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天才vsコンピューター

2013 APR 27 14:14:28 pm by 東 賢太郎

才能というのは、実績に先立って「ある」のではなく、実績をあげたから「あった」ということになる。「あの子は才能あるのに辞めちゃって惜しいわね」なんてことは断じて、ない。その子には才能なんてはじめからないのである。努力も才能のうちと言う。そんなことはない。努力はプロセスだ。実績が出たからプロセスにもスポットライトが当たったのだ。

どんな世界であれ、自力で長いこと飯を食ったら、それは実績だ。この「食える」というのが、重い。サラリーマン時代はわからなかったが、自営業者になって3年目の今、ずっしりと重たい。寄らば大樹、親方日の丸ではないところで「食う」。隙があれば「食われる」。病気になれば終わり。職業は何であれこれを10年やったら、できたら、本人がそう思おうがどうだろうが、客観的に「何かの才能があった」と認めるのになんらやぶさかではない。

この原則は、もちろんサラリーマンという職業にもあてはまる。長くできる人は宮仕えの才能があるのだ。ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズにはたぶんない才能だ。日本人は、江戸時代268年に形成された遺伝子だろうか、その才に長けた人が圧倒的に多い。そういう人生が楽しいかどうかは人生観の問題だ。そういう人が多いことがトータルで見た日本経済の底力となっていることが近年明らかになってきている。

さて、最近のことでいえば、ゴルフではジャンボ尾崎の66歳でのエージシュート、野球では広瀬の15打席連続出塁。尾崎は「努力」と言うが、同じものを世間は才能と言う。いや、このレベルの才能になると、「天才」という称号が与えられる。この天才と、非常に近似的な水準で本来使われるべき称号が「プロ」というものである。練習場のコーチはプロテスト合格者でもレッスンプロという。レッスンという形容詞がついてしまう。「プロ」とは、そのぐらい厳しい選別をくぐった者だけの呼称だ。

その「プロ」である棋士がコンピューターに1勝3敗1分けという衝撃的な事件がついに起きた。ドワンゴが主催する第2回電脳戦でのこと。4月20日、羽生九段と並び現在最強棋士と言われる三浦弘行 八段がソフト「GPS将棋」相手に投了。1997年5月、IBMのスーパーコンピューター「ディープブルー」が、当時チェスの世界王者だったゲイリー・カスパロフを破ったが、それと同じことが将棋界でもおきたと言われている。

コンピューターという怪物が進化して人間を脅かしていると見る人もいる。「2001年宇宙の旅」が予言した世界へ向かっているのだろうか。コンピューターはこの20年、すでに多くの領域でヒトに置き換わっている。これを便利な世の中になったと考えるか、失業が増えると憂慮するか。将棋界はこの負けで、ソフトから学び新しい棋風を自ら生み出す方向に進むと言われている。それが望ましい。「プロ」になるのにこんなに苦労した、コストがかかった、生活がかかっている、などという声が出るとしたら、そんなものはもともと「プロ」ではない。

日本という国は、例えばプロ野球の外国人枠や、最近ではTPPへの保護政策的な反対論など、そういう声が出やすい体質にある。外人が増えると日本人が締め出されるなら、日本人だけの野球のどこが「プロ」野球なのだろう。これも「江戸時代268年に形成された遺伝子」のなせる業であるなら、日本のプロはすべからくサラリーマンと同義語になる。ニッポン野球興業(株)にでもして野球少年の安定的就職先にしたらいい。

コンピューターの進化は、「環境変化」だと僕は思う。われわれ哺乳類は氷河期の飢餓、恐竜の興隆と死滅、ウイルスの攻撃など幾多の生死を決する環境と戦って今に至っている。樹上で捕食動物から逃れるだけの生活が、二足歩行と火の利用で地上生活に変わり、生態系ばかりか言葉や知能の進化も促したように、コンピューターはこれから人類の生態系と知能に100年単位で大きな影響を及ぼすに違いない。将棋界の「天才」の敗北は、歴史が今、その不断の過程にあるに違いないことを垣間見させてくれているに過ぎない。これに対して「鎖国」で逃げるようなら、日本国の未来は、ない。

 

Categories:______世相に思う, 徒然に, 若者に教えたいこと

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