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失われた20年とは何だったか(失ったもの編)

2013 SEP 9 0:00:07 am by 東 賢太郎

1997年にダヴォス会議に出席した。その年のテーマは「IT社会の出現」と「アジアの台頭」だった。忘れもしないが、会場で驚くべきことがあった。アジアの台頭ということで日本はジャパンナイトだったか名称は忘れたが、豪華な日本食をふるまって日本がアジアのリーダーであることを世界に誇示しようと大会場を設けていた。ホスト役は緒方貞子さんだ。ところが30~40はあった晩餐の丸テーブルは見事にがらがらで10テーブルぐらいにしか人がおらず、それも黒い髪の主催者と日本人ばかり。どうやら隣の部屋のタイだったかマレーシアだったかが大盛況で、こっちはいわゆる「猫マタギ」状態だったことがわかった。緒方さんが途中で憤然と席を立って帰ってしまったのをよく覚えている。

ダヴォス会議のテーマは時流をよくとらえている。この97年の「IT社会の出現」と「アジアの台頭」も見事に予言的中した。しかし、何より当たっていたのはその後に顕著になる「世界の政治経済界による日本・猫マタギ」(ジャパン・パッシング)ではなかったか。失われたのが西室兄による表題の「20年」というのは、非常に適確な期間設定ではないかと思う。なぜなら、そうするとそれは1993年ごろスタートしていたことになる。外国にいたおかげで僕はそれを十分に肌で感じていたが、93年ごろからというのはいい線だ。そこから4年を経て、日本国が失っていたのは「世界の注目」だったというわけだ。

97年という年は世界の金融界が激変した年だ。ドイツ銀行の頭取が証券畑のブロイヤーさんになった。とてもいい方でフランクフルト時代に個人的にお世話になった。しかし頭取はないだろうという話だった。保守本流の商業銀行畑出身でないからだ。それがなった。僕がいたチューリッヒでも同様にUBS、クレディスイス、SBCの3大銀行で、それまでは亜流だったロンドン、ニューヨーク経験者が頭取になるという衝撃が走った。エリートコースだった商業銀行出身がアングロ・サクソン流の投資銀行出身に花道を譲ったわけだ。理由は簡単だ。世界の金融証券業はそうしなければ儲からない時流になっていたのである。

これと時を同じくして、欧州統一通貨「ユーロ」の準備は着々と進んでいた。欧州中央銀行がフランクフルトに設立され、翌年の98年12月31日に参加予定国の通貨はついにユーロとの為替レートが固定されたのである。中央銀行は全商業銀行の元締めである。それが結束した。このころ海の向こうで橋本内閣が日銀法を改正して中央銀行の独立性を謳ったのも偶然とは思えない。BIS基準による締付けに始まり日本の銀行は過大融資の息の根を止められたが、国内では住専問題に痛めつけられ、このころはジャパン・プレミアムという上乗せ金利でさらに海外で徹底的にいじめられていた。

すべては97年。アメリカが世界の金融市場に勝利をおさめ、ユダヤ資本でない世界で2つしかない金融市場、日本とスイスを叩き潰したのだ。その年、山一証券、三洋証券が消え、銀行も長銀、日債銀、拓銀が消え、残ったのも数年のうちに合従連衡が雪崩のように起こって、当時の名前のものは地銀を除いて見事になくなってしまった。金融に端を発した激震は2000年代に他の業界にも伝わる。エリートであるほどこういう激震には弱い。プライドは砕け、人生の目標も見えにくくなる。「喪失感」の一部はこういうキャリア問題からきているだろう。

しかしお金の問題に比べればプライド問題など小さいだろう。バブルは人間の将来予測を強気にする。よって消費は前倒し傾向になるが、人生最大の消費アイテムは家だ。勢いで建てた家のローンは大きいまま減らず、景気は後退して年収は減る。買った家の値段は下がり続ける。投資用マンションも同様だし、ゴルフ会員券は紙くず同然の値段だ。自分のバランスシートが不良債権だらけに見えてくるなど精神衛生上きわめてよろしくない。当然、可処分所得は激減してエンゲル係数は急増し、バブル期の消費生活が夢だった気がしてくる。「喪失感」の大部分はここからきているかもしれない。

 

失われた20年とは何だったか(奪った者編・1)

 

 

 

Categories:______世相に思う, 徒然に, 若者に教えたいこと

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