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カテゴリー: ______体験録

西洋かぶれ

2013 FEB 8 23:23:45 pm by 東 賢太郎

舟橋さんのブログにこうあり、ピンときました。証券界でクラシックなど聴いている人間ははぐれものです。いや、英語をしゃべるだけでそうかもしれません。

小学校のころ、金持ちの息子たちがどういう理由か知りませんが学校派遣でアメリカへ行きました。僕のような一般人の息子に縁がない話ということぐらい子供心にわかりましたが、なんとなく癪にさわりました。彼らが帰国してアメリカはさあ、などと言ったかどうかは覚えてませんが、どことなく鼻にかけた態度を感じました。それ以来です。西洋かぶれが嫌いになったのは。

その僕が留学などしたというのは運命の皮肉です。しかも、ベンチャーズのテケテケにしびれた延長線だから別にかぶれたわけではないのですが、いかにも「かぶれ者」っぽいクラシック音楽という趣味をもってしまっていましたから、証券業界では一番嫌な奴の部類だったでしょう。気持ちは国士のつもりなのにそう見られないことへの自己嫌悪、僕の半生はそれとの内なる戦いだったような気すらします。

大学オケでバイオリンを弾いていたのを「会社で嫌われるから」と隠す人がいて、ああいう人生は送りたくないと思い、僕は堂々とクラシック好き宣言をしていました。今だに内なる戦いに勝ったわけではないのですが、好き嫌いをはっきり自己主張できない人が世の東西を問わず理解されることはありません。西洋かぶれでもよかったのかなと最近は考えるようになっています。

 

 

プレゼンがうまくなる秘訣教えます(1)

2012 DEC 8 17:17:59 pm by 東 賢太郎

先日、新潟県立大学の学生さんに

「どうやったらプレゼンがうまくなりますか?」

と質問された。そこで「吉野家簡略法」というものを教えた。僕が考案したものすごくわかりやすい方法だ。

プレゼンについて僕はちょっとうるさい。

自分自身、なんといっても踏んだ場数が桁違いに多い。証券営業というのは知らない人に会っていきなり株や債券という目に見えないものを売る商売である。しかも薦めている横で値段が下がったりもする。そんなものを売る営業は他にないから営業業務の最難関コースと言っていいだろう。口しか頼るものは何もないから、プレゼン力=営業力なのだ。

証券マンとしての僕しか知らない人は誰も信用しないが、野村證券に入るまで僕は口べただった。人前でしゃべった経験はほとんどなく、すぐあがってしまい、話もヘタだった。女性を口説くなどという口八丁とは程遠い人間だった(ここだけは今もそう)。しかし入社して大阪駅前の梅田支店営業1課に配属になり、そんなことを言っている場合ではなくなった。日本一厳しい野村の支店営業現場でプライドをもって生きていくには、自分を訓練して変える必要があった。2年半支店にいて、結局成績は同期トップに何度もなったのでなにがしかのプレゼン力を自力で開拓していたのだろう。

そんな「現場たたき上げプレゼンテーター」だった僕が目覚めたのはウォートン・スクールのMBAプログラムでOral Presentationなる授業を受けたときだ。これは単位には関係ないがパスしないとMBAにはなれない。だから米国のトップエリートは全員がこの訓練を受けていると言っていい。5人の学生がある日突然、アトランダムに小教室に呼ばれ、その場で先生からぽんとテーマを渡される。それについて演壇で一人ずつ5分間のスピーチをさせられるのだ。考える時間はわずか5分。僕らのテーマは

「フィラデルフィアでお薦めの3つのレストラン」

だった。こんなものはいつでも「お薦めの3銘柄」を言う訓練を積んだノムラのトップセールスマンにとってなんでもない。しかし問題は僕のスピーチで「なるほど、行ってみようかな」と聴き手である学生4人と先生が思うかどうかだ。「どのレストランをキミが選んだかなんて何の関係もない。キミのスピーチで何人が行動するか?それがすべてだよ。」という先生の一声でそれは始まった。

全員のスピーチがビデオに撮られ、リプレーを見ながら全員で思いっきりケチをつける(そういうルールになっているのだ)。まあ僕だけ英語がヘタなのは仕方ない。そういうことは問題にしない。「先生のほうしか見てないな」、「ポスチャー(身振り手振り)が少ないね」、「言葉に抑揚が足らん」「結論のリピートにパンチがない」・・・出るわ出るわ。たしかに自分でもあれじゃあ行ってみようとは思わんな、と妙に納得までしてしまった。

この授業で教わったことをこれから僕流にアレンジして書いてみる。これだけ知っているだけでもプレゼン力は格段にレベルアップすること請け合いである。ゼミの発表、小論文、入社面接、社内会議、営業、何にでもオールマイティであるからぜひマスターしてほしい。

まず、プレゼンの良し悪しは3つの要素で決まる。大原則である。

①コンテンツ②コンポジション③パフォーマンス

①は要は中味のことだ。プレゼンとは相手を説得して何かをしてもらうためのものである。だから何かしてもらいたい目的がある。たとえば営業なら商品を買ってほしい、ゼミなら先生にいい点をつけてほしい、恋人なら結婚してほしい、政見放送なら投票してほしい、企画会議なら自分のビジネスプランを採用してほしい、僕の例なら「3つのレストラン」に食べに行ってほしい、ということだ。目的が多数あったり何なのかが明確でないプレゼンはコンテンツに欠け、確実に失敗する。

②はその目的行動を促す訴えが説得力を持つためにどう言葉やデータや資料を構成して組み立てるかである。行列のできるレストランなら②はいらない。しかしそういう店があなたに呼び込みを頼みに来ることもない。プレゼンは勝手には起きないことを起こそうと促すためのものだ。つまり「はやらないレストラン」を売り込むことが現実社会ではほとんどなのだ。だから②が非常に重要になるということを覚えておいてほしい。

③はそれをどう演技するかだ。まず「つかみ」というやつが有効だ。これは聴衆しだいで、何国人なのか若いのか年寄か男か女かで当然にやり方が変わる。しかし相手が誰であれつかんでしまえばプレゼンは80%は成功と言われる。僕はできる。相手が米国人でも中国人でも、日本語でも英語でも、①②なんか即興で演壇で考えながらできてしまう。38歳から海外で社長職にありスピーチも仕事のうちだったという特殊経験があるから当たり前だ。もちろんオバマ大統領や真打クラスの落語家はもっと上級者の達人だ。うまくなりたい人にパフォーマンスの練習をしなさいというのは簡単だ。しかしそういう経験が積める人はほとんいないから無責任でもある。むしろ誰でもできる最大公約数的な「イロハのお稽古」こそ有効だ。上記のMBAの授業がそれをシステマティックに教える場であったことはご理解いただけるだろう。

ウォートン・スクールで①②を教わった時、僕は

「これはソナタ形式だ」

とひらめいた。①=メロディー、②=ソナタの作曲、そういうことだ。そして③はできた曲を聴衆の前で演奏する。そういうことだ。①②と③は別なものと考えた方がいい。作曲するというのはプレゼンそのものなのだ。ソナタ形式というのはプレゼンを効果的にする形式論理だ。いいプレゼンは人の心を動かす。だから名曲は何百年も聴き続けられているのだ。

よく考えてみよう

世の中には③がプレゼンだと勘違いしている人が非常に多い

それは間違いではない。でも③で成功するには大統領や名人落語家になろうとするようなものだ。自信のある人はチャレンジすればいいが、これは万人にはお薦めしない。

②にうまくなるという簡単で誰でもできる方法があるのである

それをきちっとマスターして、③は「イロハのお稽古」でやさしくすます。それが最も効率的で賢い。次回、それについてわかりやすく述べる。

(続く)

 

 

②私の好きなシネマ・ベスト3 (東)

2012 NOV 3 17:17:38 pm by 東 賢太郎

もともと映画館という暗くて閉塞感がある所がきらいです。それに加えて文学作品的なものにのっけから関心がありません。おまけに昔大阪でエイリアンというのを見て気持ちが悪くなったのでますます足が遠のきました。したがってこういうお子様ランチ風になってしまいます。

第一位  あしたのジョー

第二位  ゴッド・ファーザー

第三位  Mr.ビーン(シリーズ)

「あしたのジョー」は若かりし大阪時代に先輩と徹夜で見ました。映画館で楽しんだ希少な経験として第一位。1980年映画版と思われます。感動したのでよく覚えてます。

「ゴッド・ファーザー」むんむんする男の掟の世界。最高です。マーロン・ブランドがカッコいい。ファミリーや仁義という感覚は僕の生きてきた証券界に通じるものがありましたが、この10年で急速になくなってしまった。同時に急速に儲からない産業になってしまった。

「Mr.ビーン」イギリス的お笑いの傑作。ビーンのローワン・アトキンソンはオックスフォード卒。映画版は飛行機で見ました。まわりの乗客もこれを見ている人はみんな一人でクスクス笑いをしていて平和な光景でした。

オトコになった日

2012 OCT 18 0:00:39 am by 東 賢太郎

もちろん変な意味ではありません。

男性のみなさんは10代のころにおそらく、これで俺も男としてやっていける、と思った何事かがあったのではないでしょうか?

昔から男の子の脱皮のために親父をぬいたという何かが大事だと言われます。親父でなくてもいいし、それがどんな些細なことであってもいいそうです。僕が野球をこころから愛しているのは、それが野球でのことだったからです。

多摩川の近くに住んでいたので毎日のように川へ行って石を投げました。親父と思い切り遠くまで投げよう、あの大きな石を狙え、水切りで5回ジャンプだ、などと遊びました。だからボールを投げるなど朝飯前で、小学校のころから野球をやめるまでずっとピッチャーでした。

団地の草野球では敵なしで、中学は野球部がないので仲間チームを作って西川口の大人の草野球リーグでやりました。ここでもほとんど三振で打たれた記憶はあまりありません。だから中学ではちょっと有名で巨人の星が流行っていたころなのでオズマと呼ばれ、九段高校に入ると迷うことなく硬式野球部に入部しました。

初めての体育会、部活で上級生、下級生というカースト制度を知りました。3年生は神、2年生は人間、新人はモノなのです。モノのほうから話しかけるということは一切ありません。命令されるだけです。「はい!」と答えると「はいじゃねえんだよ、イッ!!と言え」と言われ、先輩の汚れ物を洗い、練習ボールの縫い目を縫い、試合では用具の運搬係りです。最初の1-2か月はボールを投げることもバットを振ることもない生活でした。

先輩たちの練習中はとにかく大声出し。「いこうぜいこうぜー」「おーらおーらーおーら」など各人各様の大声を数時間、間断なく出し続けるのです。それだけ。声はいつもガラガラです。昼休みは早飯して部室前に全員集合し、バットの素振り200本です。これが毎日です。遅刻するとケツバット。ヒップをバットでビシッとたたかれます。その日は痛くて教室では中腰で座り、3日はアザが消えませんでした。

3年生でキャプテンで不動の4番サード。桧前(ひのくま)さんという先輩はうっすら青髭のお顔からお言葉からすべてが怖く、特にケツバットの手加減がないことで新人に恐れられていました。しかし対外試合になれば強打のスーパーヒーロー。打たなかった試合はあまり記憶にありません。こちらも不動のエース篠さんとおふたりで敵をなぎ倒し、当時の九段は1リーグ時代の東京都、たしか170-180校あった中で第6シード校とけっこう強かったのです。

3年生最後の試合が、僕のブログ「ピッチャーの謎」にある神宮第2球場での日大一高戦でした。さすがの桧前さんも、そのまま甲子園に出て1試合17奪三振を演じることになる保坂英二(注)の剛速球に浅いセンターフライでした。

(注)3年の夏の東京都大会では、日大鶴ヶ丘に6回コールド勝ちした際、18アウト中17アウトを三振で取った。1回の先頭打者から9者連続三振、ショートゴロを挟み、8者連続三振。この年、ドラフト2位で東映フライヤーズ入団。

 

これが覚えている数少ない桧前さんがヒットを打たなかった試合です。その壮絶な対決をベンチから見て観客のようにシビれていた1年生の僕にとって、その大先輩と2週間後に対決することになろうとは夢にも思っていませんでした。

その翌週、恒例の夏の合宿なる地獄の1週間が尽性園野球場で始まりました。朝6時起床、2、3キロのランニング、朝食。1年生がグラウンド整備をしてそこから炎天下、昼飯以外は日が暮れるまで練習練習また練習。日が暮れてもベースに石灰を塗って走塁練習。水を飲ませないので猛暑でたおれて救急車かという者も出ます。僕は仕方ないので「頭冷やします!」と一声叫んでバケツの泥水を帽子ですくってかぶり、したたる水滴を先輩の目を盗んでなめました。

最終日にOB戦という試合が組まれています。2週間前までレギュラーだった3年生と大学で野球部にいる卒業生からなるOBチームに、1,2年生の新チームが挑戦する試合です。その先発メンバーがほぼ新チームのレギュラー候補ということです。前の日、僕はこの試合で畏れ多くも先発ピッチャーに指名されました。

その日の朝、完全にビビっていた僕は試合前から足がぶるぶる震えていました。落ち着け落ち着けと声に出していい聞かせるなさけない自分。ついにその時間が来てしまい、一塁側のブルペンでさあ投球練習だというときです。あの桧前さんがバットを持ってつかつかと近寄ってきて、人生初めて声をかけてくれたのです。

 

「東、ホームラン打ってやるからな」

 

なんという痛烈な一撃。それだけ言って彼は3塁側ベンチへ消えました。しかし、この一言で僕は変わりました。なぜかふっきれました。よーし、それなら見てろよー。

この試合、完投して7対2で勝ったこと、いきなり先頭にセーフティバントされて出塁されたこと、首にデッドボールを当ててしまった麻生先輩(本当にすみませんでした)が倒れて動かれなくなって騒然としたことぐらいしか戦況は覚えてません。

覚えているのは桧前先輩、あなたとの対決だけです。1打席目、真ん中高めストレート、高ーいピッチャーフライ。2打席目、真ん中高めストレート、高ーいピッチャーフライ。そして3打席目。真ん中高めストレート、高ーいピッチャーフライ。全部三振ねらいの渾身の一球でした。全部ホームランと紙一重の当たりでした。ホンモノのすごさにゾッとしました。一生忘れない真剣勝負、本当にありがとうございます。こころから感謝してます。

試合後、あこがれの篠先輩から呼ばれました。「東、いいものやるよ。」  篠さんのつけていた背番号1のゼッケンでした。人生で最もうれしかったことの一つです。でもその翌年、夏の大会前にまずヒジ、次に肩をこわして登板さえできず、桧前さん、篠さんから頂戴したご期待にお応えすることもなく僕の野球人生は実質1年で終わりました。背番号1から14への降格、転落、屈辱。勝負の世界は厳しいことも野球に教わりました。

3年生になった春、僕に代わってエースになった先発の長嶋君の調子が悪く、初回に3点取られ、ノーアウト満塁の走者を残して急きょ僕に交代。試合はそのまま3-0で負けましたが、そこから9回を完封したのが僕の最終登板になりました。最後のバッターを打ち取ったとき、とても満足で幸せな気分になり、これできっぱり野球をやめようと思いました。これもあの尽性園野球場でした。

試合後、水道でじゃぶじゃぶ頭を洗っているとき、隣で 「2番目のピッチャーよかったね」 と、それが僕と気がつかずにぼそっと声をかけてくれた都立墨田工業高校の選手の方。ありがとうございます。

ピッチャーの謎

日韓ソフトボール決戦記

2012 OCT 2 16:16:13 pm by 東 賢太郎

アメリカのビジネススクールというのは修羅場です。MBAを取るためにウォートンでは2年で19単位が必要。一つでも足りないとアウトです。社費で来て落第などできません。  しかし外人ハンディキャップなどなく、厳しい教授は50人のクラスで5人はfail(不可)を平気でつけます。

ウォートンの授業料は年間$51,773(2009年)でアメリカで1番高いようです。当時も4万ドルぐらいで円ドルが250円ですからトータル2000万円ぐらいだったことになります。だからアメリカ人はそれを投資と考えていて、いい所に就職しようと死に物狂いで勉強します。そういう彼らと同じ土俵で競争しなくてはなりません。

僕の学年、日本人はほとんどが企業派遣の17人でした。帰国子女もいたりしてみなさん英語力は抜群。英語は不得意科目だった僕はというと選抜時点のTOEFLの点数からしてたぶんビリだったでしょう。最初の1か月は授業で宿題が出たのも気づかないという顔面蒼白レベルからのスタートでした。

1年に秋、春の2学期があります。それが2回。19単位をアメリカ人はだいたい5-5-5-4と履修します(自分で選べます)。5というのは毎日5科目の授業があるということです。授業は先生が一方的にしゃべるものもありますがクラスディスカッション方式が多く、何も発言しないとほぼ確実に落第します。

発言といっても、十分に予習しないとアメリカ人の輪に入れません。この予習というのが地獄で、1授業あたり平均で200ページの教科書とバルクパックという副教材をとにかく「読みまくる」ことに尽きます。ですから5科目履修というのは毎日1000ページの英文を読み、何か自分の意見をまとめてクラスでディーベートするということを意味しています。寝ても覚めてもこの繰り返しでした。

日本ならインプットさえすれば答案用紙相手にそれを正確にアウトプットするだけで合格できます。多少の応用問題はあっても。ところがMBAコースはアウトプットの場がディベートですから何が起きるかわからない。丸暗記では歯が立ちません。ああ言えばこう言うみたいな即応力が大変重視されます。

救いは発言内容の是非ではなく、全体の議論の流れに貢献したかどうかを重視してくれることでした。何でもいいから言え、みんなをかき回せ、という姿勢が評価される。だから僕は①早いうちに手を挙げる(議論が白熱すると英語がわからなくなる)②「それは日本では違う・・・」と自分の土俵に持ち込む、という2大作戦で切り抜けていました。

そういう殺伐とした日々のなかのことです。あるとき韓国人のチー君と飲みに行きました。たしか期末試験が終わってお互いにほっとしていた時です。日本人も韓国人も英語がへたくそ。同じ苦しみを味わっているので仲良くなっていました。すると彼が、お前野球やってたらしいな、こんど日本対韓国でソフトボールをやらないかと言い出しました。 それは面白い。よし、受けて立とうじゃないか。話はすぐまとまりました。

僕は同窓の皆さんに声をかけてまわり、日本代表チームを結成しました。試合当日の朝、親分肌のチー君は韓国代表チームを率いてグラウンドで我々を早や待ち構えています。もちろん友好ムード、ピクニック感覚なのですが両方とも妻帯者は全員が美人の奥方同伴です。ちょっとカッコ悪いことはできないなという感じもありました。試合は攻撃方が自分でピッチャーも出してその球を打つというコリア方式?に決定。国際舞台の交渉力がない日本を地で行ってしまいました。

テキはやろうと言い出すだけあってうまい奴が何人かおり、味方投手が各人の打ちやすい所にうまーく投げてボコボコ打ちます。あれよあれよという間に10点ぐらい取られて、結局大敗してしまいました。「いやーナイスゲーム!じゃあ昼飯にしよう!」上機嫌の韓国チーム。僕らはそれではおさまりません。「チー君、悪いけどもう1試合やんない?」「・・・・?!」

それを潔く受けて立つ韓国チーム。すぐ始まった想定外の第2試合。コリア方式に慣れたのか気合がまさったのか、ついに侍ジャパン打線が大爆発。みんなで打ちまくって快勝してしまいした。死闘が終わると両チームくたくた、足はふらふら。いや、全員がワイフの前で恥かかなくてよかったなあ!最後は両チーム一丸となってそういうムードになり、全員がハグ。日韓が輪になって祝杯。英語へただけど頑張ろーな!

がまんしたので腹がグーグーなっています。奥様方が丹精込めて用意してくれたお弁当は、誰からともなく、日韓で交換して食べようということになりました。いただいたブルゴギやキムチのおいしかったこと!!韓国人っていいやつらだなあ。当時弱冠28歳。それ以来僕はずっとそう思っています。

 

ピッチャーの謎

2012 SEP 29 17:17:11 pm by 東 賢太郎

野球のボールは硬式、準硬式、軟式と3種類ある。後者2つは日本だけのものである。このうち硬式球(写真)を用いる野球を硬式野球と呼ぶ。プロ野球、ノンプロ、高校野球はすべて硬式野球に分類される。

硬式球は141.7-148.8gの重さと決まっている。石のように固い。投手(またはピッチャー)と呼ばれる者はこの物体を投げ、18.44メートル離れたところに横たわる幅43.18センチのホームプレートというゴム製白板の真上を通さないといけない。

なおかつ、投げた硬式球を打とうと待ち構える打者(またはバッター)と呼ばれる厄介者の「ヒザから胸のユニフォームのマークまでの高さ」という約1メートルの上下幅に収めることも同時に求められる。

このゾーンに時速100-160キロの初速で投じた球を90%以上の確率で通せる者というのが硬式野球のピッチャーのおおよその定義であろう。ここに変化球、コーナーワークというバリエーション、応用ワザが加わるが、この定義を満たしていない者はまずいない。というかピッチャーに選ばれない。

ちなみに米球界に進出したナックル姫こと吉田えりちゃんは遠投力は堂々の70メートルを誇り、ストレートは最速101キロ。この定義を満たしていると推察される。逆にイチローは150キロ、ヤクルト古田も147キロを計測したがプロではピッチャーではない。

バッティングセンターというものがある。マシンが投げる球は「生きた球」とは言わない。変化球も来ない。それでも100キロは結構速い。これが打てれば草野球ではレギュラーになれる。120キロをちゃんと打てたら経験者レベル。130キロをポンポン打ったら打席に見物の人だかりができる。

しかし人間が投げると球は生き物に変貌する。これは打席で見たことのある者しかわからないかもしれない。まずなによりも球筋が予測できない。だから怖い。頭を直撃すると死ぬかもしれない。そこで硬式野球部員は打撃練習をしない時も球見(タマミ)という練習をする。投球練習所へ行って、投げているピッチャーの球を打席で(時にはバットを持たずに)ひたすら「目撃」して目を慣らすのである。

高1の夏、東京都大会4回戦。神宮第2球場で当たった日大一高のエース保坂さんの球は忘れられない。ベンチから見て球が浮いている!同じ年、春季大会の桐朋戦では21奪三振、この後に優勝して順当に出場した甲子園では都城に対し毎回、全員の17奪三振!ドラフト2位でプロへ行った。そういう球だ。死球を食らって痛がる先輩のお尻を冷やそうとしたら青アザにボールの縫い目の跡がついていた。背筋がゾッとした。

同じ硬式球を同じ人間が投げて、どうしてあんなに変わるんだろう?選手はみんなそう思ってるから「生きた球」と言う。僕はピッチャーの数だけ人相ならぬ「球相」があると思っている。これが面白い。だから野球場には球相を見に行っている。カープファンとは別の野球ファンという自分がいる。多摩川の少年野球でも、球相のいい子が投げてると何時間でも観戦してしまう。

プロ野球には、投げるならいつでもカネを払って見たいというピッチャーが数人いる。例えば巨人の杉内、ロッテの唐川(故障が心配)、全盛期の工藤。あの球相は、130キロ台のど真ん中のストレートでプロで空振りが取れるという信じ難い結果を生む。メジャーに行った和田(故障が心配)、ロッテの成瀬も比較的近いがやや違う相である。

大嫌いなのは巨人の澤村みたいな筋トレなんかをやるパワーピッチャーだ。砲丸投げでもやったらどうだ。目いっぱいに投げて150キロ以上出しても打たれている。実にだらしなく、美しくない。135キロの杉内はちょっといいともう誰も打てない。省エネだから疲れない。早や3回ぐらいから完全試合をされそうないやーな感じがする。高校野球では、こういう奴と当たってしまったら運を嘆くしかない。

本当に不思議です。同じもの投げてるのに。

 

 

 

 

 

ピッチャーは自信過剰か

日本航空の再上場

2012 SEP 26 16:16:26 pm by 東 賢太郎

2004年に野村からみずほに移籍すると日経ビジネスなど経済誌やら何やら業界紙のようなものまでに記事をガンガン書かれました。こっちは覚悟して辞めたのでいいのですが野村にはご迷惑をおかけしました。取材を受けたわけではなく勝手記事だったので仕方ありませんでした。

当時みずほグループはコーポレート銀行の顧客企業への提案メニューに株式の引受業務を入れようということで、頭取から「エクイティ元年にする」という強いメッセージが飛んでいました。法律で銀行にそれはできませんから、その任務はみずほ証券が負うことになります。しかし銀行系なので株式業務経験のある人材がおらず、そこで僕にお声をかけてくださいました。

しかし僕は海外が長かったので国内の法人業務などやったことがありません。それでもいいんですかと尋ねると、「問題ない。君のことはわかっている。」と言われ、じゃあという気持ちになったのです。給料やボーナスもおおまかなことしか聞かず、もっといい条件を提示していただいた別の会社をお断りして契約書にサインしました。お金より情熱に惹かれたからです。2004年3月のことです。

別に野村が嫌いだったわけではありません。僕を育ててくれたのはまさしく野村です。いいお客様とめぐり合い、こんなに凄い会社はないと思う経験をたくさん積ませていただきました。ただ証券マンとしてはファイナンス業務ででかい仕事をやりたいという気持ちが強く、ウォートン・スクールのMBAもファイナンスで取ったので自信もありました。野村で僕の来た道の延長線上には残念ながらそのチャンスはなさそうでした。

ここから2006年9月までの2年半は、僕のサラリーマン人生で最も楽しく充実した日々でした。法人業務で野村とはライバル関係になるので、例えて言えば同じセ・リーグで別球団に移籍したピッチャーのようなものです。だから経済誌も面白がったのでしょう。巨人軍のような野村相手だと燃えるし、みずほ側はそれを期待して僕を採ったでしょうからベンチや観客席からの視線も半端ではなかったと思います。

しかし、みずほに出社した初日に僕は正直のところ大失敗したと思いました。部下は100人位だったでしょうか。ただ、株式引受経験ゼロ。株を知らない。おとなしい。何をしていいかわからない。質問も出ない。18億円の収益目標でびびっている。これは180億円の間違いかときくと全員が絶句してしまう。その日、同じ野球チームのつもりで来た僕も絶句したまま帰宅したのを昨日のように覚えています。

このチームが2年後に大和証券を株式主幹事リーグテーブル(引受業界のペナントレース順位表)で抜き、高嶺の花だった日本航空の公募増資主幹事まで引き受けさせていただけることを予測した人は証券業界に一人もいなかったでしょう。この1500億円の新株発行増資は野村、ゴールドマンと三つ巴の熾烈な戦いとなり、最終的にみずほがグローバルコーディネーター、トップレフトというインベストメントバンク業務のオリンピック金メダルに相当する地位を勝ち取りました。その過程を述べることは役員だった僕には一切許されませんが、当時の銀行出身の部下たちの大活躍は特筆大書しておきたいと思います。

かように、そこにいたるまでの部員一人一人の成長と活躍は目覚ましいものがありました。素材はみんな優秀でまじめでやる気もあり吸収も早い。初日の心配は銀行と証券のカルチャーの違いだったのです。部員たちは全員で僕を担いでくれ、僕は仕事をたくさんさせられ、足腰立たないぐらいの疲労困ぱい状態から風邪が治らなくなりました。余談になりますが、その時にさすがにまずいと思って名医を探し、知人から紹介を受けたのがSMCメンバーにもなっていただいている神山道元先生なのです。先生に処方していただいた漢方で僕は復活し、以来今日まで風邪もひいたことがありません。

日本航空ですが、あのファイナンスも結果的に無になり、悲しい経営破たんという道が待っていました。残念でしたし、何より当時の投資家にご迷惑をおかけてしてしまいました。政府のてこ入れがあったとはいえ稲盛さんの経営力で再上場に至ったことは慶賀のいたりです。あの僕にとって忘れがたい金メダルはツームストーンという形でわが社の棚に飾られています。

クラシック徒然草-僕の音楽史-

2012 SEP 14 14:14:33 pm by 東 賢太郎

僕の一番古い記憶は、親父のSPレコードを庭石に落として割ってしまったことです。2歳だったようです。中から新聞紙 ? が出てきたのを覚えています。ぐるぐる回るレコードが大好きでした。溝の中に小さな人がはいっていて音を出していると思っていました。

これが昂じたのか、僕はクラシック音楽にハマった人生を歩むこととなりました。作曲や演奏の才がないことは後で悟りましたから聴くだけです。就職した証券会社では、大阪の社員寮に送ったはずの1000枚以上のLPレコードが誤って支店に配送されてしまい、入社早々大騒ぎになったこともありました。

転勤族だったので国内外で24回も引っ越しをしました。そのたびにLP、テープと5000枚以上あるCD、オーディオ、ピアノ、チェロ、楽譜がいつも我が家の荷物の半分以上でした。この分量はクラシックが僕の57年の人生に占めてきた重みの分量も示しているようです。

僕がお世話になった証券業界では僕は変り種でしょう。この業界は オペラのスポンサーはしても社員オーケストラをもつような風土とはもっとも遠い世界の一つです。それでも僕が楽しくやってこれたのはひとえに海外族だったからです。アメリカ、イギリス、ドイツ、スイスに駐在した13年半に、僕はもう2度と考えられないほどの濃くて深い音楽体験をさせてもらいました。

そういうとやれ「カラヤンを聴いた」「バイロイトへ行った」という手の話に思われそうですが、そうではありません。僕はそういうことにあまり関心がなく、書かれた音符のほうに関心がある人間です。たとえば、同じ夜空の月を見て「美しい」とめでるタイプの人と「あれは物体だ」と見るタイプの人がいます。僕は完全に後者のほうです。文学でなく数学のほうが好き。文系なのに古文漢文チンプンカンプンというタイプでした。

高校時代はストラビンスキーの春の祭典、バルトークの弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽(通称、弦チェレ)みたいなものにはまっていました。特に春の祭典は高2のころ1万円の大枚をはたいてスコア(オーケストラ総譜)を買い、穴のあくほど眺めました。この曲は実に不思議な呪術的な音響に満ちていて、それがどういう和音なのか楽器の重ね方なのかリズムなのか、全部を自分で解析しないと気がすまなかったのです。

弦チェレの方は、第3楽章です。ちょっとお化けでも出そうなムードですね。フリッツ・ライナーの指揮するレコードで、チェレスタが入ってくる部分。この世のものとは思えない玄妙かつ宇宙的な音響。なぜかこの演奏だけなんですが。敬愛するピエール・ブーレーズも含めてほかのは全部だめです。これもスコアの解析対象となります。

時が流れて、僕はフランクフルトに住みました。その家はメンデルスゾーンのお姉さん(ファニー)の家の隣り村にありました。そう知っていたわけではなく、たまたま住んだらそうだったのですが。彼はそこでホ短調のバイオリン協奏曲を書きました。あの丘陵地の空気、特に彼がそれを書いた夏の空気をすって生きていると、どうしてああいう第2楽章ができたのかわかる感じがします。あそこを避暑地に選んだ彼と、その場所が何となく気に入った僕の魂が深いところで交感して体にジーンと沁みてくるような感覚。うまく言えませんが、かつてそんなことを味わったことはなかったのです。

こういう感覚は、大好きで毎週末行っていたヴイ―スバーデンという町でもありました。ブラームスの交響曲第3番です。もういいおっさんだった彼はここに住んでいた若い女性歌手に恋してしまい、ここでこの曲を書きました。彼としては異例に甘めの第3楽章はその賜物でしょうが、むしろそれ以外の部分でもこの町の雰囲気と曲調が不思議と同じ霊感を感じさせるのです。この交響曲はこのヴイ―スバーデンとマインツの間を流れるライン川にも深く関係しています。

シューマンの交響曲第3番とワーグナーのニュルンベルグの名歌手第1幕への前奏曲。この2曲はそのライン川そのものです。すみません。どういう意味かというのは行って見て感じてもらうしかありません。このシューマンの名作は後世にライン交響曲と呼ばれるようになりました。シンフォニーのあだ名ピッタリ賞コンテストがあったらダントツ1位がこれです。

名歌手は全部ライン川で書かれたわけではありません。でもあのハ長調の輝かしい前奏曲はヴイ―スバーデン・ビープリヒというライン川べりで書かれたのです。ワーグナーの家は水面にちかく、滔々と悠々と流れるラインが自分の庭になったような錯覚すらあります。太陽がまぶしい秋の朝、目覚めて窓を開けると眼前に滔々と流れるライン川、そこにバスの効いたあの曲が流れる。僕の理想の光景です。

こういう経験をして、僕はだんだんとお月様を見て「美しい」と思う感性も身についてきました。物体だ、という感性が消えたわけではなく、少しはバランスのとれた大人のリスナーに成長できたということでしょうか。基本的にはロマンチストなので、ボエームやカルメンを涙なしに聴き終えたことはないし、ラフマニノフの第2交響曲を甘ったるい駄作だなどとは全く思いません。

しかしメンデルスゾーンのジーンとした感じは、涙が出るとか甘いとかそういう次元の話ではありません。泣くというのは作曲家が仕掛けた作戦にまんまとはまっているということです。そうではなく、作曲家がそういう作戦を練る前の舞台裏で、一緒に昼飯を食ったというイメージなのです。どうも話が霊媒師みたいになってきました。

ところで今、心を奪われているのがラヴェルです。音楽を書く手管、仕掛けのうまさという意味でこの人は最右翼です。もちろん、どの作曲家も聴き手を感動させようと苦労し、手練手管を尽くしています。そうでないように思われているモーツァルトの手管はパリ交響曲について書いた彼の手紙に残っています。しかしラヴェルはその中でも別格。うまいというより、彼は手管だけでできたみたいなボレロという曲も書いています。もうマジシャンですね。ドビッシーと比べて、そういう側面を低く見る人もいます。

僕も、そうかもしれないと思いながら、聴くたびに手管にはまっているわけです。ダフニスとクロエ。このバレエ音楽の一番有名な「夜明け」を聴いて下さい。僕は2度ほどギリシャを旅行してます。あのコバルトブルーの海に日が昇るような情景をこれほど見事に喚起する例はありません。音楽による情景描写というのはよくあります。しかしこれを聴いてしまうと他の作品は風呂屋のペンキ絵みたいに思えてしまいます。そのぐらいすごい。手管だろうがペテンだろうが、この域に達すると文句のつけようもないのです。

僕のラヴェル好きは高校時代にはじまります。春の祭典と同じ感覚で。両手の方のコンチェルトの第2楽章、ピアノのモノローグを弾くのは今でも人生の最大の喜びの一つです。もう和音が最高。ダフニスと同じコード連結が出てくる夜のガスパール第1曲も(これは弾けません)。バルビゾンの小路に似合う弦楽四重奏の第1楽章。僕にとって、ヨーロッパの最高度の洗練とはラヴェルの音楽なのです。

あれもいいこれもいい。 50年も聴いてくるとこうなってしまうのです。しかし50年たっても良さがわからない有名曲もたくさんあります。最後は好みです。もう今さらですから、ご縁がなかったとあきらめることにします。好きな曲は何曲あるか知りませんが100はないと思います。50-60ぐらいでしょうか。

これから、時間はかかりますが、1曲1曲、愛情をこめて、なぜ好きか、どこが好きかを書いていきます。これは僕という人間のIDであり、作曲家たちへの心からの尊敬と感謝のしるしです。読んで聴いて、その曲を好きになる方が1人でもいれば、僕は宣教師の役目を果たしたことになります。聴かずして死んだらもったいないよという曲ばかりです。必ずみなさんの人生豊かにしてみせます。ぜひお読みください!

 

僕の甲子園

2012 SEP 12 14:14:35 pm by 東 賢太郎

先日、たまたま帰りに南武線で通りかかった矢野口駅でふらっと下車しました。日曜日の夕方5時ぐらいでした。ここには尽性園といって、多摩川べりに我が都立九段高校の硬式野球グラウンドがあるのです。

踏切があった駅は高架になっていて、当時の面影すらありません。もう40年近く歩いていない道もかなり様子が違います。それでもなんとなく記憶をたどって、そこへ着きました。

僕は硬式野球部員でした。この尽性園での泥まみれの練習、怖かった先輩たちの顔や声、対外試合の真剣勝負、灼熱地獄だった夏の合宿・・・。なぜそんなに長いこと来ていなかったのかなと不思議に思いながら、その思い出の地を一目見て帰ろうと思ったのです。

ところがなんと、グラウンドへ眼をやると、その硬式野球部員が練習を終え、マウンドで円陣を組んでいるではありませんか。日曜日のこんな時間、構内には立ちいれないものとあきらめていた僕は目を疑い、吸い寄せられるようにバックネット裏までいきました。

円陣は長くつづき、まん中で監督さんが檄を飛ばしているようでした。やっと円陣が解けると、部員たちは散り散りになってグラウンド整備を始めました。こちらに歩いてきた監督さんは僕を見て、帽子を取りました。僕は「40年前のOBです」とだけ名乗りました。

「すみません。今日、秋の大会、1回戦で負けたんです」「ああそうなんだ。それでこうなったんですね。それはお邪魔しました。次、頑張ってください。」・・・・

そんな会話をしてさあ帰ろうと思ったところ、足がふと止まり、僕はついきいてしまいました。

「マウンドに登らせてもらえますか?」

監督さんは、まるでそれを待っていたかのような、誰にも有無を言わせぬような力強い声で、ぽんと僕に言葉を返してくれました。

「もちろんです」

しばらくマウンドのてっぺんでぼう然とホームベースを見ていた僕のとなりで監督さんがききました。

「変わってませんか?」

実は涙でホームがよく見えなかったのですが、

「変わってません」

としっかり答えました。

足元の白いプレートにそっと右手を置いてみると、1年生の時、夏の合宿で初先発した僕は、このプレートの踏み方をよく知らなくて、ベンチからすっとんできた3年生にここでそれを教わったことを思い出しました。

「ここは九段生の甲子園なんですね」

監督さんから最後にいただいたこの言葉を、僕は一生忘れることはありません。

トンボをかけ終わった部員たちはいったいなんだろうと遠まきに僕らを見ていました。もう薄暗くなった中、マウンドを降りた僕がグラウンドに深く一礼すると、誰からともなく「ありがとうございました!」と若い元気で大声の唱和が響きました。

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