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誰が偽ベートーベンを作ったのか?

2014 FEB 11 18:18:11 pm by 東 賢太郎

世の中は何を怒っているんだろう?ここの本質がつかめないでいる。

問題は「世を欺いたこと」であるように見える。「欺いた者」は法律が裁ける場合がある。「偽って障害者手帳を入手したら身体障害者福祉法違反。公金をだまし取ったら詐欺」、「『佐村河内さんの作曲でなければ、CDを買わなかった』『誰かに作らせたものだったら、コンサートに行かなかった』と主張すれば、理屈のうえでは詐欺にあたる」が前者にいたる弁護士の見解だ。詐欺というのは詐欺罪のことであり、刑法246条にある刑事罰が科される。

では誰が誰を欺いたのだろう。「誰が」は佐村河内氏であるとされているが新垣氏もそう(共犯)かが論点だ。「誰を」は国、聴衆、消費者、関連した企業などだが、お金を「だまし取られた」ことが前提だ。もし詐欺罪が成立するならばだが、新垣氏は幇助(刑法62条)に思えるが本邦で適用例は少なく大半は共同正犯(同60条)として処理されるそうだ。すると(一見だが)氏には共同して詐欺を働く意志(故意)はなかったように見えるので共犯性は否定されることになるのだろう。氏の「私も共犯者です」という潔い自白はその効果とリスクを法曹と計算してのことかもしれない。

しかし新垣氏はある時期より佐村河内氏の詐欺行為(あくまで、もしも立件されればの話であるが)を知ったうえでだまし取った報酬の一部(彼がそれを何と呼ぼうと金額がいくらであろうと)を得ていたのであり、自ら認識していた詐欺行為を構成するに不可欠な楽曲の提供という行為を停止しないという故意はあったのであり、それでも「詐欺を働く意志(故意)はなかった」と証明できるのかどうか。それはやってしまった行為の是非の法的判断の問題であって、巷が主張している彼がどれほど嘱望される音楽家かピアノがうまいか生徒に慕われている先生かなどということとは何ら関係がない。ここは関心を持って注視したい。

次に、もしもそれが犯罪でなければ、それなのに世の中は何を怒っているんだろう?「世を欺いたこと」への負の報酬がどこにどう支払われているかを分析するのがそれを解明する本筋だろう。だが、世論というのは理屈でなく種々雑多な人々の喜怒哀楽、利害関係の総体でつかみどころがない。そこで、視点をなぜ佐村河内氏がベートーベンに祭りあがったかの一点に集約させることにする。そのことは、ゴーストがいたこと(作曲無能力者だった)、健常者だったこと(耳が聞こえた)に世論の怒りが集中している理由をも説明すると思うからである。

佐村河内氏を非難するキーワードは「偽ベートーベン」に落ち着いてきている。だからここに解明のキーがあるだろう。「偽」という不名誉な形容詞がつけられた理由は、「ベートーベンと信じた」⇒「裏切られた」という行為こそが仕返しをしたい対象であることを示している。ではなぜベートーベンと信じたのだろう?2つ要因がある。①耳が聞こえない②立派な曲を書いた、の2つである。しかし本当に2つだっただろうか?実は1つ、①だけではないか。ほとんどの人にとってはNHK、マスコミ、出版社、レコード会社、音楽家、音楽評論家が「立派な曲だ」とはやしたことに影響されて②があっただけだ。その証拠に交響曲ヒロシマは表舞台から抹殺されたが公然とプロテストする声はあがってこない。「悲しい」「被災者がお気の毒」「裏切られた気持ち」・・・のようなものだけだ。

ここでよく考えてみたい。クラシック音楽と呼ばれるジャンルにおいて価値のある音楽の譜面というものは、僕の見る限り人類の内でも最も高度な部類に属する知性を有する作曲家が、長時間を要する専門的な訓練によってしか絶対に取得できない特殊技術によってのみ初めて完成するものである。ところが巷はベートーベンは小川のほとりを散策しながら「ひらめいて」田園交響曲を作曲したと信じている。これはやはり巷で「数学はひらめきだ」と言われているのを連想させる。基礎の基礎である受験数学に限れば「ひらめき」は5%もないと思う。95%はパターン認識力と記憶力と計算力であり、訓練すれば誰でもできるが訓練していないと誰もできない。つまり、訓練を受けていない人がいくら「ひらめき」や「神の啓示」を得ても数学答案や管弦楽スコアというものは書けないのであり、受験数学もできない人が一般相対性理論を発見して「現代のアインシュタイン」とはやされることなど天地がひっくり返ってもあり得ないのである。

だから僕自身を含めて正規の音楽教育を受けていない人間が演奏に70分もかかる膨大な4管編成の管弦楽スコアをプロの三枝成彰をして「私がめざす音楽と共通するところを感じる」と評価せしめる水準で書けるなどと、当の三枝氏を含むどこの誰が真面目に信用していたのだろう。音楽評論家を含む「しろうと衆」が騙されたのは仕方ないだろう。プロが神輿を担いだのだから。つまり②「立派な曲を書いた」という判断は世論レベルでは積極的には存在しなかったのであり、ひとえに『①耳が聞こえない』に曲の価値判断も含むすべての判断基準が集約していたのである。仮に「ベートーベンが実は耳が聞こえていた」という事実が発見されても9曲の交響曲がCD屋の店頭から消えたりコンサートが取り止めになることはたぶんないだろう。それがヒロシマで起きるということは、ほとんどの人は曲ではなく全聾で書いたというストーリーに感動し金を払っていたということだ。

世の中は何を怒っているんだろう?

CDやチケットや本を買ったという実害のない人まで怒っている。それは自分がだまされたという不快感(認知的不協和)に対してだろう。次は現代のアインシュタインも信じてしまうかもしれないお人好しの自分に対してではない、不快感を与えた相手に対してである。これはヌードポスターを貼って女性が不快だと訴えただけで成立するセクハラというものに似ている。しかし、セクハラで訴えられている佐村河内氏は本当にポスターを貼った人なのだろうか?彼はポスターに写ってお気に入りのポーズをとっているモデルに過ぎないのではないのか。芸術的なポスターだとされていたヌードモデルが実はオカマでしたと暴露があり、不愉快だ撤去しろとなったのではないのか。そして、オカマと知りつつそれを貼った真犯人は他にいたのではないのか?誰が偽ベートーベンを作ったのか?

詐欺罪の真犯人はその連中に違いない。世の中はそれをつきとめ、それに怒り、糾弾しなくてはいけないのではないか。

新垣氏は、ここからの展開がどうであれ、ご自分の才能と音楽家を職業に選ばれた使命を自覚されて活躍していただきたいと思う。ヒロシマを聴いた聴衆側の事情や思いこみがどうであれ、また作曲動機がどうであれ、あの曲は70分を費やすに足る交響曲であると僕は思う。あのような一般受けする調性感のある部分を含む音楽を書くとご業界では「商業主義に手を染めた」と言われるそうだ。本物のベートーベンだってモーツァルトだって商業っ気丸出しだったのにどういう理屈で現在の作曲家はいけないのか理解に苦しむばかりだ。

僕は科学の世界で先人の書いた論文をなぞるような行為がいかに愚劣で恥ずかしく、研究者としての評価も地位も剥奪されかねないことをわかっているつもりだ。それと同じことが作曲の世界でも何百年にわたって存在し、そうして数えきれない作曲家と作品が歴史の闇に葬られたかも知っている。時代の先を行った作品が同時代人には無視され、後世が評価した例も知っている。そう予言はしなかったモーツァルト、予言したマーラーはそうなったが、同じく予言したレーガーはまだそうとはいえないことも知っている。もちろん彼らはお金や人気だけのために曲を書いていたわけではないだろう。

新垣氏のような才能が、作曲界では高評価を受け、一般社会では全聾ストーリーで評価を受け、そしてこの悲しい事件で歴史に名を留めるというのはどこかで何かが歪んでいないだろうか。ストーリーを求める聴衆にも問題があるが、内部の高評価が外部に伝播しない作曲界にも問題があるのではないだろうか。スポーツ界のオールスターを選ぶのに、「選手投票」と「ファン投票」で結果が大きく食い違うということは想像しがたいことだ。クラシック作曲界の選手投票がファン投票を全く無視して堕落のようにみなすならば、それはもはや日本国から独立した共産国家か秘密結社に近い性格のものだろう。

新垣氏は控えめで自己顕示欲の少ない人だという趣旨の記事を見たが、お金や地位や名声を求めないことが評価の重要項目となる業界でもあるのだろうか。そこまでいくとF1レーサーに安全運転を強いるような定義矛盾だ。自分の曲の鑑賞に他人の時間を費消させる作曲という行為が自己顕示以外の一体何であるのか後学のためにぜひ教えてほしいものだ。試験問題の解答を代筆する新垣氏の自己顕示欲がだんだん膨らんで、初めは中学生の答案にとどめるつもりが大学生から博士課程のになる衝動を抑えきれず、そんな事とは知らずに試験場で演技を無邪気に続ける小学生の姿とのあまりのギャップに真のプロである彼は恐れをなしたのだろう。

調性音楽を書いてまで商業主義に淫するなというプロのプライドには敬意を表するが、先人の論文である調性音楽や人口に膾炙する方法を使った瞬間にお手付きで失格、というほど音楽は科学と同列のものでもないだろうと考えるのは僕だけだろうか。新垣氏はプロの作曲家の良心に従って健全な自己顕示欲をこれから大いに発揮されればいいし、あれだけの仕事のクオリティにふさわしい経済的繁栄も手にする当然の権利がある。早く彼の交響曲第2番を聴いてみたいと願うのも僕だけではないだろう。1000人程度の同僚が堕落の烙印を押そうがどうしようが、1億人が1000年後まで聴いてくれる音楽を書いた人の方が偉い作曲家であることなど論じる必要すらない自明のことである。本当に良い音楽かどうかは音大の先生やコンクールの審査員ではなく歴史が決めることだ。歴史を動かすのは民衆なのである。

 

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