてます。ワーグナーは寝るだろうということで、ヴェルディは親父がきらいで外して申し訳なかったが、これからは自分の趣味で聴いてください。
さて子供の時にきいたのをどこまで覚えてるかというときっと忘れるんですね、筋もややこしいし長い曲だからとうぜんです。僕は初めてオペラを観たのはメトロポリタン歌劇場のタンホイザーだからもう27才でした。ところが先日に野村くんがプレートルのブログにくれたコメントで、一橋中学で音楽の授業でカルメンを全曲聴いたとありました。
完全に忘れてましたが、家にカルメンの抜粋のEP盤(右)があって不思議に思っていたんです。なんで買ったのかなと。EPはごまんとあって、ベンチャーズ(小4)に始まってお袋が買ったと思われる渡哲也「くちなしの花」(73年、高3)なんかもある。中学ではまだLPは買っておらず、ひょっとして音楽の授業で
「前奏曲」が気に入って買ったんじゃないか?という気になってきたのです。僕はこの前奏曲が大好きでイ長調に0.3秒だけ出てくるつなぎのC#(!)、そしていきなりぶっ飛ぶCのコードは今でも頭をぐしゃぐしゃに錯乱させる効果があります。ボロディンがそうだったように、当時、転調には異様に反応してしまう子供だったです。
だんだんほんのりと思い出しつつあって、カルメン鑑賞は何回かの授業に分けていて、森谷先生の「今日は第2幕です、ここでホセがこうして」みたいな解説があったような。あれ中3の受験前じゃなかったのかなあ、なんとなくですが、勉強で疲れてて、とにかくぼーっとオペラ聞くだけって授業が続いて楽ちんで、先生親心だなあなんて勝手に思った気がするんです。
昨日は始まる前に娘にすじを教えて、これはリアリズムのはしりのオペラなんだ、おとぎ話じゃないからね、カルメンはひねたアバズレ感がないとね、エスカミーリォはホセを出しぬくイケメンじゃなきゃ変だろ、顔じゃないよ声だよ。それを通らない低いバスでやるの、なかなかいいのいないんだ。ミカエラはビゼーが中和剤で入れた役だ、何で入れたかわかるか?アバズレが主役なんてダメなの、当時のパリじゃあ。ソプラノふつう主役でしょ?カルメンはメッツォなの。ハバネラはね、初演の女が練習でごねたの、もっといいの書いてよって、それで他人のメロディーをパクったんだ、でも歌手のゴネ得はねモーツァルトでもしょっちゅうあったよなんてことを教えます。
そしていよいよ前奏曲の前に、「カルメンができたのは鹿鳴館より前のころだよ、そこから150年近くもどうして世界で大ヒットしたのか理由を考えながら聴きなさい」と伝えました。次女は外資系のマーケティング部門にいるのですが、何でも考えさせる題材にはなるのです。
帰りにショーペンハウエルの「馬鹿になるから本を読むな」も教えました。本は読んでいるようで結構だが、それは他人の頭で考えてもらっていることでもあるのだ。その結末だけ何万覚えても実社会では何の役にもたたんよ、数学の公式だけいくら丸暗記しても難しい問題は歯が立たなかっただろ?あれがどうやったら攻略できるかって、攻略本じゃなくね、自分の頭で考えるんだよ。しかも実社会の問題は正解がないんだよ、条件もその場その場で千差万別だ。自分の頭で考える訓練をしていないと解を導くなんざ到底無理だ。でもみんな解いた気になってんだ。そうやって人生ができていくの。いい方にも悪い方にも。
その解こそインテリジェンスなんだよ。それを導く能力があれば何しても食っていけるし勝ち抜けるよ、保証してやるさ。みんな口で言いたくないけどな、資本主義は食えた奴が勝ちなんさ。武士は食わねどの人はそれでいいけどな、口は左翼、財布は右翼ってのがいっぱいいるんだ。たいして食えてもいない奴の本なんか読んでどうすんの?捨てなさいそんなの。インフォメーションはど~でもいいの、ググればその場で出てくるでしょ、物知り博士なんか食えないんだよ、それこそ人工知能に一番早く食われるさ。学歴や職歴で食えると思ってる奴は考えなくなるからね、東大出てたってね、これから最もダメなタイプだ。
なんてことを言うわけです。過激すぎてブログに書けないことも多いので、でもそれが世の中のまぎれもない真実でもあるんで、まあボケる前になるべく教えとこうということです。カネを残すより知恵を残してやった方がいいですね、遺産は食いつぶしたら終わりだがそこからは自分で食えないと寂しい人生ですからね。
はい、カルメンが何で150年生き残ったかは解釈がいくつかあるよね。世界のどんな田舎へ行ってもオペラといえばカルメンぐらいは返ってくるね、凄いことだよね、じゃあどうして?
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2016年の演奏会・ベスト5
2016 DEC 31 21:21:43 pm by 東 賢太郎
今年は忙しくてN響、読響ともかなりすっぽかしてしまいました。行ったなかでのベスト5ですが、以下の通りです。
1位
加藤旭:合唱曲「くじらぐも」(メイク・ア・ウィッシュ演奏会)
2位
ビゼー:歌劇「カルメン」(C・デュトワ/N響)
3位
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35(五嶋 みどり/カンブルラン/読響)
4位
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番 (ユリア・フィッシャー/M・ヘルムへン)
5位
フィンジ:霊魂不滅の啓示 作品29(下野 竜也/読響)
以上どれもインパクトのある演奏でした。1位の「くじらぐも」ですが、この演奏会のすぐあとに16才の作曲家、加藤旭さんは亡くなりました。この日初めて、僕は真っ白な気持ちになって、音楽を愛する心は曲を通してまっすぐに聞き手の心に伝わることを教わりました。
僕の音楽を愛する心もつよいです。そのおかげで4年間こうしてブログを書き続けることができました。お読みいただいている皆様にも、その力で何かが届けばうれしいです。本年は思うところあって年初から4月まで執筆を休止しましたが、それでもアクセスが増えたのがやめられなかった理由でした。
愛情は死ぬまでつづくので、ブログもそれまで続くと思います。本年も拙文に貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。よい年をお迎えください。
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デュトワ・N響のカルメンを聴く
2016 DEC 15 0:00:05 am by 東 賢太郎
このカルメンのために金曜から休暇で西表島に行くのを1日延期した。NHKホール前は青のイルミネーションで美しい。
カルメンの舞台は海外で何度観たかわからない。なかでは二度真近に見て圧倒されたギリシャ人のアグネス・バルツァが強烈で、ビデオでも彼女のをくり返し見ているのだから、なにか意識の中でカルメンは実在の女でそれはバルツァなのだという困ったことになっている。
マリア・カラスがどうしてこれを舞台でやらなかったのかそういう芸能界的な部分は知らないがきっと適役だったろう。これを演じるには歌だけでなく全人格的なもの、ああこの女だったらやりそうだなあと男の五感に訴える「カルメンシータらしきもの」を備えていないと物足りないものがあるのである。
それはこのオペラのリブレットがカルメンとホセの生々しい愛憎、つまりloveとhateのアンビバレントな二面性を軸としたものだからだと僕は解釈している。
パリのオペラ・コミックでの初演は一般に失敗とされる。プレスがカルメン役のセレスティーヌ・ガッリ=マリーを「不道徳なアバズレ」「悪の化身」と評し、技術的にもオケ、合唱団が演奏不能とした箇所があったことから、当時のモラルや楽曲の常識を超えたものだったと思われる。劇場が懸念していたように裏切りと殺人というリアルな題材が保守的な聴衆に受け入れ難かったせいもあろう。
しかし失敗と思いこんだのは初演後3か月で死んでしまいそこから先を知らなかったビゼーであって、臨席したマスネとサンサーンスは好意的であったし当初から彼の他の作品よりは上演回数は多かった。カルメン並みの女はいくらもそのへんを闊歩していてモラルなど雲散霧消した現代にこの作品が好まれているのは、男女の生々しい愛憎ドラマがいつの世も関心事であるからだと思うのだ。
loveがhateに転化する最後の闘牛場の場面がクライマックスだ。歓声と前奏曲が遠くから鳴り響き不吉な運命のテーマと交差する、そこで純情一途の男が一世一代の決断をしたのが殺人だった。公序良俗にも法律にも反している話なのだが、ホセを死刑にしろという気に一向にならないのはカルメンが「悪女仕立て」だからだろう。吉良上野介を憎々しげに演じてくれないと忠臣蔵にならないのとまことに似ている。
彼女はロマ(ジプシー)であり社会の底辺で既存のレジームに同化できないはねっかえりだが、しかしだからといってそれだけで悪女といわれる道理もないのであって、どうしてそうなるかというと、その妖しい魅力のボルテージが異様に高くてホセが入れあげても仕方ないと思わせ、「悪い女だねえ」と満座にため息をつかせてしまう秘術を次々繰り出すからなのだ。
一例をあげよう。工場から女工たちがどっと出てきてカルメンが傷害事件を起こしたぞ、このアバズレをひっとらえろ!とスネガが命じる場面であざ笑うように歌う「Tra-la-la…」、この単純なEーAmの和声進行にのっかる妖艶な歌!メロディーが非和声音のd#に落っこちるぞくぞくする色っぽさ!
これだけじゃない、ハバネラ、セギディーリャ、ジプシーの歌、これでもかとウルトラ肉食系の妖しい歌に攻め込まれるホセなのである。いったい何なんだよこの女?この歌なに?(このビデオがアグネス・バルツァだ)
仕方ないんじゃないの?と男なら同情するしかない。だから否応もなく「悪い女だねえ」となるのである。
断っておくがそれは歌手の容姿、色香だけではない、ビゼーの書いたあまりに天才的な音楽によってである。頭や理屈や技術やもの真似ではできない真のインヴェンション!初演をきいたシャルル・グノーは俺の真似だ剽窃だと否定的だったが、たしかにビゼーが交響曲ハ長調の作曲などでグノーをメンターと仰いだ形跡はある。グノーは優れたメロディストだが時代の常識の範囲内で美しい音楽を書く達人だった。女中に私生児までいたビゼーの女遍歴は日本語世界ではあまり知られていないが、カルメンの音楽はそういう男にしか書けない毒の味がある。
さような観点でこのオペラを見ると、エスカミーリオとミカエラはベルリオーズの幻想交響曲の恋人のごときイデー・フィクス(固定楽想)付の単なるキャラクター、着ぐるみのような存在なのであって、それぞれがホセの嫉妬心、改心の念をかきたてる添え物である。主役はその両者の狭間で揺れ動く優柔不断なホセに見える。いや、そうであってこそ男のフラフラ、優柔不断が生んだ悲劇としてこのオペラに一本すじが通るのである。
ところが、実はホセには固定楽想もなければインパクトのある固有のアリアもない。彼は嫉妬心に駆られ、燃え立ってしまった恋心に悩み、訴え、怒り、母の待つ故郷に思いをはせもするのでいい歌をそこかしこで歌うのだが、それらの情はすべて他者に駆り立てられたもので何が彼の本質なのか明らかでない。ホセとはカルメンの妖気に篭絡される男という、朗々たる男の帝国であるテノールのアリアにはなじまない性質の役なのだと書いた方がいいだろう。
固有の歌、アリアは、したがって手を変え品を変えて強烈にセクシーな磁力を送り続けるカルメンという女が繰りだす秘術にだけ与えられているのである。彼女の歌だけが人間の地を丸出しで偽善の着色がない。カルメンを演じるメゾ・ソプラノ歌手というのはそういう生身のオーラを放っていないと様にならないのだ。カルメンがいなければこのオペラは観る意味もないが、困ったことに歌も容姿もロマらしい雰囲気も満点であるバルツァのような人がそんじょそこらにいるわけではないのである。
下が初演したセレスティーヌ・ガッリ=マリー(中段左から二人目)を含む歴代のカルメンである。容姿だけでもなかなかの面々だ。ちなみにマリーはこんな地味な歌いやよと文句をつけてあのハバネラを書かせ、ビゼーと関係があったともうわさされている。
前置きが長くなった。結論としてこの日に聴いたケイト・アルドリッチという素材はバルツァ後継の有力候補と言っていいと思われるが、まだまだ普通の女が演じるアバズレだ。真のアバズレをえぐり出している超ド級の音楽に置いて行かれている部分がある。演技がいけないわけではない、バルツァだって6才からピアノをやってそこそこの家のお嬢だろうが演技であれができている。
長身のイケメンで押し出しが良く声量もあるマルセロ・プエンテのホセは当たりだった。純情路線でバルツァに丸め込まれていたカレーラスの記憶が強いが、非常にコンペティティブな所にいると思料。
ダルカンジェロのエスカミーリオはこれまたメットで観たサミュエル・レイミーが姿も声も一級品で比べてしまう。闘牛士の歌は彼のキャラクターソングだが曲調は大衆歌謡に近い(とにかくこのオペラには小難しい旋律や和声やフーガは皆無なのだ)。それだけにバスの朗々とした艶やかな低音がないとしょぼいものになってしまう。ダルカンジェロの声は合格だがプエンテのホセが恋には勝ってしまうかなあ。
ミカエラのシルヴィア・シュヴァルツは大いに好感を持った。なによりミカエラらしい雰囲気と声が誠に好ましい。アバズレと対極の恋を夢見る貞淑な乙女キャラクターであって、主役がメゾだからソプラノが愛らしく映える。当時のパリの女性に対する道徳観ではこういう要素が毒消しとして必要だったかもしれない。道徳はともかく、ミカエラがはまる声質のソプラノは僕はだいたい好きである。
他の声楽陣も合唱も不足はなく、12月のデュトワを楽しめた。欲を言えばN響がこの曲には「いい子」の草食系だ(きちんとまとまってはいたのだが・・・)。闘牛で血が流れカルメンも血を流すのだ、もっとスペインのラテンのどぎつくてワイルドで粗暴な熱がほしい。デュトワにはない物ねだりになるがレヴァインが振ったメットのオケは熱かった。それが舞台と相乗効果で火炎が立ちのぼるような忘れられない効果をあげた。優れた音楽とはそういうものだ。
(ご参考) ビゼー オペラ「カルメン」 (Bizet: Carmen)
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ポゴレリッチのラフマニノフ2番を聴く
2016 DEC 13 23:23:12 pm by 東 賢太郎
デュトワのカルメンと前後してしまうが、今日の読響について。指揮台に立ったオレグ・カエタニはフランクフルト駐在時代によく聴いていて、ヴィースバーデンでのリング全曲は彼の指揮だった。なにせあのマルケヴィッチの息子だ、もっと硬派なプログラムだったらよかった。
いつも感じることだがボロディン2番はライブだとオーケストレーションに空隙を感じ粗野な原色ばかり目立ってしまう。かと思えば終楽章のあの素敵な第二主題の伴奏になにもトロンボーンを重ねなくてもいいのにというベタ塗りがあったりもする。シンセでたくさん演奏するとスコアを見てヤバいなあというものを感じるようになって、これはやってないがきっとトロンボーンは超弱音か無しにするだろう。
カエタニはまったくその辺を気にしてない風情であった。チューバまで入った金管群であるわけだしこれがロシアの感性と言われれば仕方ないが、そうであるなら男同士がキスする感性など日本人の僕にはわかりようもないというものだ。フランス系のアンセルメやマルティノンは薄口でうまくやっているし、人工的であってもミキシングでうまく化粧した録音で聴く方が僕はずっと楽しめる。カエタニは低音を鳴らすので特にそう思ってしまった。
交響曲が先でトリが協奏曲というのも珍しいが、ポゴレリッチあってのことだろう。
ラフマニノフの2番だったがこれはproblematiqueだ。強めに始まる鐘の音は途中で弱まり、再度強くなる。こんなのは初めてだ。テンポは不可解に遅いと思えば第2楽章の主題は無機的に速く、つづく右手の単音の旋律はなんとフォルテに近かったりする。遅い部分はルバートがかかりまくり、終楽章のピアノの入りのアルペジオは真ん中の数音符だけ突然フォルテで弾いたり、まったくわけがわからない。
それでいてフォルテは強いだけでちっとも美しくなく、細かいパッセージは弾けていないしミスタッチもある。アンコールの第二楽章がほぼ同じだったから即興でもなさそうであって、つまり考えぬかれた解釈のようなのだがではどうしてそうなるのか理解に苦しむばかりだ。演奏家の感性や哲学は尊重するしありきたりの美演より僕はそっちを採る主義なのだがこの曲にそんな深い哲学があるとも思えない。
グールドのモーツァルトはなにくれかのirritationを聴衆に与える意図が隠されていて、彼はそういう屈折した心理を持つ天才だったと思っているが、ポゴレリッチもそうなのか推察するほど僕は彼をよく知らない。記憶にあるのはあの流麗で瑞々しく神のgiftを強く感じさせるスカルラッティやガスパールなのだが、彼のその後の人生には何があったのだろう?拍手をする気分ではないままそういう疑問ばかりが心を占めてしまいサントリーホールをあとにした。
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読響定期・五島みどりに感動
2016 OCT 19 23:23:24 pm by 東 賢太郎
指揮=シルヴァン・カンブルラン
ヴァイオリン=五嶋 みどり
シューベルト(ウェーベルン編):6つのドイツ舞曲 D 820
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
J.M.シュタウト:ヴァイオリン協奏曲「オスカー」(日本初演)
デュティユー:交響曲第2番「ル・ドゥーブル」
コンサートホールには時計がない、というより、ない方が良い。時は音楽が刻んでいるからだ。五島みどりが独奏したコルンゴルドとシュタウトは濃密な時間が流れ、時計はあるときは速くあるときは遅く進み、ときに止まってしまう。聴衆は外界とは別の時間空間にいる。それを支配するのが独奏者という司祭である。
コルンゴルドは何度もライブで聴いて、その都度いい曲だと認めるが記憶にあんまりしっかりと定着してない。冒頭のファ#にびっくりしたりおおいいぞと思うが、たぶん第3楽章の娯楽音楽の風情が毎度気に入らないせいだ。今日もその覚悟でいたが、大変感動した。なんといっても五島がいい。たぐい稀なる司祭ぶりだった。
シュタウトでの圧倒的な集中力。絹糸みたいに繊細でつややかな高音。弦楽器できけるたぶん最高音だろうハーモニクスの完璧なピッチ。まったく素晴らしいの一言。本邦初演。ユリア・フィッシャーが西洋人の美音なら五島は日本の感性の美かもしれない。ぎりぎりまで磨き抜かれた音色を損なわない急速なボウイングは一糸乱れることなしだ。
デュティユーの2番はシャルル・ミュンシュがフランス国立管を振った名演(ライブ)があって、それが僕の愛聴盤だ。メロディーもリズムも和声(神秘的だ、すばらしい!)もある比較的親しみやすい曲で、最後は不意に鳴る灰色に凍てついた氷原のような弦の和音で静かに終わる。ライブは初めてだったがカンブルランはフランス物(ラテン物)を明晰に振り分ける。いい指揮者を指名したと絶賛したい。読響も見事な好演であった。
サントリーホールを出て腕時計を見ると、ずいぶん経ったように感じた時間はほぼ通常通りだった。
(参考・デュティユーの2番)
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ユリア・フィッシャー演奏会を聴く
2016 OCT 17 2:02:12 am by 東 賢太郎
ユリア・フィッシャーさんの演奏会に行きました。プログラムは以下の4曲でした。
ドヴォルザーク:ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ ト長調 Op.100
シューベルト:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ト短調 D408
シューベルト:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ニ長調 D384
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 Op.108
シューベルトはD408(3番)が当日に追加されましたがそれもソナチネ。こういう選曲は個性と自信と主張のたまものですね。ドヴォルザークもシューベルトもソナチネという感じではなく堂々たるソナタに聞こえるのだから別物でした。
彼女の音はCD等で聴きこんで惚れていたのですが、実際に耳にすると表情の使い分けがもっともっと多彩であったことに気づきます。これは録音じゃわかりませんね。たとえば、フレーズをppで入って同じ弓でmfぐらいになるのですが、その間のヴィブラートが増音につれて速くなる(回数が増える)ような微細な表現が自在に組み込まれていて、それが(聞こえはしませんが)彼女の生の呼吸と同期しているようで、まったく自然に感情の起伏が乗るのです。
シューベルトの譜面に指示がなくてもこの音はどういう音で弾かれるべきかが考え尽くされていて(しかもそうでない音が一音たりともない感じ)ピッチは最高音まで胸のすくほど完璧で、一言でいうなら、強い意志と見事なテクニックで意図が迷うことなく心に伝わってくるというヴァイオリンでありました。知性が根っこにあって一音一音に微細な「ギアチェンジ」があるのですが、それがまったく理屈っぽくならないところが魅力です。彼女が弾くなら何でも聞いてみたいと強く思わせる何かがあって、それを突きとめたいから来たのです。
僕はうまいけど何も考えてない演奏家はどんなにうまくても嫌いなのです。性に合わない。彼女の解釈はというと(細かく言えば同意しないところもあるのですが)、これだけ思考してトレースした末の音であれば正解などないわけですから言うことはありません。その自信に満ちた音ですが、細部まで吟味されつくした名プレゼンテーションのようです。すべての音に主張があって聴く者を考えさせるという意味で。彼女はカルテットもやってますが向いてますし、ピアノを弾くのも自分の主導する音楽をやりたいからでしょう。だからきっといずれ指揮もやるんでしょうが名指揮者になれる資質と思います。
圧巻はブラームスでした。3番のソナタは僕が愛する曲で、なにせ交響曲の4番を書いた後の作品ですからね、55才の作曲家の複雑な深層心理が底流にある難しい音楽なのです。ピアノが雄弁に語るわけですが、人肌を添えるという側面でマーティン・ヘルムへンの暖かいビロードのようなタッチと音色が効果的でした。亡くなっていく友人に人生の黄昏を見た曲であり、それを33才の小娘が(失礼)?という気持ちがなかったと言えばうそになりますが、彼女は楽々と乗り越えてました。文句なし。アンコールのスケルツォもブラームスを堪能させてくれました。
エージェントにアレンジしていただいていたので終演後に、お色直しして楽屋から出てきた彼女にお会いしました。強いオーラのある人ですね、眼が合ってすごい「気」を感じました。ブラームスの感想を伝えたら喜んでくれました。僕のブログは「日本語が読めないので」とのことでしたが「YahooでもGoogleでも、日本語でも英語でも、あなたの名前を検索するとずっとトップ画面キープしてるんですよ」というと「ワーオ!それすごいです、見ておきますね」でした。
写真はいいですかときくと「一応見せてくださいね」で、娘が撮って、これをはいっとお見せすると笑顔で「オーケー」でした。あの才能でこの美貌、天に二物をもらってますね。
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N響 ブルックナー交響曲第2番をきく
2016 SEP 25 1:01:23 am by 東 賢太郎
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ:ラルス・フォークト
モーツァルト/ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595
ブルックナー/交響曲 第2番 ハ短調
今日つくづく思ったのは27番は難しいということ。ここに書いたように、私見ではこのコンチェルトは1788年、「コシ・ファン・トゥッテ」の姉妹作だ。
しかし、第2楽章の第2ヴァイオリンのあの胸につまされる音階パッセージは何だ?フォークトはドイツ時代に何度か聞いたピアニストだが、モーツァルト、しかも最も難しい27番であえて何を言いたかったのか。音階パッセージをピアノが模す場面はなにかが違う。
僕はウィーンへ行くと必ずモーツァルトが昇天した家に詣でる。そしてそのすぐ前にある宮廷料理人イグナーツ・ヤーン邸の地上階にあるカフェで1時間ほど過ごすのだ。ここに詳しく書いた。
27番はこのヤーン邸で、モーツァルト自身のピアノで初演されたのだ。そして、それは彼が公の場で演奏した最後の機会となった。第2楽章、彼の魂が天に登るような変ホ長調。あのカフェで脳裏に聞こえたような演奏はまだない。モーツァルトは本当に難しいのだ。
今日の収穫はブルックナーの2番だ。ヤルヴィになってこういう曲をプログラムに組んでくれる、これはいよいよ日本のクラシック・シーンが欧米水準になるということだろうか。これを覚えたのはハイティンク盤、ショルティ盤、スクロヴァチェフスキー盤だが、細かくは知らないが、今日の版は改訂版とは違うかもしれない。
しかし演奏は期待以上で、レコードでは味わえなかった独特の楽器法の木管アンサンブル、対向配置のヴァイオリンの意味深い対位法、インパクト充分の金管とティンパニなどについてヤルヴィは確信をもって振っており、後期の交響曲とは一味違うむしろ古典的な性格の残る部分をメリハリをもって描いた。この解釈で5番をやったら素晴らしいだろう。
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元宝塚の真丘奈央さんのコンサート
2016 SEP 11 23:23:39 pm by 東 賢太郎
先週は駆け足で海外に行ったり気疲れが多く、安らがない日々が続いている。スケジュールもくるくる変わったりで、今年からSMCの新メンバーにお迎えしたミクロネシアはポンペイ島ご在住のトム市原さんが来日されるものの、お会いできるかも危うい状況になった。
それが金曜の夜ならなんとかというのに落ち着いて、それならこれをぜひ一緒にというので行ったのが、元宝塚の真丘奈央さんのコンサートだった。
なにしろ「保護犬・猫のためのチャリティーコンサート」というのがいい。僕は殺処分ゼロを断固支持する者である。人間の勝手で犬猫を飼っておいていらなくなったら捨てる、店で売れないから処分する、かように玩具や商品在庫のように動物の命を扱うのは人として悲しい。
僕は犬を飼ったことがないが、覚えていることがある。和泉多摩川の団地住まいのころ、七五三だったのだろうから3才のことになる。両親に連れられて羽織袴で橋を渡って登戸の神社へ行った。するとそこにいた茶色の犬が僕になついてきて、何が気に入ったのか、帰り道、いたずらで橋桁の上を歩いたりしながら戻って来たのに家の前までずっとついてきてしまったのだ。「飼いたい」と泣いてせがんだが、親父が頑としてだめであった。翌日、ひょっとしてと周りをあちこち探した。どこにもいなくなっていて、ひどくせつなかった。
あの犬はどうしてしまったんだろう・・・。3才の記憶なんてそうあるものじゃないのにこれは信じられないぐらい、昨日のことのようにはっきりとプレイバックできてしまう。なぜかと言うと、僕はその犬と気が合っていた。あっ、こいつがいたら毎日が楽しいな、いい友達になれそうだとひらめいていた。人だって動物だって、そんなことってそうあるもんじゃない。あれを親父が飼ってくれたら今頃は犬派だったかもしれないなあ。主催のNPO法人の方のスピーチを聞きながらそんなことを思い出していた。
真丘さんが宝塚スターだったということも、そもそも宝塚が何なのかということも門外漢の僕は知らない。しかし、結論として事実として、僕は2時間わくわくして楽しんだのだ。前から2列目で表情が良く見えたのも幸いしてか、自分は女の人が歌を歌っているその笑顔を見るのが好きなのだということがわかった。
オペラやミュージカルというのはずいぶんたくさん見たが、登場人物がずっと笑顔なんてことはもちろんない。怒ったり泣いたりしているのは無条件にいやだし、癒されたいときは宝塚のほうがいいのかもしれないなどと思ってしまった。そういえばお袋がこんなの大好きだ。遺伝かな。
というわけで音楽も楽しかったがこちらも心からの笑顔になって帰していただいた。心の漢方薬だ。ロビーで大勢のファンに囲まれる真丘さんに御礼のひとことぐらいと思ったが、女性ばっかりの熱気に圧倒され失礼してしまった。
そこから市原さんらと三鷹の駅前で食事。ご友人は「算数オリンピック委員会」のかたで、日中両国で毎年3、4千人の小学生が競うそうだ。関心ありますということでお別れした。
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読響定期 ヴァイグレのR・シュトラウスを聴く
2016 AUG 25 23:23:14 pm by 東 賢太郎
指揮=セバスティアン・ヴァイグレ
ソプラノ=エルザ・ファン・デン・ヘーヴァー
R.シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」 作品28
R.シュトラウス:4つの最後の歌
R.シュトラウス:家庭交響曲 作品53
(8月23日、サントリー・ホール)
オーケストラを聴く醍醐味はいろいろありますが、リッチな音彩とボリューム感でR・シュトラウスは横綱クラスでしょう。オペラでも例えば「薔薇の騎士」を最前列で聴いたとき味わった、ピットから湧き起るとろけるようにメロウな弦の響きやめくるめく極彩色の管のタペストリーがこれまた美の極致の女声群とからむ陶酔感は他では得られないものと思います。
最晩年の作である「4つの最後の歌」はドイツ歌曲でも好きなものひとつ。期待が高かったですが、エルザ・ファン・デン・ヘーヴァーの歌は堪能しました。また聴きたいですね。深くて広々した声は、思わずドイツの劇場で毎週のように聴いていたオペラや歌曲を思い出してしまいます。「夕映えに包まれて」が木管のトリルで痺れるように闇に消えていく、この「痺れる」感覚がシュトラウスです。素晴らしい。
ティルはまだオケ(弦)がやや硬かったかなと思いますが、ヴァイグレはベルリン国立歌劇場管の首席ホルンだったそうで読響のホルンも大健闘でした。さて後半の「家庭交響曲」、小泉 和裕が都響だったと思いますが10年ぐらい前にここで暗譜で振って、これが大変な名演だった。家で聴くほど好きではないが、この曲のオーケストレーションの見事さは敬服していて、ライブでこそその真価がわかるのです。
結論として、ヴァイグレの演奏はベスト。オケは鳴りきり、有機的に複合し、ピッチも内声のハモリも完璧、音楽の起伏は振幅があってドラマティックであり、完全に打ちのめされました。驚くべきは、オケの音色の質感が非常に「東欧的」になったことで、日本の楽団からこれほどDSKやバンベルグSOを彷彿させる上質の音を聴いたのは初めてだ。
そういえばベルリンの旧東独ウンター・デン・リンデンの国立歌劇場で何度もワーグナーを聴いたのですが、こういう音だった。バレンボイムの棒で、ヴァイグレもそのころホルンを吹いていたはずですが、どういう魔術で読響の音をああしたのか?この指揮者は大変な才能、ひょっとしてカール・ベーム並みになる人じゃないかと本気で思いました。
読響も複雑なスコアを見事に弾き終え、全奏でも音が濁らず、集中力、棒の微妙なタッチでの呼吸の良さ、間の良さ、文句なしの大名演であります。特に管楽器、このまま欧州でやってトップクラスのレヴェルでした。本当に聴けて良かった!こういうのが稀にあるから定期に通ってますが、早くも今年のマイ・ベスト最右翼であることは確実であります。
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