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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その5)

2025 OCT 12 16:16:03 pm by 東 賢太郎

目下、仕事の合間をぬいながらドイツ・レクイエム全曲ピアノで弾いてみようという無謀なプロジェクトを決行中だ。遅々としてやっと第3楽章まで来た。これと第6楽章にはフーガという難所がある。それにビビっては音楽の全貌が見えない。山は見上げるな登ってみよ、これは何事においても我がテーゼだ。登って作曲家を知る。ビジネスの成功には人を見る目を要するが、同じことだ。天才という後世がかぶせた仮面では姿は見えない。

今回はその第3楽章である。作曲は1866年の2~4月にバーデン=バーデンに近いカールスルーエでフーガまで、5月に演奏旅行のさなかにフーガを完成させている。前年2月に母が亡くなり、夏はバーデン=バーデン、秋からドイツ、スイスへ演奏旅行に出てチューリヒで医学者ビルロートと知り合ったわけだが、1866年夏にフルンテルンで第5楽章を書く直前に第3楽章を仕上げたことになる。

本稿では第3楽章のある音型につき仮説を述べたい。ハイドンの交響曲第98番でもそうだったが、作曲家は創造の秘密を明かすことはない。知的財産権の保護として音楽著作権の概念ができたのは1886年のベルヌ条約以降だが、ブラームスはシューマンの主題の引用で訴訟されるリスクは考えなかったろう。つまり盗作ではない引用は平安貴族の本歌取りに類し、原作者の利益を棄損するものではない。ただオリジナリティを競う音楽創造において自らそれを棄損する引用の価値はゼロだ。したがって、もしそれがあるなら、引用者には何かの事情があると考えるべきだというのが僕のスタンスである。

27才のドヴォルザーク

アントニン・ドヴォルザークの父親の生家は肉屋と宿屋を営んでいた。父は村で評判のツィターの名手で、後にズロニツェで飲食店を始めたが、生計が苦しく、アントニンは小学校を中退させられ肉屋の修業に出された。厳しい出自である。それに甘んじなかったのは彼の意志で、それを後世は才能と呼ぶ。1874年、ウィーンに出てきてオーストリア政府の国家奨学金に応募した33歳のスラブ人を、ウイーン楽友協会の音楽監督で審査員だったブラームスは楽界に紹介し激賞する。「彼はオペラ、交響曲、室内楽に器楽曲、あらゆる音楽を書いていて疑いもなく才能ある人物である」と貧しい彼を出版社ジムロックに紹介もした。ロベルト・シューマンが突然に家に現れた彼にしたように。人は出自の影響を抜けられない。アントニンのそれはブラームス自身の父親、階級、惨めなハンブルグ時代にダブルフォーカスしたろう。30代半ばでワーグナー派であったアントニンも反応する。絶対音楽への傾斜を見せ、交響曲第6番にヨハネスの2番の、第7番に3番の影が見えるという宗派替えは作曲家のドクトリン変換という重大事である(3番の初演にもアテンド)。そのことが民族、宗教の厚い障壁を越え、両人が根源的共感に至ったことと切り離して考えられないことは、ヨハネスと芸術観を共有する中産階級出身のクララ・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒムが、ヨハネスの激賞にさっぱり反応しなかったことに見て取れる。

もうひとつ注目すべきは、両人の共通の関心事、鉄道である。好んでそれで旅したブラームスの交響曲第2番終楽章はその心象風景とも語られ、かたやドヴォルザークはマニアのレベルにあり、下宿は列車の音が聞こえる所に探し、暇さえあれば駅に行き、機関車の型番、スペック、時刻はおろか駅員、運転士の名前まで記録し、線路の継ぎ目を渡るがたんがたんのリズムの変調で列車の故障を見ぬいた。女性にそういう人がいないわけではなかろうが、男性に圧倒的に多い、いわば理系的関心領域である。Oゲージの鉄道模型に耽溺して育ち小田急線の台車の種類を全記憶している僕自身まさにそれであり同慶の至りの感を禁じ得ない。両人はさぞ話がはずんだろう。アントニンはシューマン夫妻の長女マリーと同い年だ。彼が支援したくなった気持ちはよくわかる。

ブラームスとドヴォルザークは一般に作曲家としては別種とイメージされる。ブラームスが「彼の屑籠から交響曲が書ける」と羨んだからだ。しかし彼は「美しい旋律が良い交響曲を生むわけではないがね」を言ってない。マルクスゼンに習い、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの楽譜を独学した主題労作、変奏の技術に旋律素材のクレジットの余地は僅少である。それに習うドヴォルザークは49歳の大作レクイエムをバッハのロ短調ミサ第3曲の冒頭のF – Ges – Eの半音階的音列を素材として書いた。美しい旋律だけの人ではない。作曲する(compose)とはcom(一緒に)+pose(置く)だ。つまり、おもちゃの兵隊や鉄道模型をあれこれ並べて気に入る軍隊やジオラマを作る作業を「音」でやるという意味で音の建築に近く、対位法、和声法は構造建築工学に相当する理系的学習だ。ブラームスが「作品を寝かせ、それが1つの完成した芸術作品として仕上がるまで、音符の多過ぎ少な過ぎがなくなり、改善できる小節がなくなるまで何度も書き直す。それが美しくもあるかどうかは全く別の事だが、それは完璧であるに違いない」と述べたのはそういうことだ。

ブラームスになくドヴォルザークにはあった重い経験がひとつある。子供を持ったこと、そして失ったことだ。長女、次女、長男を亡くした精神世界はそれを直接の動機とするスターバト・マーテルのみならず、レクイエムにも深々と投影されている。儀式典礼用ではなくプライベートな動機に発している点においてドイツ・レクイエムに重なる。ドヴォルザークがこの作品をどう見たかはわからない。ヤナーチェクに語ったとされる「ブラームスは神を信じない」という言葉が真実なら敬虔なカソリックの彼には異質なものだったかもしれないが、自分と同年代で作曲された大作を看過したとは思えない。

第3楽章を弾いていてひっかかる部分があった。これだ。

どうしても、これにしか聴こえない。

耳でもそう思っていたが楽譜でみると音価までぴったり同じである。言うまでもなくチェロ協奏曲の主題だ。ドヴォルザークはこれをナイアガラ瀑布にて着想したという。職業上、世間にはそう言ったのだ。なぜなら米国で書いた作品は出版前にブラームスに送られ、彼が校訂しており、「チェロでこんな協奏曲が書けるなら自分も書いたのに」と唸らせた。つまり、これを見たことは確実だ。むしろブラームスに見せる前提で、原曲で「mein Leben」(わが命)と歌うこの主題(第7楽章にも現れる)を無言のメッセージにしたというのが僕の仮説である。

ヨゼファ(左)とアンナ

この協奏曲は望郷の歌だ。そして彼はかつて愛した女性(ヨセフィーナ・カウニッツ伯爵夫人)が重病との知らせをニューヨークで聞いていた。すべてを覚悟した彼は冒頭主題をドイツ・レクイエムに借り、第2楽章では彼女の好きだった主題(歌曲Lass’ mich allein)を歌い、そして、彼女の訃報をきくと、第3楽章に長いコーダを追悼としてつけ加えた。彼の妻アンナはヨセフィーナの妹だが、どれだけ姉を愛し、どれだけ幸福な時間を共に過ごしたかが涙をたたえて吐露されるのである。音楽は止まりそうになり、そして、何よりの証拠に、チェロのモノローグが “問題の主題” を静かに回想する。それは作曲時点からいずれ来る別れの日へ向けた、残された者への慰撫のレクイエムだったのだ。この協奏曲の主題が先住民インディアンや南部の黒人霊歌から採られたという米国の愛国者による愛すべき説を作曲家は否定している。ナイアガラ瀑布、あんなものはプラハにはない。故郷でもらっていた25倍もの瀑布並みの給料をくれた彼等への精一杯のリップサービスだったのだろう。

余談だが、ブラームスは「mein Leben」主題を愛してやまなかった別な主題から取ったのではないかと想像している。どなたもご存じのこれだ。

一度きくと頭にリフレーンする、クラシック音楽で最高のヴィオラ名旋律のひとつだ。彼はドヴォルザークの屑籠をひっくり返す必要はなかった。

第3楽章は、楽譜を見ながら音を聴いていただいたほうがいいと思う。サヴァリッシュ / ウィーン響、バリトン・ソロはフランツ・クラスだ。お示しした箇所は1分40秒である。その後も、フーガまで「mein Leben」主題が合唱に、オケ伴奏に再三現れることをご確認いただきたい(3分38秒でTimを伴って爆発)。

ドイツ・レクイエムの初演は3回行われた。1回目は1867年12月1日にウィーンで最初の3つの楽章だけ、2回目は1868年4月10日にブレーメンでブラームス自身の指揮で第5楽章を除く6楽章、3回目が1869年2月18日にカール・ライネッケ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による7曲全曲である。

1回目の指揮者はシューベルト「未完成」および、ワーグナー「ニュルンベルグのマイスタージンガー」のウィーン初演を指揮したウィーン楽友協会合唱団の創始者ヨハン・ヘルベック(1831-1877)である。このビデオの合唱団であるWiener Singvereinがそれであり、ハンブルグ・フィル指揮者ポストの落選事件で翌1863年にブラームスが指揮者に就任したのがそれである。

1回目の初演は失敗だった。第3楽章でティンパニ奏者が楽譜の指示を読み間違え、フーガの持続二音(ペダル・ポイント)を強打して演奏を壊してしまい、聴衆は罵声を浴びせ、ブラームスの支持者ハンスリックまでもが「ペダル・ポイントはトンネルを通る列車の轟音のようだ」と皮肉なコメントをした(反対派の陰謀説もある)。

ピアノソロ+ティンパニという興味深いバージョンのビデオがある。バーデン・ヴュルテンベルク州立青少年合唱団は15歳から25歳の70人ほどが州内の学校合唱団、青少年合唱団、大学合唱団から集まり、ウィットサン休暇と秋の休暇中にそれぞれ1週間集まる。バーデン・ヴュルテンベルクの州都シュトゥットガルトはベンツ、ポルシェの本社があり、この曲ゆかりのバーデン=バーデン、カールスルーエもある。さすがご当地のアマチュア合唱団。立派な演奏である。

余談ながら、これで聴く限り終結部でティンパニが強打するが合唱がマスキングされることはない。初演の失敗はオーケストラの崩壊だったのではないか。とすると団員に予想外だったことになり、ティンパニストを巻き込んだワーグナー派の陰謀説もまんざらでもないと思ってしまう。

Categories:______ドヴォルザーク, ______ブラームス

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