千家国麿様と高円宮典子女王とのご婚約に思ふ -今月のテーマ 出雲ー
2014 MAY 28 23:23:52 pm by 東 賢太郎
「2000年を超える時を経て、今こうして今日という日を迎えたということに深いご縁を感じております」
2014年(平成26年)5月27日、千家 国麿様と高円宮典子女王とのご婚約が発表されました。千家国麿様は第84代出雲国造で出雲大社宮司であられる千家尊祐様のご子息です。不肖ながら千家尊祐宮司にお会いさせていただいたことは、拙文にしたためさせていただきました。
千家家は代々出雲国造を務めており、古事記、日本書紀によると、天照大神、天穂日命、建比良鳥命の家系であると伝えられています。この日本国の歴史に刻まれるご婚約のニュースを知ったのは、たまたま、まさにその5月27日に会議を予定されていた某社様の社長室においてでした。このご縁には大変驚きました。その某社様は拙文「奥出雲訪問記」にある畏れ多い体験を積ませていただいた会社であり、「奥出雲発のグローバルな会社」をつくるという発想を頂戴し、5月27日はそれを具体化する提案を実行させていただこうという日だったからです。
そしてその日に拙案をご快諾いただいたことを重く受けとめています。出雲発ということは真の日本発という意味であり、16年日本を離れて生活した日本人として是が非でも成功させ、ご信頼にお応えしたいと思っております。
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クラシック徒然草-誰でもクラシック通になれる簡単な方法-
2014 MAY 8 12:12:15 pm by 東 賢太郎
斉藤さんは大変なクラシック通ですが、36年前に僕と知り合ったときバルトークやストラヴィンスキーは「???」だったとお書きになっています。僕だって始めはそうだったし、ああいう音楽を一度聴いてそうでない人はまずいないのでは。それでもめげずに何度も聴いてチャレンジするかどうか、クラシック通になれるかどうかのちがいはそれだけなんです。才能も特別な訓練もいりません。
それにはまず、それができる素直な自分をつくること、ご自分のことをポジティブにイメージすることです。これがとても大事です。イメージトレーニングしてください。「私はAKBも好きですけどモーツァルトも聴きますよ」というご自分をです。そういう自分になりたいと思うかどうか、それだけです。それさえできればもう80%はクラシック通が完成です。えっ、どうして私がクラシック?と自ら壁を作ってしまってはもったいない。こんな楽しいものを知らずに死んでしまうなんて、そういう人が一人でも減るといいなと心から願っております。
それでも突然おうちでベートーベンの運命が鳴ったらご家族はびっくりするかもしれませんね。であれば「今日から聴くよ!」「いくわよ!」と夕食の時にでも高らかに宣言してしまって下さい。きっと暖かく応援してくれるでしょう。ご一緒にコンサートに行けば家族の絆にもなりますね。いままで縁がなかった方ほど「クラシックを聴く自分のイメージ」というものは、誰でもないご自分にとって新鮮で刺激になるようです。周囲の目も変わりますがやがて自分も人生も変わったことに気づくと思います。老後の楽しみが確実に一つ増えます。お一人暮らしの方でも日々の大きな生き甲斐ができます。明日はあれを聴こうこれを聴こうとわくわくになります。保証します。そのぐらいクラシック音楽のもっているパワーは大きいのです。
よく考えて下さい。日本人に生まれたあなたはご飯、お寿司、ラーメン、カレー、すきやき、鍋物を食べ飽きますか?お茶漬けやサンマの塩焼きやお漬物、味噌汁はもう二度と食べなくていいやと思いますか?週2回でもOKでないですか?こういう「おいしい」だけではなく「永遠に飽きない」もの、「必須になってしまう」もの。まわりを見渡してもそうはないと思いますよ。でも音楽にはあるんです。音楽のうちで百年も二百年も世界中の人がそう思ってきているものをクラシックと呼びます。それをあなたが嫌いになるのは実はとてもむずかしいことなんです。
クラシックは懐メロやオールディーズとはちがいます。200年前のモーツァルトは「懐かしの」でも「オールド」でもない、永遠に新鮮で飽きないものなんです。おなかがすいて注文したラーメンが目の前に出てきて、「この食べ物は古代中国でできた老麺が起源で・・・」なんて考える人がいますか?いつどこでどうできようが、何国人が作ろうが、おいしければいいですよね。そんなものです、クラシックも。洋食と思わないでください。おいしさを一度覚えたら最後、病みつきになる「うまいもの」なんです。
僕は子供のころマグロのトロが大の苦手でした。だからいつも赤身専門で、トロをうまい!と思ったのはずっと後のことです。食べ続けてみると親がいってたことがわかる!と目から鱗でした。斉藤さんは???だったトロを僕を信じて食べ続けて下さったんでしょう。おせっかいで押しつけた?のに感謝をして下さっていますが、がんばってそうしてくださったご信頼に僕の方こそ感謝です。斉藤さんに36年ぶりにお会いして、あの出会いがなければ・・・と言っていただいて、それがうれしくてなりません。そういう人がもっともっと出てくることが僕の人生の願いなんです。
そういう気持ちでいま僕がブログに書いている音楽は、実は毎日聴いているものとはちょっと違います。新世界や未完成はもうたぶんこの10年で数回も聴いてないでしょう。飽きたのではありません。若い頃の思い出写真のような存在になってしまっているからそっと大事にしておきたいという気持ちがあるのです。それでもたくさんの感動をいただいた恩人ならぬ恩曲です。だからこれからの方にはどうしても聴いていただきたくて、そういう強い思いで選んでいます。
僕は入門用の曲なんかないと考えています。ピアノの練習用に作ったバッハやショパンの曲(しかし名曲!)はあっても、観賞用の入門曲はありません。プロコフィエフが「ピーターと狼」、ブリテンが「青少年のための管弦楽入門」という曲を書いていますが、「おかあさんといっしょ」とはちがって子供を意識はしていても立派な曲です。しかし「ピーターと狼が気に入りましたが次は何を聴いたらいいですか?」ときかれるとちょっとつらい。それがメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲なら自然に何曲かご紹介できるのです。
だから僕のブログのカテゴリー(アルヒーフ)にはそこそこの数の曲がたまっていますがほとんど重量級の曲が並んでいます。どうしてかというと、名曲だから。心から敬服しているからです。だから難しいか?そういうことはありません。カレーとラーメンと、どっちが食べやすいかなんてありませんね?お口に合うか合わないか、それだけなんです。初めて日本食を食べるといってお子様ランチから入る必要はありません。カレーがちょっと辛かったからといって去ってしまってはもったいないです。
僕が「ストラヴィン好きー」だったのはたまたまウマが合ったからです。友達の相性と同じですね。そういう「親友」を見つけると、彼がクラシックの世界に引っぱっていってくれます。これが速いのです。彼は僕にバルトークというちょっと気難しいけどいい奴を紹介してくれ、そうやってどんどん輪が広がりました。それが誰から始まっても構いません。同じ人でも合う作品と合わないのがあります。僕も今でもあります。有名曲が合わないことだってたくさん。ぜんぜん構いません。そういうのはどんどん飛ばして、親友のベスト作品にめぐり会ってください。
だから僕が取り上げている曲は僕の親友のベスト作品集です。もう50年もやっていると親友だらけですから、それらはクラシック入門曲でもなければ卒業曲でもなくて、世のクラシック通という人たちがほとんど聴いているのはこれ!というベスト曲集にだんだんなっていきます。順番は意味がなく、なるべくその曲に愛情が高まっているときに書こうと思っているだけです。だからどうしても初恋の方からになっていますがそれは重要なことではありません。そこには通の方が読まれてもいいということも書いています。いろいろな方に楽しんでいただきたいからです。だから楽譜が出てきても何のことやら・・・という方も多いでしょう。わからなければそういうことはぜんぶ無視してください。
ただご紹介した曲はぜひ一度、必ず最後までご自分の耳でお聴きにはなってみてください。それが大事なのです。誰の演奏か?というのは親友ができてからでいいです。プライオリティーはずっと下です。どの店のラーメンがおいしいか?どうでもいいです。どこでもいいからまずラーメンがおいしいということを知る方が先です。だからCDだって僕が挙げたものでなくても、i-tuneには安いものがいくらもあるし、youtubeならタダで聴けます。お金はいかようにも倹約できます。それでつまらないと思う曲はどんどんスキップして下さい。それでぜんぜん構わないのです。もしも、あっいいな、ちょっとステキだなジーンときたな、という曲にめぐり会ったら、それはラッキー、それがあなたの親友、恋人候補ですから何回も何回も聴いて下さい。
登山と一緒です。どの道から頂上をめざしてもOK。ルートはたくさんあります。お好きな曲がそのルートを教えてくれているのです。それさえ見つかればしめたものです。それが1合目なら、2合目は何を聴いたらいいか?5合目は?それは人それぞれだから答えはひとつでありませんが、もしコメント欄にでもご自由にご質問いただければ必ず回答しますしできるかぎりそれをお示しできると思います。それをご自分で手探りで発見するのも楽しいものです。僕は先生がいませんでしたからかなりの出費を重ねて遠回りの無駄骨を折りましたが、いまになるとそれもいい思い出です。
誰でもクラシック通になれる簡単な方法、それは以上のことを1年ぐらい続けていただくことに尽きます。継続は力なり。あとはご自分でどんどん登っていけるでしょうし、登りたい、頂上を見てみたいという気持ちになっているご自分を発見されることでしょう。そうなっていただけるよう少しでもどんなことでもお手伝いができるなら幸いです。きっとそれは僕の生きがいにもなりますので。
クラシック徒然草-音楽のマクドナルド化-
2014 MAY 7 12:12:15 pm by 東 賢太郎
斉藤さんからいただいたコメントをなつかしく拝見しました。ズビン・メータの「春の祭典」が我々が親しくなるきっかけだったというのは面白い。当時はクラシックでもポップスでも「新譜」の発売というものにイヴェント性があったんですね。メータがCBSに移籍して初録音は何になるかファンはやきもきして待っていた時代です。歌謡曲(死語になりましたが)にしてもビートルズやキャンディーズにしても次の新曲はアルバムは?というのでわくわくした経験のあるシニアは多いでしょう。クラシックにもそれがあったのです。
ネット時代になってyoutube等で音楽が電子情報としてばらまかれています。それを従来のオーディオ・フォーマットに落とそうとすればお金はかかりますが、パソコンのスピーカーやスマホのイヤホーンで満足なら全部無料です。タダは無敵です。音質ぐらい目をつぶってもいいやという人が増え、音楽の録音技術やオーディオ再生のマニアックな部分は売れずにどんどん淘汰されます。悪貨が良貨を駆逐して世の中悪貨だらけになる。マックが街のハンバーガー屋を淘汰したのと同じ。音楽のマクドナルド化です。ポップスはいいかもしれないが、クラシックでのそれは由々しき聴衆の劣化を招くと危惧しています。そういうことにこだわらないならクラシックを聴いても面白さ半減だからクラシックは死へ向かうといってもいいでしょう。ビッグマックモーツァルト風、ないんですそんなものは。
クラシックのマック化はライブ録音の増加という形に現れています。コストがかからないからです。たしかに一部の演奏家はライブの方が面白いということもあり、ライブを好む聴衆もいます。しかしそれはスタジオ録音というレファレンスがドンと真ん中にあったからでしょう。それと比べてどうかという楽しみがあったのです。それが昨今はスタジオ録音の新譜というと、オペラやオーケストラのように録音にお金がかかるものはほとんど見なくなりソロや室内楽ばかりで寂しいと感じるのは僕ばかりではないでしょう。
録音は写真のようなものだと思います。スタジオ録音というのは、成人式や結婚式で一生残すために着飾っておすましして撮るあれ。かたやライブ録音とはスナップ写真です。だから昔のアーティストは嫌う人もいました。カラヤンはライブの正規録音はほとんどありません。スタジオで撮影するというのは永遠の記録に残すのだから気合いの入り方も違います。写真がお遊びのプリクラにも芸術にもなり得るように、録音そのものが芸術であるということが稀にですがあります。
それの最たるものが、ピエール・ブーレーズがCBSに録音した春の祭典です。これがライブで収録できる可能性は確実にゼロです。写真芸術であり録音芸術なのです。それによって被写体に興味を持ち、クラシック探訪の道に入りこんだ方は数知れないと思いますし、僕本人がその一人です。そういう出会いがあるから、当時のクラシックリスナーは全神経を集中して音を聴き、新譜を待ち焦がれていたのでしょう。こういうことがプリクラやスナップ写真でおこるというのはちょっと想像しがたいのです。
僕のブログ「アビイロードB面の解題」は、ビートルズの後期のアルバムは写真芸術、録音芸術の領域の産物ではないかという僕なりの仮説であることをご理解いただけるでしょうか。ライブでそれができないからスタジオにこもった、そしてそれは最近書いたグレン・グールドの晩年の方向性とも合致していると思うのです。アーティストにこういう芸術領域が与えられないなら、音楽のマック化現象はやがて音楽芸術を滅ぼします。ライブの方が感動的だ云々の皮相的な話ではないのです。
僕は音楽ブログは演奏の観点ではなく作品の観点から書いております。それは被写体が良くないものをスナップ写真の加減で良く見せるのはそもそも芸術でないと思っているからです。そういうものは消費の対象にはなるかもしれませんが鑑賞するものではない。ポップスは普通は消費する物ですが、アビイロードみたいに鑑賞できるものもある。そういう例としてあれを書きました。だから逆にクラシックにおいて消費する物ばかりが市場にあふれるのはどうかという気がしてなりません。気合いを入れて造ったものを気合いを入れて味わう。その両方があって初めてアートはなりたつんですね。
斉藤さんと、あのころにお会いしてよかった。今だったらメータの春の祭典のライブ録音はどうですかなんてご質問はなかったろうし、僕はそんなものをまじめに聞いてもいなかっただろうからお友達になるきっかけもなかったですね。
今日の感動の再会
2014 APR 23 22:22:18 pm by 東 賢太郎
今日は僕が大学時代(4年の本郷の時)に半年ほどお付き合いさせていただいた斉藤さんがわざわざ弊社まで来てくださいました。ほんとうにありがとう。36年ぶりなのでわからないかと思いましたが、お顔を見て一気にタイムスリップしました。
斉藤さんとはアテネ・フランセという語学学校で一緒で、当時は英語はそんなに誰もがやる時代でなかったと思いますがお互いに関心があって通っていました。僕は小澤征爾さんにお会いしたエピソードの時のバッファローの語学留学のために行ったと思います。たしかそこのクラスでグループ学習か何かでお話ししたのが最初だったと記憶しています。
なぜ話が合ったかというと彼もクラシック音楽が大好きで、駿河台の「バンビ」や本郷の「うさぎ」で夜遅くまで音楽談義をしていたのです。下宿に泊まっていかれたこともありましたっけ。今日うかがったところによると僕は「春の祭典」の話ばかりしていたそうです。僕が就職してお会いできなくなりましたが、彼が大阪に来て83年に僕がいた豊中の寮まで訪ねてきてくださったそうです。そうしたら寮のおばちゃんに「アメリカに行った」と言われたそうです。
36年は長い時の流れかもしれませんが、お会いすれば瞬時のことだと思いました。僕のことはSMCのブログでたまたま知っていただいたそうです。始めて良かったです。
結果責任とストックオプション
2014 APR 19 0:00:42 am by 東 賢太郎
前回に評価を下げる5つの法則(Five rules to lose your job)を書きました。その中でも最も致命的にだめなのが「逃げる」です。逃げれば結果は出ません。上司が求めるのは結果ですから、できない理由がどんなに立派でも意味はありません。だから、自分が「やる」と言った以上は何があろうが結果を出す責任があるのだと考える人にしか大事な仕事はまかされません。
野村ではお客様から頂いた注文を書く伝票を「ぺロ」と呼んでいました。支店で投資信託などを1か月単位で募集するときに、課長さんに「今日時点の自分の募集見込み金額は**円です」と毎日申告します。これを毎日増やしていきます。課長は全員の申告数字をベースに課の目標をどう達成するか管理します。これはノルマだからショートすることはありえません。万一、誰かの申告数字が虚偽だったり未達成になったりすると課全体の計画が崩れますから全員に怒られます。
この「申告したけどできませんでした」というのを「空(から)ぺロをきる」といいました。これをやってしまうと当時の野村では問答無用で大罰点がつきました。2度もやろうものなら回復不能なほど信用失墜して「あいつはダメ」といわれ、3度やれば左遷という感じでした。課単位で達成率を競争してますから人事部の評価以前に仲間から失格の烙印を押されて二軍落ちしてしまうのです。
この「空ぺロ」=人でなしという恐ろしい掟が今も生きているのかどうか知りませんが、そこで鍛えられた僕はビジネスにおける信用とはそういうものだとたたきこまれました。企業は手形が不渡りになると潰れますが、まさに空ぺロはそれと同じで、野村は企業経営のプレッシャーをいきなり教えてくれたようなものでした。この修羅場を新人時代にくぐり抜けているから僕はサラリーマンを辞めて起業する自信があったと思います。
この掟は野村に限らずビジネスでは非常に大事です。僕はこれを「スナイパー能力」と呼んでいます。ゴルゴ13やジェームズ・ボンドが「すいません、ダメでした」と頭を掻くシーンはないのです。たとえば小保方さんには美点が一つあって、もし彼女が上司にネイチャーへの論文掲載を何らかの理由で期待されていたとすると、彼女はそれをやり遂げてしまいました。やり方はともかく「空ぺロをきらなかった」わけです。やった行為は理由は何であれ僕は絶対認めませんが、ともあれやりきってしまう気質は言いわけを探して逃げる人よりはビジネスマンとしては数段上であります。
ということは「やる」と言うか否かが決断です。できないと思ったら事前にできないとはっきり言うことが大切です。ここで上司との間で「ボタンの掛け違え」があるとお互いが不幸になります。「やる」と宣言するためには準備が必要で、客観的な目でその仕事と自分の能力を見比べることです。どんなに魅力的な仕事でも、自分の力を超えると思うなら断るか、「ここまでならできます」と正直に申告しておくべきでしょう。
できるとやるは同じではありません。できてもやりきれないこともあります。大きな仕事ほど「心のエネルギー」が必要で、それをチャージして始めることが重要です。インセンティブがそれに当たります。ストック・オプションは成果報酬で、成果に比例してチャージされる電力も増えますから有効とされ、多くの日本企業が活用しています。ただしこれには経営側で留意すべき点があります。
97年のダボス会議で僕は当時GEの大経営者として世界的に有名であったジャック・ウエルチ会長のブレックファースト・ミーティングに出ました。そこで彼が力説したのは「組織プレーができる人にインセンティブを与える」ことです。この組織プレーとは日本的な意味と少し違っていて、学ぶ組織(learning organization)というものです。知恵は現場にあるというのが彼の哲学ですが、そこから得た知恵を独り占めして稼ぐスタントプレーヤーには彼はストック・オプションを与えません。知恵を組織で共有して「学ぶ組織」にする者にだけ与えると言ったのです。
これは目から鱗でした。もちろんオプションは役職や年次で一様に与えるものではありません。また、いくら与えても株価が上がらなければ、つまり与えた成果(=業績)が経営者の見込み通りに出なければオプションはただの紙切れになって誰も幸せになりません。したがって、ストックオプションは「業績連動報酬が欲しくない人(現金が欲しい人)」、「与えても業績に影響度の少ない人」に与えるのは効果を最初から放棄するようなもので、「我こそは株価をあげられる」と挙手する者のうち「学ぶ組織」にできる者に集中して与えよ、そうすれば全員が幸せになるとウエルチは説いたのです。
業績を出す=株価が上がる、ということですから、まずそれを「やる」と宣言する者から真の「スナイパー」を選別しなくてはなりません。そしてその中から組織を大切にしてノウハウを出し惜しみなく共有できる度量のある人をさらに選別します。その人を中心に、官僚主義を排し、「学習する文化」を作れと彼は言いました。当時僕は42歳の若僧でしたがこの考え方にはとても感心し、以来「空ぺロなし」と同じくビジネス成功の基本原理だと信じています。このことは「ウェルチ、GEを最強企業に変えた伝説のCEO」(ロバート・スレーター著、日経BP)に詳しく書かれています。
評価をダウンできる5つの法則
2014 APR 15 1:01:16 am by 東 賢太郎
先日のこと、友人と飲んでいて人材の使い方の話題となった。僕は最大で約500人の部下がいたことがある。そうなると直接の人事評価はおろか名前を覚えるのも記憶力が及ばず、評価は大部分を部長職にゆだねて自分は部長以上の評価をすることになる。直属の部下として自分が直接に人事評価を書いたのは120人ぐらいが最大で、それ以上はちょっと難しいというのが実感だ。
120人の評価を書くということは、書かれる側としては120分の1しか見てもらえないということでもある。だから、そういうことに敏感な部下はあれこれ手を打ってくる。しかし自分ではそういうことを上司にしなかった人間なので思うところもあり、そういう部下を見て人間というものを良く学ばせてもらった。結論としてわかったのは「良い人材」とは定義がないが「ダメな人材」はそれがあるということだ。
もっとわかりやすく言おう。就活などで「当社の求める人材」というのを目にすると思うが、あれは嘘だ。婚活に置きかえればわかる。「私の理想の相手」の条件を10個書いてみたらいい。そんな男性や女性がいますか?そうではなく、ほとんどの人は「これだけはダメだ」というのがあって、それが少ない相手を選んでいるだろう。ゴルフならOBラインがあって、フェアウエーならラッキー、その内側ならラフでもまあいいやというのが現実ではないか。
つまり「当社の求める人材」とは「当社が採用したくない人材」の裏返しなのだ。それが特定の会社の個性や好みではなく、どの会社でもだめだというところぐらいまでは最大公約数として定義ができるように思う。もしあなたが自分の世間での信用を下げたいと思うなら簡単だ。パンツ一丁で道を歩けばいい。会社という場にはそれと同じぐらい明確に「評価をダウンできる5つの法則」がある。若い方へのささやかな教訓としてそれを書いておきたい。
評価をダウンできる5つの法則
1. 逃げる(Dodge, evade)
2. いきなりNOと言う (Instantly say NO to any request)
3. 言い訳を探す (Find pausible reasons for your failure)
4. 窮地で相手を批判する (Criticize your partner in a predicament)
5. お世辞を言う(Flatter)
1、は最も効果的な方法だ。「やります」と言っておいて結局やらない。3日で「できませんでした」と言う。試みてみるができそうもないとああだこうだ言って逃げる。こうすれば上司から大事な仕事を任されてしまう心労を確実に回避することが可能である。この逆は簡単だ。やると言ったことは何があろうと最後までやりぬくことである。
2、上司やお客さんに何かを「できませんか?」と言われて「無理です」、「私の担当ではありません」と答えることだ。3回もやれば仕事が来なくなることに成功するだろう。いい答えは「やってみます」である。「やります」と言うと1.が問われる。全力でやってみて不首尾でも構わない。ただし「全力」が問われる。ふりだけだと1.と同じことになる。
3.「やりたくない」、「できそうもない」、「失敗した」という場合にあれこれ口実を探して言い訳することだ。友人によるとこれがうまい若手が増えているらしい。これに上達すればサラリーマンの達人にはなれるが、あなたの会社がまともならそれに正比例して仕事は減っていくだろう。
4.一般に逆切れとも呼ばれる。めったにないことだが緊迫した会議の場において散見される。自分が窮地にあると無用に知らしめた上に相手を怒らせるという2重の効果があるから必殺技でもある。うまくいけば仕事だけでなく失職にも成功するだろう。
5.これはちょっと判断が難しい。上司のタイプを見極める必要があるがその簡単な方法がある。その上司が自分の上司にそうしているかどうかを観察すればいい。ヨイショマンだった場合はヨイショしないこと。そうでない場合は歯の浮くようなお世辞を言うのが最も効果的だ。
上司というものになった人間で「1-5があれば是非その部下を登用したい」という人がいれば、その人がさらに登用される可能性は限りなく少ないので上司と思う必要はない。もしその上司が長く上司級のポストにいるなら、「評価をダウンできる5つの法則」が正しくあてはまる上司と考えてほぼ間違いない。従って、1-5のどれにも当てはまらないようなサラリーマンになれば、あなたは非常に高い確率で登用されるはずである。
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卒業 そして 『あいつのこと』
2014 MAR 14 2:02:03 am by 東 賢太郎
卒業といっても遠い昔の話だし、どうもあまり目ぼしい記憶がない。入学の方はというと、さあここであれをやるぞという期待感があって比較的覚えているが。終わったことには一向に頓着がない性格のせいかもしれない。
そもそも自習独学タイプなので、学校に学業面でお世話になったという実感があまりない。要は勉強しなかっただけでこっちのせいだが。だから、別に左翼ではないが、仰げば尊しを歌ってもそれでという感じだ。特に目立つ子でもなかったしクラブはもう終わっていたし特に好きな女の子がいたわけでもなし。大学だけは一夜漬けタイプの僕には最後の数単位が体力的にけっこう地獄となり、2日連続徹夜などで冷や汗をかいて切り抜けた。だからやれやれという感銘はあったが。
しいていえば千代田区立一ツ橋中学校の卒業式はなんとなく友達と別れるのが寂しかった。だから帽子のバッジを交換したりしたような気がするが、よく覚えていない。入学時はまだ身長155cmぐらいのガキだったのがそのころは今と同じ171cmでひげも生えてたからクラスメートは一緒に育った兄弟みたいなもんだった。クラブは野球がなかったからやってなかったし、クラスの子とよく遊んでいたせいもある。
その中で面白い奴がひとりいた。何をやっても結構うまくて、一人コントの天才で、いろんな意味でライバルでなんでもかんでも競争相手で、それでいて一番気が合ってお互い認めていて、授業中は2人で冗談を言いまくって笑いをかみ殺して一緒に苦しんでた奴だ。丸山鉄男といって、こいつは早稲田の高等学院に行った。こっちは野球に走ってしまって浪人もして会う時間もなくて、やっと大学生になっておいまた遊ぼうぜなんて誰かを通じていってたら、伊豆の下田でサーフィンやってて死んでしまった。
これのショックは文字でどうしても書けない。とにかく人前で何もはばからずに思いっきり泣いた。こいつがいたから、中学は楽しかった。ひょっとして証券界なんかに来ていたら、ディールの奪い合いして負けて、東ざま~みろ、なんてやってたのが目に浮かぶ。何になっていようが、東賢太郎の一生ずっとの、人生最大のライバルだったことは疑う余地もない。こんな男にあの齢で会えて、なんて幸運だったんだろう。
丸山のお父さんが結婚式に来てくださって、スピーチに立たれて「鉄男が美術の時間に造った東君の像です」といって高々と掲げられた。お前そんなの造ってたのかよ。よく見ると細長い顔の粘土の立像だ、うん、たしかにおれにちがいない。「これは息子のお気に入りで、『希望』という題だといつも自慢していたんです」と大きな声で締めくくられ、新郎席まで来て渡して下さった。ざわざわしていた会場がひとときシーンと静まって、それから大拍手にかわった。あとで先輩があんなジーンときた結婚式は初めてだといった。
中学を卒業したあの日が最後の日になったけれど、あの時そんなことどこの誰が考えたもんか。だからなんにも覚えていないし、最後とも思っていない。そんな才はないからあいつの立像は作らなかったけれど、顔も姿も声もすぐそこにいるみたいにありありと覚えている。でも、いつも詰襟の学生服を着て、ふさふさの黒髪にぴかぴかの15歳の顔つきで出てくるのがちょっとにくたらしい。
横浜にて
2014 MAR 4 1:01:01 am by 東 賢太郎
まったく自分の馬鹿さ加減をうらむしかないのですが、横浜まで行きました。去年12月6日の高校クラス会の日になくしたi-phone5を加賀町警察署まで引き取りに行ったわけで今日が保管期限ぎりぎりだったのです。東横線横浜中華街駅に届いていたそうで、もう新しいのを買っていたし要らないのですがデータが心配だから仕方ないですね。使われた形跡もなし。完全に小生の過失であります。
せっかくなので先祖が両替、生糸、茶の商売をした「糸屋」があったとされる横浜南仲通二丁目を探してみることに。日銀から開港記念会館の所でなんとなく左折。困ったことに横浜というのは通りの名前のプレートがないようですね。そのあたりをしばらくふらついたのですが結局どこかわからず、寒いので中華街へ自然と足が向きました。謝甜記のお粥をかきこみ聘珍樓 本店にて肉まんとあんまんの大を購入という長年恒例のコースをたどって帰宅。
後で地図を見ると左折したところが南仲通だったことが判明。先祖に会えていました。彼は開港でやってくるイギリス人やアメリカ人相手に貿易商を営み、初期の横浜の水道やガス灯は私財で作ったそうです。八芳園には彼の茶室があります。渋沢栄一と東京証券取引所を設立し、初代の東証株主になりました。母はそれを就職するまで僕に言いませんでした。先入観を嫌ったようですが、偶然とはいえ証券会社に入ってしまうわけですから血は争えません。今日はそんな不思議な一日でした。
クラシック徒然草-小澤征爾さんの思い出-
2014 JAN 20 17:17:36 pm by 東 賢太郎
大学4年だった僕は半分遊び、半分英語の勉強でアメリカは東部のカナダに近くにあるバッファロー大学の夏季講習に参加した。別に何のためということもなく、最後の夏休みだしまったくの好奇心だった。ちょうどそのころ50をこえて外国銀行へ出た親父に英語だけはやっておけと口酸っぱく言われたのも影響したと思う。1か月ぐらいいたアメリカは楽しかった。渡米は2回目だったが最初は西海岸を車で1700km突っ走る無鉄砲旅行だけであり、東海岸、特にニューヨークへ行ってアメリカの大学を見てみたかった。その後にペンシルバニア大学で修士号を取ることになるなど夢にも思っていなかったが、この時にすでにそういう思いがあったから野村證券が企業派遣留学生に選んでくれたと思う。この時何も聞かずにポンと金を出してくれた親父のおかげだ。思えば他愛のない英語の授業をうけていたわけだが、まがりなりにも学生証をもらって米国の大学にいるというだけで気分がうきうきした。時間が無限のようにあったのだ、あの頃は。
今は知らないが当時の東大法学部生でそんなのに一人で参加する奴はまずいなかった。だからアメリカに興味を持ったあたりから僕はあそこの卒業生としては異色の道に進む定めになったと思う。学外の人と接することもあまりなかったので20人ぐらいいた他校生からは珍重はされるが敬遠もされるものだということを初めて知り、こちらから進んで飲みニュケーションに徹して仲良くしてもらった。こんなことでも証券業界に入るとやっておいてよかったと思えるようになる。みんなでナイヤガラの滝からトロントへ行ったり、ボストン、ニューヨークへも旅行した。もうすっかり溶け込んでいた。エンパイアステートビルやロックフェラーセンタービルに上ったのはそれが初めてだ。すべてがカルチャーショックだ。こんなのと戦争しちゃあいかん、凄いなあと思った。
ボストン郊外のタングルウッドでは小澤征爾さんとボストン交響楽団を聴いた。いま日経新聞で私の履歴書を連載されている。好きなことにものおじせず挑戦して勝ち抜かれた姿は実にすがすがしい。スクーターでやってきた何の実績もない日本人の若僧がブザンソン・コンクールで優勝してしまうのもすごいが、それをちゃんと認める欧米人もいいなと思う。それが誰か?ではなく能力だけを別個に評価する。実力はどうか?よりもそれが誰かを先に見てしまう日本とは大違いだ。日本が一番ダメなのはそれである。まじめに努力してどうしてもやりたいやらせろと言う若者に対して、日本はともかく、世界の門戸は開かれているのだということを教えてくれる。彼は英語もできずpieをパイとも読めずに外国へ飛び出していったのだ。もういいトシの僕ですらいま勇気をいただいているところだ。若い人は是が非でも小澤さんの私の履歴書を読むべきである。
さて、タングルウッドだ。ここは野外音楽堂でボストンSOがサマーコンサートをやっている。ボストン・ポップスという名でやっている。ちなみに「そりすべり」のルロイ・アンダーソンもそれを振っていた。その後継者が僕がクラシック入門したレコードの指揮者アーサー・フィードラーだ。だから一度は行ってみたい憧れの場所だったのだが何せ野外だから音響は良いはずもなく、こういうところでクラシック音楽をやってしまうのがいかにもアメリカだと思った。でもみんな寝っころがったりそれぞれの格好で楽しんでいる。何はともあれ音楽が好きな人たちが集まっているのはよくわかり、やがて気持ちよくその一員になった。曲目は後半が何だったか忘れたが、前半にチェコの名ピアニスト、ルドルフ・フィルクシュニーが出てきてモーツァルトの協奏曲24番をやった。フィルクシュニーは亡くなったが今でもCDを見つければ全部買うぐらい大好きなピアニストである。24番も当時から好きな曲であり嬉しかったが、どういうわけかピアノのキーがひとつおかしな音を出して、残念ながらそれが気になってしまうともう楽しめなかった。
小澤征爾さんを見かけたのは、その1か月が終わってボストンから日本へ帰る飛行機の中だった。トイレに立ったら通路側の座席によく似た人がいて、本を開いたまま眠っていた。エコノミークラスだしラフな格好だったのでまさかと思ったが、Tシャツに大きくBoston Symphony Orchestraと書いてあった。それで目を覚まされたときにおそるおそる話しかけてみたら、小澤さんだった。何を話したかよく覚えていないが、自己紹介したところこっちに来てみてどんなだったと逆にいろいろ聞かれた。音楽のことはあまり話さず先日のコンサートのこと、東京ではドヴォルジャック(そう発音された)のスターバト・マーテルをやる予定であれは有名でないがいい曲ですよなどだ。英語の辞書にサインをいただいた。それだけのことだが、23歳だった僕にとっては人生で初めてお話をさせていただいたビッグネームであり、偉いかたは謙虚なんだと心に焼きついた。結局その1か月何を特別にしたわけでもないが、若いときの外国の経験というのは学校の勉強より後々に残ると今になって思う。勉強はほったらかしだった劣等生のいいわけだが。
チューリッヒ日本人学校の思い出
2014 JAN 13 22:22:48 pm by 東 賢太郎
学校のあゆみ(沿革)によると僕は平成8年度にチューリッヒ日本人学校の第9代運営委員長であった。運営委員とは現地にある日本企業から各1名の代表者によって構成され、学校運営の予算策定、収支の監督、政策や行事の起案と執行等を行うための機関である。
文部省(当時)に日本人学校の設立と教員の派遣を依頼している在留邦人が国であれば主権者であり、各企業の代表者(社長)が国会議員であり、議員の中から運営委員が互選で選出され行政府(内閣)を組閣するという構成であったと記憶している。
当時僕はスイス着任2年目の新米であり、議員の内では41歳と最年少の若僧であった。しかし野村證券は当時年間で9兆円あったスイスフラン債の本邦発行体による起債市場ではダントツ世界一のシェアがあり、社員数と子女の数もダントツであったゆえに僕に運営委員長のお鉢が回ってくるという諸般の状況にあった。
内閣総理大臣であるから、就任するとすぐに「組閣」をする。しかし議員さんたちは全員が銀行、証券、保険などの社長さん方や大蔵省、防衛庁(当時)の方であり、しかも一回りも年上の大先輩たちが多くてとても困った。とにかく副委員長2名、予算、会計、行事、バス(送迎)などの委員、つまり各省庁の大臣を任命させていただき、何とか「双葉マーク」でスタートした。
運営委員長は公的ポストであって、始業式や運動会では駐スイス日本国特命全権大使閣下の後を受けて「ご講話」をしなくてはいけない。だから仕事では原稿など一度も書いたことのない僕が前の日に懸命に考えた。よし、これだ!という内容ができ、自信を持ってしゃべる。ところがだ。子供たちの顔を見るとぜんぜんウケていない。×××子ちゃん今日のおべんとうな~に?(たぶん)なんて感じで隣の子とペチャクチャはじまっているではないか。僕は頭が混乱しだし、ついに冷や汗をかいたまま想定外の尻切れトンボで終わってしまった。
M校長先生に、すいませんとあやまると、えっという顔をされ、委員長よかったですよと真顔で言って下さる。あながちお世辞でもない風だ。僕らが仕事でやるスピーチやプレゼンの方が世の中ずれしているのだと悟るのにはけっこう時間がかかった。学童の一人としてそれをきいていたはずの長女は親父の苦労はどこ吹く風で、ぜんぜん覚えていないらしい。やれやれ。
もっと冷や汗をかく事件が起きた。ある日、校長先生から会社に直訴の電話がきた。「校庭に杭が打たれています。どういうことなんでしょうか。」けっこうな剣幕で怒られた。かけつけてみると、確かに校庭のサッカーゴールわきの角の一区画、上の写真の左端あたりが大きく円形に杭でブロックされていた。
子供たちはそう広くはないこのグラウンドでサッカーをすることを毎日の楽しみにしていた。これは絶対に何とかしないといけない。ところが地主であるウスター市と交わされた10年ほど前の契約書を見てみると「期限と条件付きの借地」であって、市はこの工事は正当な権利でありバス停として使用する計画を撤回はできないと主張してきた。これはどうしようもない。委員会で議論を重ねたものの、結論は市への「事情説明」と「陳情」以外にはないことは明白であった。
僕は副委員長さんたちと市長をたずね、子供たちはウスターが大好きであり、せまいチューリヒでなくウスターでのびのびサッカーができることに感謝していること、市の計画は尊重するが何の事前通告もなかったことに子供たちは驚き、深く傷ついていることを強く訴えた。しかし、何の返答もなく工事は始まった。2度3度と足を運び市長に同じことを伝えたが一向にらちがあかない。このままでは負けだと思い、僕の独断で、残念だがチューリヒ市への移転も検討しているとあらぬことを伝えた。もちろんそんなつもりはなく、それは無理だったし候補地が見つかったわけでもなかった。勝負だった。
そうしたら1週間ぐらいして、市長からちょっと来いという連絡があった。土地を明け渡して出ていってくれと通告されることを覚悟した。大変なことになってしまった。市長室へ通されても誰も言葉が出なかった。しばらくして現れた市長は、しかし、今までの暗くて険しい表情ではなく満面の笑顔だった。「ウスターを選んでくれてありがとう。今日はサプライズだ。バス停の土地の代わりに、隣の農家が牧場を同じ面積だけ貸してくれることになったよ」と告げられた。上の写真はグラウンドをその牧場側から撮ったものだ。ネットをこちら方向に1mほど後退させる交渉を市長は黙ってしていてくれたのだ。農家の方にも深くお礼を申し上げた。そこで牛を放牧している親父さんが、快く、良かったねと言って下さった。有難かった。冒頭の「沿革」にそれは「校庭南側拡張及び校庭平坦化工事終了」と小さく記録されている。
東さんみたいな証券会社のかたが委員長でほんとうに学校も生徒たちもついていました、よかったです、と校長先生はとても喜んでくださった。あまりそれで世間様に誉められたことがなかったので、ちょっとうれしかった。1年間なんとか無事につたない運営委員長を務めさせていただき、任期満了のご挨拶とお礼を委員さんと教員の先生がた全員の前ですると、最後に防衛庁から御出向の官僚のかたが高く挙手をされてこうおっしゃった。「東さん、ご苦労様でした、ところでなんで防衛庁に入られなかったんですか?いい武官になられたのに・・・」。ありがとうございます。自分にとってこんなに光栄なお言葉はかつてありませんでした。一生忘れません。
今日、昔の写真を整理していてチューリヒ日本人学校のことを思い出し、ホームページを開くと出てきたのが上の2つの写真だ。思い出した。あれから18年、見るとグラウンドは何も変わっていない。ほっとした。勝手の違う海外で学ぶ日本の子供たち、今日もサッカーで泥まみれになっていたらいいなあと思った。



