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宇野功芳氏について

2016 JUN 23 0:00:28 am by 東 賢太郎

僕がクラシックを聴き始めてまず基礎的な知識を仕入れたのはレコード芸術という月刊誌だった。多彩な評論家のレコード評を読みながらなるほどそういうものかと覚えていったから実用的な教科書みたいなものだった。

文章を読むのは入門には有益だ。クラシック音楽は楽譜と同じぐらいに言葉によって存立している。百年も二百年も前に作られて以来、数多の人が投げかけた無尽蔵の感嘆詞や文章の集積、集大成がそれをクラシックたらしめているといって過言ではないだろう。

だから我々は名曲を耳だけでなく評論という形で目からも覚えることができる。そのほうが記憶は強化できるのだ。ワインといっしょで、世間ではどういうものが三ツ星なのかを知って自分の耳で覚える。今度は別な演奏をその記憶と照らし合わせてみる。それが圧倒的に速い方法であることは僕だけでなく多くの友人が実証している。

レコ芸の論者はいろいろ個性的な方がおられた。評論家は商売なのにコマーシャリズムを見下す大木正興さんの評論の立ち位置は微妙だったが、あの硬派な権威主義とアカデミズム、一刀両断のスタンスには有無を言わせぬものがあった。原稿料で食ってもそれが自分の美学を揺るがすことはないという頑とした矜持は当時の僕にはどこか知的で格好良くもあった。あれはさすが美学科だ。

仏文科の吉田秀和さんは月評は書かない、彼はむしろ音楽に博識の文人、文学者だが、東京帝国大学という官僚養成学校の欧州文明文化の翻訳・解釈に根差した教養がご両人ともベースにあるのは同じだろう。僕は大木さんのスタンスの方が肌に合い、彼のドイツ礼賛と米国蔑視は徹底していたものだからその影響ももろにかぶった。第2外国語がなんとなくドイツ語になったのはそのせいだし、後に米国留学してもそれがなかなかぬけずに困ったものだ。

東大色濃厚のご両人に対し先日他界された宇野功芳さんはリベラルで主情的で正直のところやや軽く見ていた。ただ、他の先生たちよりも文章がわかりやすくお堅いクラシックを大衆芸能みたいにイメージさせる強みは絶大で、聞く前から聞いた気にさせてくれる。大木さん、吉田さんだと知らない自分が恥ずかしい風になるが、宇野さんは文章と一緒に聞いている気分になってくるので読んで抵抗がない。これは才能だと思った。

とくに宇野さんを見直したのは、自分で指揮をされるのを知ってからだ。音楽=教養というのは変だと思い始めていた頃で、そういうスタンスで教わったから自分は音楽の授業が嫌いだったのだと気がついたのがきっかけだ。プレーヤーの言葉、評論こそ読みたいものだと思い至るようになっていたから、指揮者でもある宇野さんのそれに謙虚になった。

彼の演奏を聞いてみると、趣味はまったくあわないが評論内容とは言行一致しており、自分丸出しでやりたい放題のすがすがしさが気に入った。なるほど音楽は「するもの」だと思い、ピアノを練習しスコアをじっくり読み始めたのはそこからだ。だから僕は六法全書より楽理書のほうが詳しくなった。これは彼のおかげといえる。

caplanその路線でいうなら、米国の経済誌インスティテューショナル・インベスター社の創業者ギルバート・キャプラン氏はあこがれの人だった。音楽教育は受けていないが偏愛するマーラー交響曲第2番「復活」のみを専門に振る指揮者として著名であり、私財で購入したマーラー自筆譜を元にした新校訂版「キャプラン版」での録音をウィーン・フィル(!)とドイッチェ・グラモフォンに行っているスーパー素人である(右)。

指揮は習う必要があるので時間がない。そこで向かったのがシンセサイザーによるMIDI録音・演奏だ。91年ごろで当時そんな機具を買うのは専門家だけだった。やってみるとこちらも時間を要したが十分の満足感があった。全パートを耳で合わせながら弾くのだからオーケストラのスコアがわかるようになったが、それよりもそれをやることでピアノがもう少し弾けるようになったのが助かった。それで未完成やエロイカや悲愴交響曲の一部を弾いたりしながら、楽譜上の数々のことが腑に落ちた。

すると、だんだん他人の演奏や評論は興味がなくなり、スコアだけ見ていてイマジネーションをふくらませて、「答え合わせ」に他人のを聴くということになった。実際にシンセで録音してから誰かのCDを聞くとどういうわけかそっちもシンセ録音に聞こえてきて(耳がそういう処理をしてしまうようだ)、もちろんその刹那は自分の演奏のほうが良いと思っていた。いまそれを聴くと不遜なことだったと恥じ入るばかりだが。

そうこうしてふりかえると、もう大木氏や吉田氏や宇野氏のような聴き方をしていない自分になっていた。それがドイツ駐在の40才あたりだ。だからフランクフルトにいた3年間は、ドイツの森を歩きワーグナーの楽劇を知り、ベートーベンやメンデルスゾーンやシューマンやブラームスと同じものを食べて同じ空気を呼吸して、家にいる間は四六時中シンセ音楽作りに没頭して音楽の聴き方に決定的な転換点がもたらされた、僕の人生にとってもメルクマールとなる3年間だった。

そんなことをしながら初めて現法の社長という仕事をやったというのも嘘のようだが、自画自賛になるが必死にやって成果も出した。充実した手ごたえが残っているし、38才の小僧が会社のおかげで成長もさせていただいた。実は東京で辞令が出た時に、ドイツへ行くのが不服で会社を辞めようかと考えた。そうしなかったのはそこまでの自信も勇気もなかったからだが、今となると大正解だった。シンセで多大な時間を食ったからもっと子供と遊んでやればよかったと申し訳ないが、音楽とは僕にとってそこまで犠牲を払った特別なものだ。

宇野さんが演奏家だなと思うのはシューリヒト、クナッパーツブッシュの評価の文章だ。彼は即興性、自発性を重視しており、カチッとした枠組みをつくるハンガリー系や人工的、紋切型は嫌いだという顕著な傾向がそこに読み取れるが、自分がスコアをどう読むかに照らして評価しているというベースがあるというのは大切だと思う。教養主義の美学でなく実践的、現場的で自己流の美学だが、僕は今はそのほうが共感を持てるようになっている。

音楽は好き嫌いでいい。というかそれしかない。「名曲だから聴きましょう」はない。僕がブログにするのも楽譜までもちだすのも、知識をひけらかすためでなく、その曲がその箇所がメシより好きだからであって、その箇所を自分の手で音にしたいために何時間もピアノやシンセで格闘したからだ。こういう風になったのは多分に僕流のことなのだろうが、「クラシックを聴く」流儀にはこんなにケッタイなのもありだ。自分の好きなようにやればいいし、かくあるべしなんて決まりは一切ないということだ。

ここに至るまでの里程標として多くの演奏家や評論家の方々のお世話になったが、宇野さんにはその中でも「自分でする」という大事なスタンスを教えていただいた。ご冥福をお祈りしたい。

 

 

 

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Categories:クラシック音楽, 自分について

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