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オリンピックの変質

2014 MAR 1 14:14:15 pm by 東 賢太郎

いよいよ球春到来である。昨日メジャーのオープン戦のニュースを見ていたらNYヤンキースのベンチ前が映っていた。松井コーチ、イチロー、黒田、マー君。オリンピックなら金メダリスト級のひとたちの顔が4つ並ぶ壮観だ。ヤンキースもヤンキースだが、日本の野球のレベルもそれなりのものだ。松井を除く3人の年棒総額だけでざっくり50億円だろう。マー君の7年総額は1億5500万ドル(約160億円)だ。従業員が何百人もいる東証一部上場企業でそれより下の営業利益予想というのがごろごろある。それを一人でやってしまうのだから人智を超えたスーパーマンであることは疑いもない。

では同じくスーパーマンであるオリンピック代表選手はどうか。日本国に関する限りは出場してもメダリストになっても選手に大金が入るわけではない。ソチには113人の選手が出場したが、その世界で「生ける伝説」とまで称えられるジャンプの葛西紀明(41)はジャンプ競技の収入で生計を立てているわけではない。ソチで我々を楽しませてくれたほかの競技の選手たちもほとんどが恐らくそうだろう。

アマチュアだから当然だという声もあるかもしれない。しかしプロかアマかは選手の努力や技術の水準で決まるわけではなく、その競技が事業化して採算がとれるかどうかというぜんぜん別なところで決まっていることだ。オリンピックがプロの参加を許容したのは、事業化できている競技、つまり集客力がある競技の選手であるプロを出場させることが五輪の集客力にもなるという計算があろう。そして野球やアメフトが落とされてしまうのは、欧州のプライドとは別に、入れると五輪のアマチュア精神という錦の御旗が倒れかねないほど選手が桁外れな高額所得者でありその割に客の国籍は限られているということと無縁ではないのではないだろうか。

葛西のジャンプ技術と黒田(39)のスライダーと、能力や練習の苦労にそんなに差があるものなのだろうか。冷徹に資本主義的にいえば入試の倍率みたいなもので各スポーツの競技人口の多寡はパラメーターだろう。競技人口の多い野球で黒田以上のスライダーを投げる人はほとんどいないからきっと卓越したものだろうが、日本の男子の多くがジャンプをやれば葛西選手よりうまい人が出る可能性はある。しかし逆の視点でいえば、スキーが国技のような国の選手と戦って勝ったそうではない国の彼は個人としてさらに尊敬できるとも言えるかもしれない。葛西が与えてくれた感動と、生であまり見られない黒田の活躍と、日本人にとっていったいどっちに価値があるかということは年収で計れるものではない。

一方で、年収というプライスタグを選手につける人にはその人なりの理屈がある。客の入りが違う。黒田に毎年16億円払ってもペイするのだから誰も文句を言う筋合いではない。ではオリンピックはどうなのか。五輪という競技大会は参加することに意義があるといわれるが、巨大な集客マシーンであるという別な意義もある。誰のために誰の帳簿で行われて誰が金銭という配当を得ているのかは知らないが、少なくとも日本国は文科省を通して毎年25億円、つまり1大会につき100億円の金を日本国民の税金からJOCに支払っている。そこから葛西選手は名誉という、国民は感動という配当をもらったという理屈になる。

わが家は5人家族だから僕は500円ほどJOCに取られている勘定だ。それであの感動をいただけるならまあいいだろう、そうなるわけだ。たぶん世界中の多くの国の国民たちもそうやって納得している。参加国から上納金を巻き上げて「名誉」というお金のかからない配当をあげれば世界からタダで選手が集まるのだからIOCは俳優にギャラを払わなくていい映画プロダクション会社みたいなものだ。ブランドビジネスのお手本的存在だ。誰も損しないからオリンピックという仕組みは少なくとも経済的には支障は出ないということである。経済成長かくあるべし。うまいビジネスだが、どうもこれは何かに似ている気がする。

TV放映のない頃の五輪は国民にとって勝った負けたの結果を新聞で知るだけのものに近かっただろう。僕は戦後派だから想像だが、それは戦時中の南方戦線で敵機を何機撃墜というのと変わらなかったのではないか。五輪の戦果とはメダルの数と色以外の何ものでもない。敵地へ行ったが戦果なく引き返しましたというのはない。だからメダルの獲得にこそ国威発揚がかかっており国民の注目もそこ集中していたはずだ。選手の中にはメダルを取れなければ死んでお詫びをというほどの国家的使命感を背負う人がいたこともそう考えれば納得がいくだろう。

ところが昨今はどうだ。もう数大会も前で何の競技だったか忘れたが、僕は「よく頑張った、ニッポン堂々たる6位です!」と絶叫するアナウンサーに馬鹿かこいつはと本気で怒ってTVを消した。名誉の玉砕!というニュアンスではない。こんなに苦労したんです、その結果の6位なんです、皆さん暖かい拍手をという風に聞こえたのだ。結果がすべてだよ勝負はキミ、という冷徹な男性原理で育った僕にとって、「そうじゃないザマスのよ、うちの子はこんなに夜遅くまで勉強して泣きながら塾も行って可愛そうに熱まで出して。だから結果は6位でも立派なんザアマス」という女性原理は、少なくとも勝負という場面だけでいいからお願いだからひっこんでいてほしいという性質のものである。

ところがだ。そんな古いかもしれない僕が、今回はメダルを逃した女の子に賛辞を贈るブログまで書いてしまうようになっている。トシのせいじゃない。目に見えない何かが変わっているのだ。頑固者である僕のザアマス・アレルギーは微塵も緩和されていない。ということは、オリンピックというTVとマスコミとネットでしか見ることも感じることもできない「場面」「劇場」において、なにかが決定的に変質しているのだ。僕も視聴者のひとりにすぎないからその術中にはまっているのだ。

競技というのは五輪経営の「コンテンツ化」している。経営者にとってコンテンツの優劣とは集客力と完全に同義だ。誰が勝とうが涙を流そうが中味はどうでもいい。客が喜ぶなら不公平でもルールは平気で変える。客が感動がないと怒ったらそれはその国の選手が悪いのだ。IOCの知ったことでない。JOCクン、もっと頑張ってねでおしまい。そうして、それがネット社会化の潮流の中で、コストの安いコンテンツの在庫を増やしてメディアに「大人買い」させようという方向に拍車がかかる。えっ?そんなのオリンピックでやるの?という競技はもっと増えるだろう。そのうち犬ぞりレースなんかが出てきて、メダルは犬の国籍か乗り手の国籍かでもめることにならないか心配している。

競技の本質からは極めておかしな話だが、女子フィギュア個人の金メダリストの名前(僕は忘れた)より真央ちゃんの涙の方がロシアを除く世界の記憶には残ったのではないだろうか。メダルを逃しても懸命の笑顔をみせてくれた上村愛子に責任を問う声がどこにあっただろう。僕の場合でいえば判定基準がよくわからないので「競技の本質」にはすっかり白けてしまっていたのが実情だ。とんでもないくそボールを「ストライ~ク、三振!」といわれても健気にしているバッターを応援している気持ちだから「バンクーバー朝日軍」を応援してくれたカナダ人とおんなじ。真央ちゃんのあれはもうメダルに関係ない消化試合で起こった感動物語だ。だからメダルが軽くなったとまでは言わないものの「メダルよりストーリー」という顕著なケースが出てきたのが今回のソチの特徴だったように思う。

そういえば東京マラソンをTVで見ていたら、「ゴールしたら結婚届を役所に出す」と宣言して無事に完走した男性がずいぶん長いこと放送されていた。アスリートのスポーツそのものよりもシロウトのストーリーの方が今や売り物になるようだ。マスコミの集客原理はスポーツを単なるコンテンツにおとしめる。その原理が各界を見さかいなく蹂躙しているおぞましい様は転移した癌細胞を連想する。ポピュリズムに淫した政治家が政策をコンテンツ化しているのもしかりである。NHKの大河ドラマは誰が出るかが大事で題材は二の次という有様で、おちぶれた紅白歌合戦ともはや同工異曲の番組だ。交響曲の価値に至っては作曲者の耳の聞こえ具合に応じて耳鼻咽喉科で決まるという世界でオンリーワンを誇るユニークな国家になっている。この国に住むということはいずれオリンピックはお笑い芸人がマラソンに出場して4時間放映されるかもしれないぞという覚悟を求められるということなのである。

イチロー、黒田、マー君が成績が出ずに笑顔を見せてすむだろうか。それはないしそこには誰の感動もない。

 

 

 

 

 

 

Categories:______世相に思う, 徒然に

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