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ブルックナー交響曲第7番ホ長調

2014 FEB 25 19:19:10 pm by 東 賢太郎

このところかなり精神的、体力的に疲れていて気持ちがロウになりがちで、体調の方も先週は咳が止まらなくなって参っていた。漢方をいただいて何とか収まったが・・・。

こういう時に僕には何が効くかというと、ブルックナーである。それも7番がいい。5番、8番はちょっと押し込まれて重い。9番は平静にはなるが気持ちが前に出ない。7番の泣きからの復活こそ波長が合うのだ。この曲とつき合って39年になるがそれはずっと変わらない。

ということで日曜日は7番の第2楽章とピアノで格闘することになった。これは素人にとって非常に難しい。格闘という言葉しかなく、後半は一人で弾くのはどう見ても無理。だからせいぜい提示部ぐらいだ。しかし出てくる音はあまりにすばらしい。下はワーグナーの死を予感したブルックナーにやってきた嬰ハ短調の弦の慟哭の主題のあと、ぱっと陽がさすように長調に転じて第2主題を用意するつなぎの部分だが、ここが僕は大好きだ。この部分の目が眩むような「和声の迷宮」の見事さはどうだろう!それがぎらぎらした感情ではなくどこか信仰心(そんなものは僕にはないが・・・)からくる安寧、諦観とでもいうような心の落ち着きをもたらす。疲れた頭を芯から癒してくれる気がするのである。

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下のModeratoからが第2主題だ。何といういい節だろう。これは彼が遺骸の頬にキスしたほどシューベルトを敬愛したという脈絡に位置するものと感じる。この美しさは筆舌に尽くし難い。天国への道はこんな感じなのかもしれないとさえ思う。

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このあたりを弾いていると、僕は本当に骨の髄までブルックナーが好きなんだと思う。2-3時間この楽譜と向き合って、もうほかの楽しみはいらないどうでもいいという境地に至ってしまった。音楽パワーさまさまの一日であった。

7番の第1楽章はブルックナーの書いた最も素晴らしい音楽の一つだろう。僕はブルックナーの音楽は宗教音楽と思っている。ヴァイオリンのトレモロに導かれるあのホルンとチェロのユニゾンの上昇。神的、霊的なものへの扉が開く。7番は精神が天へ向かっている。181小節のフルートソロのパッセージ、この部分の前後は見事にショスタコーヴィチの第5番第1楽章にエコーしている。ほぼパクリといってもいい。あの不可思議な空騒ぎで終わる交響曲の非常に感動的な第1楽章の静寂部分と第3楽章はブルックナーに負うものがあると考えている。終楽章を彼が負ったのはマーラーだ。

3つの主題があるが2番目の主題は驚くことにロ長調で入って2小節目からもうロ短調、ト長調、変ロ長調、ヘ長調、変イ長調・・・と小節ごとに調が万華鏡のように変わる。ドビッシーはフランクを転調機械と皮肉ったが、この平明な主題の気分の変化は機械的でも気まぐれな女心でもなく、微妙な天候の移ろいのようだ。最初の主題のホ長調からハ長調もそうだが、主題そのものに転調がビルト・インされているのは自然の生生流転、諸行無常というパーツでこのシンフォニーが構築されているということだ。そしてすばらしい終結部、高弦のトレモロとティンパニに伴われて第1主題が回帰する部分は宗教画の金色に輝く天空を思わせる。こういう音楽にヒューマンな要素、感情、快楽のようなものを表現したり聴こうとしたりということは僕の場合は一切ありえない。

第2楽章でハースが削除した打楽器は僕はあっていいのではないかと思っている。原典版(クレンペラーが使っている)がどこまで原典だったかということだ。ブルックナーはそれをするには禁欲的であったとする人もいるがワーグナー崇拝者でもあった。だからワーグナーチューバを借りてきているわけであり、トライアングルとシンバルの組み合わせはワーグナーがマイスタージンガー前奏曲で使っているが、あそこで2回鳴るシンバルの箇所からしてこの第2楽章の頂点(それはこの交響曲全体の頂点でもあるが)でそれを使うことに違和感は感じなかったのではないだろうか。それを弟子に指摘してほしかったという程度の禁欲はあったかもしれないが。

彼は1882年にバイロイトでワーグナーに会い、パルシファル初演を聴いた。ワーグナーは彼をベートーベンと比肩させるほど高く評価した。俗に「ブルックナー開始」と呼ばれる弦の密やかなトレモロは第九の冒頭に由来していると思われ、3人は一本の線でつながる。その翌年2月に彼はヴェニスで客死した。その報はブルックナーを打ちのめし、その結果が第2楽章の終わりのワーグナーチューバによる悲痛な4重奏として刻印された。このシンフォニーにヒューマンなものが混じっているのがこの楽章で、難しい。それがもろに表に出てしまう演奏、クナッパーツブッシュやフルトヴェングラーのようなものは僕は好かない。レーグナーの粗暴な金管の音など酷いものだ。そういう無用な演奏家の「劇」は音楽の美しさを損なうだけだと思う。

第3楽章スケルツォは「悪魔的」がいいのかどうか。この楽章は最も早く書かれており6番の作曲が完了してから間もないころだ。1,2楽章の深みとはどうも乖離を感じてしまうのは僕だけだろうか。趣味の問題だが僕は主部にあまりトリオとの芝居がかったコントラストを着ける流儀は好かない。そんなことをしないでもトリオは十分に美しい。チェリビダッケのゆったりしたテンポによるどぎつさのない表現、トリオはさらに遅くというあのテンポを堪えきれないと感じる人は多いだろうが僕はあれぐらいでいいと思う。

第4楽章はこれも上昇音型である弦の喜びの主題で始まる。シューマンのラインの終楽章を思わせ好きだ。しかし、第4交響曲変ホ長調ほどではないにしても第1、2楽章にくらべて重みと内容のバランスをやや欠く印象は否めない。ジュピター音型に似た並びの第2主題には不思議な和音が付き、巡礼の隊列を見るような深い宗教的な気分が支配する。最後の審判を告げるような峻厳なトゥッティに続きワグナーチューバがジークフリートを思わせる和声を奏でるのが印象的だ。「喜び」「巡礼」「審判」が対位法で骨格を形成するのは5番の終楽章を思わせるが、特に出来の良い楽章とは思われない。

こうして書いていてわかったことだが、ブルックナーの音楽というのはいくら文字にしても満足な着地点がない気がする。全曲が複数の主題の対位法的な変遷と和声の迷宮の巣窟のようなものでまことに捉えどころがない。それは演奏についても同様で、各曲とも一個の小宇宙でありその総体を俯瞰した演奏でなくては説得力がない。しかし細部に磨きをかけた美音と演奏技術なくしては表しえない物も包含している困った存在だ。

7番のライブは海外ではいろいろ聴いたがフランクフルトのアルテ・オーパーでやったクルト・マズア指揮ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管は良かった。しかし何といっても最高だったのがチョン・ミュンフンがN響を振った2008年2月9日のAプロだ。あのオケの弦が最も美しく鳴った演奏の一つであり、この曲に一番感動させてくれた演奏の一つでもあった。

7番の録音は昔はカール・シューリヒトがハーグ・フィルを振ったものを好んで聴いていた。同じくシュトゥットガルト放送響を振ったもの、前回書いたハンス・ロスバウトのも好きだった。ただ最近それらは指揮の癖が気になってきて聴かない。とくに引っ越しをしてオーディオ装置を替えてからは音響というものがブルックナー鑑賞に不可欠と感じるようになったことも大きい。どうしても深々とした「良い音」で鳴ってくれないと物足りない。

 

ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

038これぞあのコンセルトヘボウの特等席の音である。僕はそれを思い出してどっぷりと浸りたい時にこの全集をよく取り出して聴く。ノヴァーク版としてまったく普通の良い演奏であり、強固な主張は聞こえずスコアの音化にまっすぐに奉仕するという姿勢で、それに充分の成果を上げている。この録音の頃にロンドンのプロムスで聴いた9番がまさにそういう名演であった。第2楽章の第2主題の彫琢が甘いなどアラを探せばある。しかしこのあらゆる点で高水準のコンセルトヘボウ管の演奏をこの美音で聴けていったい何の不足があるだろう。冒頭のホルン、チェロを聴いただけでもう納得である。この曲にストーリーを求めず、スコア、音符の美しさを愛でることのできる人にはお薦めである。

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

クレンペラー ブルックナークレンペラーの他のブルックナーはあまり聴かないがこの7番はいい。原典版によるこの録音は彼のこれも音楽の神髄だけを突いたモーツァルトのオペラ録音と同質の精神に基づいたものである。そうでもなければカソリックでない彼がこれを演奏する立脚点がないだろう。第1楽章の天へ向かう精神、第2楽章の祈りの表情、深々とした音の弦、第2主題のいぶし銀の歌など最高に素晴らしい。第3楽章は一転ワーグナーを思わせる起伏をつけるが端正である。終楽章も力ずくの場面がなく、静かな部分はマーラーの4番での彼に通じるものがある。スコアにないコーダの減速は賛同できないが彼の主張として許容しよう。総じて人間くささを排除して神的領域に踏み込もうかという演奏で、それには不可欠である音程の良さに彼が心血を注いだ観があるのは同じく作曲家であるブーレーズがストラヴィンスキーに臨んだ楽譜の読み方と通ずるものがあるように感じる。凄い耳の良さである。

 

セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

unnamed (50)7番の初演はライプツィッヒで行われたが、2か月後にミュンヘンで演奏され好評でありその指揮者ヘルマン・レヴィの勧めでワーグナーの庇護者であったバヴァリア王ルートヴィッヒ2世に献呈された。これはカソリックの音楽である。マーラーを振らなかったチェリがこのスコアをこう読んだというのはどこか納得がいく。「人間というファクターの排除」だ。全く賛成であり、音楽の自然と神秘の流れにいつまでも浸っていたい聴き手にとっては福音のような演奏である。カーチス音楽院で見たあの練習の流儀で磨き抜かれたオーケストラからしか発しようのない高純度の結晶のような音である。

 

ヘルベルト・ブロムシュテット /  ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

045(1)ACO以外にブルックナーを見事に表現できるオーケストラとして僕はウィーン・フィル(VPO)よりもDSKを買う。カラヤン、ベーム、ジュリーニといい演奏はあるがピッチの高いVPOの美質はブルックナーの禁欲性と合わない気がするのだ。このオーケストラでいえばヨッフムの全集があるがこの7番はやや構えた第1楽章のテンポなど特に好きになれない。それよりもハース版を使い飾り気のないこのブロムシュテットの方がいい。音はやや古いがしっかり再生すれば非常に美しいことがわかる。i-tuneで900円で買える。

 

エリアフ・インバル / フランクフルト放送交響楽団

zaP2_J1118920W都響との素晴らしい演奏もあるインバルのこのオケとのシリーズは彼の原点だ。97年にパリのサル・プレイエルで聴いたバルトーク弦チェレに彼の音造りの粋を見た。神は細部に宿るのだ。それを悟らせない悠久の流れがあるから気づきにくいが実に緻密で集中力に富んだ指揮であり、矛盾のようだがブルックナーを振ったブーレーズより余程ブーレーズ的である。この録音はスコアの重要な部分をたくさん教えてくれた、僕には記念碑的なものだ。

 

オイゲン・ヨッフム /  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

zaP2_G0019240W世評の高いEMIのDSK盤も見事な演奏だが、僕はまだ彼が老成していないこれが好きだ。BPOシェフのカラヤンが脂ののった64年の録音だが、12月というと彼はスカラ座でフレーニとの椿姫の上演が完全に失敗(カラスの呪い)した、そのころの間隙をぬった浮気返しの録音ということになる。そのせいか?オケは良く反応して集中力が高い。第2楽章の祈りの深さは出色であり、頂点の築き方も(シンバルはあるものの)劇的ポーズを感じさせない。

 

ブルックナーとオランダとの不思議な縁

 

 

 

 

 

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