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失われた20年とは何だったか(奪った者編・1)

2013 SEP 9 21:21:59 pm by 東 賢太郎

僕が欧米、香港で働いた16年は、前半の1982-1990年が表題の「失われた20年」のすぐ前、後半の1992-2000年がその20年の入り口あたりにほぼ相当する。そして前半は「バブルの上り坂」。後半は「下り坂」であったことも見事なコントラストだ。野村證券は、80~90年代にアウエー(海外)で欧米のインベストメントバンクと真っ向から真剣勝負して勝った経験のある唯一の本邦金融機関である。不遜に聞こえて申し訳ないが、「唯一の」である。これは当の野村の国内部門上がりの役職員ですらよくは知らないはずだ。今の社長もおそらく知らないだろう。

この間に見聞きしたしたことで本が書ける。どうして野村がそのまま走れなかったかも理由がある。しかし、そこは仁義を守る。ゴールドマン・サックス(以下GS)について書く。同社の台頭は90年代にはじまる。80年代、日本株関連業務において米国はほとんどプレゼンスがなかった。我が野村ロンドンは、野村ニューヨークはおろかGSやモルガン・スタンレーなど米系証券会社を歯牙にもかけていなかったのである。それが変わりだしたのは、サッチャー政権の英国が官営企業を民営化しだしてからだ。

それは僕が日本にいた1990-92年の出来事だ。英国電力の民営化で野村は日本での引受主幹事となり、国際金融部コーポレートファイナンス課長だった僕の課が担当した。細かい話だが、日本で上場しない株を公募してはいけないというのが当時のルールだった。英国電力に東証上場の意思はない。英国のギネス民営化大臣は「それなら日本市場で販売してもらわなくて結構」と取りつく島もない。「日本が外されてもいいんですか?」、大蔵省を説得しルールを変えてもらった。これを適当に英語でPOWL(Public Offering Without Listing)と呼んだら、今はそれが立派な業界用語になっているらしい。世界の若手バンカーは知らないことだが、これは僕が作ったものだ。

この電力を含む英国の一連の民営化は、野村が国内で外国株を何百億円も売った初めての案件だった。ということは日本初だ。この直後91年にテルメックス(メキシコの国営通信業者)も民営化して僕はメキシコシティーにも行った。そうして雪崩のように世界の国営会社の民営化ブームとなったのだ。大英帝国の本丸がふみ切ったという影響は全ブリティッシュ・コモンウエルス諸国に波及した。87年の我が国のNTTのIPOはその先鞭だったわけで野村の主幹事としてのノウハウ蓄積は国際的にも評価されていた。しかし、外国株は野村も国内で売った実績がないですよ、日本の機関投資家は外国株を買わないですよ、と母国市場の弱みをうまくついたプレゼンをしてきたのがGSをはじめとする米系証券だった。

しかし米国の母国市場がそんなに立派だったわけではない。むしろ偉大な田舎だった。少なくとも当時は自国の株しか見ていない。しかし野球が自国だけでワールドシリーズになると平気でいう国だ。自国だけでワールドカップといわない英国人を信じたかったが、だめだった。米国市場なら外国株がたくさん売れますよ、というセールストークははっきり言うが嘘だ。それをGSはアナリストを集めてきれいにうまく売った。投資家も儲かった。だから二匹目のドジョウも売れる。結果オーライ、やったもん勝ちだ。これは我が業界においてはまぎれもない実力だから文句なし、あっぱれだ。

GSという名前がブランドになったのはこの一連の世界の民営化という1件で1000億円超の巨大株式引受案件を取りまくり、世界にそれを売りさばく「グローバル・オファリング」の実績をしたたかに積んだからである(ちなみに証券アナリストなる職業が生まれ、高額報酬を取ることが認知されたのはこのプロセスにおいてである)。そしてそれを各国にくまなく売るために、各国にリージョナル・リードという地元に強い支店長のような証券会社を置き、それを統括する社長に匹敵する「グローバル・コーディネーター」なるポストを自分で作った。もちろんそのポストこそ最も収益が得られるのであり、GSが常にそこに座ることを前提としている。そうやって未曾有の収益を上げる会社に成長したのだ。黒木亮の「トップレフト」という小説はロンドンでの銀行のシンジケート・ローンの争奪戦を描いているが、申し訳ないが、そんなものはエクイティの巨大ディールに比べれば収益は微々たるものだ。

この結果オーライは我が国までまきこんだ。NTT株式は6回に分けて放出されたが80年代の3回目までの主幹事は国内大手4社(野村、大和、日興、山一)だ。ところが99年の5回目はGS、ソロモン、ウォーバーグだけ。日系は全滅であった。この背景は前回の(2)に書いた「97年分岐点」にある。その年のダヴォス会議で「日本・猫マタギ」だったことを思い出していただきたい。元電電公社という日本の本丸企業を外資に奪われた衝撃は計り知れない。97年に震源地のスイスにおり、この99年には野村香港でアジア株ショックから立ち直りを図っていた僕にとって、これはいずれ来ると恐れていたミッドウェー敗戦の一報だった。日本国から「失われていたもの」はもう取り返しがつかないほど巨大だったのだ。

話はさかのぼるが、GSという会社には直に煮え湯を飲まされた経験がある。91年にあるアイルランドの会社のIPO引受主幹事になった。それもGSを蹴落としてグローバル・コーディネーターになってしまった。前述のように、これは社長ポストであってGSのためのものだ。それにとうとう黄色人種の野村がなってしまった。白人界には衝撃が走ったはずだ。90年に日本が時価総額世界一を奪ったことを思い出していただきたい。それ自体がすでに衝撃だった。そのうえにこの事件が起きたのである。日本人が日本株を売って外国株を買えば、野村の世界での引受パワーは最強になる。GSがそう考えなかったと信じるほうが難しいというのが現場感覚である。

この頃、銀行界ではBIS基準8%の締め付けで邦銀の資金供給力を削ぎ、株や不動産に回る資金を根絶やしにする作戦が米欧の金融当局によって展開されていた。不動産担保価値が下がれば逆スパイラルで貸出し余力が細る、株価も下がる、という計算だ。その流れが前述のような証券の世界の勝ち負けと無縁と思っているのは、証券業務は株屋の仕事だと能天気に思っている本邦当局と銀行関係者だけだ。このアイルランド事件の起きた91年において、GSの上席パートナー兼共同会長のポストにあったのは、95年に米国財務長官に就任することになるロバート・ルービンだったのである。

驚くべきことに、このアイルランド案件は発行決議の前日にGSに、きわめて汚い手で巧妙に潰された。前代未聞、空前絶後と言っていい。専門的な話になるので詳述しないが、詐欺にひっかかったという気持であった。そのため、資金さえ入れば成長軌道に乗ったはずだったこの会社は資金調達のサイクルが大きく狂ってしまい、やがて倒産に追い込まれた。忸怩たる思いである。国内で営業店にこの株式を300億円も予約させていた僕は大変な目にあった。しかし、悔しいが法律違反でもない。仁義にもとるだけだ。国際金融の戦争というのは小説家が空想できる範疇をはるかに超えているものである。騙されたほうがウブなのであり、我々は敗戦を認めるしかなかった。

これ以来GSは僕の不倶戴天の敵となった。誤解なきよう書いておくが、それはGSという会社やその社員に恨みを持ったということではまったくない。星野仙一がONに打たれて巨人戦で燃えたのと同じことである。なかなかご恩返しのチャンスがなかったが、それは野村からみずほに移籍した2006年にとうとうやってきた。日本航空の1500億円の株式グローバル・オファリングである。グローバル・コーディネーターをめぐって野村、GS、みずほの三つ巴の血みどろの戦いとなった。野村、GSはその常連のつわもの、片や新参者のみずほは初体験だ。僕がこれに全証券人生をかけて戦ったことは言うまでもない。そして勝った。思いを遂げるチャンスを与えてくださったみずほ証券には感謝の言葉も浮かばない。金メダルだからもうそれ以上の仕事はできない。インベストメント・バンキング業務から身を引こうという気持になった。

 

失われた20年とは何だったか(奪った者編・2)

 

Categories:______世相に思う, 徒然に, 若者に教えたいこと

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