時の流れを何かで埋めたい
2017 JUL 23 17:17:42 pm by 東 賢太郎
6月のように深い海の底へ沈んでしまうと、心を解きほぐせるものがそうあるわけではないことを知る。押し寄せてくる時の流れを何かで埋めたいが、どんなことをしてみてもなじまないことがわかってくる。お悔やみも慰めも魂に響かない。お定まりの暇つぶしである映画や小説はもとからさっぱり関心がないし、音楽はというと、今度は効きすぎてかえって危ないかもしれない。
サンフランシスコに出向いたはいいが、よし蟹でも食うかとフィッシャーマンズ・ワーフに行ってみると、なんで俺は昔こんなつまらない卑俗な雑踏に感激してたんだろうと嫌悪感がわくばかりで困ってしまった。心がどうもネガティブにはね返ってコントロールが効かない、どうしようもない。
つかの間の救いはY君が連れていってくれたナパ・バレーのケンゾー・エステートだった。丘の葡萄畑を望むフランス風のテラス(右)がいかにも素敵だ。これで樹木がマロニエなら最高なのだが文句は言えない。こういう風情の所で食事とワインというのが昔から人生最も好きなことの一つであり、知らず知らず雰囲気に浸ってしまった。
もうひとつ、阿曾さんがチケットを譲ってくださった野村万作の出る能・狂言というのが有難かった(国立能楽堂)。オペラだったらお断りしたい心境だったが能は初めてという薬味が効き、橋弁慶、船弁慶、曽我兄弟など話は知っている演目なのも幸いした。楽の音も景観もまことに異形、異界だが、600年前も前の人の情念が今も変わらないのがどこか心地までよくて、ふと眠りに落ちたりしながらも魂に響くものがあった。信長、秀吉を捉えたものが生死隣り合わせの美だったかもしれないと思いながら観た。証券用語の仕手、前場、後場が能からきたとは知らなかったが、相場も死がすぐそこにある世界ではある。
未だ不案内だが右の書物には目から鱗の思いだ。死が隣り合わせの中世は神、精霊、幽霊に出会う場が能であった。免疫学者で東大医学部教授だった著者は「私は理系の人間で能を見るときもどこか分析的になってしまう。しかしその分析を超えたところで一種の発見があり、科学の発見と同じく能の中のどんな小さな発見も例えようのない喜びである」と書く。文系的な人の書いた能の本はすべからく理解不能で、わけわからん説明を読むほど苦痛なものはないからこの出会いは福音だ。「間の構造と発見」の稿(本書はエッセイ集である)、ピエール・ブーレーズのリズム分析さながらに邦楽の「間」が図解(スコア)で定義されよくわかった。読む方も喜びである。
そして今、僕のピアノには長らくシューマンのピアノコンチェルトが置いてある。この曲の第1楽章、アレグロ・アフェットゥオーソは「速く、愛情を込めて」だが、なんと矛盾に満ちた指示だろう。二律相反するものを「間」をもって弾き分ける必要があるではないか。その間をとれるだけ成熟したピアニストがどれだけいるだろう。
第2楽章インテルメッツォをたどっていくとこういうのにぶつかる。
赤いほう、ヘ長調のメロディーがA、F7、B♭に、まるでエアポケットに入ったみたいに浮遊するのが不思議だ。そして青いところ、それが樹海に木霊したかのように木管がDm、Gmを2度さびしく奏でる!この不意に襲ってくる悲しい翳りはなんだ?この青からの4小節は無くたっていい、普通の作曲家まらまず最後から2小節目へ飛ぶのだろう。
以上コード記号を書いた和声は、子供の情景の「トロイメライ」であのふわっとした慕情に郷愁のペーソスを仄かにまぶした感じを醸し出すためにシューマンが工房で素材として用いたものだ。このインテルメッツォも同じ心情で書かれたものかもしれないと思い至った。
多田富雄氏が能に「発見」されたのは、音楽ならそういうものだろうか。氏は世阿弥の天才を説いているが、こんな音楽を書いたシューマンだって只事ではない。この協奏曲はいま僕の脳内に棲みついて次々と発見をくれているが、それをすればするだけ満足な演奏は遠ざかっていくから困ったものだ。そしてわかってくるのは、僕がどれだけこの曲が好きかということ。この大儀なときに心に入ってきて何もかも忘れさせてくれる、他のコンチェルトでは一向に無理なことであって、人生最も大事にしなくてはならないもののひとつだったのだということを思い知った。
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独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その3)
2017 JUL 22 9:09:51 am by 東 賢太郎
エフゲニー・キーシン / コリン・デービス / ロンドン交響楽団
一聴して惹きつけられた魅力的な第1楽章。詩心にあふれたキーシンのピアノは変幻自在なロマンを紡ぐ。自由なルバートが連続するが、音楽に感じ切っておりなるほどと思わせる。そういう表現はコンチェルトとしては焦点が定まらず散漫になりがちだが、それを見事に引き締めているのがデービスの伴奏だ。ティンパニを効かせて強いfを打ち込むが、雄渾でツボにはまっておりうるさくならない。緩徐楽章の感情も深く濃い。クララはきっとこうは弾かなかったろうが、やはりこれはロマン派の音楽なのだ。難を言えば終楽章が心持ち速いが、静謐で時間を止めるブリッジからの流れとしてそうなるしかないという一貫した見事なテンポ設計だ。(評点・4.5)
クリスチャン・ツィマーマン / ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
冒頭のオーボエの音がローター・コッホの音だ。懐かしい。トゥッティはあのカラヤンの豊麗な音がピアノを包み込みまるで交響曲だ。ツィマーマンのピアノは非常にきっちり弾かれカラヤンが彼を起用した理由がわかるが、あくまでオケのパートであり自由なファンタジーの飛翔は感じられず、カデンツァに才能の片鱗を見るだけだ。後に彼がカラヤンの支配を逃れたのはよくわかる。第2楽章のロマンはまったく平板。終楽章も大変な完成度できれいだが予定調和の域を出ず一向に面白くない。先が読めるのはファンタジーじゃないのだ。これをきくといったいカラヤンは何を目指していたのだろうと思う。一家に必携のブリタニカ百科事典みたいなものだろうか(評点・2.5)。
エレーヌ・グリモー / デイビッド・ジンマン / ベルリン・ドイツ交響楽団
なんともエネルギッシュなピアノだ。ここまであっけらかんと明るいと詩的な部分の陰影がさっぱり見えない。オケもffで単調でうるさい。展開部のおしまいの部分、精妙に再現部へ導く神がかったところでこれほど不感症はまずいしカデンツァもポエムがない。ジンマンはチューリヒ時代にトーン・ハレで毎週のように聴いたが、才人だが一度も感心したためしがない。別な指揮者だとうれしかった。終楽章はカプリッチオに聞こえる。(評点・2)
ルドルフ・ゼルキン / ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団弦楽団
これを先に聴けばグリモーがおとなしく思えたろう。これだけ豪壮なシューマンも珍しい。ゼルキンのブラームスは硬派の部類の名演だが完全にその勢いでこのまま皇帝だって弾ける。たおやかさや悲しみとは無縁で武骨ですらあり、オーマンディのオケはそれに輪をかけて詩情のかけらもない。最後まで聞きとおすのにひと苦労(評点・1)。
ベンノ・モイセイヴィッチ / オットー・アッカーマン / フィルハーモニア管弦楽団
モイセイヴィッチ、ため息が出るほど素晴らしい。この強弱とテンポの脈動、デリケートな詩情、呼吸、感情の揺らめき!楽譜にはないが音楽が秘めて求めているものはこれだと肌で納得だ。これはきっとシューマンもクララも誉めただろうという抗いがたい高質のものだ。3度も聴いてしまった。アッカーマンのオケがまた驚く。ピアノと精神が完全に親和、合体したオーボエの掛け合い、フルートのパッセージはエモーションの奥深いところまでシンクロナイズして語り掛ける。こんなインティメートな演奏はそうはない。第2楽章のppの深さ!こうでなくてはここのロマンは出ない。終楽章、物理的なことだけいえば僕にはやや速いがタッチが夢のように変わって軽いレガートでそういう気が全然しない。魔法の領域である、降参。まったくひけらかす風情はないがモイセイヴィッチの技術の凄味を見るばかりだ(ラフマニノフに「後継者」と言わしめた)。外へではなく、内へ内へ奉仕する。そういうスゴ技があざとい知恵や計算でなく音楽に合わせて変幻自在に現れる。小さなミスタッチはあり、猛練習で追い込んだりテープを切り貼りした感じはない、精神の深奥まで共感した音楽がいつも必要な音になって自然に流れ出てくる、若いピアニストの皆さま間違ってはいけない、ピアノがうまいとはこういうことなのだ。素晴らしいものをyoutubeで教えてもらった、オーディオで良い音で聴きたくすぐCDを注文だ(評点・5)。
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独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その2)
2017 JUL 21 0:00:04 am by 東 賢太郎
アルトゥール・ルービンシュタイン / フランコ・カラチオロ / ナポリ・イタリア放送(RAI)アレッサンドロ・スカルラッティ管
1964年4月29日ライブ。これは素晴らしい。第1楽章の前稿楽譜部分(難しい)の感じ切ったデリケートさ!これが77才か?ルービンシュタインの技巧は凄かったのだ。それなくして描きようもない自在のファンタジーが横溢。テンポもこの曲の本来のものであり、文句のつけようなし。イタリアの放送オケが上手いと思ったためしがないが、これは初の例外だ。(評点・4.5)
アルトゥール・ルービンシュタイン / カルロ・マリア・ジュリーニ / シカゴ交響楽団
1967年3月8日だから上記の3年後、80才のスタジオ録音である。何の問題もなく弾けている。しかしオケがとても上手いもののマッチョ指向なのが僕の好みでない。ブラームスならそれでもいいがこっちはアウトだ。伴奏がそれだからピアノもどこかファンタジーに欠ける。醸し出そうとしているが中途半端なうちにオケに消されている。録音もHiFi指向で細部までクリアに聞こえるが、そういうことはこの曲には無用である。(評点・3)
エミール・ギレリス / カール・ベーム / ロンドン交響楽団
75年のザルツブルグ音楽祭ライブ。ギレリスの技巧は明らかに衰えている。少々のことは看過するが、前稿楽譜部分の事故は僕にはつらい(何故ここが難しいと書いたかわかるだろう)。84年にロンドンで聴いたチャイコフスキーP協は危険水域にあったが、もうこのころに兆候はあったわけだ。ただ、そのせいなのかどうか、ベームのテンポがいい。これが今の僕の趣味、このぐらい落さないと見過ごしてしまう道端の可憐なスミレみたいなものがこの曲にはたくさんある。それで弛緩するどころか、ギレリスは万感の思いをこめて、胸いっぱいの呼吸でそれを慈しむように弾いている。音楽の感動というのはなんと深いものだろう。(評点・3.5)
ワルター・ギーゼキング / ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ギーゼキングは現代曲を汽車の中で目で覚えて着いたら初見で弾いてしまう人だ。指の回りも尋常でない。モーツァルトやドビッシーの世評が高いと思えばラフマニノフを2番も3番も弾く(2曲の両刀使いは意外に多くない)。何でもできるのはわかるが、人間一つ二つ欠点あったほうがいいんじゃないのと、どうも好きになれないまま来てしまった。これも上手いなあとは思うがルバートの感覚が好みでないし終楽章はテクニックの展示会でご勘弁だ。フルトヴェングラーも第2楽章以外はあんまりポエジーを感じない。向いてないね。(評点・2)
アルフレッド・コルトー / ランドン・ドナルド / ロンドン交響楽団
コルトーのルバートには華がある。ショパンのワルツなどそれが活きる曲では水を得た魚の如く余人の及ばぬ名演をものしている。この曲でも抒情的な部分でいい味を出しているが、何分指が回らないとどうしようもない音楽だ。補おうとうわべの軽いタッチでパッセージを弾き飛ばすからコクがなくなったり唐突にフォルテになって感興を削いでしまう。鋼鉄のタッチだったギレリスが老いて枯れたのとは違う、申しわけないが元々ないものは仕方ない。ギーゼキングのように弾け過ぎても道を誤るし、ピアノ演奏とは難しいものだ。(評点・1)
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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その1)
2017 JUL 19 16:16:06 pm by 東 賢太郎
プロローグ
ブラームスS2、シューマンS3、ダフニスの各種録音の勝手品評をものしたらけっこう読まれている。時間がないが、持っている音源ぜんぶ書けば1万以上の品評はできるからもう少しやってみようという気になった。
どうしてその3曲を書く気になったかというと、もう半世紀も熱愛してるからだ。要は小学校2年で愛が芽生えた広島カープとおんなじであり、クラシックといってもそこまで言えるのはほんの限られた何曲かに過ぎないが、ともあれ熱烈なファンなのである。その意味では4番目にシューマンのピアノコンチェルトがくるのは遅すぎたぐらいのことだが。
僕のカープ愛は東京っ子の「とりあえず巨人ファン」なんてもんじゃない。広島県人でもない。よそ様の球団をそこまで愛せるんだから、それが西洋の音楽だって違和感はかけらもない。
会社ではカープが負けると機嫌が悪いのは周知で、翌日は朝イチの報告を部下が昼までのばしていた。好きなものが痛めつけられると義侠心がわく。好きな曲に変な演奏をされる、それはウチの可愛い猫をあえてブスに撮って写真をばらまかれるに等しい。
僕の頭の中ではカープもシューマンS3も「喜びをくれるもの」というタグで仕分けされており、「喜ばせてくれた感謝」なるサブタイトルで括られている。カープがやられたら怒る。S3を奇天烈に改竄されたスコアでやられたら怒る。そこに何らの違いも存在しないのである。
ちなみに奇天烈スコアの使用主様は名指揮者カール・シューリヒトだが、僕は彼のブルックナーを愛する者だ。しかしS3には適役じゃない。それだけだ。愛するものを曲げられたら異をとなえ、想いどおりにやってくれたら絶賛する。かように僕は骨の髄まで楽曲天動説である。アーティスト天動説の人とは絶対に話が合わない。
シューリヒトは全部好き、カラヤンは全部だめというのは何某の出るドラマは何でも見るわという女の子と変わらないように思う。安倍首相のいうこと全部ハンタ~イの野党みたいでもあり、モリもカケも全部サンセ~イの官邸ヒラメ属も同一の種である。そういう思考停止した人と僕は会話は30秒ももたない。
楽曲にあれもこれもない。好きだから聴くのであって、嫌なら聴かなければいい。何の関心もないヴェルディの歌劇で、あのソプラノはカスだ指揮者はボケだ云々をかます能力は僕にはない。能力を問う前に聞かないのだから天動説の重力の真ん中に何もないのであって、心は平和なものだ。
ところが冒頭の3曲のように愛猫に匹敵する音楽になるとそうはいかない。演奏してるんだからこの指揮者は当然この曲が好きなのだろうと思っている。ところが、それであんた、なんでこれなの?という許し難いのが多々あるのだ。相手は演奏のプロだ。技術のことじゃない、解釈の問題に尽きる。
解釈とは音符の読み方である。それにこだわってときに議論の土俵として皆さんに楽譜をお見せしているのはそのためだ。僕は音大卒でないが楽譜はある程度読める。頭で音化できなくてもピアノでリアライズぐらいはできる。読むというのはそうやって、どういう音にするか決める、つまり解釈するということである。
解釈なんて主観の相違でしょと片づけられればそれまでだが、ブラ2の最後でアッチェレランドをするかしないかは指揮者の尊厳を問う主張だ。「書いてないからしません」も解釈だが、「すべきでないからしません」はより強い解釈であって、そうした「強い主張」が聞こえる演奏はインパクトも強い。
僕は「すべきでないからしません」派であって、安っぽいアッチェレランドなど媚薬であり、媚薬がないと惚れてもらえないのは不細工な格落ちの指揮者であると判を押している。ブラームスはそんなものがなくても充分な楽譜を書いているのであって、だから「書いてない」のである。「書いてないからしません」派も、「やっちゃいました」派と大して変わらん二級品ということだ。
かように、今後の「独断流品評会」シリーズはあられもなき「独断」「偏見」であることはまずお断りしたい。いかに演奏家をこきおろそうと地獄に落ちろと罵ろうと、それはカープを完封した菅野投手を死ねと朝イチの報告前後まで罵倒しているのとおんなじである。そういいながら、僕は菅野は日本一の投手と認めてる。野球を50年観てきたからだ。
では、初回はこちらからどうぞ。
マルタ・アルゲリッチ / F・Pデッカー/ オケ不詳
本シリーズを偉大なるマルタ様で開始するのは光栄だ。1976年、35才。このビデオでまず思い出したのは神宮球場で見たバレンティンの打撃練習だ。バットを振ればかすっただけでホームラン。このころのマルタは飛ぶ鳥を、落としていた。84年にカーネギーホールで遭遇した壮絶なプロコフィエフ3番など僕の音楽人生の一大事件にランクされる。
しかし、これはシューマンなんだ。たぶん。譜面は楽曲ブログに載せた第1楽章の大事なピアノのパッセージだ。この部分を次のビデオで見ていただきたい(2分46秒から)。
この、左手までバリバリ弾いてしまう、右手はボツボツ切れてさっぱりレガートも歌もなし。勘弁してほしいのだ。楽譜にはそう書いてある?書いてないよ。悪いけどデリカシーかけらもなし、それでも音はちゃんと出てるしいいでしょって、だからスタンドに入れてんだから文句あっか?のバレンティンなの。ご機嫌が悪い日のテイクだったんでしょうかね、オケも見事におつきあいで最低だ。
こっちの雄大さは、さらに上をいくかもしれない。
伴奏はチェロの帝王、ロストロポーヴィチ様である。オケが盛り上がるといったい何が始まったんだとウチの猫が身構えてしまう迫力であり、それに乗ったマルタ様のガーンという低音はサド女王様のムチが帝王をしもべにする劇的な瞬間である。カデンツァは勝どきだ。
ロストロは知る限りそういうテンペラメントの演奏家という印象はなく、勝手想像だが、女王の燃えたぎる情熱にかいがいしくも献身しようと慣れないことを一所懸命やってしまった観がある。
マルタ+ロストロのウルトラ大物コンビに「だってこれがシューマンなのよ」とこられたら、こちとらひとたまりもない。でも、違うと思う。
女王はこのコンチェルトを11才で披露している。
第3楽章のブルレスケみたいなテンポの原点はここだろう。これで興奮と喝采は約束される、こんな小さい子がすごいテクニックだと。モーツァルトも原点は大人の称賛にあったが、神童の稀有な成功体験は趣味として残るのだろうか。これを終生弾き続けるのは好きだからだろうが、弾く側の好きと聴く側の好きが必ずしも同一でないことはあり得る。
マルタを嫌ったり貶めたりする意図は全くない。彼女のテンペラメントはアレグロのコーダに向かう真の意味で超人的な興奮の創造と切り離せない性質のもので、それがオンリーワンの強烈な個性を生んだ。それが活きるプロコフィエフ3、チャイコフスキー1、ラフマニノフ3、ラヴェルで名演を成し遂げているが、たまたまシューマンはそれらと同列に並べる曲ではない、少なくとも僕は聴く側の好きでそう思っている。
ロストロとの共演は話題になって、上掲のレコードはわくわくして買った。大学のころかな。1回だけ通して絶句して、以来レコード棚から出たことがない。演奏会だったら第一楽章だけ我慢して退散したに違いない。僕も好きなものにだけ特化する性格だが、趣味も20代から変わってないことが今回きいてみてわかった。持って生まれた四大元素のケミストリー、学習したものではないらしい。
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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(5)
2017 JAN 30 2:02:18 am by 東 賢太郎
たしか朝比奈の著書に、指揮者が振りたくない名曲として田園とラインがあがっていました。どちらもエンディングがそっけなく聞こえるからです。たしかに運命のくどいばかりのそれに比して田園はあっさりですし、シューマンの1,2,4番に比してラインは簡潔な終わりですね。
それは田園、ライン、どちらも自然を満喫する交響曲であるためです。楽しかった遠足です、解散!の前に先生の説教やら「良かっただろ」のだめ押しは不要なのです。
これはライン第5楽章のうきうきする主題です。
fp からの弾むような第2主題はライン地方の民謡、「So leben wir, so leben wir alle Tage」です。それをおききください。
これを知ったうえで4年前の僕のブログ、
シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第5楽章)
を読み返していただければ、シューマンが第5楽章に抗いがたい愉悦感の下地をしっかりと織り込んでいることがお分かりいただけると思います。この曲は喜びのエネルギーを内に秘めているのです。それを開放すればシューマンの心の喜びは聴き手にまっすぐ伝わります。指揮者が余計なことをすればデリケートなそれは無残に壊れます。
僕がなぜコーダのアッチェレランドを蛇蝎のように嫌っているか、理屈ではないのですが、細部をリサーチすればこうして理由があることもわかってまいります。エンディングがそっけなく、キーが鳴りにくい変ホ長調でもある。指揮者は何かやりたくなるだろうし、マーラー版で壮麗に化粧をし、地味なエンディングは加速でブラボーを取る。しかし美人に化粧はいらないわけで、厚化粧を必要としているのは指揮者のほうである。別に実力不足は構わんのですが、そのだしに最愛の音楽であるラインを使うのだけはやめてくれよと嘆願するのみです。
フルトヴェングラーのように曲を大掴みに俯瞰して作曲家の意図の方向にデフォルメをかけるタイプは、シューマンに聴き手を誘導するメッセージがなく、自然への賛美と喜びを共有しましょうというだけなものだからすべきことがない。彼がラインを手掛けなかったのは大指揮者の証明でした。その彼を師と仰ぐバレンボイムは全集を作るためでしょう、振ってしまって下記のようになってしまった。必然ですね。今後もできるだけ聴いて、だめなのは本ブログにボロカスに書くことになるでしょう。
朝比奈の挙げた理由からでしょうかラインを演奏会で聴く機会はあまりありません。僕は3回しかなくてジンマン(チューリヒ・トーンハレ)、ヤルヴィ息子(N響)、マリナー(同)です。マリナーがあまりに素晴らしくて忘れられません。第1楽章は自分でシンセでMIDI録音して、原典版でしっかり鳴ることは自分の手で確認してます。これは結構出来が良くて満足で、やはりラインを愛する長女が気に入ってくれてます。
ハンス・フォンク / ケルン放送交響楽団
やや弦が荒くテンポが速いが原典版スコアの地味な音色が好ましいです。マーラー版のスコアは持ってないので原典版を見ての限りですが、63小節の木管の対旋律のホルンの重複はなく、432小節の第1,2ヴァイオリンのd、e♭の短2度はそのまま。シューマンのスコアへの敬意を感じます。下手だから俺様が直してやるなどという不届き者が決まってアッチェレランドするコーダも盤石のテンポ。いいですね。
クリストフ・フォン・ドホナーニ / クリーブランド管弦楽団
マーラー版でないのは評価。しかしドホナーニのオケの鳴らし方はブラームスやシューマンでも1,4番向きで各楽器群のソノリティがリッチで外交的あり、63小節はむしろホルン重複がないと物足りないという悲しいジレンマを感じます。オケをこうマーラー風に鳴らす後期ロマン派の視点からシューマンの管弦楽法が冴えないという流派が出たわけで、それは元から視点がおかしいというしかありません。第2楽章は明るくてお気楽。終楽章コーダは過剰な加速がないのはいいが陽気丸出しのトランペットが興ざめ。
ポール・パレー / デトロイト交響楽団
付点音符を弾ませ弦のボウイングによるアクセントを明確にしながら快適なテンポで豪快に始まる。ホルンの補強あり。コーダは加速まったくなく立派です。第2楽章もスタッカート気味の弦は結構だがアンサンブルがずれる。第3楽章冒頭は対旋律の音程があやしい。第4楽章はケルン大聖堂の暗さと湿度が不足。終楽章の出だしはオケの明るさが生きるがタッチが軽く陽気すぎてなじめない。とくに聴きたいとは思いません。
ダニエル・バレンボイム / シュターツカペレ・ベルリン
強いパッションで開始。おそらくマーラー版に近い。このオケはウンター・デン・リンデンの歌劇場で聴くと古雅な良い音がします。ここでは弦の fが荒く無用な金管、ティンパニの強奏がうるさく美質が出ず。中間楽章もデリカシーを欠き、第4楽章の終結のティンパニ強打など論外でこの人なにを考えてんのと言うしかない。終楽章はテンポがぬるく愉悦感なし。ここでもおかど違いで音程の悪い金管、打楽器に閉口。コーダの加速とお祭り騒ぎは失笑しかなし。彼は日本人にブルックナーはわからんとのたまわったらしいが彼にラインがわかることもないだろう。
エドリアン・ボールト / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
ロンドンで89年に買ったCDでなつかしい。史上最速の第1楽章でしょう。いったい何がおきたんだと驚くうちに一陣の風のように過ぎ去ります。ところが第2-4楽章は普通のテンポで文句なし。ラインのエッセンスを掴んでいます。終楽章がまた速いが史上最高ほどではなく、この愉悦の気分は決して曲の精神から逸れてはおらず、納得します。両端楽章、この速度ではアッチェレランドのかけようはありません。かけられるよりは速すぎの方が僕はずっとましです。
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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(4)
2017 JAN 24 1:01:41 am by 東 賢太郎
フルトヴェングラーのブラームスに話が飛んでしまったのは、ラインを聞き進むとほとんどの演奏がテンポの問題で暗礁に乗り上げてしまうからです。テンポを論じるとどうしてもフルトヴェングラーを引き合いに出さざるを得ません。
スコアをシンセで演奏してみて、テンポ設定とフレージング、アーティキュレーションの難しさを体験しました。管弦楽といえども演奏するものは「歌」です。歌というのは音楽の醸し出す意味や感情にそった呼吸の脈動であり、音の漸増・漸減があり緩急があって言葉の発音がある。テンポはそれらを 統合した結果、最も自然なところに落ち着くべきものと感じました。テンポが先にあって、それに他のものを合わせるというものではないということをです。
例えばallegro moltoと指定があるがそのテンポで演奏したその音楽に共感が持てない場合は歌として呼吸が合いません。自分の持つパルスと音楽のパルスが共振しません。するとそのしわ寄せが上記のパーツのどこかに物理的に出て、説得力のないオーラの薄い演奏になってしまいます。
ベートーベンのメトロノーム問題が好例です。ベーレンライター版ですごく速いテンポになって、「共感はしないがオリジナルです」という主張の指揮者による演奏は、博物館の資料としては、あるいは好事家のコレクションとしては価値があるでしょうが、奇天烈な速度のコーダで終わる第九のようなものを僕はあんまり歓迎はしません。
これはあくまで主観ですが、フルトヴェングラーのブラームス交響曲は1番と4番なのです。そしてそれはテンポに深く関わっておりましたことは前2回の稿で書かせていただきました。それを導き出した彼のテンペラメントが1,4番に合っていたということと思われます。特に1番の52年盤については既述の通りですが、しかし、2番となると一転してこう感じました。
僕は別にフルトヴェングラーのファンではなく、ブラームスのファンです。彼の書いた音楽の崇拝者であって、ファンとして「こう演奏すべし」があって、それに近ければ是、遠ければ非というだけです。彼は2番にはうまく共振できていないという結論になりました。
一方、シューマンについてはテンペラメントの合う1番、4番しか残しませんでしたが賢明な判断でした。2番の歪んだ狂気の軋みは彼に似合わないし、3番に至っては彼の秘術、至芸の通じる部分はどこにもないでしょう。
以下、すべてyoutubeで音を聴けます。
ルネ・レイボヴィッツ / インターナショナル交響楽団
スコアにマーラー以上の改竄があり、第1楽章のせっかくの良いテンポがコーダで瞬時に崩壊するのはがっかりです。再三の指摘ですが両端楽章のコーダに欲求不満を覚えてか加速する指揮者が多くいます。マーラーを始祖とし、肥大化した後期ロマン派のオケ目線から「シューマンの管弦楽法は下手くそ」とする人たちと源流を一にします。レイボヴィッツのベートーベンの読みが同じアプローチで一貫しているのは評価するのですが、時代がシューマンまで下るとワーグナーに発したブルックナー、マーラー路線とクララ、ブラームス路線の分岐の起点がやってくるのであって古典派のようにはいきません。
セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
僕にはテンポが遅いのですが、盤石でゆるぎないラインの流れです。深々したオケの響きがなにかを語りかけ、意味深く神判のように鳴るティンパニに宗教的なものさえを感じる不思議な第1楽章。細部まで一点もゆるがせぬ神経で支配する彼の世界です。実に濃い。コーダの雄大なこと!テンポの不満を言うこちらが稚拙に感じてしまう。第2楽章も遅く、スケルツォでも舞踊でもないレガートの美しい絶対音楽。第3楽章はさらに遅い、春の森の陽だまりの夢想。第4楽章はテヌートのかかった各声部のまとわりが教会にこだまする交唱。こういう音の作り方、只者でないです。終楽章、やや遅めですが第1楽章と同様にこの速度でないと見えない音楽あり。コーダに向けて熱と密度が上がりますがテンポはそのまま。感服。こういう器量がない指揮者が曲の終結感に自信が持てず、アッチェレランドをかけるのです。マーラー版ではないが彼なりの変更があります。
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー / エストニア国立交響楽団
オケの音がシューマン的ではないが理想的なテンポで開始し、インテンポのまま第2主題に至っても揺らぐことなしです。エネルギーもテンションも見事であり、非常に満足感あるコーダで締めくくります。但しスコアはかなり改変あり。踊れる第2楽章を経て深みある第3楽章へ。ここは録音が貧しくて惜しい。第4楽章は金管の音がやや異質ですが重たい時が流れています。一転、明るい終楽章はやや弦が荒い。速すぎず良いが、このテンポだと第2主題でやや緊張を欠くようです。コーダもほぼインテンポで僕は満足。おそらくこれは多くの人を満足させないでしょうがこの指揮者のスコアの読みの深さは何を聴いても敬意を覚える水準にあります。
オトマール・マーガ / ボーフム交響楽団
チェコ出身のドイツ人マーガの名前は懐かしい。オケが二流ではあるがティンパニをアクセントに気骨あるインテンポで通した立派な第1楽章です。スコアはオリジナルのようで中間楽章もロマンに背を向け淡々と進みます。終楽章もなんの細工もないが、管が厚みを欠く分ティンパニがモノを言い、充実のコーダに至って何の不足もない満足感を与えます。こう書けているスコアを二流の感性とテクニックで味付けして出す。素材の味がわからぬ二流の料理人だが、そもそもそういう人がどうして料理人をしているのかが僕にはよくわかりません。
ひとつ面白いものを。第4楽章をオルガン編曲した人がおられます。
この楽章を宗教的と書く意味を感じていただけると思います。J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第24番ロ短調の前奏曲、聞こえてきませんか?
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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(3)
2017 JAN 17 12:12:58 pm by 東 賢太郎
エリアフ・インバル / フランクフルト放送交響楽団
この録音が実演で聴くこのオケの音に近いのですが、アンサンブルの力は高いですがドイツにしては幾分軽く深みがありません。インバルは耳がよくピッチと楽器のバランスはいい、ただテンポは作為的で第1楽章第2主題後の減速はクレンペラーのような至芸は感じず人工的です。コーダはややテンポが動いて盤石感も興奮もなく中途半端。終楽章のテンポはいいですね、これは理想的だ。そのまま行けばいいのにコーダは加速、それがインバルの感性ということですね。採れません。
リッカルド・ムーティー / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
えらく元気がいい出だし。この変ホ長調の音楽はVPOの美質と得意技がほとんど効かないということがわかる意味で面白い演奏です。ドレスデン、ライプツィヒのドイツ的重厚感のほうがずっとフィットするのですね。第1楽章はムーティの悪い面が出てうるさいだけに終始しますが、加速はなしであり、彼はいけいけのイメージがあるがそういう安っぽいことには控えめなのがここにも出てます。第4楽章は教会の厳粛な空気が良し。終楽章のテンポはとてもいいですね、コーダの前のホルンは生きてます。コーダは既述の誉め言葉が許すぎりぎりの加速がありますが、まったくない方が感動的でした。
ギュンター・ヴァント / 北ドイツ放送交響楽団
ティンパニを強打してどっしりと速めの出だし。アンサンブルは緊張感のなかで大変に緊密で筋肉質です。しかしほかの3つの交響曲はそれが生きますが、3番は引き締めがきついとポエジーがなくなる難しさがありますね。以前は骨っぽさが良いと思った演奏ですが、こっちも年をとったのかいまはドラムと金管のリズムの強調が軍楽のようにきこえます。ほぼインテンポで一貫する第1楽章、終楽章の頑固な潔癖さは好みですが、似た路線ではセルの方が芸格が上ですね。
クリストフ・エッシェンバッハ / 北ドイツ放送交響楽団
上記と同じオケで音の質感はヴァントと似ますが指揮の性格と録音の違いからこちらのほうがしなやかな柔軟性、流動性を感じます。アンサンブルも横の線に目配りがあり残響のブレンドが美しいのはこちらの強力な美点です。テンポは微妙に曲想に合わせてゆらぎますが不自然でなく、エッシェンバッハの指揮はドイツで何度か接しましたがピアニストの余技の域ではありません。終楽章の快活はほんの少し速いし軽い。コーダのテンポは手が込んでますが効果は薄いですね。
ダニエル・ガッティ / マーラー室内管弦楽団(2014年6月9日)
素晴らしい演奏です。ドレスデン音楽祭のクラウディオ・アバド追悼演奏会。オケの自発性が見事で、木質の響きは上質でまことにシューマンにふさわしく、リズムは心地よくふっくらとはずみ、弦の中声部が厚みをもって鳴り切り、トゥッティも音楽に感じきった強弱が実に美しい。音楽心と詩情に満ち、大きな室内楽のようなアンサンブル。もう良いことづくめです。第1楽章はガッティを祝福したい名演で、このテンポは全面的に支持します。第2主題への移行がうまく、ホルンの音色美は抜群で要所のトランペットも品格をもって存在感を見せ、コーダは微動だにせぬ不動の威厳、これでなきゃ。第2楽章はスケルツォに聞こえるテンポですが木管がうまい。第3楽章は耽美的で花園のようなマーラー的世界。音色のブレンドと変化がデリケートで、ガッティが縦線にこだわらず個々の奏者の感性から詩情を引き出してます。この楽章を極点として、全曲をシンメトリーととらえるアプローチでしょう。第4楽章、ホルンとトロンボーンの横の線を出しつつ管弦のレガートの絶妙のブレンドで暗めのオルガン的な音色を出し、終結の2度の不協和音への深い呼吸からの持っていき方も痺れます。オケのピッチがいいからこそできることですね。終楽章のテンポもagreeです。出だしの弦は羽毛のように軽く、フルートを浮き立たせて、いいですねえ。コーダは、僕は「もっとインテンポ」を望みますが、決して浮ついたアッチェレランドはなく、これもぎりぎり有りでしょう。最後の和音が鳴って、皆さん、舞台の顔、客席の顔をご覧ください。団員は抱きあってます。この交響曲にどれだけ人を幸せにするパワーがあるか!こんなものがそんじょそこらにあるでしょうか?人類史に残るかけがえのない名曲、ただただロベルト・シューマンにこうべを垂れるのみです。
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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(2)
2017 JAN 17 1:01:58 am by 東 賢太郎
オットー・クレンペラー / ニューフィルハーモニア管弦楽団
古老がゆったり人生を回顧するように、されど雄大なスケールで開始します。第2主題に悲しい陰りがありメンデルスゾーンのスコットランドを思い出す、これは本当にユニークな表現で敬服です。第2ヴァイオリン、ビオラの内声部が生き、木管も意味深い。ホルンはここではライン河畔の古城を強く想起させます。コーダは一切の加速なし、そんな小技には目もくれない大人の芸格ですね。第2楽章もダンスには遅く中間部は愁いを帯びる。第3楽章は情緒綿々たる真にシューマネスクな世界です。第4楽章は一転して峻厳なバッハの宗教世界。そして死のにおいのするそこから人間界の生の喜びに回帰する終楽章。ここも人生急がず一歩ずつでこんな遅いのはめずらしい、僕はもっと速くしたいがクレンペラーなりのユニークの極み。極く少し速くなるコーダに至り、そこからまた減速してどっしりと終る。このスコアはこうも読めるのかという印象です。
カール・シューリヒト / シュトゥットガルト放送交響楽団
冒頭からいきなり弦がなよなよのヴィヴラート、レガート、ポルタメント攻めで絶句です。実に薄気味が悪い。マーラーより対旋律の楽器を増やしてそっちの方が目立って奇異な音が鳴るというのは、もういったい何が始まったんだというレベル。コーダの加速にヴァイオリンのオクターヴ上昇など怒りすら覚えます。しかしそんなのは序の口。第3楽章の木管への楽譜の漫画的改変はひどい、なんだこりゃディズニーか?第4楽章、最後の厳粛な和音に能天気な弦をかぶせるなんてシューマンの意図台無し、勘弁してくれよですね。終楽章はいいテンポで始まったと思ったら弦のままのはずが突如木管に切り替わり、悪いジョークかと笑うしかない。ストコフスキーも改悪と言われましたが、こんな珍妙で下品なのはない、まさに空前絶後である。シューリヒトは敬愛する指揮者ですが、彼にしてラインはこんなゲテモノになってしまう。いかに特殊な、特別な音楽かということが逆にお分かりになっていただけると思います。
アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団(1949年)
開始のテンポは堂々たるものですがトゥッティのオケが乾いた音でシューマン的とはほど遠いです。トスカニーニのカンタービレの技が生きないしピッチもNBCにしては甘い。そういう曲ではないのですね。コーダを加速しないのはさすがですが、オーケストレーションも耳慣れない楽器バランスがありどうもひたれません。第4楽章は暗めの音で雰囲気をつかんでいますが金管のフォルテはやはり外面的に響きます。終楽章の弦はNBCと思えぬほどがさつ。指揮者の共感がないんでしょう、コーダの金管の合いの手も下品であり、加速こそないがどうしてこれを振ったのか不可思議であるかなりずれた演奏ですね。
フランツ・コンヴィチュニー / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
LGOの弦は4番ニ短調では良く鳴ってますが変ホ長調のこれはくすんでます。ドイツのホルンの古色蒼然の音色がまたそれに合っていて、ティンパニも響かず、全体にどことなくヌケの悪いのがこの曲調にはいいんです。そして、何といってもテコでも動かないテンポ。これですよ、コーダはこうでなきゃ。第2楽章も朴訥な農民のダンスです。第3楽章の暖かみあるクラリネットも昔の風情。第4楽章は暗い森の中のような色調。終楽章もあか抜けない田舎の村の集いの風情で、たぶんシューマンが指揮してもこうなるんだろうと連想します。彼は田園交響曲を書いたんです。再現部まで来ると音楽が暖まってきます、そしてコーダは少しだけ快活なテンポになりますがそのまま終わる。これですね。
ディミトリ・ミトロプーロス / ミネアポリス交響楽団
「耳の化け物」の興味深い録音です。やや遅めの出だしで第2主題は大きく減速。ロマンティックな表現です。展開部前のパウゼ、デクレッシェンドはユニーク。コーダの減速!はすごいですねえ、しかし悪い印象はなしです。第2楽章の加速、なるほどこれはスケルツォだったんだ、驚きますが見識です。こうなると音は悪いがきいてしまう。第3楽章もテンポは絶え間なく伸縮。終楽章はやや速めですがいい。恣意的のようですべてが手の内にはいった自在さで名人芸ですね。
パーヴォ・ヤルヴィ / NHK交響楽団(2005年6月11日)
これはいい演奏です。この演奏会はNHKホールにて聴いておりました。基本的に動かず盤石な全曲のテンポ設計、弦のくっきりしたフレージング、デリカシー、金管のリズムの嬉しげなはずみ、どれも一級品。指揮者が音楽に共感しないとこうはいかないだろうという場面が連続です。オケの音もいつもより暖色系でシューマンにはまことに良し。終楽章のコーダ前に速度を落として見えを切ってから加速するアプローチだけがリザベーションで当日も失望したのを覚えています。そんなことをしなくても曲がいいのだからと思います。
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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(1)
2017 JAN 16 17:17:43 pm by 東 賢太郎
ラインガウのことを思い出していると、どうしてもこの曲に気持ちが向かいます。
第1楽章はローレライに近いこのあたりのラインの船旅で霊感を得たとされますが本当のことはわかりません。調性が同じだからシューマンの英雄だという人もいて、たしかに彼の先人でEs durというとハイドン103番、モーツァルト39番、ベートーベン3番ぐらいしかないのですが、しかしエロイカとはちがいますね。発想の根源が。外面はともかく霊感の根っことしては6番の田園のほうがずっと近いだろうと僕は思います。
あのあたりというのは僕にとってたんに旅行しましたという多くの外国の場所とは一風ちがっていて、家族との大事な思い出の舞台なものだからもう自分のなかではいわば「ふるさと」に近いものになっています。ロンドンやチューリヒもそうではあるのですが、そちらはむしろ苛烈なビジネスの「戦場」という色彩がつよく、ドイツのような幸福の縁取りはありません。38才で我ながら輝いていた時分の心の軌跡が、まるで後光がさすように投影されて見えるのがシューマンの3番であって、クラシック音楽で一番好きなものはといえば迷わず、他に何ら理由もなく、これということになります。
しかし、これを書いたころ、シューマンの精神疾患はすでに進んでいたそうです。このすぐ前に書いたチェロ協奏曲にそれが悲痛な兆候として出ているのでわかります。ところが、デュッセルドルフに引っ越してライン河畔の素晴らしい風景や気候風土や人々の歓待に接し、その気分を音楽に書き取ってみようと思い立った。そこでいっとき神様が病気を遠ざけたのでしょうか、心にそよ風が吹きこんで、微塵も病を感じさせないこの奇跡のような交響曲が彼に降りてきたのです。
だからこの曲は、人間の精神の奇跡でもある。人工知能がいくら進化しようと、疲れ気味のコンピューターにラインの船旅をさせたらこんな曲が書けましたという光景は想像しづらいでしょう。シューマンの精神に効用をもたらした何ものか、その目に見えない何ものかを僕は僕なりに、この曲とは関係のない所でものすごく愛してる気がします。それは言葉や形にはならない、何万年よりずっと遠い先祖がここに住んでいたのかもしれないぐらいの微弱なものだけれど、僕の精神には甚大な作用を持っている、そういう性質のもののようです。
こういう気分の時しかできない作業のため、以前に書きましたこれ( シューマン交響曲第3番「ライン」 おすすめCD)の続編として数ある3番の演奏につき数回のブログでコメントを加えます。非常に悔しいが自分で演奏ができないので、失敬ながら他人様の演奏にああだこうだ言わせていただくことで間接的に自分の思う3番の姿を残したいという努力であります。そのために、思いと違う姿の演奏はあえてばっさり否定しておりますが、私見をクリアにするためであり演奏のほうはその鏡であって価値を論ずるつもりはありません。ご不快があれば何卒ご容赦お願い申し上げます。
なるべくyoutubeで音を確かめられるものからやってまいります。
カルロ・マリア・ジュリーニ / フィルハーモニア管弦楽団
ジュリーニの1958年録音、3回の録音の2番目です。第1楽章の雄大なテンポ!これはヴィースバーデンのワーグナーがマイスタージンガーを書いた家からのライン川の景色だ。フィルハーモニア管がやや即物的でオーケストレーションもマーラー版をベースにかなりいじってるのが気になり、終楽章のレガートの入りも気に食わないしコーダの加速は全く余計である。同じスタイルでさらに大人の表現となっているロス・フィルを採るべきでしょう。ただこの恰幅良さ、些末事に委細構わぬ悠揚としたテンポは指揮者の3番への強い思い入れと愛情なくてはオケにここまで伝わらない。その思いには共感があります。
ジョージ・セル / クリーブランド管弦楽団
大学1年の6月に初めて買ってラインを覚えた思い出の演奏です。セルは3番を指揮できる人だったというのが重要な情報ですね。即物的で冷たいといわれたが、そういう人にこの曲はできないのです。レコードだけ聞いて批評してる人にはCBSの音作りの印象があったと思います。オーマンディの演奏会での音は日本の批評家のいうイメージではなかったですが、同じことはセルにもあったでしょう、彼はアンサンブルには非常に厳しいがとてもヨーロッパ的な感性だった。この3番にアメリカ的なものはかけらもなく第1楽章の終結も安っぽい芝居は一切なし。マーラー版で金管を補強してますが、どこを微細に聴いても立派な音が鳴っていて熟達の表現です。終楽章の冒頭主題のフレージング!!すばらしい呼吸、コーダの盤石なテンポ、最高です。これで曲を覚えたのは幸運でした。
ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
彼はベートーベン、ブラームスは良くてシューベルトはいまひとつ、シューマンもなぜか4番以外はだめです。第1楽章、このオケと思えぬガサツな弦でほとんど練習してないかと思わせるひどい始まりですが、その後もヴィヴラートは過多だし、悪趣味なポルタメントはかかるわ、第2主題はぬめぬめレガートをかけるわ、ホルンのパッセージは意味ありげに安手のリタルダンドするは、再現部は第1主題に意味ない盛り上げの努力をするは、すべてが人工的、表面的で彼はラインガウでゆったりシュタイゲンベルガーなんか味わったことないんじゃないかと訝ってしまう。これが好きな人がいても構わないが僕とは極めて異質な感性であります。第1楽章で充分不合格で後は聞く気なし。
レナード・バーンスタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
VPOの音で始まるがやや力こぶが入りすぎで、テンポが頻繁に無用に伸縮してジュリーニのようなラインの風景が浮かびません。コーダの加速は意味不明で趣味が悪い。第4楽章のマーラーのごときロマン的な解釈は彼の個性としては良しで終結の悲痛さから第5楽章への場面転換は見事ですが、そのアプローチで全曲を劇的に構築しようというのはそぐわないでしょう。終楽章終結へのリタルダンド、アッチェランドは暴力的ともいえるひどいもので、VPOもこの曲がうまいわけでは全然なく、指揮者ともども感性にお門違いも甚だしいものを覚えます。
ブルーノ・ワルター / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
音が悪くて敬遠してましたが前半は悪くはないです。ワルターのラインはこれだけです。第1楽章はややテンポの弛緩はあるがコーダで無用に興奮しておらず、第2楽章の暖かさはワルターらしい。第3楽章はちょっと速いですがこれがスコアの指示でしょう。オケにデリカシーがなく雑然と鳴るところがあるのは惜しいです。問題は終楽章のテンポと弦のフレージングです。これはマーラー版でもなく彼の主張ですがついていけませんし、再現部直前のルフトパウゼにはひっくり返ります。最後も微妙ですがアッチェレランドしてます。向いてません。ワルターファンのためのものでしょう。
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クラシック徒然草《コンヴィチュニーの指輪全曲》
2017 JAN 15 17:17:00 pm by 東 賢太郎
年末に欧米の演奏会プログラムの整理をはじめましたが大量であって、あれこれ思い出してじっくり読んでしまうためまだ終わらないままです。ドイツ時代のを見ているとだんだんその気分になってきて、CDをひっぱり出してニーベルングの指輪を全部きいてしまったりちっとも進まないのです。
ところで先日、人工知能の専門家にこういう興味深い話をうかがいました。
記憶はばらばらに倉庫に入っている。面白いですね、思い出すときは各ピースを海馬に持ち寄って、脳が自分で勝手な「思い出し画像」を作る。でもそれはフェイクですよね。だから過去はフェイクなんです。アインシュタインが過去も未来も実はないと言ったのに平仄が合いますね。
では音楽はと聞けばよかったのですが時間切れだったのでここからは想像になります。
最近、昨日の夕食もときに忘れます。地名やら人の名前がなかなか出てこない。先生のいわゆる「各倉庫からピースがすぐそろわない」わけです。ところが音楽においてそういうことはありません。15時間もかかるリングでジークフリートのあの辺というとパッと出てくる。このアンバランス、何なのか?
記憶は長期と短期があるらしく、それは長期記憶だから昨日の夕食とは倉庫が違うのでしょう。しかし、では昨日聞いた音楽を忘れるかというとそうでもないから変です。しかも音楽は時間とともに変化する記憶だから単発の情報でなく、倉庫は相当でっかくないと入らないと思うのです。
素人考えですが、それは写真と動画に対応するかもしれません。世の中、森羅万象を我々は動画として認識してるから、そっちの記憶の方が定着するのかなと。このトシでまだいくらでも新しい曲を覚えられそうな気がしますが、ひょっとして使ってない9割の脳細胞が少しは役に立ってるのでしょうか?
昔のプログラム、やっぱりドイツのインパクトが強いのです。あそこで聴いた音楽がドイツの記憶の倉庫にぎっしり入っていて、だからドイツの出来事も音楽もいっしょにどんどん蘇ってきます。それがダントツにワーグナーなのは、きっとそれまみれの生活をしてたんでしょう。いや、ワーグナーなんか思えば何も知らなくて、わかったのはドイツに3年住んで聴きまくってからだったと思います。
オケの音というものそうです。ドイツで普段着で通っていたアルテ・オーパーやヤーレ・フンダート・ハレ、あそこで日常に聴いていたドイツのオケの音というのはまったくおひさしぶりになってますね。日本のオケからはついぞ聞いたことがない。出せば出るかというと、これだけ長いこと聞いていてないのだからそれは考え難いことでしょう。
というと日本ではすぐ「音色」の話になります。くすんでるとか渋みとかですね。レコードばかり聞いてるとそういうことになりますが、実際の音ではそんなマニアックな差よりもっと子供でもわかることに誰でも気づきます。音量、ボリューム感ですね。フォルテの音がでかく、音圧が半端でない、それも力一杯がんばってではなく。簡単に言えばベンツの600ですね、あれでアウトバーン200キロで悠々軽々と走ってる、あの感じそのものです。
日本のオケはカローラで150キロ。頑張ってるのはわかるが・・。日本人は清貧で一生懸命好きだからそれで食えてます。それ言っちゃあおしまいよなんでしょうが、しかし、クラシック音楽というのは本来贅沢品ですからね、そこで清貧いわれても苦しい。日本で爆演、奇演が受けるのもそう、必死の形相でスピード違反してもらうと満足する。変態ですね。ベンツ600は出せば300キロ出ますがね、そんなの誰も期待してない。普通に余裕の200キロ、それがいい演奏です。
去年読響でエルザ・ファン・デン・ヘーヴァーという人のR・シュトラウス「4つの最後の歌」を聴きましたが、彼女の声です、あれは日本人には出ない。発声の知識はないですが、まずあの体格がないと難しいのでしょう。音量でもあるが、質的なものもふくんだトータルなボリューム感としか言いようがない。じょうずなお歌じゃない、あの絶対の安定、豊穣、聴きながらドイツの風景がさあっと脳裏に広がったですね、彼女の歌で。
ドイツのオケもいっしょです。例えばコンヴィチュニーのシューマン4番、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音をいい音でお聴きになるといい。質量の重い、重心の低い、強い、粘度のある、それでいて中高音にオルガンの質感のあるクリアネス、華やかさがあって、「トータルなボリューム感」がクオリアとなってずっしりと押し寄せるのです。ああこれだと、これがシューマンだと。
シューマンはあの音が念頭にあったはずで、日本のオケの細密でデリケートではあるがボリューム不足のクオリアで、しかもあのプアで痩せた音響のNHKやサントリーでやられても僕は耳にひりひりして不快か欲求不満になるだけです。アルテ・オーパーもヤーレ・フンダート・ハレもホールとしては二級ですが、オケの威力で聴けていたのだということを日本に帰ってきて知りました。
これがワーグナーとなると歌手とオケの両方のクオリアになります。どっちが欠けても、らしくなくなりますからダブルパンチでどうしようもない。
僕はアカウンティング(会計学)は法学部なんで日本では簿記すら知らず、全部アメリカで英語で覚えたから日本語の用語を知らなくて帰ってきて不便でした。ワーグナーはそれと似てます。ドイツは二級のオペラハウスでも歌手はでかいですからね、それで何となくサマになってしまう。歌はへたなんだけど。ボリューム不足を小技のうまさで補うというのは成り立たないんですワーグナーは。
先日これを見つけて、前から気になっていたので買ってきました。コンヴィチュニー/LGOのワーグナーはあまり残ってなくて、これもコヴェントガーデンのライブですが、そこはカネがあるところ一級品集まるの法則どおり、これが凄いメンツなんですね。何といっても聴きたかったのはアストリッド・ヴァルナイのブリュンヒルデです(これは期待通り)、そこにヴォルフガング・ヴィントガッセン(ジークフリート)、ハンス・ホッター(ヴォータン)、クルト・ベーム(フンディング)とくるとですね、これはもうV9時代の巨人軍であります。これで負けたら仕方ないねという。
59年の録音ですから原音のクオリアは収録されてない。しかし、そこで冒頭の人工知能の先生の話になるんです。
頭の中でドイツ時代のワーグナーの記憶のピースが合わさって、アストリッド・ヴァルナイの声は耳にびりびりきてるクオリアを感じます。フェイクなんですけれどもね。しかし、いくら最近のいい録音でも、いえいえライブですらですよ、こんなことはめったにない。この録音に物理的に収録されているものは乏しくても、原音が宿していたクオリアは僕があのころ聴き覚えたそれに共振して、その倉庫から記憶をひっぱり出すのではないでしょうか。
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