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カテゴリー: ______体験録

大学受験失敗記

2014 JAN 10 22:22:01 pm by 東 賢太郎

本稿は最終学歴をひけらかそうというものではない。自分史の半生記において、あまり思い出したくはないが受験失敗のことを触れないわけにはいかない。大学受験は結果的には願いどおりになったが2度も失敗しており、さらに中高受験もたくさん失敗しており、僕は受験にいい思い出がない。小さいときから物事を時間をかけて深く考えるタイプであり、制限時間内に70点ぐらいを効率よくゲットする競争はきわめて不得手だった。要は受験競争に適したほうでは決してなく、クイズ番組の物知り博士みたいなものになるには最も遠いタイプの人間である。

幼時の関心事は電車と星と人体であり、鉄道線路観察と全天恒星図と人体解剖図が半端でなく好きだった。蟻の観察も好きで同じ巣を一日中見ていて母が心配した。好きなことを始めると食事をよく忘れた。文学的関心は皆無であり推理小説が友だった。文章や人のことばは字義通りにしか解しないから詩歌は意味が分からず、吟じたり味わったりなど到底むりである。「国破れて山河在り~」などと、それがどうしたんだという詩を朗々と先生が読み上げると、僕にとっては馬鹿馬鹿しさとのギャップがおかしくて笑いをこらえるのに必死だった。現代国語や古文漢文のテストは当然見るのもいやであった。

そういうものを人並みに味わうフィルターがないとすれば、それは色弱であるという状態と照らすと似たものがある。僕の色弱は親は知っていて僕もある程度はわかっていた。それが思ったより進路に影響あるとわかったのは高3の始めだ。親父の家系はみな理系だったが、きれいなもの好きで芸術家肌の母の血を多く引いた僕はその時点ではどっちでもなかった。というより野球三昧であって、忘れもしないが高3で初めて受けた駿台公開模試での数学の偏差値は堂々の42であった。要はどっちでもよかったのだ。

自分的には天文、医学に興味があった。今になってみると医者なんかけっこう向いていたと思うが、「東君、その進路は色弱のことがありますからね。文系でどうですか」と担任の物理の故O先生は淡々と宣告された。僕が教師ならこう言っただろう、眼以前にアタマが無理でしょと。ストレートにそうおっしゃらない優しい先生だった。しかし、これがカチンと来てしまった。よ~しセンセイ、今に見ておれよと持ち前の反骨心にメラメラと火がついてしまった。人生とは何が左右するかわからないものだ。

銀行員の親父はお前は理屈っぽい、裁判官か弁護士になれときた。理屈っぽいことは納得だからそういうものかと信じこんでしまった。こうしてまず法学部志望が確定した。親父には申し訳ないがこれは大いに失敗だった。せめて経済学部か、意外と文学部で哲学なんかやったら学者になれたかと思う。次に志望校だ。僕は一番嫌いな政治家はレンホーだという人種だ。別に彼女個人にどうのこうのはない。どうして一番じゃなくっちゃいけないんですか?というあれが実に不快だ。一番がいいに決まってるだろ、何を言ってるんだ君は?ときっと泣くまでねじ伏せてしまったのが当時の僕だ。そこにセンセイへのメラメラがある。もう志望校は一校しか眼中になかった。

こういうことで僕はそこからやおら勉強を始め、最高峰私学2校の法学部に受かった。しかし初心は変わらずそれを辞退して、O先生の「おめでとう!」はハナから無視して(すみませんでした)、予定通り2次で落ちた東京大学文科Ⅰ類に再戦を挑むべく駿台予備校の門をくぐった。知らない方も多いが、東大というのは全員が最初の2年間は駒場の教養学部生になる。そこでは文Ⅰ、文Ⅱ、文Ⅲと所属が区別されており、3年目になるとそれぞれ本郷の法学部、経済学部、文学部に進む。文Ⅰ以外から法学部へ行けるのは毎年1名ぐらいであり、だから僕は最も偏差値が高い文Ⅰに入る必要があった。世間では東大受験といっているが、東大という大学を受けるのではない。「類」を受けるのだ。その類が不合格の場合、合格ラインの低い類に回して合格させてくれるということは一切ない。だから単に東大に入りたいだけの人は文Ⅱか文Ⅲを受けるべきである。文Ⅰを受けるのはリスクが高いのだ。

あまりに発射台が低かったわけだから成績は大変伸び、再戦だし落ちるわけないなという過信もあった。だから今度は文Ⅰひとつしか受けなかった。これは、メダルを辞退した以上は次は金しかない、銀狙いなし、1年たって銅で妥協はさらになしという理屈だった。そうしたらまた落ちた。これは参った。掲示板に番号がなかった時は大変なショックで、目の前が本当に暗くなった。すべり止めがないのだから即2浪が決まったわけで、眼前に横たわった1年が永遠に向こうにたどり着けないサハラ砂漠みたいに感じられた。私学を受けなかったのは作戦ミスだったかどうかというと難しい。そこでもしまた受かっていれば、それでももう1年東大にチャレンジしたかといわれれば、しなかった可能性がある。それでどういう人生になったかは知らないが、キャリアや人生行路という意味ではなく、今のような性格、人格の自分にはなっていなかったことだけは間違いない。

不合格だった日からの記憶は不快なので脳が勝手に消去したと思われ、まったくない。次の記憶は駿台を受けたら25番ぐらいだったことからフィルムが再開する。それはその年の日本国の浪人生で上から25番目だったことをほぼ意味する。座席はその入試順位の順番だ。まわりは全員が判で押したように東大文Ⅰ志望であり、630人の定員だから655番目だったんだろうという風な計算を全員がしていた。くそっ、ここから400人も東大に入るのにと思ったが僕よりもっと悔しい人が24人もいたことを知って気が和らいだ。両隣りだった人たちも当然に翌年は合格して奇遇にも駒場で同じクラスになった。初対面のときの挨拶は「キミはどうして落ちたの?」だ。僕は「数学が・・・」だ。「えっ2問?オーケーじゃんか?」「そうだね普通ならそれで」だったのを覚えている。英語はまあ良かったが僕の国語と社会の能力はきっと普通じゃないレベルだったのだ。

文系だから英国社は配点が120点ずつで数学は80点だった。国語と社会で55%を占める。東大の2次試験ぐらいになると受験生のレベルは一部の別格的な秀才を除いてほぼ均質である。特に僕のようなボーダーラインの人間の合否は僅差で決まる。社会科は2科目必要で、ひとつは日本史にした。これは割と好きでもあり私学合格の武器になった。しかし高3からの付け焼き刃だから2科目目は省エネしようと政経を選んでしまった。政経は教科書は薄いが全問が論述で実はタフであり、配点は60点もあるのだから作戦ミスだったと思う。しかし今さら政経を世界史に替えて時間を食うよりは、その時間を得意の数学に回した方が総合点は上がると判断した。4問完答だ、満点をとろう、それで落ちたらあきらめようとハラをくくった。こういう人は文系にはほとんどいないはずだ。

それは結果的に正しい判断だったことが判明する。2年やって僕は英国社で成績優秀者リストに名前が載ることはついに一度もなかったからだ。いっぽう、数学の満点ねらいは僕にピッタリのスリリングなゲーム感覚があった。野球でもまず完全試合からねらうのが争えない僕の性格だ。遊び感覚でやっていると結果もよくて、夏前の公開模試の数学でついに念願の満点をとった。駿台予備校に関わった経験のある方はご納得いただけると思うが、あそこの数学はやたら難しくて平均点は2~30点であった。東大受験者はほとんどが受けていて数学オリンピック級の子もいたろうが、文系で100点は年間通しても極めて少ない。僕が人生で唯一全国区で一番になった経験はこれであり、今でもほかの何よりもこれを誇りに思っている。

数学は僕のゼロ戦になった。低空飛行の英国社が足を引っ張っても総合得点で全国7位になるなど、蜜の味も知ってしまった。これで落ちるわけないと確信し、飽きっぽい僕は夏休みは一切すっぽかして推理小説の執筆に没頭してしまった。当時熱中していたエラリー・クイーンをどうしてもまねしたくなって1か月で書いたそれは「オランダ靴の謎」と「Yの悲劇」とヴァン・ダインの「グリーン家殺人事件」を足して3で割ったようなものだ。これを先日読み返したら1行だけ消しゴムで消してあった。おそらく一気に書いてから論理破綻に気がつき、埋める間がなくそのままになったのだろう。その破綻がなにか今の僕の頭ではいくら考えてもわからない。

そうやって夏に油を売っていたら秋になって急速に順位が落ちた。進学校の現役連中である。我がゼロ戦をしのぐ高性能のグラマン部隊であった。しかし、本番の東大2次試験では態勢をもちなおし、作戦通りに数学でほぼ満点をとった。たぶん3点ぐらい減点されたはずだ。上級者は自分でそこまでわかるのである。その年の数学は難しかったから運もあった。先日駒場のクラスで1、2の秀才であったO弁護士に「2問目にミスがあったの気がついたか?」ときいたらNOだった。彼に頭で勝てたのはそれだけだ。僕は 「これは出題ミスである」 と余計なことまでバーンと答案用紙に書いてしまい、でもまさか?とあとで不安になった。駿台へ行って壁に張り出された模範解答を見たら 「ミスだ」 とあった。これで合格を確信した。

発表日に掲示板の受験番号を見てほっとした。楽勝と思っていたからうれしさはあまりなかった。電話したら両親がやって来た。母が泣いているのを見て、わがままで浪人してしまったことを悔いた。母は自分の父親と同じく僕に慶応ボーイになってほしかったのだ。現役で合格させていただいた大学は普通なら赤飯を炊くところだ。どうして入らなかったのかとよくいわれるし、いわれると説明に窮してついそうだねと思ってしまう。それが自然体だったし、行った連中が楽しそうだったし、女の子もいっぱいいたし、1年のつもりが2年の回り道になったし、それで弁護士や教授になったのならともかく4年間すっかり遊んでしまったのだし、入社したらそっちの大学の方が主流派だったし。何とも間抜けな人生だ。だから何を書いても負け惜しみになるが、それでもあの決断は良かったと思えることもある。

なにより駿台予備校というのが素晴らしい学校だった。英語の伊藤先生の「ここでガチャンという音が聞こえる」は実にすごい。ガチャンが本当に聞こえるようになり一気に英文法が得意になった。極めつけは数学の根岸先生だ。板書が美しい。悪筆だった僕のノートも美しくなった。それと正比例して面白いように成績が上がって偏差値は軽く70台になった。42だった僕がだ。先生は東大理学部物理学科卒の数学者であり「数学の美」を教える天才だった。人に教わることの鈍才である僕が心から敬服して習いたいと思ったのは先生だけだ。数学の思考訓練をここまで徹底的にやったことで僕は完全に別な人になった。2年間やっても英国社は文Ⅰ受験者としては人並みのまま終わったわけだから、僕の資質は理系だったということが判明した。

O君は弁護士という仕事は充分やったので違うことをやりたいという。その仕事に誇りはあるが、人が決めてもめ事を解決するのは次善策であって科学ではないそうだ。そういう彼も理系的な人であり、彼曰く文Ⅰの人はみんな理系だがそれでも司法試験や上級公務員試験に受かる。ところが僕の場合、1年の法学概論の授業からして退屈でまいってしまい、訴訟法や行政法みたいな手続き論は完全にアウトだった。要は神様が決めたもの以外ぜんぜん興味が湧かない。訴訟のルールよりも、子供の時にじっとみていた蟻んこの道のでき方のルールの方がずっと上等に思えた。あそこまで法学部にこだわったのは間違いだったのだろうか、今もよくわからない。

有難いことに、いま自分はサイエンティストとしての生来の姿で自然に生きていける自由を得た。サラリーマンという虚飾の職業をやめられたからで、まったく心の底からくだらないと思うことに真面目にうなづいたり取り組むふりをしたりする必要が皆無になった。ショーペンハウエルの言う孤独を楽しめるというのは何という素晴らしいことだろう。ある原理や法則に則って歴史、古文、哲学、音楽、ラテン語、ミステリー小説、株式市場なんかを紐解く作業は実に楽しい。いま僕はそういう他愛ないことに喜びを見出している。神様が決めた原理、法則性が支配する限りにおいては何事であれ敬意と関心をもっていられる。その神様が誰であれ、造物主という意思の存在を僕は確信することができるし、彼がいない宇宙や科学や数学の存在を逆に信じることが難しい。

もう来年2月に還暦になる。ここに記したような自分の若気の至りをゆるし、いとおしく思える年齢になった。それがなければ今はこうなっていない。この妻も子もいない。世界であんな経験もできていない。証券という面白い仕事について体が震えるような成功体験を感じることもない。だから良かったのだと思う。ここから僕が世の中に生きている意味は、こうして選んでしまった道を人助けという道に連鎖させていくことだ。自分に意志と健康がなければできない。還暦はその節目にしたく、だからそこまでの1年ちょっと、その準備をしようと決めている。今年がそういう年になったら幸運である。

 

バルトーク 弦楽四重奏曲第4番 Sz.91

 

 

 

 

新プロジェクトに挑戦する

2014 JAN 9 21:21:50 pm by 東 賢太郎

「自分史の書き方」を読んで面白いと思ったが、足腰がたたない老人になってから回顧録を書くというスタイルは僕には合わない。現在進行形にしたい。半生記の継ぎ足しでライブ中継し、人生ゲームオーバーになったらそれが全生記になってるというのがいい。SMCは西室の邪魔をしないように、そういう場にもさせていただければと思う。

2010年に独立するまでの人生で、社長ポスト2回と副社長ポスト1回のお誘いを受け、やらなかった。社長は1度、副社長は1度、取締役2度、執行役員2度、拠点長3度、業務部門長2度はやった。しかし経営者としてのトータルの自己評価は30~40点ぐらいだ。

やらなかった3つの理由は簡単で、自信がなかった。負けそうなケンカは僕はしない。その一つは今ならやりたい、恐らく誰でもやりたいすごく魅力的なポストだが、当時は弱冠49歳であり、やってもきっと失敗しただろう。他の2つは受けなくて正解だった。ではやったものはどうかというと、成功より失敗のほうがずっと多い。

失敗の原因は今となると明白だ。僕の性格の独裁制、完全主義、短気、なめる、飽きっぽい、詰めが甘い、わきが甘いなどだ。これは生まれつきの部分と証券業界でついたクセの部分と両方ある。後者の方はおおきい。拙文を多くの野村の元同僚、先輩後輩がよむことを承知で書くが、僕は証券営業分野でプレーヤーとして他人に負けたと思ったことも負けると思ったこともない。だから、やりゃあいいんだろという基本スタンスになった。それが通用しなくなったのはそれを卒業してマネジメントになってからだ。

野村に入社して配属された梅田支店で、当時あこがれのスターだったT次長という人がおられた。公私にわたりご指導を受けた恩人である。後に某証券会社の社長になられたそのTさんが、新人の僕にこういわれた。「東、他人の2倍ならやるな。やっかまれるだけだ。10倍やれ。誰も何もいわなくなる。」 これは後になって実際に正しいことがよく分かった。以来、証券マンとして僕の不動のモットーとなった。

しかし、これはワンマンショーのプレーヤーとしてならワークしたが組織の長になるとむずかしい。どうしても落伍者が出る。本人は懸命なのだが目標が高いとそもそも無理という人が増える。サラリーマンは部下を選べない。人事部が全社的事情で送り込んできた、それに向いていない人でも使うしかない。彼らも夢や希望があるが、それは僕の10倍ビジョンの一部ではない。だから幸せになれない。

となると、9割が普通のサラリーマンから成る組織では僕も幸せにならない。業界がデフレで赤字続きになると、会社にしがみつく人は9割どころか99%になる。僕には彼らと一緒に生き残るために毎朝会社に来て意味もない会議をくりかえす忍耐力はない。すると結局全員が不幸になる。だから僕はそこにいない方がウィンウィンという当然の結論になる。

つい昨日と今日、年明け早々に、非常に面白いプロジェクトをやらせていただく有難いお話が立ち上がった。これは金融だが証券ではなく、僕の未体験分野である。しかし背景となる分野はもともとが理系である僕にとって大変興味深い。そして世のため人のためになる。そして何より、スケールが莫大に大きい。いままではいただいた話ばかりだったが、今回は人生で初めて自分からやらせて下さいと申し出た。

ここで思い起こすことは、ささやかな体験だ。もっとさかのぼる。ゴルフや野球は欲がなくてひょうひょうとやったら意外に良かった。完全試合やるぞ、70台出すぞと力んでいつもだめだった。結果オーライだったのはそうでないときだ。今回はそういうスタンスで行けそうな気がしている。知らない分野だから勉強は大いに必要である。それについても、大学受験のときなみにやってやろうと決めた。当然ひとりでできる話ではない。社員と知己に助けていただくことになるだろう。本日は決意表明まで。

 

 

 

 

 

大晦日に「自分史の書き方」(立花隆)を読んで

2013 DEC 31 14:14:59 pm by 東 賢太郎

「年をとると1年が速くてね」。

年の瀬にこうつぶやいていた両親の言葉は他人事でしたが、今は自分がそう子供につぶやいています。速いだけではありません。「軽く」もなるのに気がつきました。1年の重みはそれまでの人生で割り算したものです。毎年分母だけは着実に増えますね。

それでも、今年は僕にとって重い年でした。なにより1年通してブログを綴ったというのは重大な体験でした。ブログは日記と違って他人様に向けて書きますからけっこう大変です。最初は読まれるかどうか誰もが半信半疑です。でも読まれます。一人だっていいのです。そうするとどうせ書くならもっと読んでいただきたくなります。読者へのサービス精神が無意識に生まれ、それが自分の生活態度まで変えます。僕のイメージですが、ポジティブで好奇心旺盛な注意深い人間に変わります。誰だってそうなった方がいいし、誰だって書けばなれます。

ところが違うご褒美があることもわかってきました。懺悔の場にもなるのです。

今年は6月に仕事の山場があって、人生初めて胃が痛くなりました。何がおきたのか実は大変に不安でした。それで胃カメラを飲んだ。それも人生初体験です。その時点で悪い結果もあり得たのですが、不安感を一人でしょい込むのはやめようとえいやっとブログに書いてしまいました。客商売の身ですからそういうことは隠すのが普通ですが、いざ書いてしまうとかえって気が楽になりました。キミね、胃痛ぐらい当たり前でしょ、という世間様の声がパソコン画面のむこうからきこえてきた気がしたからです。

先月クラス会から帰るとケータイがないことに気づき「盗まれた」と信じ込んでいました。ところが警察の連絡で電車で落としたことが発覚しました。これは胃痛よりもショックで一日落ち込んでしまい、その時点でブログにも書けませんでした。だからここに初めて懺悔することです。どうということはないように思われるでしょうが問題はなくしたことではありません。理詰めで可能性を検討したあげく、盗まれたと確信して交番に届け出ていたことです。そういうことでミスした経験はありません。

あり得ないことが起きてしまいました。自分の注意力、記憶力、判断力、視力すべての自信が一気に崩壊です。大げさのようですが、その自信で僕はここまでこうして生きてこられたのです。大晦日の今日ここにそれを記してしまって、お客様が読まれたらあいつ大丈夫か?となるかもしれませんが、しかしそれを隠して生きていても僕はさらに年を取ってダメになると思うのです。もうできないことはできません。自分へのウソや空元気からは今後の良い仕事も人生も望めないと思っています。

 

そうしたとき、昨日本屋で立花隆の「自分史の書き方」という本を見つけました。

217701-2「セカンドステージ(これからの人生)のデザインになにより必要なのは、自分のファーストステージ(これまでの人生)をしっかりと見つめ直すことである。そのために最良の方法は、自分史を書くことだ。」

とあります。第1章にこうあります。

自分史とはなにか
 長く文章を書き続ける最大のコツ 
 「はしがき」と「あとがき」について 
 自分の歴史を記す二つの意義 
 「恥やトラウマ」を書きこんで自分を癒やす 
 最重要ポイントは「自分史年表」作り 
 お手本は日経新聞「私の履歴書」 
 書き出しについて──人はみな万世一系 
 自分史は「エピソードの連鎖」である

最後はこうです「人生の勝ち負けを真に決めるもの」。

いいですね。特に「恥やトラウマ」を書きこんで自分を癒やす 、というのがまさに僕が経験していることです。起きてしまったことは仕方ない、それを踏み台にして次に頑張ろうという気になれるからです。そのためには、自分の心の中でそれを消化して客体化しなくてはなりません。自信を持って言えますが、そのための恐らく最も効果的で強力な方法はブログで公表してしまうことです。何人がそれを読んでくれるかはポイントではありません。可能性としては64億人が読めるわけです。そこに身をさらす決断をする、恥や不安を文章にして解毒するということだけで信じられないほど絶大な効果があります。

クラス会では、来年は還暦だという話題で持ちきりでした。そこから僕は人生の下り坂にはいると考えています。ネガティブな意味はありません。ゴルフコースと一緒でアウトが登りならインは下りになるだけです。良いショットを打つためには下りは下りなりのしっかりしたスタンスが必要です。だから来年はその基盤づくりの一年だと考えています。

皆さん良い年をお迎えください。

 

SMCと万葉集への思い

ご恩のバランスシート

2013 DEC 16 21:21:53 pm by 東 賢太郎

もう今年を振り返る時期になりました。                              ①生きていられたこと                                         ②家族、会社、知り合いが安泰であったこと                          ③新しい方とお知り合いになれたこと                              これで十分です。

「足るを知る」のは大事と思います。若いころは足らない人間でした。自分の力も足らず、得たいものを得ても、満ち足りませんでした。今は得たいという気持ちを棄てるのが第一です。いままでと反対なことですから、エネルギーが要ります。ただどこまでいただけるかわからない人生、得なくてもいいものに費やす時間はありません。

仕事については、自分を必要としてくださるかたと必要なだけの仕事をする。その信頼に全力でお応えするだけです。今年はその種となるご縁がありました。ご縁はそのかたというよりもきっと天にいただいたものです。それをないがしろにすることは、結局どこかで自分の人生もないがしろにしてしまいます。

僕は人間は死ぬと神様に人生の「貸し借り帳」を見せられると思っています。天国地獄を決める「ご恩のバランスシート」です。自分が生きてこられたのはまず両親があり、それから家族、先生、学校、友達、会社、同僚、部下、お客様etcがあり、直接会わないが喜びや知恵や安全を与えてくれる人たちがあります。

何か頂いたり、ご恩をうけたり、お世話になったりということは人生帳簿の負債です。この負債をお返しして貸し借りなしにする。宇宙というのは、物理法則や数学もそうですが、きれいにバランスするようにできているように思います。神様はそのように宇宙を造っています。だから宇宙の原理に逆らわずに生きようと思うのです。

例えば、お世話になった学校や先生や会社や先輩には、卒業生としてまだ返し切れていません。お客様。お陰様でここまでこの世界で生きて来られた方がおられます。まだまだお返しできていません。だからご恩に恥じない良い仕事をして報いる必要があります。お金や名誉ではなく、それこそが僕の仕事の原動力ということになりつつあります。

家族。いままでの人生、亭主として父親として、走り通しで何もしてやれていません。これから返さなくてはいけません。友人、同僚、後輩、部下。年齢、国籍、性別関係なくいつでも何かしてあげたい。でもできていない人もいる。やらなくてはいけません。

お返ししながら、それを道端に毎日おいていくのがブログです。好きな音楽のことを書くのは作曲家、演奏家への恩返しです。いただいた喜びのお返しに一人でも聴衆を増やしたい。紹介文や評論はいくらもありますから自分だけの方法でそれをやります。

これから知り合う人。西室兄はもう数を絞ろうと思っていたと言います。わかります。いろいろ考えましたが、これも天命のなすまま自然に行こうと決めました。お会いしたなら会う運命にあった。大事なかたです。

最後に、両親です。90になる父は施設にはいり弱った母のめんどうを見ています。ここまで書いたことを立派にやり遂げること、それが両親への恩返しになると信じています。

 

 

ゴルフ用メガネ?

2013 NOV 28 10:10:56 am by 東 賢太郎

先日出張先で時間があったので「パソコンらくらく君」なるレンズをいれたブルーライト遮断用メガネをつくった。これが老眼鏡にもなりすこぶるよろしい。フレームも航空機に使用する新素材で、軽くて楽だ。最近乱視が進んで読書がちょっとおっくうになっていたが、これで一気に以前のようにらくらく本や新聞が読めるようになった。

ついでながら、その前日にやったゴルフで寄せとパットが絶不調で、腕のことは棚に上げて視力のせいにしていたところ、同行のN先生が「それにいいメガネがありますよ」と教えてくれた。芝生の緑色に白いボールがくっきりと見えるらしい。じゃあ試しにと、そっちもつくってみたのも一緒に宅急便で届いた。

用途が用途なのでこっちはあまり期待していなかったが、かけてみて驚いた。世界がきれいに見える!樹木の葉っぱが鮮やかに見えるのだ。妻に見せると全部オレンジ色がかって見える、変だ、と言うが、色弱の僕としては、ひょっとして世の中は本来こうだったんじゃないかと思うぐらいすべての色が違っている。新鮮だ。もちろんそれで新たな色が識別できるようになるわけではないし街の女性がキレイに見えるわけでもない。だが視覚は毎日の気分を変える、大事だなあと思った次第。

視力のせいで見えないとだんだん見ようとしなくなる。するとだんだん、脳に「見なくて当然」という言いわけをする癖がつくらしい。視覚から人間がおおざっぱになってくる。集中力が落ちる。だから知らないうちにQOLが低下してしまう。ボケる。どなたもすべてに緻密ということはないだろうが自分もそうだ。緻密なところとそうでないところがある。ただその落差は、たぶん普通より相当おおきい。そうでないところはいいが・・・・

このメガネでゴルフのスコアがどうなるかはまだ試してない。

 

(追記、16年1月22日)

さて、そのメガネで何度かやってみたが、これがなかなかうまくいく。というより、ほんとんどクラブを握ってない中できっとひどいだろうと覚悟してスタートすると意外にそうでもない。それがメガネのせいかどうかはわからない。というのは、上がった時にはメガネのことなどきれいに忘れていて、単に俺はやっぱりゴルフは才能があるんだと思いこんでるからだ。

というのは僭越ながらそれなりのわけがある。

イギリスでお遊びでショートホールのニアピンをやってプロに勝ったことがあるからだ。もちろんまぐれだ。お前の打ち方はここが悪いとそのプロにティーグラウンドの素振りを直されて、その通り打っただけだ。そしたらピンの右1.5mについた。次に打ったプロは2mについた。僕の勝ちだ。プロは肩をすぼめてみせて握手してくれ、グリーンにトコトコと歩いて行って僕の球を拾った。何をするのかと思ったらマジックペンでサインしてくれてまた元のところに置いた。彼が先にパットしてはずし、そして、なんのことない僕もはずした。この彼はその辺のレッスンプロじゃない。メジャー大会を9回制覇したゲーリー・プレーヤーだ。

 

 

(こちらをどうぞ)

僕のゴルフ修得法

 

 

 

ラヴェル 「クープランの墓」

2013 AUG 27 17:17:23 pm by 東 賢太郎

この曲をピアノで弾きたいというのは僕の人生の夢である。

僕は他人から何かを習うということに生まれつき適性がない。独学というと聞こえはいいが、要は手足は不器用であり、知識は自分なりに腑に落ちないと覚えられないので仕方がない。だから学校の教室で何か習得した記憶があまりない。予習してわかればもう授業は不要だ。授業でわからないから復習という自習が必要だ。なら最初から自習だけでいい。すべては自習して初めて「ああそうか」となるから、人生万事自己流である。野球もゴルフも大事な部分は他人に教わったことはない。先輩にこうやれと命令されても、はい!とやるふりだけだ。そして、問題のピアノも、誰かに習ったことはない。

ピアノに触りだしたきっかけはこうだ。僕のラヴェル好きの起源はこの「クープランの墓」という曲にある。これを弾きたい。高校時代にそういう強い願望がむくむくと湧きおこり、ヤマハで楽譜を購入(けっこう高かった)。妹のピアノでいきなりチャレンジを開始した。バイエルとかチェルニーとか、そんなものはぜんぜん興味がないからやらない。この曲だけ弾ければいいんだからという妙な理屈があった。自習の末、ハノンだけは必要と悟ってさらったが、それだけ。四則計算だけ覚えて微分積分にとりかかるようなものだ。まさしくドン・キホーテである。

「クープランの墓」は1.プレリュード、2.フーガ、3.フォルレーヌ、4.リゴードン、5.メヌエット、6.トッカータの6曲からなる曲集だ。以来40年、恥ずかしながらいまだ6曲のうちひとつも弾けない。当たり前だ。最後の「トッカータ」はラヴェルの書いた最も難しい曲であり、作曲者が自分で弾けなかった。古今東西あまたあるピアノ曲のうち、スタジオでの録音にもかかわらず、この曲ほどミスタッチやら指のもつれやら記憶違い?がきざまれたままのCDが堂々と天下に流通している曲も珍しい。大先生方も、これ滅茶苦茶難しいし録音し直してもたぶんおんなじだからこれでいっちゃってくれる?ということだったかもしれない。

つまり天下の難曲なんだトッカータは。まあ譜面を見ただけで論外だが・・・。メカニックな運指と運動神経を問われる4曲目の「リゴードン」はあきらめる(くやしいなあ・・・・)。2曲目の「フーガ」は指がもつれて無理だし暗譜がむずかしい。そうすると残るのは1曲目の「プレリュード」、3曲目の「フォルレーヌ」、5曲目の「メヌエット」だ。そういうことが発覚した。そしてついにフォルレーヌだけはかなり危ないが一応なんとなくインチキ指使いで暗譜した。7-8年前のことだ。ところがだ。会社をかわったりしてピアノどころでなくなってしばしご無沙汰しているうちに、指がすっかり忘れてしまった。何ということか!これが独学の、つまり僕の人生の悲しさだなあと思った。

だがあきらめる気はない。プレリュードの和声変化は弾いていてめくるめく快感がある。メヌエットは本当にきれいだ。きれい。一応やさしいが装飾音符がくせもので後半が意外に覚えにくい。そしてやっぱりフォルレーヌだ。ワサビのきいた不協和音で始まるが次々と玄妙な和声が現れて自分ではっと息をのむ。ちなみにウチの家族はこの不協和音が嫌いだ。弾くといやがる。僕が下手なんじゃない。そう書いてあるんだ。これはもう感性の問題でラヴェルがだめな人もいるということを知る。一方僕にはラテン文明の香りがむんむんしてくる。フランスかスペインかイタリアかギリシャかは知らない。とにかくラテンであり地中海世界だ。それが僕は大好きであり、だから3回もローマへ行ったりしているし地中海やエーゲ海のクルーズも2回やっている。あのきらきら輝く紺碧の鏡のような海は僕にとってイタリアオペラでもローマ3部作でもなく、ラヴェルそのものである。

ラヴェルを聴くというのは、自分の中に秘められている得体のしれないラテン好き本能を呼び覚ます、いっぱしの儀式である。彼が感性で選んで書き取った音は、どこか奥深いところにジーンと共鳴してくる。理屈はない。日本人がお米を食べるとなぜかおなかが安心する。そんな感じだ。いや、そういう音楽はほかにもあるが、ラヴェルは「お米が立っている」感じがする。無性においしい。僕はフランスでいうとパリ近郊のバルビゾンが大好きだ。事情が許せば余生はあそこで送ったっていいぐらい。あの洗練。片田舎なのにしゃれていて、一幅の名画を切り取ったみたいな垢抜けた街の風情を「いいね」と思う感性と、ラヴェルを「いいね」と思う感性は、僕の中でほぼ合致している。こういうことはベートーベンやブラームスの音楽では考えにくい。

ラヴェルの譜面の楽典分析みたいなことは、やってみたい気はするが生産性はあまりないだろう。彼はドイツ流儀の形式ばった曲よりも自由な構成や和声によって、何らかの詩的なイメージを喚起する曲を作るのに長けていた人だ。それは先人の誰とも似ておらず、後世の誰も模倣ができない独自の個性だった。2度、7度、9度、11度、13度の入り混じった和声はラヴェル的な世界、不協和ではあるが不思議と苦みやテンションが多くはなくて地中海の空気みたいにアルカイックで乾いている世界を象徴する。モネが時々刻々と光彩が無限に変化していく様を描き出した方法を印象派と呼ぶなら、ドビッシーの交響詩「海」も印象派の音楽といえるだろう。しかしラヴェルは「ダフニスとクロエ」でそれが完璧にできる作曲技術のあることを証明はしているが、彼の音楽の本質は印象派的ではないように思う。

ストラヴィンスキーが「スイスの時計職人」と評した彼の絶妙な管弦楽法はなにか具体的なもの、それが景色であれ光彩の変化であれ、そういう具象を描くというよりももっと抽象的な音素材として機能しているだろう。質感とでも呼ぶか、たとえば海の表面が波立っているのか鏡面のようになだらかなのかを感じさせる素材としてだ。ドビッシーの「牧神の午後への前奏曲」はものうげなフルートソロで開始するが、あの旋律はフルートという楽器の音で発想されたものであることは、楽器の機能上鳴りにくいド#でわざと始めていることからもわかる。「海」の第2楽章でもそれを感じる。ドビッシーは自身のピアノ曲を管弦楽に編曲することはなかった。音楽の発想と楽器がおそらく密接に結びついていたからだろう。たとえば2つの前奏曲はまぎれもなくピアノという楽器音で発想された音楽であり、「亜麻色の髪の乙女」を管弦楽でやってみても砂糖菓子みたいなものにしかならない。ピアノでしか表現できないアウラであり、ピアノがスタインウエイかエラールかまでも問うほどにピアノ的に研ぎ澄まされた音楽なのだ。

一方のラヴェルは、自身のピアノ曲の管弦楽編曲は枚挙にいとまがない。彼の脳の中では音楽と音彩(色)は別個のものだったのだろうかとさえ見える。だから、オリジナルは6つのピアノ曲であるクープランの墓から4つを選んで管弦楽に編曲するにあたって彼がオーボエを重用したからといって、それが牧神の午後のように音楽そのものの発想段階で何かを表そうとした結果の楽器選択だったということはたぶんないだろう。たとえば、ラヴェルは同じくオリジナルがピアノ曲である「展覧会の絵」をトランペットで開始した。それは音楽そのものの発想との関係は絶対にない。なぜならムソルグスキーという他人の書いた音楽だからだ。ところがあのプロムナードの曲調にはトランペットがあまりにぴったりであって、ムソルグスキーがそれを望んだに違いないと誰もが疑わないほどだ。ラヴェルの管弦楽パレット使いの天才とは、そういう性質のものだ。

彼のピアノ曲を聴いたり解釈したりする場合に、ピアノにおいて彼がオーボエのような音彩をピアニストに求めていたこと、そういうイメージをもってプレリュードを弾いたら感知できるようなアウラを描きたかったのだということは言えるだろうが、それが絶対のものであるなら彼はクープランの墓を管弦楽曲として作曲していただろう。ここがドビッシーのピアノ曲と本質的に違うし、ピアノの音を絶対として作ったと思われる「夜のガスパール」とも違うのだ。クープランの墓というのは光の当て具合で色調の変化するダイヤモンドのような音楽であり、どこから見ても、何度見ても、その高貴な光に魅了されて幸福感を味わうことのできる逸品なのである。

この曲をピアノで弾きたい・・・・。

僕の人生の夢だ。甲子園で全国制覇して天下無敵だったころ、松坂大輔はこう言った。「夢ですか?ありません。夢というのはかなわないものですから」

それが夢だとわかる程度には、僕のピアノの自習は残念なことに進んでしまった。高嶺の花に惚れてしまった宿命だ。ずっときれいなままでいてもらいましょう。

以下、僕が好きなこの曲の演奏をいくつかご紹介する。

 

イヴォンヌ・ルフェビュール(ピアノ)

solsticefycd018ルフェビュール(1898-1986)はフランスの女流。9歳のときパリ音楽院の神童賞を受賞し、12歳でデビュー。コルトーの弟子でありディヌ・リパッティ、サンソン・フランソワの先生でもある。残っている録音は少ないがフルトヴェングラーの指揮で弾いたモーツァルトの20番の協奏曲が名高い。このクープランの墓、プレリュードの音の粒だった流れるような演奏からしていきなり彼女の世界に引き込まれる。微妙なテンポの揺らぎが各所にありフォルレーヌはトリルを長めにとるなど個性が際立った演奏だが、これぞラヴェルの音だ。高齢での録音故にトッカータで指が回っていないが安全運転に陥らず凛とした姿勢で弾きとおす。ぴんと背筋を伸ばして馬にまたがった貴婦人というイメージだ。なんら威圧的なものはないが、俗人が触れてはいけない高い知性と気品のようなものを感じる。

 

ジャンルイジ・ジェルメッティ / シュットゥガルト放送交響楽団

MI0001041233これぞ地中海のラヴェルである。えっ、ドイツのオーケストラじゃない?いかにも。でも出てくる音はまぎれもないあの青い海だ。ジェルメッティは94年にシュベツィンゲン音楽祭で ロッシーニのスターバト・マーテルを聴いていたく感心した。宗教臭さのないからっとした演奏だった。このクープランの墓の木管を聴いていただきたい。どうやってこんなにラテン感覚の音になるんだろう?音楽は前へ前へ流れる。しなやかな黒豹みたいに。かと思うとリゴードンの中間部は超スローになったりする。そうやってフレーズは歌いまくる。内声部まで歌っている!なんともセクシーなのである。ついでに「道化師の朝の歌」を聴いてみよう。これぞ最高のメリハリだ。なんて小気味よいリズムだろう。けだるいファゴットのソロ。酔っぱらいの千鳥足。もう漫画の一歩手前だがこういうあざとさがツボにはまって悪趣味にならない。ボレロは歌とリズムの饗宴だ。あのトロンボーンまで歌ってしまう。一方で合いの手のキザミまでスタッカート気味にして小太鼓の興奮に加わっていく。実にすばらしい。ジェルメッティさん、どこかイタメシ屋のおやじという風貌だがどうしてどうして、彼はあのチェリビダッケ、スワロフスキーの弟子というサラブレッドなのだ。地中海好きの僕にとって、一生座右に置くこと必須の希少な一枚である。

 

セシル・リカド(ピアノ)

517UUE8XwnL._SL500_AA280_また女流になるが、この演奏も好きだ。ピアノはパステル調の落ち着いた音色でいわば非ラヴェル的だ。湿気を帯びている。それがメヌエットをシューマンのトロイメライみたいに響かせている。リゴードンの中間部がやはりスローになるが、ジェルメッティが空気に湿り気がないのにたいして彼女のはウエットでロマンティックなのだ。ペダルも多い。そんなのはラヴェルでない?そうかもしれない。それでもプレリュードの絶妙なタッチとテンポのゆらぎはやはり陽光にきらめく地中海だ。海はあまり青くなくて僕には灰色がかっている。速めのフォルレーヌには舞曲を感じる。トッカータは破たんもあり得るテンポでリスクをとるが彼女はそういうことにたぶんあまり重きを置いていない。感じたままの勢いで音にしたい。そう聞こえる。だってこの曲好きなんだもん、という風に。好きは通じ合う。フィリピン系のリカドはホルショフスキーに学び、あのルドルフ・ゼルキンが唯一とった弟子だ。

 

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ― / ミネソタ交響楽団

MI0000978066VOXからこのコンビの10枚組が出ていたが中古で見つけたら迷わず購入をお薦めする。このクープランの墓はi-tuneで買える。非常に微視的視点から人工的に磨き抜かれた非ラテン的、非地中海的ラヴェルであるが、この魅力には抗しがたい。これだけ見事なオーケストラの音はそう聴けるものではない。時差ボケで眠い中、この完璧なピッチを耳にして脳細胞が立ってしまい、一気に覚醒した。ブーレーズがCBSに残した旧盤(下記)もいいが、これの方がよりその路線で徹底している。これがライブであれば、普段は演奏中にプログラムをめくってごそごそやる人たちも身を固めて聞き入るしかないだろう。トランペットの音色がアメリカ風に安っぽいので浮いてしまうなどご愛嬌もあるが、ラヴェルのスコアがいかにすごいものかじっくり味わうにはこれしかない。一部だけ最近SACDフォーマットで出たが、全曲やるべし!

 

アビイ・サイモン(ピアノ)

61XrlrfeMjL._SL500_AA280_ これはホロヴィッツじゃないのか?いやもっと詩情があるぞ、ちがうだろう。ブラインドテストすればそういう声すら出そうだ。アビイ・サイモンがリサイタルをやると客席にはプロのピアニストが大勢押しかけたそうだ。そういえばロンドンのバービカンでミケランジェリを聴いた時、僕の目の前の席の禿げ頭はアルフレート・ブレンデルだったなあ。ロイヤル・フェスティバル・ホールのリヒテルの時は内田光子さんが聴いていたっけ。サイモンはそのクラスのピアニストだ。VOXという廉価版レーベルで出て日本では大きく勘違いされているが、他人の言うことは一切無視してよく聴いていただきたい。リゴードンの節回しなど癖は各所にあるが、それは余裕のなせる業だ。これはショパンなんじゃないかと思ってしまうほどピアノが簡単に、しかも深々とボディのある音で鳴りきっている。そしてトッカータ!弾くことに汲々とした凡百の演奏などとは別次元の世界を見せてくれる。バカテクだけの剛腕でもない。フォルレーヌの玄妙な和音のつくり方なんか、もうため息もののバランスの良さだ。彼のリサイタルのチケットを買ってしまったことを後悔したピアニストは一体何人いたのだろう。

 

エルネスト・ブール / 南西ドイツ放送SO

51yaNMesYOL__SS280上記ジェルメッティ盤は入手困難と思われるので挙げておく。こちらもドイツのオーケストラ(バーデンバーデンのオケだ)ながらフランスの香気がただよう。ブール(1913-2001)はストラスブール音楽 院で学び、シャルル・ミュンシュに師事しストラスブール・フィル、歌劇場を経て上記オケ首席指揮者に就任したフランスの指揮者だ。ラヴェルを知り尽くした職人が紡ぎだすアロマは古き良き味があり、その上質の演奏をヨーロッパ調の良い録音で楽しめるのは値打ちがあり、僕は時々取り出して聴いている。

 

ピエール・ブーレーズ /  ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

41NcsSvNUnL妖しい光沢と光彩を放つ木管がかぐわしく、金管もブラッシーでなくラヴェルにそぐわしい。それらがほのかな倍音をまじえて精妙に交差するブーレーズCBS時代の音は上品なステンドグラスを見るようで、時に聴きたくなる。ただ、美しいがフランスのアロマは希薄で、弦がメヌエットでポルタメントをかけるなどブーレーズっぽくない表情を呈しており、春の祭典や海とはスタンスの変化を感じる。前奏曲主部の後半、チェロやファゴットの横の線がくっきり出るのに最初は驚いた記憶がある。それでもこういう音のする録音は他に求め難いのだから、オンリーワンの価値は永遠なのだ。

 

アレクシス・ワイセンベルグ(pf)

755大学3年のときに展覧会の絵と組んだLPを買い、ずいぶん聴きこんだ演奏。いま聴きかえしたが独特な感性で包み込んだクープランだ。速めの前奏曲はしかしほのかな色香をたたえ音色のパレットが豊か。フーガをこんなにきれいにすいすい流れるように弾いた人はいない。フォルレーヌはテンポが即興的に動くが渋みある和声をこんなに感じてならした人もいない。リゴードンには青い色が見える。メヌエットはなんと自分で弾くテンポではないか。これが刷り込まれていたことを知って驚いた。美しい。トッカータはしずしずと始まるが低音の強い打鍵をまじえ徐々に音楽は熱していく。微細なミスはそのままにライブっぽい感じもある見事な演奏。これは一聴の価値ある名演だ。

 

サンソン・フランソワ(pf)

230評判の高い演奏だが、繰返しがなく奏者の愛情がそうあったとも感じない。前奏曲は平板なうえに速すぎる。これでは香気をぜんぜん感じない。フーガはモノトーンで黒っぽい。フォルレーヌは遊んでおり即興的だが、フレージングが奇矯だ。リゴードン主題でいきなりテンポを揺らすのはアビー・サイモンもそうだが好きでない。中間部にひとつ音の変更があるのが意味不明だ。メヌエットにもある。なんじゃこりゃ、不快極まりない。トッカータはいきなり快速だが弾き飛ばした観を禁じ得ない。コンチェルトであれほど感涙もののラヴェルをやっているフランソワをこき下ろすことになるとは不幸なことだが、そうなんだから仕方ない。

 

ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

MI0003008810誰もほめていないが、これは美しい。名演だ。75年のアナログ録音はいかにも典雅でオケのピッチとセンスの良さは最高級。中間色の微光を発する宝石のよう。フォルレーヌの付点音符の弾みなど品を損なわずに音楽に躍動を与えており、ハイティンクの趣味の良さを知る。メヌエットの中間部の盛り上げなどこなれていない部分もあるが、リゴードンの素晴らしいホールトーンとACOの名技を聴くと忘れてしまう。おすすめ。

 

アンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団

837我が国オールドファンにとって、神格化され奥の院に祭り上げられた聖なる録音である。これを貶した人は寡聞にして知らない。しかし僕は聴いたまま正直に書く。冒頭のオーボエの切れぎれのフレージングは技術的なものかどうかともかくいただけない。ACOを聴いてしまうと管も弦も弱く今なら音大のオケのほうがよほどうまい。フォルレーヌのイングリッシュ・ホルンなど音程まで悪い。メヌエットは中間部の低い管のピッチがひどく、僕には耐えられないレベルである。リゴードンは縦線はほぼ無視。こういうファンダメンタル(基本)を欠いていて、フランスのエスプリだなんだといっても音楽というものは始まらない。高島屋、三越がヨーロッパだった時代の産物だ。

 

エルネスト・アンセルメ / スイス・ロマンド管弦楽団

595パリ音楽院Oを下手くそと言った評論家はいなかったが、こっちは言われた。同じようなものだが僕の趣味としてはこっちのほうが圧倒的に、いい。まずこの曲の主役といえるオーボエだが、この葦笛のような音色はいまや絶滅した貴種でありまさしく最高である。前奏曲の主題、フォルレーヌの中間部の高音、メヌエットの主題など聴いてほしい。ふるいつきたくなるほどセクシーで魅力的だ。そして冷静に進みながらもそっと香り立つ高貴なフレージング、管弦の音のブレンド、冷んやりした音色、和音の倍音の混合、安っぽいところが微塵もなく、こういうのを貴族的というのだ。クリュイタンス盤はもう聞けなくても何の悔いもないが、アンセルメ盤はブーレーズより上位にある座右の銘盤である。

 

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

R-3906412-1362789938-7628_jpeg目隠しして聞かせたらこれが米国のオケと誰が見抜くだろう?今のフランスのオケなどこれよりずっとアメリカンだ。前奏曲のテンポは速いが、ギャビー・カサドシュ(ロベルトでない、奥さんの方だ)の録音が同じく速いのにオーセンティシティのオーラを放っているのと同じで、うーんこれだと唸るしかない。フォルレーヌも速くヴァイオリンがスタッカート気味だがこのテンポなのかもしれないなあ。中間部の色香はどうだ。メヌエットも速め。これは僕にはちょっと素っ気ないし管もいまひとつだ。リゴードンは超特急。元がピアノだと意識がある解釈だろう。後半が特に良いとは思わないが時代の空気を醸し出すパレーの棒に敬意を表したい。

 

シャルル・デュトワ / モントリオール交響楽団

51HCzI2fMML__SY450_録音のマジックではないかと疑われたほどオケがうまい。実物の幻想交響曲を聴いたが、本当にうまい。前奏曲はオーボエはもちろん木管がソリスト級の腕を問われる。金管も含めて管が「運動神経」を問われるのだ。そしてフォルレーヌでは弦が微細なピッチコントロールを問われる。指揮者はリズム感、音色感とそれらをまとめる耳を問われる。難曲だ。これはリゴードンの開始でファゴットが走るなど微細なものを除いて傷がなく総合点が高い。ただ、ジェルメッティ、アンセルメ、ブーレーズのような売りになる個性はなく特に聞かなくてはとも思わない。優等生的なのが欠点ともいえよう。

 

ゲオルグ・ショルティ / シカゴ交響楽団

zaP2_G5376041Wデュトワ盤をさらにしのぐ運動神経のオケだが前奏曲の弦などは完璧でもない(やり直すべきである)のが意外だ。フォルレーヌの中間部は和音の混合具合がどうもラヴェル的でない。誤解ないように書くが、僕はクリュイタンスを 讃美する人が「フランス的」とかエスプリというセンスにはまったく共感がない者だ。このショルティ盤は「フランス的」ではないが良い演奏である。ファンダメンタルが素晴らしく、音楽演奏にそれのほうがよほど重要というのは音楽鑑賞のファンダメンタルでもあろう。

 

ピエール・モントゥー / BBC交響楽団

753指揮者唯一のクープランの墓という意味で貴重な音源だから書いておく。フォルレーヌの弦はフレージングが甘くいい加減だ。メヌエットもオーボエを歌わせるし再現部の弦もロマンティックであり、モントゥーはこう読んでいたのかと意外な感じが残る。リゴードンも慎重な運びである。ライバルだったアンセルメよりはずっとおおらかであり、僕にとってはどこといって何も見るものはない。アンセルメの外科医のような眼のラヴェルが僕は好きなのだ。

 

モニク・アース(pf)

879テンポの揺れをおさえた古典的なフォルム。無用の装飾のない禁欲的なラヴェルが実に好ましい。フーガの2声、3声の見事な綾など彼女の大変に知的なセンスを見る。フォルレーヌの和声への感度も鋭敏。モニク・アース(1909-87)はマルグリット・ロンら作曲家同時代人の次世代だが正統派中の正統派だ。全曲、どこがどうのではなく傾聴するしかない。遊びがないといえばないが、それが無用なだけラヴェルが素晴らしい音符をかきこんでいるのだということがわかる。トッカータは彼女の技量が必要十分なこと(この曲においてそれは尋常なことではない)を明示する。最右翼であり歴史的価値のある名演として万人におすすめである。

 

ジャン=エフラム・バヴゼ(pf)

MI0001083445最近の人ではこれが印象に残る。ロン、アース以来のフランスの伝統に根ざしたピアノという感じがするからだ。前奏曲はほぼ文句なし。音色のパレットが多様だ。フォルレーヌがややタッチが生硬でデリカシーを欠いているのが残念だが和声への感性で許せる。リゴードンの技量の冴えも良し。メヌエットも砂糖菓子にならずルバートが控えめである。トッカータはやや速めだが破綻がほとんどない。スタジオ録音とはいえ見事だ。

 

ワルター・ギーゼキング(pf)

51B1qSroq5L徹底してギーゼキングの譜読みによるラヴェル。前奏曲はかなり遅め。イメージからは意外だ。フーガは陰影が巧みで最後はテンポがかなり落ちる。フォルレーヌは淡々。リゴードンも遅くミスタッチもありいまひとつだ。メヌエットは孤独で寂しげなのがユニークと言えばユニークだ。ゆっくりと一歩一歩踏みしめて歩くようなフレージングはあまり賛成できないが。トッカータでやっと普通のテンポになるが技術的に彼のクレジットになる出来とは程遠く、あんまり練習せずに録音したとしか思えない。なぜか昔からこれも世評が高いという不可思議な現象が我が国にはみられる。

 

アンジェラ・ヒューイット(pf)

974カナダ人でバッハが得意とくるとグールドの名が浮かぶがタイプがまったく違う。イタリアのファッツィオーリを使用、独特の光彩を放つ魅力的な録音になっている。前奏曲はバッハ演奏のキャリアが活きる。感心したのはフォルレーヌの和声だ。第19小節ppのfgheにバスがg-cと入るところ、それが下がってe♭fadにf-b♭と入るところ!こういう和音に「感じる」かどうかがラヴェル弾きの分かれ道だ。メヌエットの再現部のデリケートな味わいも美しい。ロマンティックだが品格を保つのが一流。難曲トッカータの粒立ちも満足で破たんは全く見られない。これはおすすめ。

 

まだまだたくさんある。ダイヤモンドの光輝はそんなに単純なものではない。また後日、折にふれて補遺していくことにする。

音を聴いていただきたいが、この曲はどういうわけかyoutubeのソースが限られている。オケ版はこれがなかなか美しかった。

 

(こちらもどうぞ)

ヘンリー・マンシーニ 「刑事コロンボのテーマ」

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

 

東北楽天イーグルスがなぜ強いのか

2013 AUG 14 18:18:39 pm by 東 賢太郎

東北楽天ゴールデンイーグルスが強い。今現在5.5ゲーム差でパリーグ首位を独走している。戦力はというと去年より大幅にアップした印象はない。外人(ジョーンズ、マギー)ぐらいだが彼らの長打が勝因かというと、ホームラン数69はパで下から3番目だし広島の75より少ないのだからそうともいえない。やっぱり勝ち続けのマー君を筆頭に投手陣が圧倒的にレベルアップしたのだろう。

楽天は2005年に球界再編の中で誕生したが、球団創設後の2試合目はロッテの渡辺俊介に1安打完封で26対0という壮絶な負けだった。東大や京大だってリーグ戦でこんなに激しくは負けないし、こんな負け方をしたら選手は一生のトラウマになる。勝負の怖さに背筋がぞっとしたのを覚えている。東北のかたは思い出したくない試合と思うので書くのは申しわけないが、男が真剣勝負に負けるというのはきわめて残酷なものだ。

今年の楽天で凄いなと思ったのは、星野監督がファンに怒ったことだ。日ハムの二刀流大谷にホームランを打たれてKOされた永井に拍手を贈った楽天ファンに、星野さんは「理解できない」とかみついた。東北のファンはやさしいのだろうし賛否両論あると思うが、僕はやはり理解できない。プロの試合はショーじゃない。頑張ったんだからいいじゃないかでは、真剣勝負には勝てない。

小学生のころ、ケンカしたりイタズラしたりで僕の母は学校へ何度も呼び出されたらしい。らしいというのは、そのことは後から知ったので当時は知らない。なぜなら母は息子をかばって父に言わなかったからカミナリが落ちなかった。だから学校をなめていた僕はまたやってしまう。やがてとうとう父が知ることとなって、カミナリどころかスパルタの公立中学へぶちこまれてしまった。

母性原理と父性原理というものがある。母は守ってくれ、甘えさせてくれ、癒してくれ、許してくれた。父はその逆で理のかたまりであり、かたときも甘える相手ではなかった。中学では更生して少しは勉強もしたが高校受験に失敗して、どうもこれではいかんと思いだした。唯一優越感のあった野球も高校では鼻をへし折られてしまった。このへんが、自分の母性原理からの離陸だったように思う。こてんこてんに負け続けて、みじめに残酷に踏みつけられて、甘えとったら勝てんという原理が自分の中に芽生えてきた。

今の世の中は、ちょっと語弊があるかもしれないが、父性が影をひそめて母性が勝る、ひどいときにはそれが押し売りされるような気がする。浪人時代の星野さんのスピーチを聞いたことがあるが、唯我独尊の自信家というイメージではなく、彼はひとえに負けることが嫌いなのだと思った。負けたくないから父性が勝った人になる。だから負けたやつをかばうファンに怒る。これは真正のカミナリ親父だ。

マー君は神の子なんておだてられてもうれしくない。たぶん。ところが星野監督には「何やってるんだ。お前は30勝できる投手だぞ」と怒られたらしい。最高に見事な叱り方と思う。母性の監督や投手出身じゃない監督にこれを言われても彼はおそらく馬耳東風だ。うれしかったにちがいない。死に物狂いでマウンドに行くだろう。若手の投手にもそれがテレパシーのように伝染しているだろう。

2005年の残酷な負け。東北の人と一緒に優勝を願ってイーグルスを応援したくなる。

 

 

 

 

石の上にも三年

2013 JUN 13 1:01:36 am by 東 賢太郎

今朝、新幹線で広島へ入り今はとんぼ返りで名古屋のホテルです。広島では半年かかった仕事をやっと今日クローズしてちょっと興奮気味ですが、入れ替わりにさっそく新しいエキサイティングな仕事のフィージビリティ・スタディが始まってしまいました。カープファンの宿命でしょうか(こっちで野球を見る暇はまだ一度もありませんが・・・)。明日は名古屋で別の案件を2つ検討します。来週はミクロネシア連邦共和国への出張を控えていますが、そちらでさらに別な案件のご相談があると聞いています。ひとり相撲で全部はむりなので、どれをやるかやらないか悩ましいところです。

ともあれ、どの2つをとっても類似の案件というものはなく、金融・証券とまったく関係のないものもあり、単なる証券会社のサラリーマンだった3年前からすると想像も空想すらも及ばなかった人生を送っているようです。そういう仕事が舞い込んでくるということは、客観的に判断して僕はもう証券マンとは思われていないということですが、それがどんなにうれしいことかはなかなかお分かりいただけないと思います。

今日終えた案件は証券に関わるもので、ちょっと難易度は高いですが野村がやってもゴールドマンがやってもいい。これをやることは僕のストライクゾーンというか、誰が聞いてもそうだろうねというものです。しかしこれからのほうははっきり言って僕は完全にシロウトであり、門外漢です。これはたまらない刺激です。僕はこういう刺激を食っていないと生きていけない人種です。だから証券は卒業したいのです。今のこの仕事から退くつもりは死ぬ前の日までありませんが、いずれは僕の経験を若い人たちに教えることを考えています。大学で学ぶことは絶対に無理です。僕はアカデミズムは好きではないので何か独自の方法で伝えたいなと思います。

ところで、ミクロネシアについてはまだ勉強不足ですが、観光開発は途上でありその分だけ自然にあふれた環境だそうです。政治家、お役人の偉い方々にお会いできるそうでポンペイ島内をご案内もしていただく予定と聞いています。マンタを見るツアーがあるそうで、僕はあまり興味ないのですがけっこう周囲ではうらやましがられています。少しゆっくりする時間をいただければ、ひとりでぼーっとして読みたかった小説でも読もうかなと思っています。

クラシック徒然草-ダボス会議とメニューイン-

2013 JUN 11 0:00:01 am by 東 賢太郎

 

「ザルツカンマーグートを見たことのない者にベートーヴェンの田園交響曲は解釈できない」  (ユーディ・メニューイン)

と20世紀を代表する大ヴァイオリニストは言ったそうだ。 「ラインラント地方を見たことがない者にシューマンのライン交響曲は指揮できない」 と信じる僕ごときと似たような音楽観をお持ちだったのかどうか真意はわからないが、それを先日ある人からうかがった瞬間に記憶が脳裏によみがえった。メニューインについてはある思い出があって、強い印象が残っているからだ。

1997年2月、野村スイスの社長だった僕は本社からの指示でスイスのいわゆるダボphoto1_000250ス会議(World   Economic Forum)に3日間参加した。この会議がどういうものかご存知の方も多いだろう(今年は安倍首相も出席してアベノミクスが話題になった)。登録者のみが参加できるのだが、たしか当時ひとり2万ドルぐらいかかったようだ。登録が受理されると名簿(辞書風のディレクトリー)に顔写真とプロフィールが載るのはSMCのメンバーリストと似ている。登録者各人に割り当てられる「鳩の巣箱(pigeon box)」という丸い穴の開いた郵便ポストがあるが、アルファベット順になっていて、Azumaのお隣さんはArafat(PLOのアラファト議長)だった。毎日の進行はというと、朝一番のブレックファスト・ミーティングから夕方6時ぐらいまで6~7コマのセッション(時限)があり、会場には大中小の様々なホールや教室があって、各々の部屋で同時進行で行われる。どの時限にどの部屋に行こうが自由だが各部屋とも人数制限があるので事前にレジスターしないと入室できない。人気のあるコマはすぐ満員になってしまうのでこのマイ・スケジュール作りが結構大変だった。言語は基本的に全部英語だ。

ダボス会議と呼ばれるが一様に会議なのではなく、一方的講義形式、パネルディスカッション型式、視聴者参加型ディスカッション型式などいろいろある。5~6人座っている複数の丸テーブルを複数のパネラーが10分ごとに回遊してアドホックに議論する型式は大変面白かった。僕のテーブルには米国連銀(FRB)の局長がいて、パネラーのひとりがチェコのハヴェル大統領だった。大統領がやってきていきなりアメリカの悪口をいいだすと、FRBがすぐに応酬する。チェコ好きの僕はなんとなく大統領に組してFRBの通貨政策を批判する。結論はない。10分でベルが鳴り、次のパネラー(ぜんぜん違う立場の人)が来る、という塩梅だ。まるでボクシングみたいだった。

当時、世界最高のCEOと尊敬されたGEのジャック・ウェルチ会長のブレックファスト・ミーティングは迫力があった。演壇上から南部なまりの英語で彼のスピーチは始まったが、だんだん自分の話に興奮してくるとマイクを手に持って熱弁をふるいながら演壇を降り、僕の丸テーブルのすぐ脇まで来てしまった。こっちは朝食を食べているのだがツバキが飛んできて困ったものだ。しかしそんな超至近距離で天下のウェルチのオーラを浴びられたのは何か感ずるものがあった。あれ以来、僕は英語でスピーチするときは無意識に、あの時のウェルチをイメージするようになっている。

ビル・ゲイツ(マイクロソフト)とアンドリュー・グローブ(インテル)の「ネットワーク社会」の対談は今日をほぼ予見していたが、いま振り返ると隔世の感があるともいえる。グローブが何やら小さい箱型の機器をポケットから取り出して「皆さん。びっくりしないでください。これは電話機なんです。今からこれでちょっといたずらしてみましょう。当社のストックホルム現法の社長を呼び出してみます。彼は私から電話が来ることなんか知りません。」といって我々の前でそれをやって見せた。ストックホルムの社長も驚いたが、見ていた1000人の観衆も驚いた。今なら小学生でもできることだ。1997年、世界のケータイ事情はまだこんなものだった。

ダボス会議の1週間というのは、こういう人たちが一堂に会し、会場内を普通の人である我々と分けへだてなく闊歩している。びっくりしたのはユーディ・メニューインのセッションがあったことだ。いや、それが彼のセッションだったのか、誰かのゲストとして呼ばれていたのか、もう記憶が定かではない。しかし、ひな壇にあった顔はまさに、レコードのジャケットで見知ったあの大ヴァイオリニストだった。楽器を弾いたわけではない。何か訥々とスピーチをした。心の中にいる神、政治の凶暴さ、戦争と平和、芸術のできること・・・などといった内容のものだったように思うが、彼について知ってることといえばフルトヴェングラーと録音したいくつかの名演奏ぐらいという体たらくだった僕はいくら彼の英語に耳をすませてもよくわからなかった。そこにいた僕の周りの聞き手が知っていて、たぶん僕だけが知らなかった彼のパーソナル・ヒストリーはこんなものだ。

7歳でサンフランシスコ交響楽団と共演した神童だったメニューインは、アメリカで経済的に困窮していたハンガリー人亡命者べラ・バルトークを助け、あの無伴奏ヴァイオリン・ソナタを献呈された人だ。また一方では、ユダヤ系ながら第2次大戦後のドイツとの和解を訴え、ナチス協力者の烙印を押されていたフルトヴェングラーと共演して彼の無実を擁護した。それが米国ユダヤ人社会の逆鱗に触れ、米国で支配的だったユダヤ人音楽家社会から事実上排斥されて欧州へ移住する運命となった。第2次大戦は欧州から米国へ移り住む多くのユダヤ人音楽家を生んだが、その逆は彼ぐらいのものだ。

このフルトヴェングラー事件は彼の父君がアンチシオニストの哲学者だったという思想的影響があったかもしれないと思う。誰とて父祖の薫陶から完全に自由であるのは難しい。ダボス会議の主役はアメリカではない。欧州だ。舞台は戦争の血なまぐささとは縁の薄いスイスだ。米国を追われ、そのスイスに居住し、英国で貴族の称号であるロードを授与された音楽家。ちょうどその1997年に欧州金融界が米国流ビジネスであるインベストメントバンク化の道を選択し、スイスの銀行が米国の圧力でナチ・ゴールドで守秘義務の解除を余儀なくされたこと、翌年5月に欧州中央銀行が発足し、統一通貨ユーロが誕生したこと。今になって、メニューインの存在が重なる。

僕は彼の実演を1度だけ聴いた。84年2月8日にフィラデルフィアのアカデミーでやったリサイタルだがほとんど記憶にない。84年の2,3月はMBAが取れるかどうかの期末試験で心ここに在らずだった。先週たまたまタワーレコードで10枚組で1,800円というメニューインのCD10枚組を見つけたので買った。

古い録音が多いので期待せずに聴きはじめるとこれが面白い。耳がくぎづけになって一気に10枚聴いてしまった。フルトヴェングラーがフィルハーモニア管を指揮したベートーベンの協奏曲。EMIの有名な録音だが改めて感動した。これだけオケが立派な演奏は少ない。全曲が泰然としたテンポで進み、第3楽章も急がない。第2楽章はロマン派ぎりぎりの夢見るような弦がソロをほのかに包みこむ。第1楽章はベートーベンの書いた中でもひときわ巨大な音楽でありいつ聴いても天才の発想に圧倒されるが、独奏がこれほど気品と風格にあふれ、古典派演奏の枠を超え人間味の限りをつくしたあたたかさが伝わるものはほかにない。ロマンスの2番。ベートーベンにモーツァルトの影響を最も顕著に感じる作品のひとつだ。この演奏も最高だ。

 

同じコンビでバルトークの協奏曲第2番!メニューインは自分が助けた2人の盟友を自らの新天地ロンドンで結びつけたのだ。4分音(半音の1/2)など音程はややアakg_00008754バウトながら縁の深いバルトーク作品を格別の気迫で弾ききっており、フルトヴェングラーのほうも丁々発止オケを触発してそれに応えている。オケの反応も上々だ。前衛性はやや後退して古典に聞こえるものの、いい演奏なのだ。意外かもしれないが最も前衛性の強いピアノ協奏曲1番をバルトークの独奏でフランクフルトで初演したのはフルトヴェングラーである。録音は残っていないが彼は管弦楽のための協奏曲もやったらしい(聴いてみたかったなあ)。彼が同時代の音楽にも適性があったのは、自身が交響曲を3曲も書いた現代音楽作曲家でもあったのだから当然といえば当然なのだろう。

シューマン、ブルッフの協奏曲。独奏が文句なしに素晴らしい。全盛期のテクニックが冴えわたるが機械的でなく、いつも知性と人のぬくもりを感じる。前者はバルビローリとニューヨーク・フィルがこれまたいい。ナチスの妨害で初演できなかった因縁の曲だが、ヨアヒムが演奏不能とした第3楽章のめざましい表現は技巧を感じさせない。なんていい曲なんだろう。シューマンの最後のオーケストラ曲だ。いい曲に決まっているのだが、こういう水を得た魚のような演奏を聴かなくては曲の真価は見誤ってしまうのだ。

エルガーの協奏曲。これも地味だがいい音楽だ。32年録音の協奏曲はエルガー自身がロンドン1198596交響楽団を振って伴奏している歴史的遺産である。このツーショット、左の若きイケメンがメニューイン、右はそのエルガーだ。彼は英国に縁があったのだ。ドヴォルザークの協奏曲。師匠のエネスコの指揮するパリ音楽院管弦楽団がやや荒っぽいのが欠点だが、心に響くヴァイオリンが滔々と歌うとそれも忘れてしまう。メニューインは一時技術的に停滞があったのと、LPレコード時代の録音が薄っぺらい音に聴こえた(僕だけでないだろう)せいだろうか、日本での評価が欧米より低いと思う。この10枚組は音も意外に悪くないので彼の歌の真価がわかる。この歌、グリュミオー、ギトリス、フェラスといったエネスコ門下のヴァイオリニストにどこか共通するものがないだろうか?

ジョコンダ・デ・ヴィートとのバッハ。これも好きだ。2人の個性はそのままに、お互いぶつかり合うのではなく折り目正しく調和している。格調高いバッハになっていながら豊穣な歌心も感じる。ニールセンの協奏曲は特に印象に残った。指揮はウィーン・フィルとのハイドンでご紹介したデンマークのマエストロ、モーゲンス・ウエルディケである。デンマーク国立放送管弦楽団とのお国ものであり、オケの気迫が尋常でない。そしてメニューインがバルトークに委嘱し、献呈された無伴奏ヴァイオリン・ソナタは「直すところなんてない。これからずっと君の弾いたように演奏されていくだろう。」と作曲家に言わせた演奏だ。

10枚を聴き終えて、浮かんできたのはダボスでの彼のスピーチだ。ジョークを言うでもなく大声で主張するわけでもなく、訥々と淡々と人生を回顧するようなおだやかな語り口。当時は知識もなく意味も充分にわからなかった僕はなぜか感銘を受けていたのだ。そういうことは僕にはあまりない。彼が大ヴァイオリニストだからということは、僕に限ってはまったくない。そうではなく、どこか、彼の人格に由来する独特のたたずまいに包み込まれてしまったかのように思える。音楽やヴァイオリンの話はまったくなかったのに。

おそらく、すぐれたプレゼンテーターというのはすぐれた人格者だ。内容が金融であれ音楽であれ、それはあくまで題材であり、聴く者の心に深くこだまして納得感や感動という心の動きを作り出すのは題材にのって運ばれてくるその人の人間性のほうだと僕は思う。音楽は楽譜に書いてある通り正確に音を出せばいいというものではなく、解釈という、プレゼンテーターの心の作用のみがもたらすことのできる釉薬(うわぐすり) が加味されて初めて人の心に触れてくる。原稿を読みあげる政治家の答弁が、それがいかに文法的に正しく整った日本語であり、いかに正確に発音されていようとも、なかなか我々を説得するに至らないのと同じである。

メニューインの人道主義者、哲学者としての立派な側面は後で知ったことだから、あの時に僕を感動させたのは彼の人柄なのだろうと思う。すぐれたプレゼンをするなら、労苦を厭わずすぐれた経験を積み、人格を磨くことだ。プレゼンの小手先のテクニックなどは後回しでよい。僕は音程の甘い演奏は嫌いだ。好き嫌いだからどうしようもない。そして、メニューインの音程は僕の聴く限りやや甘い。だからあまり熱心な聴き手ではなかったのだ。しかし今回たまたま出会ったこれらのCDに1枚1枚じっくりと耳を傾けてみて、

「ザルツカンマーグートを見たことのない者にベートーヴェンの田園交響曲は解釈できない」 

という彼の言葉の真意がおぼろげながら憶測できるような気がしてきた。ユーディ・メニューインが世を去ったのは、あのダボス会議の2年後のことだった。

 

僕が聴いた名演奏家たち(ユーディ・メニューイン)

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

オリックスのロべコ買収

2013 FEB 16 1:01:06 am by 東 賢太郎

Netherlands-CIA_WFB_Map-10-10-10ロンドン時代、駆けだしの僕がまず担当させてもらった大きな顧客はオランダの機関投資家でした。アムステルダムはもちろん、ロッテルダム、ユトレヒト、デンハーグ、アイントホ―ヘンなどにある銀行、年金、運用会社などで、ロンドンから数えきれないぐらい何度も出張して各地を駆け巡りました。ロンドンの投資家も資金量は巨大ですが、オランダも当時数十兆円の投資資金があったのです。

まず何より覚えているのは土地に高低差のないことです。とにかく車で行けども行けども平地。「平地酔い」というのがあるのかどうか、とにかくあるはずのアップダウンがあまりになく、しばしば気分が悪くなりました。そういう時はバート君という飛ばし屋の運転手に道端に止めてもらって「立ち○○」などしますが、そうやって風車が点々と回っているだけで何も目に入らない広大な牧草地の中でぷーんと漂ってくる浮世離れした田舎の香水をしばし嗅いでいると、「俺はどうしてスーツを着てこんな所にいるんだろう?」と我とわが身のわけがわからない不思議な気持ちになったものでした。

220px-Delft_-_Universiteitsgebouw_(Rode_Scheikunde)僕はオランダの世界的石油企業の年金が顧客だったのですが、ある日、同社幹部からスポンサーをしている名門デルフト工科大学(ノーベル賞学者3人輩出・右)の経営学講座で僕に講師をしてくれと依頼が来ました。言語はもちろん英語です。オランダ人にとって英語はほぼ母国語に近い水準なのです。当時はやりだった「日本型経営モデル」の講義で1コマ2時間でした。理系の学生ばかりだからどうせ何もわからんだろうとナメていて、とにかく日本のすごさだけはわからせてやろうと気合は入っていました。なにせこちとらMBAを取ったばかりでもあり、まずはアメリカンな「経営学」「経済学」っぽいことをしゃべり、そのアメリカ人だって日本型経営を研究してるぞなどとまくしたてました。その演説が一段落した時です。一番前にいた学生が手をあげ、「日本経済の強さはよくわかったから、江戸時代の日蘭関係について話せ」とリクエストが来たのです。そんな話題は想定外で準備もなく、えっ、こいつら意外に手ごわいなと思ったがもう遅く、仕方ないので「よしっ!」と知ってる限りの知識を並べたてました。どうして長崎に出島を作ったか、当初は洋学=蘭学だったこと、ドイツのターヘルアナトミアも蘭語で読まれたこと、幕府の開成所が新政府によって東京大学の法学部や医学部になったこと、だから今でも東大では法・医・工・文の順番に教授が並ぶ等々。そうすると今度はそれに質問殺到となり、議論が大いに湧きおこってびっくりしました。なるほど、東インド会社は彼らの先祖が作ったんだ、この勢いで来たから幕府もオランダを認めたんだと実感させられる迫力でした。うれしかったので講義の締めくくりに

「日本にとってはオランダこそ西洋への窓口だったんだ、アメリカでもイギリスでもドイツでもないぞ!」

と言うや教室は爆発的な拍手とブラヴォーに沸いたのです。経営学なんてくそくらえだ!講義を終えると10人ぐらいの学生たちが校内を案内すると言って校長室から貴賓室から何から僕を引っ張りまわし、学食のディナーではビールで乾杯乾杯の嵐となりました。こっちも30歳ぐらいの若僧でありすっかり無礼講になって、時計を見るともう夜中の3時ぐらい。僕は頭も朦朧となっていて、「ホテルは?」と聞かれても口からその名前が出そうにないと見るや連中、「まかしとけ!」と勢い込んでデルフト市内のホテルというホテルに手分けして片っ端から電話をし始めるではないですか。こうして長い1日が終わりました。後日ロンドンまで来てくれてわが家に泊まってくれた学生もいました。あの中から偉大な学者が出てくれたらうれしいなあ。これは僕の16年の海外生活を通しても最高に痛快な思い出となっています。

お客様として怖かったのがロべコの日本株投資運用責任者ヤン・オームス氏でした。ロッテルダムに本社を構えるロべコは現在も20兆円超を運用する欧州最大級の投資運用会社です。氏はこっちが勉強不足と見るや推奨を歯牙にもかけてくれず「おとといおいで」という冷たい対応になり、電話も出てくれません。後で聞くと他社にはそうでもなかったそうですが業界1位の野村には期待値が高く、徹底的に鍛えられました。だんだん認められてからは、行くとグルメの氏がお気に入りのレストランでいつもランチにワインとなり、後から大きな発注をいただきました。プロとしての自信を養ってもらった忘れられないアカウントのひとつです。

その名門ロべコがオリックスに2500億円で買収されるというニュースは、僕にとって青天の霹靂です。ジャガーがタタグループに買われてインド車になるに等しいインパクトです。それがいい値段かどうか判断する材料を持っていませんが、オリックスに経営力さえあればいい買い物になる可能性はあります。運用業界ではエルメス、グッチ級のブランドですから。不思議なのはどうして証券会社がこういう買い物をしないのかです。自分で海外運用せず、単に目利きとして輸入国内販売するというのは小売りにおけるデパートと同じです。投資家がネットで世界の業者選別できる時代なのですから、いずれデパートと同じ運命をたどるのではないかと危惧します。

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