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僕が聴いた名演奏家たち(クシシュトフ・ペンデレツキ)

2020 JUN 17 18:18:45 pm by 東 賢太郎

3月29日に20世紀を代表する作曲家であるペンデレツキ(1933 – 2020)が亡くなりました。彼は現存するコンポーザーではピエール・ブーレーズと並んで最も気になる存在でした。「クラスター」という言葉はコロナで広まりましたが、トーン・クラスターは彼の代名詞で、大学時代に図書館できいた「広島の犠牲者への哀歌Tren ofiarom Hiroszimy」(52の弦楽器のための)というショッキングな曲で知りました。これです。

広島の犠牲者のために捧げられた音楽ですが、1960年の作曲当初は「8分37秒」という演奏時間を指定しただけの標題で、指揮者は時計を見ながら振る想定だったようです。ジョン・ケージの「4分33秒」(1952)もそうですが偶然音楽の演奏に時間という概念が入るのは必然でしょう。ジョージ・フロイド氏が無法者の警官に抑え込まれたのが8分46秒とニュースで聞いてこれを思い出したのも悲しいものです。

ペンデレツキの音楽は「エクソシスト」、「シャイニング」に用いられ(映画音楽ではなく引用)映画監督に怖いイマジネーションを与えるようですが、彼の本領はスリラーでもオカルトでもありません。古典的なクラシック音楽のほぼすべてのジャンルに完成度の高い大作を残した正攻法の作曲家です。

エクソシストです。

前稿で「アヴァンギャルド(前衛)なる言葉自体が戦前の遺物と化してしまった。それを破壊し革命を起こすほどの新たな社会的動力はなく、作曲という記号論理の中だけで進化を促す動力も見られない。」と書きましたが、ホロコーストと広島・長崎への怒りが生んだ音楽はありました(もう一つの代表作はシェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」)。心胆を寒からしめる迫真性とシリアスさは第2次大戦の残虐行為と無縁ではないでしょう。

彼の音楽はどれも19世紀クラシック音楽の正統な末裔と思わせるオーセンティシティを有しており、混沌ハチャメチャにしか聞こえない現代音楽とは一線を画しています。私見では、キリスト教の典礼音楽という原点と切り離すことのできない何かが有るからと思います。僕はモーツァルトの最高傑作群は典礼音楽で、オペラや器楽曲のプロトタイプはザルツブルグ時代のそれにすべてあると考えています。それほどドイツのクラシック音楽は典礼音楽の衣鉢を継いたものだということです。

ベートーベンもメンデルスゾーンもシューマンもブルックナーもブラームスもみなJ.Sバッハに範を求めたわけですが、それは対位法やフーガの技法を学ぶためというよりもドイツの保守本流のスピリチュアルな価値観としてはまず典礼音楽があり、その祖がバッハだったということです。イタリアがオペラであったのと一線を画し、その5人はオペラをほとんど書いていません。この意味ではヘンデルとモーツァルトは異端だったわけですが、前者はオラトリオで、後者はミサ、レクイエムで本領発揮といえる傑作を残しております。

ポーランド人のペンデレツキをドイツ保守本流の正統な系譜だと申しあげるのは8曲の交響曲を残した堂々たるシンフォニストであり、協奏曲、室内楽、そして何よりルカ受難曲、ポーランド・レクイエムという典礼音楽で傑作を残したからです。僕が愛好するのは交響曲第3番であり20世紀を代表する交響曲のひとつに数えられると考えております。アダージョはトリスタン前奏曲で開始し、ショスタコーヴィチ5番の第3楽章ラルゴの雰囲気を継承する唯一にして最高の音楽。アントニ・ヴィト指揮ポーランド国立放送交響楽団の入魂の演奏をぜひ全曲通してお聴きください。

ペンデレツキはブーレーズほどではないが指揮活動もしていました。1982年12月にフィラデルフィア管弦楽団定期にやってきて金曜、土曜と2回、演奏会の前半だけ振り(後半はウィリアム・スミスがショスタコ5番を)、演目は当時できたてほやほやの自作「テ・デウム」でした。当日のプログラムによると同曲は1978年にポーランド出身の初のローマの法王が誕生したのを祝して委嘱なしで書かれて、80年にアッシジで初演、米国初演は81年にロストロポーヴィチがナショナルPOでワシントンで行ったようです。僕が聴いたのはその翌年、米国2度目の演奏を自ら行ったものでした。

このころというと、日付からしてウォートンで最初の学期が半ば過ぎたあたりでmidterm-exam(中間試験)が控えていたはずです。英語に苦労して息も絶え絶えのころであり、あんまり思い出したくもないほど疲弊していましたっけ。今となると音楽がどうのよりも、チェロの真ん前の席で指揮台まで4,5メートルのところでペンデレツキの横顔を見上げていた方が意義深いことです。ドイツで「ひい爺ちゃんがブラームス自身の演奏を聴いた」という人に会いましたが、いずれそんなことになるんでしょう。

テ・デウムです。ペンデレツキ指揮ポーランド国立放送交響楽団で1983年3月、ポーランド南部のカトヴィッツのスタジオ録音で、僕が聴いた4か月後のスタジオ録音です。この曲ももう古典になりましたが、自分もなっているということですからちょっと寂しい気も致します。

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スクリャービン 「法悦の詩」 (Le Poème de l’extase) 作品54

2020 JUN 13 16:16:02 pm by 東 賢太郎

この曲はスクリャービンの4番目の交響曲である。聴いたのは故ロリン・マゼールがN響を振ったときだけで、それもあまり印象にない。もっと前に、指揮者は忘れたが、N響は5番をスコア通りに「色付き」で演奏したことがあるがもう人生でお目にかかれないだろうから貴重だった。4番のレコードはブーレーズ、ストコフスキー、ムラヴィンスキー、モントゥー、グーセンス、シノーポリとあって最後の2つは気に入っている。特にグーセンスは一聴の価値がある。

一見複雑なテクスチュアの曲だが、メシアンを思わせる冒頭のフルート主題のこれと、

トランペットのこの主題を覚えておけば全曲がつかみやすい。

この譜面はコーダだが、トランペット主題は何度も出てきて耳に纏わりつく。ショスタコーヴィチの5番Mov1の主題にも聞こえ、最後はセザール・フランクの交響曲ニ短調と瓜二つの終結を導く。

先に挙げた演奏のうち、異彩を放つのがピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルのCBS盤だ。シカゴ響との新録音(DG)はどれもそうだがやっぱり丸くなっていて僕は採らない。音は変わらず分解能の高い精緻なものだが、ウィーン・フィルでブルックナーを振る敬虔なキリスト教徒のものだ。神を否定したかに見えた60年代の彼ではなく一般に理解される方法とメディアによって異教徒だった頃の残像を残そうとした試みに過ぎない。全共闘や革マルの戦士が大企業の役員になって品行方正づらでHPに載っているようであり、70年代を共に生きた僕には堕落以外の何物でもない。

彼の録音の “主戦場” だった音楽は20世紀初頭のものだ。欧州最初にして最大の狂気であった第1次大戦に向けて社会ごと狂っていく時代、後にその寸前を良き時代(ベル・エポック)と呼びたくなるほど酷い時代の精神風土を映しとった作品たちである。ブーレーズはその空気を吸って育ち60年代にアヴァンギャルドの戦士になったが、彼が壊しにかかった古典は「戦前の前衛」であり、壊すことは時代の「先へ進む動力」であった。ベートーベンもワーグナーもドビッシーも各々の時代でそれをした。革命という言葉が破壊と同時に新生のニュアンスを含むとすると、それこそがブーレーズの作品群だ。彼は演奏家である前に作曲家であり、彼のCBS録音はアヴァンギャルド(前衛部隊)で戦う若き彼のリアルタイムのブロマイドとして永遠の価値がある。

DG録音群は、20世紀後半に前衛は死に絶え、音楽が動力を失い、作曲される傍からクラシック音楽という埃をかぶった懐古的ジャンルに封じ込められる運命にあることを象徴したものだ。第2次大戦後、今に至る「戦後」が始まる。ストラヴィンスキー、シェーンベルク、バルトークらの打ち立てた戦前の前衛の音楽語法が戦争という無尽蔵の破壊力をもった狂気からインスピレーションを得たということは重要だ。テクノロジーの世界で火薬、船、トラック、飛行機、インターネット等は戦争による軍事技術として進化した。それと同じことだ。十二音技法が生まれる素地は「戦前」の空気にあったのであり、その作曲技法(語法)が戦後の前衛の在り方のインフラとなったのは必然だった。

そうしてアヴァンギャルド(前衛)なる言葉自体が戦前の遺物と化してしまった。それを破壊し革命を起こすほどの新たな社会的動力はなく、作曲という記号論理の中だけで進化を促す動力も見られない。”前衛風に” 響く音楽は生産されているが、「クラシック音楽」なる金色の額縁に収まるか否かの価値観で計られる壁は高い。一方で元来音楽は消費財であり、現代はゲーム、アニメのBGMと競う運命にもある。ドラえもん組曲やエヴァンゲリオン交響曲がコンサート・レパートリーに加わる日は来ても不思議でないが受け入れる聴衆は未来の人だろう。

ブーレーズ戦士時代の録音である「法悦の詩」をほめた人はあまりいないように思う。スクリャービンはテオソフィー(神智学)を信奉しておりエクスタシーはそれと関係がある。神智学は「真理にまさる宗教はない」とし、「偉大な魂」による古代の智慧の開示を通じて諸宗教の対立を超えた「古代の智慧」「根源的な神的叡智」への回帰をめざすとされるが、wikipediaの英文(しかない)を読む限り特異な概念である。エクスタシーだからセックスの絶頂ですよという単純なものではなさそうだが、この曲に多くの聴衆が求める快感はそのようなものだろう。ブーレーズCBS盤のもたらす透明感、立体感はさようなドロドロと無縁であり、彼が録音した意図に戸惑いを覚える人が多かったのではないだろうか。

僕の場合はエクスタシーはどうでもよく、この頃のブーレーズがやはりドロドロだった春の祭典を怪しげな呪術から解き放って自分の美感で再構築した詩的なリアリストであることが魅力のすべてだった。この法悦の詩はトリスタンのオマージュにきこえてならない。彼がバイロイトで指揮したワーグナーを聴くと、トリスタンに魅入られてワグネリアンで出発し後に否定したドビッシーの音楽がクロスオーバーする地平で響いていることに気づくが、それと同じ響きがここにもあるのだ(冒頭の雰囲気などドビッシー「遊戯」そのもの)。和声が解決しない調性音楽であり、内声がクロマティックに動いて属七を基軸に和声が変転するがバスが明瞭で構造的に複雑ではないのに複雑に聞こえる。凝った装飾で副次主題がからみ錯綜したポリリズムを形成するからだ。このスコアを二手で弾くのは不可能。四手でも難しい。ブーレーズはそれを分解し、磨きをかけ、最適なバランスでドビッシーのように詩的な透明感を与えて音化しているのである。

全くの余談だが、久々にこれを聴いて脳が若返る気がした。以前書いたが受験時代にブーレーズが夢に出るほど没入していて、ハマればハマるほど数学の成績が上がって全国1位を取ったから因果関係があったと本気で信じている。クラシック音楽は脳に「効く」漢方薬だ。

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私的ポスト・コロナ序論(飛行機の終焉)

2020 JUN 11 17:17:16 pm by 東 賢太郎

これまで我々の業務はリアル(自社で会議、顧客訪問、電話)とバーチャル(メール等、ビデオ会議)に分かれてました。比率は8:2ぐらいでしたが、それがテレワークにしたこの2か月は逆転していて2:8ほどです。リアルの会議、顧客訪問がゼロになり、電話とメールはそのままで、バーチャル会議(ZOOM)が増えているという内訳です。ZOOMの利点は音質ですね。バーチャルの弱点はリアル感の欠如でしたから、飲み会ができるほどそれを補ったというのは非常に大きいメリットです。「すぐそこに相手がいる」感じは画質の良さのせいもありますが、僕的には音質がすごく評価できます。

トータルのイメージはというと、仕事の質は落ちておらず、量はむしろ増えてます。それで感染リスクゼロですから、僕の仕事かぎりで言えば、満足です。

例えば昨日はZOOMのビデオ会議が4本、ひとつ1~2時間ぐらいです。電話も数えたら23本あって増え、朝9時から午後6時まで食事もそこそこでぶっ続けでした。海外とも違和感なくでき、オフィスまで往復で2時間近く仕事できない、東京だけでも4件を一日で訪問するのは時間もコストも体力も無駄、ということを考えると業務効率もテレワークのほうが上でした。

欠点があるとすると、ZOOMは会議の両側がそれでOKという了解がないとできないことでしょう。しかしOKの輪はどんどん広がると予想します。思い出すのは「クールビズ」です。小泉首相が言いだして、即座にみんないいなと思いました。くそ暑い夏に誰もネクタイなんかしたくないのが本音です。でも「してないと無礼だ」と社会が刷り込まれていたので勇気が出ない。結局、クールビズは官庁が先陣を切ってやったのが効きました。お役所もしてないんだから俺達もしなくていいよねとなって民間にコンセンサスができ、一気に広がったのです。

昭和生まれの人しか知りませんが、1989年の昭和天皇の崩御で「歌舞音曲は控えましょう」のお触れが出たのです。このときも同じことが起きてます。当時野村証券は利益が5千億もあって儲けすぎの批判があり、カラオケで殴られた奴が出たらしいと社内で噂になりました。それでバッジは(はずすと違反なので)裏返しにつけて行くようになったのです。

ところがだんだん「接待だからってそこまでして行くか?」の空気が社内に流れ始めました。すると接待される側のお客さんもそうだよねとなってきて、「実は私、あんまり好きじゃないんです」みたいになってカラオケ接待は自然に消えました。奥様達にはわからないでしょうが、ああいうのは旦那が好きでやってるんじゃなくて、ネクタイと一緒ですね、みんなやってるから仕方ないお仕事なんで、この時も会社からやめろとなったのではなく、双方がやる意味を感じなくなって自動消滅したのです。

そんな感じで世の中はじわじわっと変わっていきます。

いま、同じことがいろんなところでコロナでおきてます。まだはっきりとは誰にも見えませんが、2,3年のうちに社会現象として出てきます。ひとことでいえば「バーチャル慣れ現象」です。長いこと家にいて誰もがネットにつながる時間が増えてます。するとだんだん、ネットで見るものをリアルだと感じられるようになってきます。無意識にそういう「置きかえ」が脳内で回路化されるからです。リモート飲み会がいい例ですが、そんなのいらんと言ってたのがやってみたらハマったという人がたくさんいます。そうやって人は環境に適応していきます。バーチャルでもおんなじだねとなってくると、リアルに高い金を払うのがアホらしくなってくる。それが人間というものです。ネクタイ、カラオケ接待は日本だけの話でしたがコロナ禍は世界共通の現象です。「バーチャル慣れ現象」はクロスボーダーで、いまは誰も予想もしてない莫大な規模で起こります。

コンコルド

その昔、エールフランスとブリティッシュ・エアが事業化したコンコルドという飛行機がありました。超音速でニューヨークからロンドンに3時間で着く。通常5時間です。2時間短縮するのに1stクラスの2倍の料金がかかります。それを払ってペイする時給の人がそんなにたくさんいますか?ということですね。いないから2003年に。コンコルド事業は潰れました。とてもわかりやすいですね。

いちど乗りましたが内部はエコノミーというか、新幹線の自由席をさらに狭くした感じです。爆音+キーンという音で2万メートルまで昇ってスピードメーターはマッハ2を超えました。ジャンボの倍です。空は成層圏で青黒く、二重ガラスの窓は空気摩擦で触るとあっちっちとなるほど熱い。高い料金払うなら1stクラスのサービス受ける方がいい、それで5時間かかってもいいと思いましたが、そんな思いを補って余りあるほど「速い」ということに価値があったのですね、当時は。搭乗記念品をいろいろくれましたが興味ないんでどっかへ行ってしまいました。思えばあれは強烈な「三密」でしたんでね、仮に復活しても誰も乗らないでしょうし、経費申請して通してくれる会社はもうないでしょう。

さように、高速で移動すると得して儲かる時代はもう完全に終わりました。ロスチャイルド家の資産はナポレオンの戦争敗北のニュースを誰より早めに仕入れたからできましたがそれは200年前の話です。今やニュースはネットで瞬時に流れますから速さの価値は確実にゼロです。まして人が短時間に行き来することに経済的優位性など既にまったくなく、もはや個人の趣味の世界でしかありません。つまり飛行機の出張などカネをどぶに捨てるようなものであり、安価で目的は100%達することのできるZOOM会議に置き換えないと株主総会で経営者が糾弾される時代に確実になっていきます

ウォーレン・バフェットはそう結論して、保有していたエアライン株を一株残らず売りました(大損にもかかわらず)。利益率の高いビジネス需要は激減して、もう元には戻らないと、つまり民間航空機はネクタイ、カラオケと同じ運命になるという読みです。僕も同感です。むかし社内で「不要不急の海外出張の禁止」とお触れが真面目に出て笑いを誘いましたが、そもそも日本の大企業のお偉いさんの海外出張は今も昔も物見遊山だったのです。だから外国行きたい人は自費で行ってねってことになります。でも三密のエコノミーなんか誰も乗りたくないからなくなって、LCCでもビジネスクラス仕様の座席になって海外旅行はこれから高くつくでしょう。僕は若者は海外へ出ないと遅れると主張してきましたが、コロナで人のモビリティが世界的に減るので条件はいっしょ、そうも言えなくなりますね。

いま個人的には温泉に行きたいです。あと日本各地のうまいものが食べたい。海外旅行は猫も杓子も行くものでなく昔のように富裕層の贅沢品に戻って、代わりに精度のいいVRが出てくるでしょうね。高性能360度ヴィジョンで完全に外国に行った気になれ、墜落の心配はないしめんどうくさい外国語をしゃべる必要もないし、実際に足を動かして歩けば名所めぐりのめちゃリアルなVR散歩ができ、恋人と手をつないでヴェルサイユ宮殿やナイアガラ瀑布で食事(マックかコンビニ弁当だけど)ができ、音もリアルにシミュレートされてウィーン国立歌劇場でオペラが高音質ヘッドホンでVRで臨場感たっぷりに観られる。ソフトは世界中を網羅してタンザニアのライオンの群れの中から南極のペンギンのコロニーから月面、火星までなんでもあり。安心だしチョイスはユニクロみたいに趣味に合わせて豊富だし、なにより激安だし、グーグルあたりが本気でやればすぐできちゃう。そうかなと思われるでしょうが、「バーチャル慣れ」に進化した人の感覚はもう今の我々と違うので、それで十分楽しめてしまうでしょう。

4,5年後にコロナのワクチンができようと致死性のウイルスは永遠に絶滅はしないから三密だけは死ぬまで避けるつもりです。となるとリアルの旅行は自分の車で行ける箱根ぐらいまで、セーブした飛行機代は宿泊と遊びに投入するという新たな重要が出てきます。ホテル、旅館もコテッジ型でクルマで到着して一切ほかの客に会わずにワールドクラスのサービスを受けられるスタイルが出るはずです。僕はオーストラリアの某ホテルのコテッジが気に入ってますが、あれが箱根か葉山あたりにできれば1か月入りびたってもいい。10なん時間も狭い機内で外国人と同じ空気を吸うのはエアロゾル感染で実に危ない。清潔で倫理観が世界一の日本にいるのが安心です。高い金払ってそんなリスクを犯さなくても東京の近場でいいところはいくらでもあるし、それに金をかけるのがカッコいいという感覚に進化して真の贅沢は近場旅行とVRという人たちが主流になるでしょう。

 

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差別はする方が猿なみである

2020 JUN 8 12:12:54 pm by 東 賢太郎

僕がラヴェルやモーツァルトが好きだからといって、白人至上主義に組しているわけではないことを示すのが本稿の大きなテーマである。

ジョージ・フロイド事件は南北戦争以来くすぶっている米国の黒人差別問題がオバマ時代を経ても収まっていない現実を世界に知らしめ、社会問題として各地に伝播しつつあるが、実は多民族国家の米国だけの話ではなく、「多勢に無勢」が「いじめ」に発展するのは実は人間の万国共通の悲しい性(さが)であるというもっと根深い本質が背後にある。形を変えて大なり小なりどこの国にだってあることなのだ。わが国では古来より「長い物には巻かれろ」と教える。「長い物」に正義があるかどうか哲学的に論じようではないかということではなくて、単に少数派になるといじめにあうからやめとけという処世術だ。

「白人」という言葉は「東洋人」がそうであると同じほど曖昧であるので、ここでは「キリスト教徒である白人」と限定しよう。19世紀から現代に至るまでの2世紀をその白人が(他の白人の力も使いつつ)実質的に地球を支配したと考えるのは、事実か否かを問うのは困難としても否定してかかることも同じほど困難だから認めるしかない。その2世紀はアメリカ合衆国の台頭、隆盛の歴史とほぼ重なり、どの国であれそれ抜きに歴史の教科書が地球史として客観性を保つとは思えないという妥協でもある。しかし中世の暗黒時代の白人にはその片鱗すらないのは皆さまが世界史で学ばれた通りだ。高度に知的なギリシャ文明はアラビア語世界に知識、文献として保存されていたし、武力ではモンゴル人が戦火を交えた白人をことごとく殺戮してロシアを征服し現在のバルト三国の地域まで死の恐怖に陥れていた。古代に遡れば中国文明に羅針盤、紙、印刷術、火薬など現代文明の利器の源流があり、智においても力においても白人が絶対優位だなどという証拠はどこにもない。

ではなぜ今そうなっているかというと、ルネッサンス運動による哲学と科学の探求、それを個人にミクロ化することを可能にした市民革命、そしてそれらの最大の果実となった産業革命による資本の蓄積において未曾有の成功を遂げたからだ。それは疑う余地もなく人類史における白人の巨大な業績ではあるが、といってそれだけで永遠に優位で居続けることを保証する能力の優位性の証明にはならない。多くの白人は否定すると想像するが、その自意識に合理性がないことは上述のとおり歴史が証明しており、白人支配が続くことに正義を認めるのは白人だけである。ということは、後述するが、合理性、正義なき優越感は差別を生む元凶であるということを論理的に意味しており、彼らにとってジョージ・フロイド事件が不幸なアクシデントだったのは、それが満天下に証明されてしまい、世界の隅々に殺人場面までが放映され、格別の反差別主義者ではないが人道主義者だ平和主義者だという世界の広範な思想の人々をも動員してのムーヴメントに発展してしまう兆しになりかかったことだ。

ここで僕が歴史の視点を学んだ本をご紹介する(既読の方も多いだろう)。人類はひとつの生物種ホモ・サピエンスであるという歴史観から世界史を宇宙の創造からの地球史として書いたハーバート・ジョージ・ウェルズHerbert George Wells, 一般にはH.G.ウェルズ、1866 – 1946)のA Short History of the World (1922)(邦題『世界文化小史』、講談社学術文庫)である。一言で評するなら小説みたいに易しくエキサイティングな世界通史だ。我々が学校で教え込まれている民族や国家という視点が実は矮小であり、「日本は小さな島国」なる思い込みも自信の欠如も実はご無用であり、宗教がかった「世界国民」的思想ではなく、独善的利益追求のための醜怪なグローバリズムでもなく、ともすれば理論的な共産主義に近いがサイエンスに足場があることで同化はしない。ウェルズは英国人だが下層の出でオックスブリッジでも既得権益者でもなく、市民革命の恩恵で平等に得たサイエンスの知識でファクト(事実)に忠実に世界観を構築したと僕は想像する。

この書物が第1次世界大戦前に書かれなお命脈を保つばかりか新鮮ですらあることは、彼が1891年に四次元の世界について述べた論文『単一性の再発見』を上梓し、『タイム・マシン』を1895年に、『透明人間』を1897年、『宇宙戦争』を1898年に書いたSF小説の父であった豊かな想像力と無縁でないだろう。その視点は学問の府における歴史学の主流にはなっておらずこれで受験勉強することはあえてお勧めしないが、いずれ気づかれることだが、学校が教科書で教える世界観や知識は皆さんが現実の社会で生きていく羅針盤としては甚だ不十分なのである。歴史は人間が生存を希求した1万5千年余りの生々しい足跡であって、歴史学なる方法論だけで探れるものでなく、物理学、心理学、生物学、社会学、経済学、法学、医学、疫学、哲学、考古学、気象学、地質学、天文学、建築学、芸術、料理、軍事における戦略論、兵器の進化などを横断的に包括的に理解しないと全貌は到底理解も把握もできないことは留意されたい。

私事になるが僕が最も詳しい西洋史はクラシック音楽史だが、それとて作曲家の楽譜や手紙や文献だけをいくら研究しても全面的に「一面的」であり、例えば「モーツァルト家が借金まみれだが貧困ではなかった」証拠があるが音楽学者は合理的な説明を見つけていない。彼が戦時のオーストリア通貨の大インフレで「意図的にBSの負債勘定を増やす高レバレッジ戦略を採っていた」と僕が解釈するのは証券マンの眼で当然だよねとしか見えないからである。それが合理的なのだ。音楽学者に経済学や為替理論を学べという気はない。貧困に追い込まれて死を悟り悲愴なレクイエムを書いたという通説を否定しようと思えば職業的リスクの伴う人たちだから仕方ない。ましてモーツァルトは親父譲りで徹底して数字に細かく利に聡く、そもそもあの楽譜が書ける人がそんな馬鹿であるはずもないと主張すれば音楽学者という職業には就けないだろう。レクイエムを教科書通りに聞いて涙したい人の邪魔をする気はないが、都市伝説で自分史が塗りこめられたモーツァルトが気の毒だと同情するばかりだ。

歴史学を軽んじる不遜さは持ち合わせていないつもりだ。その学問ひとつをとっても人間が一生で習得できる時間はそれでいっぱいであり、上述のすべての学問の専門家であることは物理的に不可能だから横断的包括的アプローチは主流にはなり得ない。それだけだ。ただ我々は自分の学習と知恵でミッシングリンクを埋めていくことはできる。その日々の作業こそが「生きる」ということだし、そうして生きれば人生はいつも新鮮な発見に満ちているのだ。宇宙の創生から俯瞰すれば、自分という卑小な存在の生き様も人類史という壮大な大河ドラマもH.G.ウェルズ流に「理解」するのが自然と思うし、なにより素晴らしいのは、その視点に立ちさえすれば、誰もが、学校で赤点だろうが落ちこぼれようが、古めかしい学問という鎧をまとうことなく簡単に歴史を咀嚼して自分なりの歴史観、ひいては世界観、宇宙観を所有することができるということだ。

肌の色で能力が決まるわけでもなく人類史へのこれからの貢献には、人種によって参加資格を隔てる優劣があるとも思わない。

と僕が結論する勇気を持てるのは同書を楽しんで読めたからであり、そうであるならば、産業革命の余韻が終焉を迎えつつある21世紀初頭の今、もしかすると長く続いた白人優位は風前の灯火なのかもしれないという考えに、ヘーゲルのアウフヘーベンとして至ることも可能となる。ポスト・コロナは日本の時代などという卑小な手前味噌の話ではなく、5万年のホモ・サピエンス史のスコープで眺めてそう思えてしまう。進行しつつある米中のヘゲモニー闘争はその端緒かもしれないし、北朝鮮という人口2千5百万の貧しい東洋の小国が核保有しただけで覇権国アメリカと対等に渡り合い脅かしている情景は第2次大戦はおろかベトナム戦争時点でも想像できなかった。太平洋戦争時点で日本が核保有できていたという想像は、米国の核爆弾開発が同盟国ドイツから亡命した科学者に多くを負ったものであったことからして決して空想ではなく、白人の覇権というものがそう予定調和的でも盤石でもないことは明白だということだ。

すなわち、人種や国の優位性はその時々に変遷するもので、たまたま優位にある者が下位の者に懐く差別という感情には何ら合理性もなければ正義もないのである。まして自己の便益で奴隷として連れてきた人たちを200年もたってなお差別するような利己的で理性を欠く心性の者は、これから21世紀に生きていく人類が幸福に共存していく方向に逆行する人たちではないかと思う。人間や国家や条約や法律や規則の存在の合理性、正義というものは、個人でも一国でもない、ホモ・サピエンス全体の繁栄という視点でしかとらえられなくなるだろう。なぜなら我々はすでにポスト産業革命という新たな歴史の入り口にいるからだ。「合理性」と「正義」。このどちらも持ち合わせずに生きている者、いわば動物的な原理で動く者はものの必然として猿と変わらないという結論に達することを妨げないというのが僕の立場である。

駒場の教材だった「価値の社会学」(写真)は東大生になったと実感した難解さだったが、半分も理解できなかったものが今はわかる。名著であり娘に与えて読ませている。筆者、社会学者の作田啓一氏は後に我が国特有の「自虐史観」への対抗イデオロギーとして「侵略戦争の開始も含めて、何でもかんでも日本の戦前のあり方は正しかった、反省などする必要は全くないと主張する史観」を「自大史観」と呼んだが、「安倍晋三はこの史観を全面的に打ち出すイデオロギー内閣を作り出した」と第1次安倍政権時のご自身のブログに書かれている。第2次政権も作田氏の慧眼どおりに物事を進めているように思われる。ここでその是非は論じないが、そこに合理性と正義があるかどうかは皆様のお考えに委ねることにしたい。

差別者の発想のベースは、しかし、自大史観であろうと書いてもほぼ異論の余地はないだろう。そうでなければ他者を差別する自我に内的根拠がないことになるからである。どんな歴史観であれ100%合理的でないとまでは言い切れないが、それが正義か否かはいかなる文明においても不分明であるが故にどこでも差別は起こり得るのだ。長い物(強い者、戦争の勝者、ジャイアン)が歴史を書けるのは絶対的正義なるものは世のどこにも存在しないからで、宗教の戒律とて信者にとっては正義に近似的だが絶対普遍ではないから十字軍の虐殺は異教徒には正当化はされないし、原爆投下もしかりである。ジャイアン視点のドラえもんは書かれていないし、書いても共感されないだろうし、産業革命の余熱が冷める21世紀においては更にその傾向が強まるだろう。

私見では安倍政権が何をしようと国家の正義と合致し合法的であれば良しとするが、後者に該当しないと思われる事例が現れ(アンリ事件、検察官定年延長)、まして、国家の正義と政権の正義との乖離が客観的に観測され、政権がすべて正しく反省などする必要はまったくないという史観が暗にではあるが表明された時点において(男にはそれをやっちゃあお終いの一線がある)我が身の正義しか念頭にない政権として認識せざるを得なくなってしまった。このこと(国家正義に合致した正義のなさ)はノブレス・オブリージュが欠落しているということを自動的に意味し、貴族の資格のない者が貴族然と君臨している腐敗臭と不快感に富んだ印象を必然として与える。支持率低落の原因は、支持者だった穏健な保守層がその臭いの悪さを感じてのことだ。比較的アッパーなインテリであるこの層の去就が無党派浮動票の動静に影響力があることは2009年衆院選や都知事選の小池の乱で実証された。

ジョージ・フロイド事件が米国の極右、極左に利用され、暴徒が法を犯して更なる差別が助長される。それを連邦軍が武力で抑圧するのが正義ならトランプは習近平を批判できなくなる。政治の正義とはそれほど重たいものなのだ。その矛盾を解こうと聖書を持ち出したが、彼に宗教は似合わないばかりか選挙用パフォーマンスと見抜かれ、自由主義、共産主義を問わず長い物が正義という超イデオロギー的なガバナンス正当化ドクトリンにすがるしかない事においてはプーチンも金正恩も交えて似た者同士であることが露呈しつつある。彼らの視点はますます内政に向き、資本主義下ではせいぜい貧富の二極だった(それでもリーマン後の10余年で急速に進んで歪を生んだ)が、さらに変質して差別、被差別のニュアンスで二分される方向に行きかねない様相を呈してきたことを危惧するばかりだ。

皆さまが人種の壁の高さをどれほどご存知かはわからないが、16年海外でそれを俯瞰し体感した経験からするに、総じて日本人は性善説的であり害を及ぼさない限り外国人には優しい国民性だ。ただアジア人に対しては特別な感情があり、確たる理由なく日本人が上だという目線を持っている。明治時代の洋学修得と富国強兵の先行で国民がそう考えても仕方がない外形的実体があったことは事実だが、早い遅いと能力とは別個であり、目線の高さは遥かに度を越している。我が父親も世代一般程度にはその傾向はあり、僕もその影響と無縁に育ったわけではないが学問で理性は獲得できた。理由がないのだから自分は非合理であり、日本人が民族的に優位という考えを論拠とした正義は更に根拠がない、従ってそれで差別するなら俺は猿と変わらないと結論されることになり今はそうではなくなっている。

黒人(ケニア人)がルームメートだったことがある。一時のことで親しくつき合ったとまでは言えない。ありとあらゆることに驚いたが、KFCのチキンの食いっぷりは忘れない。白い大きな歯でかぶりつき、バキバキと骨ごと噛み砕き(その壮絶な音は今も耳に残る)、こっちが半分も終える前にショーみたいに数本の骨片が皿にきれいに並んだ。同じホモ・サピエンスといえ我々はあの野性を失って1万年はたつのだろうかとたじろぐ迫力であり、アフリカには棲めないと観念した瞬間だった。それでも我々は20万年前にアフリカにいた一人の女性(ミトコンドリア・イヴ)から地球上に生まれ、枝分かれして日本列島に来た者の子孫なのだ。科学がそう証言する以上日本が神話の説く特別な国ではなく、アジアの中で格別に神に愛でられ特別に優勢な遺伝子を持つこともなく、同胞への優位を示す上から目線には合理性も正義もないことを知るのである。

音楽の話に戻ろう。楽才はホモ・サピエンスだけが持っている才能の一部分である。白人の優位を否定してかかる僕の中でモーツァルトやラヴェルへの敬意も偏愛までもが解かれるかというと、それはない。その音楽に絶対普遍の価値があると思うことが必要十分条件で、そのことと彼らの肌の色や女癖やホモの性癖は何の関係もないという判断と一緒に白人優位否定は処理されるからだ。それは犯罪において「罪を憎んで人を憎まず」(罪刑法定主義)と同じ思想で「音楽を愛しても人は必ずしも愛さず」である。といって作曲家の属性を調べているのは人の脳への唯物論的関心からで、脳と曲との相関性の要因分析である。おそらく同系統の人たちがハイドンの遺体から頭部を盗みアインシュタインの脳を切り刻んだりしていたと想像するが僕は大学の法医学で見せられた変死体の写真で食事が困難になったからそっちへは行かなかった。

黒人が音楽でモーツァルトに劣るかというと、そればかりは何とも言えない。モーツァルトのような音楽を書き、演奏し、しかも彼に影響まで与えた黒人ジョゼフ・サン=ジョルジュがいたという雄弁な事実はこの稿にご紹介した。

クラシック徒然草《音楽家の二刀流》)

だからといって、彼がモーツァルト級の作曲家であったとは作品を聴く限り断言する自信はないが、古典派の時代でも肌の色が才能の優劣を決定的に左右したのではなかろうというぐらいは表明できると思う。それが200年の時を経てジャズの時代ならどうか?今度は逆にモーツァルトが モントルー・ジャズ・フェスティバルでピアノ即興できますかという問いになる。

どちらも故人となったが、マッコイ・タイナーとボビー・ハッチャーソン(ヴィブラフォン奏者)のビデオをぜひご覧いただきたい。

このドイツでのライブ演奏会の楽興に、ジャズ好きであろうとなかろうと、二人の巨匠の尋常でない能力を否定できる人はいないだろう。ご両人とも「象牙の塔」仕込みでない叩き上げで、どうやってこの破格の作曲、演奏能力を身につけたかは謎だ。モーツァルトのそれは父親仕込みだが「学校は秀才を作るが天才は作れない」を地で行っている事に関して3人は同等に思える。もしも、この1時間22分の「JazzBaltica 2002」のチケットとウィーン国立歌劇場のドン・ジョバンニのチケットと、どっちかひとつあげるよといわれたら僕は真剣に迷う。

 

 

 

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ラヴェル「フォルレーヌ」の特異な和声

2020 JUN 5 22:22:03 pm by 東 賢太郎

7年前にこういうものを書きました。ずっと家にいるので、指が忘れていた第3曲「フォルレーヌ」を復習しようという気になり、先ほど読み返してみたのです。今も寸分たがわぬ自分がいることを知ると、この曲への愛情は遺伝子レベルに発していると思ってしまいます。

ラヴェル 「クープランの墓」

ただ、オーケストラ版はダメですね、もうあんまり聴く気がしない。これの魅力はピアノのソノリティと不可分だからです。暗譜はけっこう大変でしたが指がやっと思い出した喜びは何物にも代え難いですね。これ、圧倒的に「ラヴェルを弾いている」という感じがするのです。

Durand版

クープランの墓の譜面を買ったのがいつだったか、最初のは仏Durandでご覧のとおり猫に爪とぎをやられて表紙がとれてます。前の猫だから大学時代です、入学してすぐの年あたりです。曲を覚えたのはジャン・ドワイアンのレコードでした。いや、覚えたというかあっという間に虜になってしまい、何度もくりかえして刷り込まれたのはワイセンベルクの演奏でした。まだリスナーとして初心者でピアノ曲はまずショパンになじまなくてはと努力したのですが、が学習者は誰もが弾いてみようというノクターン作品9-2みたいな曲はまったく口にあわないのです。素敵なコードプログレッションとは思いましたが、それをくりかえして客がそろそろ飽きたかなとなるとピロピロピロと右手が装飾音符を散りばめだす、あの女性のドレスについてるフリルみたいな空疎な無意味さが耐えられなかったのです。

ですから当時、ショパンは無縁でラヴェルにハマってしまった。ドビッシーは少々難解な音楽に聴こえておりモーツァルト、ベートーベン、シューベルトは面白くも何ともなくさっぱりで、しばらくの間、ピアノ曲といえばラヴェルという時期が続きました。弾く方は熱心で、練習曲としてJ.S.バッハのインヴェンションなどを暗譜しながらラフマニノフのP協2番のさわりとかラヴェルのト長調P協の第2楽章、ダフニスの「夜明け」冒頭部分がそこそこ再現できてました。独学ですが、それまで弦6本のギターで覚えていた和声というものの理解が10本指で格段にディメンションが広がり、自分の中での革命でした。

中井正子校訂版

自己流だとどうしてもうまくいかない所があり、例えばメヌエットの粋な装飾音符のようなものですね、譜面で見ると何でもないようなものが、なぜか何度練習してもだめでした。上級者に伺うとラヴェルは難しいですよと、自己流は無謀だという。野球も大学受験もゴルフも自己流で押し切ったのですが、ピアノには歯が立たなかったわけです。ハノンをざっとさらったぐらいで甘かった。そこで参考書としてこの中井正子版を10年ほど前に買い、運指を学んで少しは解決しました。まあ参考書を買っただけで独学は変わってないわけですが・・・。

僕の場合、他人の前で演奏して自己主張したいという顕示欲はなくて、あくまで作曲家研究の素材として楽曲に触れてみたいというだけです。それで発見することがあまりにたくさんあることを知ったからです。むしろ弾かないとわからない。交響曲でもオペラでもです。

フォルレーヌは形式も5つの主題が並列して出るだけで構成にも主題の音程やリズムの骨格においても論理性はなしです。彼の音楽は感覚的でドイツ人の脳みそから出るものとはおよそかけ離れています。しかし、素晴らしい和声の発明の前に理屈は無用。ドビッシーも和声の化学の大家ですがラヴェルは彼オンリーワンの絶対的な魅力で君臨します。

フォルレーヌの構造を分解してみます。主題をABCDEとすると全体は

AA’A”AA’A”ABB’BB’BACC’CAA’A”ADD’DEE’A

となります。Aの楽節は優雅な舞曲のリズムなのですが和声が難渋、奇怪で、ヴァイオリン・ソナタにも見られるラヴェル特有のシニシズムを感じます。B楽節は一転して禁欲的でアルカイックな宮廷円舞です。実に美しい。やや変容したAをはさんで現れるC楽節はプリマの高貴なヴァリアシオン。全曲の華です。D楽節は宴の終わりが近いことを告げる壮麗なファンファーレ、E楽節はシニカルなふらつき、よろめき、そしてAの断片による短いコーダとなります。

僕はA”の部分(楽譜1)に強い思い入れを持っております。心の中で類のない化学反応が起きるからです。ここです。

音で確認しましょう。22秒からこの楽譜です。

丸印の2つの和音!G#m→G7(e)、F#m→F7(d)なのですが、誰しもの予想を大きく裏切る音ですね。この2つは聴いた当初から強烈なインパクトがありました。しかも下に密集して濁りがあり長7度の濁りもあり、それらがなにやら発酵食品のようで美味に感じ陶酔を誘うのです。何度弾いても魅せられます。

さらに予想の裏切りという点であまりに特異なので想像があらぬ所に飛びます。以前に量子力学の入門書を読んでいて「原子核のまわりの電子は光が当たると瞬時に位置を変える」とありましたが、それを目撃した感じがする。G7(e)、F7(d)が鳴った瞬間、奇術のようにぱっと風景の色が変わるのです。

もう一度楽曲の構造をご覧ください。

AA’A”AA’A”ABB’BB’BACC’CAA’A”ADD’DEE’A

青字は繰り返しです。Aが主要主題でA’、A”はその派生主題という具合です。副主題B、C、D、EはAとの関連はなく、各々がB’ C’ D’ と派生主題を持ちます。Aだけが2種の派生を持ち、楽譜1のA”は都合3回現れますからラヴェルはこの回り舞台のような楽節を重視して使っています。

2つの和音の音の混合(ブレンド具合)はピアニストのセンスの試金石です。ラヴェルの音づくりはピアノでもオケでもそういう箇所に神経が行き届いていないと、雑駁な甘さが支配する音楽になりかねません。気品と知性のないラヴェルはただのムード音楽です。

この2和音は同じ音程関係を長2度だけ下方に並行移動したものですが、ラヴェルは偏愛していて全く同じことが第1曲「プレリュード」でも行われます(楽譜2)。

音をどうぞ。1分28秒から楽譜の2小節目になります。同じメロデイが5小節目から下方に長2度平行移動してますね。

ここの2度目が僕は大好きで、なんだか幼い頃の郷愁のような切ない感じがする。和声はというとAm→G7(e)、Gm→F7(d)と、太字はフォルレーヌの箇所と同じことがわかります。自分はそれに感応してる。なぜだろう?まったくわかりませんが、これが和声の「化学変化」なのです。ドビッシーも「映像」を書いた時にその言葉を使っています。2人、それからメシアンにも随所にそれがあって、ドイツ人の音楽にはありません。フランスとドイツ。面白いもので、食事やワインにもそれと共通したものがあります。

ショパン弾きのイメージの強いアルトゥール・ルービンシュタイン(1887 – 1982)は幾つかラヴェルの録音を残しましたが、「クープランの墓」は「フォルレーヌ」だけを弾いています。寂しげなモノローグで始まりますが、A’ でバスの mf をきっかけに瞬く間に加速して感情が高まりあっと思います。ところが、次の A” に入る直前のほんの微妙な “間” ですぐ思い直して pp に戻り、高揚は抑えられ、また A の灰色で幽玄な世界に鎮まるのです。そんなことは楽譜に書いてないのですが、こういう深い「読み」ができるからルービンシュタインはルービンシュタインだったのです。ここで効いてる G7(e)、F7(d) をじっくり味わっていただけるでしょうか?書いてきたことがお分かりいただけるのではと思います。

C楽節はひっそりと清楚に淡々と進みますが和声の感情に合わせたテンポ・ルバートが絶妙で、感じている。彼はラヴェルの和声の求めるものをテンポとタッチで見事に具現します。そして、ここでまたやってくる A” は1度目よりさらにテンポをぐっと落とすのです。何という細やかさ!実に素晴らしい。これほどに A” の和声の薬味を効かせ、抜群の効果(薬効)を醸し出した演奏は他に聴いたことがありません。D楽節もファンファーレは控えめで無用に騒がず、E楽節の直前のルバートは大きめにとっていますがEのふらつきは控えめである。いっさい気品を失わずにシニカルなほろ苦さを後味として残し、静かに曲を閉じます。何というセンスの良さだろう、究極のオトナのラヴェルです。

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ジョージ・フロイド事件

2020 JUN 2 13:13:36 pm by 東 賢太郎

ドイツにいたころ、チャイコフスキーの音楽というとどうもあんまり上等と思われてない気がした。部下の通にきいてみるとやっぱりそのようだ。もっと言えば、ショパンやグリーグもだめなのだ。彼はバイエルン人で年上だ。「そうかなあ、R・シュトラウスよりいいと思うよ」などというと真っ向から否定されてしまう。彼とはミュンヘンに出張してバイエルン放送響でベートーベンのコンチェルトをきいた(チョン・キョン・ファだ)。素晴らしい演奏だった。「韓国人はいいのか?」と聞いたら、「なに、彼女、日本人じゃないの?」ときた。演奏家はいいよと取ってつけたが、そのころ、博士号を持って日本企業に勤めるインテリでも東洋人の認識はそんなものだった。

ドイツ人が音楽で覇権主義なのは仕方ないと思う。自分もそうだし。イタリア、フランスは別種であり存在ぐらいは認めるがスペイン、ポルトガルは未開地、東欧は格下の親類と思ってる。ロシアや北欧は辺境であって英米などは最果ての地で無きに等しい。クラシックに浸かっていたからこういう差別的世界観は元からあったが、ドイツで彼と意気投合してさらに鉄壁となってしまったから後でずいぶん困った。というのは米国でMBAを取ったインベストメント・バンカーにとって、世界はその真逆であって英米以外は辺境の未開国だ。ユニバーサル・バンク方式という銀行支配型のドイツの田舎くさい金融など前世紀の遺物であった。野村のなかでドイツ人の言うことなど通る風土はかけらもない。文化と言えばきこえはいいし、根はたしかに文化にあることはあるのだが、人種差別とはこうやって知らず知らず心に巣食ってくるものなのだ。

アメリカにいたときは、通りにたむろしてる黒人の下衆で薄汚い奴らがあからさまに東洋人を差別してきた。体格は立派で運動能力もありそうでそれを誇るのは一理あるのだが、字も読めないどうしようもない、目があえば恐喝の危険を感じるようなグレた連中だ。イギリスもロンドンのソーホーやピカデリーあたりに怪しげな黒人はいたが、ニューヨークやフィラデルフィアで見慣れてるものだから顔が温和に見えた。僕は白人の大学に行き、ウォール街やシティの仕事をしたから目だけでなく頭も白人に感化されているに違いない。だから香港に着任した時にえも言えぬ都落ち感があった。そのフィーリングは誰にも説明できないし言葉にもならない。ドイツやスイスの何倍も大きい現法のトップで一応は出世なのに心に巣食ってしまったものが剥がれるには2年ほどかかった。

アフリカ系米国人のジョージ・フロイド氏がミネアポリスの路上で警官に殺害された動画は、僕の中にある様々なものをえぐり出した。まだ「あれ」があるのか・・・オバマの8年は何だったのか?「あれ」とは40年ほど前にマンハッタンで目撃した黒人青年の射殺死体だ。まだ息があったが救急車が来たときはもう遅く、あとに血の海が残った。映画で見るマフィアの銃撃戦がアメリカでそうそうあるわけではないが、気持ち的には日本人に理解できないほど身近で、シリコンバレーで会った男など「俺はガードが固い、金庫に銃が40丁ある」が自慢だった。その彼が丸腰で夜の街に出てロスでホールドアップを食らった話が仲間のジョークのネタになっていた。刑事コロンボで犯人の女が計略を練っていとも簡単に浮気者の亭主を撃ち殺したりするが、それがお茶の間のドラマだという点にアメリカを感じるようにならないとあの国のヤバさはわからない。

ジョージ・フロイド事件への抗議デモは各地の都市に凄まじいマグニチュードで飛び火して、5月30日のCNNを見ていたら、アトランタの、まさにそのCNN本社が襲撃されているシーンが実況中継され、夜間外出禁止令が放送中に施行時刻となったが誰も帰宅せず無視して警官隊とにらみ合っている。ニューヨークで暴徒が発生し6月1日にはついにホワイトハウス前で火の手が上がった。すでに大事件であるのに感度が悪い田舎者の日本のテレビはあんまりニュースにしない。与党も野党も東部も西部もない。トランプは連邦軍を出すと言いだしたが、選挙がまずいと思っていることだけは確実だ。香港の国家安全法批判をプロパガンダの目玉にする予定がお膝元でおんなじことになってしまったからだ。中国はざまあみろ、してやったりの声明を出しているが敵のオウンゴールで香港弾圧が正当化されるわけでもない。

1997年、米国の資本原理主義にどっぷりつかった頭で香港に赴任して、その主義に「超」がつくことを発見した驚きは忘れない。要はどちらも拝金主義なのだが、金鐘(アドミラルティ)にそびえる48階建ての遠東金融中心ビルのてかてかの金色にニューヨークでおなじみのトランプタワーを思い出し、あまりのあけすけな成金趣味に憎めないものさえあった。僕の赴任は1997年12月でパッテン総督が香港を返還して船で去ってから5か月後だ。最初の半年、あれほどに、すがすがしいほどピュアな自由主義、資本主義の息吹を僕はアメリカですら感じたことはない。低福祉、低課税。自己責任で生きろ、能力あるものは好きなだけ稼げという国である。持てる者に過剰な嫉妬もしない。お札が象徴的だ。米ドルのリザーブで発券される「HSBC」「スタンダード・チャータード銀行」「中国銀行」の3種類の同額紙幣の存在は有名だが、日本人の感覚で言うなら日銀券の威厳にほど遠く、偽造できそうだなあと思う程やっぱり軽い。英独スイスで感じたことのない軽さ。これに唯一匹敵するのは北朝鮮がせっせと偽造している米ドルだけだ。

香港人はエスニックには中国人だが、そういうことに鑑みるに、東洋人ではあっても日本人よりは遥かにアメリカ人に近い。巷の人の英語はヘタで語彙も少ないがそこそこ通じるし、立派と思うのは誰も何の抵抗もなく臆面もなくしゃべることだ。そうしないと食えないからだ。会社では社員はフレッドだシンシアだと好き勝手な英語のファーストネームを名乗り、こっちも経理部のスーザン、人事部長のフランクだなどときっちり認識している。社長が実は社員の中国名(漢字)を知らない、なんともこのポップな軽さもアメリカンっぽい。会食で使う店はみな一流だがサービス精神は誠に乏しく、給与が安いのもあるのだろうが、なにより料理が美味であればそれでいいではないかという割り切りだろう、華僑の大御所である顧客たちがサービスに文句を言ったのを見たことがない。「江蘇省・浙江省同郷會」の50がらみの給仕長だけは例外でいつも愛想がよかったが、それはチップのせいというより僕がそこの剥き海老と上海蟹が好物で真剣に世界一であると褒めた美学的な理由からだろう。

かように、香港では老若男女、職業、貧富を問わず差別というものを明白には感じたことがない。入国管理の法務局と監督官庁であるFSA(金融庁)の役人だけは偉そうだったがそれは差別ではなく役所というものの世界的特性だ。白人というと歴史の成り行きから英国人が多いが、本国でのように高飛車でない。というより当時は香港に来る階層というのはまずアッパーでもピカピカのエリートでもなく、こう書いては悪いが流れ者っぽいアジア好きか出稼ぎ感覚の連中だった。前者は結婚して土着する者も多く、もとより差別感情はない。香港は阿片戦争で英国人が暴力と麻薬で強奪した租借地だが、借款で期限切れになると延長はなく、金の卵を手中に収めようと画策する中国にすげなく追い出されたわけだ。一国二制度はその時のおためごかしの言葉だが、当時から、きわめて嘘っぽく響いており、いずれ牙をむくぞと華僑たちは警戒していた。

香港のエリート層は誇り高い。自由主義で能力を発揮して富豪に昇りつめた自負、自信にあふれた人ばかりで僕自身もああなりたいという気持をかきたてられたほどの熱量だった。もともと中国から逃避した者たちであり中共のヘゲモニーに服する気などかけらもないだろうし、台湾の商人と同じく中国を利用して儲けられるなら服したふりぐらいはするだろう。ただ、一国一制度になった瞬間に香港は香港でなくなるから中国全体の利益にはならない。香港は全体の一部分にならないゆえの「軽さ」(フレキシビリティ)が発展の原動力で、それは米国の資本主義に近いがより軽やかで独特なものである。それが能力はあるが母国では上の階級に抑えられて開花できない層を魅了してきた。その点も、欧州からメイフラワー号で流れてきた移民の国アメリカと気質が共通する要因だろうと思う。

中共がかぶせる国家安全法なる網は権力による差別である。若者が反対するのは必然だ。中国に足場のない彼らの未来がなくなってしまうからだ。ジョージ・フロイド事件とは発端は異なるものの、国家権力による弱者の蹂躙、差別への反駁デモという結果は同じである。両国の暴動をひとくくりにしてコロナに結びつけるのは短絡的かもしれないが、それでも、世界中で社会に個人に鬱積したコロナ・ストレスが何かの形で爆発するのではないかという社会学者の予測は各国にある。デモ隊が三密を気にする様子はなく、正義を求めてそれに参加することはコロナの呪縛を解きはらってくれる精神的大義になっているかもしれない。貧困と飢えとストレス。コロナでたまったマグマがナショナリズム、ひいては人心に根深く燻っていた差別感情に火をつけ暴動、戦争につながるリスクは常に覚悟しなければいけない。

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ブルーインパルス

2020 MAY 29 21:21:28 pm by 東 賢太郎

北から迫ってきてヘアピンカーブぐるっと旋回してまた北へ向かう。

速い。カッコよかった。

なぜか今日は母が亡くなって3年目、そういえばあの日もこんな雲がかかってたっけ。

夕方、元気をもらって川まで走って子供と何年ぶりかのキャッチボール。意外に伸び健在。70でもいけるか。

夜のニュース。医療従事者のみなさまの輝くような笑顔、笑顔。ありがとう、いい一日でした。

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無観客のケンぺ指揮チャイコフスキー5番

2020 MAY 26 11:11:35 am by 東 賢太郎

この演奏は一度ブログにしてます(ケンペのチャイコフスキー5番)。同じCDを扱うのは、先日聴きなおしてさらに思うところがあったからです。

これをFM放送できいたのは45年も前ですが、第4楽章のティンパニを強打した頑強な骨組みの音楽に魅入られ、一音も逃すまいとスピーカーににじり寄って聴いたのです。その場面を、ティンパニは右チャンネルから聴こえていたことを含めてはっきりと覚えていて、勿論、その日のその前後の記憶などまったくないのですから余程の衝撃だったのでしょう。

それまでもっぱら聴いていたオーマンディー(CBS)のレコードはいま聴いても素晴らしいもので後に同曲の実演も接したのですが、あれはアメリカの音、こっちがドイツの音と、非常にプリミティブではありましたが、僕の中に仕分けの箱ができたという意味で自分史の重大事件でした。前稿は2013~4年、会社の存続が大変な時期でそこで偶然うまくいったから今がありますが、精神史として読み返すと痛々しくもあります。

さてFMで衝撃を受けて忘れられなかったケンぺの5番ですが、放送録音らしく正規盤が見つかりませんでした。仕方なく翌年にEMIの正規録音であるBPO盤を買いましたがどうも熱量が足りず、悪くはない(1つ星を付けてる)のですがどうしてもそれが忘れられずにいました。以来ずっと海賊盤を探し続けていて、ついに2002年に石丸電気でそれと思われるCDを発見した喜びがひとしおだったのはご想像いただけるでしょうか。これです。

今回、6年前執筆時よりは僕の精神も安定しているのでしょう、感慨を新たにしました。なんてドイツドイツしてるんだろう!これをアップしたらすぐ外国の方が「(この演奏を)ソ連のオケと思ってました」とコメントをくれましたが、自分も前稿でナチスの行進もかくやと書いております。さように両端楽章で主題を威風堂々奏するところ、トランペットの鳴り具合とティンパニの迫力はそれがチャイコフスキーの書いた最も「自己肯定的」な音楽であることを知覚させます。ロマンと陶酔でムード音楽のようにあっけらかんとした快楽主義の5番が横溢する中で、ケンぺの解釈は強烈な存在感を主張します。

後に彼はこの曲に否定的な評価をして見せるようになりましたが、4番で分裂症的になり、5番で立ち直り、6番で破綻した。各々に白鳥の湖、眠れる森の美女、くるみ割り人形が呼応している様は彼の精神史そのものです。否定的だったのは「実は俺は立ち直っていない、ふりだけだ」という自己嫌悪の現れだったように思います。私見ではチャイコフスキーにはドッペルゲンガーの側面があると考えています。その段に至った彼はケンぺの演奏を嫌ったかもしれませんが、書いたスコアは雄弁にこの解釈(男性的なもの)を志向しており、だから否定的姿勢をとるしかなかった。分裂的なのです。

それをカムフラージュするロマンへの逃避(女性的なもの)は同じく精神を病んだラフマニノフが踏襲しましたが、近年の演奏家の両者の楽曲解釈はというと、大衆の口にあう後者をリッチに描きエンディングで男性性を復帰させて盛り上げるという安直なポピュリズムの横行で、そちらに寄るならポップスでよしと若者はクラシックからますます遠ざかることを危惧するしかありません。ケンぺを絶対視するわけではありませんが、かくも剛直に自己のイズムを貫徹させる指揮者は本当に絶滅危惧種になりました。後述しますが、指揮者が絶対君主たりえない時代のリーダーシップの在り方の問題と同根でありましょう。ケンぺは僕が渡欧して接した歴史的演奏家たちのぎりぎりひと世代前であり残念でした。

Mov2のホルン・ソロの、レガートのない垢ぬけなさは録音当時世界を席巻していたカラヤンを否定してかかるが如しで、ケンぺの気骨を感じます。この委細妥協せぬ圧巻のユニークさは、それを聴いていただきたくてアップしたレオポルド・ルートヴィヒのくるみ割り人形組曲(同じオケ、66年録音)に匹敵するもので、こっちのホルンもとてもチャイコフスキーとは思えません。これです。

ケンぺ盤にあらためて発見するのは音色だけではありません。オケの内部を聴くと第2楽章はテンポが曲想ごとに動くのがスリリングでさえあります。ラフマニノフがP協2番の緩徐楽章に取り入れた出だしの弦合奏は森のように暗く深く、その陰鬱が支配しているのですが木管が明滅する第2主題は水の流れのようで木霊が飛び交うよう。爆発に至るエネルギーの溜めが大きく、リタルダンドして頂点でティンパニの一撃を伴ってバーンと行く様はクラシック音楽がカタルシスを解消し人を感動させる摂理の奥儀を見せてくれます。

意外にアンサンブルが乱れるところもあります。VnよりVc、Cbが微妙に先走って低弦が自発的な衝動で速めたように聴こえ、メロディーは何事もなかったように即座に反応してそっちに揃うわけですが、棒が許容した自発性にVnがついていかなかったのか弦楽合奏の中でこういうことはあまり遭遇したことがありません。第2楽章の全体としてのテンポの流動性はケンぺの指示に相違ないでしょうが、セクションのドライブに委ねる遊びがあって、それが奏者の共感するテンポへの自発性を誘発したかもしれません。何が理由かは知る由もなしですが、この演奏の内的なパッションは稀有なものです。それを呼び覚ましたのはこういう部分かもしれないとこの楽章をヘッドホンで聴きましたが、指揮者の棒がどちらだったのか興味ある瞬間でした。

ただ、そういう乱れはスタジオ録音では修正されますからこれはライブです。しかし客席の気配がない。想像になりますがゲネプロ(本番直前のいわば「無観客試合」)ではないでしょうか。にもかかわらず「低弦の自発的な衝動」のようなものが楽員のそこかしこにみなぎっている感じが生々しく伝わってくるのはライブであれ正規録音であれ極めて稀です。フィラデルフィア管の定期が大雪でほぼ無観客でやったチャイコフスキー4番の快演はそれに近いものでしたが(クラシック徒然草-ファイラデルフィアO.のチャイコフスキー4番-)、指揮者(ムーティ)も楽員も、交通手段が途絶えるなか万難を排して会場に来てくれた少数の客をエンターテインしようという気迫と集中力が観ていてわかるほどで、天下のフィラデルフィア管弦楽団が本気で燃えた一期一会の名演を生んだわけで、人間ドラマとしての演奏行為とは実に奥が深く面白いものです。

さように演奏者の自発性というのは大事です。その有無でコンサートの印象は大きく変わります。ウィーン・フィルが地元の作品をやる場合にそれを感じることが多くありますが、しかしこのオケが常時そうかというと否で、違う姿を何度も見て幻滅もしています。プロとして恥ずかしくない演奏を常にくりひろげてはくれますが、一次元ちがう「燃えた」演奏が極めて稀にあることを知ってしまうともうそれだけでは満足できない。人生、なかなか難儀なものです。

勝手流ウィーン・フィル考(3)

百人の人間の集団がリーダーに心服してついてくるか否かという深遠な問いについてここでは述べませんが、僕は経験的にそれにあまり肯定的ではなく、選挙にせよアンケート調査にせよ企業経営にせよ全会一致は疑念を持たれるほど異例でありましょう。プロの楽団は指揮者への心服の有無に何ら関わらず一定水準の演奏を仕上げられる実力があるから「プロ」なのであって、心服したアマチュアの演奏会の方が感動的という経験も何度かございます。今回聴きなおしたケンぺの5番はそれがプロの高い技術で提示されたものという印象であり、20才でたまたまラジオでこれを聴けたことは幸運でした。

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「のぞき劇場」のコメント欄について

2020 MAY 23 7:07:12 am by 東 賢太郎

5年前にこのブログを載せました。実は同じタイトルの記事をもう一度書こうと思っていま読みかえしてみたのです。すでに書いてあったのでやめました。

Yahoo,Googleのコメント欄はおもしろい

こう予言してあります。

Yahoo、Googleのコメント欄はますます書き込みが増え、なまじの弱小野党などよりずっと与党の政策に影響力を有する存在になっていくと思います。

既にそうなっていると感じます。

大きく変わったのは質的な面ですね、5年前はいかがわしいものが多いイメージでブログにするのもちょっと勇気が要ったのですが、今は実名で投稿される方も現れ質・量ともグレードアップしてます。ネットの発信力は格段に強くなっていると実感しましたし、皆さんステイホームですからネット依存が増えてますますそうなるでしょう。もうこれは後戻りがなく、ポスト・コロナの地殻変動の最大要因の一つにすらなると確信します。

時にマスコミが書けない事や内部告発的な情報がズバリ書いてあるし、一個一個は市井の偏見でもマス(総体)として俯瞰すると世論の傾向がわかるようになります。一個だと偏見でも多数になると政治になるのです。傾向を知って何の意味があるんだと思われましょうが、今の政治は完全にポピュリズムですから傾向にこそ敏感であり、だから意味があるのです。

ちなみに僕はYahooコメント欄に参加はいっさいしませんが、似た趣旨のものは自分のブログのコメント欄に書き足していきます。同じテーマで記事を書き足すよりも整理がつくし速いし、ご関心ある方にはオピニオンの推移がたどれるからです(基本的に僕はあんまり振れませんが)。最近増えたのは

のぞき劇場

です。アクセス数もトップです。

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ハイ・ファイ・セットの凄さ

2020 MAY 18 0:00:20 am by 東 賢太郎

一日ずっとピアノに向かっておりました。ハイ・ファイ・セット(以下、HFS)をひさしぶりに聞いて耳に残ってしまい、こうなるとどうしても弾いてみようとなる。ついでに荒井由実もカーペンターズも片っ端からやって、気がつくと夕食になっていたという塩梅です。

前稿のLP(最後から2曲目)に入ってる「真夜中の面影」(山本俊彦作曲)は名曲です。これが一番好きです。サビのところ、泣かせます。弾いてみるとコードは9thの連続で、メロディーラインはなんと9度、7度の音を歌ってる。

このまま歩いたら 君に出逢う前の 孤独なあの頃に戻ってしまうけど・・

僕は断然「歌詞より音」派なのですが荒井由実は女ごころの歌詞がときにひっからないこともない、これは男の歌です、ぐっときますねえ、こんなことあったよなあ、そこでG7で入ってくる(7thなのがすばらしい)彼女の声、

いい~の~

まいりました。よくないですね、戻ってます、僕なら。

ここはピアノでコーラスが完璧に再現できます。快感です。歌は男の地声のソロが素人っぽくて録音で作った感じはするものの、バスの大川茂はその市井の味が完全主義的な息苦しさを救って良かったりする。それがコーラスになると器楽的にビシッと音程が決まって完璧な “クラシック” になる。それが山本潤子。うまい。センス最高。声もそうだが、なにより、耳がいいんですね。

滝沢洋一の至高の名曲「メモランダム」はブログにしましたがアルバムバージョンがこれです。山本潤子の恐るべきアジリタで正確なピッチ、山本俊彦、大川茂の密集和音の見事なコーラスワークは芸術品の域である(音符を書いた滝沢が偉いということですが、それをリアライズする能力ということです)。これは耳のよい人でないとわからない、クラシックの方に味聴していただきたいです。

山本俊彦の曲で有名なのはCMになった「風の街」でしょう。1977年発表とは思えない新しさをお聴きください。なんて晴れやかにしてくれる音楽!心弾むリズム、抜群ににおしゃれな和声!永遠に残りますね、これは。

ところがHFSはCDを探してみると手に入りにくいのです。ポップスはファッションでもあって、「音楽」として聞かない層もあるから時と共に忘れられるのは仕方ないのですが、それ以前に、我が国には大人が音楽を楽しむ土壌がないですね。アメリカもイギリスもフランスも夫婦やカップルが夜にカクテルを楽しむような上質のエンターテインメントがあります。ショービジネスの客は大人であって子供は家で寝るのです。

J-ポップは今やとんだりはねたりで、観てる方もやってる方もガキだ。マイケル・ジャクソンの影響かなと思いますがジャクソン5は歌もうまかったのです。欧米のショーで日本みたいな素人並みの歌手というのは道化でもない限り見たことがありません。タレントもフツーの人が増えましたね、その同質感でステージと客席が一体で盛りあがる。一種の村祭りだなと思います。政治で言えば昔からの自民党支持層ですね、日本国はこの種族が数では圧倒的であって民主主義である以上は支配層だからどうもならない。

HFSやユーミンはお祭り用ではないですね。なお、これを都会派という人がいますが、都会である東京とて村祭り族の方が多いのです。そもそも当のHFSは大坂、奈良、三重の3人だから土地柄の問題じゃない。音楽のプロフェッショナリズムの問題であって、どこまで質を求めて追い込んで “音楽” を作っているかということです。聴く側からするなら、そのプロの仕事をじっくり楽しむクラシック型ポップスというべきです。となると日本では人口が少ないわけです。この種族は圧倒的に少数派ですし、3分以上じっと聞けない子供も無理だからです。

ピアノでじっくりとHFSの作品の魅力の秘密を探りました。書いたらたくさんになるのでやめます。陳腐になりますが荒井由実の影響が強いです(特に和声と倚音の使い方が)。しかし山本俊彦の独自の作曲センスもあるのです。HFSは昔からの一定の固定ファンがいますがほとんどが山本潤子ファンなんですね、旦那の方はwikiにもなってないし、そりゃないだろうと文句を言いたい。彼のコーラスワークの洗練ぶりは1978年のこのアルバム(第1曲・スウィング)で極致に達してます。

 

 

ハイ・ファイ・セット 「メモランダム」

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