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ベートーベン交響曲第8番の名演

2013 SEP 2 1:01:00 am by 東 賢太郎

8番は大交響曲である

8番というのは非常にオーラの強い曲である。演奏時間は9曲中最短で30分かからないのに、僕はこれをじっくり聴くとぐったりと疲れる。まずテンポが遅い楽章がない。そして半端でない強弱のコントラスト、アクロバティックな音の跳躍、リズムの錯綜、突飛な転調が耳を刺激しつづける。終わってみると、3番や5番の勝利感、6番の充足感、9番の高揚感のようなものはない。7番が人間の原始の本能を刺激する曲なら、それと同じぐらい、いやむしろもっと強いマグニチュードで、8番は理性をかきまわして刺激する曲だ。理屈っぽくて弁の立つ人と英語で丁々発止ディベートしたような感じだ。爽やかな疲労ではあるが、さあ寝ようという時にCDを取り出す曲のリストでは最下位を争う一曲だろう。

8番はボヘミアの温泉地テプリッツで着想されリンツで完成された。テプリッツでは尊敬するゲーテと会った。2人が連れだって散歩しているとオーストリア皇后・大公の一行と遭遇し、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。下衆のつっぱりだったようにも思えるが、ともあれ彼なりには貴族を上から目線で見るほど自由人としての誇りで意気軒昂だった。そういう時期に、誰からの依頼もなく書き上げたのがこの8番なのだ。

型破りなリズム、人を食った哄笑、間の抜けたオクターヴ音型、不意の3度転調・・・聴く者を煙に巻いて楽しんでいるとしか思えない。貴族がどうした?こんな音楽が作れるか?悔しかったらやってみーや。僕にはドヤ顔のベートーベンが見える。ウエリントンの勝利、7番、8番のベートーベンは明らかにハイ(躁状態)にある。劇場では大うけだ。おかげでもうかっている。意中の彼女も振り向いてくれるかもしれない。見たかい?皇后陛下が俺に道を譲るんだ。あのゲーテだって俺を認めている。だからといってああいう曲で俺が人気が出たなんて言われるのも不本意だ。俺の技がいかに切れてるか、見せつけておかんとよくないな。そう彼が思ったかどうかは知らない。でも、僕はそうだったように感じる。技が切れているという意味で、この曲は未曽有の領域に達している。30分足らずの曲だからこそ、その小宇宙のように美しく磨き抜かれた精緻な姿はどこか凄味さえ帯びている。小さな大交響曲なのだ。

注文のない寿司ネタ

誰からの依頼もなく書き上げた8番。注文してないのに出てくる寿司ネタを思い浮かべるのは不遜だろうか?最近行ってないが、前の家で僕が行きつけだった鮨屋のおやじは8席しかないカウンターで鮪(まぐろ)とウニばかり食うシロウトの客はもう来なくていいと思っていた。そんなのはどこで食ってもいっしょだ。高い金払ってウチに来ることないよと。だから「お客さん、ちょっとこれもつまんでみて下さい」、そうやって出した、江戸前のちょっとした仕事をしたネタやら穴子の雉焼きや小肌やギョクやらの味がわからなければもう結構という感じになる。商売なのに、自信とプライドがそうさせているのだろう。

ベートーベンにとって交響曲とは基本的には鮪やウニの系統のネタだったと思う。それがないとさすがに妙な鮨屋で客が来ないだろう。しかし、「あそこの握りは具が大きいね、ご飯がみえないよ」なんていう素人筋の恥ずかしい評判で繁盛するのも困る。さて何を握ろうか・・・?そこで登場した自信のネタが8番だ。僕はそう確信している。「この曲には1番にあったメヌエットが復活している。だから大作の7番を完成したベートーベンがひととき古典の精神に復帰したのだ。」とだいたいの解説書に書いてある。文科省お墨付きの模範答案だ。とんでもない。ベートーベンはお口直しにと沢庵を切って出すようなそんじょそこらの寿司屋ではない。

どうして「メヌエット」が復活したのか?

楽譜とじっくり向き合えばそういう解答は出てこない。読むこと自体が非常に難しい。リズムがピョンピョン拍節をまたいでいる。音型がゴツゴツ、ギクシャクしている。たちまち転調して調性がフラフラする。こっちの頭もクラクラする。第2楽章に「スケルツァンド」とあるが、メトロノームを模したといわれるこの楽章は特にお遊び精神が突出した軽い曲で本来のスケルツォではない。たぶんこれはハイドンの「時計」のパロディであって、あれを知っている聴衆はどっとわいたのではないか。それでは何故スケルツォがないのだろう?そして何故メヌエットが復活しているのだろう?

「スケルツォ」というものは諧謔曲(おふざけ音楽)という原意のイタリア語だ。Wikiによるとその主部は「舞踏的な性質」「歌謡的性質の排除」」「強拍と弱拍の位置の交代」「同一音型の執拗な繰り返し」「激しい感情表現」などが目立つそうだ。そしてそれらは頭から終わりまで8番という曲の個性、特徴そのものといえるではないか。僕はこういう仮説を持っている。

8番は全曲がスケルツォである!

そんなことを言った人は知る限り一人もいない。しかし、以下のように説明力がある。

①この曲の文科省お墨付きキャッチコピーその2は「横溢するユーモア精神」である。

この仮説によれば、それは当たり前ということになる。

②どうして「スケルツォ楽章」がないのか?

みかんの山にみかんを置いても意味がないからだ。

③どうしてメヌエットが復活したのか?

第3楽章に「メヌエット」とは書いてない。Tempo di Menuetto(メヌエットのテンポで)だ。全部がおふざけもまずい。ひとつぐらいはメヌエットの「ふり」をしろということだ。

その楽譜は普通でない場面に満ちあふれている。第1楽章提示部2番カッコのあと、ヴィオラが主音のドをオクターヴで繰り返す上にドミナントの和音が乗っかってしまう(CのうえにG7が乗る。長7度の不協和音が発生する)。再現部では全楽器が fff で鳴り渡る中、低弦とバスーンだけで主旋律を弾かされる。聞こえないのでワインガルトナーのように他の楽器の音量を落とすという不自然な操作をする指揮者が出てくる。第3楽章トリオでのどかで楽しげなホルンにクラリネットがからむ牧歌調の部分で、何の因果かチェロだけが2オクターヴにわたる難しい分散和音をひたすら弾かされ続ける。ハイキングでお弁当食べている親子の横で汗だくで腕立て伏せ百回もやっている人がいるようで、異様な風景だ。実演ではまるで「いじめ」である。

コケティッシュに変身する第3楽章

へミオラは書ききれない。3拍子のリズム分割はあらゆる順列組合せまで探求されるかのようで、何拍子なのか、強拍がどこにあるのか、よほど真剣に楽譜を追わないとまずわからないだろう。例えば第3楽章の出だしは下のように書かれている。最初がfで後はsfだから弱起とわかるが、素直に強起でタラタラタラ|タラタラで3拍目で旋律を開始すればよさそうなものを、何故こんな風に書いたのだろう?赤丸のところ、ここは僕が大好きなところなのだが、赤丸に至るフレーズは3小節がスラーで一括りになっておりヴァイオリンがひと弓で弾く。もっと正確に言おう。赤丸の前までの八分音符17個が一括り、18個目の赤丸の音符は弓を返す。17個のなかでの音符のくくりは3・3・4・2・2・3と不規則である。

beethoven sym8

この赤丸の弾き方が非常に重要であると僕は思っている。タララララ・・タータである。の直前のラをスタッカート気味に切り詰めて・タータをティンパニと一緒にアクセントをつけて歯切れよく弾ませるのがいい。この主題、始まりからして洗練されておらずけっして優美なものではない。ところがこの・タータをうまくやると不思議なことに、コケティッシュで可愛らしい女の子というかきりりとした粋な女性というか、一気に魅力を感じる旋律に生まれ変わる。こういう旋律を作るなど円熟と言わずしてなんだろう。

尋常でない第4楽章

第4楽章はなかでも別格的にすごい音楽である。コーダは第九の音がしている。楽章の約半分がコーダという異常なものであり、冒頭主題と第2主題が見事に展開し5番の「運命リズム」が支配する。和声の展開の尋常でなさは特筆もので、ここでの息つく間もない転調の嵐はベートーベンの全音楽中でも最高峰と言って過言でないと信じる。練習番号Hの嬰へ短調がティンパニを伴ってヘ長調になる様はいつ聴いても鳥肌が立つほどのインパクトだ。この楽章、姿かたちは似ていないが、5番の凝縮力を連想させるものがある。コーダの長大さ、終結の和音連打のしつこさもよく似ている。違うのは、5番が昔のスポコンものの主人公みたいにまじめで一途に一直線に盛り上がって勝利の凱歌をあげることだ。聴衆もブラヴォーでそれに加わってビールで乾杯というムードにひたれる。

ところが8番の方は、コーダで盛り上がると見せかけたsfの後に弦が突然pになって、木管とホルンの間で和音のキャッチボールなんかが始まってしまう。何がおきたんだ?聴衆はエアポケットに放り出されて宙に浮いた感じになる。そこから再度だんだんクレッシェンドしていって、f-fとオクターヴに調律されたよく響くティンパニが大暴れし、最後は5番なみにトニックの和音をこれでもかこれでもかと何度もたたきつけて曲を結ぶのだ。この時の気持ちはなんとも形容しがたい独特のものだ。タヌキに化かされたというか、引きずり回されて翻弄されたというか・・・・。ギーレン、ムーティ、アシュケナージ、ラザレフなどの指揮で実演を聴いたが、いい音楽を聴いたというジーンとする感動は不思議となかったように思う。

8番を好きか嫌いかといえば、だんぜん好きな部類だ。しかし感動しない。こんな曲はベートーベンに限らず2つとない。大交響曲というよりも謎の交響曲かもしれない。

 

ラファエル・クーベリック / クリーブランド管弦楽団

冒頭の主題提示からベートーベンを演奏するぞという気概に満ち満ちた素晴らしいエネルギーと緊張感に圧倒される。8番にクリーブランド管を選んだのは大正解だった。実はこのオケのシェフであったセルの演奏が磨きぬかれた名演であり、どちらを採るか相当悩んだ。セルにしなかったのは第1楽章再現部の低弦を目立たせるため減音すること、第3楽章が遅すぎること、ヴァイオリンが両翼配置でないこと、それだけの理由だ。それを気にしなければ非常に高度なオーケストラ演奏である。クーベリックはセルのトレーニングがあったからこの名演ができたはずだ。弦がすべてのプルトで鳴りきっている感じで、右から聴こえる第2ヴァイオリンが実に効いている。第1楽章再現部は無意識程度だがほんのわずかに減音がある。セルのパート譜の影響が残っていたのだろうか。ティンパニが見事にアクセントを入れているのもセルと同じ。結局なにかセルをほめてしまっているが、クーベリックならではの盤石なテンポと小粋な木管のセンスなど、9つのオケでの全集に一貫して流れる大河のような個性は非常にヨーロッパ的なものだ。セルが時として用いるホルンのやや過度な強調もなく、ドイツ保守本流にバックボーンのある立派なベートーベンを心ゆくまで味わうことのできる名盤である。これは僕のLPからのテイク。

 

 

ランツ・コンヴィチュニー / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

586(1)堂々たる出だしである。小さな交響曲でなく大交響曲の風格だ。重心の低い弦、くすんだ金管、そして古風に艶やかな木管の魅力的なこと。ゲヴァントハウス管はマズアの指揮でドイツで聴いたが、こういう傾向の音ではあったがこの録音での味わいが格別である気がする。特にクラリネットの芳醇な果実のような音色は絶品である。第1楽章はこの重量感あってこのテンポと思わせる。それは鈍重なものではなくベンツやジャガーのような2トン以上の車でアウトバーンを150kmぐらいで走っている快適さに近い。やや速いのだが、200km出る車の性能と重量からするとやや遅くて余裕があり、ちょうどいいスピードに感じるという性質のものだ。第3楽章のテンポは最高で例の・タータのセンスの良さはお見事である。コケティッシュと表現するしか術を知らない。トリオのチェロ、コントラバスも雄弁に目立っている。第4楽章はやや遅めだがすばらしいマッシブな響きでオケが良く弾けている。この難しい楽章はいい加減な部分がある演奏が多いのだ。人のぬくもりを感じさせる木管の何という素晴らしい音程!どこといって変わった部分はないのだが最高の満足感を与えてくれる演奏であり、8番を聴きたいときに取り出すことの多い1枚である。コンヴィチュニーの全集は現代にもはや求めることのできない古風な音色のドイツのオケが、非常に高い演奏水準で達成した金字塔であり、SACD化を強く求めたいものの最右翼である。

パブロ・カザルス/ マールボロ音楽祭管弦楽団

 

61SM0ANEXDL._SL500_AA300_

この第1楽章の速さは忘れ難い。付点音符の生き生きとしたはずみも最高だ。第2主題はテンポを落とすが緊張感は一切弛緩せず、運命動機を刻むオクターヴ音型の強靭さはこの演奏をしのぐものはない。まさに「こうでなくては!」とうならされる。第2楽章も速めであり、この楽章の生命線であるスタッカートとレガートの対比が鮮やかに決まっている。第3楽章はフレージングがレガートなのはいいがティンパニが抑え目でやや僕の好みではない。トリオの弦の内声部がきれいに鳴るなど、さすがカザルスという部分もあるのだが。第4楽章は中庸のテンポで入念に彫琢した音楽になっており、第2主題の優美な歌わせ方が印象的である。展開部の立体感のある彫りの深さもすばらしい。コーダはなぜかややテンポが落ちてそのまま終わる。このライブらしい即興性も魅力だろう。

 

 

エーリヒ・ラインスドルフ / ボストン交響楽団

51euq3TpQqL._SL500_AA300_ボストン・シンフォニーホールの素晴らしい音響に包まれて鳴る出だしを一聴した瞬間にこれはいい演奏だという予感が走る。はたして、最後までそれは裏切られることがない。ラインスドルフは3、4回アメリカで聴いた。日本では堅実な中堅というわけのわからない評価で終わってしまったが、20世紀を代表する名指揮者というのが欧米の評価だ。独特なギクシャクした身振りで春の祭典を振ったのをよく覚えているが、棒とオケの一体感が(そういうと当たり前に聞こえてしまうが)ある非常にプロフェッショナルな指揮ぶりだった。これは8番を聴くときに最も取り出す回数の多いCDのひとつである。第1楽章は立派の一言。再現部の減音はなくスコアのままだ。ベートーベン演奏に余計な浅知恵は論外だと思う。展開部の立体感とディナーミクの見事な対比もスコアが行間まで読み込まれた結果であり、この部分は最高の演奏だ。第2楽章はクラリネットのうまさが出色だ。第3楽章がやや落ちるのでこの順位になるが終楽章は盛り返す。トランペット、ティンパニの強打は表現主義的とすら感じるが、8番の骨格をこれだけ、えぐりだす指揮は迫力満点、速めのテンポは快適でオーケストラのうまさも拍手だ。コーダは加速して終わる。ラインスドルフの全集はすべてが非常に水準の高い名演であり、世界最高級のホールトーンに包まれたオケの音響は一級品である。

 

(補遺、3月19日)

ギュンター・ヴァント / NDR交響楽団

77793年にフランクフルトのアルテ・オーパーできいたこのコンビ、無駄のない筋肉質、質実剛健の音造りが際立った。聴衆に媚びること一切なく、スコアの奥底にある音楽を真摯に読み取ろうとすると感じたヴァントと楽員たちの姿勢は好感を持った。8番に演奏家の浅はかな解釈などどこに必要だろう?これを満足に音にするのは至難の業だ。そんなこと以前に指揮者の耳を含めて音符をちゃんと楽譜通り弾けているのかを心配すべき演奏がほとんどなのである。これは傾聴すべき数少ない例だ。

 

(補遺、3月29日)

パウル・クレツキ / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

51Qng0cbonLレガートな柔らかいフレージングでやや遅めの第1楽章。ワインガルトナー流に優美に聞こえるが、低弦のキザミなど強めの音圧でアンサンブルの土台を固めており、聴こえにくい中音域のヴィオラ、第2ヴァイオリンの細かい音型の息使いが生気を与えている。実に奥深い。それが体感できるのはプラハの芸術家の家という名ホールの音響が大きいのだが。素晴らしいのは第3楽章。テンポもフレージングも優美で、貴族的という言葉しか浮かばないほど。上掲楽譜の赤丸音符など、こうやらねば意味がない。余談だが、日本にあるプライベートバンクはみなナンチャッテだ。富裕層へのサービスは日本のサラリーマンじゃできない。だからシティもUBSも失敗だ。当たり前だ、カンバンが何であれサービスするのは彼らなんだから。この8番、そんなことを思い起こさせる。クレツキみたいな指揮はその辺の指揮者にはできない。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

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ベートーベン交響曲第9番の名演

 

 

 

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