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カテゴリー: 徒然に

集中力を高めて願ったことは実現する

2023 MAY 8 19:19:21 pm by 東 賢太郎

字にコンプレックスがある。なぜ算数で点が悪いかと思ったら自分の書いたぐしゃぐしゃな数字を読み違えてる。そこでゆっくりと丁寧にかいてみた。すると考える速さも遅くなってもっと害がある。やむなく大き目の字を書くことで解決はした。しかしその字がいかにもヘタクソなのだ。でっかいだけに目立ち、人間まで稚拙にみえる。

かたや家内は書道をやりだして段位をとった。やったらどうと薦められたがコンプレックスまであるものは無理だ。見ていると、床に紙を敷いて集中してゆっくりと大きな字を書いてる。大事な部分は宙に筆を止めて集中している。すぐその横を猫がすたすた歩いてく。よく書けるね。これは僕には絶対に無理だ。

ネットで面白い番組を見つけた。宇宙のすべては素粒子でできている。人の意志もそうでフォトンの波が出ている。喜怒哀楽に応じてその波が周囲の人にも伝播する。興奮したり集中したりすると波がデカくなる。それがデッカく周囲にも及ぶ。すると周囲の環境まで変えるから「集中力を高めて願ったことは実現する」というのだ。でも現実はそうじゃない。なぜかというと、プラス思考が顕在意識(いま考えてること)にいくらあっても、潜在意識(無意識に考えてること)に「そんな馬鹿な」「どうせ無理でしょ」なんてマイナス思考があると相殺されてしまい、波が微弱になって周囲に届かない。だから実現しない。

なるほど。それを量子力学だとされても浅学で理解できないが、しかし、直感的には当たっている。我ながら、人生の中で本気で願ったことはわりあい実現してきた気がするからだ。ただし「できればそうなって欲しい」程度じゃいけない。「不退転の決意でそうしたいと一心不乱に集中したもの」だけだ。気がついてみると、絶対に成功すると信じこんでいる自分がいる。微塵も疑ってない。頭の中は恐山の巫女状態になってる。偶然そうなるのでなく、意図してその状態を作れるのだ。ご想像していただけるようにそれを「スナイパー性格」と呼んでいる。

野球の投手経験者は比較的わかると思う。打たれていいと思って打者に向かう者はいない。常に「必殺」を目論んでマウンドに立っている。上級ゴルファーのパットもそうだ。「打たれるかも」「嫌なラインだな」なんて声が脳裏(潜在意識)に響くともうだめなのである。だから声のスイッチを意図的にオフにする訓練を無意識に積んでいる。では入試や面接やプレゼンの場でもそんな効能があるのか?すでに答えは書いた。そう思う人には効能はない。思わない人にはある。したがって、「集中力を高めて願ったことは実現する」ということになる。

しかし猫が歩いたらいけない。そういう訓練はしてないから僕はストライクもパットも入らないに違いない。

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ふしぎな断捨離願望

2023 MAY 7 11:11:31 am by 東 賢太郎

近ごろ、とみにモノにこだわりがなくなってきた。人には断捨離派と捨てられない派がいる。後者の権化みたいだったのが変わってきたのだろうか。音楽もあんまりきいてないし、オーディオやらためこんだCDも誰かにあげちまっていいかもしれないし、家だって売り払って家内とどっか山奥に住むかなんて思ったりもする。もしそうなっても、持っていくのは猫ぐらいだ。

ないと困るものなど実はそんなにない。アメリカで初めて所帯を持った時、古道具屋でなけなしの100ドルで買った安物の金ぴか家具が誇らしかったりした。日本食はおあずけ。それでも新婚で楽しくカジノに行く蛮勇もあった。友人は留学が決まって彼女にプロポーズしたら「断られましてね」と笑う。ひとりで何もできない僕は切実だったが家内にはよくぞついて来てくれたと感謝しかない。

それから18年の月日がたって香港から帰国した。住んだのは世田谷の代田だった。家はというと海外の家具類に加えグランドピアノまで買ったからまことに狭隘である。しばらくすると家主が出てくれと言ってきた。会社も50才になると家賃補助が減るぞと通告してきた。暗に買えという。身の丈だった7~8千万の家を見て回ったが海外の社長公邸に住んだ者にはとうてい無理。悩ましかった。

いいと思ったのが思い出の地の駒場だった。しかし土地だけで1億越え。とても手が出ない。こんなに苦労してきて俺の価値はそんなもんか。悔しくて歯ぎしりした。これは会社を移る大きな後押しになり、仕事より家族を優先させた人生初の出来事でもあった。新しい会社でローンの上限が増え、代沢に100坪ぐらいの庭付きの借家が見つかった。車もジャガー。おおいに出世した気分である。

そこには満足して5年住み、満を持して建てたのが今の家だ。いまなら気絶しそうな額を銀行が貸してくれる。懸命に仕事して俺の価値はあがっていた。邸宅やら高級車やら、そういうものは実は元からあんまり興味ない。海外でさんざん苦労をかけた罪滅ぼしに家内にいい思いさせようと思っただけだ。5人いて猫もいまや5匹、この家はコロナで長いこと閉じこもっていて不都合なかった。

自分はいまもってティッシュ1枚がもったいないと思うしカルピスを飲んでコップに白いのが残るとまた水を入れて飲むし、買ってもらった新しいスニーカーを汚すのが嫌でなかなか履けない。外へ出ても、まあラーメン代の千円もあれば充分な男だ。社長と呼ばれるのも身にそぐわないし、東さんが身の丈にちょうどいいし、クラス会で女性軍の東クンには清々しい感動すら覚えたものだ。

よく考えると、同じ家に14年なんて初めてなのだ。海外ドサ周りで1,2年でころころ引っ越ししてた。大変だったが楽しみでもあった。時々夢に出る。外国の知らない街に赴任になって住み家を探してる。高台の豪邸を見つけてこれなら家内も満足してくれるだろうと目が覚める。畢竟、それが生き甲斐なんだろう。14年もしないと物足りない。そういう断捨離願望なのかもしれない。

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熱中と感謝でのりきった試練の1年

2023 MAY 5 2:02:43 am by 東 賢太郎

これが先月に新興蒸留所の試飲会で買ってきた2本だ。ウンチクはいい。詳しいわけでないし、ただ、気にいった。ワインのほうは近所の商店街の酒屋のおばさんに「重めの赤」とアバウトにいって「これぐらいですね、うちは」と何気なく出てきた1800円ぐらいのが良くてまとめ買いしてる。酒の味はそうわからないが、百薬の長ではある。うまいと思うのを飲んでれば健康だろう。

こっちは神山先生おすすめの長白山人参である。いわゆる朝鮮ニンジンの一種だ。煮だしてショウガを入れて朝晩に飲むのだが、先生の細かな指示に従ってやらないと効能が飛んでしまうとのこと。繊細なのだ。かつてソウルに行くたびに土産に買って飲んでいたが効いた実感はなく、こいつはまったくモノが違うようだ。何人かの患者さんに体験を聞くと救われましたのオンパレード。先生、これ市販だと1万円は軽いよ、なんぼなんでも800円はないだろう。

もう何年も前から月に2回、マッサージに通ってる。毎度全身を140分だ。親身にやってくれる店長のHさんを見こんでのことだ。いつも雑談してそのうち寝てしまうが、先日、ブログの読者だと知った。二胡を始めた話は彼女のことであり、きのうは栃木のなんとかという花見の名所が外人だらけでしたよ、コロナ消えちゃいましたね、そういえば古墳めぐりも趣味ですなんて話に花が咲く。

フィナンシャル・プランナーのFくんに会ったら、今度は音楽関係に同行してください、そうそう、サッカー嫌いですかときた。嫌いじゃない、知らないだけと思うよ、だってミラノと香港、観戦したのその2回だけでJリーグないし。そのうち行くことになりそうだ。音楽ってのはストラディだったかなんだったか名器を所有して貸し出してほしい人がいるって話だったかな。これも面白い。

仕事ではドローン関係のスタートアップに関わっている。3年前に投資してもう2倍になってる。T社長は期待の星。僕より一回り若くエネルギッシュだ。発想のスケールがデカく胆力もある。海外で通用するな、先週に会食したがその思いを強くした。僕の言葉をメシの席でメモる。この知的な貪欲さは武器だ。こういう人は全力で支援するし、ぜひ大成して1兆円企業になっていただきたい。ユニコーン(千億円超の未公開企業)は米中の独占だが風穴を開けてもらおう。

今日が親父の命日。ほんとうに早い。ここからは健康第一だが、日々新しいことを探して熱中しないとボケる。ボケると体もダメになる。この1年はとてもしんどかったが、それも試練である。周囲の方々、新しく出会った方々のサポートのおかげで乗り切ることができたから感謝しかない。熱中と感謝。これを忘れなければまだひと仕事できる気がしてきた。

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広島・巨人戦を堪能した日曜日の午後

2023 MAY 2 0:00:32 am by 東 賢太郎

久々の東京ドームだった。3塁側バルコニー席は初めてだ。1,2階席の中間にあって、食事・ドリンク付きでくつろげる。全体的にスペースの余裕があって同じ球場と思えぬほど雑踏感と無縁。4席ごとに通路があり出入りは楽なうえ椅子もクッション付きであり、座席は傾斜があるので前の人の頭で見にくいことが一切ない。眺望は好き好きだがこれだけ全貌を一望できるのは新鮮であり、プレミアム感があった。

肝心の試合は11-4でカープが大勝。自分ではこういうスコアで勝ったことはあっても負けたことはない。巨人は先日も阪神に0-15の歴史的大敗を喫しており、選手はどんな気持ちになるんだろうと敵方ではあるが些か心配になる。そこまで気持ちよく負けというのはやろうと思ってもできるものではない。少々ではへこまない強靭な精神力を涵養するメリットはあったろう。とにかくカープファンとしてハレの日を堪能させていただいたことに感謝感激であり、誘ってくださった柏崎さんには「いやあ今日で良かった、持ってますね」と申し上げた(前日は中田に衝撃の逆転サヨナラホームランを打たれて屈辱の惨敗)。

いつもバッテリーばかり見ていたが、ここからだと内外野の守備位置や連携が手に取るようにわかる。プロは後ろ目に守るがこんなに後ろなのか、場面ごとにこんなに変えるのかと勉強になった。最高だったのは、人生3本目の上本がレフトポール際(あそこしか入らんだろう)、秋山がバックスクリーン左まで飛ばし(意外にパワーがある)、ライトに流して入れたマクブルーム(そこに打てれば30本はいける)、控え捕手の磯村がレフト中段(僕は彼の打撃を高評価している、もっと試合に出せ)とホームランが4本も観られたこと。カープが4本はあんまり記憶にない。

もう何年か前になるが、柏崎さんがブログを読んで連絡を下さったのがご縁のきっかけだ。お会いしたのは数回だが、本人より内容を覚えておられて冷や汗なほどであり、つまり僕のことはすでによくご存じだ。だから話は気持ちがいいほど早い。僕は同じ速さで会話についてきて欲しいので大事なことだ。試合が終わってから水道橋のバーで遅くまでいろんな談話をさせていただいたが、なかなか外部の方とそういう機会がなく、ブログに書けないことも話せて充実の時だった。楽しい一日を感謝申し上げたい。

新しい出会いというのが大好きだ。かつてこのかた幾つの出会いというものがあったか想像もつかないが、同じものはなく貴重でないものもまたひとつもない。男性であれ女性であれそこに必ず洋々としたブルーオーシャンを見ており、それが相手の方にとって何であろうとプラスであれば問答無用で嬉しい。これは僕の生まれつきの性格であってどうしようもない。証券界という欲の皮のつっぱった集団に居心地悪く40余年も居てきたが、基本的に僕は利己的でなく他利的だ。いや正確には、食うために利己的な行動はたくさんしてきたが、それはファミリー、仲間、お客さんを守るためであって、映画ゴッドファーザー的だ。ちなみにソナーに証券会社育ちの人は長らく僕ひとりだったが、今年からO君が参画してくれた。同業育ちは話が早い。ストレスがない。これはこれで重要なことだ。

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点と線(ヴェルディとゼッフィレリの場合)

2023 APR 15 11:11:26 am by 東 賢太郎

フランコ・ゼッフィレリ(1923-2019)についてそんなに知ってるわけでないが、我が世代にとってこの人といえばまず映画「ロミオとジュリエット」だろう。封切りは1968年だった。ヌードシーンがあるというので当時中学生の僕は手が出せず、観たのはずっと後だ(ビートルズのマッシュルームカットすら禁止の時代だった)。だからリアルタイムではあの甘い主題曲しか知らない。最初にロミオ役の出演依頼を受けたポール・マッカートニーは断ったそうだが正解だったかもしれない。主演のオリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが70才にもなって「あのヌードは児童虐待だった」と映画会社パラマウント・ピクチャーズを相手に数億ドルの損害賠償裁判を起こしたからである。ポールにそんな恥ずかしいことがおきなくてよかったが、そこまでしてカネはもういらなかっただろう。

対極の話がある。名前は伏せるが、日本の某大女優の私生活の話を聞いて驚いたのだ。「行くからよろしく」といわれて待ちかまえていた料亭の店主が、あまりに質素なので他の客に紛れて目の前に座っているのに気がつかない。なんと家では今でもまだブラウン管テレビをご覧になっている。若かりし頃を知る僕としては「あの頃」を大事にされているのだと思いたい。かたや、あの目を見張るほど可愛かったハッセーさんの変わり果てた裁判のイメージ。こんな郷愁にひたるのは日本人だけだとわかってはいるのだが・・。

エンタメ界における男女の性的なハチャメチャぶりはモーツァルトの昔からあって、不謹慎な僕などこの業界それなしでは華がないぐらいに思えてしまうのだが、これは動物である人間の本能の発露にすぎない。だからこそキリスト教が「汝姦淫するなかれ」と説く必要があったのだ。それを内に外に強制する教会という存在は不自由の権化であり、だからこそ、その禁断の呪縛から劇と音楽が解き放たれた喜びは絶大だった。シェークスピアはそれを敵対する家の男女の燃え上がるような恋、禁じられた恋の喜びに昇華させて見せ、ティーンエージャーの汚れなき純真さと、穢れきってしまった大人社会の相克が弱い者の死によって贖われる不条理を劇にした。こんな劇が現れ得たこと自体が、教会からの開放の喜びという二面性の象徴だったのだが。

ゼッフィレリはそこで画期的なロミオとジュリエット像を創造した。シェークスピアは二人が絶世の美男美女とは書いてないし、美醜に関わらず物語は成り立つだろうが、現代の読者は、この “空前の” 悲恋物語には “空前の美男美女” こそふさわしいというイルージョンを懐く。それは映画というフィクションが人類に与えた人工甘味料なのだ。ゼッフィレリはその効能を鋭敏に予知し、早々に具現化して当てたのだ。あのヴィジュアルの二人を配した大成功で、原作も音楽も及ばぬ映画のバーチャル世界がハチャメチャの深奥に踏み込んだ美の市民権までを擁立したかに見える。本作はさらに大きな潮流として「ヴィジュアル万能時代」の幕開けを呼び起こすのだが、この映画が人間にストレートに突き刺さる「視覚」を通して問いかけているのは「こんな美少年美少女がこんなひどい目にあっていいの?世の中まちがってない?」という脱キリスト教的で新鮮味すら加味された不条理なのだ。そこで生まれた感性が欧米ではBBCが報じたジャニー 喜多川みたいな方への歯止めをなくし、日本では戦国大名の頃からあったものが美女、イケメンなら少々のことをやらかしても許されてしまうおかしな社会的風土の方へ行ったと僕は思っている。「美人なら旦那が逮捕されても問題ない?またテレビに出る?そんなことはない!」という理由が「彼女はよく見るとそんなに美人じゃない」だったりして、まあ僕にはこんなものまったくどうでもいいが、奥深い仏の悟りなのか国ごと不条理なのか皆目見当もつかなくなっている。

そうした時代の方向性にとどめを刺したのが、イタリアのエンタメ界のドン、ルキノ・ヴィスコンティ(1906-76)がマーラー5番の耽美的な旋律にのせて美少年を刻印した『ベニスに死す』(1971年)だった。このヴィスコンティという男、父は北イタリア有数の貴族モドローネ公爵であり、自身も伯爵でバイセクシャルであった。僕の中ではそのどれもがロシアの地方貴族の出だったセルゲイ・ディアギレフと朧げに重なる。どちらも貧しい美少年美少女を集めて囲ってマイ社交界をつくり、富裕層を篭絡し、バレエ、演劇、オペラ、映画などエンタメ産業の装置を駆使して大衆にまでアピールし、人類に名作を残した。ヴィスコンティはパルチザンを匿う共産党員だったが視点は怜悧なネオレアリズモのインテリ貴族だったのに対し、ディアギレフはビジネスライクで世俗的な人たらしのイメージがあるが両人とも大いなる成功者であった。

フランコ・ゼッフィレリ

対してゼッフィレリは大衆が求めるヴィジュアルに鋭敏なセンサーを持っている、ヴィスコンティに憧れて囲われていた美少年のひとりであった。双方別の相手と婚姻中であったお針子の母親と服のセールスマンの父親の間の情事によって婚外子として生まれ、やはりヴィスコンティの取り巻きだったココ・シャネル(1883-1971)とも親密だった。シャネルは露天商と洗濯婦の子に生まれ修道院で育った孤児だ。お互いを憎からず思う出自であったろうふたりの共通点はそこから欧米の社交界の頂点に上りつめたことだが、出生時に戸籍を記した役所のスペルミスを終世そのまま姓に使った点もそうだった。もう一人、ヴィスコンティの取り巻きだった女性がいる。ニューヨークのギリシャ移民の子マリア・カラス(1923 – 77)である。J・F・ケネディの未亡人ジャクリーンと結婚するまでの大富豪オナシスの愛人であり、やっぱりゼッフィレリと親密になり、映画「永遠のマリア・カラス」が生まれている。

ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)の両親は宿屋主と紡績工である。出生時の名を父がフランス語で書いたためフランス人として生まれた。彼の音楽については文字を書く資格を僕は有していない。アイーダという彼の代表作をロンドンで1度だけ接待のため観ているがその1度だけであり、幾つか見たと言ってもチケットをもらったかお付き合いの接待か、少なくとも勉強しようと半ば義務感から自分で買って行ったのはリゴレットと椿姫とイ・ロンバルディだけで、どれも半ば居眠りしているうちに終わり、もういいやで帰ってきたのである。

だから我ながら今回の新国立劇場のアイーダを観ようと思ったのは空前のことだった。なぜか?ゼッフィレリの演出だったからだ。いま何がしたいといって、古代エジプトにずっぽり浸ってみたい、もうこれしかない。だって現代の世にこんな異界のライブ体験なんて、ディズニーランドに行っても味わえないのである。なぜ浸りたいかって、理由はない。僕は時々発作的にこういうことがあってひとりでふらっとバンコクやウィーンに飛んだりしている。パニックが怖いから飛行機は嫌なのに、それをも打ち砕く衝動というものには勝てない。でも今回は行ったって仕方がない、クレオパトラが出てきそうな古代じゃないとだめだから。

かくして思いは遂げられた。

これがオペラの醍醐味とまではいわないが、これを味わわずに死んでしまうのはもったいないとなら自信を持っていえる。総勢300人と1頭(白馬)が舞台をうめつくし、歌い、踊り、駆け抜け、トランペットを吹き鳴らし、生き物のように蠢く。この第2幕を9列目から眼前に眺め、空気の揺動を感じ、すさまじい気に圧倒され、ロビーで過ごした第3幕までの25分の休憩時間というもの、尋常ならぬ感動でずっと涙が止まらなくて困った。人間、求めていた図星のものを手に入れるとこんなになるのだ。後ろの席から「ここで終わればいいのにね(笑)」の声が聞こえ、なるほどと思ったのだろう、思わず僕は「これだけで3万円でも安いね」とつぶやいた。冒涜ではない、クラシック史上もっとも稼いだ作曲家への正当な賛辞と思う。

ヴェルディが「ヴェリズモ・オペラ」を書いたとするなら真骨頂は第3,4幕であり、第2幕は運命の暗転と奈落に落ちる前の束の間の歓喜だ。そこに人間劇はないし当時の饗宴を目撃した者などいないのだからレリズモのしようもないわけで、空想をふくらませて思いっきりラダメスを高く持ち上げておいて、後半でつるべ落としにする。その悲劇に三角関係の女性がからみ、地下の獄中死という更なる悲劇への人間ドラマに迫真性が増すという寸法だろう。だから、所詮は空想である饗宴という飛び込み台は高ければ高いほど効果的だ。

しかしここまで思いっきり持ち上げてしまうと、逆に、ラダメスがなぜアムネリスをふってアイーダに走ったか納得性が毀損するなんてことを考えてしまう。軍の機密を漏らせば英雄といえど死刑になる、彼はそれを知っている、だからこそ普通の男なら王女アムネリスとねんごろにうまくやって安泰じゃないのと思うわけだ(と思うのが僕を含む普通の男だろう)。「いや英雄は愛に生きるのだ。普通の男じゃないのだ」というならせっかくのリアルな人間ドラマに旧態依然で黴臭い「神話」がかったものが混入する。レリズモなんて嘘じゃないのと冷めるのだ。ということは、アイーダがそんなにいいオンナだったのだという、雑念を消すほどには納得性のあるヴィジュアルが求められるという一点に配役、演出の成否がかかる(ちなみにこの日はこれも納得で満足だった)。

この問題はラ・ボエームで顕著にあると僕はいつも思ってしまう。だから大好きなこの曲はCDで音だけきくことが多く、サロメやジョコンダのソプラノがいくら大きくてもそれはない。肺病で死んでいくミミに痩身で可愛いソプラノ・リリコを選んでしまうと、音楽的には最も肝心である第1幕の二重唱がどうかという作品自体に潜む現実的制約に悩むのだ。聴き手側に視覚と聴覚の調整を強いるキャスティングが「ヴェリズモ・オペラ」になるのかどうかという問題だ。しかし、ゼッフィレリ流は精緻なフェークに作りこまれたレリズモである。大人の妥協に波紋を投げかけるのだ。だからきっと、時代と共にタイプが変わる「美女のアイーダ」という制約条件に永遠につきまとわれるだろう。「ロミオとジュリエット」で「ヴィジュアル万能時代」への道を開いたツケが回ったわけだが彼は謎を残してあの世に旅立ってしまった。このオペラは面白い題材だったろうし、彼自身、高く評価したのはスカラ座と新国のアイーダだったときく。感謝の気持ちで書いておくが、このアイーダは世界のどのオペラハウスと比べても遜色ない。指揮のカルロ・リッツィが東京フィルハーモニー交響楽団(素晴らしい!)から引き出した音はスカラ座で聴いたものと変わらない。歌はアムネリスのアイリーン・ロバーツが印象に残った。

では最後に、ヴェルディについてだ。作曲料としてかなり法外な金額(今の1億5千万円)と、それに加えてカイロ以外のすべての上演料まで請求している。凱旋行進曲に華を添えるアイーダ・トランペットまで特注して盛り上げたかった彼がゼッフィレリの第2幕演出に反対する理由はなかろう。国会議員にもなって統一後のイタリアで「名士」に列せられた彼を聖人化して、そうではないと反論される方は、

最盛期には約670ヘクタールの土地(東京ドームのおよそ143個分)を所有していた(中略)最晩年のヴェルディのポートレートは、「作曲家」というよりもほとんど「農場主」そのものである(平凡社『ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品』加藤浩子、根井雅弘評)

という意見にも反論する必要がある。というよりも、それが事実なら問題だ、不純だしあってはならないなどと感じる感性があるとすればそれは金儲けを悪とする日本的共産主義思想の産物でしかなく、才能あるイタリア人にそんな極東の特殊な思想があるべきと希求すること自体が国際的には理解されないナンセンスだから苦労して反論する意味もあまりないと思う。ヴェルディこそ、百年前の先人モーツァルトがコックのテーブルで食事させられて怒り心頭に発したことへの仇討ちをした人物であり、著作権の概念がまだ未熟だった時代に作曲家という高度に知的な職業の本質的価値を、契約法を勉強することで自ら経済的に実証した最初の有能なビジネスマンだ。天が二物を与えることを信じたがらず、どういうわけかそれを認める者を批判さえする人は各所にいる。メジャーリーグの古手の野球ファンにもいるにはいたが、大谷の活躍がそれを蹴散らした。僕はヴェルディをそう評価しているし、それが作曲家としての名声を高めこそすれ、いささかも貶めるなどとは考えない。

ゼッフィレリがアイーダ第2幕で造り上げた究極の豪奢は蓋し空想のフェークなのだが、大衆が求めるヴィジュアルに鋭敏なセンサーを働かせた微細にリアルで見事なセットであるゆえに、僕には人間が生きるためには不要なゴミであるという反語的象徴のようにも思える。観客に見せるためでなく正気でここまでやったのだとすればもはや喜劇ですらある。「喜劇と悲劇は裏腹だ」。ゼッフィレリがそう訴えたならコミュニストのヴィスコンティに近かったかもしれない。しかし、彼が師から受け継いだレリズモはヴェルディにこそ忠実だった、と僕は思う。その理由を氏素性に求めるのは酷かもしれないが、名誉も金も哲学もあったヴィスコンティにはやりたくてもできないことをゼッフィレリもヴェルディもできたわけだ。それは「ヴィジュアル万能時代」のような世の流れを大衆から読み取ることだ。本稿を書きながら、筆の流れでそんな結論に行き着いた。しかし、新国のロビーでワインを飲みながら、第3幕までの25分の休憩時間ずっと涙が止まらなくて困った僕も、読み取られた側の大衆の一人なのだ。ヴェルディ、ゼッフィレリ万歳!

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1989年は世界史の分水嶺である

2023 APR 7 23:23:58 pm by 東 賢太郎

1987

オイゲン・ヨッフム、 モニク・アース、 ジャクリーヌ・デュ・プレ、 ヤッシャ・ハイフェッツ

1988

エフゲニー・ムラヴィンスキー、 ヘンリク・シェリング

1989 (平成元年、「ベルリンの壁崩壊、日経平均が史上最高値)

ヘルベルト・フォン・カラヤン、ヴラディーミル・ホロヴィッツ

1990 (東西ドイツ統一、湾岸危機)

レナード・バーンスタイン、  アーロン・コープランド、

1991 (ソビエト連邦崩壊)

ルドルフ・ゼルキン、 ヴィルヘルム・ケンプ、 ジノ・フランチェスカッティ

1992

オリヴィエ・メシアン、   ジョン・ケージ、 ナタン・ミルシテイン、 ニキタ・マガロフ

 

以上が著名クラシック音楽関係者の没年である。名演奏家が消え、1989年を極点として時代は転換していったように思える。

同年には昭和天皇、手塚治虫、松下幸之助、 美空ひばり、チビも逝去している(注・チビは高校時代からお世話になった猫)。世界史もこの年に「ベルリンの壁」崩壊という分水嶺を迎え、東西ドイツ統一、湾岸危機、ソビエト連邦崩壊へと雪崩をうつように急展開を遂げた。

そこから三分の一世紀。株式時価総額が米国のそれを一瞬上回ったがそれっきりだった日本国も、売り上げトップのカラヤン、バーンスタイン、ホロヴィッツを一気に失って救世主が出なかったクラシック産業界も暗黒時代を迎えている。

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世の中は何が起きるかわからない

2023 APR 7 9:09:44 am by 東 賢太郎

新年度最初の平日、日本中の企業で入社式が開かれた4月3日のことだった。

誰かは書くわけにいかないがその日にある方とお会いした。広尾でランチだった。だいぶ前のブログに少しだけ匿名で書いた、僕の大師範にあたる。いろんな意味で、ストレートな物言いになるが、動揺した。初めて語られたことがたくさんあったのもそのひとつだが、まさにいろんな意味においてだ。

この会食に至ったのは、もうひとりの師範(小師範と呼ぼう)と、まったくの偶然でお会いしたからだ。少々ややこしい。3月6日に初対面の人とランチがあって、その人が10分ほど遅れて来たのが発端だ。「すいません長引いて」と言う前の会議の相手が小師範だったことがわかって、心底びっくりしたのだ。

その場で「もう40年ぐらいお会いしてないですが・・」「いや、電話してみましょう」となって、手渡された彼のスマホから聞こえた声は当時のままだった。かくして2日後に小師範とお会いする算段になり、「おい今度は大師範を呼んでランチでもしようよ」と相成ったのが4月3日だったのだ。

ご両人とも後に大企業の社長になられた。それがあるから僕は誰と会っても何でもなくなった。学生まではぜんぜんそうじゃなかったのを家内は知ってる。4月3日はそのリプレイだったのだ。だから前日から柄にもなく緊張し、当日は逃げ出したい自分を知って驚いた。そうか、こんなだったんだ、20代の僕は。

それの前だったか後だったか、とにかくその日だったが、坂本龍一氏が亡くなったことを知った。彼の才能に憧れたのもあるが、なにせ年が近い、ともすれば俺も危ないかというのもあった。そうしたら夜になって、レコード芸術が休刊という記事が・・・。激動の4月3日が終わった。

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『レコード芸術』休刊のお知らせに思う

2023 APR 4 16:16:50 pm by 東 賢太郎

昨日、このニュースを知った。

『レコード芸術』休刊のお知らせ

当誌には高校時代から長年お世話になり、海外でも取り寄せて愛読していたので複雑な気分である。

ただ、証券マンの目にこの日が来るのは予見されていた。雑誌文化の衰退はもう誰にも止めようがない。ジャンルを問わず雑誌のほとんどは赤字と聞いて久しく、週刊朝日が5月末で休刊というニュースでこれから何が起きてもおかしくないという事態に至っていたからだ。ネットと動画に押されて文字を読む文化が顕著に後退し、新聞も部数が激減しているマクロ現象の一環だ。

次に、これは各所で私見を述べてきたが、クラシック受容文化の変質である。帰国したのにレコ芸を通しで買わなくなったのはいつからか調べると、2010年からだった。僕が愛好した評論家は硬派の大木正興氏だが、氏亡き後は文学者の格調を最後まで失わなかった吉田秀和氏(2012年没)、好悪直言型で演奏家目線の宇野功芳氏(2016年没)が逝去されたことをもって文化の変質は不可逆的と感じた。

2014年に書いたこの稿をさっき読み返してみたが、今日これを書いてもいい。

僕のクラシックのブログについて(訪問者25万に思う)

 

つまり、書いてあることは9年前からすでに起きていたわけであり、それがレコ芸という雑誌に局所的に現れたといってそれで止まるわけでもない。この流れは世界のクラシック音楽界を揺り動かし、日本の音楽産業から音大のあり方にいたるすべてを飲み込みつつある津波だからである。

3週間前に偶然だがレコ芸のことを書いていた。

ポジショントークやる奴は例外なくクズ

音楽評論誌の「立ち位置」については若い頃から考えがあったからだが、それほど僕の中では音楽を通じて社会を深く観察、考察するテキストになった重みのある雑誌である。これが消えるということは我が国のインテリゲンチャがこれから本格的に、雪崩をうって消滅してゆき、受験やクイズ番組には強いがぺらぺらに皮相的で利己的、我田引水的である疑似インテリが蔓延る社会をまぎれもなく予見していると言わざるを得ない。文化は世相を映す鏡なのである。

ではどうしたらよいのか。政治家でも教師でもない僕には何の力もない。老兵は消え去るのみだからもう関係もない。そんな酷い社会になっても家族、社員、友人たちはうまく生きていけるよう心掛け、見守るしかないだろう。

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新興蒸留所のウイスキー試飲会

2023 APR 1 9:09:30 am by 東 賢太郎

先日にたまたま知り合ったNさんの紹介でスコッチ・ウイスキーの試飲会に行った。彼との出会いは巨人の角投手のお店だ。「ボウモア入れてますが、飲み方はどうされますか?」ときかれたので「ボウモアはどうもこうもないでしょ」と言ったら、即、こんど面白い試飲会あるから行きましょう!という流れになったのだ。

場所は三宿のRUDDERというお店である。バーではなく試飲ができるセレクトショップであり、棚には魅力的なヴィンテージやレア物がずらりと並ぶ。この会は紹介者のみのメンバー制で、ただの酒飲みは入れないらしい。僕は酒飲みでないがそんなに知ってるわけでもない。息子を入れてカウンターに7人が座った。中年男ばかりと思いきや若い男性がおられ、3名は女性で想像よりずっと華やかである。

この日は市販してない酒が5種類グラスで並んでおり、一品ずつ店主の松永さんの解説を聞きながら口に含んではああだこうだと品評する。皆さんスコッチは詳しいだろうがこの5品は新興蒸留所の品で誰も知らないから好みが出る。ラフロイグ好きな当方も同じだが、皆さんくさい派なことがわかってじわじわ親近感がわいてくる。「味を何かに喩えてください」というので、女性から、5番は若いねとか、赤ちゃんくさいわねときた。もう出来上がっていた僕は、これはブラームス、こっちはモーツァルト、こいつはストラヴィンスキーだねと訳の分からない品評をしたが、火の鳥ですかと声が飛び浮いた感じはなかった。

気に入った2番と4番を買って店を出た。お互いが誰だかわからない場なのにけっこう盛り上がるものだねというとNさんが、皆さん常連で経営者のかた、国連のかた、女子アナのかた云々と教えてくれた。皆さんは知り合いだったわけだがこっちは名刺交換もしなかったし素性を明かすと出てくるめんどうな話なんかはまるでなく、話題は酒だけの一種のマスカレードであった。うまいまずいにトシも男女もない。仕事に関わるにおいが一切ない方々と、別に人生を左右するわけでもない酒の味を2時間もあれこれするなんてのは最高に贅沢な時間と思った。

これも後で知ったがお会いした主催者エピキュリアンの米澤多恵さんは雑誌「GOETHE(ゲーテ)」の副編集長をした方である。検索すると「自分が楽しめるものを、周りを気にせず自分の気持ちに素直に体験することが、人としての成熟であり、人生の多様性だと私は思います。そんな成熟した大人が増えることが、その国の文化を成熟させるのだと信じています」といいことが書いてある。僕は成熟した大人なんて立派なものではなく、毎日面白ければ万事オッケーという子供がそのまんま大人になっているだけだ。この日は面白かった。Nさんに感謝だ。

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役員を自分で2度やめた男

2023 MAR 25 11:11:35 am by 東 賢太郎

朝食の席で家内が「もしあなたが某大に行ってたらどんな人生だったかしらね」というので、なんだか意味がよくわからず、「少なくともここにはいないだろうね」と当たり前の答えをした。

何かというと合格校を辞退して浪人したことだ。先日に神山先生の講演が御茶ノ水であって、出席者の方と駿台の名物教師の話でひとしきり盛り上がった。あれが正解だったかどうか考えたことはあるが、選ばなかった道の先はわからない。「あした」なんてものは星の数ほどあったから気まぐれでしたことだった。

人生何度も苦杯をなめさせられた。でも、その一つでも欠けたらイマはない。良い負けがあるなんてクサい話ではない。どうでもよかった、悩まなくてもよかった、それだけだ。人生の最後に「よかった」と思えればいい。そうすればぜんぶの負の遺産がオセロみたいにひっくり返ってオッケーになるからだ。

思えば最近はブログが人生記になってきていてPVがもうじき900万になる。青汁に乳酸菌が100億個入ってます以上に僕にはつかみどころがないが、1分読んでくれたとして約17年も多くの人様の貴重な時間を頂戴した計算になる。どなたかは存じないが、それだけ一緒に生きて下さったことには感謝しかない。

何度も述べたが、僕は広告料や売名めあてのブロガーやユーチューバーとは違う。PVを増やそうという記事など一本もないし身勝手なトピック、身勝手な中身しか書かない。WBCのビデオを千年後の子孫が見てこう反応した先祖の子孫だと知ってもらいたいからで、PVは世間様も反応されたということだろうか。

だから本来であれば、僕は野球や音楽でなく、プロフェッショナルである投資について反応を書いて残すべきなのだがそれでは商売にならない。書かなければ僕とともに消える。だから家族はもちろん、リアルタイムで一緒に生きて下さっているお客様、社員、協力会社様との会話やあれこれの記録はとても重要だ。

ちなみに昨日はお客様と電話で1時間半話した。「東証1部上場企業の役員を自分から2度辞めました」「まるでドラマですね」から始まって、この業界酸いも甘いもという裏話からああだこうだの質疑応答に至ってそうなった。投資コンサルは哲学が必要である。助言をさせてただくのは理解して下さる方だけだ。

ブログの読者の方々も、きっと電話すれば1時間半になるような、おそらくそういうインテリジェンスがあって熱心な方々なのだろうと想像する。SMC西室にご連絡いただければお会いもするし、お取引はともかくすでに何度か来社された方もおられる。昨今は以下のようなケースもでてきた。

まず僕のブログを読んでアメリカから神山先生を訪ねてこられた方がおられたことを伺った。また、先日は東京芸大の楽理科の先生から「プリンストン大学音楽科のサイモン・モリソン教授が東さんのプロコフィエフ論のブログをレクチャーで引用したいそうなので許可いただけますか」というご連絡が西室にあった。

教授がそう思われたことに関心があり、レクチャーはあさって母校の成城学園でのようなので出席しようと思うが、「どのような経緯でモリソン先生が東さんのブログに行きついたのかわかりません。どうやらほかのピアニストの方が引用されているのをご覧になったようです」とあった。

こういうのを見て家内から質問がきたのかと思ったら、「そっちの大学なら文筆業になったかもしれないね」ということだった。「いや、才能ないよ。行った方の大学でも弁護士にならなかったしね。役員を2度やめた男のほうがずっと俺らしい」。こればかりは揺るぎない。

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