Sonar Members Club No.1

月別: 2017年2月

メシアン 「世の終わりのための四重奏曲」

2017 FEB 17 0:00:23 am by 東 賢太郎

330px-Olivier_Messiaen_1930メシアンは常習性のある媚薬のようなもので、一度ハマるとぬけられません。彼は11才でパリ高等音楽院に入学し各科のプルミエプリ(首席)を総なめにした神童中の神童ですが、それは伝統作法下での評価です。ドビッシーもラヴェルも異端とされたり自らクラスを抜け出したり、旧来の流儀とは何らかの断絶があったのですがメシアンは徹底して彼の時代での優等生であった。優等生は秀才であって、だいたいがその評価にあぐらをかいて凡人で終わるのですが、彼はその殻を脱ぎ捨ててしまった。そこが凄いと思うのです。伝統作法下での作曲法の枠を打ち破って色彩、リズム、旋法、音価に新しい道を開いた、それは技法のための技法として理性でひねり出したというよりも感性に導かれた産物と感じられ、ドビッシーも彼の時代においてそうだったように、自分があるがまま自然に本能と直感に従って突き進んだ結果と感じられます。そうやって何か新しいことを「やっちまった」人を、後世は天才と呼ぶのだということならば、彼は稀代の秀才でもあった本当の天才だったのです。

「世の終わりのための四重奏曲」のピアノパートには伝統的な室内楽書法としてあたかもオーケストラのように他の楽器と主題によって対位法的に絡んで有機的に展開する部分はほとんどなく、対等の独奏楽器として、または単なる伴奏として和声付けの要素が目立ちます。それはこの曲だけでなくメシアンの音楽の匂い、クオリアそのものでもある際立った個性なのですが、ここにおいては付けている和声の魅惑が群を抜いています。この世のものと思われぬ神秘的な、尋常でない美しさであります。

常習性のある媚薬と書きましたが、その根源は和声にあるのです。これはどんなに強調してもしきれない重要かつシンプルな事実と思います。色彩、リズム、旋法、音価と理論体系にして彼は弟子に教えたがそれは神を見た教祖が一般人に説き理解させるための普遍化した経典であって、彼の頭脳の中では鳥の声もおそらく対位法でなく和声要素として響いており(この曲の第1曲はその驚くべき実例である)、ある一瞬の縦に切った音塊ではなく、横に急速に流れる音群全体が和声要素となる。それを彼は色彩という言葉で呼んでいると僕は解釈しています。彼は和声音楽の大家なのです。

とすると、彼の時代に、つまり同時代のライバルがドデカフォニーのセリーの技法を探求する時流の中で書いていた時代にそれで大家を成したというのは音楽史の流れの中で特別なことではないでしょうか。ストラヴィンスキーの三大バレエはれっきとした和声音楽ですが、しかも新奇であったから事件となり天才と騒がれた。それと同じことを30年も後にやってしまった、これは作曲をされている方だれしも特異な現象と認められるのではないでしょうか。ちなみに弟子のブーレーズもクセナキスも、はっきり和声を認識させる作法は踏襲できませんでした。

この四重奏曲は1940年に第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり、ゲルリッツ収容所で書かれたいわく付きの曲です。ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノの編成で数千人の捕虜を前に収容所で初演。メシアンのこの時のことを「私の作品がこれほどの集中と理解をもって聴かれたことはなかった」と語っていますが、そういう状況下で書いた方も書いた方、聴いた方も聴いた方であり、特異な環境で産み落とされた奇跡の産物と思います。

天地創造の6日間、安息の7日目、そして不変の平穏な8日目という8曲から成ります。天国へいざなうような神秘的、蠱惑的な音楽で、僕には深いこころの静寂と安定を与えてくれる不思議な精神作用を持った音楽であります。楽章にはキリスト教の神秘主義的な名称が与えられていますがこだわる必要はなく、モダンジャズが好きな方は違和感なく聞けるのではないでしょうか。メシアンの代表作の一つであり、クラシックのレパートリーとしてマスト・アイテムといってよい名曲中の名曲です。

第1曲「水晶の典礼」の鳥の歌とピアノの和音からいきなり異界に引きこまれます。メシアンの鳥はベートーベンやマーラーのそれとはちがい協和音にデフォルメされず実音記譜に近いものを高度に抽象化しています。楽音としてではなく無意識に(意識を切って)聴けばいいのです。何度聴いても鳥と和音の調和は天才的としか言いようなし。

第2曲「世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ」ヴァイオリン、チェロの不思議なユニゾンは弦チェレの第3楽章を連想させます。やはり伴奏のピアノ和音が凄い。これぞメシアン。

第3曲「鳥たちの深淵」。クラリネットのソロです。速度記号レントで深々と歌い、やがて鳥の声に。静けさと緊張の支配する世界。僕はここに尺八の音像を聴きます。

第4曲「間奏曲」。ピアノが休み。この曲に現れる三和音的進行は別の色彩を放射します。クラリネットの鳥はクロウタドリでポール・マッカートニーのBlackbirdはこれのこと。

第5曲「イエスの永遠性への賛歌」で、チェロのモノローグがピアノの和音に乗って何かを歌いますがこの異様な美しさは一度聴いたら忘れ難い。チェロの独奏曲として最高のもののひとつ。

第6曲「7つのトランペットのための狂乱の踊り 」、トランペットは色彩を暗示する記号として。この曲はメシアンの旋法の特色が出ますが旋法そのものに匂いを感じ、もしオーケストラであったならどういう音彩がついたか想像してしまう。ずっとユニゾンですが楽器の組み合わせで色を変化させる、見事な変容の技法です。

第7曲「世の終わりを告げる天使のための虹の混乱」は再度チェロとピアノの二重奏で不思議な色気の和声が展開します。中間部で激しい曲想となりチェロのグリッサンドが異界を描く、そして今度はクラリネットが加わってまた静やかな虹色の不思議ちゃん世界に。これぞメシアンの媚薬です。そしてやってくる鳥と混乱。

第8曲「イエスの不滅性への賛歌」。ヴァイオリンとピアノによる天国への賛歌です。何と素晴らしい和声!これが天空に消え入る感動は巨大であります。マーラーの9番が好きな方はこれも共感されるのでは。この曲、Quatuor pour la Fin du Tempsでありend of time、つまり時の終わりです。収容所で終わる時とは何だったのか。「世」ではないだろう、「戦争」かもしれない、「今」かもしれない。慣習に従って標題は世としましたが・・・。

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これを真に知り、学んだのはタッシ(TASHI)の演奏によってです。Piano : P.Serkin、Violin : I.Kavafian、Cello : F.Shelly、Clarinet : R.Stoltzmanという名手たちが1973年に、この曲を演奏するために結成したグループでこのLPは僕の大学時代に出てきた衝撃の1枚でした。TASHIはチベット語で吉兆の意味。end of timeの次に来るものを示唆している洒落たネーミングでしたね。

 

 

(ご参考)

アンタッチャブルのテーマ(1959)The Untouchables Theme 1959

クラシック徒然草-僕は和声フェチである-

 

 

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クラシック徒然草《クーベリックの弦チェレ》

2017 FEB 16 1:01:57 am by 東 賢太郎

音楽に右、左はありませんが、あえていうなら僕は超保守の原理主義者でしょうか。それは前回のクセナキスの稿でご理解いただけると思います。何が原理か?「楽譜」では必ずしもなくて、作曲家に降りてきた「何か」である。それが何かは自分の感性で曲の音と譜面から探り出さなくてはいけませんが。

作曲家が森羅万象のメッセージを受け取る媒体なら、演奏家は作曲家が紙に書きつけた記号からそれを受け取る媒体です。良い演奏家かどうかは、作曲家を震わせた大元の「何か」に共振できているかどうかで決まります。万事に良い演奏家はおらず、曲ごとに共振できる人がランダムにいるというイメージです。

だから、何でも振れますという指揮者には懐疑的で「振り屋」と思う。何でも聞きますという人も「聞き屋」ですね。半世紀も聴いてきて好きでない曲はどんなに名曲とわれようと共振しようがなく、作曲家に何が降りてきたか知りようもない。だから良い演奏で聴けば感動できるという道理もないという結論に至ります。これが原理主義です。

古楽器演奏だから原典に近い、これがモーツァルトの楽器でやったピアノソナタで彼の音です、というのはどうも嘘くさい。楽器はそうであってもどう弾いたかは別な話です。楽器、楽譜どちらだけでもなくトータルなものから感性で感知したものが正しい。それは主観ですが、この曲かくあるべしは主観でいいのです。それに合致するものが自分にとって名演奏であり、しないものが古楽器だからといって修正を迫られるものではないでしょう。

好きでない名曲はけっこうあります。自分に正直に一切聞きません。好きな曲は自分の感性で「何か」を探って、それを描いてくれた演奏に出会うまで聴きまくります。出会えばおしまい。だからLP、CDを何十枚も持っている曲は出会いが遅かった、あるいはまだないという曲です(ない方が多い)。たまるのは不幸な遍歴の結果であって僕は収集家ではありません。部屋もオーディオも古い録音をうまく再生するためのものです、なぜなら古い録音に価値あるものが多いからにほかなりません。

kubelik2ラファエル・クーベリックのバルトーク「弦チェレ」はそのひとつ。第1楽章、緊張感をもってひっそりと始まり、シンバルの頂点へ向けて緩⇒急がつき音楽がふくらみ、そこから再度テンポを落としたまま妙な演出なくチェレスタを迎える神秘感の出し方。この呼吸、強弱の感覚、いいですねえ、理想的だ。オケはシカゴ響であり有名なライナー盤より前の1951年モノラル録音です。これがあってあれができた、そうであって全く不思議でない名演です。

第2楽章。ピアノのバランス、音色、そこに重なる木琴の音色、これは最高だ。ピッチカートがややばらつきますがアンサンブルも緊密。テンポも見事で後半のヴァイオリンの表情づけも良し。

クーベリックはチェコ物というのは都市伝説にすぎません。第3楽章、彼はバルトークの聞いた森羅万象の音に共振していると感じます。この楽章はライナーの方が一枚上手ですが、まだこれが大衆名曲になるずっと前に楽譜からこれを読み取った眼力は空恐ろしいものがあります。

第4楽章だけはどうも、バルトーク先生に大変恐縮なのですが、あんまり曲の出来がいいと思ってません。すみません。誰が振ってもso-soであります。

 

クーベリックのベートーベン3番、8番を聴く

 

 

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マイケル・フリンが突如辞任

2017 FEB 15 18:18:53 pm by 東 賢太郎

これはトランプ・安倍会談の直前に書いたもの。

このシナリオでうまくいくはずだった、そうしたらマイケル・フリンが突如辞任してしまった。民間人の外交政策関与を禁止する法律に違反。これはまずい。フリン氏が有能だ無能だどうのではなく、嘘をついて盗聴でばれて法律違反だった、これは即死である。ウソはFBIに訴追される可能性がある。トランプが知っていたかどうかが論点になると非常にまずい。

ロシアが弱みを云々はマスコミのおためごかしだ。米マスコミはトランプを引きずり下ろしたい。日本の大多数のマスコミはその受け売りだから同じ路線で非難する。ハニートラップなんかどうでもいい、大統領執務室でセックスしてもクビにならない国だ。

ねらいは法律違反、これである。

フリンが法律を知らなかったとも思えないが、盗聴は知らなかったから嘘をついている。元国防情報局長官とは信じがたいわきの甘さだが、こういう人が要職を占める政権だとするとそこから足をすくおうと策を練ってくる可能性が高い。個人的にはファミリー、側近が火元の経済法規違反が危ないと思料。この世界、これが狙われるだろう。

トランプ・ラリーで彼の一言で為替も株価も何%も動く。twitterの言語分析でアルゴリズムを組めば彼のつぶやきで儲けられると思う連中も出てくるだろう、しかしもっと危ないのは彼の「寝言」をきいてしまうこと。夜中の3時にフリンに「ドル高とドル安と、米国にいいのはどっちだ?」なんて質問をしたらしい。フリンは専門外なのでと答えなかったらしいが。

それにしても北朝鮮の暗殺事件といい奇怪である。経済がシュリンクすると民は飢え、政権は自己保身衝動に走る。中国が富を吸い取ったので世界中の国でそれがおきる。しかもこれからもっと激しく。ロシアは事実上独裁、フィリピン、北朝鮮もそう、中国自身はわからない、だから自己保身の方法は違う。もうジョークでなく、殺っちまえがあるし米国もお得意だ。

トランプが一発中国にパンチをかますことは期待できなくなってきたかもしれない。中国は外憂を演じて延命を図るだろう。すると、大変まずいのは日本だ。

 
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球春すぐそこまで来たる!

2017 FEB 15 10:10:56 am by 東 賢太郎

プロ野球のキャンプ中継(スカパー)、見てしまいます。去年あんまり興味がわかなかった反動でしょうか。

カープの第1クール(基礎トレ)、じっくり見ました。第2が打撃、ノック、連携など、第3が紅白戦という順番ですが試合より練習を見たい。野球は部活も9割は練習してるんで今になるとほとんどその記憶ばかり。試合はその時たまたまそうだったねという程度で、練習の苦しみの方が残ってます。

キャンプ。球音が聞こえるのがいいなあ。客が静か、ラッパも鳴らない、カーン、パシーンていう音だけ。あと選手の声。これですね、よみがえって興奮してきます。だから何時間でも見てしまう、いい番組です。

ブルペン。これです。見た中ではカープは塹江、良くなってる、いけるぞ。ドラ1加藤は浮いてる、重そうだけど。中日ドラ1・柳、球質いまいち怖くない。鈴木 翔太、うわっ、なんだ、こいつフォローいいなあ、阪神ドラ2小野、こいつ低目伸びてる、やばいなあ、・・・なんて

解説がまたいいですね。みんな野球少年にもどって興奮気味で熱い。技術のファンダメンタルを滔々と語ってくれるから面白い。試合はその時たまたまのできごとをしゃべるだけ、あれは誰でもわかること。でも練習は違うんです、たまたまはどうでもいい、基礎の基礎をしゃべっていて、もう考えてるレベルが我々素人とぜんぜんちがう。

紅白戦。カープ、九里が良くなってる。球に力がついた。シュートがえぐい。中村 祐太(関東一)ストレートいいぞ。でも一軍に5連打(!)されてしまうのかあんな球でも。プロの打者は恐い、あんなのどうやって討ち取るんだろう。カープの打線は仕上がってます。阪神は若手が伸びてるがまだちょっと荒い、送球なんか、ああいう所に出ます。

オリックスはたいしたことないなあ。カープと比べると基礎トレが甘い感じがするし自発性があまりない。中日、韓国のハンファ・イーグルスとやって18-1でしたが相手が弱すぎ。目だったのは新人の京田ぐらい、こいつはすぐ出てきそうだけど。巨人は見てませんがどうなんだろう。

ところで日ハム大谷、去年話題の167キロは球が沈んでる、あんまりいい球じゃない。着地した左足をフォローで引くのをTVで自分で説明してましたが、頭いいから理屈つけてたけどどうも違う気がする。右の足首無意識にかばって思ったほど体重が左にいかないからそういう癖になったんじゃないか。

野球はどこか痛いとかばってほかに無理がくるんで怖いです。自分で気がついてないから。ピッチャーはリスクあるんで野手でもいいんじゃないか、それでも十分メジャーでやれると思うんですが・・・。

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クセナキス 「プレアデス」(Pléiades,1979)

2017 FEB 14 12:12:14 pm by 東 賢太郎

会社にいたころ、金属関係の大手企業との会食がありました。話のなりゆきの思いつきで「ところで社長、金属ってなんですか?」とうかがったところ、しばしの間じっとお考えになられ、「それはいいご質問です」と周囲の役員さんに目をやり、結局みなさん「調べてお答えします」とあいなりました。

意外に定義が難しいというものがあります。音楽もそうかもしれません。空気の振動?そうですね、でも聞こえる音がぜんぶ音楽ではありません。音ではあるが、人の心になにか感動、感情を喚起するものです。しかしそう定義してもずいぶん漠然としてます。

皆さんこれを聞いてどう感じるでしょう?

NASAの衛星が録音した「地球の音楽」だそうです。地球内部を流れる電流と磁場の相互作用によって電波が発しており、そのゆらぎをスピーカーで人間の可聴域内の音に変換したものです。知らなければ雑音か風の音ですがその割には定常的で長い、しかも不規則だが微細な変化があります。

少なくとも僕には不快な音ではなく、これを1時間も聴いていると気分の変化があるかもしれないなとは感じます。我々の体は地球と同じ元素でできています。母なるものの発する声は僕らの脳に何らかの共振を起こしても不思議ではないように思います。それは物理現象ではなく、メタフィジックなものである「こころ」によってしかつかまえられないものとしてです。

モーツァルトの音楽といえど、物理的には空気の振動であります。それに感動するのは、僕らの「こころ」がそこに何かをつかまえるからです。その何かはたしかにモーツァルトが盛り込んだものですが、しかし、彼のこころも宇宙のどこかからそれを見つけ、共振を感じて拾ってきたに違いない。彼が地球の声のごときものをどこかで聴き取り、それを、いわば霊媒として人間の可聴域内の音に変換したものではないかと思うのです。

バルトークの弦チェレ第3楽章やピアノ協奏曲第2番第2楽章はきっとそういうものだろう、と思っています。ことに彼の曲で僕がそう感じるものをお聴きいただきます。皆さんはどうお感じになるでしょうか? ピアノ曲「戸外にて」(Sz81)より「夜の音楽」です。ぜひ、何も考えず空っぽになって、こころを開いて聞いてください。

シベリウスの交響詩「タピオラ」(作品112)は、極寒の吹雪の中を歩く森のイメージを強く喚起します。吹きつける風の音も聞こえます。楽器の楽音なのだから不思議ですが、作曲家が聞き取った森の音を霊媒となって管弦楽の音響に変換したといえるように思います。

そう考えてくると、一つの考えに至りませんか?

つまり、「地球の音楽」は音楽ではないけれど、作曲家がそこから得たエモーションを楽器や声の音に変換したならば、僕らはきっとそれを音楽と呼ぶんじゃないか?ということです。もしあなたがその音楽を聴いて感動したならば、その感動は作曲家が「地球の音楽」と共振したこころのふるえであり、だからあなたは作曲家を通じて地球と共振していることになります。

バルトークもシベリウスもそういう音楽を書いた。僕はブルックナーもそういう作曲家と考えています。いえ、モーツァルトだって、彼のこころに去来して彼の手を動かして楽譜に記された音楽は、やはり天空のどこかからやってきて、その源が尊いものだから我々のこころをゆさぶるのではないか。作曲家の能力とは上手にフーガを書くことではなくて、宇宙の音によく共振し、人間のわかる音に変換する能力ではないかと思います。

作曲することと演奏することはまったく別な行為であり、ブーレーズが語っていますが演奏はインタープリテーションつまりスコアというテキストの解釈であり有から有を生む行為、作曲はクリエーションという無から有を生む行為です。無の裏側には宇宙の秩序や均整があって美しい。その美を感知する霊媒能力がなければ作曲は出来ませんが、書かれた音符を音として美しく鳴らすことは訓練すれば誰でもそれなりにはできると思います。

つまり作曲家は神域に至れる特種能力者として人類に何人も現れていないが、演奏家の能力は人間界のみで完結可能であって、トップクラスといえど現れた人数ははるかに多い。聖書を書いた人と牧師の関係でしょう。僕が演奏会でする拍手の9割は作曲家にというのはそういう思想からであり、だから普通の人である演奏家が天才の労作をお気軽に改竄などするのは不届き者も甚だしいと不快に思うのもそこから来ています。

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ギリシャの作曲家ヤニス・クセナキス(1922-2001)に6人の打楽器奏者のための「プレアデス」という興味深い作品があります。プレアデス星団(プレアデスせいだん、Pleiades )は、おうし座の散開星団(M45)で、これの和名が皆さんよくご存じの「すばる」であります(写真下)。

 

pleiades クセナキスはアテネ工科大学で数学と建築を専攻した変わり種の作曲家です。建築家としてはスイス人で「近代建築の三大巨匠」のひとりであるル・コルビュジエ(1887-1965)の弟子である。コルビュジエはレオナルド・ダ・ヴィンチの「人体図」における人体の寸法の数学的な比率と黄金比を基にモデュロールという建造物の基準寸法の数列を作りました。それが「美」のみなもとになるという考えです。我々は均整の取れた人体を見れば確かに「美しい」と感じます。その感情を喚起する「比率」(均整の秘密)を建築に応用した。そしてクセナキスはそれを音楽に応用したのです。

パリ音楽院でオリヴィエ・メシアンに師事したクセナキスは、数学で生み出されるグラフ図形から縦軸を音高、横軸を時間とした音響の変化を記す、コンピューターによる確率論、ブラウン運動を応用した音価技法などユニークな作曲理論を開発し、1971年の大阪万博では鉄鋼館で彼の音楽が流れました。数学が出てくるのは「美のみなもと」としてであり、ピエール・ブーレーズと共通するのですが、おそらくそれが故に二人は対立しました。

そういう難しいことは聞き流していただいて、クセナキスは「こころを開いて」いれば決して難しいものではないことを感じていただきたいと思います。こういう音楽が苦手だった方、メロディーも和音もないのにどう聞いていいかわからない、こんなものは音楽じゃないと思われる方、クセナキスが宇宙から聞き取ったもの、それを打楽器だけで可聴域に変換した「プレアデス」に耳を傾けてみてください。

僕はこれが、NASAの衛星が録音した「地球の音楽」にそう遠くないものに聞こえるのです。

(こちらへどうぞ)

我が来し方に響く音楽

空のおはなし (今月のテーマ そら)

 

 

 

 

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N響・パーヴォ・ヤルヴィのシベリウス2番

2017 FEB 13 13:13:25 pm by 東 賢太郎

指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
アコーディオン:クセニア・シドロヴァ

ペルト/シルエット ― ギュスターヴ・エッフェルへのオマージュ(2009)[日本初演]
トゥール/アコーディオンと管弦楽のための「プロフェシー」(2007)[日本初演]
シベリウス/交響曲 第2番 ニ長調 作品43

 

 
トゥールが面白い演目でした。アコーディオンがはいるクラシックは初めてですが、管とも弦とも音色の親和性があって意外に溶け込みます。音量はマイクで拾っていましたが十分にコンチェルトが成り立つように思いました。シドロヴァ はチャームのある人でアンコールも魅了されました。ぺルトの曲はパーヴォに献呈されたもののようですがよくわからず。

シベリウスは親父もこのオケで聴いたので比べてしまいます。

ネーメ・ヤルヴィのシベリウス2番を聴く

これがあまりにインパクトがあり、こういう家の子は大変だなと思うことしきり。息子は曲想に応じて振幅の大きな表現で、長い音符は長く、急速なパッセージはより急速にと変化をつけますが、どうも後期ロマン派ぶって聞こえてしまう。弦がそれに呼応して熱演してしまうものだから、どうも僕のイメージからどんどん乖離していきました。ff の弦の質感もよろしくない。去年聴いたラハティ響はこんな弾き方はしていませんでしたが音楽は内面からエネルギーを放射していましたね。この路線で息子の全曲を聴きたいとは思いませんでした。終楽章コーダのティンパニ・ロールに g を入れるのは大変に耳障り、勘弁してほしい。ベルグルンドも1回目のボーンマスSOではやっていますがヘルシンキSO、イギリスCOとの2,3回目は d のまま。どうしてスコア通りでいけないのかわかりません。お気に召した方は多そうでしたが、趣味の違いですぐ失礼しました。

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僕が聴いた名演奏家たち(ニコライ・ゲッダ)

2017 FEB 11 0:00:13 am by 東 賢太郎

ついこの前にジョルジュ・プレートルが亡くなって、歴史的名盤であるカラスとのカルメンのことを書いたばかりでした。そうしたらドン・ホセのニコライ・ゲッダも亡くなってしまったそうです。伸びのある高音の美しい正統派ベルカント唱法のテノールとして理想のホセ、ロドルフォ、タミーノ、フェルランドでありました。

このカルメン、聞きようによってカラスは年増の姐御(あねご)風情であってやや特別でもある。ゲッダの純情な好青年ぶりでそういうユニークなカップルという引き立ちかたがあるようでもあります。この素晴らしいミカエラ(アンドレア・ギオー)との二重唱「母の便りは」! 何度これを聴いたことだろう。

5099996677957もうひとつ忘れられないレコードが、若鮎のようにみずみずしいトーマス・シッパース/ローマ歌劇場管弦楽団とのラ・ボエームです。ゲッダの声の若々しいこと。しかも20世紀を代表するミミであるミレラ・フレー二がこれまた若いときている。この青春オペラにこれ以上なにを望みますか?僕の長年の愛聴盤の一つであり永遠に価値のある名盤であります。

次に、ここに書きましたが(クラシック徒然草-クレンペラーとモーツァルトのオペラ-)これまた歴史的名盤であるクレンペラーの「魔笛」のタミーノがゲッダなのであります。この役でもスイトナー盤のペーター・シュライヤーと双璧の美声を聞かせますが、ホセと同じく純情気味なのがなんともいいですね。夜の女王にころっとだまされる感じが出ています。

61yQk9l7zoL._SX355_20世紀を代表する叙情派テノールであったゲッダが総督を歌ったのがレナード・バーンスタインがロンドン交響楽団を指揮したヴォルテールの原作による自作の「キャンディード」であります。1989年12月12日、ロンドンのシティに近いバービカン・センターでのライブ録音です。ゲッダとクリスタ・ルートヴィッヒとは凄いキャスティングでありました。

公表されてませんがこのコンサートは野村ロンドンが主催で、ビデオに写っている聴衆はお客様そして我々だったのです。34才の僕もきっと右の方に映ってるでしょう。この17日後、12月29日 に日経平均株価は史上最高値 38,957.44円を記録し、時価総額で日本株が米国株をぬくという驚愕の、2度とないだろう歴史的事件がおきます。

この翌年、野村ロンドンはモニュメントからセント・マーティンズ・ル・グラン(旧郵便局)という歴史的建造物に本社を移転しますが、その祝賀スピーチを首相のマーガレット・サッチャーさんに依頼したのです。すると首相からは前日に丁重な詫び状があり、明日は代理として腹心のジョン・メージャー財務大臣を送るとありました。そして翌日、祝賀会の時間にはすでにメージャー氏の首相就任が発表されていたのです。そのころ東京に帰任していた僕は社内テレビに出て女子アナとそれを実況中継で全店に解説したという懐かしい思い出もあります。

candide史上最高値は何兆円という巨額の「外人買い」によって達成されたのはご記憶の方もおられると思います。その「外人」のほとんどはビデオの客席にご夫妻で座っておられる紳士たちであり、彼らを担当し日々運用のアドバイスをしていたのが僕が所属したロンドン株式営業部でした。SMCメンバーの安岡氏、吉田氏もその主力メンバーとして大活躍された戦友です。

バブルといわれようが何だろうが「株式時価総額」という数値は問答無用、有無を言わさぬ経済の実力指標であって、日本経済が米国を凌駕した衝撃の証拠を米国人に突きつけてホワイトハウス、ウォールストリートを震撼させたのは真実です。だから米国は90年代にゴールドマン・サックス会長のロバート・ルービンを1993年にクリントンがホワイトハウス入りさせ、1995年には第70代財務長官に就任させて徹底的な「日本の金融界潰し作戦」を仕掛けてきたのです。僕はその戦争の当事者として内情をみな知っている。

当然政府を通じて大蔵省(当時)にも圧力はあったと思われ、我が国は実に情けない損失補てん事件の発覚という経緯を経て野村を筆頭とする証券界を証券局もろとも葬ってしまうのです。ルービンはエール大学法学部の秀才ではあるがアービトレージ(鞘抜き)王としてウォール街で四半世紀生きたいわば株屋であって、同じ株屋のドンがかたや財務長官、かたや失脚。政治家、役人のインテリジェンスの差である。あれは「バブル崩壊」などというお気楽なものでなく日本の致命的な敗戦であったのですが、その引き金となったのがこのコンサートにいた投資家の方々の日本経済への厚い信認であった。ビデオを見て感無量としか申し上げられません。

終演後に野村ホストのパーティーがあり、最後の方にひと仕事終えて悠然と現れたバーンスタインと話をしたのはこの時でした。彼ばかりでゲッダ、ルートヴィッヒと話す時間がなくなったのはなんとも痛恨でした。

 

 

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ビゼー 歌劇「カルメン」(Bizet: Carmen)

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

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ドイツが好きなもう一つの理由

2017 FEB 9 18:18:07 pm by 東 賢太郎

留学、ロンドンの8年を経て日本に戻り2年たった1992年5月、37才の時のことだ。フランクフルトへ行けと辞令が出た。やっと巣鴨に落ち着いてロンドン生まれの娘2人もおじいちゃん、おばあちゃんになついていた矢先だ。フランクフルトは当時強力なドイツ連銀があり、いまも欧州中央銀行、ドイツ4大銀行本店がある欧州金融市場の要だが、証券市場としてはメインストリームではない。ドイツ語も第2外国語ではあったができないし、MBAまでとってどうしてという気持ちもあった。

会社を辞めようか?

まじめにそう考えた。ロンドン時代に某有力外資にけっこうな年俸で誘われている。引く手はあった。

結局そうしなかったのはまだ若かったのと野村が好きだったからだ。行って辞めてもどうにでもなるさ、よし行こうと意を決したもののドイツ赴任そのものに意欲が出たわけではなくまったくの受け身の気持だった。フランクフルトに飛んでオフィスに行ってみる。1000人の大拠点であるロンドンから見ると甚だうら寂しい都落ち感があり、中小企業に再就職したようでああこれで俺も終わりかなと思ったものだ。

しかもドイツ拠点の現法のステータスは銀行(ノムラ・バンクGmbh)である。ゲシェフツフューラーなる社長は要は「頭取」であって本社の辞令など関係なくドイツ銀行監督局の承認がないとなれず、それには1時間ほどのドイツ語による口頭試問がある。そんなものを僕が通るはずもない。結局1年間はぶらぶらして見習いでドイツ語を覚えるみたいなものだった。試験に合格して社長に就任したのは38才のときということになる。

さて人生で初めての社長の椅子に座ってみる。気分は悪くない。ところが、目の前の50がらみの白髪の部長の顔には「ドイツ語もできん若造に何がわかるのかね」と書いてあった。おっさんは仕事もしなかったし英語もおそろしく下手だった(彼の言葉をしゃべらないこっちの責任だが)。ドイツは労基法の壁が厚く英米と違いプロ職もリストラは難しく、引き継いだ幹部社員の任免権が事実上ないのは新首相が組閣できないようなもので、新任のマネジメントとしてカラーが出せず非常に苦しいのである。

彼はシンジケーション部長だがまったくヒマだった。言い分があって、「社長が東京から引受玉を引っ張ってこれない無能だから俺は暇なんだ、当たり前だろ?お前のせいだ、首にはできないぜ」ということだ。難敵である。命令を下して動かすしかなかったのでやってみると、ドイツは上意下達意識の徹底した国であって「命令の威力」は予想外にあることがわかった。上官の言葉は絶対であって、だから労基法が強いのだ。首相を縛る憲法の役目だ、首相権限が強い分だけ壁も厚いということだろう。

こういう立場に立つと年齢差は関係ない。「俺の言うことを聞け」とあれやれこれやれと頭ごなしに野村流に命令した。こっちは暇人がオフィスにいるのが空気を乱して不愉快なだけであって、しょうもないことを命じた。嫌になってやめてくれればそれでいい。ところが彼はまじめに几帳面なきれいな字でレポートを書いてくる。しかも嫌々という感じでなく、くだらないことでも仕事は仕事だと半ば喜々としているようにも見える。彼だけでない、ドイツ人はそういうところがあると不思議に思った。

モンターク(月曜日)という姓の営業マンが実に不調な時期があり「今日からゾンターク(日曜日)に名前を変えろ」と励ましもこめて罵倒したが屁の河童である。ところが、来週までにこれをやれ、やらんかったら席次を落とすぞと脅かすと必死にやる。クビじゃないからそれはできるわけだ。要は、軍隊調でいいのだなと心得た。日本人は僕に逆らう奴などいないし、体育会調ということだから何の抵抗もなく水を得た魚だ。いま思うとぞっとっするほどひどい経営者だった。

ただドイツ人にも一部オカマっぽいのやオタク風がいて、これはだめだ。それが通じないし反発を買うだけであったからむしろまともだったということだろう。しかし営業部門は気質が合う連中が多く、滅茶苦茶な社長に反乱も起こさずよくぞついてきてくれた。ドイツ拠点として空前絶後に違いない400億円の新発債も全員で売り切って、まるで弱小校が甲子園で優勝したみたいなお祭りムードになった。おっさんもゾンタークも獅子奮迅の大活躍をしてくれた。若葉マーク経営がうまくいったのはドイツの軍隊調と僕の体育会調が奇跡的にシンクロしただけでたまたまだが、皆さんもボーナスが大いに増えて喜んだからこの2年間は結果オーライだった。

ところがうまくない部分もあって、その営業部門に当時ドイツでもハシリだったと思うが大卒エリート女性を採用した。彼女は美人で賢かったが、軍隊調がさっぱり通じない。逃げるわけでなく淡々と「ヴァルーム(なんで)?」とくる。男なら「うるさい、じゃあ何でお前はここにいるんだ?」で終わりだが、女のオーラにあたって女性参政権とか男女雇用機会均等法とかの言葉が頭をめぐりはじめ、言えない。ここは戦場だよ、「撃て!」にいちいち説明なんかないでしょという全体観がないのである。

女性は頭が柔軟で勘が鋭く、人の本性を見抜くのに優れている。しかしそれを知るには当時は若すぎた。男も女も体育会もオカマもオタクも適材適所があるのであって、それをうまく配置するのが経営だ。ところが男女雇用機会均等などと杓子定規に義務付けられるとその自由度が減る。無理して入れられた方も不幸である。プロ野球選手に女性を入れろはさすがないだろうが、程度の差だけであってそういう性質の男の職場はあると思うし、そこではれ物に触るようにお姫様を置けというのは経済効率を損なうだけでナンセンスではないか。

僕はドイツの80人を皮切りに海外で140人、500人、日本に帰って120人、20人、50人、100人、250人のいろんな集団を指揮させていただいた。企画室や調査部という完全な文化部的組織もあったしほとんどが銀行出身者という僕にとっては別世界の組織もあった。その結果として、真の意味で目が行き届いた適材適所の組織というと50人が上限というのが実感である。さらに少なければ少ない方が良い。なぜなら一人の分け前が増えるから、よりインセンティブが高まるからだ。

人には2種類あって、もらった仕事だけする人と、もらわなくても仕事を作る人である。ステークホールダーに例えるなら前者はボンドの、後者はエクイティのホールダーである。後者だけ10-20人が僕の理想だ。分け前が多いのだからのりしろのある人がもっと創造的に働く。指揮者は適材適所ができる。2重の強みがあるのだから組織、株主にとっても社員にとってもベストなフォーメーションなのである。

そういうことは野村ドイツの社長業で学んだことがベースになってこそわかったことだ。価値は無限大だった。30代でそんなことを体で覚えるなんて大企業のオーナーの息子でない限りあり得ないだろう。音楽のことばかり書いているのでバイロイト音楽祭やらラインガウ音楽祭やらで浮かれてたみたいだがそうではない、こういうことが起きていたついでにそれもあった。音楽経験の充実ということでもフランクフルト時代は人生最高だったが、初めて社長という名刺を持って店を背負ったという意味で職業人としてのベンチマークであり、経営を覚えたのはここなのである。

あそこで会社を辞めていたら以上は全部なかったことだ。人生、何が幸いするかわからない。何度でも繰り返すが、野村證券は本当にすごい会社でその海外部門は米軍なら誇り高きマリーンであったと思う。入れていただいたことを心より誇りに思う。

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プライド捨てたゴルフは捨てる

2017 FEB 9 0:00:58 am by 東 賢太郎

「ゴルフは好きな奴としかできん」(アイゼンハワー第34代大統領)

 

まったくそのとおり。麻雀は誰とでもできますがゴルフはそうはいきません。僕の場合、好きであるだけでなくプライドをかけて戦える奴といった方がいいでしょう。そういう「勝負」でないのはゴルフとみなさないのであって、だから証券マンとしては失格ですが接待ゴルフは大嫌いでありました。

プライドはかけても目に見えないから、その代償として何か少額のものや食事を賭けるわけですがそういうのを賭け事はいかんといわれても困る。スポーツとして争うのは金品ごときではなくあくまでプライドなのであって、それをぼろぼろにされたから悔しくて徹底的に練習して僕はシングルになったのです。

霞ケ関カンツリー倶楽部の「女人禁制」が話題になっていますが、僕の観点からするとどうだろう。女子プロとやったことはありますが女の人と真剣勝負したことはなく、するイメージもさっぱりわきません。和気あいあいというのは辞書にないんで、無理でしょう。

やはり男同士だから闘争本能が刺激されるところがあるんで、しかも僕はプレー中は口をききません、相手が女だとサービス精神でそうもいかず負けそうな気がします。女人禁制にせよとまではいいません、どうせ一緒にやらないですからね、仮にそうであってもいかんということもなしです。

さて前回、プライドは捨てたと書きました。ではゴルフはどうか。最近さっぱりやる気ないのは、おそらく僕はそんなに好きでもなく、負けた汚名挽回だけでやってたからです。挽回しちゃったんでもう闘争心なし。負けず嫌いで、受験も落ちたからこの野郎と思っただけなんで入ったらもうどうでもよかった。ホリエモンもそうだったらしく、彼はそれで中退しちゃいましたが。

そういうことはプライドのおかげです。勝つために僕はバンカーからチップイン狙ってけっこう入れてましたが、でも今は勝つ執念がないんでそういう離れ業は2度とできないでしょう。プライド捨てたゴルフは和気あいあいしかありません、それを釣りでもあるまいし朝4時に起きて2万円も払ってやりに行こうなんてめんどうくさい。だからグロス75まで出したゴルフもあっさり捨てられるんです。

一方で、「インド カレー伝」(リジー・コリンガム著)を読んでいたらだんだん自分で作ってみたくなってきた。東南アジアのスパイス系料理は何でも好きなんで研究心をくすぐられますが、気合入れてやれば凄いのができる気がしてくる。こういうのはプライドいらないんでいいですね。カレーの次は交響曲を作ってみたいですね、シンセで録音すればオケいりませんし、まあこれは妄想ですが。

残りの人生、いろいろすでに普通でないことをやってはいるんですが、プライドを捨てますと、それが横糸になって繋ぎ止められていた無用なものがバラバラ落っこちて、代わりに思いもしなかったことができるような気がしてきます。人生のポートフォリオ入れ替えでしょうか。

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「今できること」を磨く人生

2017 FEB 8 0:00:52 am by 東 賢太郎

男がプライドを捨てるのは大変なことです。肩書きがなくなると男はしばし狼狽します。温泉で素っ裸になると隣の人がどこの誰かなど気にならなくなりますが、服を着ていても実は同じと気づくのです。狼狽を他人に見せたくない、こんなはずじゃない、自分が何者か証明して見せたいとなります。なぜなら、僕もそうだったからです。

自分があの大学を出てあの大企業の何々でこんな大仕事をしたなんてのは、人々の本音のうちでは何の証明でもなければ何の価値もありません。あっそう、で終わり。大体の人は他人の過去や業績など話半分、自分のそれは2倍に思ってますから、4倍以上の客観的な差でもないと認めません。そして、仮に認めざるを得ないとなると、そういう相手は嫌いになるのです。

だから肩書がないと「でっ、あなたは今私の前で何ができるの?」というシビアな目線に耐えることになります。それを知ったので、僕の場合、それならばないに等しい過去など全部捨ててもまったく損失はないと割り切ったのです。それより目の前でできることを磨く方がよほど大事です。

もし目の前でできることを価値があると誰かが認めれば、それには値段がつきます。もちろん愛や善意はプライスレスですがそれは売り物ではないからであって、何かしら経済的価値を認め得る性質のものであれば必ずプライスがつきます。そういうもんじゃないよ料理は作る人の気持だよ真心だよ、お金の話を持ち込むのは良くないよと言いながら、人はまずい食事より美味しい食事にお金を払っています。

ということは、そうならないなら自分には価値がないということを、悲観するのでなく、それなら結構、ではどうやってそれを獲得できるかを開き直ってやってみる。プライドを捨てるというのはそういうことだと思います。ネット時代の社会の変化は急速です。何事も10年前なら5年は価値があったことが1年で無価値になるイメージです。それどころか「何が価値か」という尺度すら変化していきます。これは世界中のお金が集結する市場での株式価値のファンダメンタルズ分析をしているとわかることです。

自分を認めてほしいというなら、今現在の自分の価値はこうだというのを今の人がわかる形で可視化して、世間に常時見て通信簿をつけていただかないといけないのです。女性は柔軟性があってそれができる人が多いように思いますが、我々男は「何で俺がそんなことを?」「俺を誰だと思ってんの?」となりがちである。誰とも思ってないからプライスはつかない。そしてそれを悟ると現実逃避をし、自分を檻に閉じ込め、新たな道を断ってしまうように感じます。以上、そう思いながらなかなかそれができない自分への戒めとして書いてますが・・・。

 

 

 

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