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カテゴリー: ______演奏会の感想

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調 作品43(読響・カスプシクの名演を聴く)

2017 SEP 8 1:01:27 am by 東 賢太郎

2017年9月 6日(水) 19:00 東京芸術劇場
指揮=ヤツェク・カスプシク
ヴァイオリン=ギドン・クレーメル

ヴァインベルク:ヴァイオリン協奏曲 ト短調 作品67 (日本初演)
ショスタコーヴィチ:交響曲 第4番 ハ短調 作品43

 

紀尾井町のオフィスで火急の案件が電話で飛びこんできて、没頭していたら19:00の開演に間に合いそうもないことに気がついた。焦ってタクシーに飛び乗って電話の続きだ。「10分前あたりに着きそうです」なんて言われてやれやれと思ったら間抜けなことに「サントリーホール」と運転手さんに指示しており、完全にそう思い込んでいたのを降りてから気がついた。まいったぞ、またタクシーで池袋へ急行だ。しかしよかった、4番は間に合った。

4番は134人の大編成の難曲でなかなか聴けない。家の装置で大音量で再生してもピンとこない箇所が数々あり、そこがどう鳴るべきかずっと気になっていた意中の音楽である。東京芸術劇場のアコースティックはこの大管弦楽には好適で、前から6列目だったがほぼマストーンと分厚い管楽器の混濁がなく、第1楽章の弦のプレストによるフガートの明晰さも圧倒的だった。総じて、非常に素晴らしい演奏で指揮のカスプシク、読響に心から敬意を表したい。

4番をショスタコーヴィチは1番と考えていたふしがある(1-3は習作だと)。マーラー1番の引用が各所にあるのはそのためだろうか。第1楽章のカッコーはすぐわかるが第3楽章冒頭は巨人・第3楽章であり、コントラバスが執拗に繰り返すドシドソラシドは巨人・第2楽章でありどきっとする。木管の原色的な裸の音や金管・打楽器のソリステッィックな剥き出しの用法など全曲にわたって管弦楽法は大いにマーラー的だ。

1936年1月から2月にかけてオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が「プラウダ批判」にあいショスタコーヴィチは4番の初演を見合わせた。プラウダ批判とはソ連共産党 中央委員会機関紙『プラウダ』による、プレスの体裁を纏った「将軍様」スターリンの検閲機関である。いまの北朝鮮を想像すればいい。ということはこの曲には将軍様のご機嫌を損ねて自身や家族の命を危うくする何物かがこめられていたはずだ。その何物かは隠喩であって賢明な聴衆には伝わるが愚鈍な政府はわからないと思慮したのが、情勢が変化して意外にそうではないという危惧が作曲家の心に警鐘を鳴らし始めたと考えるのが筋だろう。

ではそれは何か?私見だが、巨人は自己の作曲の第1幕の、そして第3楽章の終結はスターリン圧政による「死」の暗示ではないだろうか。虐殺の死臭漂う中での皮肉な門出。運命への怒り、哄笑とシニカルな抗議。プラウダ批判の後、政府関係者が懺悔して罪を償えとしつこく説得したが拒絶した結末がこのスコアになっていると僕は思う。引用されるカルメンの闘牛士も魔笛のパパゲーノも、お考えいただきたい、女の死であり道化の首つり自殺の暗示なのではないか。将軍様を「死神の道化」にしたものだ。彼は忖度して作品を曲げることはしなかったが、そのかわり、演奏を撤回した。芸術家としての矜持を僕は称賛したい。それはあたかもフィガロの結婚を書いたモーツァルトに重なるものとして。

何よりの死の暗示は第3楽章の終結、全曲のコーダとなるチェレスタの部分である。カスプシクの含蓄ある指揮によって、僕はここのコントラバスとティンパニの心臓が脈動するような音型がチャイコフスキーの悲愴交響曲の終楽章コーダから来ていることを確信した。その直前、金管のファンファーレが強烈な打楽器の炸裂で飛散する部分で死を象徴する楽器であるタムタム(銅鑼)の一撃があることも悲愴と同じである。それはチャイコフスキーの死を飾る音楽であった。自身のデビュー交響曲を死で飾る境遇を彼は音楽の常識ある人だけにわかる隠喩でこう表現したのではないか。

そして、さらに4番の終結部ではマーラー9番の悲痛なヴァイオリンの高域による終結が模倣される。マーラーは悲愴の低音域による死を高音に置換しているが、ショスタコーヴィチはここで両者を複合してメッセージをより強固とし、より天国的で透明だが死体のように冷たくもあるチェレスタによる昇天で自己を開放している。この終結を導く主調のハ短調に交差するシ・ラ・ド(バスクラ)、ソ・ド・ファ#(トランペット)の陰にレがひっそりと響き、悲愴の「ロ短調」が半音下の複調で亡霊のように浮かび上がるのを聴くと僕はいつもぞっとする。トランペットはツァラトゥストラを模しており、そのハ長調対ロ長調の隠喩である凝りようはおそるべしだ。最後のチェレスタの、雲の上に浮上する、ハ短調とは不協和なラ、レが魂の天界への望まざる飛翔のように感じられる。

どこといって悲しい短調の旋律やストーリーがあるわけでもないのに、演奏が終わると心は何処からかやってきた重たい悲嘆に満ちていて、涙がこぼれ、僕は拍手は控えてただただこうべをたれて合掌していた。何という素晴らしい音楽だろう。4番はショスタコーヴィチの最高傑作である。1-3番を習作と見れば、仮面をつけていない彼の唯一の交響曲でもある。僕が5番は聴くが、第3楽章までしか聴かない理由を分かってくださる方はおられるだろうか?終楽章はモランボン楽団の行進曲なのである。スターリンは死んだが、彼はもう4番の世界に戻ることはできなかった。そして、最後と悟った15番に、4番の精神を受け継いだあの不可思議な終結を持つ引用に満ちた謎の交響曲を書いたのである。

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47

ショスタコーヴィチ 交響曲第11番ト短調「1905年」作品103

この曲の真実を抉り出した演奏はこれをおいてない。ショスタコーヴィチは親友だった(と思っていた)ムラヴィンスキーに初演を依頼したが断られる。理由は不明だが危険を察して逃げたとしたら親友は策士でもあったのだろう。コンドラシンが初演を引き受けたことに隠された思想的共鳴があったかどうかも不明であるが、後に西側に出たことからもその可能性があると思料する。初演したモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の楽想の咀嚼と共感は深く、未聴のかたはまずこれで全曲を覚えることをおすすめする。

 

「知られざるロシア・アバンギャルドの遺産」100年前を振り返る

バーンスタイン「ウエストサイド・ストーリー」再論

 

 

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N響・スタインバーグの「わが祖国」を聴く

2017 MAY 21 10:10:24 am by 東 賢太郎

きのうは本当に久しぶりにブルックナー5番のいいものを聴いて、まだ頭の中でずっと鳴り続けている。この曲は主題そのものに転調のメカニズムが埋め込まれていて、ドビッシーがフランクを転調機械と揶揄した塩梅にぐるぐると調が変転して色彩が移ろうのが実に楽しい。

それで順番が前後してしまったが先週はN響でスメタナの「わが祖国」全曲をピンカス・スタインバーグで聴いて、これはこれで随分と面白かったのだった。

チェコ人に国民的音楽家はと問うと、ドヴォルザークという答えはまず返ってこないらしい。スメタナだ。「わが祖国」は英語でMy Homelandと訳され、英国でこれをプログラムで見て違和感があった。一方、ベルグルンドがSKドレスデンを振ったドイツ盤にあるMein Vaterlandはなぜか納得していて、我ながらまったく筋が通っていない。チェコ人はドイツ語で呼ばれるのが最も嫌だろうなと思うのだがそれは頭で考えてのことだ。

この音楽はいわば長大な国歌のようなものだ、君が代をYour reignなんてやめてくれよということであって、これはチェコ語でMá Vlast と呼ばれねば非礼だろう。そういえば来日したベームやカラヤンが君が代をやっていたが、あれもちょっと違う、そりゃウィーンフィル、ベルリンフィルなんだから響きは立派なんだけどと思ったりしたものだ。

音楽はユニバーサルなもので国籍はない、そんなのがあったら日本人はなにも演奏できないじゃないかということになる。幸い事情はアメリカもイギリスもほぼ同じであって、グローバル言語の英語で「音楽は無国籍である」と発信されているから心強い。しかし欧州大陸に5年半住んでみて心から思ったことなのだが、ドイツ、フランス、イタリアなど大陸では英語はマイナー言語であって、外国事情を悉く英語で受容している我々が想像しているほど英米人の都合で欧州文化が無国籍化されていることはないことを知るのである。

英米人が手も足も出ないウィンナ・ワルツというものがあるが、「今や時代はグローバルだ!」とあのズンチャ~ッチャを均等に振っても様にならない、どうしようもない。あのオケはウィーン人しか就職できない?雇用機会均等法違反だ!あっそう、じゃあ均等振りでやればいいよ、でもお客入らんから。そういうことだ。歌舞伎を英語でやったっていいがおんなじことだろう。それが仮に英語圏で流行ったとしても、それで本家の歌舞伎まで英語になる道理などどこにもない。

僕はクラシック音楽にローカルなものを積極的に聞きたい聴衆に属する。ドレスデン・シュターツカペレの音がベルリンフィルみたいになりつつあるのに憤りすら覚える者だ。英国EMIが録っていた時は良かったが、イタリア人のシノーポリが音楽監督になりドイツのDGが録り始めてからおかしくなってしまった。フランスもパリ音楽院管がなくなってあの音は消滅。パリ管などもはや至ってインターナショナルな音である。

はっきり言うがそんなものは僕には金を払って聴く動機がない。伝統の音色を捨てて技術だけを差別化要因とするなら、そのコンセプトで演奏家教育をしている米国のシカゴ響やフィラデルフィア管にかなうはずもないのである。後者を2年聴いて、ヨッフムとやってきたバンベルグ響の弦の音を聞いた時の喜びは忘れようもない。砂漠にオアシスとはこのことだ。オケはうまければいいというものでは絶対ない、僕は身をもって、渇望の中でそれを体で味わった。

そういう下地があるので、N響がわが祖国をやるといって期待しろというほうが無理だ。スタインバーグも親父が偉大過ぎて特に関心がなく、これが初めてだったからなおさらだった。

ところが、これが大変良かった。まず弦だ。素晴らしいピッチであり文句のかけらもなし。コンマスは伊藤亮太郎氏。以前に彼のことをポジティブに書いたが、彼がいる時で第1Vnの音に不満を持った記憶は一度としてない。不満がなかったほうが少ないのだから、それが彼の功績であると結論して問題ないのではないだろうか。この日の弦は5部すべてが同様に上質。いい時のドレスデン・シュターツカペレを彷彿させる東欧的な音とすら感じた。特にシャールカの速いパッセージは秀逸、ワールドクラスの出来として印象に焼きついた。

ピンカス・スタインバーグはサンフランシスコで聴いた親父さんウィリアム・スタインバーグの指揮姿を思い出し懐かしい。弦の音質に湿度があるせいでオケ全体の音に粘り気があり、いつもの薄味のN響と程遠いこってり味だ。すべての音に質量が付加され、天井に舞い上がることなく下へどっしりと向かっていく。N響に限らず日本のオケからこんな音がするのはあまり記憶がない(マタチッチが唯一近かったかもしれないと思う)。こういう音が作れるならオケの国籍こそ不問となるだろう。音楽の国籍は消しようがないが、優れた指揮者はこうやってそれを払しょくできるのだ。また聴いてみたい指揮者が増えた、ありがたい。

(ご参考)

米国放浪記(7)

スメタナ 交響詩「我が祖国」よりモルダウ

 

 

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凄かったロジェストヴェンスキーのブルックナー5番

2017 MAY 20 1:01:56 am by 東 賢太郎

5番が一番好きかもしれないブルックナー。確たる理由はないが7、8番のようにムード音楽にはなり得ないのがいい。峻厳な対位法では5番がベストであり、彼はワーグナーと違った道を歩みかけたが結局それに戻ったといえないこともないから真の個性は5番に刻印されていると僕は思っている。これを初めて聴いたのはロンドン・レーベルでクナッパーツブッシュ/VPO盤(右)が昭和50年に1000円で出た時で、これで覚えたシャルク版が終楽章にカットを施しており管弦楽法も肥大していることは後で知った。しかしこのレコードは、それにも関わらず名演だったから、5番とのつきあいは何とも複雑なものになってしまった。シャルク=改悪、ゲテ物というイメージが植えつけられ昨日まで来ており、まさかそれを実演で聴けるなど想像もしなかった。

本読響定期公演シリーズを買ったのはメシアンもあるが、5番をスクロヴァチェフスキーで聴けるのは最後だろうと思ったのも大きく、残念なことだったがそれがかなわずロジェストヴェンスキーで聴くなどというのもまったくの想定外であった(そういえば朝比奈も最後と思って買った3番が結局聴けずに終わったが)。5番はヨッフム最後の演奏をアムステルダムで聴く幸運に恵まれたし、それがいい音でCDになっていてこれを凌駕する演奏はないと思っているからつきあいは報われているが、それ以来心を動かす演奏には巡り合っていなかった。

 

ロジェストヴェンスキーのブルックナー録音というのはソヴィエト国立文化省交響楽団による異稿を含む全集があってこれが非常に面白い。ロシア臭ぷんぷんの金管はドイツのブルックナーとはかけ離れておりゲテ物扱いする人もいようが、耳が慣れればむしろこの指揮者の音楽の構築を一旦ばらして組みなおす譜読みの分解能に資すると思え、そのアプローチが最も活きる5番は文句なく聞きものである(写真、84年録音)。この版は原典版とあるがハースとも思えず不明である。指揮者の手が入っているかもしれない。

さて読響であるが、まずシャルク版は凄い経験だ。原典版はほぼ二管編成であり、7,8番を経ての初演で音を厚くしたくなったのはわかる。チャイコフスキー、マーラーを思わせる音があり、原典を聞きこんだ者には確かに厚化粧で芸達者の観がある。僕はシューマンのマーラー版を嫌う趣味の人間であり、これも同様に見ていたが、この演奏を聴いて考え直したのは「何でも原典版」というピューリタニズムが作曲家の意図かということ。ベートーベンも演奏によってコントラファゴットの補強をしているしオーケストラのカラーリングは演奏状況に依存する要素があり、特にブルックナーは何がベストというコンセプトはなくバンダの採用も同意していたともいわれる。

えっという音がそこかしこでするが、クナ盤で覚えた部分もあって懐かしくもある。終楽章でフーガを経て3つの主題が多層的に立体的に複合するあそこはジュピターのコーダに匹敵する数少ない奇跡的な音楽だが、ここ、シャルク版はいいではないか!一概に改悪なんかではないぞ。第1楽章の遅さは終楽章コーダでの回帰に向け主題を深層意識に植え付けるものだったのか?とにかくバンダが立ち上がって加わったあそこは何かが降りてくるのを見た。こんな演奏は何年に一度も体験できるものではない。大変なものを聴かせていただいた。

ロシアには常人離れした怪物といおうか怪しい「気」を発する天才がいてムラヴィンスキーやコンドラシンがそうだったが、ロジェストヴェンスキーの指揮もどこか19世紀的で魔術的な呪縛力があって背中で客席まで金縛りにする。だいぶ前にやった春の祭典で最後の一発の振り下ろしと同時に体ごとくるっと客席に回れ右したのは唖然だった。なんだ?と当時は思ったが、物凄く左脳的に分解能が高くてmeticurous(細部まで綿密にこだわって細かい)ながら怜悧ではなくどこかヒューマン。何とも言えないバランスが魅力で、いまこんな人は皆無だしもう出てくるとも思えない。

86才の巨匠。なんでもいい、もう一度ききたい!

 

(ことらもどうぞ)

ブルックナーとオランダとの不思議な縁

 

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ライヴ・イマジン祝祭管弦楽団演奏会

2017 MAY 8 18:18:46 pm by 東 賢太郎

みなさま、昨日は連休最終日にもかかわらずライヴ・イマジン祝祭管弦楽団演奏会に多数ご来場いただきましてありがとうございます。また指揮の田崎先生をはじめソリストの吉田さん、コンマスの前田さん、そしてオーケストラ楽員の方々におかれましては立派なハイドン、モーツァルトを聴かせていただいたこと、心より感謝申し上げます。演奏機会が多くはないハイドン98番、モーツァルトPC25番ですが、魅力をひとりでも多くの方に知っていただけたなら幸いです。

僕はあんまり演奏会をほめたことはなくて、別に辛口なわけではなくお世辞やお追従がないだけですが、オケに関するところ、昨日のは後半に向けてどんどん熱がはいってジュピターの終楽章で沸点に達する観がありました。どれも難曲であるうえに繰り返しも全部されて奏者のみなさん体力の限界に近づいており、そこであの終楽章というのだから正直のところ気がかりでしたが、火事場の**というのでしょうか、それがかえって一期一会の名演を生んだように思います。

打ち上げの席で、お世辞なくあれは良かったと申し上げた所、楽員の方々からどこが良かったのかと次々質問されました。どこがどうということではなく、指揮者の磁力とメンバーの気が高まってちょっと質の違うものになった。ああいうことはどこから来るともない相乗効果であって、人間の集団ではおきるもんで、でもしょっちゅうあるものではないというご説明しかできませんでしたが。それを引き出した田崎先生の音楽性、そして人間性あふれる包容力と奏者サイドを知り尽くした眼力にはさすがプロという言葉しかありません。

アマチュアの演奏を真剣に聞こうと思ったことがない僕のようなリスナーには、西村さんとのご縁で今回の演奏会の設営に関わらせていただいたことはすべてが勉強でした。僕が楽器をしないのは自分の耳が耐えられないからで、うまい人に弾いてもらうしかないのです。ならばよりうまい方が良いという理屈になって、それには相応のお値段があってといういわば資本主義原理で演奏というものをとらえていましたが、それは大きな間違いであったのです。アマであっても、もちろん一定の技術水準をクリアできればですが、ルーティーンでつまらない時のベルリン・フィルやシカゴ響なんかよりよっぽどインパクトのある演奏ができるということを学びました。聴く者の感動というものは、不思議な形をしているのです。

 

 

 

 

 

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大名演だったルイジ/N響のマーラー巨人

2017 APR 17 0:00:58 am by 東 賢太郎

指揮:ファビオ・ルイージ

ヴァイオリン:ニコライ・ズナイダー

アイネム/カプリッチョ 作品2(1943)

疲れがたまっていて休日のマチネーは眠くなってしまう。敬遠しているのですが昨日の読響が重なっていて止むなく振り替えました。ファビオ・ルイジは名前は記憶があってドイツ、スイスで何だったか聴いてるはずだけど覚えてない。気に留めてなかったのでしょう。メンデルスゾーンの速めのテンポでやや意識が戻るも集中せず。観念して後半のマーラーを迎えました。ところが、これがめちゃくちゃ面白かった。場外ホームラン。何年に一度の快心の一発です。

第2楽章は冒頭のチェロがゆっくり入って加速したり、第3楽章はコントラバスが全員で弾いたりとえっという感じでしたが、緩急自在のテンポでエピソードごとに大きく表情は変転。一時も飽きることなし。一気に覚醒。管楽器ごとにニュアンスと色合いが豊富なばかりか、弦5部も曲想によってそれぞれが自己主張して歌うので音楽がロマンティックに脈打つ。ヴィオラ、チェロは音が違う。ルーティーンで流すところは皆無、すべてのフレーズに血が通い奏者の息づかいまで感じられるという異例さで、何もなければ無難に終えてしまうN響も名演。

手垢のついた伝統の解釈を一旦ふりほどいてというのは誰もが試みることですが、これは聴いていて違和感のある恣意ではなく、ヨーロッパの伝統に根差した新しいスピリットの注入とでもいう感じがいたしました。第1楽章のカッコウの森の深々とした遠近感、第2楽章のホイリゲの雑踏のようなライブ感、第3楽章の軍楽隊はドンチャンと速めに行進してはっとさせ、ハープの「彼女の青い眼が」は白い霧のなかの白昼夢みたいに響く。それぞれ場面場面で11年住んだヨーロッパの懐かしい光景が脳裏に明滅するのには本当に驚きました。

僕にとってマーラーの安っぽくて嫌だと思っていた部分はこういうものだったか、いままで何を聴いていたんだろう?

1番のオーケストレーションは見事で第3楽章で一回だけひっそりとマレットでたたくシンバルの響き一つでも頭に焼きついています。音楽が生き物のように流れるとその効果が色づいて見える。ルイジのスコアの読みはマーラーの意図かどうかはともかく、僕も耳にタコができている1番の再発見をさせてくれました。クラシックはまだまだこういう余地がある。学んだと同時に、頭を芯まですっきりさせてくれました。

(こちらへどうぞ)

マーラー交響曲第1番ニ長調 「巨人」

 

 
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カンブルラン/読響の「青ひげ公の城」

2017 APR 16 0:00:24 am by 東 賢太郎

指揮=シルヴァン・カンブルラン
ユディット=イリス・フェルミリオン(メゾ・ソプラノ)
青ひげ公=バリント・ザボ(バス)

メシアン:忘れられた捧げもの
ドビュッシー:「聖セバスティアンの殉教」交響的断章
バルトーク:歌劇「青ひげ公の城」作品11

最高のプログラムでした。これが東京で聴けるというのは有難い。東京芸術劇場は改修前に通ったことがあり、どうなったか気になってました。好き好きですが前の方だとやや音が残響とかぶるかなという感じ。ただ倍音が乗って音圧は結構来ますから東京のホールとしては上の部類です。

バルトークがよかった。おどろおどろしいオペラですが、それを前面にに出さずオーケストラの多彩な色彩感と透明なテクスチュアで7つの部屋の情景の裏にある恐ろしさ、不気味さをうっすらと醸し出すというアプローチ。宝石の部屋と涙の湖の部屋でそれが効いておりました。歌手も好演。ハンガリー人のザボによる青髭は安定感があり、フェルミリオンはモーツァルト歌いのようですがいい味を出してました。欧州の一流どころの歌手でこの曲を聴けるのは至福です。

ドビッシーのこれはオペラ仕立てでは聞けないのだろうからこの編曲しかチャンスがないのでしょう。しかし全盛期のインスピレーションはいまひとつ感じません。メシアンは三位一体教会のオルガニストになったころ彼の和声語法は基本的な好みとしては変わらなかったことがわかります。シルヴァン・カンブルランは現代のメシアン演奏第一人者ですね。11月の歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」は今から楽しみしています。

 

 

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カルロス・クライバー/ベルリン・フィルのブラームス4番

2017 APR 2 1:01:57 am by 東 賢太郎

レコード芸術誌の「巨匠たちのラスト・レコーディング」という企画によると、僕が聴いた演奏会のライブ録音が人生ラストだったという大指揮者が二人いました。オイゲン・ヨッフム(ブルックナー5番)とジャン・フルネ(ブラームス2番)です。

ほかにも最後のマーラー(ショルティ、5番)や最後のブラームス(カラヤン、1番)なども指揮姿とともに鮮烈に記憶にあって、「巨匠の時代」があったとするならばそれは僕らの世代の眼前で静かに黄昏を迎えていったのかもしれないという感慨を新たにいたしました。

幸いなことにその4つの演奏会はすべて正規の商業録音が残っています。音がいいだけに会場の空気まで生々しく蘇ってきます。もうひとつ、カルロス・クライバー(1930-2004)の、最後ではないがたった2回しか人生で振らなかったベルリンPOとは最後だった演奏会(ブラームス4番)があって、これについてはすでにブログに書きました。

カルロス・クライバー指揮ベルリンフィルの思い出

クライバーは日本通で和食も好きで、お忍びでよく来日していたと某社で彼を担当していた人に聞きました。ベルリンの演奏会は正規盤がなく米国製の海賊盤が残っていますが彼はこれを秋葉原で買って愛聴していたそうです。それをyoutubeにアップしましたのでどうぞお聴きください。

これをいま聴きますと不思議な気持ちで、モノラルであるせいもあるのでしょうか、レコードを擦り切れるほど聴いたフルトヴェングラーやトスカニーニも実演はあんな感じだったのだろうかと逆体験の空想に浸ることになります。

好きなオーケストラ、好きな曲だけ振って、好きなようにスケジュールを組んで貴族のように生きた男。前述のかたに彼の出自もお聞きしましたが、もうこういう人は二度と出てこないだろうと思います。

それは現在の我々がクラシック音楽と思って聴いている音楽が最後に生まれたのが20世紀前半のことであって、その作曲現場の空気を知っていた世代の演奏家が世を去っていったことで終焉を迎えたものだからです。

個人的に、第2次ベル・エポックとでも名づけたい良き時代であり、そういえばこんなに長く70年も大きな戦争がなかったのも良きことでした。ご本家ベル・エポックは第1次大戦で終焉しましたが、今度はその禍なきことを祈ります。

 

クラシック徒然草―フルトヴェングラーのブラームス4番―

 

カラヤン最後のブラームス1番を聴く

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

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N響・パーヴォ・ヤルヴィのシベリウス2番

2017 FEB 13 13:13:25 pm by 東 賢太郎

指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
アコーディオン:クセニア・シドロヴァ

ペルト/シルエット ― ギュスターヴ・エッフェルへのオマージュ(2009)[日本初演]
トゥール/アコーディオンと管弦楽のための「プロフェシー」(2007)[日本初演]
シベリウス/交響曲 第2番 ニ長調 作品43

 

 
トゥールが面白い演目でした。アコーディオンがはいるクラシックは初めてですが、管とも弦とも音色の親和性があって意外に溶け込みます。音量はマイクで拾っていましたが十分にコンチェルトが成り立つように思いました。シドロヴァ はチャームのある人でアンコールも魅了されました。ぺルトの曲はパーヴォに献呈されたもののようですがよくわからず。

シベリウスは親父もこのオケで聴いたので比べてしまいます。

ネーメ・ヤルヴィのシベリウス2番を聴く

これがあまりにインパクトがあり、こういう家の子は大変だなと思うことしきり。息子は曲想に応じて振幅の大きな表現で、長い音符は長く、急速なパッセージはより急速にと変化をつけますが、どうも後期ロマン派ぶって聞こえてしまう。弦がそれに呼応して熱演してしまうものだから、どうも僕のイメージからどんどん乖離していきました。ff の弦の質感もよろしくない。去年聴いたラハティ響はこんな弾き方はしていませんでしたが音楽は内面からエネルギーを放射していましたね。この路線で息子の全曲を聴きたいとは思いませんでした。終楽章コーダのティンパニ・ロールに g を入れるのは大変に耳障り、勘弁してほしい。ベルグルンドも1回目のボーンマスSOではやっていますがヘルシンキSO、イギリスCOとの2,3回目は d のまま。どうしてスコア通りでいけないのかわかりません。お気に召した方は多そうでしたが、趣味の違いですぐ失礼しました。

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メシアン「彼方の閃光」を聴く(カンブルラン/ 読響)

2017 FEB 1 1:01:07 am by 東 賢太郎

messiaenメシアンに凝ったのは大学3年、上野の文化会館音楽資料室で近現代のLPを片っ端からあさったときだ。春の祭典の完全記憶からクラシックに本格参入し、しばしモーツァルトより近現代がずっと優先の時期がつづき、ストラヴィンスキー、バルトークに始まってベルグ、シェーンベルク、ウエーベルンを経ていよいよメシアンに行き着き、資料室でトゥーランガリラと世の終わりのための四重奏曲の妖しい魅力にはまってしまった。下宿のこたつで彼のオルガン曲をヘッドホンで聞きながら寝ると眠りが深いという妙な事態に至ったりもした。僕のクラシック歴はちょっと変である。

後年、真夏にまばゆい純金色の妖艶で極彩色の輝きを放つバンコックの寺院に行くと何の前ぶれもなく「アーメンの幻影」が頭にシャワーのように降って来て、これは何だと仰天した破壊的な記憶がある。2010年にパリに行ったとき、ふとその衝撃がやけに懐かしくなって、メシアンがオルガニストだったひと気のないサントリニテ教会の暗い空間にしのびこんで1時間ほど一人で黙とうした。あの空間の、真夏なのにひんやりと冷たい空気の震えに肌で覚えたソノリティ、あれがメシアンの質感、クオリアなんだと確信した。

メシアンの音のクオリアの要素はオルガンと鳥と打楽器である。管弦楽はそれを模しているしピアノ曲であってもその絶妙な配合で成っているといって過言でない。メシアンを聴くとはその色彩を肌で感じながら頭はからっぽで瞑想するということだ。11楽章の「彼方の閃光 」のオーケストレーションも、トゥーランガリラより線へのフォーカスは減じているが、同様に3つの配合で比率が違うだけだ。彼方の閃光は金管合奏の「キリストの昇天」の和声で始まり鳥およびオルガンの祈りにより比重を置く。

隣の人がずっとおやすみで時折いびきが響いたが、実に不思議なもので、この音楽はそれをも自然に飲み込んで流れるのだ。エメラルド寺院で横臥の姿勢で仏像に祈る人々の姿が幻視でうかび、サントリニテの空間にこつーんと響き渡る靴音を思い出す。思考を無にしてあの世に解き放つような、異界の接点のような、初演までに彼岸に旅立ったメシアンがおそらく最期に見ていた世界ではないか。

終曲「キリスト、天国の栄光」で弦が玄妙な和音を延々と奏で続ける。天国への川の流れであり太陽の淡い光彩のゆらぎでもあり、時間の流れがおそい。あたかも旋律がきこえるかのように流れるが、和声の脈絡は希薄であって意識はよりどころを失って虚空をさまよう。弦楽合奏が pp に消え入る最後まで密かにシャラシャラと鳴る金属打楽器が「世の終わり・・」の高音部にちりばめられたピアノのようだ。ああやばい、またバンコック行きたくなった。

カンブルランのこれが聴きたいがために読響の定期を買った。はたして、よかった。オーケストラも好演、貴重な機会に深謝である。

(ご参考)

メシアン トゥーランガリラ交響曲

 

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N響/下野竜也 の名演

2017 JAN 29 9:09:08 am by 東 賢太郎

指揮:下野竜也
ヴァイオリン:クリストフ・バラーティ

マルティヌー/リディツェへの追悼(1943)
フサ/プラハ1968年のための音楽(管弦楽版╱1969)
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77

前半は二つとも初めての曲でした。第1曲のマルティヌーは「1942年にナチ親衛隊によって住民が虐殺され、強制収容所に連行され、村ごと焼き払われて地図上から姿を消してしまったリディツェという村のための追悼曲」で「プラハ北西15キロほどのこの村は、ナチの親衛隊長で、ユダヤ人絶滅作戦を策定したラインハルト・ハイドリヒをチェコ空軍有志が暗殺した事件で、暗殺部隊をかくまったことへの報復として抹殺された」(プログラムより)。

こんな壮絶なことが行われたのかと絶句。我が国はこのナチと同盟を結んだとはいえ、杉原 千畝、樋口 季一郎のようにユダヤ人を救済した人物までいました。日本軍に近隣国で戦時を超えた行為があった可能性は完全に否定はできないですが、日本民族の底辺にある倫理観、生死観からいかなる民族であれ絶滅作戦のごときおぞましき狂気まで共有したはずはなく、同列に論じられるのもかなわないと再認識であります。

悲痛に半音引き裂かれるような和声で開始し、重さと暗さが支配。それが深い祈りの和声と交差して天に昇華していくさまは心の奥底まで響きました。ぜひこれを聴いてみてください。

第2曲は1968年、プラハの春のソ連軍による弾圧でワルシャワ条約機構軍の戦車が街を蹂躙した事件に対する作曲家フサの怒りの表現でしょう。金管、打楽器、鐘など凄まじい音圧で迫り圧巻の音楽でありました。

下野竜也を絶賛したい。これだけ意味深いプログラムで打ちのめしてくれる指揮者がいま何人いるでしょうか。不断の好奇心をもって勉強を重ねないとこれだけの活動はできません、N響(コンマス伊藤亮太郎)もそれを受け止めましたね。つまらない外人呼んでくるなら下野を何度でも聴きたい、それほど気迫のこもった高い精度とボルテージの演奏でした。

後半はクリストフ・バラーティ の独奏でブラームス。この曲は僕にとって大事な音楽のひとつです。バラ―ティの感想は難しい。まず音の木質の豊潤な美しさはトップクラスと思います。1703年のストラディ「レディ・ハームズワース」で、僕が聴いたうちではアナスタシア・チェボタリョーワがメンデルスゾーンを弾いた絶品の中音域に唯一匹敵するもの。アンコールのバッハ(無伴奏のパルティータ3番  ガヴォットとロンド)はいつまでも聴いていたいレベルでした。しかしリザベーションがあります。

それを説明するにはテニス。昨日見ていた全豪オープンの準決勝、ナダル対ディミトロフ戦でナダルが接戦を制しましたがディミトロフは本当に惜しかった、最終セットのバックハンドの精度が低かったゆえ何本か落としたレシーブのリターン、あれさえ決まっていればフェデラー戦もいけたんじゃないか。それですね、バラーティに言いたいのは。彼の場合、音程です。

ほんのちょっとした、それも決めの音じゃないからいいじゃないかという声もあるでしょうが、僕は精度を書いて無頓着に感じてしまう。惜しい。それだけの素材だから求めたくなるのですが・・・。第2楽章アダージョは非常に良かったですね。遅い部分は文句なしで体質に合ってます。名器の美点が引き出されて、楽器もこういう相性の良い奏者にめぐりあえば幸福な音を出します。

第1楽章のコーダ、夢の中を天に登るようなppですね、最高の聞かせどころですからね、あそこは欲を言えば下野にもうすこし粘ってソロを引っ張って歌わせてほしかった。彼は性格がいいんでしょうか合わせてしまってバラーティもあんまり自己主張をしないタイプのようで残念ながらあっさりいってしまった。まあ良しとしましょう。

最高のコンサートでした。

 
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