Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______音楽と自分

クラシック徒然草―最高のシューマン序曲集―

2016 OCT 9 0:00:32 am by 東 賢太郎

レコード芸術というものがジャズにもクラシックにもあるということを書いた。それは録音されたレコードやCDという媒体が「商品」という存在であることを製作側も消費者もが認めあった市場において成立、流通しているメディアの一形態のことだ。

演奏会も実は音楽や会場の空気、体験というものが商品であり、それを聴衆がカネを払って買っている。しかし、偽善とまでは言わないが、それはそうではない、オペラやリサイタル、ジャズのライブハウス等に行く自分、それを解する集団の一員である自分を肯定し芸術を賛美し擁護しているというプライドであって、サービスに対価を払うという野卑な商行為ではないという暗黙の了解が成り立っているように思う。

その意味では、オンラインショップやCD屋で録音を売りさばく行為としてレコード芸術はすっきりとわかりやすい資本主義の俎上にある。音楽家といえども仙人ではない。そしてモーツァルトもベートーベンもまったくもって仙人ではなかった。もしも彼らがレコード芸術というものを手にしていたならきっと売り上げを大いに気にし、ライバルと競っただろう。

グールドやビートルズは演奏会を否定したが聴き手がそうなる道理は特に見つからない。僕はコンサートやライブハウスで受けるサービスという商品に対価を支払って楽しんでいるし、同時にCDという商品を求める消費者でもある。しかしそうして資本主義原理によって決まるプライス(CDやチケットの「お値段」)を介することによって芸術は商品として市場に埋没し、流通しなくなる運命を背負っているということはもっと気づかれないといけない。

英国のグラモフォンという老舗の音楽誌がある。ここに執筆する評論家諸氏はさすがに資本主義の元祖であるジェントルメンで、録音(商品)の演奏ばかりでなく音質のクオリティや演奏様式の希少性などを総合的な価値としてプライス(単価、例えば何枚組か)が妥当かどうか、つまり商品価値としてgood value for moneyかどうかを推奨の判定基準とする人がいる。

これはレコード芸術はゲージュツであって商品などではないというスタンスが基本であるわが国ではあまりみられない。その割に「精神性」のような形而上的な要素が価値を膨らませて、雑音ばかりで音すら聴き取りにくい「巨匠の名演」が高値で取引されたりするわけだ。これは芸術はおろかゲージュツでもなく、神棚や仏具を選ぶのに近い。

僕は自分のLP、CDのコレクションの中に、神でも仏でもないから御利益は特にないが、その代わりに何度聴いても喜びを与えてくれる素晴らしい録音をいくつも知っている。それが英国の評論家なら激賞しそうな廉価盤だったりするから面白い。僕は証券マンだから good value for moneyには目がない。それを探すのがCD屋に出入りする理由の一つだったりもする。実にささいな動機だが、良いものを安く買った快感とは株や債券だけで味わうものではないと思っている。

何が良いかはひとえにその人の音楽趣味による。valueとは自分のそれに合うかどうかという相対的なものであって、世にいう「名盤」に絶対的価値があるわけではない。これまでいろいろ録音をご紹介してきたが、それはたんに僕が好きだというだけであって、食べ物、野球チームの好みや政治信条 みたいにプライベートなもので、音楽においてそれが何かは64種類のブラームスの交響曲第2番の感想文を書いたのでもはや白日の下に晒されただろう。

51o4ypbrhtl-_sx425_それを読んでいただいた方はどうして僕がこの「シューマン序曲集」が好きかはお分かりいただけると思う。これは最高に素晴らしい。何度聴いてもいい。秋にぴったりだ。演奏はなにも変わったこともとんがったこともない。大指揮者でも高性能オケでもなんでもない。録音も東欧的で地味一色である。だからどうしてこれが好きかと言われると困る。あえていうなら「普段着」。欧州でこういうのを気軽に聴いてたからだ。普通の人の普段着、それが映画になったり雑誌のグラビアになることはないだろう。つまり、DGやDeccaみたいなメジャーは商品化しないのだ。それがNAXOSという廉価レーベルだと、商品になっている。その希少性こそ、僕にとっては値千金なのだ。

これはPCなんかで聴いてもわからない、CDをしっかりとオーディオ再生してほしい。滋味あふれるくすんだオケの音色、日常から発揮しているに違いないシューマン演奏に水を得た魚の楽員の音楽性、包み込む見事なホールトーン。オーケストラを聴く喜びを心から味わえる。このコンビが同じホールと録音エンジニアによってベートーベン、ブラームスの交響曲全集を録音してくれたら僕は1枚2500円でも全部買うだろう。しかしこのシューマンは1枚1000円の廉価盤なのだ。レコード芸術の商品価値とはそうやって不可解に決まる。

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

クラシック音楽の絶大なヒーリング効果

2016 AUG 28 21:21:33 pm by 東 賢太郎

昨日ここに書いたが、森嶌先生はヒーラーでもあり大変ユニークな医療を目指されている。

ソナー・ファイル No43(心臓血管外科医、森嶌先生のご依頼)

僕は54で水疱瘡になったとき、高熱がウィルスを殺すのだと実感した。だから風邪をひいて解熱剤を飲むのはおかしいと思い至った。人生初めて胃が痛くなったらピロリ菌がいた。それを駆除したら歯ぐきから血が出なくなった。なるほど口腔の雑菌が体内に侵入して悪さするのかと実感した。

どこか痛い、悪いとなって、そこを切ったり焼いたりするのが西洋医学だ。胃癌を取ってしまえばそこは治るかもしれないが、胃癌になったということは癌になりやすい「何か」が体内にあるから別なところがまた癌になる。それは先生曰く口内細菌が血中に入ったことが誘因でできるそうだ。

要は、病巣というのテロリスト拠点をミサイル攻撃しても相手はゲリラだからまた出てくる。だから警官の数を増やしたほうがいいのだ。警官は「免疫細胞」だ。そうするのが統合医療であり、東洋医学、精神作用(ヒーリングなど)をトータルに用いて病気になりにくい体にする。

僕はクラシック音楽はヒーリング効果絶大と思う。なにせ長年自分で体験してるから実感がある。これはサミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」だ。皆さんこれを聴いて、どう感じられるだろうか?

何か心の深いところで落ちつく、気持ちが静まる感じはないだろうか。もしそうならそれは精神安定剤と似た効果であり、おそらく脳波や血流やホルモン分泌などに変化を与えるだろう。

これはヘンデルのオペラ・セリア「シピオーネ」からアリア「荒れ狂う海の中にあっても」だ。これは僕には非常な覚醒効果がある。朝に聴くと一気に目が覚め、さあやるぞという気分になる一品だ。アドレナリンが出てるに違いない。

次に、悲しくなった時はこれ。グリーグの二つの悲しい旋律より「過ぎし春」には心の傷の鎮静効果を感じる。

こんな感じで、こういうときはこれというのがTPOに応じていくつもあるし、即効型、じんわり型、劇薬型、ほんのり型・・・いくらもある。これのコンサルでもやろうか。皆さんも引き出しにたくさんお持ちになれば医者いらず?になるかもしれない。

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

無人島の1枚?ピアノをください

2016 AUG 16 2:02:19 am by 東 賢太郎

ピアノっていいなあ・・・いい音楽をいただくといつもそう思う。いろんな楽器の進化の中で行きついた極致だ。あんまりに自己完結してるもんだから、完成度が高いもんだから、オーケストラに入れてもらえなかったんだろうなあ・・・。

自分でやるのに弾くという言葉はおこがましい。フンイキだけだ。それでも、ピアノのすぐれものぶりは大したもので、ラヴェルのダフニスの「夜明け」、あれを弱音ペダルでタラララとひっそりやると充分に恍惚となることができる。すさまじくセクシーな音だ。

昨日はドビッシーの「海」、最後の最後3ページぐらいを和音だけひろってやる。それでも感じは出るじゃないか。ああこれは第1楽章のエンディングだぞ、う~ん最高だ、トランペット入って、G7! 、加速して、行けっ!!ドン!!

このドンは、レ♭のキーをぶっこわれるぐらい思いっきりたたく。

いわれなくても思いっきりになっちまう。凄いなあ、この快感。楽譜には fff があるが、そんなのいらない。そうじゃなきゃいけない、そりゃ曲の成り行きだからわ~っと盛り上がって生理現象でそうなっちまう。

でも、作曲家はティンパニの一発にした。なんて奴だ!

R・コルサコフ交響組曲「シェラザード」の第1楽章。これは全曲いく。何も考えない、あ~いい和音だいい曲だ。アンセルメをイメージして。うまくできたもんで、ff で完全にトランス状態で時にエクスタシー?にいたることができる。

ドヴォルザーク8番、第4楽章。途中まで。弦が第1主題を出して変奏していくあそこ、まさにこれこれ、う~ん、めちゃくちゃいい音書いてあるぜ!

ベートーベン悲愴、第2楽章。祈りの気持ちで弾く。何を祈るのか?知らない。ふだんは何も祈らないからたまにはいいだろう。むしろ精神安定剤かな。

ラヴェル、クープランの墓「プレリュード」。難しい。限界を超えるパッセージが3カ所。そこは完全主義のカンバンはおろすいい加減さが命だ。

同、ピアノ協奏曲ト長調、第2楽章。これまた恍惚ものだ。オケが入ってからしばらくは和音だけの手抜きでごまかす。コーダ。グランドキャニオンの夕焼けだ。荘厳さに絶句・・・。

くやしいがへただ

自分の耳が許容できない

弾かないと忘れてしまう

ということで、どうしてもプロフェッショナルのお世話になるしかない。

しかし無人島にひとりでもピアノ1台あれば1週間はもつ。楽譜がないと何もできないが、シューベルトのD.894でもあればいいチャンスだ、練習しちまおう。救援SOS出すの忘れて餓死、あるかもしれないが・・・。

 

(関連ブログ)

ファツィオリ体験記

クラシックは「する」ものである(1)

大成仏のゴルフ、煩悩の野球

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

 

 

演奏会は死んでいくか?

2016 JUL 10 16:16:12 pm by 東 賢太郎

 

(1)演奏会は死ぬと思った日

先日、証券会社の後輩が「支店に来るお客さんの平均年齢は優に70以上です。大手だと80です。東さん、60なんて若手ですよ」と妙な励ましをくれました。「国全体で見ると金融資産は60歳以上が約85%を保有しています。30歳代はマイナス資産ですよ」。

たしかに演奏会へ行くと老人ばっかりです。僕もそろそろその端くれです。若者はクラシック・コンサートに興味ないかと思いきや、彼はとんでもないといいます。

「好きでも生活に余裕なければ行きませんよ。チケットは高いし、連れて行くカノジョはいないし。それはちがいます」

30歳代はマイナス資産・・・。

これは悲しい。そうなると大枚はたいてホールに来るのは金融資産85%組ばっかりになるのも納得だ。

「それに若い人はスマホとyoutubeでいいんです。タダでいくらでも聴けますし。」

それはわかる。僕だって結構楽しめるし。そうなると若者はそれが習慣になっちゃうな。親の遺産もらっても習慣は変わらないな。85%組はあと20年ぐらいでこの世からいなくなるから、演奏会もいっしょに消えていくんじゃないか?

それからいろんなことが頭に浮かび、ああそうかと思いついたことがあります。忘れないうちにここに書き留めておこうと思います。

 

(2)音楽について書いていて気がついたこと

作曲家の頭に浮かんだ楽想や即興演奏は放っておけば消えます。それを記録しようと彼が思ったものだけが作品として残ります。我々が聞き知っているクラシック音楽はぜんぶそういうものです。

英語で楽譜のことをwritten music、 sheet musicといいますが、「(紙に)書かれた音楽」という意味です。ということは書かれていない、「音の状態にある音楽」というものもあるということで、我々が聞いて楽しむものはそっちのほうです。

つまり音楽(music)というものは二つあって、それは

書かれた音楽

聞こえる音楽

です。

書かれた音楽は聞こえる音楽にもなりますが、聞こえる音楽が書かれたかどうかはわかりません。ジャズの即興演奏がそれで、書かれていないけれど面白い。

 

(3)楽譜とは何か?

音楽を聞く人にとっては、書かれているかどうかはどうでもよいことです。それが楽しいかどうかだけです。音を出す人だって、本当は即興演奏だけでもいいかもしれない。ショパンのソナタのような音楽が次々と弾けるなら・・・。

現にモーツァルトはそれで飯を食っていましたし、ピアノは即興で、オーケストラにはちゃんと伴奏さすためにパート譜を書いた。それが残ったのが彼の27曲のピアノ協奏曲です。出版用にピアノ譜も書いたが本番でそのとおり弾いたかは不明で、26番のピアノパートは不完全のままになっています。

ところが時代が下って即興の要素はカデンツァを除いてどんどん減り、作曲家が書いた音符だけをを弾くのがクラシックだという定義づけができてしまいました。

音符そのものはもちろんマーラーみたいにホルンの朝顔を上に向けろだの立って吹けだの、ああだこうだ細かい指示まで譜面に書き込むようになります。覚え書き程度だった楽譜というものが、そのとおり演奏すればいつも同じ「聞こえる音楽」がこの世に立ち現れるという意味で「作品」というものになりました。擦ると魔人が出てくるアラジンの魔法のランプのようなものです。

すると「書かれた音楽」とレコードとは何が違うのだろう?

という疑問がでてきます。

 

(4)缶詰とインターネット

レコード(録音、CD、MDなど)も、再生すれば「聞こえる音楽」が立ち現れる魔法のランプだという意味では書かれた音楽(楽譜)と同じ役割のものです。料理に喩えれば楽譜はレシピであり、レストランのコックさんがその場で作るのが演奏会、料理をそのまま詰めこんだ缶詰がレコードにあたります。

問題はその缶詰が美味で大量生産されると、レストランはどうなるかということです。

レストランがコンサートホールにあたります。後輩が主張するように、youtubeをパソコンのスピーカーで聞いてもショパンは充分楽しめるという人は多いし、そういうネットのメディアが高音質化するとともにその人口は増えていくでしょう。

となると、缶詰とはいえホロヴィッツやミケランジェリという名コックの料理がタダで家で好きな時間に食べられるのです。知らないコックの料理を、決められた時間に間に合うように電車に乗ってレストランまで行って5000円払って食べたい人が永遠にいるのでしょうか。

 

(5)料理と音楽

ちょっと視点を変えてみましょう。料理というものも、地球上にある食材のバライエティは有限ですからその組み合わせであるレシピも限度があります。12個の音という限られた素材の組み合わせである音楽と似た事情があります。

現代の料理の原型はほぼ19世紀までにでき、20世紀に完成されたそうです。この100年はメニューがあまり増えてないのです。未知のおいしい魚や野菜が発見されたり、刺身にソースをかけておいしいと感じる新人類でも出ない限り、それは未来も変わりそうにありません。

音楽だって、いままでにない特定の12音の組み合わせ(メロディー、ふし)を好む民族が増えて、それを含む音楽を永遠に必要としてくれるということはあまり期待できないでしょう。シェーンベルグの12音音楽のメロディーをお母さんが子守唄に歌う時代は、一万年後は知りませんが僕らが生きてるうちはまず来ないでしょう。だから音楽のメニューも増えないのです。

 

(6)マーラー、ブルックナー人気

1970年代は音楽のメニューがLPレコードというメディアの普及によって増えた特別な時代でした。SPがモノラルになった時にも起きた変化が、LPによる収録時間、立体的な音のライブ感と細部のクラリティというメリットによってもっと劇的に拡大されたのです。それまでのメディアでは充分に理解されていなかった音楽が、LPという新しいパレットに描く画材として好まれるようになった。それが長大なマーラー、ブルックナーだったと言えるでしょう。

それまでも演奏され、知られてはいましたが、レコードというメディアが今のネットのごとくそれらの魅力を世界の聴衆に認知させた。それにより演奏会のメニューにのる回数がうなぎ登りに増えたというのは事件でした。食べ物でいえばカップめんにした創作ラーメンがコンビニで人気となったことでそのラーメン屋に行列ができたようなものです。

ストラヴィンスキーなど近代音楽でも、モノラルでは聞こえなかった細部の面白さが浮き彫りになって似た現象が起きました。僕はそれを聞いてクラシックにのめり込んだ人間です。それまで夢中だったビートルズがスタジオにこもってアビイ・ロードのようなライブでできない音作りに移行したのもLPレコード現象とするなら、僕のような嗜好の人間がクラシックに入るブリッジができた時代だったんでしょう。

しかし、CDという新メディアがLPを引き継ぐ形でそれをさらに拡大したにもかかわらず、そのメリット自体も飽和感が出ています。70年代に劇的に増えた新メニューもそれ以上は増えないところに来たのです。SP時代に霞のかなたで聞こえていた音楽がライブに近い質で家で楽しめる。もはや「メディアが作用してメニューを増やす」という現象はネットに道を譲り、そのこと自体がコンサートゴーアーの数を減らすかもしれないというジレンマに陥っているのが現状です。

 

(7)歴史のトラップ

それは、料理も音楽もどちらも素材の数が限られているわけですから、どう組合わせようとその数は「順列組合せの数」という数学的な上限に行き当たるわけです。だから新しい組合せ、すなわち「新製品」の投入がもはや望めないというところに来ている。1970年代の現象はミクロ的なものであって、マクロでみるなら20世紀とはそういう時代であったのではないかということです。

それは創造の天才が出現しなくなったのではなく、人類が食べたいと感じる素材の数、聴いて調和を感じる音階を構成する音の数から導き出せる「バラエティ」がいよいよ最終飽和点に近づいた。歴史が料理や芸術を囲って閉じ込めてしまうわな、「歴史のトラップ」があるということなのです。

同じことは工業製品にも見られます。例えば眼鏡(めがね)は1280年から1300年の間にイタリアで発明され、つるを耳にかける形になったのは18世紀から19世紀初期、球面レンズの採用が20世紀初頭です。100年大きな変化はありません。4輪の自動車や4翼の飛行機のかたちというのもおそらくそうでしょう。

 

(8)歴史がトラップできないもの

僕がベートーベンのエロイカをききたいとき、60枚ほどもっているCDの中から取りだすのは5枚ぐらいでしょう。その5枚だけで実は足りるのです。それにめぐり会うために60枚も買って、55枚は失敗だったわけです。演奏会でその5枚以上の名演が聴ける確率は非常に低く、そのために入場券に1万円を賭けるリスクをそう何回も取ろうとは思いません。

では僕はエロイカの演奏会に行かないか。矛盾のようですが行くのです。それは、5枚のCDより感動した演奏会をこれまで3回も経験したからです。そのひとつ、チューリッヒ・トーンハレで聴いたゲオルグ・ショルティの演奏。同じ楽譜、同じオーケストラから出てきたとは信じ難い光彩と生気と威厳に満ちあふれた音楽でした。

ああいうものは音楽に限らず、人生で何度も経験できないなにか特別なもので、舞台上の100人の人間が発する「気」が生んだ強烈な磁場のようなものです。それは、そこにいて時間を共有しないと体験できないもので、20世紀だろうと21世紀だろうと人間というものが変化しない限り変わらない、つまり、歴史がトラップできないものです。

そうなると音はその媒体にすぎなくなってしまいます。それを録音してもレコードには音しか入りません。それを再生しても、そこにいた人が何を感じたかはほとんどわからないでしょう。それはその場で演奏者と「気」を共有し、それに全聴衆ごと同期化し、音楽のうねりと一緒に会場ごと一体に動く精神の抑揚を感じないとわかりません。良い演奏会というのは音を聞く場ではなく、共体験の場なのです。

 

(9)空気とアトモスフィア

僕は英国時代にお客様といっしょにクリスマスの教会へ行きました。周囲でみなが賛美歌を歌い、祈り、牧師の言葉に耳を傾け、オルガンが演奏される。あの一連の音だけをあとで録音で聴いてみても、恐らく、そこにいた者でさえ何の感興も得られないでしょう。聖書も読んだことのない僕でさえ、しかし教会の広大な空間に満ちた雰囲気にどこか心洗われ、厳粛な気分に浸ってドームを出たことを覚えています。

atmosphere(アトモスフィア)は日本語で雰囲気と訳されます。この単語はギリシャ語源のatomos(蒸気)+sphere(球)の合成語、つまり地球の大気であり、気圧の英語はatmospheric pressure です。気圧の「気」がatmospheric という対応ですね。この「大気」が「気」であり「雰囲気」である、これは大気の振動が音楽であるというという対応を生んで、実にぴったりです。僕の教会体験はそれそのものです。

演奏会とはそれに似たものと思います。ホールの空間も聴衆も大事な要素であり、音楽の一部なのです。リサイタルで、ピーンと張りつめた空気を破るようにピアニストが登場します。一度座ってみて、椅子をちょっと動かす。カタッという微かな音がする。それがホールの空間にスーッと拡散する。最後の咳払いをコホンとする聴衆。集中の一瞬。そして、音が鳴る。

こういうものだって、音楽の要素なのです。ベートーベンの運命の、「音の鳴る前の休符」のことを以前に書きました。それは交響曲が鳴りだす前から音楽が始めっていることをベートーベンは認識していたということでしょう。オケのチューニング(調弦)がはじまり、会場がシーンと静まり、指揮者が登場して拍手が鳴り、また静寂が支配する。そこに音楽はもう聞こえているということです。

 

(10)ユーミンのしなやかな感性

オーボエの長いa音に始まるチューニングの音が僕は大好きです。あれがきこえると、いよいよ音楽が始まるぞというときめきを感じ、じっと耳を澄ますようになります。

前に書きましたが、大学時代によくきいていた荒井由美の「さざ波」という曲の歌詞に、こういうのが出てきます。

秋の光にきらめきながら                                        指のすきまを 逃げてくさざ波                                    二人で行った演奏会が                                        始まる前の弦の響きのよう

これを聴いて、彼女の鋭い感性に舌を巻いたのを覚えています。

演奏会が始まる前の弦の響き!

彼女がチューニングの音に感じたポエジー、それも音楽なんです。

 

(11)音のしない音楽

ジョン・ケージという作曲家をご存じでしょうか。彼の作品に「4分33秒」があります。ピアニストが舞台に出てきて、ピアノの前でなにも弾かずに4分33秒座っているという「音楽」です。その空白の時間に去来するすべての会場の雑音、その空間への拡散、空想の音響、ピアニストの姿や所作、いらだち、不安まで・・・そうしたすべてが聴衆の心に形成するものが音楽だということです。運命の休符の拡大版ともいえましょうか。

「4分33秒」のレコードがあったという話はほんとうでしょうか。ジョークかもしれません。ともあれ作曲家は4分33秒だけ切り取ったカンヴァスに白地の絵を描き、そこに何を見るかは居る者の感性にゆだねた。哲学的かもしれないが僕はそれは芸術家の強いメッセージだと受け取ります。ユーミンがチューニングに聴いた音楽というものに、それはとても近いものだと感じるのです。

 

(12)演奏家の磁力

演奏会場で、今日だけしか聴けない一期一会のものにめぐり会えるかもしれない。いつもそう思って足を運んでいます。行った回数に比べればずいぶん少ないですが、とにかく一生忘れることのない体験を味わえたからです。それは周囲の聴衆と一つの状態になってしか味わえないし、全部の聴衆を引きずり込んで「同期化」してしまう、強力な磁場をもった演奏家なくしてなりたたないものでしょう。

演奏家の力は絶対に必要なのです。すぐれた演奏家とはテクニックばかりの人のことではなく、聴衆をだまらせ、集中させ、引きずり込み、引きずり回し、うーんこれは凄いと我を忘れさせ、作曲家がランプにに封じ込めた魔人を解き放ち、その魔力と一体になって、参りましたという大拍手を送るしか感情のやり場のない状態に聴衆を追い込むことのできる人のことです。

実演の場で僕は何人かこういう人たちに接してきました。

セルジュ・チェリビダッケ、ゲオルグ・ショルティ、ダニエル・バレンボイム、アイザック・スターン、ヴラド・ペルルミュテール、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、カルロ・マリア・ジュリーニ、カルロス・クライバー・・・・

定期演奏会の会場が、おそらく、クラシック音楽を「教養」として知り、覚え、楽しんでこられた世代ばかりという状況は、これから活躍の旬を迎える若い演奏家が変えてくれるものだと信じます。老人はそう遠くない将来に死んでいきますから、それとともに演奏会も死んでいくかもしれない。ネット社会がそれを急速に後押しするかもしれない。それを救うのが、演奏家の磁力とでも呼ぶべきものです。

 

(13)未来

若い方々が僕のショルティ体験のような味を覚え、もっと体験したくなり、もっと会場へ足を運ぶ。解決法はそれしかないと思うのです。それはネット社会が、ネットビジネスが、どう頑張ったところで浸食も淘汰も出来ない、人間の精神活動の最も高貴で深い部分だからです。今の若い方々は、むしろそういう体験を我々の世代よりも必要とし、強く求めておられるのではないかと思います。

拙文、愚考が50万も読まれたならそれもネット社会の変容の結果です。浸食されるばかりでなく逆にそれを使ってクラシック音楽体験の素晴らしさを少しでも伝えること、これは誰かがやるべきですし、僕は大作曲家への「決して支払えない印税」のつもりでそれをやっていこうと決心しております。

 

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

 

 

 

 

 

男の脳と女の脳

2015 DEC 22 0:00:36 am by 東 賢太郎

男という動物には生来に分類癖があるのであって、全部の男にあるとは思わないが、女にはあまり見られないからやっぱり男の属性の一部なのではないかと考えてしまう。何かを集めてしまう癖は、収集家、コレクターなどとお品良く呼ばれることもあるが、要は収集狂、マニア、オタクに他ならない。

収集というのは、実はまず分類がないといけない。トンボの標本を作ろうというのにオニヤンマとギンヤンマのちがいを正確に把握できていないということは、全くあり得ないことなのである。どんなに小さな差異でも見のがさず、それも個体差ではなく最大公約数として種としてちがうのだということでAがBと異なるトンボだと「分類」する。収集とはその結果を、トンボの遺体を箱の中にピンで差して留める行為にすぎない。それが人間であればこのようなことになるわけだ。

ロンドンの自然史博物館(Natural History Museum)は、その収集という行為の国家的集大成である。大英博物館(The British Museum )は他国からの略奪物、戦利品の壮大な展示館だが、ここでも分類という男性的ノウハウが存分に発揮されている。漢方薬は数千年にわたる人体実験に基づいた植物の生理学的効能の分類の集大成である。すべての科学(science)が分類、収集という脳細胞の働きを起因として発展してきたといって恐らく過言ではないだろう。分類は法則や理屈、理論の母である。

だから実験結果をごまかして自分の欲しい結論にジャンプしたり、コピペで論文査定をちょろまかして結果オーライを勝ち取ろうという精神は、「分類」の精神にのっけから根本原理もろとも抵触するのであり、その抵触を厭わず気持ちが悪いとも思わないというシンプルな事実ひとつをもってしても、それが詐欺的な行為か否かを論ずる以前に、サイエンスを語ったり研究したりするには最も不適格な脳細胞の持ち主であることを証明しているという確実無比な結論に至ることになるのである。

去年こういうブログを書いた。

クラシック徒然草-どうして女性のオーディオマニアがいないのか?-

書いたことをさらに進めると、女性には何であれ真の意味における収集狂がいないのではないかと思うようになった。リカちゃん人形を千体も集めて悦に入ってる女の子というのはちょっと不気味だが、いたとしても分類の結果というよりもキレい、カワイイの集大成ではないか。LPレコードやCDを1万枚も集めるのも不気味かもしれないが、僕はその1枚1枚がどう違っているかを明瞭な言語によって説明できるのだ。つまりそれは言語なきところに存立不可能である「分類」という行為から来ているのであって、たくさんあるのを眺めて言葉もなく悦に入る行為とは一線を画している。

mandara京都の東寺に弘法大師がしつらえた立体曼荼羅というのがある。仏像がたくさんあって、その数だけ有難味が増すという単純なものではなく配置が厳密に決まっている(右)。一体一体の役割が分類されている上に、空間配置として認識させる。ただ有難や有難やと拝むだけの脳細胞とは異なるものを空海は持っていた。せっかく嵯峨天皇に取入って気に入られ京都で重職についたのに、真言密教の宇宙の真理を悟り広めるために高野山の山奥に引っ越して引退してしまう。現世欲まるだしの恥ずかしい「コピペで論文査定をちょろまかして結果オーライを勝ち取ろうという精神」とは北極と南極、いや銀河系とアンドロメダ大星雲ほどちがう精神を見るのである。

先日ベトナムはハノイで訪ねたお寺でこういうものを見た。

vietnam

これが立体曼荼羅かどうかは知らないが配置に秩序があるそうだ。空海が行ったとは思わないので分類、空間配置という空海と共通した脳を持つ人による作業の結末なのだろう。この分類、空間配置こそ、大英博物館、自然史博物館を成さしめた脳細胞の働きに他ならない。

これが男性固有の分類脳という公約数の帰結だと書いたらセクハラで訴えられるのだろうか?女性読者には何卒お許しを願いたいが、このことは大作曲家や大数学者や大天文学者や大発明家や大哲学者に女性がいない(有意に少ない)ことと関係があるのかもしれない。精密な分類が得意でないのに数学や物理には強いという状況が想定しにくいことは感覚的にも理解しやすいのではないだろうか。

たとえば作曲というのは、12音音楽のセリー(順列なる数学的秩序が支配)という可能性を切り詰めた特殊な場合でさえも、2番目の音の選択肢は11個、3番目は10個ある。すなわち音の長さを度外視しても{12×11×10×・・・×2×1}個のサンプルを作り得て、その中から{(12×11×10×・・・×2×1)-1}個を捨て去る作業である。この作業は分類以外の何ものでもない。

「美しいメロディをつくる」とは女性的なイメージを伴うし、たしかにそこに繊細な感性は必要ではあるが、それ以前に音を分類して選び取る能力、つまり数学、物理のファンダメンタルでもある能力が必要だ。J.S.バッハの作曲にそれは顕著でありベートーベンやブラームスの主題労作の過程にも現れている。楽譜とはピッチを周波数変換することで数値のみで書くこともできる。絵画や小説とは異なり、理系的な要素を多分に含む。それを書くことも解析して読み取ることも男性の脳が得意とする領域の作業だ。

こうした作業が男の専有物であるかもしれないと考えるのは、能力においてどっちがまさるという次元の話とは全く無縁である。というのは、分類癖がないほうが望ましい作業というのが存在するからである。その最たるものが育児だ。子供は分類してはいけない。何人いても等しく愛情を注ぎ、序列はなく、夜中に泣きわめこうと何しようとそのことで遠ざけられたりはしない。

これを母性本能と呼ぶのは正鵠を得ており、その大家である男はいないか有意に少ないと思われる。本能(instinct)というからには動物にもあるのであり、動物の父親は母子と行動しない場合もあるから父性本能とはきいたことがないし、あったとしても人間特有の社会性から生まれていよう。一般化はしないが僕を含む一部の男は泣き叫ぶ赤子には無力であり、泣く子と地頭には・・・という諺を生む。分類したり理屈をこねたりしない女性の脳だけが子をやさしく包み込み、安心させなだめることができる。

そして我々男どもも、女性から生まれ、泣き叫んでも温かく包み込んでもらったのである。音楽を書くのは男でも、多くの男はそれを女のために書いている。

 

(追記、13 June17)

幼児の脳に、秩序はまだない(おそらく)。男は仕事で飲んだりしてふらふらになって帰宅して、家の中が無秩序でめちゃくちゃになっているのに耐えられない。たとえそれが幼い我が子の脳から出たものであっても。

幼児期に電車のおもちゃを部屋中に広げ、敷居をまたいで線路を台所や隣の部屋まで敷きつめるのが日課であった。お袋は「足の踏み場もないわね」といいつつ一度としてそれを咎めたことはなく、夕餉のころになると、「早く片付けなさい、そろそろ帰ってくるわよ」と親父の逆鱗にふれない目くばせをしていた。

思えばこういうことで、電車を微細に分類しつつもオタクに徹することなく、国境をまたいで世界に飛び出していく脳になった。長じて親父が怒った気持ちもわかるようになったが、守ってくれ、のびのびと好きなことをさせてくれたお袋の母性にかなうものはない。その作品が自分だと強く感じるようになった。

 

(こちらへどうぞ)

「女性はソクラテスより強いかもしれない」という一考察

 

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

ワルシャワ室内歌劇場の「フィガロの結婚」への一考察

2015 OCT 18 1:01:30 am by 東 賢太郎

今日は先日の魔笛をきいたワルシャワ室内歌劇場の「フィガロの結婚」でした。場所はオーチャードホール、席は1回中央25列目でした。

魔笛もそうでしたが、ヨーロッパの地方オペラハウスの普段着の演奏という風情であり、コマーシャリズムの毒に染まってないモーツァルトを聴けるのは心からの喜びであります。クラシック音楽の本当の喜びは音楽、楽譜に詰まっているのであって、スター歌手やヴィルトゥオーゾ・ピアニストのお出ましを願わなくとも充分です。

妙な例えにはなりますが、蕎麦通によると蕎麦屋は「もり」で味がわかるそうです。もりがだめなら何を食べてもだめ。ところが蕎麦屋の経営側からすると、もりだけではやっていけず「天ぷらそば」や「なべやきうどん」を食べてもらいたい。つまりトッピングで利益が出るのです。これがクラシック音楽の現状をわかりやすく示唆しているということをご説明します。

現代の蕎麦屋は大変な矛盾をかかえています。

人口一人あたりでいうと、蕎麦屋の数は江戸時代の江戸には今の東京の10倍もありました。国民的ファストフードであって、安くておいしい「もり」と「かけ」を主食のように毎日食べる人が多くいたので薄利でも経営がなりたっていたと思われます。江戸前の鮨も当時は同じく安価なファストフードであったのですが、ネタに付加価値を見つけて現代では3万円も取ったりする。蕎麦はそれができないのです。

現代の蕎麦は主食でも国民食でもなく、好きなほうである僕も週に1,2度蕎麦屋ののれんをくぐるかどうか、そして注文はもりと玉子と冷酒ぐらいでせいぜい単価は2千円です。これだけ客数が減って単価を上げないと経営にはならないにもかかわらず。つまり蕎麦通はちっとも儲けさせてくれず、蕎麦の味のわからない人をトッピングでたくさん呼び込まないとつぶれてしまうのです。しかし肝心の蕎麦に舌鼓を打たない客はリピーターにはなりにくい。そうして、その結果として蕎麦屋が減って困っているのは蕎麦好きの人たちなのです。

クラシックの世界でいいますと、カラヤン、バーンスタイン、カラス、ドミンゴ、ホロヴィッツらの巨匠たちは申し分ないトッピングとしてレコード産業が演出した「名演奏家の時代」を飾ったのであり、フルトヴェングラーはその時代には間に合わなかったが、時がたつほど味がでる(とされる)ヴィンテージワインなのだとしてトッピング(いや天ぷら)の付加価値を高めることに使われたのでした。

クラシック音楽産業はいま完全に蕎麦屋のジレンマに瀕しています。ワルシャワ歌劇場のモーツァルトは通に本源的な音楽の喜びを与えてくれるに不足はありません。立派な老舗の蕎麦屋なのですが天ぷらやなべやきは供さない。素人にはそっけないもりそばだけと思われてしまう。誰もそう宣伝しないからです。

メットやスカラ座が引っ越し公演で来日すると豪華で著名なキャストにゴージャスな舞台と演出、そして御用評論家の美辞麗句でハレの華やぎが演出されます。同じフィガロなのに、ワルシャワのS席1万5千円がメットなら5万円で売れる。差額の3万5千円で食ってる人がたくさんいるということです。喜びの源はモーツァルトのスコアなのに!

この関係がもりそばと天ぷらそばの関係でなくてなんでしょう?ワルシャワの歌手たちは確かに技術も華も超一流ではないが、なんら不足のない演奏を聴かせてくれる。それがどうしたというんだろう?天ぷらが食いたいならミュージカルや宝塚など、いくらもある天ぷら屋に行けばいいのです。

どうしてそうなるかというと、旧東欧圏はペレストロイカ後も西欧の生活水準には追いつけていません。ベルリンの壁がなくなったといっても西の人間が特に東に住みたいということはない。ポーランドがGDPで欧州上位に登るということはなく、たぶん今後もないでしょう。

だから東欧の音楽家やオペラハウスはコストをかけずに呼べるという構図が背景にあります。トッピングにカネをかけないもりそばだから舞台は簡素だしスター歌手もいない。しかし、そんなものはなくともモーツァルトの音楽は光り輝くのです。

その良さを愛でられる人が「通」だというのも妙なことで、それがなければ音楽の喜びなどそもそもないのであって、妙な権威主義的音楽教育と、トッピングに利益を見出した英米の音楽産業マフィアの戦略で作曲家の偉業をだしに金儲けする輩が音楽鑑賞の本質をゆがめてしまった。音楽好きには由々しきことが起きているのです。

NAXOSという香港のレーベルが廉価で比較的良質なCDを販売し始めたのが90年代前半で、トッピングの見せかけの付加価値で利益を食んでいたメジャーレーベルの売上が激減を始めました。これは当たり前に良い音楽を当たり前の価格で津々浦々に送り届けるという革命で、音楽にとってはプラスの事態でした。

ところがそのNAXOSもレアなレパートリー供給で企業として延命しましたが、すでに飽和感が出ている。なぜならネットの無料音源配信の勃興には勝ちようがないからです。それはそれで悪いことではなく、さらに音楽が広まって真の音楽好きが増えるはずなのですが、世の中は理屈通りに動きません。タダのものは所詮タダなりの価値しかなく、駅で流れる発車メロディ程度の扱いで馬耳東風に聞き流せばよいという位置づけになってきているのかもしれません。

ワルシャワ室内歌劇場は音楽好きにはこたえられない珠玉の存在であって、これの良さが値段が安いだけでは世も末です。このまま時代が進めば真の音楽好きは減っていくでしょう。これは日本だけではない。ドイツですら劇場は年寄りが目立ったし、若年層がどれだけクラシックに金を使ってくれるかという観点でいうなら日本と同じく危機的です。メジャーなレコードレーベルはみなユニバーサルに買われてしまったし、クラシック専門誌の経営は破たんしつつあり、とどのつまりは音楽家の生活にだってひびいてくる。演奏家のインセンティブやクオリティが下がれば、我々はいいモーツァルトが聴けなくなるのです。

これはトッピングに利益を見出した英米の音楽産業マフィアのまいた悪しき種であり、「名演奏家の演奏でなければ価値がない」と洗脳されてしまった聴衆が真の音楽を聴く耳を放棄してしまった結果なのです。「名演奏家の時代」を飾った名演奏家がみな死んでしまい、次世代を生み出そうにもネットの無料演奏でいいやという聴衆を洗脳して高い入場料やCDを買わせようという戦略がワークしなくなったのです。それを喜んで買ってくれるのはウィーンフィルやスカラ座を三ッ星のフレンチレストランと同じ基準で考える人たちばかりになりつつあります。

僕が音楽ブログを書く原動力は、何度も申しましたが、音楽の価値はトッピングにあるのではなく、作曲家の書いた楽譜にあるのだということを分かって下さる人を増やしたいから、それだけです。それは演奏家の才能や努力を軽視することではなく、そういう聴衆が増えてこそ演奏家の真の価値も正しく認識されるのです。そして、それこそ音楽産業も繁栄できる道なのです。聴衆こそが彼らの唯一の顧客なのですから。

ということでコンサート評からだいぶそれてしまいましたが、今日も充分に楽しませてもらいました。ちなみに今回の指揮者ルペン・シルヴァは06年来日時に後宮、魔笛、レクイエムを振って堪能させてくれたのは忘れません。帰りに上野駅でドン・ジョバンニを熱演してくれたクリムチャックら歌手の一行が山手線に乗ってきて、ひとしきりがやがやとやって池袋で降りていった。この庶民性もなんとも好きになりましたね。

これがご当地ワルシャワの劇場です。何千人も客を呼んで儲けようなどという商魂とは無縁なサイズの劇場。くだらない自己顕示に満ちた現代風演出など目もくれないオリジナルで古典的なステージ、ワーグナー時代のステージ下のオーケストラピット、心から楽曲を楽しんでいる聴衆。これぞヨーロッパのまことの音楽原風景であり、資本主義に芯までは毒されていない東欧にこそ古き良きものが残っているのです。

別に押し売りする気はありません。これは質素すぎてもの足りない、やっぱりメットやスカラのゴージャスさが好きという方もおられるでしょう。それは出し物にもよるし、僕がイタリア物を好まないのもあるでしょう。しかし、そうではあっても、モーツァルトの喜びを知らないで音楽を聴くというのも寂しいものだと思います。だから、本稿で縷々述べてきたことですが、現在の音楽界の危機的状況には自分なりに何かできないかと強く思っております。

僕にできることはブログで一切の虚飾なく、 クラシック音楽の虚構をぶち壊そう の精神で、自分の耳で聴いたものを忠実にわかりやすく文字にしてお伝えするのみです。音楽界の誰とも利害関係はありませんから、良い物は良い、だめなものはだめとストレートに書くのみです。僕が50年楽しんできてこういうものと思っているクラシック音楽がどういうものなのか自分では評価できませんが、少なくとも僕にとって良い音楽はどういうものであるか、それだけでもお伝えできれば何かしたことにはなろう、勝手ですがそう思っております。

 

(追記、16年1月23日)

ピアニストでもそういうことがあります。オルガ・ルシナ(Olga Rusina、1955—2013)という素晴らしいロシア-ポーランドの女流を僕はyoutubeで知ったのですが、なんと英語情報が皆無なのですね。彼女は教職にあったためメジャーレーベルのアンテナから漏れたのでしょうか、「西側」(もはや古語だが)に知られぬままでした。ワルシャワ室内歌劇場と似た立ち位置にあったわけですが、本当に上質の演奏家です。

誰でも知ってる「乙女の祈り」です。ポーランドの女流作曲家テクラ・バダジェフスカの作品ですが、このなんのことない旋律と左手のテンポ・ルバート!ショパンが右手は(ルバートしても)いいが左手はするなと言ったお手本がここにあります。

ショパンのアンダンテ・スピナート(作品22)です。澄んだ秋空のような右手が実に素晴らしい。彼女のショパンは座右に置きたいです。

(こちらもどうぞ)

ショパン バラード1番ト短調作品23

ラヴェル 「夜のガスパール」

 

 

 

 
Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

ハンヌ・リントゥのリハーサルを聴いて(シベリウス雑感)

2015 OCT 7 1:01:31 am by 東 賢太郎

ここずっと仕事のせいもあり歌舞伎に気が行っているせいもあり、野球が例年になく盛り上がっているせいもあったりして、どうもクラシックにはご無沙汰の日々でありました。

夏がまた例年より暑かったし台風もひときわ強烈であって、どうもそのような熱帯性気候というものがこれまたクラシックに似合わないんですね。スイスから香港に転勤した頃もクラシックがすっかりになってしまいましたが、音楽をきこうという気分は気候風土と関係が深いように思います。

10月になると、しかし、世の中の方が待ってくれません。だいぶ前に買ってあったハンヌ・リントゥ指揮のシベリウス・シリーズが楽しみになってきました。その初日が明日だったのですが困ったことにサントリーホールのウィーンフィルが重なってしまいました。さらに困ったのは、明日にセリーグのCS出場を決める天王山の広島・中日戦まで重なってしまいました。

lintuご招待であるので息子を連れてウィーンフィルに行くことにしましたがシベリウスは幸いに、今日すみだトリフォニーホールにて初日のプロの公開リハーサルがありさわりを聴くことができました。2番と4番でしたが、フィンランド放送交響楽団首席指揮者のリントゥ氏と新日本フィルが音楽を生んでいく様はインスピレーションに満ちており楽しみました。

しばしの音楽の空白期間をおいて耳にするシベリウスは心に沁みました。彼の音楽は決して自然そのままを描写したものではないですが、古代からおそらくすべての人間が本源的に懐いてきたであろう自然への畏怖、畏敬、讃美のようなものを感じます。そしてその感情の中に人間の儚さ、弱さ、そして、生きようとする者の強さを投影させているようです。どこか魂をストレートに揺さぶってくるものがあります。

ということですから、どこの国でもモーツァルトやベートーベンのように受けいられていそうなものですが、それがそうではなく、やはり北欧という民族色の中に置かれているようです。僕の滞在中のおつき合いで感じた範囲でも独仏伊でシベリウスが特に普遍的に愛好される様子はなく、なぜか英国だけでは深く受容されているようでした。ところが、新田ユリ 日本シベリウス協会会長がyoutubeの日本記者クラブで発言されていますが、フィンランドのオケ団員いわく日本人は特にシベリウスに共感をもって聴いてくれるそうで、「理解する」というよりも「わかる」というほうが近いとのことです。これはどうしてだろう?

自分でもそういう感覚があります。たとえば交響曲第2番はドイツの音楽と同じスタンスで聴ける名曲ですが、それでも第2、第3楽章には非ドイツ的でシベリウス的としか表現できない特別なことばで語られた部分があります。しかしそれはフィンランド人しかわからないことばでは決してなく、冒頭に「音楽は気候風土と関係が深い」と書きましたがシベリウスはきっとユニバーサルなものをエッセンスとして強く持っているのだと思います。

リハーサルで取り上げていた曲をということになりますが、次はドイツやイタリアの音楽からすると同じスタンスではわかりにくい部類の交響曲第4番です。おそらく初めてきいた方は2番ほどは好きになりにくいのではないでしょうか。それは2番では一部だけを占めていたシベリウス的なことばが4番ではほぼ全編にわたって語られているからです。つまり彼は語りたいことだけを一切の虚飾も妥協もなく語っているわけです。

これを作曲した当時シベリウスは原因不明の腫瘍ができて病をわずらい、家庭も財政的に苦境にありました。ひとりの男として、大変に孤独だったのだろうと想像します。60年間決して平坦な人生を生きてきたわけでもない僕も、今の自分よりずっと若い時期にこれを書くに至ったシベリウスの心の風景がわからないでもありません。しかしそういう出自の音楽であるにもかかわらず、4番は僕に苦境の痛みを思い出させるわけではなく自然な慰撫を与えてくれるのです。心の同期とはへたな慰めよりも響くのです。

これは悩んで病んで疲れてしまった人の音楽ではなく、生きようとする強さ、強い意志を秘めています。それを心の耳で聴きとった人にとっては、人生の伴侶となる交響曲なのです。

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

クラシック音楽が断食状態にある理由

2015 AUG 30 11:11:53 am by 東 賢太郎

8月7日にブラームスのヴァイオリンソナタ1番を書いてから音楽ブログがご無沙汰になっております。あれも少し前に書いた原稿があったのであって、かれこれ1か月はクラシックは聴いてもいないでしょう。唯一、ねこ(ノイ)をグランドピアノにのっけると喜ぶので悲愴ソナタの第2楽章を弾いた、それだけ。去年もミクロネシアに行って深く感じるところがあり、帰ってからそういう状態になりましたが、今回はもっと強くそういうことになっております。

というのは今月12~15日の京都、安土、近江八幡、長浜の旅で、なにか不明のハイボルテージのチャージを受けてしまったからです。いま本業の方がいろいろあって大きな決断をしていく時期にあります。そこにそれが入って来たもんですから頭が他のことになかなか切り替わりません。こういう戦さモードの時は音楽というスイッチがすっかりオフになってしまうようで、クラシック音楽断食状態であります。

高校でも野球をしながらクラシックもするという変わり種でしたが、思えば試合の前日などはやはり音楽どころではなかったのです。中島さんが「中田投手のローテ変更」について書かれていますが、練習試合ぐらいでも先発となると前々日ぐらいから僕は気になってテンションが上がってました。そういう精神状態にワルキューレの騎行なんか良さげですが、あれだって聴いちゃうと戦えないです。曲の向き不向きじゃなくて、音楽を聴いたりやったりという脳の部分が運動系の部分とは縁遠いのかもと思ってしまいます。

じゃあ軍歌は何だ、マーチは何だ、甲子園のブラバンは何だというと、第一に行進の拍節を刻むもので第二に条件反射を促すものでしょう。あれが聞こえたら自律的に突撃!となる。パブロフの犬のベルと一緒で、だから音楽である必要はないし音楽でも単純な方がいいんです。ヒトラーはワーグナーをプロパンガンダに使いましたが間違えましたね。曲が高級すぎて行くぞっ!とならないでしょう。

僕は突撃系の曲はまったく好まないので、気分が突撃モードである今はなかなかブログを書き起こそうという曲が在りません。書きたい曲はまだまだたくさんありますが、作曲家に失礼だからそういう時に生半可なものを書かないのがポリシーです。いままでブログにした曲はみな、その時点でそれなりに「深いつき合い」「蜜月」の状態にあったものばかりなのです。

どうしてそういうモードになってしまったかというと、前から強い興味があったのにその原点である原典をよく知らないものに出会ってしまい、必然的にその「原典」に近寄ってみようという方向に気持ちが行ってしまっているからです。それを掻き立てられたのが京都、安土、近江八幡、長浜の土地が発する「気」だったということです。

前回、史跡をめぐる興味は地面に根ざしている小説は読まないその場所に立って歩いて自分の脳が感じるものだけを大事にすると申しました。それが僕の歴史を味わうポリシーです。そしてそれは、クラシックを聴くのに誰かの演奏ではなく自分で楽譜を見て読み取ったものだけを大事にするポリシーと同根であります。第九を味わうのにカラヤンがどうのベームがどうのとは、太閤秀吉を知るのに司馬遼太郎か吉川英治かっていう程度の話で、どっちでも結構ですがたぶんどっちも事実と違うでしょう。

京都、安土、近江八幡、竹生島の地に立って僕は信長の自分なりの姿、声、顔かたちの像、イメージができつつあるように感じています。まったく同様にウィーンではモーツァルトの、ローマではカエサルの像が、これはすでにできています。自分の頭の中に生き生きとした彼らの像(イデア)があって、他人の空想によるカリカチュアにすぎない小説やら映画やらはそれらを壊すので危険であります。映画アマデウスは像がもう何者にも影響されないほど固まるまで10年は見ませんでした。

「イデア」と書きましたが、いうまでもなくプラトンのイデア論のideaです。「円」や「二等辺三角形」という完璧なものはこの世になく、皆その「似姿」を知っているだけ。本物はあの世にあって、皆生まれる前にそれを知っているのに生まれると忘れてしまう。それを思い出すのが「学習」であり、フィロソフィア(philosophia)=phil(愛する)+sophia(知恵)はイデアを追求することで「死ぬ練習」だとする。そう勤めることが「人生をよく生きる」ことなのです。

というと何だか恐ろしげですが、プラトンは「輪廻(魂は不滅)」と言ってるので、あの世でまたイデアを見てまた生まれてきて忘れる、その永遠のくり返しということです。西洋人は意識下にこの考えの影響があって「美」「善」「正義」とはなんぞや?など、日本人はやらないことをやる。イデアの探求ですね。それは明治時代にフィロソフィアに哲学と意味不明の訳語をあてて以来いまだに日本人一般にはわけがわからんものでしょう。

僕がモーツァルトやカエサルや信長の像を求めている、あるいはベートーベンの第九交響曲の楽譜から原像を知りたいと思っているのは「イデア」を求めているのだと思ったのは、プラトンを知ったためではなく、プラトンは多少読んでいたのですがずっとあとから同じことかなあと思ったにすぎません。別に難しいことではなく、それが「人生をよく生きる」ことならいいじゃないかと実践しているだけです。

だから僕は音楽家の事績はその像から判断し想像しています。僕のイメージするモーツァルトはこういう曲は書かないな、偽作だなという風にです。この音型が何回出てくるとか和声連結がどうだとかいう些末な、多少の蓋然性ともっともらしさはあっても確たる証拠能力には欠ける推定材料よりも人間像から直感するパワーの方が強いのではないかと経験的にですが考えております。刑事コロンボが「初めて現場を見ましてね、やったのはあなたしかないと思ったんですよ」っていうあれですね。

つまり人間像と楽譜です。それしかその人の音楽を知る直接的な手掛かりはありません。その結果として今度はジュピター交響曲はこういうものだ、こうあって欲しいという作品の像が生まれてきます。もし僕が指揮者ならそれをオーケストラに音にしていただくというプロセスが続くのでしょう。それができないのでレコードやCDを買ってきて、それに近いのを探す。ところがなかなか見つからないんです。あれもだめこれもだめ、そうやって1万枚もたまってしまいました。だから僕は収集家なんかではぜんぜんなく、昔の**を捨てられないタイプなだけです。

今はそれが音楽家ではなく、信長、秀吉といった戦国大名の番であり、それを知ることがやはり今僕が直面しているビジネス上の意思決定の羅針盤になる、そう確信したのです。高校時代の「試合の前日」みたいなメンタルな音楽断食状態であり、こういう時にモーツァルトを聞いてもまったく心に響いてこないのです。

京都に行く前にラヴェルの「水の戯れ」を書いて既にブログができてるのですが、そういうことで今はそれを上梓するモードにありません。あまり良くもなくて、そのうち少し手を加えて出せるのではと思いますが、しばし時間を頂きたく存じます。

 
Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

クラシック徒然草-ブラームスを聴こう-

2015 MAR 22 11:11:33 am by 東 賢太郎

音楽をきいて昔のことを思いだすというのはよくいわれる。それは小説でも絵でもあるから特別なことではないが、音楽は特にその力が強いように思う。といっても、若い頃によくきいていた曲というのが年をとってみて自分の中でどんな風になるかというのは当の若い人にはわからないのだからそれを分かりやすく説明する必要があろう。

結論から先に明かせば、音楽はタイムマシンであり回春剤でもある。「あの頃」を思い出すどころではない、「あの頃の自分」に戻ってしまう。だから元気になりたければ簡単だ、一番元気だった時によくきいた音楽をきけばいいのだ。

我々は視覚に頼って世界や時間を認識しているように思っているが、実は聴覚や嗅覚にも大きく依存している。鼻をつまんで食べるとカレーの味がわからない(本当だ!)。味は舌だけで感じるのではなく鼻腔でも感じていて、むしろ嗅覚こそ微妙な「味わい」を作っている。

触覚も大事だ。雪というのは物質としては水でありH2Oだ。それを我々は白い色の冷たいふわふわの触感で水とは別物と認識している。「白」「冷」「ふわふわ」というタグが付くと我々の頭の中で水は雪というものになる。同じことだ。過去という時間に「音楽」のタグが付くと、それは思い出や経験や郷愁とか呼ぶものになったりもするのだ。

音楽の威力だなと感心するのは、当時を思い出すだけではない、その頃の心境やマインドセット(心の持ちよう)まで手に取るように浮かんでくることだ。ハートまでタイムスリップするといってもいい。

アルバムで中学時代の学校や修学旅行の写真を見てみよう。それだけでは思い出さないことが校歌を口ずさんでみると蘇った経験はないだろうか。景色ではなく当時の気持ちや感情や恋心や先生の声や教室のにおいまで。

それは当時目にした情景からだけでは必ずしも蘇らない。視覚情報というのは食べ物でいえば舌の情報で甘味、辛味、塩味、酸味のようなものだ。嗅覚まで含めて味の記憶は成り立っているとすれば香りを蘇生させてくれるのは音楽ではないかと思う。

今僕は60才になって昔の自分を意識するようになっている。たとえば身体能力だ。記憶力、根気、体の柔軟性、酒の強さ、諸欲、未知の事へのチャレンジ精神など。結論として、何一つ30代の自分にはかなわない。それを言うと多くの同世代は、それ言っちゃ終わりだろ、判断力や経験値は今の方が上だよという。

そうだろうか?判断力や経験値なんてあったって実行しなければ意味がない。でも実行力は結局は身体能力がものをいうのだ。今の僕が30代の自分と変わらないのは家族と猫と音楽と広島カープへの愛情ぐらいのもので、それ以外は全滅の敗北だ。カラ元気は役に立たない。現実を直視しないで何かやってもうまくいかないのだ。

だから少なくとも気持ちぐらいでいいから30代に戻りたい。そういう時に力をくれるのは、30代、まさに自分が心身ともに最もパワフルだった頃に聴いていた音楽、モーツァルト、ベートーベンとブラームスなのだ。それがドラえもんのタイムマシンのように、僕をあの頃の夢、心境、ヤル気、自信、諸欲、すべてのものを持った自分に連れ戻してくれる。

あの最盛期にモーツァルト、ベートーベンとブラームス!この僥倖は僕の人生を左右したといってまったく過言でない。だって音楽自体もべらぼうに強いのだ。

これから人生の最盛期を迎える20代、30代の人たちにクラシック音楽を聴きなさいとお薦めするなら、これほどに雄弁な理由はない。そうすれば皆さんは60才になって、世の中でも最もパワフルな音楽をBGMとして「あの頃」を思い出す贅沢を手に入れられるのだ。これがいかに自分を鼓舞し、力と希望をくれるか!

今は仕事がそういう自分を求めている。そこで、最近聞いてもあまりピンと来ていなかったブラームスだがこちらから近寄っている。必要だからだ。有難いことに、そういう風向きで聴いたブラームスが今度は発汗作用をもたらして、あたかもそれが自然に求めたものであるかのように感じている。こうやってタイムマシンの回春効果がやってくる。

ブラームスの4つの交響曲やすべての協奏曲や管弦楽曲や室内楽というのは、僕にとってBGMで流して本を読んだりビジネスプランを練ったりして頭や耳は全然聞いていないのにノドだけは音楽に合わせて勝手にバスを歌っているという領域に至っている、いわば血肉になってしまっているものだ。

米国の金融誌Institutional Investor社のオーナー、ギルバート・キャプラン氏(Gilbert Kaplan )はマーラー・フリーク、というより第2番「復活」フリークで、ついにウィーン・フィルを指揮して同曲の録音までしてしまったが、もし自分がそんなことができるならやっぱりブラームスの4番なんだろうなと思う。

40代を過ぎた人も希望がある。これを書いたブラームスは50代だったのだ。音楽を聴くのに遅いということなんて全然ない。むしろこういうものを知らないで死んでしまう人がいるとすればそれは人生の一大損失であると声を大にして言おう

それを人生の糧に生きてきた僕がいささかなりとも伝道師の役目を負うことが許されるならブラームスに対するプライベートな恩義を果たせると思っているし、やるならば記憶がしっかりしているうちに書かなくてはいけない。

僕の自宅の地下室にあるリスニングルームとオーディオ機器はブラームスをベストに再生するために10年前にあつらえたものだ。そのために相当な時間と労力とコストを費やした。それが僕のブラームスに対する敬意であり、何よりも、その音楽がそれに値するからだ。

4番の終楽章主題がバッハのカンタータ150番から来たと楽譜をお示ししても役には立たないだろう。ブラームス作品は細部に立ち入ると別種の関心から全体がわからなくなる。モーツァルトにはそういうことはないし、ベートーベンはそれが理解の助けにはなるが、ブラームスはそのどっちでもない。

ということで、ここは至極単純に、様々なCD、LPに残された演奏を例に引きながら、それをたたき台にして各曲の良さや個性を僕なりの視点でご説明してみたい

どれがベストであるかというような試みに意味はない。そうやって多面的な姿を味わうことがクラシック音楽の楽みであり、ブラームスも例外ではないということだ。ただ、ビギナーにとって『最初に覚える演奏』の記憶は意外にその後の影響が大きいというのが僕の経験だ。

そこで、各録音へのコメントの末尾に「総合点」として5段階の点数をつけた。僕がその曲を初めて聴くならこれがよかったなと思うCDが5点、そうでないのが1点だ。世間がお楽しみでやっている「名演」とか「ベスト盤」という意味合いではない。

くりかえし聴いて頭に刷り込むに値する演奏であって、それをベンチマークにすればその他の演奏の特色がよくわかるという演奏だ。つまり作曲家の意図(ほぼスコアと同義)をよく体現し、のみならず音楽的インパクトも強いという演奏だ。あえて言うなら、僕にとってそういうもの以外に名演はありえないと思っているのは事実だが。

30代の頃、いつの日かもっと大人になったらブラームスの4番を渋く味わえる苦み走った男になりたいと夢想していた。そうしてその2倍の60才になって今それを聴きながら思うことは、何のことはない、そう思っていた30代に戻りたいということなのだ。

まずは春にふさわしい第2交響曲からスタートしたい。卒業、入学、進学、入社、桜の咲く時期にこんなにぴったりの音楽もないだろう。一気には書けないが、すこしづつ思い出のLP、CDを思い起こして、それをプリズムとして僕の曲への想いを書いていきたい。

 

ブラームス交響曲第2番に挑戦

 

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クラシック徒然草-音楽の好き嫌い-

2015 MAR 20 9:09:35 am by 東 賢太郎

人間何ごとも好みというものがございます。食べ物、酒、色、車、服装、異性、ペットなどなど。愛猫家の僕ですが、どんなひどい猫でも犬より上という事はあっても猫なら何でもいいということでもなくて、やっぱり順番はあります。

はっきり「嫌い」というのがあるので音楽は僕の中では好悪がはっきりしているジャンルに入りますが、不思議なものでクラシックファンで「私はモーツァルトが大好きです」という人はいても「**が大嫌いです」という人は会ったことがありません。

嫌いと無関心は違います。全然別物です。好きがプラスなら嫌いはマイナス、無関心はゼロです。ゼロは何倍してもゼロですから、クラシックは何を聞いても何も感じないという人はどの曲も好きにならないかわりに嫌いになる心配もご無用ということであり、逆にどの曲も嫌いにならない人はある曲だけ好きになることもないのが道理だろうと思うのですが。

食べ物の場合は「何でもOKです」ということだってあるし、親がそうなるように教育もします。食べないと死んでしまうのだから全部が無関心ということはまずあり得ません。しかし聞かないと死ぬわけでもないクラシックは、幼時から聞いて育つわけでもない場合が多い日本人にとっては無関心か食わず嫌いがスタートというのは当然です。

それがある日突然に全部好きですなんてことは異様であって、一度フランス料理を食べたらフォワグラから羊の脳みそまで一気に好きになっちゃったなんて、そんな頑張る必要はぜんぜんないのです。「ほとんど全部眠いですが第9の第4楽章だけは感動します」、そういうのがきわめて真っ当、普通です。

僕の場合は縷々書いてきた曲は「もの凄く好き」ということなのでプラスが大きい、だから正反対のことでマイナスが大きい曲だってちゃんとありますし、それが自然体鑑賞法の自然な帰結なんじゃないでしょうか。クラシックと名がつけば全部名曲であって何でも好きですというのはホンマかいなと思ってしまうのです。

さらにいえば、あの退屈極まりない(僕にとってはほぼ拷問であった)音楽の授業で無理やり楽聖の名曲だと押しつけられる。だから日本人にとってクラシックを聴くということは教科書にあった曲は全部うやうやしく好きにならないといけない、そういう強迫観念で縛られているのかなと思ってしまいます。だとすると三島 由紀夫の指摘したとおり、日本のクラシック好きはマゾっぽいですね。

僕のように音楽の通信簿が2だった子がある日めざめて好きになる、すると当たり前ながらちゃんと嫌いな曲もたくさんあることが自分でわかってくる。それで君はクラシックが分かってないねなんて通の評価が下ってもSo what?(だからどうしたの?)ってことじゃないでしょうか。

僕は京料理が好きですがハモが苦手です。夏場はそれが売りだからどうしたって出てくるんですが僕はカウンターで抜いてくれという。変な顔をする店がありますがいい店の主人はかえって歓迎してくれますね。それでも京料理屋に来てるんだから見栄や酔狂でなく本当に好きなんだとわかってくれる、それで鮒ずしなんか頼むと完璧にわかってくれる。そういうもんだと思うのです。

音楽のハモにあたるものはこういうものです。

マーラーの6番というのは全クラシックの中でも最も嫌いな曲の一つで、あのティンパニのあほらしい滑稽大仰なリズム、おしまいの方で板とか酒樽みたいなのを鏡割りみたいにぶったたくハンマーは作曲家は大まじめに書いたり消したりしたらしいがまあどうでもいいわなとしか思えず、全曲にわたって音楽的エキスはなし、あんなのを1時間半も真面目な顔して聴く忍耐力はとてもございません。

チャールズ・アイヴズという米国の作曲家の和声に吐き気を催した(本当に)ことがあって、それ以来トラウマになって一度も聞いておりません。あれは一種のパニック障害の誘因になるのじゃないかと思い譜面を見るのも恐ろしく、それがどういう理由だったかは謎のままです。

メシアンのトゥーランガ・リラ交響曲に出てくるオンド・マルトノという電子楽器、あのお化けが出そうなグリッサンドは身の毛がよだつほど苦手です。結局あの曲を覚えるには勇気を奮ってライブを聴き、視覚的にそれが出てくる箇所をまず覚えて(見えると怖さが減る)、来るぞ来るぞ(いや、お化けが出るぞ出るぞだ)と心の準備をしながら10年以上の歳月を要しました。

ヴェルディはコヴェントガーデンやスカラ座でたくさん観たのですが、椿姫の前奏曲のあのズンチャッチャ、あれが始まるとああ勘弁してくれここは俺の居場所じゃないと家に帰りたくなってしまう。運命の力序曲のお涙頂戴メロディーなど退屈を通り越して苦痛であり早く終わってくれと願うしかありません。閉所恐怖症なので床屋も苦手で、ああいうつまらない曲でホールの座席にしばられると床屋状態になるのです。

パガニーニのコンチェルト、カプリース、およびリストの超絶技巧。ヴェルディのズンチャッチャよりは多少ましですが、この手の曲が不幸にして定期公演で舞台にかかってしまったりすると行くかどうか迷います。ましというのは、一応ソリストの技巧を見るという楽しみはあるからで、演奏家の方には非礼をお詫びしますが僕にとってその関心はボリショイ・サーカスや中国の雑技団を見るのとあまり変わらないです。

一歩進めてこれが演奏のほうに行くと、大嫌いなものは無数にあります。好ましいと思っている演奏家であっても曲によってはダメというのがあって、例えばカルロス・クライバーのブラームスは4番の方は実演であれほど感動したのに2番は到底受け入れ難い。リズムが前のめりで全然タメがない快楽追求型で、妙なブレーキがかかったり弦を急にあおったり、あんなのはブラームスと思わない。カイルベルト、ザンデルリンク、コンドラシンなどと比べると大人と子供です。

ティーレマンはサントリーホールで聴いたベートーベンは割と良かったのですが、ブラームス2番はだめですねえ。youtubeにあるドレスデン・シュターツカペレとのですが、オケはせっかくいい音を出していて第3楽章までは悪くない(クライバーよりいい)ですが、終楽章のコーダに至って100円ショップ並みに安っぽいアッチェレランドがかかってしまう。そこまでの感動がどっちらけですね。お子様向けです。

モーツァルトというとグレン・グールドのソナタとの相性の悪さについては既述ですが、同じほどひどいのにカラヤンの魔笛というのもあります。ベルリンPOのDG盤は多少はましですが古い方のウィーンPO盤。どうもカラヤン先生カン勘違いしてるなと思いつつ我慢して聴いていると、タミーノとパパゲーノが笛と鈴をもらう所で3人の童子が出てきますが、これがなんとヴィヴラートの乗った色気年増みたいな女声で実に薄気味悪く、もう耐えられず降参です。

演奏について書きだすときりがないのでこの辺にします。以上、嫌いなものオンパレードで皆さんがお好きなものが含まれていたら申しわけありませんが、もっとたくさんある好きなものの裏返しということで、これでハモの価値が下がるわけでもないということでご容赦いただきたく存じます。

(補遺、2月1日)

今日、ピエール・ブーレーズ追悼番組の録画を見ました。ノタシオン、レポンの映像は貴重です。03年東京公演のベルク、ウェーベルン(マーラーユーゲントO)の精緻な演奏は感涙ものです。しかし後半が蛇蝎のように嫌いなマーラー6番というのが残念。これが好きな方にご不快は承知の上で、よりによってこれはないだろう。神であるブーレーズが振れば大丈夫かと恐る恐る聴きましたが第1楽章でもう降参。消しました。

 

マーラー交響曲第6番イ短調(ついに聴く・読響定期)

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊