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カテゴリー: 映画

プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」作品64

2021 JAN 17 21:21:19 pm by 東 賢太郎

アメリカ大統領選のごたごたはついに人間の持つ畜生にも悖る残忍さ、おぞましさまでもをえぐり出してしまったようです。誰もが知る元大統領や権力者たち、富豪、ハリウッド・スターらが、エプスタインなる狂人の所有したカリブ海に浮かぶ小島へプライベートジェットで飛び、行なったとされる悪魔の所業が真実なら、その忌まわしさはどう文字を書き連ねても形容できるものではありません。

その報道で思い出したのが1980年のアメリカ映画「カリギュラ」です。まだ海外に出る前でショックは大きく、強烈なエログロと狂気に圧倒され吐き気を催しました。「西洋人は上品面してるが仮面を剥げば鬼畜」が第一印象。でも三国志の中国人や織田信長の残虐さも劣らないではないかと思い至り、民族に関わらず、人間は富と権力を握るとそうなるのでなく誰しもその種を持っていると考えるようになりました。のちに5か国でビジネスを取り仕切ることになりますが、カネをやり取りする仕事には目には見えない獣性の闘いのようなものがつきものです。本作がどんなスパイ映画よりリアリズムという側面で人間を活写したという理解は邪魔になるものではなかったように思います。

だた、ひとつだけ困ったことがあったのです。

この音楽、僕にとってしばしの間「カリギュラのテーマ」になってしまい、のちにローマのフォロ・ロマーノでカエサルの神殿の前に立ったとき、いきなり頭の中で誰かがスイッチを入れたようにこれが鳴り出して自分で驚くという体験をします。それ以来、レコードやコンサートで聴くたびにローマを思い出し、その数奇体験が蘇り、また行きたくなり、憑かれたように3回も行ってしまうことになります。

フォロ・ロマーノはいろんな音が聞こえる特別な場所です。現実でなく、頭の中にです。進軍ラッパ、群衆の雄たけび、断末魔の悲鳴、演説、葬送、祈り、そして凱旋門のファンファーレ。血なまぐさく、血の騒ぐ音です。それらは自分の奥深くに潜む秘密のものに共鳴して己の一端を垣間見せます。カリギュラの曽祖父アウグストゥスの別荘から見おろしたこの景色が、なぜだか、強烈に骨の髄から好きで、結局こういう視界の所を東京で探しまくって暮らす羽目になりました。

これに惹かれる自分は、こうでない場所には興味もなく、少なくとも住む気にはならず、きっとそれには何か理由があると思うのです。忍者漫画の殺し合いに熱中して育ち、野球は打者との決闘だけが楽しく、職業はディールに明け暮れてもう40年になります。それと無縁でないのでしょうか。選んでそうなったのでなく、血が騒いで導かれたということかもしれません。

「中国で犬を連れて散歩すると『おいしそうですね』と誉めてくれる。四つ足を見るとまず食べられるかなと考えるんだよ」と話す北京大学に留学した先輩に驚きましたが、東京にこんなにカラスや鳩がいるのは「きっと不味いからだ」と結論する自分もいたのです。英国ではBBCのアニマル・プラネットが好きでした。獲物を横取りし子供を殺すハイエナを雄ライオンが捕らえて嚙み殺すと、バットを持てばライオンに助太刀できると思う自分もおりました。

セルゲイ・プロコフィエフが「ロメオとジュリエット」のバレエに着想したその音楽はところどころロマン派の残照の仮面を被っており、1935-36年という作曲年代からすればこの人が前衛の道に入りきれなかったことを後半の交響曲と同じく開示しているように思います。しかし、その仮面の裏にはおぞましき獣性が潜んでおり、仮面の表情にも暗部が滲み出て能楽の面が死を暗示するかのような二面性を帯びている、そこに僕は強く引きつけられます。こういう背筋の凍るような音楽を書くことにおいてプロコフィエフほど長けた人はおりません。

シェークスピアの戯曲「ロメオとジュリエット」はベルリオーズ、グノー、チャイコフスキー、ディーリアスらの作品からフランコ・ゼフィレッリの映画まで数多の芸術家を魅了しており、文学的な評価は他に譲りますがインスピレーションに富む題材であることは否定できません。ロマンスに悲劇の暗示を盛り込む手法はチャイコフスキー作品(1869-70)に萌芽が見られ、レナード・バーンスタインも本作に着想したミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」(1957)でライトモティーフを駆使してコラージュ風にそれを達成しています。

一方でプロコフィエフはロマン派風に見える仮面に死相を暗示してバレエ全編に闇の影を投影します。誤解を恐れず書けば「ホラー的」なのです。その恐ろしさは独特で、安物のホラーが恐怖を与えるユニークな媒体を作ろうと腐心するのに対し、彼は陳腐な媒体(例・古典交響曲のガヴォット)がお門違いな所に置かれ、どこにいて何をしていたか錯乱する「認識の裁断」を恐怖に仕立てます。聴くものは瞬時には解せず暫くして鳥肌が立ち、映画なら「猿の惑星」や「シックス・センス」のラストシーンを想起させます。ロマン派風楽想が思わぬ音階、奇怪なリズム、和声で転々とし、構造に革命はないが劇場的であるという意味で21世紀になってもなお現代的です。

多くの方はカリギュラに使われた音楽を、作曲者が1937年に編んだ第2組曲(Op. 64ter)の第1曲「モンターギュー家とキャピュレット家」として知っておられましょうが、原作のバレエでは違います。まず組曲版冒頭は原曲では第1幕第7曲「大公の宣言」(The Prince Gives His Order)であり、下のロシア語版スコアではThe Duke’s Commandとなっています。僕も第2組曲から入りましたが、他の何よりこの17小節が強烈なインパクトとなって今もそのまま残っています。バレエ版で中世的なガヴォットや優美なバルコニー・シーンがこの後に出てくる「お門違い」ぶりを体験していただければ言っていることがお分かりいただけると思います。

『ロメオとジュリエット』 作品64 第1幕第7曲 大公の宣言

ホルンのF,E,Dにトロンボーン+チューバのCが加わったクラスターがクレッシェンドし、Cis,Disを除く忌まわしい10音クラスターの爆発となり、それが消えるや影だった弦5部のロ短調の清澄な和声がpppでひっそりと残ります。これが「認識の裁断」で、爆発のおぞましい残像だけが人魂の様に宙を浮遊します。類似して聞こえる春の祭典に複調はあっても意外にクラスターはなく、これはプロコフィエフ的発想の和声です。

音でお聴きください。

この後に、プロコフィエフは皆さまがテレビCMなどでおなじみの第1幕第13曲「騎士たちの踊り」の中間部を少々削って接続し、第2組曲第1曲「モンターギュー家とキャピュレット家」としたのです。こちらはピアノ譜でいいでしょう。

マニアックな事ですが、これを繋げて違和感がないのは秘密があります。ご覧のとおり旋律がEm、Bmで続きますが「大公の宣言」の10音クラスターはEm+Bmのポリトーナル(複調)にC、F、Gisを各々短2度で衝突させたもので、つまり既にホ短調、ロ短調を含んでいたのです。まるで高精度半導体の集積回路を紐解くようで、プロコフィエフがそう意図したどうかはともかく良いものはよくできていると思います。

この曲、シンプルで無性格な分散和音の旋律(右手)をドスの効いたチューバの最低音域の「単三度悪辣パワー」(参照:春の祭典の生贄の踊りのティンパニ)全開のバス(左手)が突き上げ、複雑な音も不協和音もないのに両者のミスマッチが際立っているために一度聴けば忘れない狂気が生まれているのです。これをカリギュラに使ったセンスは抜群でまぎれもなく悪党の音楽に聴こえるのですが、バレエではこういう場面でロメオもジュリエットも舞うのです。

ではいよいよ第2組曲の「モンターギュー家とキャピュレット家」です。組曲としておすすめしたいのはリッカルド・ムーティ/ フィラデルフィア管弦楽団のEMI盤で第1組曲も入っています。1981年2月録音で、その翌年から2年間僕は定期会員としてこのコンビを聴きました。この演奏は当時の彼らのベストフォームを記録した録音として、レスピーギの三部作と並び1,2を争うものと断言できます。

カリギュラがした放縦は過去ですし、現代であっても芸術に狂気は許されましょう。しかし、無尽蔵のカネと権力にあかせて現実に何でもできると考える連中は人間の形をした悪魔です。全員ひっとらえてグァンタナモ米軍基地収容所にぶちこんで頂きたいと存じます。

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ポアロの主題曲はどこから来たか?

2020 AUG 27 23:23:28 pm by 東 賢太郎

高校のころ、アガサ・クリスティーの探偵エルキュール・ポアロに僕はモーリス・ラヴェルの風貌をダブらせて読んでいた。灰色の脳細胞、ベルギー人の小男というというとなぜかそうなってしまった(ラヴェルはフランス人だが)。ミス・マープルのイメージがなかったのは、イギリス人のおばあさんを見たことがなかったからだろう。ということでTVドラマのデヴィッド・スーシェのポアロに慣れるまでしばらくかかった。

このドラマのテーマ音楽は英国のシンフォニストであるエドマンド・ラッブラの弟子で、やはり交響曲を12曲書いた英国人クリストファー・ガニングが書いた。皮肉屋で洒落物のポアロに良くマッチしていると思うが、この節はどこかで聞いた覚えがある。

こうやってメロディーを頭の中で検索するのは何の役にも立たないがけっこう楽しい。曲を聴いて何かに似ているという直感は急に天からやってきて、たいていなかなか正解が見つからない。そのくせ似ている相手のメロディを絶対に知っているという確信と共に来るのでたちが悪く、見つかるまで意地?になって他の事はみな上の空になってしまう。

ポアロのそっくりさんは簡単だった。シューベルトのアレグレットD.915の冒頭である。マリア・ジョアオ・ピリスの演奏で。

シューベルトは、死の直前のベートーベンに一度だけ会っている。そして楽聖の死の1か月後、友人のフェルディナント・ヴァルヒャーがヴェニスに旅立つ際に書いたのがD.915だ。この曲、最晩年の作品でシューベルトは病気であり、今生の別れであるように寂しい。スビャトスラフ・リヒテルは黄泉の国を見るように弾いていて尋常でない音楽とわかる。ガニングがこれをひっぱったかどうかは知らないが、調の違いこそあれど(ハ短調とト短調)冒頭の音の並びは同じだ。

そして、そのシューベルトはこのメロディーを、ひと月前に黄泉の国に旅立ったベートーベンのここからひっぱったと思われる。交響曲第5番「運命」の第3楽章冒頭だ。

そして、ベートーベンはこのメロディーをウィーンの先達モーツァルトのここからひっぱった(スケッチブックに痕跡がある)。交響曲第40番第4楽章冒頭である。

他人の空似は気にならないが、音楽の空似は気になる。

 

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新型コロナはエイリアンである

2020 MAR 16 18:18:15 pm by 東 賢太郎

個人的に「コロナ戒厳令」に突入したのは世間がまだユルユルだった1月末だ。僕がやられたら会社は終わるので仕方ない。電車は人が2メートル以内にいる時間は乗らず、人混みに近づかず、会社では1日3回の手洗いと消毒、リステリンのうがい、ハナノアの鼻孔洗浄をやっている。「正しく恐れましょう」はもっともらしいだけで意味のない標語。敵が正体不明なのに何が正しいか誰がわかろうか。未知のウィルスのアタックは宇宙人の侵略に等しいと思わなければいけない。特効薬、ワクチンができるまでは「わけのわからないものを体内に入れないこと」以外に手はない。

ウィルスは宿主の体内に侵入しDNAを複製して子孫を残す。脳はないのにあたかも意志があるかのようだ。宿主の免疫力に制圧されないようにイタチごっこで次々と計略を弄して悪さをする。では新型コロナウィルスの「計略」とは何か?1月末の武漢チャーター第1便帰国者から2人の不顕性感染者が出たことで、僕はこう推測した。

①潜伏期間を長めに設定しよう

②初期症状を軽めに設定しよう

③そうすれば元気な感染者があちこち行って子孫を長期間ばらまいてくれる

この計略はSARS、MARS、インフルエンザにはない。だからそれらが問題なく収まったからといって今回もそうだとはいえない。新型コロナの計略は、植物が蜜に寄ってきた蜂の体に花粉をつけ、遠くまで運ばせて子孫を広くばらまこうとするのとよく似ている。花を咲かせる植物はそれで数億年も繁栄しているのだから、この計略は蜂と人の違いこそあれ成功する可能性が高いと思うべきだ。現在の途中経過の感染率、死亡率の増減や多寡に一喜一憂するより、人類にとってかつてない特性を持つ厄介な存在だと最大限に被害を想定したほうが有益だろう。

ひとつの救いとしては、ウィルスは子孫を作る工場であり運び屋である宿主を殺してしまっては意味がないから、一定の拡散をもって共存をはかり毒性が落ちるという話がある。しかし、植物も大事な運び屋であるはずの蜂を捕まえて食べてしまおうというのが出てくるからあまり善意に期待するべきではないだろう。

以上がわかったとして、ウィルスは目に見えないから怖さの実感がわきにくいのではないか。僕は新型コロナをビジュアル化するならSF映画にあった地球外生命体「エイリアン」だろうと思っている。隊員の体に卵を産んで腹を食い破って出てきて、次々と人を襲って食い殺し、宇宙船のどこに隠れているかさっぱりわからず、知能が高くてどんな武器でも殺せないあの気味の悪い怪獣である。

となると、こういうことになる。エイリアンが地球に来てしまった。やっつけてくれるスーパーマンが現れるまで、食われる犠牲者(感染者、死者)は世界中に際限なく増える。検査して陽性とわかっても特効薬がないから犠牲が止まるわけではない。陽性⇒陰性⇒陽性の人も出たから水疱瘡ウィルスのように一生体内に棲みつくかもしれない。医師も学者も犠牲になってしまうかもしれず、つまり行きつくところまで行って人類滅亡も否定はできない。1年後に特効薬・ワクチンができたときには、ウィルスはDNAを変異させている可能性もあるからだ。

ひとつだけそれを止める方法は、世界人口のすべてが今から無期限で家に閉じこもることだ。そうすればエイリアンは外に出ないから今以上には広がらない。しかし経済は確実に崩壊して息の根が止まり、むしろこちらで死者が出る。だから外出自由と外出禁止のどこか中間に「妥協点」を見つけるのが唯一できる施策だ。まず政治判断でイベント、学校に自粛要請をして、さらに緊急事態宣言を可能にした安倍首相のそれはまったくもって正しい。決めるプロセスがどうの、効果が上がったの上がんないのと騒ぐ野党は本当に能がない。今はロジカルに正しいことをやるしかなく、やってみないと効果など誰もわからない。わからないから緊急事態なのであって、その法案可決に賛成しながらそういう質問で揚げ足をとるなら真正の馬鹿である。

僕が心配なのはもうひとつの病気だ。エイリアンがどこに隠れているかわからない不気味さに世界の人々が怖気づけばクラスターは自ずとできにくくなって「集団感染」は防げたとしても、今度は人間本来の喜びや活力が犠牲になって「集団鬱病」が蔓延する。外出しなければ気が萎えて諸欲が消えうせ、大きな消費もせず、サービスも求めず、食料、薬など巣ごもりの必需品以外は売れなくなる。減収になる企業は必然として固定費削減に走り、いずれ人件費に手をつけるので失業が増え、ますます消費が減って経済が停滞する。これが意味するのは、世界的なデフレ・スパイラルである。

デフレは資本主義経済を殺す毒キノコである。食べてしまうと身体機能が麻痺する疫病にかかる。かつて人類が戦ってきたおなじみの疫病であるインフレは発熱(金利を上げる)で重篤化を抑えられるが、デフレでそれをすると体の方が死んでしまうから低体温症(マイナス金利)という未曾有の症状になる。医師である中央銀行が出せる薬がなくなる点で新型コロナと同様の事態である。経済活動が死ねば税収が途絶えて政権も倒れる。いや税収の心配をする前に大量失業で国民が飢え、暴動、革命で一部の政権は倒されるだろう。朝鮮半島は危機的だが中国も可能性があり、中東、南米、アフリカは危険であり、選挙という文明の形をとるがアメリカも日本も例外でない。

株価というものは細部だけ見れば持っていた人がパニックで売って下がっているように見えるが、マクロ的に(鳥観図的に)見れば経済の健康状態の忠実なバロメータである。投機家の売った買ったで上げ下げしているのではない。デフレで上がることはなく、従ってこの下げは金融危機であったリーマンショックとは構造的にまったくちがう。下がるところまで下がれば自律反発という安易なものではない。比喩で書くなら、エイリアンと毒キノコが同時に地球上に蔓延しつつあり、政治家も学者も医者も五里霧中という中世以後の人類が経験のない危機が襲っていることの、最もリアルタイムに数値化された、かなり信頼に足る現象であるからだ。

その究極のリスクがうっすらと(まだうっすらだが)見えてきたいま、感染が収まれば元に戻るさという楽観論は確実に消えていくだろう。政府の施策は医療崩壊を回避するために感染のピークの山を低くする方に、つまり時間を稼ぐ方に向かう。どんなに早くても1年後というスーパーマンの登場(即ち、特効薬、ワクチンの開発)までに人類はエイリアンに食われ続けるが、食われ方はゆっくりになるように仕向けようということだ(これは残念ながら正しい施策だ)。ということは、すぐにでも敵を撃退しないとやりようのないオリンピック開催はそもそも無理であり(だいぶ前の稿にそう書いた)、G7緊急テレビ会議での「エイリアンは来年までいますがオリ・パラは完全な形で実施します」という安倍首相の論理矛盾を説明する答えは延期しかない。

このままだと世界中の集団鬱病の慢性化がデフレ・スパイラルに至ることが次の恐るべき難題になることは不可避である。1年も食われ続けてエイリアンに怯えていれば、毒キノコは間違いなく地表を覆うだろうという危機なのである。その病に金融政策はビタミン剤にはなっても特効薬にはならないのは赤子でもわかる自明のことだ。GDPの6割を占める国内消費が突発的かつ持続的に減るということは、日本の人口が突然半分になってしまったような緊急事態なのである。資金需要はないだろう。そこに元から低い金利をさらに(といっても、ちょっとだけ)下げて何が起きよう?そこで日銀がETFを買えば株は上がるだろうなどという稚拙な考えは市場を愚弄しているとしか言いようもない。悪いがそういうことについて投資家は政治家や役人より賢いし、この期に及んで「リーマンショック級ではない」と発言できる日銀総裁が危機管理に何の役にも立たないことを国民はよく覚えておくべきだろう。

やるべきことは前回書いた。はっきり言って処方箋はそれしかないが、それが必要十分条件であるかどうかはやってみないとわからない。米国が崩れだしマグニチュードの問題が出るなら消費税は0%、国債を含む財政出動は総額30兆円は打ち出さなければ効果はないだろう。

我々民間人である一般市民はどうしたらいいのだろうか?収入はほぼ全員が減ることは必至だろう。減らないのは政治家と役人だけだ。皆保険の日本国に生まれたことを感謝はするが、ともあれ自分や家族や会社のためにまず身(健康)を守るしかない。人ごみに近づかず、無用なものは手を触れず、1日3回の手洗いと消毒、うがい、鼻孔洗浄をし、ストレスを溜めずによく食べ、よく眠るしかない。これを励行するしかない。それでもエイリアンに食われる可能性はあるが、その場合は運が悪かったと観念して家で寝るしかない。

デフレは毒キノコをはやす

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「ドクターX~外科医・大門未知子」を見る

2020 JAN 14 21:21:12 pm by 東 賢太郎

正月にかけて「ドクターX~外科医・大門未知子」をシリーズ1~6全部見てしまった。このドラマ、世代によって楽しみ方は色々だろうけれど、僕の場合、サラリーマンの「あるある」劇として抜群に面白かった。

あくまで自分の育った東京の周囲の話だが、僕ら昭和30年代生まれから見るとお兄ちゃん世代の20年代生まれはちょっと雰囲気が違っていた。団塊世代をピークに人口が多いものだから恋愛も受験も出世も競争が熾烈である。戦後の息吹が残っていて良くも悪くも過激で闘争的で喧嘩早く、政治に怒り社会に怒り学生運動に命までかける。あるいは反対に無責任のスーダラ節で、他人のふんどしで楽すりゃいい派もわんさかいる。

かたや我々は非闘争的でアメリカンに憧れ、ずっと享楽的で目がぎらついていない。泥臭い兄貴世代みたいになりたくないが、ノンポリで信念もないから上の世代を見ながらうまく生きていきゃいいやであった。しかしサラリーマンになるとそう甘くはなかった。ばりばりの20年代組であり数が多い昭和49年入社あたりを中心に多士済々の個性派ぞろいである。誰に愛い奴と思われるか、誰の派閥につくかで出世が決まる壮絶な御意!御意!レースがそこかしこで展開されており、不肖ワタクシもそのゲームの役者を演じていたわけだ。

その景色はきっといまも変わらない。しかし、戦争というファクターが間近にあった昭和20年、30年の断層ともいえるギャップはちょっと特別だった。お気楽な僕ら30年組は、まじめ至極で何やら異様にツッパってギラついてるお兄ちゃん方のすべったころんだのサラリーマン喜劇を、なかば火星人を見るような目で眺めるところがあった。ドクターXの主役は大門未知子だが、彼女は東帝大学病院医局を舞台に盛大に展開されるそのサラリーマン喜劇によって殺されかねない患者を危機一髪で救うスーパーマン、月光仮面の役なのだ。それが非正規雇用の女性だというのが今様バージョンだが、パターンは古典的な勧善懲悪ものだ。無論、医療の本旨から外れた喜劇が「悪」であり真実なら由々しきことだが、それを正面から重く暗く扱った「白い巨塔」が昭和20年代型のドラマなら、ドクターXはそれをパロディ化した30年代型の進化したドラマだ。

何といってもいちばん好きなのは蛭間院長(西田敏行)である。あの昭和20年代組サラリーマンの御意!派を象徴する権威・権力大好き人間のにおいがプンプンするではないか。仕事はできず日和見のいい加減派なのに出世欲は満点で、権力者への心にもない絶妙の口だけヨイショと、人とも思わぬ部下へのおどしすかしの間が妙に良くて出世してしまうが上からも下からも軽くて滑稽な存在である。セリフを読む感じは一切なく全部アドリブかと思うほどその味が自然体で出ていて、あるある、いたいた、で腹を抱えて爆笑してしまう。あの演技は人生経験からにじみ出たものだろうが他の役者が薄っぺらく見える。実に凄いと思う。

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R・シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」

2019 JUN 6 1:01:02 am by 東 賢太郎

僕がリヒャルト・シュトラウス(以下、R・シュトラウス)の音楽を特に愛好しているかというと、なくてはならないものというほどでもないのだからNOということになる。後期ロマン派の音楽には全般にあまり関心がないのは、その肥大したオーケストレーションに必然性を感じないからだ。音楽に哲学を求める気はないが、遊興だけの為の豪勢な音響を100名が鳴らしてバッハの一丁のヴァイオリンが与えてくれる感動にかなわないならそれは壮大な無駄であり、その無駄を愛でる感性の人びとの祭典としての価値がいくらあろうとも彼らの一員になるのは僕には無理だ。

大嫌いなマーラーでひとつだけ評価するのは、8番がサラウンドの音響効果をアチーブした点である。千人の交響曲の演奏家が五百人でもチケットが半額になる必要はないが、背面、側面配置のバンダがなければ半値未満だ。オーケストレーションのエフェクトというものは、ヴァイオリン一丁ではアチーブ不能な空気の振動、それは周波数、波形から音圧に至るまでのあらゆる手段で聞き手の鼓膜から毛穴までを刺激するものであり、サラウンド効果でそれが360度に降り注ぐ様の偉大な感興を音楽の魅力の一部から排除することなど何人たりとも許されない領域のものだろう。

メビウスの輪

教会のパイプオルガンを模したと言われるオーケストラは、音楽の世俗化とともにオルガンの音響もろとも教会を脱出していった。ワーグナーのどろどろ劇が教会を念頭に作曲されたと思う者はいないだろう。そしてオーケストラ音楽は、四方八方に反響する教会の音の模写のごときサラウンド効果によるマーラーの8番によって先祖の地に帰還してくるのだ。それは単なるマーラーの酔狂ではなく、後に現れる「シアターピース」によって客席や通路を含む劇場ぜんぶが演奏の場であるという確立した概念になる。しかし、帰還先であった教会という場は、それこそが元からサラウンドのシアターピースの場だったのである。教会と管弦楽はメビウスの輪の関係だったのだ。

オーケストレーションという技法が一つの完結した美学であるという考えには賛同する。それがなければ僕はストラヴィンスキーの3大バレエに魅了されることもなかったわけだが、一時期、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(Till Eulenspiegels lustige Streiche)のスコアを深い関心を持って眺めることになった。というのは、そのことをR・シュトラウスの作品を圏外に置いて議論するのはナンセンスだということを知ったからだ。その事を説くために僕は、本稿を、まず音楽史の教科書みたいな無機的な記述から始めなくてはならない。

絵画のことを思い起こしていただきたい。それはまず教会御用達のイコンなどのいわゆる宗教画であって、画材は神や聖人であり、貴族であれ一般の民であれ自然であれ、それ以外が描かれることはなかった。それがやがて外界に出て世俗化していった。しかし当初は貴族の占有物、肖像画どまりであって市民が画題になり民家の壁を飾るのは19世紀だ。それと同様に、音楽も教会に発し、貴族の占有を経由してオペラハウスや演奏会場へとほぼ絵画と平仄を合わせて世俗化していく。

バロック音楽は日本でいえば戦国時代から江戸前期あたりに王侯貴族の食卓のBGMや子女の嗜みとなり、江戸中期に古典派に進展し、後期から明治時代にロマン派が開花するというのが凡その流れだ。ドイツ人が書いたドイツを主流と見る音楽史であれ、モンテヴェルディはじめ初期のオペラが江戸初期から興行として劇場に出ていったイタリアであれ、世俗化というプロセスが市民革命によって加速して貴族の占有物が市民の手に拡散していったのは絵画もそうだし、ルイ王朝の食卓を飾った料理やテーブルマナーが「フランス料理」という名称で全欧州からロシアに至るまで拡散したのも同様のことだ。

では、クラシック音楽が貴族でなく純粋に市民による「マスの消費」を意識して書かれたのはいつごろか。それをコンサートホールを埋めている現実の聴衆の階級の比率というよりも作曲家の意識の中の視点ということで考えるなら、僕はR・シュトラウスこそ音楽に市民、というよりもはや「大衆」をターゲットとした、そしてその延長線上で後世が商業的利用への道筋を切り開くことになったムーヴメントのパイオニアだと思っている。つまり、彼の楽曲を得たことで音楽は完全に教会、宗教、世俗権力から離脱して真の意味で大衆のものとなったのである。

「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(以下、「ティル」)を初めて聞いたときに、なんだこれ、ディズニーの音楽じゃないか?と思った。ディズニーのアニメ映画『ファンタジア』に出てくる音楽はポール・デュカスの「魔法使いの弟子」なのだが、それを聞き分ける能力はまだなかったから「ティル」も僕の中では漫画の主題曲に位置づけられてしまい、R・シュトラウスというとなにやら二流の作曲家というイメージが抜けなくなってしまった。

フランクフルトに赴任して会社のドイツ人たちに「ティル」とは何か尋ねた。みんな知ってる。おばあちゃんが教えてくれたわという類で、わが国ならばさしずめ日本昔話、桃太郎や一寸法師みたいなものだ。民話の主人公の名前であり愛すべきキャラで、悪戯が過ぎて処刑されてしまったことはわかったけれどもStreich(悪戯)と彼らが言うものがピンとこなかった。ましてそれが愉快(lustige)と言われても大して可笑しくない。教会や権力者をからかうとんち話で民衆が溜飲を下げられるので流行ったらしいが、それなら落語に近い。しかし八つぁん熊さんが最後に死んじまうのはどうも日本人の感性とは遠いではないか。グリムやアンデルセンの童話もエンディングが残忍であったり、こういう教訓やユーモアの側面にあって我々と西洋人は別(different)という気持ちは今も払拭できていないのが本当のところだ。

ピエロか道化か、誠に勝手解釈で恐縮だが、それを聞いて僕がイメージしたのは昭和3-40年代に流行ったハナ肇とクレージーキャッツのコントだ。「無責任男」の植木等が突拍子もなくお門違いな格好で、迷惑でお騒がせな場面でさっそうと登場してしまい、しばらくしてそれに気がついて辺りを見回して「あっ、お呼びでない?こりゃまた失礼しました!」ってやつ。あれでみんな腹抱えて笑って憂さを晴らしたのが昭和だ。笑いは人種、人生、文化、時代で異なるがあっちには毒があってこっちにはない。まあ変なオヤジが出てきて世間をかき回して笑わせるならそういうもんだと理解しておいていいんじゃないかとドイツ人の前で思ったが、説明するドイツ語力はなく断念した(お呼びでない?こりゃまた失礼しました!)。

「ティル」の曲想はまさしく写実的だ。そのまんまアニメになる。歌なしのオペラみたいに情景が浮かんでくる。シュトラウスはソナタ形式の音楽はあまり手掛けていない。リストの標題音楽の系譜にあって即物的な描写性は前例がなく、それがこれまた際立ってリッチな管弦楽法によって極彩色で生き生きと躍動する。ティルはその好例であり僕がディズニーと思ったのも故なきことではなかったかもしれない。1895年に作曲されたこれは2年後に作曲された「魔法使いの弟子」に影響し、『ファンタジア』ばかりでなく映画産業の伴奏音響の時代的ニーズにぴったりとはまり、ハリウッドの映画音楽のひな型となり『2001年宇宙の旅』にツァラトゥストラの冒頭が使われ、ジョン・ウィリアムズの『スター・ウォーズ 』にDNAがつなっがていく。ということで、クラシック音楽は完全に教会、宗教、世俗権力から離脱して真の意味で大衆のものとなる。ムーヴメントにとどめがさされたのである。

リヒャルト・シュトラウス

だからといってなにやら二流の作曲家というイメージが払拭されることもないが、自作の演奏会を早く終えてカードがしたくなり、指揮しながら懐中時計を眺めたR・シュトラウスという人はベートーベンの様にしかめっ面でシリアスな人生を送ることには関心がなかったのだろう。麻雀がしたくて教室を抜け出した僕としてはどうも憎めない輩であり、いくつかのオペラは実演で聴くとゴブラン織りみたいに壮麗で劇的であり、管弦楽曲は何の思想性も哲学もないけれども極上厚切りのフィレステーキみたいにやわらかくてゴージャスだ。それが細密に機能的に書かれたスコアから出てくるのは意外であり、効果は彼の楽器への深い知識に基づいている。ウォルター・ピストン著「管弦楽法」では演奏時間たかだか15分のティルから5か所の引用、解説が加えられており、僕はそれを見てその道での重要性を理解した。アメリカの作曲家がどれほどR・シュトラウスのスコアを血眼になって研究したかという一つの証だ。

こんな音を書いた人はいないのだからオンリーワンであることは疑いなく、それを一流二流と評しても言葉の遊びになってしまう。音楽は楽しいもの、それを楽しむ者に如くはなしである。

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

カラヤンの作る音はR・シュトラウスのスコアを豪勢に鳴らすのに欠けるものが皆無だ。あらゆる種目で満点、偏差値80。これを中身が薄いなどと貶しても意味がない、もともとシュトラウスに意味や哲学などないのだ。83年のザルツブルグ音楽祭でウィーンPOとの「ばらの騎士」を聴いたがあれは僕が人生で知る限り極上の音の御馳走だった。あれ以来ああいうクオリティのものに接したことはなく、たぶん今後もないだろう。このCDを最上のオーディオで再生するしか手はない。

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

ティルに格調を求めるならこれしかない。作曲家がこういうものをイメージしたかと言われればNOの気が大いにするが、ともあれクレンペラー様のお手にかかると鉄も純金に変わるのだ。彼が振るとあの幻想交響曲もなにやら貴族的気品と高級ブランド感がにじみ出てしまうのだが似たことだ。カラヤンのBPOも只者でない上手さだが、音程の清楚感ではクレンペラーのPOの方が一枚上である。ということだけでもこの演奏の質の高さは恐るべし。アンサンブルのコク、トゥッティのボディある重みも最高。このおいしさ、何度味わっても飽きることなし。

(ご参考に)

マーラー 交響曲第8番 変ホ長調

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小林未郁「進撃の巨人」と「Mika Type ろ」

2018 AUG 11 13:13:21 pm by 東 賢太郎

女の人と一対一で話すのが生来苦手であり、これは相手が好みのタイプかとかそういうこととはあまり関係なく、おそらく高校までは3分と続いたケースはなかったように思う。硬派とか奥手だったとかでもなく、まあひとことでいえば、つまらないからすぐ終わってしまうのだ。

いまや変わったといえば変わったろうが、それは年を取って丸くなったのではなく、仕事なりなんなりの処世でそれも必要だということであって、実はあまり変わってないように思う。こんなことをここで公言してしまうとただでさえ女性に理解されないのがさらに危くなるが、ウソの自分で生きるのはやめたのだ。

ところが先日、シンガーソングライターの小林未郁さんとお食事で、僕はユーミンさんのファンなんで、まあ荒井さんの頃だけど、そう、中央フリーウェイってね、Fで始まって5小節でFmになっちゃうでしょ、あれ考えられんね、お会いしてどうしてってきいてみたいね、なんて話になったらなんだかんだで、ウチのスタジオ?音いいよ、ピアノ3台あるよ、録音?できますよ、たぶん、みたいなことになった。こういうこともたまにはある。

いただいたCDをさっき聴いた。僕がここでどうほめてもお世辞でしょとなるが、事実として記しておくと、2枚組ぜんぶ聴いた。ベルリンフィルでもピッチが悪いと1分で捨てるのでクレジットのつもり、一般的な言い方なら歌がすごくうまいねって、つまんないことになってしまうが。ちょっとダークでアトモスフェリック、女の子の歌なんだろうけどいまやJ-popでは貴重な大人の歌ですね、オンリーワンの世界が確立している。「EGO」「献血」が好みだ。和音よりメロディーが先に来るタイプとおっしゃったがこれだけきれいなメロディーが出てくればうらやましい。和音もオシャレ。ピアノ弾き語りっていいね、その昔はシューベルトがやってた。自分がやるなら?なんたってロング・アンド・ワインディング・ロードさ。

小林さんといえばこれが有名な「進撃の巨人」。

音楽というのはメディアの進化につれてあり方が変わってくる。20世紀初頭に映画ができると、最初はサイレント・ムービーだったが、やがて音が入る。すると「映画音楽」というものが出てくる。それが現代ではアニメのテーマや挿入曲、ゲームのBGMに進化してきているわけだ。音大の作曲科を出てゲームミュージックを書く時代なのだ。

この世界的にはやったアニメについて、彼女はこう語っている。

お食事しても自分の人生を訥々と語られる姿はこういう感じで、ああこの人はアーティストである以前から自分のやりたいものを探してたんだなと思った。

彼女の生き方は「やめないこと」。まったく同感である。僕も63年の人生で、野球、受験、仕事で3回も大きな挫折をしたが「挑戦をやめない」だけでなんとか生きてきた。

自分は空洞の状態で生まれて何もなかったが、それを忘れずに来て、見いだされて今がある。自分にはないもない、何ができるのか?どうしよう?迷っている人は、そう語る彼女に力をもらえるのではないか。

フィレンツェのドゥオモに昇ってインスパイアされて書いたという「迷宮入り」という曲は面白い。

こんど、ウチでこれを弾き語りしてもらおう。

 

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「ゴッドファーザーの血」を読んで

2018 JUL 2 22:22:17 pm by 東 賢太郎

僕のやくざ映画好きは周知だ。観ているとけっこう入りきっている自分があって、それのルーツは横山光輝の伊賀の影丸にあるのだが、役者でいうと高倉健にあこがれていたし、ゴッドファーザーのドン・ヴィトー・コルレオーネ(マーロン・ブランド)など、まさにああいう男になりたいと思って生きてきた感すらある。老いるのは嫌だが、だんだんそういう歳になってきたじゃないかと慰めることにしている。

若いころ仕事のチョンボでやくざから大金をとりたてる羽目になった顛末を書いた。

どうして証券会社に入ったの?(その8)

命が危なかったがあの親分は会社の上司よりはずっと大物だったわけで、おかげで僕は人間の欲得の業(ごう)の深さ、臆せず筋を通すことの大事さを目の前で本物のやくざに学ばせてもらった。以来、綺麗ごとのオモテの世界でうまく世渡りしようなんて連中の恥ずかしい小物ぶりは無視しながら生きている。

イタリア・マフィアにはファミリーというものがあるが神山先生によると中国人はやくざでなくても一般の人がみなそうらしく、国や会社よりファミリーの安全や利益が優先するという。つまり国益なんて概念はなく、共産党幹部にしたってそうであり、彼らが何千億円蓄財しても騒がれないのは独裁権力の圧力もあるがファミリー優先の原理ではそれは必然の結末であって、できれば自分の一族からも金のなる木が出て欲しいぐらいのところが誰にもあるのだそうだ。韓国も似るが、元大統領、財閥に富を吐き出させるショーでガス抜きしながら、しかしそれを連綿と続けているのだから本性は日本よりずっと中国寄りということだろう。

先生曰く僕はファミリーの一員である。龍門気功第九代伝人の一家であるのは光栄だが、そのことはファミリーが必ずしも血族ではないということを意味してもいる。血族に発してはいるが、そうではないその配偶者が入り、中で育った同志が入って広がる。それが運命、損益共同体であることはゴッドファーザーを見ればわかる。末端の民まで自分の利益より国を思うというのは国民国家の鏡のようだがそれは明治政府の作ったフィクションであり、形だけとはいえ世界的には稀だから金王朝は範としたいだろう。トランプの血族の扱い方を見れば、星条旗にあれほど忠誠を誓う米国人だって我々よりはそれにずっと寛容なことがわかる。

ボスの仕事はファミリーの生命と生活を守り、カネになる仕事を見つけることなのだ、それも5倍にも10倍にもなる。その仕事が合法か違法かの差と、表向きの綺麗事の看板さえ度外視すれば、証券業でボスになるというのはそれと変わらない。ちなみに僕のファミリーは家族、社員および昔からの切っても切れない仲間たちである。それを和風に服部半蔵の伊賀忍群に例えたが、アウトローか公儀隠密かという点はポイントではなく、ボスとの結びつき方にその個性はある。そういう前提を理解していただけるならば僕はコルレオーネに近いし、普通の日本人よりは神山先生の描いた中国人像に近いと言って差し支えない。

親父はまじめな銀行員だし母も普通の女性で、あんなやさしい両親のもとでどうして自分だけそんな風になったかは長年の謎だった。証券会社に入ったせいだろうとぐらいに思っていたし、それなくしてこうはならなかったのは事実だが、この本を読んでいてあることを思い出した。たまたま本屋で目にはいった「ゴッドファーザーの血」だ。著者マリオ・ルチアーノ氏はドン・ヴィトー・コルレオーネのモデルになったラッキー・ルチアーノの末裔だ。茅場町のイタリア料理店主になるまでのあれこれはどんな小説より奇なりであって、人に歴史ありだがやはり血というものもあるのかと感じた。彼は17才でお母さんからそれを聞いたようだが、僕も野村に就職するよと母に伝えたら「やっぱり血なのかしらねえ」と23才で初めてルーツの話をしてくれた。見ようによっては自身が相当の悪党でもあった伊藤博文が石碑を建ててくれたぐらいだ、子孫がヤクザ映画好きになるなりのことはあったかもしれない。

マフィアに裏切りはつきものだがマリオ氏はそれで血族までばらばらになった。裏切りは極道だけの話でなく人間は本来そういうものなのであり、シンプルでストレートなマフィアの世界に浮き彫りになって見えているに過ぎない。僕も何度か裏切りにあったが、一度はコルレオーネ流に言うならそいつをぶち殺しに行った(もちろん「社会的」にだが)。なぜそうなったか彼は絶対に知らない。半沢直樹シリーズが流行ったように銀行も壮絶というのは4年半お世話になって知ったが、人事抗争という強弱が表に見えるものという印象であった。

こういうことは孫氏や三国志や君主論を読んで学ぶというより、自分で危ない目にあって骨身に染みるという性質のものである。喧嘩をしたことのない男に技だけ仕込んで修羅場で使い物になるわけではない。証券営業マンでしたというと恥ずかしいとでも思っているのかその経歴を言いたがらない元証券マンもいるが、あの職業で僕は人間の業を知ったしそれで今がある。だから僕が見るのはひとえに、人ということになってくる。技能は努力で多少はカバーできるが、人物ばかりはどうしようもないからだ。

ちなみに男と書いたが性別は関係ない。マリオ氏によれば「女は蛇」で、それを彼ほどに語る資格もないが、イタリア人ほど気軽に女を口説き口説かれる人種とそこは違うように思う。へなちょこの男などより頼りになる女性を何人か知っているし、証券の仕事は男しかできないというものでもない。だから、そこで人物の基準として「スナイパー」というユニセックスな言葉が僕の場合は出てくる。狙撃手というとマフィアっぽいがそういう含意はなく、裏切らない、口が固いという組織人としての信用の有無がすべてという含みで、要は忠誠心と実行力ということである

もちろん僕はアウトローを礼賛する者ではない。人間は陋規(ろうき)で動くと信じているだけで、大半の人は清規(せいき、法律や道徳)に従って社会生活を営むけれど、心は陋規によって別の喜怒哀楽を生むことがあるからだ。アウトローのロー(law)が清規なのだから、文字通りそれなしに陋規の世界で生きてきたマリオ氏の経験談には生身の人間を垣間見ることができ、無機質な白黒画像のごとき清規だけの現代社会に本来の彩色がされたように感じるのだ。少なくとも、トランプや金正恩のやることはその眼の方がわかる気がする。

 

僕はスナイパーしか使わない

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J.S.バッハ モテット「主に向いて新しい歌を歌え」BWV225/1

2017 OCT 14 16:16:03 pm by 東 賢太郎

このモテットをライプツィヒの聖トーマス教会で初めて聴いたモーツァルトが驚嘆したという記録が残っている。1789年の5月、死の2年前で三大交響曲を書いた後である。残した輝かしい音楽に使われている技法はすべてマスターしていた年齢なのに「ここには学ぶことがある」と写譜した譜面が遺品の中に見つかっている。

モーツァルトはウィーンで庇護者スヴイーテンの蔵書にあったバッハ作品を知っており、平均律を四重奏に編曲もしていた。それでも未知なものがこの曲にはあった。カソリックの彼が見たプロテスタント音楽の側面もあったろうが、バッハの8声部対位法技法の凄みが耳をとらえたと考えるべきだろう。

この音楽は教会での残響と音響の空間放射なくして成り立たないだろう。ハリウッドボウルなど野外で映えるか想像すればわかる。キリスト教徒ならバッハを知らなくてもCDの音だけで教会をイメージするだろう。教会文化で育っていない僕が別なもの、それも奇想天外なものを想像してしまうのは経験論の帰結としてお許し頂くしかない。

むかし、アメリカ映画でミクロの決死隊というのがあったが、僕はこれを聴くとああやってミクロの小さな体になってバッハの脳の中を探検し、こんなものを見た感じがする。

見たのは脳みそではない、鍾乳洞の自然の驚異だ。なぜそこにそんなものがあるのか?知らない。神様に聞いてほしい。これをご覧いただきたい。

人間の中には宇宙があって、空を見てその彼方にあると感じている宇宙とそれとは実は同じものだ。それをバッハの脳が見つけて音に書きとった。前稿の「数学美とアートの美は同じもの」という感覚は僕流に表現するなら、そんなものだ。バッハの書いた音符に数学的秩序があるという人もいるが数学者にそんな人はいない。もちろん僕にはそれは証明できない。

このモテットを初めて聴いた時の驚きは忘れることがない。なんだこれはという思考停止に陥り、あっという間に終わってしまった。母の胎内で進化の歴史を超特急で経過しておぎゃあと生まれてくる、それがあっという間というなら、10分の音楽に呆然として1分に感じるのもあっという間だ。

音楽の聴き方は人それぞれだ。

 

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リゲティ 「ルクス・エテルナ(永遠の光)」

2016 SEP 15 1:01:25 am by 東 賢太郎

皆さんこれを聴いてどう感じられるだろうか。ジェルジ・リゲティ(1923-2006)はハンガリーの作曲家で、これはトーンクラスターから発展したミクロポリフォニーの手法で1966年に作曲した無伴奏16部混成合唱曲である。

僕は目をつぶっていると20種類ぐらいの「協和音」の部類(9th、11th、13thなど)が数々の色を伴ってきこえてくる。リズムはなく残響もあるかないか不明である。一貫したp~ppの静けさが無限の見えない質量を感じさせる。見えるのは黒色を背景に時間と共に変化する淡い色彩のグラデーションだけだ。

映画「2001年宇宙の旅」に使われて有名になった。宇宙空間に音はないし宇宙に行ったこともないのだが、あるならこんなものだろうというイメージがふくらむ。このスコアにはどんな秘密がこめられているのだろう?

どういうわけか、これを聴いていると眠くなる。ゴールドベルク変奏曲で眠れる気はまったくしないが、これは脳髄の奥の奥まで入り込んで麻酔作用を及ぼし、深い眠りにいざなってくれる。不眠症のかたにはおすすめの非常に不思議な音楽だ。

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バート・バカラック「雨にぬれても」の魔力 

2015 NOV 12 0:00:01 am by 東 賢太郎

これをきくと中学時代の面々の顔が浮かんでくるのなぜだろう?一気にあの頃に心がワープしてくらくらめまいがする。なにか甘酸っぱいような、ほろ苦いような・・・。

これは「明日に向って撃て!」の挿入歌ですが映画は見てません。wikiには「ビルボード誌では、1970年1月3日に週間ランキング第1位を獲得した。4週1位を獲得し、同誌年間ランキングでは第4位となった。」とあるから深夜放送で毎日のように流れたのは70年の初頭という所でしょうか。

ということは一橋中学も卒業間近です。仲間だった悪ガキ連中とお別れだぜ・・・、気になっている女の子がいたが高校でもかけらもなにもなく終わってしまったっけ。マメでなく追っかけることもなく、ぜんぜんモテませんでしたね。

バート・バカラックの名はこの曲で焼きつきました。歌手のB・J・トーマスは本命にふられてピンチヒッターだったらしく、しかも喉が痛くてドクターストップだった。5回目のテイクでやっとOKが出たのがこれだそうです。たしかに風邪声ですね。

Raindrops are falling on my head
And just like the guy whose feet
Are too big for his bed
Nothing seems to fit
Those raindrops
Are falling on my head
They keep falling.

So I just did me some
Talking to the sun
And I said I didn’t like the way
He got things done
Sleeping on the job
Those raindrops
Are falling on my head
They keep fallin’

But there’s one thing I know
The blues they send to meet me
Won’t defeat me, it won’t be long
Till happiness
Steps up to greet me

Raindrops keep falling on my head
But that doesn’t mean my eyes
Will soon be turning red
Crying’s not for me ‘cause,
I’m never gonna stop the rain
By complaining,
Because I’m free
Nothing’s worrying me

いい詩ですねえ、今の俺みたいかなんて気もする。青字の「bed」と「fit」は普通の歌ではありえない短7度(f→e)のジャンプでトーマスが苦労してますが、そのポップないい加減さが何ともいい味だしてます。Because I’m free Nothing’s worrying me・・・。だって俺は自由さ、なんにも気にしねえぜ・・・。

自由、自由、無限の時間と自由のあったあのころ・・・、この歌も僕を強烈にアメリカに誘(いざな)ってくれました。

バカラックは同じユダヤ系でフランス6人組のダリウス・ミヨーに師事したことになってます。私見(自伝を読んだ印象)ではどこまでミヨーが真面目に弟子と見たかはあやしい感じもしますがいいじゃないですか、一般にはミヨーより有名になったんだし。和声やリズムの自由な感覚は誰にも似てない、オンリーワンの魔力です。

こっちは別テイクでしょう、風邪もなおって余裕も出てる感じです。たしかあの深夜放送はこっちでしたね。

(こちらへどうぞ)

ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

 

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