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カテゴリー: ______歴史に思う

織田信長の謎(4)-女房衆皆殺しの件-

2015 SEP 2 2:02:23 am by 東 賢太郎

歴史ファンには有名な話ですが、1581年に「竹生島事件」というのがあります。概略はこういう話です。

安土城の信長が琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)に参詣したときのこと。遠路ということで、信長は羽柴秀吉の居城・長浜城に泊まるに違いないと考えた女房衆は桑実寺へお詣りに出かけたりして羽をのばしました。ところが信長はなんと当日に戻ってきてしまう。信長は女房衆の怠慢に激怒、縛り上げて即刻差し出すよう寺に命令します。女房衆は恐れおののいて寺の長老に助けを求め、長老は同情して慈悲を願いますが信長はそれを見てますます怒り、長老もろとも女房衆を成敗しました。(『信長公記』天正9年4月10日の項より)

「成敗」が処刑だったかは不明ですが、けん責ぐらいでは信長公記に載らなかっただろうからまず全員死刑でしょう。安土城に強い気があるのもむべなるかなです。社内ルールを社員が守らなかったので幹部が激怒したといえば「ナッツ姫事件」というのがありましたが、僕はあれを聞いてこの「竹生島事件」を思い出したのです。

nobunagaまず関心を持ったのは、「安土城から竹生島までの距離」でした。衛星写真の星形(安土城)⇒ひし形(長浜城)⇒丸印(竹生島)と進んだのですが、全行程往復で約120kmです。そのうち琵琶湖の船が40kmほどなので早馬が競争馬の半分の時速30km、船が10kmとすると約6時間40分の移動時間。竹生島参拝が2時間、長浜城に2時間滞在として朝6時に安土城を出れば午後5時には戻れます。船がもう少し遅くても午後6時ですね。充分に可能です。

でも女房衆は帰ってこないと確信した。信長の性格からして油を売っているのがばれたら命がないぐらい熟知しているのに不思議です。どうしてだろう?まず120kmという遠さです。その距離を日帰りという常識はなかったのでしょう。次に、可愛がられていた部下の秀吉が饗応して帰すはずがない、引きとめるに違いない、殿もそれに応じるに違いないという思いこみがあったのではないでしょうか。120kmは遠く、秀吉との関係は近かったということでしょう。

8月13日、僕は安土城近くのホテルからJR琵琶湖線で米原へ、そこから北陸本線に乗りついで長浜に行き北ビワコホテルグラツィエに宿をとりました。そして翌朝9:00、長浜港発の船で竹生島へ渡ったのです。もちろん、「竹生島事件」のあった天正9年4月10日の信長の行程をそのまま実体験したかったからであります。

nagahama昼間は安土城近くの近江八幡の町を歩きまわったので、長浜にはへとへとになって午後5時前に着き、夕食は近くの寿司屋にぶらっと出かけました。知らない土地のカウンターで地酒がいいねと親父相手に適当につまむのが僕のスタイルです。すると何気なくこんなのが目に入りました。

ルービン ・ リキ ?

何だ、地元のプロレスラーの応援ポスターか?絵の女性の色っぽい眼つきと後ろの「ヨソ見はダメ」が酔った頭に交差します。おかげでキリンビールが読めるまで5秒はかかりました。

 

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翌朝、快晴。今日も暑そうだ。琵琶湖をのぞむ絶景のホールでバイキングの朝食をすませ、9:00出航の船に並びます。

 

 

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竹生島まで約30分。いっぱしのクルーズ気分です。対岸は琵琶湖西南側で比良山地、叡山の北方にあたります。この湖面は太古から変わりなし。信長も秀吉もこういう風に見ていた。彼らも同じ航路で島へ何度も向かったのです。感無量ですね。

 

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さていよいよ念願の竹生島に接岸です。歴史への思いは地面に根ざす。島は動かしようがないし、この狭い港から竹生島神社、宝厳寺へ登る参道も他に選択の余地のない場所にあり、まぎれもなく信長はここを歩いたと確信できるのです。

 

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これが竹生島神社(都久夫須麻神社)への参道です。雄略天皇3年に浅井姫命(浅井氏の氏神)を祀る小祠が建てられたのが創建とされるので5世紀の話であり、歴代天皇が参詣しています。信長、秀吉にとっても我々とたいして変わらず、すでに歴史スポットであったわけです。

 

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ここで湖へ向かって「かわらけ」を投げます。かようなお堂の背景がオーシャンブルーのレイクビューというのも見慣れません。歴代の天皇も空海も信長、秀吉もここで「絶景よのう」とつぶやいたにちがいない。

 

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これが神社の本殿(竹生島神社)。秀吉が伏見桃山城の日暮御殿(ひぐらしのごてん)を本殿にとして寄進した。この本殿の左手から、秀吉が朝鮮出兵に用いた日本丸の船櫓を用いたとされる「舟廊下」が宝厳寺へ続きます。元は弁財天社であり右手には弘法大師がいたほこらもあるが、秀吉が初めての城主となった長浜に来て彼の色が強くなったと思われます。初めて支店長になった地に強い思い入れがあったというのは気持ちわかります(僕はフランクフルトがそう)。ここを氏神とした浅井氏の三姉妹の三女・江が家光の母であり、徳川にとっても特別の場所であったろうと思います。

 

nagahama8三重塔を経て、宝厳寺の本堂へ出ます。すごく暑い。平安時代から神仏習合の信仰だったため寺が分離されたのは明治になってから。弁財天とはインド起源の神であり湖水を支配する神とされたが、琵琶湖は古代から日本海、太平洋の縦断ルートでシルクロードの末端とでもいう大陸、半島のにおいがある。じっくり勉強してみたくなります。

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本殿から港へ向かって長い長い階段を降りていくと、なにか人だかりがあり、雅楽の笙、篳篥(ひちりき)の音が遠く聞こえてきます。やがて異(い)なるものを目撃しました。この写真の行列であります。

 

 

 

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金色の烏帽子をかぶった稚児もいる平安時代のいでたち。これが自然に風景に同化してしまい、雅な楽の音もあってあたりの空気が一変します。時代感覚が麻痺するという貴重な経験を致しました。

 

 

どちらかご名家の法事でもあるのかと思っていましたが、8月14日のことであり、あとで調べるとこれだったようです。

「蓮華会」

浅井郡の中から選ばれた先頭・後頭の二人の頭人夫婦が、竹生島から弁才天様を預かり、再び竹生島に送り返します。(元来は天皇が頭人をつとめていたものを、一般の方に任せられるようになったもので、この選ばれた頭役を勤めることは最高の名誉とされてきました。この役目を終えた家は「蓮華の長者」「蓮華の家」と呼ばれます(竹生島・宝厳寺 〜西国第三十番札所~より

nagahama13港に帰りつきます。信長の装束でこの土産屋の人混みから誰かがひょっこり出てきたらそれらしく見えてしまう気分になっておりました。次の船が11時過ぎで、正味1時間ほどしか居られませんでしたが大変に濃い時間であり、ここも安土城に劣らず強い「気」を感じるところであります(特に空海のほこらのあたり)。もう一度ゆっくり来たいものです。

これが帰路にのぞむ湖東方面です。中央の雲がかかっている高い山が伊吹山で、その真下にホテルが見える。つまりそこが長浜であり、信長の船頭はこの山を目ざして漕いだに違いない。そして、伊吹山の向こう側に広がるのが、あの関ケ原なのです。

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かなり疲れました。

ここからまた早馬を駆って日帰りで安土まで戻ろうというのはフルマラソンでも走ろうかというほどの体力と精神力だと感じました。粉骨砕身の新任支店長・秀吉も島には同行していたろうし、「社長、ぜひ今宵は長浜にお泊りを!」と言わなかったはずはないんです。女房衆もどうせそうよと高をくくっていた。

想像ですが、信長はそれを読んでいたのではないでしょうか。少なくとも何らかの強い意志を持って、秀吉を振り切って帰ったのだと思うのです。安土城を築いてから約2年。度肝を抜く城を建てたのは権勢を示すためですが、まだ事は成ったわけではない。野心ある経営者が借金して巨大な本社ビルを建て、業界トップの大企業にだって買収を仕掛けるかもしれんぞと社内外に大風呂敷を広げたようなものです。

社内である安土城は大変なテンションの日々だったでしょうが、「いや~さすが殿ですな」というお追従の嵐でもあったろう。これが危険なんです。もはや天下布武は近いぞという大風呂敷が効いていて外敵の脅威に脅える日々ということもなかったのではないでしょうか。大手門から直線で天主に向う道はどう見ても防御には弱い。あれはもはや向かう所敵なしという示しであり、そういう強気なトークは敵をひるませるのですが時として社内に慢心の火種をもまくのです。

それは社長がいなくなる時間に反動でゆるみが出ることでわかるのです。僕も支店長になって出張から帰ると、そういう気配を感じた経験があります。そういう立場になってみて初めてわかる肌感覚で、なんとなくいや~な感じがするのです。怖いのは敵ではなく内輪のトップだけということであり戦う組織としてはまことにまずい。信長ほどの男にしてその感覚が研ぎ澄まされてないはずはなく、銃後の守りがそんなことでは天下布武は成らないと信長が危機感を抱いたのは想像に難くありません。

出張に出る社長が秘書室にいつ帰るか言ってないなんて考えられません。泊まるかどうか、女房衆なら身支度でもわかるはずだ。お迎えする支店長のほうの準備だって半端じゃないから、それは事前に決まっていたはずです。推測ですが、わざと「泊まりだよ」と言って出たんじゃないか。秀吉とはあらかじめ諮ってあって、ひょっとすると島にも行ってないかもしれない。不意打ちで帰って皆ちゃんと働いておればそれでよし。そうでなければ成敗してその悪い芽を根絶やしにする。そういう計略だったのではないでしょうか。

なにもその程度で殺さなくても・・・。僕もそう思いますが、当時は法律はないんです。殺人罪という法を作ろうという倫理観がなかった。諸大名を率いる者が統治するすべはアメとムチ以外に一切ありません。そのムチの恐怖による反逆、謀叛への抑止力をもつことは権力を握ることと同義であった。自身が法律という身ですから、子の名前に付けた忠、孝の文字に背く行為には極刑でのぞむのは彼のポリシーであり、それが奏功してあそこまでいったわけです。

綱紀粛正ということで思い出しますが、徳川時代にも江島生島事件があり、公務である墓参りの帰りに芝居を見て歌舞伎役者・生島新五郎と宴会におよび門限に遅れた大奥御年寄・江島の行状が発端となり、旗本であった江島の兄・白井平右衛門は切腹も許されず斬首、役者まで島流し、関係者1400名が処罰されるという大事件となっています。この事件は権力争いの謀略という側面が強いのですが、綱紀のゆるみはそれを口実に政敵をおとしめる大義に使われるほど武家社会では許されないことだったのです。

猫は鼠を殺すから残虐な動物である、だから猫はけしからんと裁いてみるのは別に間違いではないでしょうが、そういう倫理観を導入することで人間社会への貢献があるとは特に誰も考えないでしょう。歴史もそういうことと考えております。歴史は「その時代の人々が当然としている思考の枠組み」に自分の思考を意図して適合させないと誤解を招きます。僕の信長観は彼の人間性うんぬんではなく、発想と事績が日本人離れし、図抜けていたことに依っています。

(次はこちらへ)

織田信長の謎(5)-京都とミクロネシアをつなぐ線-

こちらがスタートです。

織田信長の謎(1)

 

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織田信長の謎(3)-「信長脳」という発想に共感-

2015 AUG 28 23:23:08 pm by 東 賢太郎

昨日のブログにこう書きながら、どうしてそうなったんだろうと考えてました。

「自分の御しがたい性格であるのですが、終わったことに執着がないというのが良くも悪くもございます。昨日はもう今日に関係ないのであって、簡単に忘れてしまいます。もちろん事実としての記憶はありますが、そこでの感情を引きずらないという意味ではプラスであり、その感情の発展を期待して下さった人には期待に添えないかもしれないという意味ではマイナスであります。」

おいおい信用できん奴だなと思われても仕方ないし、子供のころは決してそんなことはなかったように思うのです。むしろ昨日をひきずって悩んだりする子でした。

おそらく、①野球をして育った ②野村證券で育った、という決定的な2大要因があって「戦場脳」が後天的にできてしまったのだと思います。①も②も毎日の数字で勝ち負けが出る世界でした。勝負だから勝たないと意味がないという意味で戦場であり、戦場は常にサドンデス(負け=死)です。昨日大勝しても今しくじって負けたら終わりであり、昨日を引きずって悲観したり油断したりする者はだから弱いのです。

武士、武将がみな戦場脳が強かったかというと、たぶん太平の世になった江戸時代は違うのではないか。真剣で切り合いをしていた薩摩侍は、忠臣蔵が美談になってしまうほど殺し合いのない江戸を、そしてそんな江戸が武士道の鏡と讃える忠臣蔵を嘲笑していたそうです。たしかに、負け=一族の死という強烈なストレスとプレッシャーの中に生きていないと、日々の積み重ねで生きる農耕民族に戦場脳は発達する余地は少ないでしょう。

日本の経営者には「軸がぶれませんね」が誉め言葉です。僕はそれを言われたら不本意です。それは農耕民の価値観であって戦場ではナンセンスであり、それを喜ぶのは戦さをしていない証拠なのです。負けたら死ぬという時に軸もへったくれもないのであって、越前 朝倉攻めで信長は作戦失敗、ケツをまくって逃げ帰ってます。野球で「監督、軸がぶれませんね」は「ベンチに策がない」と同義だろうし、欧米の経営者にYour decision is always stable.なんて言うとinflexible(変えられん無能)の皮肉ととる人もいそうです。その心配が皆無である日本の経営者はすぐれて農耕民です。

僕は企業経営は朝令暮改あたりまえと思ってるし、まして朝でなく昨日のことなら改めようが何しようが是非を問うべくもなしです。昨日上がった株が今日も上がる保証なんてどこにもない世界で軸をぶらさずに今日も買いましょうなんて、すっ高値をつかんで即死するかもしれません。負けと思ったらすぐ売って逃げる。戦国武将の思考こそが自然であり現実的と思われます。

「おいおい信用できん奴だな」という不信任は困るのですが「会社をつぶす不信任」とは別格のものであって、僕は会社をつぶさないためだったらそれ以外のどんな不名誉でも不信任でも甘んじます。小さくても会社を持つとはそういう覚悟をするということであって、大名や武将が家を守るのと同じと思います。お取り潰しさえ免れればという江戸時代の大名ではなく、僕ら新興の中小企業は圧倒的に戦国大名に近い。①②のおかげでそれが楽しめてしまう、そういう性格になっていたことは有難いことです。

51Ld6Q-BbML__SX331_BO1,204,203,200_明智憲三郎氏のこの本を読んではたと気づきました。彼は「信長脳」「信秀脳」なる言葉を使っておられますが、戦国武将が「戦場脳」の持ち主だったのはあまりに当たり前であって、本能寺で信長に油断があったとか、光秀がいじめられて逆ギレしたなんてことはあり得ないと指摘しておられます。まったくそのとおりと思います。

戦場脳のない学者や小説家が書くからそういうことになるとの趣旨の指摘もされています。野球をしたことのない観衆や記者が今日の原監督の采配はどうだこうだと言ったり書いたりする、あれとまったく同じであって、僕らはそれを「歴史」として読まされ習ってきたと思います。的外れなことでしょう。

5_a明智氏が「桶狭間の勝利は幸運の結果ではなく奇襲でもなく、考え抜かれた合理的な勝つための戦法による」と看破され、実証的に戦さの実況中継風に解説されていますが、非常に腑に落ちる説明です。それが孫子をはじめとする兵法書の知識の実践であったのであり、信長に限らず戦国武将は中国古典に精通していたということもまた納得です。信長が描かせた安土城の天主の絵(右上は内藤昌氏の説に基づく復元、「安土城天主 信長の館」HPより)が中国故事のオンパレードだったのもうなずけます。

「軍人」「武士」の思考回路や瞬時の判断は、同じ思考回路を持つ脳をつくりあげないと直感すらできないと僕も思うのです。例えば野球でも、あほらしい質問を選手にするアナウンサーが大勢います。「今日のホームラン、感触はいかがでしたか?」と聞かれ、困った選手が「最高でーす!」と叫ぶ。感触が残らないのが「いい当たり」なのは硬式野球経験者には常識ですが、やったことのない人にはわからないのです。歴史でもそういうプロセスが積み重なって、戦場脳のない人の手によってやがて「信長はそこで快哉を叫んだのである」という小説ができあがる、そんな感じでしょう。娯楽ならいいが教科書はそれではまずいと思うのです。

800px-Minamoto_no_Yoshitsune実は前掲書は読んでいる途中で阿曽さんのところで歴女ですという子にさしあげてしまいました。歴女は大変いいことですね、カープ女子みたいなもんかもしれないが、女子だって北条政子がいましたからね。政子でいえばちなみに、僕は頼朝の政治力、リスク管理力は買うが大将の器としては低評価です。政子の尻に敷かれた感じであるのも嫌だが、僕はなんといっても義経が好きなのです。史実とされ語られている一ノ谷、屋島、壇ノ浦などの戦績が本当であるならば彼の軍功はすばらしく、信長同等の天才かもしれないと思います。

でも結局、その義経も殺されてしまう。戦場脳が図抜けて優秀であるがゆえに、それに劣り、部下として使いこなす才覚も能力もない兄貴が恐れて殺した。こういう小心無能な上司はいたるところにいます。いっぽうで信長の「唐入り構想」は彼みたいなグローバルな戦場脳のない部下には皆目理解できず、本能寺というクーデターの引き金となった。こういう危険な部下もいたるところにいるのです。戦場脳の最大の弱点は、「身内が敵かもしれない」というパラメーターが欠落すると、緻密であるがゆえにかえって無防備になってやられてしまうことである。これは学ばなくてはいけないことです。

歴史はいま戦場を生きている者にとって最高の羅針盤であると僕は確信いたします。会社を成長させるためのビジネススクールの教材と考えてます。孫子の兵法も机上の空論でなく歴史と実戦に学んで作られたに違いなく、だから価値が失せないのです。小説や評論は暇つぶしにはいいですが落語や漫談と同じく実用性はありません。僕は歴史をアミューズメントとして知る関心はなく暇もないので、したがって小説はあまり読みません。最高の教材は現場にあるはずです。だから安土城、長浜城のあった場所に行き、そこいらじゅうを歩き回りました。信長、秀吉の史上最高度の戦場脳を自分の脳でトレースしてみたいという欲求が断ち切れなくなったのです。

 

(こちらへどうぞ)

織田信長の謎(4)-女房衆皆殺しの件-

歴女の「うつけもの」人気の謎

 

 

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織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー

2015 AUG 20 23:23:57 pm by 東 賢太郎

AがBを殺そうと周到に準備した殺人計画があった。計画のシナリオが進行中にAの共犯者Cが裏切ってAを殺してしまった。殺す予定だったBは事前にCから計画を聞いて共謀しており、Aはそれを知らなかった。B,Cは殺人計画も共謀の事実も闇に葬ったため、「周到な準備」が殺人現場に不可解な謎として残ったのである。

この筋書きでエラリー・クイーンなら一級品のミステリーを書いてくれそうな気がする。

今回の出張で本能寺に行ってみようと思ったのはそれに関係があることは後述する。中学の修学旅行で泊まった聖護院御殿荘という旅館名だけ何故か覚えているが、部屋で相撲をとったことと本能寺を見たことしか記憶がない。しかしその本能寺は秀吉の命で移築されたもので、あの事件の起きた場所ではないことを後で知った。僕の史跡好きは土地、地面に根差している。それが本能寺で在る無いではなく、その事件が起きた場所でないと欲求を満たすものではない。

それは何のことはない、こんな場所だった。

honnnouji路標には「此附近 本能寺跡」と書いてある。「本能寺跡」ではなくて、「このへんが本能寺の跡」である。「信長はこの辺にいた」まで明らかにしたい僕としては大変に生ぬるいが仕方ない。

この道(蛸薬師通)を右に油小路通まで行くとこれがある。これが「本能寺跡」だそうだが、「このへん」と「ここ」が両立している先の路標との整合性がまったくわからない。わからんならわからんとしてくれた方が正確な情報というものだ。

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織田家の嫡男で信長の後継者と目された織田信忠は、走れば5,6分の距離である妙覚寺にいた。信長と同様に、これまた無防備であり、父子ともにこの襲撃を想像だにしていなかったように見える。地図の左下黒丸が本能寺、右上が妙覚寺であり、光秀軍はこの間を疾風怒濤の如く走ったのだ。

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もちろん僕はこの2点間を明智軍の気持ちになって歩いた。信忠が逃げ込んで切腹した場所は二条新御所で、この京都国際マンガミュージアムの裏手あたりだ。

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なぜ天下人目前の権力者信長はまったく無防備の少数の手勢でここにおり、いとも簡単に光秀の手にかかってしまったのか?修学旅行でそう話を聞いて、その場で変だなと思って、今は亡き親友の丸山に「おい、本能寺って、変だよな」とまじめに言ったら、冗談と思った奴が「バーカ」と返した。それ以来、長年にわたって僕の中でくすぶる謎であったのだ。

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その謎を快刀乱麻で解いてくれた本こそ、光秀の末裔、明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)である。信長はこの日、本能寺の茶会に堺にいる家康を招き、光秀に命じて家康を討たせる手配をしていた。家康に不信感をいだかせぬための意図した無防備だったのだ。

 

 

もういちど冒頭の太字に戻る。A=信長、B=家康、C=光秀であるというのがこの本の示す「解」だ。そうした試みは過去にいくらもあるが、この説がパワフルなのは、殺人現場に残っていた不可解な謎はもちろん、本能寺の変に関して我々が謎と思っていたこと、軽すぎる光秀の動機、速すぎる秀吉の中国大返し、話がうますぎる家康の伊賀越えなどが腑に落ちるように見事に説明できてしまうことだ。

明智氏(以下、光秀ではなく憲三郎氏)の方法論は僕がこのブログで説明した帰納法(厳密にはアブダクション)、つまり「もしAならBがうまく説明できる」というものだ。

NHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」の感想

明智氏はご先祖光秀にきせられた「利己的動機による信長殺害の単独犯」という汚名を科学的な方法でそそぐことにほぼ成功されているように思う。氏が「三面記事史観」として否定しようと試みておられるものは、僕のブログの「トンデモ演繹法」のことであり、この方が論理学的には正確だ(三面記事が間違っているとは限らないので)。

ブログでは、

僕は「刑事コロンボ」が好きだが彼の方法はアブダクションだから物証がないと逮捕できない。それがない場合が面白い。アブダクションで得た結論Bを正しいと仮定して今度は華麗に演繹法に転じてみせ、犯人にカマをかけて尻尾をつかむ。だめを押すのは物証か演繹なのだ。

と書いた。氏の試みを「ほぼ成功」と書かせていただいたのは、物証か演繹がないと成功とは言えないからだ。論理的に、誰が何と言おうと、そうなのだ。しかし、秀吉、家康によって完全犯罪に仕立てられてしまったため物証は永遠に失われたものの、氏は文献を丹念にあたられて演繹に近い解釈を(まだ解釈ではあるが)提示している。僕はその文献の正誤や新解釈の適合性を判定できないので「ほぼ」がはずれることはないが、それでも、心象としてはかなりゼロに近い。

それは氏の①事実(fact)に対する謙虚な姿勢と、②それを証明するフレームワークとなる上記の論法の適切さによる。つまり、テーマに向き合うスタンスが「理系的」なのである。僕は歴史本が好きでたくさん読んでいるが、①②が弱いため科学的でなく、数学で頭を鍛えた人の論証ではなく、馬鹿らしくなって途中で捨ててしまうものが多い。要は文系的なのである。そんな程度の物証や論考でよくそこまで言ってしまいますねという体のものが多く、学術的なものでも小説や講談とかわらんという印象を持つことが多い。歴史が文系だなどとアホなことを誰が決めたのだろう。

明智氏のこの本にはそれがなく、そういう低次元のものは排すべきという氏のインテリジェンスが基本スタンスとして全書を貫いており、説得力を獲得している。僕は歴史ファン、信長好きとして楽しんだが、上質のミステリーでもあった。名探偵が「真犯人はあなたです」と真相の解明があって、なるほど!と膝を打った時のような快感を覚えたという意味で。学生さんには歴史本としてはもちろん、物事を論証し、説得力を獲得するための広く応用可能な教科書としてこれを一読されることを強くお薦めしたい。

本能寺の変ばかりか、氏の仮説は秀吉の治世以後の日本史にも強力な説明力を有するのであり、物証が葬られ、あるいは意図的に捏造までされた中で、客観的な視点からの説明力の優劣を問うならば、これは他のいかなる仮説をも凌駕するものであると思料する。仮説(しかもはるかに説明力に劣る)を真相として書いてしまっている日本史の教科書は改められるべきではないか。少なくとも僕は今後、氏の史観を座標軸として、本能寺以後の日本史観を根底から覆そうと思う。真実とは「それらしく見える」ではなく、「そうでなくては説明できない」所に存在する。それが唯一無二の科学的態度であるからである。

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余談だが、当書の読後感としてジョセフィン・テイの推理小説である「時の娘」The Daughter of Time)を思いだした。古典的名品であり、リチャード3世による幼い2人の甥殺し(ロンドン塔に幽閉したとされる)の冤罪を現代人である警部が入院しながら解いていく。前掲書とあわせてお薦めしたい。ちなみに、このタイトルはTruth is the daughter of time.(真実は時が明らかにする)からきている。本能寺の変には、いよいよその時が来たのだと目からうろこの思いである。

 

 

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織田信長の謎(3)-「信長脳」という発想に共感-

 

 

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織田信長の謎(1)

2015 AUG 18 12:12:31 pm by 東 賢太郎

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安土城は琵琶湖東岸(湖東)の安土山にあった(地図のマークのところだ)。浅井攻めで軍功のあった秀吉を配した長浜城は北陸本線を北上した「湖北」長浜市にある。安土城は建築法が特殊であり、映画「火天の城」(これは面白い)によると熱田神宮造営に加わった大工、岡部 又右衛門による築造に壮絶なドラマがあった。天守(信長は天主と称した)は内装、外装とも大量の金箔で豪華絢爛だったと伝わる。安土山ごと要塞とした堅固な山城であったが、通例に反し天守は彼の居住空間でもあった。天皇の行幸計画まで練ったという彼の一世一代、乾坤一擲の大事業であったのだが、そのような事実を見聞すればするほど僕の興味はただ唯一、「信長はどうしてここに城を造ったか?」に集約してゆくことになった。なぜなら、この地図にてご覧のとおり、そこである地政学的な意味はまったく見いだせなかったからである。

 

aduti1JR西日本(琵琶湖線)の安土駅が至近であるが周辺にいいホテルがなく、隣の近江八幡駅のホテルニューオウミに泊まる。ニューオータニ系だがサービスは普通で、部屋はタバコ臭くて参った(ただし一番安い8800円の部屋だ)。到着したのが午後2時ごろでもあり道も不案内であるためホテルよりタクシーで安土山へ向かう(2600円で意外に高かった)。いよいよ前方に「それ」がこんな風に見えてくる。興奮は高まるばかりだ。

どうしてそんなものに興奮するか?それはする人しかわからない謎だ。そして残念ながらそういう人にまだお会いしたことがない。こういう場所に誰かと行くなら老若男女を問わず一緒に興奮してくれる人と行くしか手はないが、天守跡で蚊に食われながら1時間も一緒にいてくれる人はまずいない。ベストなのは一人で行くことだ。興奮の理由は二つある。まず第一に無条件に古跡が好きだ。その理由はない。所在地、国籍問わずであり、ローマで3回も行ったフォロ・ロマーノに明日10時間いても絶対に飽きることはない。30分ぐらい見て歩いて、疲れたねそろそろ昼メシにしようよという人とご一緒することは非常に困難である。芭蕉の「つはものどもが・・・」の心境が近いかもしれないが、芭蕉の心境の方もよくわからない。

Oda_Nobunaga-Portrait_by_Giovanni_NIcolao第二に、これが主原因だが、僕は信長が好きである。右はイエズス会画派 セミナリオ教師ジョバンニ・ニコラオ筆と伝わる信長の肖像画だ。セミナリオ(城下にあったイエズス会のミッションスクール)へ行って西洋音楽を聞きながらこんなものを描かせていた。この時代のバテレン好きは今の西洋かぶれなんかの比ではない。そして合目的的行動原理主義者である。自分もきわめてそうであり、これが痛快に腑に落ちる。そして進取の気性である。今なら米国のビットコインの最大手企業に何千億円でTOBをかけるようなタイプであると感知する。そして型破りである。村上水軍の手りゅう弾で負けると対抗策を考えぬき、鉄の鎧を着せた奇想天外な巨船を造って撃退してしまう。そしてアーティストである。能「敦盛」を舞い、茶をたて、和歌を詠んだ。彼だけではないが、武家のたしなみや見せ掛けではなく本心楽しんだのではないかと思う節がある。

信長は日本人には珍しく「皆殺し派」であった。西洋的、中国的だ。戦国時代にその善悪を説いても仕方がない。それは三国志の曹操と同様、天下布武に合目的的な行動だったと思われる。「敦盛」を舞っていたほどだから、平清盛が捕えて生かしてしまった源氏の子(頼朝)に誅殺され一族が滅亡したことを知らなかったはずがない。ただ明智憲三郎氏の著書「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)によると、信長の冷酷非情なイメージは信長の死後に秀吉が意図的に倍加捏造したものとある。「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」という句が江戸時代後期の甲子夜話にあるが、後世は秀吉による信長像が広まっていたそうだ。殺してしまえよりは捨ててしまえが似合うかなと個人的には思う次第。

aduti2山のふもとに「大手口」がある。ここからまっすぐに延々と石段が続き(写真)、物理的には壮大な山城であったことを一見して知ることになるが、心理的には天守の仰ぎ見る高さをいきなり実感させることにもなる。西洋の教会が誰も目にした経験のない巨大さと高さで信者をひれ伏させるのと似た効果を感じる。登ってすぐの所に羽柴秀吉(写真左)、前田利家(同右)の屋敷跡と伝わる遺構がある。面白い。天主へ至る道が直線では無防備なのだが、寺院の入口の門の左右に立つ仁王さんみたいなものか。秀吉の敷地の方がずっと大きいが、こういうところで差をつける。利家は御取立ての嬉しさ半ばで頑張っただろう。この段々を上がりきるだけでもう汗だくになった。

aduti3この石段の石は寄せ集めで何でもアリ。石仏まで使われている。不信心の信長はこれを踏んづけて登ったかもしれないが、逆にこういうものから不信心説が醸成されていった可能性もあろう。彼は徹底した合理主義者である。勝つためには何でもしたが念仏で戦さに勝てないなら無視。それだけだ。なぜなら安土城は城郭内に堂塔伽藍を備えた寺院(摠見寺)を持つ、後にも先にも唯一の城である。助けてくれる仏さんは大事にした。部下に黒人(弥助)がおり本能寺の変の際にも同行していたほど取り立て、末は城主にしようとしていた。秀吉と同じ路線の驚くべき出世コースがあったのだ。家康も三浦 按針を取りたてたが所詮通訳だった。発想の質に大差がある。単なる好き嫌い人事なら現代もおなじみだが、取りたてた無名の部下が武功を上げたのは信長自身が戦場の指揮官として優秀だったからであり、ローマのカエサル軍が強かったのと同じだ。信長は戦さはたくさん負けているが、負けると勝つ方法を編み出して常に進化している。発想のフレキシビリティと好奇心と学習能力!彼が天下取り一歩前まで登りつめた要因はそこにあったと感じる。

ビジネスの世界で戦う人間として、僕は彼の能力に限りない羨望を覚える。信長こそ現代ならば世界で成長する企業を牽引できる頭脳を持った男だ。秀吉は一般的イメージよりも計略も戦さも政治もうまく高い知力を感じるがさらに異能であったのはサラリーマン道の天才としてであって、その必然の理として上司がいなくなると異能の部分の発揮は不能となった。家康はあらゆる管理運営の智謀をもって安定的支配をおこなう天才であって、現代の官僚、大企業メンタリティの祖となったが、長期安定と引き換えに想定外の事態への即応と危機管理能力に欠け、相対的には信長的であった薩長明治新政府に屈した。信長の冷酷非情残虐は性格による部分もありと思われるが、現場の最前線で自身の経験として研ぎ澄ました「勝つための策」を持ち、それに寄与しないなら万事無駄であると切り捨てることは勝ってきた人間にあまりに当たり前のことだ。それを理解できず異常と観るのが99%の人間であることを知っていた賢い秀吉が、自身に都合の良い改竄した歴史を庶民に植え付けるべく誇張して書かせたのが「惟任退治記」であるという明智光秀ご末裔の明智憲三郎氏のご明察には賛同したい。

 

(次はこちらへ)

織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー

 

 

 

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安土城跡の強力な気にあたる

2015 AUG 17 1:01:00 am by 東 賢太郎

京都と近江を一人であちこち歩きました。観光ではないので一人がいいのです。というのは何かを見たい知りたいというよりも、そこに身を置いて「諸々を五感で感知する」のが目的だからです。いままで知識だけだった土地に実際に立って空気を吸って、初めてそこに関する歴史、風土、文化を頭に入れ、あれこれと思考する準備ができます。過去、ずっとそうやってものごとを理解してきた自分なりの方法論です。

特に無理なスケジュールではなかったのですが、どういうわけか心身ともに疲れ果てております。新しいものが頭にぎゅっと入っていて、その分量があまりに膨大なので消化できておりません。オーバーロードで頭の働きも鈍い。ブログを書こうにもどこからどう始めたらいいか、いちいち書いたら何十稿にもなりそうだし、そもそもその元気がありません。

わけわからないことで申し訳ないのですが、安土城跡には本当に疲れました。屋久島の山道みたいな石段を500段も登るのですが、足が疲れたからではありません、なにやらとても重いものをしょってしまった。

階段の右側が前田利家、左側が豊臣秀吉の屋敷跡

延々と登らされるてっぺんの天守閣跡まで重臣の屋敷が左右に配されるので、シンプルな構造ですが攻め落とすのは困難だったでしょう。猛暑でしたから汗だくでしたが、やっと着きました。

ここまで来るのに足が棒だ。登った者だけがわかる信長の気持ち。

天守跡に立って琵琶湖をのぞんだ時にはっと思いました。秀吉が朝鮮攻めのために九州の松浦北端に築いた名護屋城から玄界灘をのぞんだ景色にそっくりなのです(写真・下)。

築城当時は湖水が山のふもとまで迫っていた

信長は安土城の天守から湖の彼方に京を見ていた、秀吉は海の彼方に朝鮮半島を見ていた。秀吉の脳裏には安土城天守からの眺望が焼きついていたに違いなく、琵琶湖の向こう側に信長が何を見ていたかも知っていた。ああ彼は信長に憧れ、信長を凌駕したかったんだなあ、天守跡に立って風に吹かれながらそんなことを空想するわけです。

この石の土台の上に壮麗な天守閣が聳えていた。物凄い「気」を感じた場所である。

教科書に書いてないし確証もないのですがそう直感します。こういう想いを歴史のロマンとでも言うのでしょうが、僕はロマンというよりも、彼らと同じものを見て彼らの目でものを考えてみたいという実証的な関心だけです。

天守跡に1時間近く居座って「信長の目線」を体感しようとしていたら、どういうわけかがっくりと疲れてしまった。比較的に健脚なのでそんな経験はいっさいないのですが、真剣に下りの帰り道は大丈夫かなと心配になりました。やおら帰路を下りはじめるとしばらくしてポツポツと来はじめ、やがて、いったい何事かというほどの土砂降りになりました。散々な思いでやっと入り口にたどり着き、まいったなどうしようと雨宿りすると、すっと雲が割れてきて晴れ間がのぞき、以後は一滴も降りませんでした。

信長という武将はとても気になる存在でしたが身近ではありませんでした。この日はなにか強力な気に当たり洗礼を受けたようで、ますます彼を知ってみようと思った次第です。帰路に立ち寄ったイエズス会のセミナリオはキリスト教を保護した信長が西洋音楽を聴いた場所として有名です。

安土山の表門から田んぼを隔ててすぐのところにある。信長がイエズス会を心やすく迎えていたことがその距離感でわかる。

彼が天下を取っていたら鎖国はなかったろうし、日本はまったくちがった国家となっていたでしょう。

安土駅まで迷いながらけっこう歩く。電車で宿泊先の近江八幡まで戻った。

この前日に京都では、彼の終焉の地である本能寺跡に行きました。ここが日本国の命運を変えた場所です。いまは高校や老人ホームが建っています。明智軍はここから北へ上がり、二条御所にいた信長の嫡男・信忠も討ちとった。そこは京都国際マンガミュージアムになっています。平和っていいもんだなと思いました。

 

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織田信長の謎(1)

『気』の不思議(位牌とジャズの関係)

はんなり、まったり京都-泉涌寺編-

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女性が指揮者をする時代

2015 AUG 1 17:17:29 pm by 東 賢太郎

女性の指揮について前回書いていて、考えさせられました。オーケストラの指揮者とは大勢の人を棒一本で動かすわけだから軍隊の将校か会社のCEOみたいなものだろうということです。それを女性がやっていけないこともできないこともない道理なのですが、それでも過去の歴史をみる限り世の中はそう回っていなかったのも事実です。何かが変わってきている。それを考えてみましょう。

軍隊の指揮というのはやったことないがリーダーシップがいるんじゃないか。階級社会だからタイトルさえあれば絶対服従のルールがあると思われますが、それでも上官の資質に心服した兵とそうではない兵では戦闘能力に差がありそうです。だから殿様の子とはいえあまりに暗愚だとお家のために排除されるし、スポーツの監督には軍隊の長のイメージが重なります。

会社経営も同じに見えますがちょっとちがう。無能でリーダーシップが皆無の人だって、社長のいすに座れば誰であれ命令を下せるし、その権限が由来する地位、ポストだって株をそれなりに持てば安泰です。トップがその程度でも潰れない会社があるなら組織は面従腹背ではあってもそれなりに動いているということです。

しかし軍隊、軍団はトップの命令が間違えば全軍の死を意味しますからそれはない。初めから死ぬとわかっても絶対服従で真剣に突撃です。特攻隊がその象徴であり、鹿児島の知覧でそれをまのあたりに知って、造られた真剣さで亡くなっていった彼らに涙しました。そういう意味でいえば、オーケストラの指揮者は奏者が面従腹背でも音楽は鳴るわけだし、失敗しても死ぬわけでもありませんから会社経営者に近いように思います。

ところが歴史を振り返えるとオーケストラに女性奏者が入ることが一般化したのはこの半世紀あまりのことです。ベルリンフィルもウィーンフィルもチェコフィルもいなかった。20世紀半ばに生まれた僕ですが、フィラデルフィア管に女性の姿はほとんど見ませんでしたし、30年前のロンドンで室内オケで女性ヴァイオリン奏者が多かったのを見て違和感を覚え、彼女たちがブルーのドレスを着ていて場違いに思ったこと、何か損したような気分になったことをはっきりと覚えてます。

教会で伴奏していた管弦楽団が女人禁制である宗教上の伝統もあったかもしれませんが、楽団が祝典の場だけでなく軍楽隊として兵を鼓舞する場にも出て行ったことが大きいかもしれません。そうなると楽員も軍人であるという意味あいが強くなります。その指揮台に立つのは将校になるということであり、だから女性がそれになることは天地がひっくり返ってもあり得ないことだったのです。

話は変わりますが、僕は会社時代に最大で500人ほどの長の経験をさせていただきました。そこから見る地位や権力の景色はよくわかったけれど、結局あまり大したことはしなかったから500人の意味は感じられませんでした。むしろ70-120人ほどのドイツ人やスイス人の軍団(外国拠点)を率いたことのほうが、自分の手で指揮したという実感がリアルに残っています。

Roman_legion_at_attack_10

そうこうしてローマ史を読みかえしていた時、スキピオやカエサルやポンペイウスやアウグストゥスがどのぐらいの軍団を率いたのかという興味がわいてきました。ローマ軍はケントゥリア(百人隊)を単位にした6000人ほどの軍団だったようですが、彼らはそれを束ねた何万という軍を指揮したわけです。しかし一人の将がそんな規模の全軍を一気に見渡せることはなく、複数の百人隊長のような副官を指揮したのでしょう。

だからローマ軍には「組織」という概念があったわけで、現在の役所や会社の組織構成、職位、職階はみな軍隊由来であり、日本のそれはドイツ軍由来であり部長や課長という名称もその訳語だと聞いたことがあります。僕は百人隊の隊長の体感はあるわけですが、それを60個たばねた6000人隊の景色は想像もつきません。いや、仮に会社でそういう経験があったとしたって、それを可視化して体感領域に落としこむのは誰であれ難しいのではないかと思います。

1280px-Xian_museumこの6000人という数についてはあれっと思った経験があります。94年に中国・陝西省の始皇帝陵に行ったおり、兵馬俑(右)の兵隊のテラコッタの数が約6000体ときいてローマ軍を思いだしたのです。これを造った始皇帝が生きた頃、ローマでは第1次ポエニ戦争をしていました。始皇帝は青目(西洋人)だったという説もありますし、6000人隊がローマから中国に伝わったのか?これは面白い、というのが当時の他愛ない興味だったのですが。

しかし今の関心事はそのことではありません。6000人の軍団が何かの合理性があって適当な数だったのかということなのです。ローマと中国には何の交流も関わりもなく、始皇帝も東洋人であったが、たまたま6000という数に秘密があったんじゃないか。兵は多い方が一般に勝率は高いでしょうが、指揮官の意志で動く効率や機動性においては大軍は劣ります。6000人前後の軍団というのは、ひとりの将が当時の軍略と指揮命令系統の物理的な制約のもとで戦いに勝つのに最強(最適解を与える数)であったのではないかということです。

兵の数だけ揃えても、個々人が弱い烏合の衆なら軍も弱いでしょう。だからひとりひとりが一騎当千であればいい。でも一騎対二千なら相手が烏合の衆でも負ける。ところが、一騎当千が十人集合すれば組織の相乗効果で一万以上に勝てる。そうやって二つの関数の交点を求めて最適解が求まるはずだと思うのです。つまり「個々人の力」「組織力」の二つの関数であり、第一次世界大戦までの歩兵戦、騎馬戦は無数の実戦例をベースに将軍や軍略家が智恵の限りを尽くして二関数の最適解を求めた。それが6000だったかもしれないと考えるのです。

だから歩兵戦、騎馬戦の時代は個々の兵力を鍛えあげることが最重要でした。ローマの重装歩兵は有名ですが、充分な武装をしていれば殺される確率は減ります。同時に、さらに大きいかもしれないファクターとして、安全である、勝てると信じれば兵の士気も上がります。そのうえに軍略というものが乗ってくる。カエサルはそれがうまかったし重視もしたと見えますが、それなのに半分の3000人ほどの精鋭隊を率いたそうです。人数のレバレッジ効果よりも精鋭部隊、兵ひとりひとりの士気や熟練度の方が単なる頭数より大事だったということでしょう。奇襲の天才だった源義経にもそれが感じられます。

しかしこの戦略は、第2次大戦で飛行機による爆撃という新たな大量破壊、殺戮の手段が加わって、一騎打ちの要素が後退するにつれて重要度が薄れたように思います。ゼロ戦の時代からB29の時代へと兵器のフロンティアが一気に進化したからです。高射砲のとどかない上空から爆弾を落として帰ってくるだけなら、パイロットの空中戦の技量が一騎当千レベルである必要はなくなりました。爆弾の投下ボタンを押すだけなら腕力も不要なら軍団である必要もなく女性でもできることです

そうなると、軍団の戦力は兵力よりも組織力だという考えに社会が傾いていく。会社の職位名が軍由来と書きましたが、産業革命以来の現象として船舶、航空機、陸上輸送の技術はもちろんのことエネルギー開発や通信の技術、医療や薬の開発など我々が依存して生きている文明の進化は軍事技術に由来するものがほとんどで、それが日常の生活に深く浸透して我々の精神領域にまで影響を及ぼしていることは、インターネットが軍の通信由来のものであることを指摘するまでもなく容易に理解されることと思います。

だから企業を軍に見立てて、兵力よりも組織力だという方向に流れが向かい、コーポレートガバナンスという言葉が一般大衆にまで届くようになったのではないでしょうか。企業がクラブや同好会とは違って法的に適格性の問われるものである以上はそれは当然のことです。ただ、それは企業支配という一面的な観点からの議論にすぎず、そもそも利益を生み出せていない企業にとってガバナンスは大事であっても二の次だという観点からの議論は陰に隠れて見えにくくなってきた気がします。赤字企業に優秀なコンプライアンスオフィサーがいても、やがて彼も失業するだけなのです。

利益を生む、つまり稼ぐということは現場の兵の仕事であって、将校クラブの住人は別世界でガバナンスを取り仕切っていればいい。僕はホールディングカンパニー(持ち株会社)という概念が米国から入ってきたときからこれは危ないなと懸念をもっていました。なぜかというと稼がなくていいそういう箱が浮世の現実から遊離した将校クラブになりかねない。そういう気風とは遠かったであろう帝国海軍の現場ですら、トラック島沖に停泊し豪華設備を誇った戦艦大和が兵からは「大和ホテル」と揶揄されていたのです。

あくまで報道された情報しかないことをお断りしておきますが、失礼ながらシャープや東芝の昨今の例をみるとあれは大本営が将校クラブとなってしまい、6000人隊の司令官が現場はおろか百人隊の景色すら見ていなかったという観なきにしもあらずという感じがしてしまうのです。遊んでいたということではなく、百人隊クラスの長は出世がかかっていて兵の実態は伝えないかもしれない。「それが危ないんで俺は必ず自分で現場を回り、若い奴とだけメシを食うんだ」とダボス会議で言っていたGEのジャック・ウエルチの言葉が今さらながら重く思えるのです。

ウエルチはこうも言った。「会社に利益をもたらしてくれるのはお客さんだ。だから儲ける方法はお客さんと接してる奴だけが分かる。本社で新商品会議してる奴なんか誰一人分からない。そんなつまらん会議は儀式(「ritual」という単語を彼は使った)だから俺はつぶす。お客は毎日変わるし敵も毎日変わる。昨日の正解は今日は不正解かもしれないから組織は日々現場から学ばなくちゃいけない。だから俺は儲ける方法を知っていて組織に教えてくれる奴は大事にする。そういう奴が会社を成長させるから会社と利益共同体になる、すなわちストック・オプションをもらう権利がある。」と。僕が入社したころの野村證券は、日本大企業には異例なほどそういうカルチャーの会社でした。

当時米国最大企業だったGEのコーポレート・ガバナンスの頂点にある男がこう言ったのはすごいことですが、軍隊だと思えば当然のことですね。野村は軍隊みたいな会社だったし、大日本帝国陸海軍にこういう司令長官がいたらあの戦争も変わっていたかもしれない。ホテル化した大本営で会議ばかりしている司令長官は儲け方は学ばず、ただノルマの数字を現場におろす。そして百人隊長が用意周到につじつまを合わせる。現場は大丈夫かと疑いながらも何もできない。つじつま合わせが出世の合言葉になる。現場で顧客相手に汗をかく兵、本来の勝つ方法を知る人材はみな白けて軍の士気が下がる。こういう会社を僕はいくつ見てきたのだろう。

組織論やガバナンスがまず第一、それが一流企業だ。たしかにそうです。ところが「ホテル」にいると利益は自然に出てくる紙の上の数字みたいに意識がボケてきて、利益を生むのは兵ではなく組織だという感覚になりがちです。そもそもそう思わないと自分たちのレゾンデトールがない。組織というのは組織図という紙の上にはあっても現実には見に見えない架空の存在です。それが継続的に利益を生むなどイルージョンにすぎませんし、仮にそれが真実なら誰かがもっと大きくてよくできた組織図を後から書けば簡単に逆転されてしまうということでそれもない話です。ウエルチのように常に兵を見て兵と語っていないといけないのです。

文民支配を謳うあまり武官経験のない人がトップになった場合、管理やコンプライアンスは完璧でも本業である戦闘能力が十全に発揮できるかどうか。トップは自分があまり経験のない現場というものに共感はありませんから、よほどウエルチのように自分のポリシーとして接点をつくらないと兵の士気は落ちて行きかねません。オーナー社長はみなその業務で稼いだ張本人、つまり武官だから士気に関する限りの心配はありません。問題はその次が文官タイプの二世三世になったり、不祥事でコンプラやアドミの専門家みたいなタイプの人がトップに座ったような場合です。それで兵の士気が保たれるのか?

この問いにイエス、ノーの答えはないでしょう。優れたリーダーは本人の資質だけでなく、その時代背景、周囲の敵の性質など様々な要因によっても決まるし、配下の軍勢の能力や参謀、ブレインの資質によっても左右されます。攻めも守りも文武両道で両方できるなら望ましいでしょうがそんな人はあまりいない。陸海軍士官学校はだからできたのでしょうし、西洋的な意味での本当のエリートを生む理想的な機関だったと思うのですが、不幸なことに教官だってそんなエリートはあまりいないわけです。武官として必要な人間力やケンカの強さより普通人である評定者にわかりやすい試験の点数というものがものを言うようになっていってしまったのではないでしょうか。

女性指揮者が現れる。それも優秀であり力を発揮しだしている。カエサルや山本五十六みたいな男が出てこない時代になりつつあるという男の劣化の問題なのか、女の進化なのか、女性が将軍をできる時代になったという社会の変質のせいなのか。僕はその全部が同時におきていると理解しますが、いずれにせよ大きなパラダイム変換がおきているということでしょう。目には見えないのですが。人間社会のあり方は世界中で確実に変化していますね。自分のことで言えば、やっぱり男ですからローマ軍を指揮してみたい願望はあります。しかしアセットを持たない方がいい時代にそれは軍の大きさではないとも思うのです。少人数でそれができないか。今の世はそこをどうとらえるかがビジネスの成否を決めると考えています。

 

 

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女の上司についていけるか?(ナタリーとユリアの場合)

チェコ・フィルハーモニー演奏会を聴く

 

 

 

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最高の夏だった地中海クルーズ(今月のテーマ 夏休み)

2015 JUL 12 0:00:03 am by 東 賢太郎

夏休みは何回あったんだろう。物心ついた幼稚園からとすればかれこれ55回ぐらいか、そんなにあったのか!

全部がそれなりに楽しかったのでしょうが全部を覚えてるわけでもない。よほど印象に残ることをしていないと60になれば悲しいかな忘れるもんです。

なかでも、スイス駐在時代の最後の夏に家族で行った地中海クルーズは最高の思い出かもしれません。よく覚えている。クルーズはいまどきは行かれた方がけっこう多いかと思いますが、86年ロンドン時代にもギリシャの島めぐりクルーズをしましたが東洋人はひとりもおらず、この2回目でも子供連れが珍しがられたような時代でした。こういうのにスッと入れたのも海外勤務あってのことでした。いまだったらちょっと面倒くさいかもしれない。

1997年7月27日にチューリヒからスイス航空でイタリアのジェノヴァに飛びました。まだ長女は9才、次女は7才、長男は3才とかわいい盛りでした。ヴァウチャーを見てみると空港に昼前についたようです。きっちりしたスイス人の世界からええ加減でスリの多いイタリア人世界に入ったぞと頭のスイッチを切り換えます。

ジェノヴァ(ここはここでいい街だった)

子供3人というのは夫婦の4本の手に余るのでこれまた危険です。出迎えのバスを何とか探し、両手いっぱいの荷物といっしょに子供も運び込んだという感じで無事に乗船すると、うれしいよりもほっとしてが気が抜けました。

一連の乗船手続きを済ませるといよいよ出航です。やっと家族だけのプライベートで静かな空間になる。汽笛が鳴っていよいよ出航。緊張の瞬間です。向かう先はどこまでも真っ青な地中海。そこから8日間の船旅でした。だんだん遠ざかるジェノヴァの街並みと丘陵が霞みのかなたに消え、夕闇が波ひとつない大海原をすっぽりとおおうと夕食です。黄金のような時間でした。

レストランはテーブルが8日間同じです。イタリアンがメインでこれが一番美味ですがメニューは毎日趣向がかわり飽きることはなし。ホールでは音楽、ショー、マジック、ダンスなど夜遅くまでアトラクションがありカジノがあり、デッキでカクテルを飲みながら寝そべっても快適で、ホテルごと移動して朝めざめると翌日の停泊地に着いているのだから贅沢です。

そして上陸すると英、仏、独語のガイドがいるバスにそれぞれ乗って当地をあちこち観光する。 寄港したのは2日目カプリ島、3日目シチリア島(パレルモ)、4日目チュニジア(チュニス)、5日目マジョルカ島(パルマ)、6日目イビサ島、7日目バルセロナです。船の名前はメロディ(Melody)でした。

カプリ島の昼飯のパスタは最高で、今でも覚えてる。快晴でした。丘の上のかなり高台の館風レストランで垂直に近い下に深いブルーの海。人生かつて見た最も美しい景色の一つです。ローマ皇帝のティベリウスがここに別荘を建てて治世の後半を過ごしたのも納得です。そしてクルーザーで沖に出て、小舟に乗り換えて「青の洞窟」です。天候によってダメな日もありラッキーでした。この島は行く価値があります、ぜひお勧めしたいと思います。

3日目のシチリア島はどうしてもマフィアのイメージがありパレルモの街をバスで行っても街は殺伐として見えました。丘の上の寺院のようなところから海を見たことぐらいの記憶ですが、ここの絶景もすごいものでした。飲んだワインのセッコがカラッとした空気にしっくりしていた、これ以来シチリアの白というとここを思い出します。街の雰囲気ですがローマとアラブが混じった独特のもので、ジャック・イベールの交響組曲『寄港地』(第1曲がローマ~パレルモ)が見事に描いてます

シチリア島のパレルモ

そして4日目はアフリカに渡ってチュニスです。シチリアは観光に子供たちを連れて行ったのですが、なんとなく防御本能が働き、この街では船に3人置いていきました(そういう親のため子供用プレイルームが完備している)。どうしてそうしたのかもう忘れてましたが、3月にあった博物館の襲撃事件に続き先月26日にはビーチリゾートでISによる発砲で観光客38人が死亡する近代チュニジア史で最悪の襲撃事件が起きており、やはり危ない場所だった。英国政府が自国民に退避勧告したようで、もう観光どころではない場所になってしまいました。

カルタゴ遺跡にて(当時41才)

ここのハイライトはカルタゴ遺跡です。これが見たかったからこのクルーズを選んだようなものでした。船はチュニスに停泊します。カルタゴはチュニス市ではありません。街を離れてバスでけっこう走った小高い丘の上「ビュルサの丘」にありました。カルタゴはここから地中海貿易を支配し、シチリア島をめぐってローマと対立して第1次ポエニ戦争でその領有を失いました。そこでイベリア半島の開発に注力し、名将ハンニバルが象を伴って進軍してローマをあわや陥落まで追い詰めたが戦線は膠着。大スキピオに攻められたカルタゴがハンニバルを呼び戻してローマ軍と戦ったがザマの戦いで敗れました(イベリア半島経営がわが国の満州にかぶります)。

カルタゴ勢力範囲(紀元前264年頃、青色部分)

この第2次ポエニ戦争の講和条件が厳しく、ローマへの船の引き渡しと多額の賠償金支払いと共に「アフリカの近隣国と勝手に戦争したらいかん」というのがあった。ローマの許可がいるのであってこれは憲法第9条と日米安保体制と見事にかぶるわけです。ところがカルタゴの西隣にはヌミディアという凶暴な国があった。第2次ポエニでローマと同盟を組んでいるいわば連合国です。こいつがそれをいいことにカルタゴ領を頻繁に侵略してきた(これも中国のあいつぐ領海侵犯とかぶります)。

ついに堪えきれなくなったカルタゴはヌミディアを攻撃。ローマに使者を送って開戦の許可を求めるが、元老院のカルタゴ撲滅論者らがそれを認めず勝手な攻撃は条約違反であるとしてカルタゴの武装解除、市民の立ち退きを決めた(ここも真珠湾の発端とかぶる)。そしてそれに激怒したカルタゴは籠城を決め3年も抵抗を試みたが、もうハンニバルはいなかった。将軍職を退いて首相に当たる職にありましたが国政の改革を断行したため一部貴族に追い出されてシリアに亡命、ローマの追っ手の前に毒をあおいで自殺してました。

BC146年、この第3次ポエニ戦争でカルタゴはローマの小スキピオという男に徹底的に殲滅されたのです。カルタゴが建設されたのは紀元前816年で、それから668年間続いた国家が消えた。籠城した市民がここで15万人殺され5万人が捕虜となり、市街は更地になるまで17日間燃やされぺんぺん草も生えないように塩までまかれた。これは軍人同士の殺し合いという戦争の概念にはとうてい当てはまらないおぞましい限りの大虐殺、民族抹殺であり、戦争はそこまで正当化できるものでもないし、そこにいかなる正義があったと主張しようにも白々しいだけの衝撃的な数字です。

カルタゴ遺跡

実際にその土地に立ってみてそう感じましたが、思えば我が東京の地だってそういうことがあった。1945年になって民間人10万人が一夜にして殺された米空軍司令官ルメイによる東京大空襲です。カルタゴは2160年前のことだが東京が焼夷弾で焼き尽くされたのは僕が生まれるほんの10年前のことでした。近代世界史で最悪の民間人襲撃事件でしょう。ルメイは民間人襲撃について、日本人は家で武器を作っている、武器工場を攻撃したのだと述べています。

そしてさらに推定14万人が殺されたという広島、そして長崎の原爆投下、これは一体なんだったのかと思う。ましてそのルメイが勲一等旭日章の叙勲者という力学は一体なんなのか、日本国の叙勲というもの、ひいては日本国というものはなんなのか。第2次ポエニ戦争でのカルタゴと同じく、敗戦国なのです。だから現代のわれわれはこの疑問を引きずったまま未解決の国に住んでいるのです。1945年を終戦というのはおかしい。カルタゴの運命を日本国民は記憶しておくべきでしょう。そしてカルタゴが殲滅された経緯が既述のようにいちいち敗戦後の日本(すなわち今)と嫌らしくかぶってくるのだということも。

だいぶ話がそれました。カルタゴ遺跡を後にチュニスの街へ戻ると、雑踏はもうアラブ系アフリカのムードです。どんな映画のシーンより迫力ありました。きょろきょろしながら雑踏をかきわけ、道行く人々の顔をしげしげと眺めながら、カエサルが進軍しクレオパトラと出会った古代エジプトもこんなものだったんだろうか、パルミラ王国のゼノビアもあんな女だったんだろうかなど歴史ロマンにひたりました。

ここまでが強烈過ぎたのか、マジョルカ、イビサはあんまり覚えてない。海岸で子供と遊んだぐらいでまあ普通のヨーロッパの島でした。昔からいかにショパンに興味ないかお分かりいただけると思います。そしてバルセロナなんてのは1度すでに行ってたし普通のヨーロッパの街であり、特に僕はガウディの妙ちくりんなあれが大嫌いなもんでさっぱりでした。

ジェノヴァに戻ってきてフライトまで少しあったのでタクシーを借り切って観光しました。子供に水族館を見せたりコロンブスの家を見たり。ランチをしたレストランZeffirinoはイタメシに食傷気味だったにもかかわらずかつて食したイタメシのベスト3に入る最高のものでした。ぜひ一度行かれるといいです。youtubeで見つけたのでご覧ください。

運ちゃんがいい奴であちこちで家族写真を撮ってくれ、アルバムの最後にジェノヴァがかなりの分量があるのもスマホのないこの時代ですね。ええ加減だけどにくめないイタリア。僕の地中海好きはこのとき決定的となりました。

すばらしい思い出を運んでくれた船、ミス・メロディ(Melody)はこれです。

 

さっきWikipediaを見てみると1982年に建造され大西洋クルーズに使われていましたが、我が家がお世話になった1997年にこのMSCという船会社が買って地中海クルーズに就航させたからデビューのころだったことがわかりました。こういうことがすぐわかるのも便利な時代になった、あのころネットがあったらもっと情報があって楽しめた。今の若い人は幸せです。

その後、メロディは南アフリカ航路になって2009年にはソマリアの海賊の攻撃を受けて大きなニュースになったようですが知りませんでした。そして12年に日本の船会社に売られたので会う機会はあった、残念です。翌年は韓国に売られさらにヨーロッパへ戻り、13年の11月に引退が発表されました。現在はインドのコングロマリットが購入し、Qingとういう船名に変わってインドの西海岸のゴア市で海上ホテルとして余生を送っているそうです.

もう一度会ってみたい。強くそう思います。

 

(こちらもどうぞ)

  イベール 交響組曲「寄港地」

 

 

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「知られざるロシア・アバンギャルドの遺産」100年前を振り返る

2015 JAN 31 2:02:02 am by 東 賢太郎

「スターリン弾圧を生き延びた名画」という副題の番組。革命後のロシアで行われた暴挙は人間の残虐さと無知蒙昧をさらけだしたが、テロリズムのニュースのさなか、100年たった今も人は変わっていないことに暗澹たる思いがある。

イオセブ・ジュガシヴィリ(通称ヨシフ・スターリン)の所業は今のロシア人はどう評価しているのか。ウラジーミル・ウリヤノフ(通称ウラジーミル・レーニン)なる物理学者の子がひいたレールの上をグルジアの靴職人の子スターリンが爆走した。シベリアに抑留され銀行強盗と殺戮を重ね、ロシア革命という天下取りのプロセスはどこか三国志の曹操を思わせる。

しかし100年前はまがりなりにも政権の正統性に神でも民衆でもなくイデオロギーが関与する余地があったことは注目に値する。神と暴力とメディアによる大衆扇動よりはずっと知性の裏付けがある。しかし知性も殺戮の道具になれば同じことだ。チャーチルは「ロシア人にとって最大の不幸はレーニンが生まれたことだった。そして二番目の不幸は彼が死んだことだった」といった。

Uz_Tansykbayev_CrimsonAutumn
面白かった。中央アジア・ウズベキスタンのオアシスの町ヌクスの美術館にあるイーゴリー・サヴィツキー(1915~1984)が集めた数千点のロシア・アバンギャルドの絵画の話である。スターリンによる芸術へのテロリズム。僕は音楽の側面しか見ておらず絵は無知だが、暴挙で消されかけサヴィツキーの情熱によってヌクスで命脈を保った1910-30年頃の絵のパワーは素人目にも圧倒的だ。

Uz_Kurzin_Capital

 

このクルジンの「資本家」のインパクトは今も強烈だ。資本主義に生きる自分を描かれたような気がする。クルジンはクレムリンを爆破しろと酔って叫んだかどで逮捕され、シベリアの強制収容所送りとなった。

 

 

 

 

ルイセンコの「雄牛」。凄い絵だ。痛烈な体制批判のメタファーと考えられている。一目見たら一生忘れない、ムンクの「叫び」(1893年)のパンチ力である。この画家の生涯についてはつまびらかになっていないというのが時代の暴虐だ。

 

 

 

ストラヴィンスキー、シャガール、カンディンスキーら革命でロシアを出た人たちの芸術を僕らはよく知っているが、彼らの革新性にはこうした「巣」があったことは知られていない。ストラヴィンスキーの何にも拘束されず何にも似ていない三大バレエは、このアヴァンギャルド精神とパリのベルエポックが交わった子供だったのではないか。プロコフィエフの乾いたモダニズムは「西側の資本主義支配層の堕落した前衛主義」に聞こえないぎりぎりの選択だったのではないか。

Uz_Korovay_Dyers
この「巣」を総じて「ロシア・アバンギャルド」と呼ぶ。アバンギャルドはフランス軍の前衛部隊のこと(英語だとヴァンガード)だが、転じて先進的な芸術運動をさすようになった言葉だ。「何物にも屈せず、何物も模倣せず」をテーゼとする。これらの画家たちはカンバスの表の面に体制を欺く当たり障りない風景画や労働讃美の絵などを描き、裏面に自分のステートメントを吐露した真実の絵を描いて「何物にも屈せず」の精神を守っR_Smirnov_Buddhaたそうで、それを「二枚舌」と呼んでいる。これはショスタコーヴィチを思い出して面白い。「ヴォルコフの証言」なる真偽不詳の本が出版され第5交響曲の終楽章コーダをどう演奏するかの論争があった。ハイティンクやロストロポーヴィチがその意を汲んだテンポでやったが、あれは偽書だからムラヴィンスキーのテンポが正しいのだという風な議論だったように記憶する。僕の立場は違う。「証言」が偽書であろうとなかろうと、皮相的な終楽章はあの4番を書いた作曲家の「二枚舌」にしか聞こえない。スコアの裏面に真実のステートメントをこめた楽譜が書いてない以上、コーダのテンポなど解決策でもなんでもなく、あの楽章は演奏しないという手段しかないと思う。同じ意味で僕は7番はあまり聴く気がしない。

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47

「何物にも屈せず、何物も模倣せず」。このテーゼはなんて心に響くのだろう。別にアバンギャルドという言葉を知って生きてきたわけではないが、このテーゼはささやかながら僕個人が子供時代から常にそうありたいと願ってきた生き方そのものを鉄骨のような堅牢さで解き明かしたもののような気がしてならない。若い頃のピエール・ブーレーズがそうだったし、彼の録音が自分の精神の奥深いところで共鳴したのはそういうことだったのかもしれないと思う。

僕は芸術家ではないが、ビジネスをゼロから構築していくのはアートに通じるものがある。その過程がなにより好きであって、うまくいくかいかないかは結果だ。これから何年そんな楽しいことが許されるのかなと思うと心もとないが、心身健康である限り思い切りアバンギャルドでいこうと、ロシアの無名画家たちの絵に勇気をもらった。

有名であったり無名であったりすることの真相はこんなに不条理なものだし、そういうことをひきおこす人生という劇だって、いくら頑張った所でどうにもつかみどころのないものだ。だったらアバンギャルドするのが痛快で面白い。屈して、模倣して、大過がない、そんな人生ならやらないほうがましだ、改めてそう思う。

 

ベラスケス『鏡のヴィーナス』

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調 作品43(読響・カスプシクの名演を聴く)

 

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出雲について考えること

2014 OCT 28 13:13:52 pm by 東 賢太郎

西室が出雲へ行って、先日の佐白に関する興味深いお手紙のことなどを書いてくれました。神話や伝承について僕は詳しいとはいえないのですが、その根っこにある事実については関心がありいま何冊かの本を読んでいます。

それを調べるということは日本国の成り立ちや民族としてのルーツを探ることでもあります。そのひとりである自分のルーツもおぼろげに。これは大変興味深い作業であり、これから時間をかけてじっくり取り組むに足るものと思います。

おおよそ人類のルーツはアフリカ大陸にあるというのが現在の科学の通説です。それが日本列島にあるという人はいません。ということは何万年もさかのぼればの話ですが、日本人は全員がどこからかやってきた人々だということになります。

物事を考える時にはなるべく感情、思い込みをいれず、客観的な態度で取り組まないと真実を見誤ります。当代一の数学者であったケプラーにして、当時のキリスト教的思い込みで「等速円運動」を前提としたために惑星の運行法則を発見するのに30年もかかってしまったのが良い例です。

「日本人は全員がどこからかやってきた」という客観的前提に立てば、その「どこか」が朝鮮半島であろうが中国大陸であろうが一切のエモーションは排除できるはずです。むしろ地理的な観点からその第一候補がユーラシア大陸であることを否定する方が困難でしょう。

本州唯一の在来種である「木曽馬」の先祖はモンゴル馬であることがわかっているそうです。ということはそれを連れて海を渡ってきた人々がいるわけで、彼らが入ってきたルートが朝鮮半島か日本海の対岸かということはさほど重要とは思われません。日本には、少なくとも本州には、もともと馬はいなかったということが大事です。

それと同じことで、日本に製鉄技術を持ち込んできた人々が手紙にあるようにオロチョン族なるユーラシア大陸の人々であったことはなんら不思議なことではありません。それがオロチの語源になったかどうかはまた別なことですが、彼らが神話になるほど影響力を持ったことは考えられることと思います。

日本の製鉄技術は中国(ユーラシア大陸)に1000年、朝鮮半島に500年遅れていたそうです。しかしその事実をもって日本は後進国だ、朝鮮が教えてやった等の感情論に堕落しても不毛です。弟子が先生に常に劣るなら人類は確実に劣化してきたはずです。

新羅の古墳から出たガラスはローマ製だそうですが、近年奈良の新沢千塚古墳群から中国を経由せず西域から新羅経由で入ったローマングラスが見つかったそうです。人も技術もユーラシアではなくローマに根っこがあるということだって一概に否定はできないということです。

日本列島への文物伝播において、その新羅という国が朝鮮半島の中継点として重要であることは多くの本に指摘されています。新羅の慶州から船を出すと海流に乗って列島の中国・北陸地方に漂着します。高句麗からだと北陸、東北地方です。これは古代より物理的、原理的現象です。

福井県の敦賀は、海から来た烏帽子をかぶった人(オホカラの王子とされる)ツヌガアラシト(角がある人)が地名の語源とされます。石川県の小松は高麗津だったという説もあります。そういう伝承を荒唐無稽な民話としてではなく、物理的、原理的現象の帰結としてまず理解してみようとするのが客観的態度と思います。

たたら製鉄技術を持ち鉄製の武器を大量に保有できた部族が海を渡ってきて王権を握り、その地こそ好適な砂鉄を産する出雲であったということは納得できる説ではないでしょうか。技術自体はユーラシア起源(タタール)ですから、先のローマングラスと同じことでそれが中国経由か朝鮮経由かはともかく、出雲に西域と繋がった人が来た可能性は指摘できましょう。

一方、日本を征服した王朝、つまり天孫族の末裔である天皇ですが、少なくとも桓武天皇以降は百済系です。百済はもともと扶余族であり満州あたりの北方騎馬民族とされます。だから出雲を支配した人々(一説では物部氏)とは別民族であって、天孫族と戦って敗れたのだ、それがオロチ伝説であり大国主命の国譲りなのだと説明する人も多くいます。

その経緯を書いた史書というと古事記、日本書紀ですが、これらは藤原不比等の意図で天孫族王権の正当化を図る意図の反映も指摘されております。古代の貿易ルートとして「瀬戸内海から畿内」というものと「広く日本海経由」というものが利権対立し、前者の総元締めがヤマトで後者が出雲であったとする説もあります。前者が百済利権、後者が新羅利権であるため闘争になり、前者が勝ったとするもののようです。

前者の墳墓は前方後円墳です。それに対し後者は出雲に現れて東方に広がっていった四隅突出型古墳であり、こっちのほうが弥生時代と古い。弥生中期にヤマトに古墳はないそうです。つまり出雲が先住の王権であり、何かが起こって後発の大和朝廷が王権を奪ったと考える物証であるようです。

ここで私事になり恐縮ですが、ブログに書きましたが初めて出雲へ行った時に、なんとなくですが、気質的に自分と似たものを感じました。僕の先祖は石川の能登です。先ほどの日本海海流の物理的、原理的現象によれば半島のでっぱりは漂着地だったとは思っていましたが、いろいろ調べると出雲の文物がそうして東進したという物証は数多くあるようです。

例えば高句麗系とみられる前方後方墳の数は、島根33、鳥取3、兵庫7、京都8、福井3、石川26、富山2だそうです。距離的に近い鳥取、兵庫、京都、福井を飛ばして石川が多いのは、出雲からその埋葬文化を持つ民族が海路で東進したことを裏付けそうです。ともかく自分の中で出雲になにか特別なものを感じたというのは普通ではない気がいたします。

さてこの度の日本国を挙げての慶事である千家 国麿様と高円宮典子女王のご成婚は、天穂日命(あまのほひのみこと)の子孫である出雲国造家と皇室のご結婚であるわけですが、記記によればどちらも天照大神の子孫であるとはいえ、祭る神社でいえば伊勢神宮と出雲大社であり、天孫族と出雲族のご結婚でもあります。両者の式年遷宮が初めて一致した事実も思い合わせると歴史的視点からも大変意義深いことのように思われます。

まだ学習が及ばず雑駁な記述になりましたが、これから少しずつ出雲をとりまく歴史や文化を勉強して参ろうと思います。

 

信長、曹操好き狩猟民のすすめ

 

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米国との殺し合いに思う

2014 SEP 14 23:23:55 pm by 東 賢太郎

「米国放浪記」の楽しい思い出にひたった次の週、アメリカと殺し合いをした島に出張。この1週間での気持ちの落差は巨大です。帰りのグアムではアメリカ企業のホストで夕食会をしてもらったので、こちらからはある相談をしました。アメリカさんが好きになったり嫌悪したり、はたまた頼りにしたり。俺ってなんなんだろう。

不思議とクラシックを聞く気がしません。帰国してまだ一度も聞いてません。あれほど入れ込んでいたゴルフはもう1年以上クラブに触ってもいないというのを昔の知人は誰も信じないでしょうが、一番信じられないのは僕自身です。当時にブログを書いていたら、ほとんどの記事はゴルフだったでしょう。いま音楽がそうなってちっともおかしくない、自分はそういう人間になったかもしれないと逆に思うほど。

自分にとって大事なもの、生きていく糧になるものは「関心事」です。趣味とはちがいます。趣味は一生続きますが、関心は消えることがあります。僕は生来、関心事の領域が極度に狭い人間です。天文と野球と猫はいつでもそれで、ゴルフがそれだったこともあるし、クラシック音楽は今までそうかもしれませんが、仕事がそれだったことはほとんどありません。だからサラリーマンの宮仕えは、もちろん懸命にはやったのですが、僕の人生における重みという意味では僅少だったわけで、起業していま初めて仕事が重くなったと思います。

では今の最大の関心事は何かというと、「国」なのです。国ってなんなの?日本国のために300万もの日本人が亡くなった。でも、国にそんなに価値があるものなんだろうか?という疑問があるのです。国とは国民の幸せな人生を守るためにあるはずです。戦争で人生を終えられた方は、ご自分に幸せはなかったわけで、ではそのおかげで誰が幸せになり、亡くなられた方々に誰がどこでどう感謝しているのか?チューク島を見たことで、そのことがまったく分からなくなってしまったのです。

現代人が国と呼んでいるのは、少数の例外をのぞいて国民国家(nation state)のことです。しかし、ヘゲモニー(覇権)というものは昔からあっても、国民国家なんて19世紀半ばまで世界のどこにも存在しなかったのです。日本も徳川時代が終わるまで、誰一人として自分が日本国の国民であるなどとは思っていなかった。なくても良かったものに何故300万人も死ぬ必要があったのか?これが今、どうしてもわからないのです。

これは何故あんな勝てない戦争を始めたのかという意味ではありません。日本国という国体に内在した不条理のことをいっています。では反対側から考えて見ましょう。アメリカは300万人を殺して何を得たのでしょう?なぜ日本を防共防波堤として属州にしなかったのでしょう?日本という国体や天皇家を尊重してくれたのでしょうか?そうとは思えない。そんなお人よしがあんな所業を働くはずがないのです。何か国民が知らない理由があるはずなのです。

では国民の側から見て、もしも昭和20年に日本が全国土を米軍に占領されてハワイの先の州になっていたら?天皇制はなくなり政治家は失業しただろうが我々民衆はどうだっただろう?不幸な人生になっただろうか?そうでなくても西洋かぶれが跋扈してアメリカの亜流に憧れる国民であふれています。ならばアメリカ人になってしまえば?2年間米国に住んだ僕は知っているのです、それはそんなに悪いもんでもないことを。

僕が日本を愛する理由はただ一つ、父祖が、両親が、日本人だからということだけです。生まれた国を愛する義務感からでも、安倍晋三が唱えた「美しい国」だからでもない。先祖の尊厳を異国民に汚されたくない、それだけです。異国民が嫌いなのでもない。子孫が外国人と結婚しても、その人が妥当な人であるなら、それはそれで何でもないことです。君が代は歌うし日の丸に起立もしますが、それは父祖の国だからです。僕の愛国とは、ひとえに家族ゆえのfamily issueなのです。

そう思う方は実は多いのではないかという気がします。忠君愛国というのは日本国というnation stateが保持できないと困る明治以来の既得権者の都合ではないか。だから天皇は神でなくてはならず、神道を起こして仏教を排した。神なのに、それまでの日本史では征夷大将軍にあったはずの陸海軍統帥権を持たせた。これは長州閥が牛耳る陸軍が玉(天皇)をいただいてnation stateを支配する仕組みです。

もしそうなら愛国のフィクションで偽装ボランティアとして従軍し、死んでいった人たちにたいする国家の殺人だったとさえ思います。その国家というのが何たるやといえば、実は天皇すり替えで薩長がテークオーバー(乗っ取り)したものであり、明治維新という事後的に与えられた美称によって国民を欺いているもの、その真相を知っていた西郷隆盛が、薩長を陽動したグラバーらの英国の奸計に気づき西南戦争を仕掛けたものだったのではないでしょうか。

いま僕は職業上、経済上の自由を得た身として、自分だけの時間、つまりショーペンハウエルが人生で最も貴重とする真の「孤独」を得ることができつつあるかもしれません。充実した内面世界を有する者にとって孤独というのはなにかというと、物理的心理的な孤立ではなく、意味のない人や物と接しなくても良い究極の権利、いわば「孤独権」のようなものです。釣り人の夢でいうなら、これこそを夢見て僕は長年働いてきたのでした。

僕が国家に求めることがあるとすると、この「孤独権」を保護してもらうことでしょう。他国、他民族、暴力に蹂躙されたり、財産を没収されたり、法律や宗教で自由を侵害されたりしないことです。それが相応なプライス(税金)で買えるなら、僕は喜んでその国に住むことになります。権力を持つことは孤独を損なうので矛盾です。だから他人に、僕の孤独権を保護できるだけの権力、ヘゲモニーを持っていただくしかありません。選挙では、その仕事をまじめにしてくれそうな政党と候補者に投票するのみです。それがいなければ、仕方ない、海外移住することになると思います。

 

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