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カテゴリー: ______演奏会の感想

演奏会は死んでいくか?

2016 JUL 10 16:16:12 pm by 東 賢太郎

 

(1)演奏会は死ぬと思った日

先日、証券会社の後輩が「支店に来るお客さんの平均年齢は優に70以上です。大手だと80です。東さん、60なんて若手ですよ」と妙な励ましをくれました。「国全体で見ると金融資産は60歳以上が約85%を保有しています。30歳代はマイナス資産ですよ」。

たしかに演奏会へ行くと老人ばっかりです。僕もそろそろその端くれです。若者はクラシック・コンサートに興味ないかと思いきや、彼はとんでもないといいます。

「好きでも生活に余裕なければ行きませんよ。チケットは高いし、連れて行くカノジョはいないし。それはちがいます」

30歳代はマイナス資産・・・。

これは悲しい。そうなると大枚はたいてホールに来るのは金融資産85%組ばっかりになるのも納得だ。

「それに若い人はスマホとyoutubeでいいんです。タダでいくらでも聴けますし。」

それはわかる。僕だって結構楽しめるし。そうなると若者はそれが習慣になっちゃうな。親の遺産もらっても習慣は変わらないな。85%組はあと20年ぐらいでこの世からいなくなるから、演奏会もいっしょに消えていくんじゃないか?

それからいろんなことが頭に浮かび、ああそうかと思いついたことがあります。忘れないうちにここに書き留めておこうと思います。

 

(2)音楽について書いていて気がついたこと

作曲家の頭に浮かんだ楽想や即興演奏は放っておけば消えます。それを記録しようと彼が思ったものだけが作品として残ります。我々が聞き知っているクラシック音楽はぜんぶそういうものです。

英語で楽譜のことをwritten music、 sheet musicといいますが、「(紙に)書かれた音楽」という意味です。ということは書かれていない、「音の状態にある音楽」というものもあるということで、我々が聞いて楽しむものはそっちのほうです。

つまり音楽(music)というものは二つあって、それは

書かれた音楽

聞こえる音楽

です。

書かれた音楽は聞こえる音楽にもなりますが、聞こえる音楽が書かれたかどうかはわかりません。ジャズの即興演奏がそれで、書かれていないけれど面白い。

 

(3)楽譜とは何か?

音楽を聞く人にとっては、書かれているかどうかはどうでもよいことです。それが楽しいかどうかだけです。音を出す人だって、本当は即興演奏だけでもいいかもしれない。ショパンのソナタのような音楽が次々と弾けるなら・・・。

現にモーツァルトはそれで飯を食っていましたし、ピアノは即興で、オーケストラにはちゃんと伴奏さすためにパート譜を書いた。それが残ったのが彼の27曲のピアノ協奏曲です。出版用にピアノ譜も書いたが本番でそのとおり弾いたかは不明で、26番のピアノパートは不完全のままになっています。

ところが時代が下って即興の要素はカデンツァを除いてどんどん減り、作曲家が書いた音符だけをを弾くのがクラシックだという定義づけができてしまいました。

音符そのものはもちろんマーラーみたいにホルンの朝顔を上に向けろだの立って吹けだの、ああだこうだ細かい指示まで譜面に書き込むようになります。覚え書き程度だった楽譜というものが、そのとおり演奏すればいつも同じ「聞こえる音楽」がこの世に立ち現れるという意味で「作品」というものになりました。擦ると魔人が出てくるアラジンの魔法のランプのようなものです。

すると「書かれた音楽」とレコードとは何が違うのだろう?

という疑問がでてきます。

 

(4)缶詰とインターネット

レコード(録音、CD、MDなど)も、再生すれば「聞こえる音楽」が立ち現れる魔法のランプだという意味では書かれた音楽(楽譜)と同じ役割のものです。料理に喩えれば楽譜はレシピであり、レストランのコックさんがその場で作るのが演奏会、料理をそのまま詰めこんだ缶詰がレコードにあたります。

問題はその缶詰が美味で大量生産されると、レストランはどうなるかということです。

レストランがコンサートホールにあたります。後輩が主張するように、youtubeをパソコンのスピーカーで聞いてもショパンは充分楽しめるという人は多いし、そういうネットのメディアが高音質化するとともにその人口は増えていくでしょう。

となると、缶詰とはいえホロヴィッツやミケランジェリという名コックの料理がタダで家で好きな時間に食べられるのです。知らないコックの料理を、決められた時間に間に合うように電車に乗ってレストランまで行って5000円払って食べたい人が永遠にいるのでしょうか。

 

(5)料理と音楽

ちょっと視点を変えてみましょう。料理というものも、地球上にある食材のバライエティは有限ですからその組み合わせであるレシピも限度があります。12個の音という限られた素材の組み合わせである音楽と似た事情があります。

現代の料理の原型はほぼ19世紀までにでき、20世紀に完成されたそうです。この100年はメニューがあまり増えてないのです。未知のおいしい魚や野菜が発見されたり、刺身にソースをかけておいしいと感じる新人類でも出ない限り、それは未来も変わりそうにありません。

音楽だって、いままでにない特定の12音の組み合わせ(メロディー、ふし)を好む民族が増えて、それを含む音楽を永遠に必要としてくれるということはあまり期待できないでしょう。シェーンベルグの12音音楽のメロディーをお母さんが子守唄に歌う時代は、一万年後は知りませんが僕らが生きてるうちはまず来ないでしょう。だから音楽のメニューも増えないのです。

 

(6)マーラー、ブルックナー人気

1970年代は音楽のメニューがLPレコードというメディアの普及によって増えた特別な時代でした。SPがモノラルになった時にも起きた変化が、LPによる収録時間、立体的な音のライブ感と細部のクラリティというメリットによってもっと劇的に拡大されたのです。それまでのメディアでは充分に理解されていなかった音楽が、LPという新しいパレットに描く画材として好まれるようになった。それが長大なマーラー、ブルックナーだったと言えるでしょう。

それまでも演奏され、知られてはいましたが、レコードというメディアが今のネットのごとくそれらの魅力を世界の聴衆に認知させた。それにより演奏会のメニューにのる回数がうなぎ登りに増えたというのは事件でした。食べ物でいえばカップめんにした創作ラーメンがコンビニで人気となったことでそのラーメン屋に行列ができたようなものです。

ストラヴィンスキーなど近代音楽でも、モノラルでは聞こえなかった細部の面白さが浮き彫りになって似た現象が起きました。僕はそれを聞いてクラシックにのめり込んだ人間です。それまで夢中だったビートルズがスタジオにこもってアビイ・ロードのようなライブでできない音作りに移行したのもLPレコード現象とするなら、僕のような嗜好の人間がクラシックに入るブリッジができた時代だったんでしょう。

しかし、CDという新メディアがLPを引き継ぐ形でそれをさらに拡大したにもかかわらず、そのメリット自体も飽和感が出ています。70年代に劇的に増えた新メニューもそれ以上は増えないところに来たのです。SP時代に霞のかなたで聞こえていた音楽がライブに近い質で家で楽しめる。もはや「メディアが作用してメニューを増やす」という現象はネットに道を譲り、そのこと自体がコンサートゴーアーの数を減らすかもしれないというジレンマに陥っているのが現状です。

 

(7)歴史のトラップ

それは、料理も音楽もどちらも素材の数が限られているわけですから、どう組合わせようとその数は「順列組合せの数」という数学的な上限に行き当たるわけです。だから新しい組合せ、すなわち「新製品」の投入がもはや望めないというところに来ている。1970年代の現象はミクロ的なものであって、マクロでみるなら20世紀とはそういう時代であったのではないかということです。

それは創造の天才が出現しなくなったのではなく、人類が食べたいと感じる素材の数、聴いて調和を感じる音階を構成する音の数から導き出せる「バラエティ」がいよいよ最終飽和点に近づいた。歴史が料理や芸術を囲って閉じ込めてしまうわな、「歴史のトラップ」があるということなのです。

同じことは工業製品にも見られます。例えば眼鏡(めがね)は1280年から1300年の間にイタリアで発明され、つるを耳にかける形になったのは18世紀から19世紀初期、球面レンズの採用が20世紀初頭です。100年大きな変化はありません。4輪の自動車や4翼の飛行機のかたちというのもおそらくそうでしょう。

 

(8)歴史がトラップできないもの

僕がベートーベンのエロイカをききたいとき、60枚ほどもっているCDの中から取りだすのは5枚ぐらいでしょう。その5枚だけで実は足りるのです。それにめぐり会うために60枚も買って、55枚は失敗だったわけです。演奏会でその5枚以上の名演が聴ける確率は非常に低く、そのために入場券に1万円を賭けるリスクをそう何回も取ろうとは思いません。

では僕はエロイカの演奏会に行かないか。矛盾のようですが行くのです。それは、5枚のCDより感動した演奏会をこれまで3回も経験したからです。そのひとつ、チューリッヒ・トーンハレで聴いたゲオルグ・ショルティの演奏。同じ楽譜、同じオーケストラから出てきたとは信じ難い光彩と生気と威厳に満ちあふれた音楽でした。

ああいうものは音楽に限らず、人生で何度も経験できないなにか特別なもので、舞台上の100人の人間が発する「気」が生んだ強烈な磁場のようなものです。それは、そこにいて時間を共有しないと体験できないもので、20世紀だろうと21世紀だろうと人間というものが変化しない限り変わらない、つまり、歴史がトラップできないものです。

そうなると音はその媒体にすぎなくなってしまいます。それを録音してもレコードには音しか入りません。それを再生しても、そこにいた人が何を感じたかはほとんどわからないでしょう。それはその場で演奏者と「気」を共有し、それに全聴衆ごと同期化し、音楽のうねりと一緒に会場ごと一体に動く精神の抑揚を感じないとわかりません。良い演奏会というのは音を聞く場ではなく、共体験の場なのです。

 

(9)空気とアトモスフィア

僕は英国時代にお客様といっしょにクリスマスの教会へ行きました。周囲でみなが賛美歌を歌い、祈り、牧師の言葉に耳を傾け、オルガンが演奏される。あの一連の音だけをあとで録音で聴いてみても、恐らく、そこにいた者でさえ何の感興も得られないでしょう。聖書も読んだことのない僕でさえ、しかし教会の広大な空間に満ちた雰囲気にどこか心洗われ、厳粛な気分に浸ってドームを出たことを覚えています。

atmosphere(アトモスフィア)は日本語で雰囲気と訳されます。この単語はギリシャ語源のatomos(蒸気)+sphere(球)の合成語、つまり地球の大気であり、気圧の英語はatmospheric pressure です。気圧の「気」がatmospheric という対応ですね。この「大気」が「気」であり「雰囲気」である、これは大気の振動が音楽であるというという対応を生んで、実にぴったりです。僕の教会体験はそれそのものです。

演奏会とはそれに似たものと思います。ホールの空間も聴衆も大事な要素であり、音楽の一部なのです。リサイタルで、ピーンと張りつめた空気を破るようにピアニストが登場します。一度座ってみて、椅子をちょっと動かす。カタッという微かな音がする。それがホールの空間にスーッと拡散する。最後の咳払いをコホンとする聴衆。集中の一瞬。そして、音が鳴る。

こういうものだって、音楽の要素なのです。ベートーベンの運命の、「音の鳴る前の休符」のことを以前に書きました。それは交響曲が鳴りだす前から音楽が始めっていることをベートーベンは認識していたということでしょう。オケのチューニング(調弦)がはじまり、会場がシーンと静まり、指揮者が登場して拍手が鳴り、また静寂が支配する。そこに音楽はもう聞こえているということです。

 

(10)ユーミンのしなやかな感性

オーボエの長いa音に始まるチューニングの音が僕は大好きです。あれがきこえると、いよいよ音楽が始まるぞというときめきを感じ、じっと耳を澄ますようになります。

前に書きましたが、大学時代によくきいていた荒井由美の「さざ波」という曲の歌詞に、こういうのが出てきます。

秋の光にきらめきながら                                        指のすきまを 逃げてくさざ波                                    二人で行った演奏会が                                        始まる前の弦の響きのよう

これを聴いて、彼女の鋭い感性に舌を巻いたのを覚えています。

演奏会が始まる前の弦の響き!

彼女がチューニングの音に感じたポエジー、それも音楽なんです。

 

(11)音のしない音楽

ジョン・ケージという作曲家をご存じでしょうか。彼の作品に「4分33秒」があります。ピアニストが舞台に出てきて、ピアノの前でなにも弾かずに4分33秒座っているという「音楽」です。その空白の時間に去来するすべての会場の雑音、その空間への拡散、空想の音響、ピアニストの姿や所作、いらだち、不安まで・・・そうしたすべてが聴衆の心に形成するものが音楽だということです。運命の休符の拡大版ともいえましょうか。

「4分33秒」のレコードがあったという話はほんとうでしょうか。ジョークかもしれません。ともあれ作曲家は4分33秒だけ切り取ったカンヴァスに白地の絵を描き、そこに何を見るかは居る者の感性にゆだねた。哲学的かもしれないが僕はそれは芸術家の強いメッセージだと受け取ります。ユーミンがチューニングに聴いた音楽というものに、それはとても近いものだと感じるのです。

 

(12)演奏家の磁力

演奏会場で、今日だけしか聴けない一期一会のものにめぐり会えるかもしれない。いつもそう思って足を運んでいます。行った回数に比べればずいぶん少ないですが、とにかく一生忘れることのない体験を味わえたからです。それは周囲の聴衆と一つの状態になってしか味わえないし、全部の聴衆を引きずり込んで「同期化」してしまう、強力な磁場をもった演奏家なくしてなりたたないものでしょう。

演奏家の力は絶対に必要なのです。すぐれた演奏家とはテクニックばかりの人のことではなく、聴衆をだまらせ、集中させ、引きずり込み、引きずり回し、うーんこれは凄いと我を忘れさせ、作曲家がランプにに封じ込めた魔人を解き放ち、その魔力と一体になって、参りましたという大拍手を送るしか感情のやり場のない状態に聴衆を追い込むことのできる人のことです。

実演の場で僕は何人かこういう人たちに接してきました。

セルジュ・チェリビダッケ、ゲオルグ・ショルティ、ダニエル・バレンボイム、アイザック・スターン、ヴラド・ペルルミュテール、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、カルロ・マリア・ジュリーニ、カルロス・クライバー・・・・

定期演奏会の会場が、おそらく、クラシック音楽を「教養」として知り、覚え、楽しんでこられた世代ばかりという状況は、これから活躍の旬を迎える若い演奏家が変えてくれるものだと信じます。老人はそう遠くない将来に死んでいきますから、それとともに演奏会も死んでいくかもしれない。ネット社会がそれを急速に後押しするかもしれない。それを救うのが、演奏家の磁力とでも呼ぶべきものです。

 

(13)未来

若い方々が僕のショルティ体験のような味を覚え、もっと体験したくなり、もっと会場へ足を運ぶ。解決法はそれしかないと思うのです。それはネット社会が、ネットビジネスが、どう頑張ったところで浸食も淘汰も出来ない、人間の精神活動の最も高貴で深い部分だからです。今の若い方々は、むしろそういう体験を我々の世代よりも必要とし、強く求めておられるのではないかと思います。

拙文、愚考が50万も読まれたならそれもネット社会の変容の結果です。浸食されるばかりでなく逆にそれを使ってクラシック音楽体験の素晴らしさを少しでも伝えること、これは誰かがやるべきですし、僕は大作曲家への「決して支払えない印税」のつもりでそれをやっていこうと決心しております。

 

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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二期会のドン・ジョバンニを聴く

2016 JUL 5 1:01:05 am by 東 賢太郎

昨日はサントリーホールにて、ドンジョバンニを。小ホールで聞くのもピアノ伴奏というのも(そこまでオペラに通じているわけではないので)初めてでした。

たまたまご縁あっての鑑賞でしたが、ホールの声の通りがよくオケの音量に消されることもなく、とてもよかったです。唯一、地獄落ちの場面だけはオケがほしいなと感じましたが。

歌手の皆さん、意気込みが感じられて楽しみました。個人的なモーツァルトの歌劇ランキングでは①魔笛②ドン・ジョバンニ③フィガロ④コシ・・・という具合。②は思い入れがありますが指揮と歌手のマッチングが難しいオペラで演奏にもより、②③④は僅差です。

ドン・ジョバンニは2065人の女性を手にかけた放蕩者ですが下衆のスケベ野郎ではない。貴族です。このオペラが発表されたのは1787年、まさしくフランス革命前夜なのです。つまり②も③と同じく貴族糾弾・反体制オペラというのが私見です。

お上の悪事を暴く。それも効果的に嫉妬をあおれるセックススキャンダルです。しかも「悪代官が村娘に手を出す」、これはわが時代劇でも定番なほど万国共通、実にわかりやすい勧善懲悪の構図じゃないですか。週刊文春にはなれないのでダ・ポンテとつるんで「ほのめかし」作戦で行ったものと解釈しております。

一発目の③はウィーンでは貴族に警戒されたが辺境都市のプラハでは大喝采となりました。二発目の②はその2匹目のドジョウとしてプラハの劇場に依頼された作品なのだから同じ路線と解釈するのは自然でしょう。③で懲悪するのは奥方でしたが、それでも危なかった。そこで②では石像です。神仏だから仕方ないでしょ?天罰ですよとほのめかして逃げたのでは。

モーツァルトは同作をドラマ・ジョコーソと呼んでおります。まじめなドラマ(悲劇)+喜劇(ジョコーソ)です。復讐に燃えるドンナ・アンナ、騎士長がメインラインで悲劇を構成するわけですが、まじめ一点張りでは「ほのめかし」作戦にはなりません。

だからこの曲のキャスティングは喜劇、遊びの側面、つまり人間くささという面で「思いっきりワルっぽい」が「女が靡くのは仕方ない納得の男ぶり」のジョバンニ、捨てられたのに一途に純真で改悛までせまるドンナ・エルヴィーラ、自分の結婚式の最中にドン・ジョヴァンニに口説かれてその気になるお色気村娘ツェルリーナが緩衝材となっていなす。ここははずせないと考えてます。

そのなかでも難しいのはジョヴァンニの従者レポレッロで、親方の放蕩に愛想がつきているのにカネと女のおこぼれをエサにずるずる使われてしまい、狂言回しかと思えば身代わり役にもなってはらはらさせて笑わせる。すごく人間くさいのです。だから性格俳優的な役かというと、大事なアリアが3つもあります。

まずジョバンニの宮本益光さん、お見事、良かったです。そしてレポレッロの池田直樹さん、声も演技も存在感抜群。要の役を堪能させていただきました。それからモーツァルトのオペラというのはアンサンブルが命で皆さん良かったです(ドンナ・アンナの針生美智子さんの高音は声質、ピッチが記憶に残りました)。

とくに第一幕の終結のアンサンブルは感動!完全にモーツァルト界に引きこまれ打ちのめされました。ピアノもよろしかったです(お疲れさま)。皆さん、ありがとうございました。

 
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アシュケナージ/N響のエルガーを聴く

2016 JUN 24 0:00:29 am by 東 賢太郎

 

指揮:ウラディーミル・アシュケナージ

シューマン/交響曲 第2番 ハ長調 作品61

エルガー/交響曲 第2番 変ホ長調 作品63

(サントリーホール)

このドイツで始まりイギリスが締めるプログラムは英国のEU離脱派にエールでも送るつもりかと思わせる。ジョークならタイムリーだ。

シューマンの曲には精神病の跡を感じるものがあって、2番はそのひとつ。第3楽章に多いが第1楽章にもある。バーンスタインやシノーポリがその軋みをえぐってつらい音をオケから引き出したが、アシュケナージにそれはない。平穏に通り過ぎて、音楽に語ってくれだ。といってドイツ的な堅牢さを追求するわけでもない。アレグロのテンポは中庸で沸き立つアンサンブルを聴かせるでもない。何がしたかったかよくわからないまま終わった。

これは前座なのさということか。

ドイツ語圏で生まれ育った「交響曲」なるフォーマット。フランス人、ベルギー人、チェコ人、ポーランド人、フィンランド人、エストニア人、スエーデン人、デンマーク人、イタリア人、ハンガリー人、英国人などが参加して作ったが、どれもマイナーでドイツ人のひとり天下。交響曲ワールドはまるでEUそのものである。

エルガーはそのワールドでの英国代表選手だろう。ヴォーン・ウイリアムズ、ウォルトンという好敵手もいるが、たった2曲だけで存在感を出している。その2番をN響はうまく演じたと思う。なんでも弾ける優秀な放送オケだ。

英国に6年間居住した者としてエルガーの音楽は機微に触れるものを感じるが、しかしEUチームのレギュラーポジションを取れるかという微妙かなとも思う。僕はお世話になった英国が好きだが、遠い先祖までたどってもDNAは共有してないなという感じがする。風土も食事も酒も国民性も女性も、そして音楽もだ。

エルガーは調性を捨てなかったがとても非論理的、非機能和声的、非ドイツ音楽的方向に進んだ。しかし、にもかかわらず、捨てなかったわけだ。どうも煮え切らず、曖昧模糊、メッセージがドカンと出ない。ドグマティックでない、理屈っぽくない良さを愛でるのは日本人に好かれる要素だが、僕のような理屈っぽい人間はそれならソナタ形式で書く必要ないんじゃないのと思ってしまう。

ロシア人でありユダヤ人であるアシュケナージはすべての挙動が謙虚でいい人だ。ピアノだって、ものすごい腕の良さだがメカニックにならず、何を弾いてもおっとり人間的で温和な気遣いが根っこに感じられる。技の鋭利なキレ味や豪放な盛り上げや神経質なピリピリとは無縁だ。指揮なんだからもっと大家然としていいと思うがしない。いまの時代のリーダーには向いているのかもしれないが。

 
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ライブ・イマジンのドヴォルザークを聴く

2016 JUN 21 22:22:49 pm by 東 賢太郎

土曜日にライブ・イマジンさんの演奏会でドヴォルザークの室内楽をききながら、やっぱりドヴォルザークは旋律を発明する天才だなあと思いました。そういう人は音楽史上たくさんいそうに思いますが意外にそうはいません。オーケストラはもちろん室内楽でも第2ヴァイオリンやヴィオラに名旋律がでてきたり、それを思い出させてくれる演奏会だったと思います。

室内楽で彼の弦楽5重奏やピアノ5重奏をライブでまとめて聴く機会というのは意外に少なく、ひとりの作曲家でプログラムを揃えるのはだいたいはベートーベン、モーツァルト、シューベルト、ブラームス、バルトークというところでしょう。たまにハイドン、シューマン、ショスタコーヴィチなんてのがあると嬉しくなり行こうかなと思いますが、ドヴォルザークというのはそのひとつでしょう。

オーケストラも似たことが言えます。欧州の名門オケが来ると、多くはお国ものがメインですがチェコ・フィルがドヴォルザークの序曲と協奏曲と交響曲だけというのは意外にない。例えば僕の趣味としては新世界や8番にモーツァルトのピアノ協奏曲が前座でチャンポンなんかにするよりも

  • 劇的序曲「フス教徒」
  • 交響曲第5番ヘ長調
  • 交響曲第7番ニ短調

なんてプログラムを聴きたいわけです。ソリストを入れたいなら5番の代わりに協奏曲ですが、チェロだと7番が食われるのでヴァイオリンかピアノでどうでしょう。欧州ではこういうのがあったりまえ。お国もの路線で行くならどうして徹底しないのかといつも思います。

最近は「外タレ」の人気が昔ほどでもないかチケットが高いのか、ポリーニのリサイタルですら入りが悪かったそうで呼び屋さんもリスクが取れないのでしょうか。オペラならミーハー客が5万円も出しますがオケや室内楽は出し物をお子様ランチにしないと売れないというのでは僕のような者はますます高い金を払おうとは思わなくなるのです。

そういう中でライブ・イマジンの

  • 弦楽五重奏曲第3番変ホ長調Op.97
  • ヴァイオリンとピアノのためのロマンスヘ短調Op.11
  • ピアノ五重奏曲第2番イ長調Op.81

というラインアップは野心的とさえいえる。おそらくはこれらにそれほど馴染んでいない聴衆に曲の良さを伝える、アマチュアだからこそできるのかもしれませんがこれは大変に意義のあることです。

 

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ネーメ・ヤルヴィ指揮N響のプロコフィエフ6番を聴く

2016 MAY 27 1:01:56 am by 東 賢太郎

 

シューベルト/交響曲 第7番 ロ短調 D.759「未完成」

プロコフィエフ/交響曲 第6番 変ホ短調 作品111

指揮 : ネーメ・ヤルヴィ(サントリーホール)

 

ヤルヴィはシベリウス2番以来(   ネーメ・ヤルヴィのシベリウス2番を聴く)。そこに書いたことがほぼ当てはまる。息子が主席指揮者を務めるオーケストラに現れる親父の気持ちはどうなんだろうと余計なことを考える。

まったく甘さのないプログラム。甘味料抜きの演奏。この指揮者の譜読みは常にストレートで、造形とリズムが締まった、本質追求型のものである。

未完成のテンポは速めで交響曲のソナタ形式の第1楽章だというスタイル。第2主題のチェロの音量を抑えて緊張感を高めるのはユニークだ。第2楽章も緩徐楽章という風情で、この曲がトルソである印象を残す。現にトルソなんだからそれ以外になんの表現があろうかと思う。あたかもそうではない風に第2楽章を化粧してだらだらやるのはウソの演出である。

こういう未完成で前半を終え15分のインターミッションというのはなかなか良い。気分がぽっかりと未完成であって、後半に充足を求める。そこにプロコフィエフの6番ということだ。5番の初演が1945年1月だが6番はそれ以前から着想され、忌まわしい原爆投下のころ書かれていた音楽だ。

初演者ムラヴィンスキーの超名演があって、あれはものすごい演奏で何人もまず凌駕しがたかろう。どうしても比較になるが、ヤルヴィがスコットランド国立管を振ったCDも持っておりああなるほどそうだったなという音作りであった。彼はムラヴィンスキーの弟子だ。

そのCDは、もう30年も前の話になるが、僕がまだロンドンの時代にグラモフォン誌の大賞をとったので買った思い出の品だ。まさしく本質追求型で求心力が強い、辛口吟醸酒みたいにきりっとした筋肉質の名演。その音が今も少しも変わっていないのを確認し、指揮者の何たるかを知る。振るたびにテンポや表情が違うというのは、確かに面白いが、それは「芸」だ。芸で勝負している人は芸人であり、芸人は死ねば忘れられる。本質というものは永遠に不変である。いつどこでどのオーケストラを振っても同じことをさせることができたから、彼は450もの録音を残すことになったということだ。

彼はオーケストラをたたえ、聴衆に「拍手が少ないね」と耳を澄ますポーズをし、もらった花束は指揮台においてスコアのほうを大事そうにかかえて去っていった。むかし、日本で一緒にコンサートを聴いた英国人のお客さんが「花束は女性に渡すものだけどね」と言った。某指揮者はもらうやすぐにヴァイオリンの女性にあげてしまったこともある。お・も・て・な・しの精神なのか花屋の戦略なのかどうも違和感があって仕方ない、古い人間なのだろうが僕は英国で文化を教わったトラディショナリストだ。まあ男女はともかく、彼は花束を掲げに日本へ来たわけでない、ホンモノの音楽家ということだ。日本の聴衆にもN響にも、本質を教え、残しに来たんだろう。

 

プロコフィエフ 交響曲第2番ニ短調作品40

 

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読響定期 エマニュエル・パユとカラビッツを聴く

2016 MAY 25 1:01:22 am by 東 賢太郎

指揮=キリル・カラビッツ
フルート=エマニュエル・パユ

プロコフィエフ:交響的絵画「夢」作品6
ハチャトゥリアン:フルート協奏曲
プロコフィエフ:交響曲第5番 変ロ長調 作品100

(サントリーホール)

ウクライナの新鋭指揮者カラビッツは今年40才、ボーンマス響の首席である。父はイワン・カラビッツ(作曲家)。「ショスタコーヴィチの交響曲第11番のおかげで私はオーケストラを愛するようになりました」と述べ「この交響曲こそが私を指揮者にしてくれた」とも言っている。「11,2才のころ第2楽章のフガートの部分を何千回も聴いていた」(しかも僕がイチオシのコンドラシンのLPで)とも。

そういう人がいたのか!とてもうれしい。11番が好きなことでは人後に落ちない僕として非常に興味ある人だ。   ショスタコーヴィチ 交響曲第11番ト短調「1905年」作品103

プロコフィエフを得意としているらしく、作品6は初めて聴いたが面白い。ハチャトゥリアン、これはヴァイオリンとは別な曲だ(オケパートは一緒だが)。パユの技量には圧倒された。音の大きさ、中音の滑らかさ、高音の空気を切り裂く鋭さ、リズム感、キレ、どれをとっても。しかし彼はフルーティストである前に音楽家だ。楽器がそれというだけ。アンコールの武満もよかった。

5番。文句なし。すばらしい。ソヒエフ(N響)もほめたが、あれはバランス型、類まれな運動神経型の好演だった。今日は音楽に奔流のうねりが見え、オケのドライブが見事。プロコフィエフの音楽は重い部分でも「湿度」が上がらずあっさり流れてしまう演奏が多いが、カラビッツのffは起伏があって重量感があり、速い部分は軽くなる。湿度がある。これはできそうでできない、才能だ。ショスタコ11番とCDのプロコフィエフ交響曲全集はぜひ聴きたい。

 

N響 トゥガン・ソヒエフを聴く(1月21日追記あり)

 

 

 

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加藤旭くんの演奏会

2016 MAY 6 2:02:31 am by 東 賢太郎

今日は銀座ヤマハ・ホールにてメイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン主催のチャリティーコンサートを聴きました。ご存知の方もおられると思いますがMake-A-Wishは米国で立ちあがったこのような団体です。

「メイク・ア・ウィッシュ」とは英語で「ねがいごとをする」と言う意味のボランティア団体です。3歳から18歳未満の難病とたたかっている子どもたちの夢をかなえ、生きる力や病気と闘う勇気を持ってもらいたいと願って設立されました(HPより)。

この日のコンサートは加藤旭くん(16才)の作品をプロの演奏家の方々がきかせるものです。旭くん、きっと楽しみにしていたでしょうが会場には来ることはかないませんでした。ご本人の言葉があったのでそのままお借りします。ぜひお読みください。

~作曲者メッセージ~

 僕が小さい頃に作った曲を、「CDにしたら」と計画してくれたのは妹の息吹です。中学3年冬から高校1年春にかけての、脳腫瘍放射線治療入院時でした。
 頭痛やだるさを抱えながら病院で一人過ごす時間はとにかくきつく、ドアが開いて誰かが入って来てくれるのを「今か、今か」と待っていました。家族や友達、先生が会いにきてくれた時の嬉しさは格別で、「自分も人を喜ばせたい、何かの役に立ちたい」と思いました。そこで妹が「お兄ちゃんは小さい頃作曲していたから、それを生かせばいい」と考えてくれました。
 僕はピアノを習い始めた3歳から、画用紙があると5本線を引き、音符をお絵描きしていたそうです。4歳になると音符を曲として書き始めます。どこかへ出かけたり、いい音を聴いたりすると自然に音楽が湧いてきて、そのメロディーを五線譜に書いていくことが楽しくてたまらなくなりました。
 今は手術の後遺症で足が思うようには動かず、目がよく見えなくなっていますが、これまでの作曲作品(約480曲)と脳腫瘍の治療や入院の経験を生かしていきたいと思います。今回のCDは、ピアノの三谷温先生が僕の考えを応援してくださり、メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン他多くの方々のご協力を得て作ることができました。5歳から10歳までに書いた曲です。このCDがより多くの人の励ましとなること、また、今闘病中の方々の命が助かることを祈っています。

加藤 旭

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感動しました。旭くん、会場のあんなにおおぜいの人が喜びをいただいたのです、すごいことです。ふしぎと心がやすらぐあなたの5才の曲ときたら・・・。

演奏家の方々の想いも伝わりました。会場の全員がひとつになってそれを受け取るというのはなんと幸福な演奏会だろう。旭くんに音楽のちからを教わりました。

最後の曲、合唱曲「くじらぐも」につづいて弾かれたバッハの平均律のプレリュードハ長調がすっとはいってくるのにはほんとうにびっくりしました。

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読響定期(サントリーホール)をきく

2016 APR 14 23:23:30 pm by 東 賢太郎

これをききました。

2016年4月14日(木) 19:00 サントリーホール

指揮=下野 竜也
テノール=ロビン・トリッチュラー
合唱=二期会合唱団
(合唱指揮=冨平 恭平)

池辺晋一郎:多年生のプレリュード
ベートーヴェン:交響曲第2番 ニ長調 作品36
フィンジ:霊魂不滅の啓示 作品29

どっと疲れていて集中せず、内容については特にありません。池辺さんの曲はインパクトがある面白いものでオケも気合が入ってました。ベートーベン2番はいいですね、なんどきいてもいい。第1楽章コーダのあそこ、バスがdからきっちり半音ずつ13個あがっていって(!)上声に短2度(f#とg)がフォルティッシモでぶつかる、エロイカより前にこんな前衛的な音を書いていたなんて!!聴覚のストレスを克服した勝利宣言に聞こえます。その不幸があったから彼は強くなり、歴史に名を残したんですね。

フィンジは初めて聴く曲でしたが人生のたそがれです。この年になるとジーンとくる音楽でしょうか。心があったまりました。この曲、こうでもなければ一生聞かなかったかもしてません、ありがたいことで、ソリスト、オケのみなさんの好演にも感謝です。

下野さんは首席客演指揮者としての定期はこれが最後だったようですが一言。ソリスト、楽員をたて、ひとり指揮台で受けることはなし。喝采は楽譜を指さして受けてました。謙虚な方です。作品への敬意がいつも感じられ僕はとても共感いたします。今まで何度かききましたがはずれがない印象で今日も全部が良かった。広島でのご活躍を祈ります。

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今年の演奏会ベスト3(今月のテーマ・振返り)

2015 DEC 30 18:18:25 pm by 東 賢太郎

今年のコンサートベスト3です。

1位 オッコ・カム / フィンランド・ラハティ交響楽団のシベリウス交響曲全曲

2位 カンブルラン / 読響のワーグナー「トリスタンとイゾルデ」全曲

3位 ラザレフ / 日フィルのショスタコーヴィチ交響曲第11番

番外がポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場の「魔笛」、ハンヌ・リントゥ / フィンランド放送交響楽団のシベリウス5番、ネヴィル・マリナー / N響のブラームス4番、シャルル・デュトワ / N響のバルトーク「中国の不思議な役人」、下野 竜也 / 読響のアダムズ「ハルモニーレーレ」です。去年はデュトワ / N響のドビッシー「ペレアスとメリザンド」という傑作がありましたが、トータルには今年は豊作でした。

それにしてもハンヌ・リントゥ(1,5,6,7番)、オッコ・カム(1-7番、Vn協)、オスモ・ヴァンスカ(2,5,6,7番)、尾高忠明(5,6,7番)、パーヴォ・ヤルヴィ(Vn協)という名匠たちでシベリウスを聴きまくれたのは有難かった。これだけ短期間にまとめて聴くのは稀有のことです。

このシベリウス体験には屋久島の千年杉を見たあのずっしりした充実感と似たものを感じています。去年の真冬でしたから、タピオラやテンペストや4番などイメージが違和感なく重なります。5時間も死ぬ思いをして登って、とうとう霧のかなたに千年杉が荘厳な姿を見せた感動の瞬間、あれは7番のトロンボーンがぴったりです。今年は行けませんでしたが、その気分になれました。

ショスタコーヴィチ交響曲第11番、殺伐とした銃撃シーンが出てきますが、ビジネスで駆け回っている心象風景はあんなものです。シベリウスの自然に根ざした音楽と対極ですね。僕を戦闘モードにしてくれる最右翼はベートーベンなのですが、ショスタコーヴィチもいい。マーラーの盲目的自己愛は苦手ですが、彼はその影響を受けながらも知的でシニカル。政権への強烈な皮肉と反抗心が僕には推進力を与えてくれます。

ワーグナーの楽劇はとにかく5時間も食うんで僕のような職業の者には向いてません。ドイツにいた2年半は地の利を生かしてどっぷりつかってましたからもういいやという飽食感すらございます。でもこうして一流の演奏に出会うと、やっぱり聞き惚れてしまい、ちゃんとたたきのめされてしまう。困ったもんです。

願わくば今年のシベリウスのように一流の演奏を「まとめ聴き」できる機会が毎年あると嬉しいですが、ではそうして聴きたい作曲家がそんなにいるかと問われるとハタと考えます。誰が好きかを客観的に見るなら、「カテゴリー」にある作曲家別のブログタイトル数をご覧いただけばモーツァルト(65)、ブラームス(54)、ベートーベン(49)に次いでシベリウス(30)となってます。4番目に好きな作曲家のようです。

そして最後に、今年の締め括りとなったチョン・ミュンフン指揮の日韓合同オーケストラによる感動的なベートーベン第9を、演奏の是非とは異なる視点から加えたいと思います。岸田大臣の訪韓直前に行われ多くの政財官関係者が参加したこのイベントが、未来に開けた隣国関係への序曲として開催されたことはご招待いただいた際に感じておりました。子や孫の世代にはどんな展開になるのか予断は許しませんが、僕は良い関係構築に賛成票を投じる者のひとりです。

 

 

 

 

 
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チョン・ミュンフンの第九と濃かった師走の一日

2015 DEC 26 23:23:34 pm by 東 賢太郎

長女と一緒に外苑前駅から午前10時前に神宮球場へ向かうとかつて見たことのない延々長蛇の行列でびっくりしました。秩父宮ラグビー場でジャパンラグビー トップリーグ 2015-2016 が11:40からあったのです。五郎丸選手のヤマハ発動機がキヤノン とやるのがお目当てなんでしょう、彼はラグビー人気に火をつけましたね。南アフリカ戦の歴史的金星は今年日本人を最も勇気づけた大事件でした。

その五郎丸さんに関係するお話を頂き、某会社さんと10時半からお会いしました。ラグビーは素人どころかルールも知らず、いろいろ教えていただきました。五郎丸はカレンダーはもちろん切手まで出てしまうのだからもはや国民的英雄です。その両方の写真を撮ったCさんが間に入ってこの出会いがあったのです。彼女は日ハムの大谷投手の写真集も撮っており、今年最も熱い二人の男を独占。いいですねえ、持ってますねえ。

終了後青山3丁目サバティーニでランチして今度は渋谷のオーチャードホールへ。チョン・ミュンフン指揮の第九をききました。オケは日韓国交正常化50周年記念でソウル・フィルハーモニー管弦楽団と東京フィルハーモニー交響楽団の合同オーケストラ。福田元首相、駐日全権大使はじめ日韓財界トップご臨席の華やかな演奏会でした。

終演後のレセプションでは東フィルの副理事長である黒柳徹子さんがスピーチされましたが、N響のコンマスだったお父上は第九の公演で合唱団にいた母上を見初めて結婚したので自分がいるのは第九のご縁で、お母さんの子守唄も第九でしたという話を披露されました。チョン・ミュンフンの指揮は熱が入り、両オーケストラの息もあった素晴らしいベートーベンとなりました。

そこからKさんと某航空関連会社社長Hさんと銀座「田舎屋」さんへ。お店は5時前で準備中だったがオーナーが一緒ということで開けてくれました。炉端焼きとはいえ外国著名人が訪れる名店でキンキなどお味は最高。おすすめです。今日は娘にはいい勉強になりました。

 
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