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音楽と量子力学

2023 MAR 3 23:23:56 pm by 東 賢太郎

ホーキング博士は宇宙が仮想現実である可能性は50%あると言い、イーロン・マスクは我々の見ている現実がリアル世界で生み出されたとするとその確率は10億分の1と言っている。

父親のSPレコードを針が擦ると音楽が鳴るのは「溝に小さな人が入っていて演奏しているにちがいない」と思っていた。あながち赤子の思いこみと笑えないのは、量子力学の「ゼロポイントフィールド仮説」は全宇宙の生成から終末までのすべての情報がcodeで書かれているとするからだ。レコードには音楽が入っている(封じ込められている)が、そうと知らない人が音溝を目で見ても、顕微鏡で覗いても、それは俄かにはわからないだろう。針がひっかいている部分が「現在」である。SPは裏表で30分ぐらいの音楽が鳴るが、これが我々の見ている宇宙であり、ここまでの演奏時間は137億年だ。情報はゼロポイントフィールドにホログラムで書きこまれ立体画像(三次元)で現れる。全宇宙だからこれを読むあなたの全情報、つまり姓名からどんな一生を送るかもいつ死ぬかまで全部書いてある。

古代インドの超人がこれを「アガスティアの葉」に喩えたと考えてそう不穏当でないかもしれない。あらゆる宗教は超人が見たものを凡人にわかる言語と喩え話で書いていると僕は思うからだ。アガスティア・・は大きな葉っぱに宇宙のすべての過去、未来がコードで書かれていると説いており、それをアカシックレコードともいう。先日、ある方からそれを実際に試した話を聞いた。ネットでインドのサイトにアクセスして被験者になったのだ。半日かけてYes/Noの英語の質問に答えるがそこに彼の個人情報を特定できるものはないという。数日待って回答を得た。度肝を抜かれたのは、彼のデータが正しいばかりか両親の名前まで(日本語話者でないので似た発音で)明かされていたことだったそうだ。

厖大なデータがcodeに凝縮されてどこかにあり、時々刻々と針がひっかいてその三次元画像が全宇宙に投影され、それを我々は観測している。レコード盤に演奏者が入ってないように、宇宙も虚像なのかもしれない。これを超人であるプラトンは「洞窟の影」といったのではないか。そういえば、僕は幼児のころから「星は本当にあるのか」と真面目に疑っていて、現在でもないかもしれないと思っている。「オリオン座のベテルギウスは550光年離れているから今はもう消えてなくなっているかもしれない」なんてのがどうも嘘くさい。量子力学では分子も電子も波+粒の性質をもち、観測された瞬間に粒になる。「観測」とは人間が知覚することだが、「僕が見た」という情報があっちに届くのは550年さきではないか、なのになぜ今リアルタイムで見えてるんだ?

いやそうではない、「量子は複数の場所に同時に存在して何光年離れても同時にふるまう」とされている。よくわからない。

このことについては「二重スリット実験」に答えがあるように思う。https://www.yamanashibank.co.jp/fuji_note/culture/double_slit.html

量子は見た瞬間に粒に変わるので僕は観測できている。ベテルギウスが見えるということはこのことが550年×2=1100年かけずに起ていることを示すので「量子は複数の場所に同時に存在する」という結論が導き出されるのだろう。しかしそれは、そう見えているだけではないか。実はアガスティアの葉っぱに「僕がベテルギウスを何年何月何日何時何分何秒に見る」と書いてあり、あっちの量子が550光年の距離を勘案して “シンクロ” するようあらかじめ書いてあってもその現象は成り立つ。「宇宙のすべての過去、未来がコードで書かれている」とはそういうことを意味している。大学の研究室で二重スリット実験が行なわれ、観測と検証のいたちごっこが行われることも書いてある。そんな馬鹿げたことを誰がするんだと思うのだがゼロポイントフィールドのゼロ点エネルギー(zero point energy, ZPE)は人間が決めたものではない。人智で馬鹿げたと判断することが馬鹿げているのである。

観測されないと万物は波の性質があり、二重スリット実験はその状態を観測できないことを示している。ということは、見てない時は「ベテルギウスはない」ということだ。とすると太陽もない。「そんな馬鹿な、恒星は一番近いのでも光速で4.3年かかるが太陽ならスペースシャトルで200日で行けるから、なんだったら行って確かめることもできる」、「現に我々は地球から丸い太陽を目視しているではないか」と思われようが、それは見ている時だけで、見ていなくても6000度の熱を放つ光源であることは間違いなさそうだが、行っても触れるわけではなく、あるように見えているが存在の確かめようがない。太陽は我々が思っている球体の恒星ではなく、ディスプレイの画像かもしれない。

そう。「光速で行っても・・・」というのが常に我々の実感を麻痺させるのだ。光速移動は膨大な加速を生むエネルギーが必要で、それが発する熱に人間は耐えられない。つまりアインシュタインが光速を超える移動はできないと指摘する以前にそもそも不可能なのだ。月か火星なら低速でも行けるだろうが、ロケットに乗って「行った」と思っても、それは我々が「地球」と思ってる張りぼてとは別の張りぼてに立ったにすぎない。すなわち、我々は、人体が安全に移動できる低速で、寿命が尽きる以前に到達できる範囲内しか行けない。つまり、その範囲を示す目には見えない球体である「臨界面」に包囲されていることになる。これは水槽に入っている金魚とおんなじだ。金魚にはきっと水槽のガラスは見えてないだろう、なぜなら、まさか自分がそんな物の中で飼われているなどと考えてもいないからだ。

では臨界面を生んでいる光速(c)というのは何なんだろう?物理の授業で先生に質問してみたらいい。僕はその存在自体がとても変なものだと思っている。

E = mc²

は「エネルギーは質量に光速×光速をかけたものだ」と言ってる。質量がエネルギーに変わるのは核融合反応でイメージできるが、そこに「速度」が出てきて掛け算する理由がまったくわからない。この定数は何だろう?ゼロポイントフィールド仮説によると、1立方メートルの真空に地球の海ぜんぶを瞬間に沸騰させるエネルギーが詰まっている。ならばこう考えられる。金魚の飼い主が適当にぎゅっと詰め込んでみて、計算して出てきた定数項の平方根を開いてみた。その数値を宇宙を作動させるOS(基本ソフトウェア)の作動限界値に設定して組立てたパソコンが我々に見える虚像を映し出している。このことをあばき出したのがこの式ではないかと思うのだ。「宇宙投影パソコンの処理速度に限界がある」ことを、金魚鉢の中では「光速を超えて移動できない」と言ってるのだ。

では金魚を飼っているのは誰だろう?そこで、「宇宙人に違いない。人類はまだ遭遇はしてないが、彼らは太古の昔から地球に来ている。現在だってUFOに乗って来ているしNASAはその死体を隠しているのではないか」という話になる。たしかに米国政府はUFO研究をしているようだし、映画「コンタクト」に描かれた電波発信によるSETI(地球外知的生命体の探索)を行っていることは事実だ。僕は地球外知的生命体(宇宙人)肯定派だ。肯定する確率的根拠として著名なのがドレイクの方程式だが、しかし、これを導いた根拠は間違っている。なぜか。彼は同じ金魚鉢の中に別の魚がいる確率を計算している。それはそれで正しいとするなら部分的正解にすぎない。別の鉢は想定しておらず、金魚を飼っている熱帯魚ショップの店主は計算に入ってないからである。

僕が「肯定派だ」と書いたのはこの “店主” の存在についてであり、このことを宗教と分離するのは困難だ。アインシュタイン、ボーア、湯川秀樹ら科学者が物理学と仏教の親和性、補完性を説いたとされるが、自分がここでそれと同質のことを言っているとは思わない。「超人としての宗教家たち」がどこかで見てしまったもの、それが『造物主』(the Creator)の存在であり、その超人(人かどうかは置く)がモーゼに十戒を授けたヤハウェであっても、預言者ムハンマドであっても、神の子イエスであっても、「目覚めた人」ブッダ(釈迦)であっても、何ら差異なく金魚の飼い主または熱帯魚ショップの店主(またはそれを見た者)という比喩で括ってしまう数学的置換を信仰心の希薄さという罪に問われないという範囲において、本稿に述べていることを「宗教と分離するのは困難」なのである。「お前は宗教的人間か」と問われれば、正月に初詣に行って新年の良きことを祈ってお神籤を引き、冠婚葬祭を仏式で執り行うほどにはそうであるが、『造物主』の存在を信じることにおいては、何の儀式も執り行わないものの「非常に宗教的である」という回答になるだろう。

イーロン・マスクの言うように我々の宇宙は10億回トライして1個しかできないぐらいレア物であるなら「そう綿密に設計されて1回のトライでできた」か「最大(10億-1)個の失敗作(似た宇宙)」があって、我々の宇宙は我々専用の金魚鉢で他の魚はいない意図で作られている可能性もある。水はあるわ酸素はあるはエサは出るは侵略者はいないわ、こんな良い世界がひとつ存在するというなら他にも一定の確率をもって存在するはずであり、そこには別種の魚がいるだろう。ドレイク博士はそう考えたが、これが熱帯魚店の片隅に置かれた一個の水槽にすぎないならば、その辺はショップの店主が決めることになる。2種を同じ水槽に入れるとどっちかが食われるなら商売にならないから鉢を分けるだろう。その場合、「我々の宇宙には宇宙人はいない」という、ドレイクの方程式からは出てこない結論が導かれるのである。

観測されないと万物は波の性質があり、二重スリット実験はその状態を観測できないことを示している。この事実は誠に含蓄が深い。我々は「色」と「音」という波を知覚しているからだ。ここでいう波は万物を組成する量子の振動としての波と同一ではないが一定の振幅をもって反復する光子、大気の分子の運動であって、電磁波、音波と表される。光子は光を粒子としてみたとき量子であるが、音波は原子や分子の動きによってエネルギーを伝達する波だ。分子は電子・中性子・陽子という量子より大きいから音波は別物と考える。

音波は音楽という芸術を構成する基本素材となる。伝達物質は大気だけではなく液体や固体もあり、耳の可聴域は20Hz~20kHzだが耳以外で域外も感知している。音楽は五感のうち視覚、触覚、味覚、嗅覚を使わず聴覚だけに訴える芸術だが、けっして聴覚のみではなく、いわば「振動覚」とでもいうべき反復運動(波)への感覚が色濃く関係している。ベートーベンの第7交響曲を聴いた多くの人は感動と共に興奮を覚えるのではなかろうか。この曲の持つ律動の特徴を捉えてワーグナーは “舞踏の聖化” と表現したが、その律動(反復運動)こそ波(振動)であり、それを感じ取る「振動覚」を通じて覚醒、興奮(多分に性的なもの)を呼び起こす。つまり、波である音楽という芸術は人間の生命の源と深く関わっている。

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ゾロ目の8888888(ブログをやめない理由)

2023 MAR 2 1:01:14 am by 東 賢太郎

2022年3月7日に「7,777,777」になった(寝過ごしたが)。

ゾロ目への愛着を哲学する

すると2023年2月28日午前9時40分、これがやってきて、もう二度とないぞと今度は逃さず撮影した。数字はすぐ変わってしまうので一瞬だったが。

359日で1,111,111増えたので一日の平均閲覧数は 3,095 だ。去年は5月に父が逝去して喪に服し、ブログ執筆本数は5月はゼロ、6月は1本だったからちょっとした意外感はある。

数字のことを書くのはゾロ目が好きという理由だけではない。小難しいことばかり並べたブログに何のデマンドがあるのだろうと不思議だからだ。その時々の自己都合だけの関心と思考の備忘録にすぎず、有益な情報もないし時流にも世論にも何の関係もないし、なにより僕自身は他人のそうしたものを一切読まない。なぜ東京文化会館大ホール+紀尾井ホールが毎日満員になる訪問数になるかという点は理解が及ばない。

こういうことを仕事をしながらするのは習性で、長らく勉強+野球・音楽という学生時代を送ってもきた。だからどれも一流にならないが、トータルな調和が心地良いのでそのどれもが僕なりのベストコンディションになる。つまり勉強だけしても僕は成績が上がらないし、ブログを書いていると仕事にも良い波長が出るし、仕事が良い時はブログもたくさん書ける。そうした複眼性がホメオスタシス(恒常性)になってるのでどれかを止めると他も劣化するかもしれず、なかなかやめられないのだ。つまり仕事円滑のためのサイドディッシュを皆様に読んでいただいていることになる。来年にPV1000万回にはなるだろうから個人ブログの数字的にはもう十分だがそういうものをめざす気はなく、仕事を辞めたらブログも書かなくなるだろう。

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同時に来た2つの新しい仕事

2023 FEB 28 18:18:14 pm by 東 賢太郎

ソナーの経営は探偵事務所みたいにやりたいとかねがね思ってきた。依頼人がやって来る。それを解決してさしあげる。子供のころカッコいいと思ったホームズやポアロがそれだ。これまで出歩いて仕事を探したことはなく、旧知の輪の中で話が出てきてやらせていただいて、結果的にそれに近いことにはなっている。

資産を保全しながらできれば増やしたいというニーズは多くの方にある。この仕事は世の中の環境がどうあろうと需要がある。チャットGPTにはできない。僕はまずは自分の資産運用をしていて、これは趣味である。それと同じことをお客様にお教えするだけなので、責任はあるが “お仕事感” はない。

そういう流れのなか、先週に、立て続けに新しい話が2つ舞い込んだ。ひとつはある会社の経営支援、もうひとつは上場企業の新規ビジネス支援だ。どちらも未体験ゾーンだが、僕は火星探査機を「キュリオシティ」(好奇心)と命名したNASAに共感する人間だ、むしろ知らない方がワクワクする。

これまたどちらも旧知の人からだ。お互いによ~く知っている。このよ~くというのがポイントで、友達とか先輩とかそんな軽いもんじゃない。僕が何者で得手不得手まで熟知していて、どうwin-winになるかわかってる人たちだ。思えばみずほに移籍したときのお誘いもそうだった。

これがオン・デマンド時代の生き方だ。僕は口だけの評論家ではない。こうして実践してる。デマンドは学歴や職歴や肩書なんかにはない。「今できること」にしかない。だったらそれを磨くしかないでしょう?こんなわかりやすいことをできないからネットもゴシップ屋だらけの一億総評論家状態になってるのだ。

もうお金儲けだけの仕事はいい。人様のためになれる仕事をしたいので両方とも真剣にやろうと思う。

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「陰謀論だ!」という陰謀論について

2023 FEB 26 22:22:35 pm by 東 賢太郎

陰謀論というのは陰謀のことではない。何らかの事件が発生し、「その裏には陰謀があったに違いない」と疑義を唱える企み、行為のことをいう。

そこで、陰謀を練った方を「陰謀側」、「陰謀があったに違いない」と疑義を唱える方を「懐疑側」、どちらでもない者を「中立者」と呼ぶことにする。

「陰謀側」は世論操作によって多数派を占め、少数派の「懐疑側」を貶め、侮蔑する含みを持って否定するのが一般的だ。

ところが、「懐疑側」が挙げる証拠に信憑性のある場合は、だんだん多数派の数が減っていき、やがて、「陰謀論だ」と批判する「陰謀側」の行為の方がむしろ陰謀論に見えてきてしまうという逆転現象がおこることがある。

特に、「懐疑側」の証拠の信憑性が科学的である場合、反論を試みれば試みるほど「中立者」に非科学的な印象を与えて不利である。よって「陰謀側」はあらゆる手段で懐疑を無視し、封じ込め、脅し、抹殺することに全力を傾注する。

ところが、それが全力であればあるほど陰謀の露呈を恐れていると「中立者」には見え、陰謀の存在がより強く推察されてしまう。このジレンマを避けるため「陰謀側」は行為後にすみやかに科学的証拠を隠滅することに全力を尽くす

万一、証拠が残ってしまった場合は、論争の途中で意表をついて、自らの陣営が「懐疑側」に組して見せることで、「中立者」の目に、あたかも別の「陰謀側」がいたかのようにふるまう “分身の術” を弄することがある

分身を演じる者がうまく立ち回って「中立者」の支持を得た場合、そちらに合一してしまうことで「フェイクの懐疑側」となり、「陰謀側」に疑義を呈して裁くふりをすることで虚偽の真犯人をでっちあげることができるからである。

分身を演じる者は必ず「陰謀側」の一味であるから陰謀の全貌を絶対に明かすことはない。単なる「おとり」であり、「中立者」をミスリードする「レッドへリング」にすぎない。従って、支持はせずに無視しておけばやがて自ら消える

分身の演技に疑義が持たれる危険性がある場合、「陰謀側」は「第三者委員会」という名称の分身を組成して演技を続行する。第三者性の不在証明は致命傷になるため徹底管理される。この場合は「中立者」の眼力が問われる。

科学に疎い「中立者」が大多数である場合、宗教、憎悪、憐憫など情緒的根拠を針小棒大に報道することで科学的論理性を糊塗する戦略は有効である。論理は経年劣化しないが情緒はするので、「なかったことに」で封印できるからだ。

 

自民党に漂う「オワコン感」の真因を解く

 

 

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東大の秘密(法文1号館爆破事件)

2023 FEB 24 7:07:02 am by 東 賢太郎

当時のことをなんとなく思い出していて、そういえば “それ” がいつだったか覚えてないことがもどかしくなった。授業中に教室の後方で強烈な爆発音が轟き、窓が割れて床が揺れ、ふりむくと白煙があがっていたことだけが脳裏にあるその事件のことだ。

これを見つけてやっとわかった。1977年5月2日午後2時10分頃のことだった。

東大法文1号館爆破事件 – Wikipedia

法文1号館25番教室での授業中の出来事だった。安田講堂の真ん前にあるのが法文1号館であり、その2階にザ・法学部である25番教室はある。学部生の630人と留年生(たくさんいる)を収容できる大教室で、入試の二次試験はここで受けており、3年次の授業はみなここだから忘れ得ぬ場所だ。ちなみに受験シーズンのテレビニュースで全国でおなじみの映像もここである。

あの日、僕は満員の教室の前から2,3列目に座っていたように思う。教授の声はかすれ気味で小さく、聞こえないイメージがあったからだ。ドーンときた刹那は何がおきたかわからず、とっさに、工事でもやっていて何かの事故かなと思った。教授はと見れば、爆発音のあった教室の後部に目を据えたまま卒然として教壇に立ちすくんでおられ、講義はもちろん中断。しばらくすると次第に事態がつかめてきてあれは爆弾じゃないかと周囲がやおらざわめきだした。そこから何がどうしたか記憶にないが、全員が動けず5分ぐらいたっただろうか。そのときだ。教授の「えー、煙もおさまったようなので授業をはじめます」の淡々とした鶴の一声が響き渡りみな仰天だ。教務課の人がすっ飛んできて「先生、中止してください!」とさけび、にわかに後方の出口から全員退避とあいなったのである。この時は動転していてわからなかったが、爆発は3階(26番教室前)だったらしく、この教室の怪我人はなかったように見受けた。大惨事もあり得て命拾いしたわけだが、そこからというもの、爆弾の恐怖よりも「さすがに東大法学部の教授はすごいね」の話題でもちきりだ。5月2日というと3年生になって駒場(教養学部)から本郷に来たばかりであり、何もかもが新鮮だったのだ。物まねの天才I君による鶴の一声の再現はしばし仲間うちの酒の肴にもなった。

だんだんわかってきたが、さように法学部というところは独特の空気に満ちた一個の小宇宙であった。東京大学には明治時代からの学部の並び順が存在する。「法医工文理農経養育薬」がそれで、根拠は寡聞にして知らなかったがここに書いてあるのをみつけ、長年の疑問が氷解した。

https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/booklet-gazette/bulletin/606/open/606-04-1.html

この表紙に東大の秘密がある

教授会の席順など公式行事はすべからくこの順番に準拠しており、東大生は、入学から卒業まで、とくに意識することもなく、「法医工文理…」に則っているのであるという「教養学部報」の記述はまったくその通りであり、当時からそうだったが今でもそうなんだと些かの感嘆すら禁じ得ない。「学部生であれば、実は要所要所で、すでにこの並び順を目の当たりにしている」(同報)からそうなのであり、この事実を学外で知る人はほとんどいないだろうから東大の秘密といって大袈裟でもなかろう。誤解していただきたくないが、これは単なる仕来りに過ぎずこの順番で偉いというカースト制が存在するわけではないし、僕らにとって看過できない入試の難易度というものにおいては理Ⅲ(医学部に行ける教養学部の類)に一目置いていたのも事実だ。ただ、他学部とは別の小宇宙の住人である我々法学部生は学内でも絶対普遍のプライドがあって、外部では十把一絡げに「東大生」などと呼ばれるが、そういうものは「だから何だ」という程度にしか思ってなかったことは認めざるを得ない。

今もそうだろうか、法文1号館の古色蒼然として、夏でもひんやりした石の階段と廊下にたちこめる空気は小宇宙の入り口だ。湿り気のあるちょっと辛気くさいあの匂いというものは、チャイコフスキーに自死を宣告したサンクトペテルブルク大学法科メンバーによる「名誉裁判所」があったというなら、確かに同じ法科にそういうものが存在しても何ら不思議でないと思わせる感じのものである。それが何かと聞かれても、そういう匂いを嗅いだことのある人しかわからない性質のものとしか表現のしようがない。徹底した個人主義で生きてきた僕ではあるが、それでも卒業生として絶対に汚してはならないものの存在は今でも背中で感じている。

犯人は反日思想の新左翼活動家でその見えない何ものかを爆破したかったのかもしれないが、日本国の歴史と共にあるものだ、そう簡単に崩せるものではない。

 

 

 

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東京芸大の練習室ピアノ撤去

2023 FEB 20 12:12:22 pm by 東 賢太郎

これを知ってどう反応するか。国の財政緊縮の一環と思うか、文科省の都合と思うか、保有台数に無駄があったと思うか、学生に同情するか、芸術の未来を心配するか。僕はどれでもない。報道によると芸大は「大学全体としての経費削減」「台数は十分確保されている」としている。2部屋のピアノを撤去して減る経費など微々たるもので、大学の予算削減策への抗議かもしれないと推察するが、それ自体は大した問題でもなかろう。問題はもっと大きなものだ、それを述べる。

国立大の授業料は年額53万5800円(標準額)だ。僕の代は3万6000円で、S51年入学者から9万6000円になり、10年後は7倍になり、いまは15倍だ。それでも私立よりは4割安い。学生には結構だが教職員は困る。東京芸大教授の最高年収(たぶん学長)はネットで見る限り1,359万円、東大総長は2,396万円だ。公務員とはいえ実業界なら課長、部長ぐらいの年収であり、役職の重さからしてこれはないだろう、名誉はあっても本当にそれで満足なのという気がどうしてもしてしまう。

ちなみに、大学院ではあるが、ペンシルベニア大学ウォートン・スクールの年間授業料は1,100万円ぐらいで日本の15~20倍だから教授も当然それなりの人がそれなりにもらっている。芸大や東大の先生も人間だ。カネだけではないというきれいごとで自分も世間も納得という時代は昭和でとっくに終わっている。高給も名誉も得られるそのポストを熾烈に争うウォートンの先生達の講義の質・量・熱は異次元の凄さであり、あれを体験してしまうと、年収20万ドルでやってくれといって応じる先生は世界にひとりもいないと確信できる。だから生徒も全米トップクラスが集まる。あまりにわかりやすい世界なのである。先生がそうなれば日本の大学にも優秀な留学生は集まるし、世界ランキングも勝手に上がるだろう。

国立大学法人も広義の独立行政法人だから自力で稼げ、運営費交付金は減らす。というなら芸大が国立であることはハンディである。なぜなら日本の公務員の給料で集まる先生しか雇えないし、当然優秀な方ばかりであるはずだがその限りのモチベーションでいいというカルチャーになってしまうだろう。その条件でウォートンと競うビジネススクールを日本に作るなどといえばジョークのネタだ。校名のブランドがあるだろうといって、芸大も東大も海外ではブランドでも何でもない。井の中の蛙である役人と大多数の国民がそう思っているだけであり、それが世界大学ランキングの順位なのだが、あれは英米だけの評価だと主張する人に評価されるなら無理難題だ。だから学長は経営者でなくまとめ役になり、とすれば1,359万円だろうという役所的な整合性が取れてくるという寸法なのである。

たとえば日本同様にクラシックの本場でないアメリカのカーチス音楽院はバーンスタイン、チェリビダッケがふらっと来て学生オケを指揮してくれる。そういう環境があるからユジャ・ワン、ランランみたいな留学生が来て世界で活躍し、母校のブランド価値を高めてくれる。アメリカができるのだからその環境が日本にあっても全く不思議でないが、給料安いけどゲーダイですよでは世界トップの人達は動かないし生徒も世につれてだんだんそうなる。現に先のショパンコンクールで2位、4位の歴史的快挙を成し遂げた反田恭平、小林愛実は二人とも桐朋出身だ。現実を直視せずにお役所仕事につじつまを合わせざるを得ないなら、授業料に上限がありファイナンス面の足かせもある芸大の経営は誰がやっても難しいだろう。

僕は昔に入りたいと思った芸大には思いがある。だから期待している。日本トップクラスの才能である学生たちに世界に雄飛して欲しいという気持も強く持っている。練習室のピアノ2、3台ぐらいは「ショパンコンクール優勝します」プロジェクトでも立ちあげてクラウドで投資してもらえばどうにでもなる話だ。そのぐらいのコミットメントとモチベーションをもってやれば、音楽に限らず何をやっても世の中は若者を応援してくれると信じている。

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無力で堕ちていくだけの日本は見たくない

2023 FEB 19 11:11:40 am by 東 賢太郎

地球の人口は80億に接近中だ。我々までの4世代で50億増えたが、過去5千年間に1万4500回の戦争で35億人が死んでいる。世界には核弾頭が19000個以上あり、核戦争をすれば人類が20回滅亡してまだ余る。確実なのは、9億年後に地球の温度は摂氏100度になり人口はゼロになることだ。そこで人類は消える。何もしなければだが。

火星表面(水の痕跡か)

何かできるのだろうか。オランダの会社が火星移住の希望者を募集した。火星から地球に戻ることは現在の技術および資金的に不可能だが20万人いた。NASAは火星に1トンある無人探査車を着陸させるプロジェクトに3000億円かけた。人類が消えないためだが、探査車の名称はいみじくも「キュリオシティ」(好奇心)だ。新大陸の次は火星かと思うと、西洋人の生きることへの執念を感じる。

1960年代は米ソの宇宙開発競争の時代だった。有人月面調査の「アポロ計画」は1961年から1972年にかけて実施され、1968年に『2001年宇宙の旅』を米国のスタンリー・キューブリック監督が、1972年には『惑星ソラリス』をソ連のアンドレイ・タルコフスキー監督が発表した。日本で流行っていたのは『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』である。リスクをかえりみず冒険する者が世界にはいる。9億年後はともかく冷戦の対立で核を撃ち込まれることだけは米ソともに恐れ、それが動機となった宇宙開発競争で科学技術は大きく進化した。ロケットに核弾頭を積めば敵を殲滅できるという示威活動であり、いまそれを北の国が盛んにやっている。気球も武器だ。18キロ上空になると沸点は36.5度と、撃ち落とすにもパイロットは命の危険にさらされる国防問題だ。

2月17日、JAXAのH3ロケットが上がらなかった。「失敗」かどうかで騒いでいるがそんなことはどうでもいい、これが知能が劣る日本のマスコミだ。翌日、ザマを見せつけるように北の国はICBM級のミサイル1発を日本の排他的経済水域(EEZ)内の日本海に撃ち込んだ。平壌国際空港から発射され最大高度5768・5キロまで上昇し、989キロを1時間6分55秒間飛行し、北海道の西わずか200キロの日本海の公海上の目標水域を正確に打撃した。なんでこの技術格差を騒がないんだこいつら、馬鹿としか言いようもない。何度も書いてきたが、日本は理系大学、学部に国家予算をつぎ込むべきだ。ただでさえ高等教育補助金は先進国でドベから2番目なのだ、どうでもいい文系は削って理系学生を増やさないと国が滅ぶ。観光立国?ジョークやめてくれ。数学もやってないド文系のアホな議員や記者ばかりになるからそんなことがまかり通るのである。

政府の仕事は国防と外交だ。地方自治体にないのはそれだけだ。外交はいまだサンフランシスコ講和条約前と変わらん位置づけなのだという事実を再認識させるばかりのていたらくでおぞましいにもほどがある。国防は自国に最先端科学技術の分厚いベースあってのことだから末恐ろしい事態であって、とても零戦を作った国の話とは信じ難い。戦争ができない国になるとここまで墜ちてしまうのか。明治の元勲たちは若かったがリスクに鋭敏で、阿片戦争を知り日本もああなると踏んだ。英国、ドイツに出向いていって法律と科学技術と軍事を学び、10年で100年の遅れを取り戻して近代国家になった。頭脳も行動力もあったが、危機感こそが動力だった。

今はそのぐらいの危機である。日本の国会議員は713人もいるが、この人たちはいったい何をやってるんだろう。2年前に僕は東京五輪に大反対のブログを書いたが、案の定、ふたを開けてみれば贈収賄、税金の中抜き、無責任のオンパレードだったことが白日の下にさらされた。国が大事なら科学技術、理系学生につぎ込むべき税金をこんなくだらないものに使い、開催地なのに何ら見られもしなかった東京都民は税金をふんだくられただけだ。何の情報もない僕にすら臭いにおいがプンプンしていたのに国会議員は何もしなかった。いま、国の未来を左右する危機のニオイがプンプンだが、また何もしないのか。ならガーシー議員と何が違うんだ、出てくりゃいいってもんじゃないし参議院はいらないだろう、議員は歳費をドブに捨てるだけだから定員を半分にしてくれ。

自民党の補選3敗に思う

自民党に漂う「オワコン感」の真因を解く

 

 

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モーツァルトの謎『レジナ・チェリ K.276』

2023 FEB 17 6:06:06 am by 東 賢太郎

これを初めて聴いてびっくりしたのはいつだったか。モーツァルトの宗教曲に浸っていたのは香港勤務を終えて日本に戻ってきてからだからその頃だろう。

レジナ・チェリ (Regina coeli、『天の女王』) はカトリック教会における伝統的な聖母賛歌の一つで、4つある聖母マリアのためのアンティフォナ(交唱)の一つである。プロテスタントは用いないので、モーツァルトがカソリック信徒であり、その教会のために書いたものであるという2つのことは疑いがない。歌詞はラテン語でこのように歌っている。

Regina coeli laetare, alleluia:
quia quem meruisti portare, alleluia:
resurrexit, sicut dixit, alleluia:
ora pro nobis deum, alleluia.

モーツァルトはこれに音楽を3つ書いている(ハ長調 K.108、変ロ長調 K.127、ハ長調 K.276)。教会とはザルツブルグのそれだろう。最初の2つは声楽付きのイタリア風シンフォニアに近く、K.127は宮廷一の歌手だったミハエル・ハイドン夫人のマリア・マグダレナのために作った。壮麗なコンチェルタントに仕上がったソプラノ・パートは彼女の高度な水準をうかがわせるが、後に彼は新妻コンスタンツェのためにミサ曲のソプラノ・パートを苦戦して書くことになる。

甚だ直感的な感想だが、最後の K.276と前2曲の間には大きな断層があるように思う。前者は音楽が和声も対位法も格段にリッチになり「戴冠式ミサ」に近い。 K.276は作曲年が特定できておらず、様式的類似点があるという理由で「主日のためのヴェスプレ」K.321と同じ1779年に比定されているが、同年1月19日の辞令で、モーツァルトはザルツブルクの宮廷オルガニストに採用された際に書いたので祝典的な性格になったという説もある。いずれにせよパリ旅行から帰ったザルツブルグ後期の1779年が定説だ。本当にそうだろうか?

僕がびっくりしたのは、ヘンデル「メサイア」そっくりの ハレルヤ!がほとんどそのまま登場するからだ。お聴きいただきたい。

これは偶然だと片づけられている。自筆譜が失われており、学者は証拠がないと認めないのだ。しかし、素人である僕は自由に仮説を立てたい。どう考えてもメサイアの引用にしか聞こえないし、僕は学説より自分の耳を信じているからだ。

さらに一歩進んで、ハ短調ミサK.427の「グローリア」音形(Gloria in excelsis)もハレルヤ!だ と書いたら多くの読者はそんな馬鹿なと思われるだろうか。

根拠はある。

「僕のミサ曲や – 2つのヴェスプレの総譜を – 入れてくれてもかまいません。 それらを、ただヴァン・スヴィーテン男爵に聴かせたいからです」

これはモーツァルトがウィーンから父へ1783年3月12日に書いた手紙だ。モーツァルトのメンターであるスヴィーテン男爵がバッハ、ヘンデルの楽譜のコレクターだったことはご記憶だろう。ちなみに「家のどこかにあるはず」と同じ手紙で所望しているミヒャエル・ハイドンの曲がスヴィーテンの遺品の中にあった。これはモーツァルト自身の手になる筆写譜であり、3月29日の父への手紙に「楽譜の小包、たしかに受け取りました」と書かれているのである。この小包にK.276も入っていたと考えるのは自然だろう。

もし1779年の作品なら彼はメサイアをパリ、マンハイム、ストラスブールで知ってザルツブルグに帰ったかもしれない。しかしハレルヤを引用する根拠が希薄だ。この手紙にあるようにウィーンに移ってからスヴィーテンの蔵書で知ったと考える方が自然ではないか。

毎週日曜日にお邪魔しているファン・スヴィーテン男爵が、ヘンデルとゼバスティアン・バッハの全作品を(ぼくがそれをひと通り男爵に弾いて聴かせた後で)ぼくにうちへ持って帰らせました(姉ナンネルへの手紙、1782年4月20日)。

とするとレジーナ・チェリ K.276はこれより後にウィーンで書かれたことになり、通説は否定される。しかし、素浪人の身になったモーツァルトにレジーナ・チェリの注文があったとも思えない。「スヴィーテン男爵に聴かせたい」と父に書いたのは予約演奏会を仕切って満員にしてくれる男爵の好意を得たいからだ。

ザルツブルグの原曲にハレルヤはなかったが、男爵を意識してウィーンで改訂して加えたのではないかとというのが我が説だ。コロレド大司教の楽団にはヴィオラがなく、K.276もヴィオラパートを欠いているのでザルツブルグで書かれたとする通説に疑いはないだろう。では改訂の蓋然性はあるのか?ある。ザルツブルグで書いたハフナー・セレナーデを交響曲 K. 385に仕立て直したのは周知の事実だが、その交響曲の初演は1783年3月23日である。3月29日(以前)に父から楽譜の小包が届き、入っていたK.276の改訂作業も同じように行なわれたとして何の不思議もないだろう。

そしてハ短調ミサだ。同年7月に、妻コンスタンツェを父に会わせて結婚を認めてもらおうとザルツブルグに旅立つのである。勝手な結婚で父との関係がずたずたになり、修復しようという勝負をかけた旅であった。そこで妻の歌唱力を見せて気に入ってもらおうと書いたのがハ短調ミサK.427なのである。K.276にハレルヤを挿入してスヴィーテンのご機嫌を取ろうとするのも、ウィーンでの成功を約束してもらおうという勝負の一環であった。K.427(Gloria in excelsis)の作曲が先かもしれないが、両曲は同じ思考回路で発想されハレルヤの晴れやかに高揚する祝典的な気分を借りるに至ったというのが僕の考えだ。

著作権がなかった当時は盗作という概念もなく、レクイエムK. 626にもメサイアを引用しているぐらいだからモーツァルトの頭の中には後に管弦楽を編曲することになる同作に強い敬意と愛着があったと考えて何ら不思議でない。スヴィーテンの図書館で学んだ、ザルツブルグ楽界の知らぬヘンデルの語法の薫陶を受けたことを父に見せつけ、ソプラノ・パートをコンスタンツェに歌わせて妻の株もあげようというのが、彼にありそうな魂胆だ。しかし、産後の妻の技量に合わせて大曲を仕立て上げ、レベルアップのためにボイストレーニングをしながらの作曲はさすがの彼にも荷が重かった。そこで同曲は時間切れになり、ザルツブルグ聖ペテロ教会でどう演奏したか記録がなく、曲は用済みなって未完のままになったというのが真相であろう。

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縁故主義とオンデマンド社会

2023 FEB 14 10:10:06 am by 東 賢太郎

縁故主義のことをネポティズム(nepotism)という。親の七光り、縁者びいきというやつだ。直訳すれば「甥っ子主義」「姪っ子主義」で、悪いニュアンスばかりに使われるが、一概に悪いかというとそうでもない場合はある。信頼できる腹心が周囲にいることはトップになると助かるし話も速い。仕事が効率的になるなら組織にとって悪くないから息子が秘書でもネポティズムといわれないこともあろう。

ただし、それは論功行賞が公平な場合に限ることは三国志の故事である『泣いて馬謖を斬る』が示している。諸葛孔明は命令に背いて戦に負けた愛弟子を処刑した。守ったものは「軍律」だ。それが有能な部下より大事という見せしめであり、だから孔明自身も軍律に服して三階級降格の罰を受けている。評価が公平だから家来は死に物狂いで戦い、孔明は名を成した。後世にバカ殿による論功行賞の失敗がたくさん起きたから、この史実が戒めの諺となって1800年間も語り継がれてきたのではなかろうか。

すなわち、「論功行賞が不公平」=「軍律はありません」という表明なのだ。ということは殿を縛る軍律などましておやあるはずなく、論功行賞は殿の好き嫌いで、好かれれば何でもやり放題になり、人間の汚い本性が出て自分に甘く、縁者に甘く、七光りの馬鹿息子が何の苦労もせず跡を継ぐ。この腐臭ただよう事態にネポティズム認定の鉄槌が下るのだ。だからキリスト様は「縁故などというものは正しい信仰の敵」と言い放ち、信仰組織が世襲制によっていつしか自分の子供ばかりを偏愛する者たちの巣窟のようになってしまうからカソリックの聖職者は結婚したり跡継ぎの子供を作る事は認められていないのである。宗教を引きあいに出す気はないが、人間の本性と組織の関係を鋭く射抜いた例ではあろう。

昨今の我が国において経済は一向に成長しないが、ネポティズムだけは順調に芽を伸ばしているように思える。真面目に汗水たらして働かないと給料は増えないが、国民から搾り取った税金をむさぼるのに労働はいらない。いるのは仲間の数なのだ。そこで「愛(う)いだけでオッケー」の集団が生まれる。数が欲しいのだから縁故すらいらず、「愛い奴」であれば実績も能力も知力も不問というユルユル集団であって、厳密にはネポティズムですらない。そこでこれをクローニー(crony、気のおけない仲間)と呼んだりもする。まあ要するに、多数決=権力である資本主義に “寄生” することだけを目的とした松食い虫の群れみたいなものである。この連中が繁殖して樹液を吸えば、いうまでもなく松は枯れる。

真面目に頑張って戦果をあげる者は実績も能力も知力もある。馬鹿の出世に不満だから反旗を翻すしかなく、必然的にボスには「愛くない奴」になって排除される。「愛い」だけが取り柄の集団にとってはざまあみろブラボーであり、ボスも歓声を浴びて地位安泰になり、全能感にひたってますます道を誤る。軍であればさように有能な武将たちがやる気をなくせばボスも命はないが、近代国家は法が統治する一種のマシーンであるから、この無能集団がコックピットに入ってハイジャックしても飛行機はとりあえずは落ちないのである。だから無能な武将ばかりになってもしばらくは安泰で、自分の寝首を掻かない者で周囲を固め、任期中だけは落ちるなよで済ます者が百出する。我が国の「平成の大失速」、「失われた30年」はこうしてもたらされたのだ。

おぬしも悪よのう

その集団が権力を持つと指導原理は「愛い奴よのう」から「おぬしも悪よのう」に軽いタッチで変異する。縁故など元からどうでもいい。税金にたかる利権という樹液を吸うだけを絆とした松食い虫の大群になり、ボスが後ろ盾で守ってくれるから談合、中抜きやりたい放題。更に図体は太る。ボスの一族はそのコロニーの女王蜂みたいになって疑似皇族的な世襲貴族となる。これが我が国の現状だ。政治家というファミリービジネスは世代を超えて税金にたかるが、自分の相続は「票田」だから税金は払わない。資産は世襲で目減りせずに女王蜂は何代でも生きのび、得体のしれぬ宗教まで動員してますます数を増やす。幹のど真ん中に “寄生” しているのだから駆除は大変に困難なのである。

ネポティズムは一歩間違えばこうした悪を生む有力な原因にはなるが、くりかえすが一概に悪いかというとそうではなく、国であれ企業であれ全体の利益のために効率的な場合はある。一族経営の企業がその例だ。見ず知らずの株主に無用の批判を受けたりハイジャックされたりするぐらいなら上場は見送って堂々とネポティズムで行こうという高収益企業はいくらもある。それが悪なら会社は潰れるはずだが多くがうまくいっているのだから、一般論で悪だというのは左翼が階級闘争とごっちゃにして騙そうとしている証拠で全くの見当違いである。

ネット社会にそれがどれだけ耐性があるかは未知数だ。ネポティズムは組織が盤石で無能でも勤まるポストがあることが大前提だが、仮にあっても周囲が離反すればワークしない世の中になりつつあり、やがて来るオンデマンド社会ではポストに好適な人材はポストが決めることになる。たとえば管弦楽団で第1フルートが定年になる。日本的感覚では第2奏者が昇格しそうだがそうではない。第2奏者が第1の息子であっても関係ない。第1の公開オーディションをするのだ。オンデマンド社会ではこれがそこかしこで起きる。少なくとも高年俸のポストは業界関係なくそうなる。第1は第1の格の人が吹かないと楽員の賛同が得られないし、楽団ごと質が落ちて全員が失業する可能性があるからだ。

つまりオンデマンド社会はネポティズムと相性が悪い。おそらく後者は衰退していくだろう。政治家が息子を秘書にしても、彼が有能であって公平に評価されれば構わないが、そのことは父親でなくネットを通して国民全員が審査することになり、無能がバレれば私刑と呼ばれようが何だろうが袋叩きにする。今のところは大手メディアが「報じない」という情報操作をして守っているが、そんなことをするメディアは食えなくなって先に消える。公人だとネットで炎上すれば有名税だねざまあみろで終わり。書き込みは末代に残る恥辱となる。これが良いことかどうかは言論の自由を規制するかどうかの問題であり、法的に処理することは中世的ガバナンスのまかり通る国家でなければおそらく困難だろう。とすると公人となって国のために活躍して勲章をもらうことのリスク・リターンのバランスは変容するだろう。ネポティズムの評価同様に一概に2世3世議員がいかんということはないが、現状は無能なのがたくさんいる。日本という国が盤石でそれでも勤まるポストだったからだ。松が元気な時代はもう終わっている。

 

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ボビー・ハッチャーソン 「Total Eclipse」

2023 FEB 13 6:06:18 am by 東 賢太郎

海外勤務のころ、成田からロンドン、ニューヨーク、フランクフルト、チューリヒ、香港まで何度往復しただろう。年2、3回として4~50回ぐらいはしたかもしれない。東京で仕事を済ませると決まって夕刻の便である。真っ暗なロビーの窓からはるか飛び去っていく機体が見える。あんなブラックホールに吸い込まれるみたいに忌まわしい物体に乗りたくない。ラウンジは観光客やたまの海外出張ではしゃぐサラリーマンでうるさい。仕方なく、特に食べたくもないが、毎度そば屋の暖簾をくぐってひとり時間を潰すことになる。

年末にパリから帰って来る娘を夜の羽田で待ち受けていて、16年もそうやって味わっていたあのとりとめもない空漠とした気持ちが蘇った。フライトは嫌いだ。狭いのも高いのもいけない。乗るとすぐワインをがぶ飲みして寝ようと試みるが大体うまくいかない。シンガポールからのナイトフライトが故障で飛ばず、一晩閉じ込められてパニックになった地獄のトラウマが蘇る。そこで映画を探すがほとんどが安手の流行りものだ、すぐに飽きてしまい頼みは音楽しかなくなる。しかしJAL、ANAのクラシックは見事にロクなのがないのである。

ジャズを聴くようになったのは、そうしたプアなセレクションの中では多少ましだからであり、緊急避難の末にケニー・バレル、ゴンサロ・ルバルカバなどを発見したのだからまあ文句はいうまい。ヴィブラフォン奏者ボビー・ハッチャーソンもそのひとりで、アルバム “Happenings” が気に入ってすぐCDを買った。そこでyoutubeをサーフィンするともっと好きなのが出てきた。“Total Eclipse” である。いい時代になった。そういうことをやると昔は結構な散財になったわけで、今の若者は音楽もwikipediaばりにゼロコストでクラウドに所有している。才能あるクリエーターはどうなってしまうのか心配にはなるが。

ジャケットの写真こそユルいが「皆既食」という名のこのアルバムは最高で、ハッチャーソンのヴィブラフォン、マリンバが耳を奪う。彼の作曲の才能も恐るべしだ。ピアノがチック・コリア、テナーサックスがハロルド・ランド、ドラムスがジョー・チェンバース、ベースがレジー・ジョンソン。全員が名手であり、音楽性がトップノッチで噛み合っているこのアルバムは最初から最後まで快感しかない。Herzogのプレストが出色だが、最高評価したいのは2番目のTotal Eclipseだ。ヘッドホンで聴くとまるで精緻な室内楽で録音も素晴らしい。チック・コリアのソロはどこかメシアンに聞こえる。

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