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カテゴリー: ______シューマン

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(4)

2017 JAN 24 1:01:41 am by 東 賢太郎

フルトヴェングラーのブラームスに話が飛んでしまったのは、ラインを聞き進むとほとんどの演奏がテンポの問題で暗礁に乗り上げてしまうからです。テンポを論じるとどうしてもフルトヴェングラーを引き合いに出さざるを得ません。

スコアをシンセで演奏してみて、テンポ設定とフレージング、アーティキュレーションの難しさを体験しました。管弦楽といえども演奏するものは「歌」です。歌というのは音楽の醸し出す意味や感情にそった呼吸の脈動であり、音の漸増・漸減があり緩急があって言葉の発音がある。テンポはそれらを 統合した結果、最も自然なところに落ち着くべきものと感じました。テンポが先にあって、それに他のものを合わせるというものではないということをです。

例えばallegro  moltoと指定があるがそのテンポで演奏したその音楽に共感が持てない場合は歌として呼吸が合いません。自分の持つパルスと音楽のパルスが共振しません。するとそのしわ寄せが上記のパーツのどこかに物理的に出て、説得力のないオーラの薄い演奏になってしまいます。

ベートーベンのメトロノーム問題が好例です。ベーレンライター版ですごく速いテンポになって、「共感はしないがオリジナルです」という主張の指揮者による演奏は、博物館の資料としては、あるいは好事家のコレクションとしては価値があるでしょうが、奇天烈な速度のコーダで終わる第九のようなものを僕はあんまり歓迎はしません。

これはあくまで主観ですが、フルトヴェングラーのブラームス交響曲は1番と4番なのです。そしてそれはテンポに深く関わっておりましたことは前2回の稿で書かせていただきました。それを導き出した彼のテンペラメントが1,4番に合っていたということと思われます。特に1番の52年盤については既述の通りですが、しかし、2番となると一転してこう感じました。

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(1)

僕は別にフルトヴェングラーのファンではなく、ブラームスのファンです。彼の書いた音楽の崇拝者であって、ファンとして「こう演奏すべし」があって、それに近ければ是、遠ければ非というだけです。彼は2番にはうまく共振できていないという結論になりました。

一方、シューマンについてはテンペラメントの合う1番、4番しか残しませんでしたが賢明な判断でした。2番の歪んだ狂気の軋みは彼に似合わないし、3番に至っては彼の秘術、至芸の通じる部分はどこにもないでしょう。

 

以下、すべてyoutubeで音を聴けます。

ルネ・レイボヴィッツ / インターナショナル交響楽団

51Y9BqcRMiLスコアにマーラー以上の改竄があり、第1楽章のせっかくの良いテンポがコーダで瞬時に崩壊するのはがっかりです。再三の指摘ですが両端楽章のコーダに欲求不満を覚えてか加速する指揮者が多くいます。マーラーを始祖とし、肥大化した後期ロマン派のオケ目線から「シューマンの管弦楽法は下手くそ」とする人たちと源流を一にします。レイボヴィッツのベートーベンの読みが同じアプローチで一貫しているのは評価するのですが、時代がシューマンまで下るとワーグナーに発したブルックナー、マーラー路線とクララ、ブラームス路線の分岐の起点がやってくるのであって古典派のようにはいきません。

 

セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

4148MOPwOML僕にはテンポが遅いのですが、盤石でゆるぎないラインの流れです。深々したオケの響きがなにかを語りかけ、意味深く神判のように鳴るティンパニに宗教的なものさえを感じる不思議な第1楽章。細部まで一点もゆるがせぬ神経で支配する彼の世界です。実に濃い。コーダの雄大なこと!テンポの不満を言うこちらが稚拙に感じてしまう。第2楽章も遅く、スケルツォでも舞踊でもないレガートの美しい絶対音楽。第3楽章はさらに遅い、春の森の陽だまりの夢想。第4楽章はテヌートのかかった各声部のまとわりが教会にこだまする交唱。こういう音の作り方、只者でないです。終楽章、やや遅めですが第1楽章と同様にこの速度でないと見えない音楽あり。コーダに向けて熱と密度が上がりますがテンポはそのまま。感服。こういう器量がない指揮者が曲の終結感に自信が持てず、アッチェレランドをかけるのです。マーラー版ではないが彼なりの変更があります。

 

ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー / エストニア国立交響楽団

789オケの音がシューマン的ではないが理想的なテンポで開始し、インテンポのまま第2主題に至っても揺らぐことなしです。エネルギーもテンションも見事であり、非常に満足感あるコーダで締めくくります。但しスコアはかなり改変あり。踊れる第2楽章を経て深みある第3楽章へ。ここは録音が貧しくて惜しい。第4楽章は金管の音がやや異質ですが重たい時が流れています。一転、明るい終楽章はやや弦が荒い。速すぎず良いが、このテンポだと第2主題でやや緊張を欠くようです。コーダもほぼインテンポで僕は満足。おそらくこれは多くの人を満足させないでしょうがこの指揮者のスコアの読みの深さは何を聴いても敬意を覚える水準にあります。

 

トマール・マーガ / ボーフム交響楽団

チェコ出身のドイツ人マーガの名前は懐かしい。オケが二流ではあるがティンパニをアクセントに気骨あるインテンポで通した立派な第1楽章です。スコアはオリジナルのようで中間楽章もロマンに背を向け淡々と進みます。終楽章もなんの細工もないが、管が厚みを欠く分ティンパニがモノを言い、充実のコーダに至って何の不足もない満足感を与えます。こう書けているスコアを二流の感性とテクニックで味付けして出す。素材の味がわからぬ二流の料理人だが、そもそもそういう人がどうして料理人をしているのかが僕にはよくわかりません。

 

ひとつ面白いものを。第4楽章をオルガン編曲した人がおられます。

この楽章を宗教的と書く意味を感じていただけると思います。J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第24番ロ短調の前奏曲、聞こえてきませんか?

(ご参考)

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第4楽章)

 

(こちらへどうぞ)

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(5)

 

 

 

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(3)

2017 JAN 17 12:12:58 pm by 東 賢太郎

エリアフ・インバル / フランクフルト放送交響楽団

042この録音が実演で聴くこのオケの音に近いのですが、アンサンブルの力は高いですがドイツにしては幾分軽く深みがありません。インバルは耳がよくピッチと楽器のバランスはいい、ただテンポは作為的で第1楽章第2主題後の減速はクレンペラーのような至芸は感じず人工的です。コーダはややテンポが動いて盤石感も興奮もなく中途半端。終楽章のテンポはいいですね、これは理想的だ。そのまま行けばいいのにコーダは加速、それがインバルの感性ということですね。採れません。

 

リッカルド・ムーティー / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

707えらく元気がいい出だし。この変ホ長調の音楽はVPOの美質と得意技がほとんど効かないということがわかる意味で面白い演奏です。ドレスデン、ライプツィヒのドイツ的重厚感のほうがずっとフィットするのですね。第1楽章はムーティの悪い面が出てうるさいだけに終始しますが、加速はなしであり、彼はいけいけのイメージがあるがそういう安っぽいことには控えめなのがここにも出てます。第4楽章は教会の厳粛な空気が良し。終楽章のテンポはとてもいいですね、コーダの前のホルンは生きてます。コーダは既述の誉め言葉が許すぎりぎりの加速がありますが、まったくない方が感動的でした。

 

ギュンター・ヴァント / 北ドイツ放送交響楽団

200x200_P2_G2104724Wティンパニを強打してどっしりと速めの出だし。アンサンブルは緊張感のなかで大変に緊密で筋肉質です。しかしほかの3つの交響曲はそれが生きますが、3番は引き締めがきついとポエジーがなくなる難しさがありますね。以前は骨っぽさが良いと思った演奏ですが、こっちも年をとったのかいまはドラムと金管のリズムの強調が軍楽のようにきこえます。ほぼインテンポで一貫する第1楽章、終楽章の頑固な潔癖さは好みですが、似た路線ではセルの方が芸格が上ですね。

 

クリストフ・エッシェンバッハ / 北ドイツ放送交響楽団

41X23A9NE2L上記と同じオケで音の質感はヴァントと似ますが指揮の性格と録音の違いからこちらのほうがしなやかな柔軟性、流動性を感じます。アンサンブルも横の線に目配りがあり残響のブレンドが美しいのはこちらの強力な美点です。テンポは微妙に曲想に合わせてゆらぎますが不自然でなく、エッシェンバッハの指揮はドイツで何度か接しましたがピアニストの余技の域ではありません。終楽章の快活はほんの少し速いし軽い。コーダのテンポは手が込んでますが効果は薄いですね。

 

ダニエル・ガッティ / マーラー室内管弦楽団(2014年6月9日)

素晴らしい演奏です。ドレスデン音楽祭のクラウディオ・アバド追悼演奏会。オケの自発性が見事で、木質の響きは上質でまことにシューマンにふさわしく、リズムは心地よくふっくらとはずみ、弦の中声部が厚みをもって鳴り切り、トゥッティも音楽に感じきった強弱が実に美しい。音楽心と詩情に満ち、大きな室内楽のようなアンサンブル。もう良いことづくめです。第1楽章はガッティを祝福したい名演で、このテンポは全面的に支持します。第2主題への移行がうまく、ホルンの音色美は抜群で要所のトランペットも品格をもって存在感を見せ、コーダは微動だにせぬ不動の威厳、これでなきゃ。第2楽章はスケルツォに聞こえるテンポですが木管がうまい。第3楽章は耽美的で花園のようなマーラー的世界。音色のブレンドと変化がデリケートで、ガッティが縦線にこだわらず個々の奏者の感性から詩情を引き出してます。この楽章を極点として、全曲をシンメトリーととらえるアプローチでしょう。第4楽章、ホルンとトロンボーンの横の線を出しつつ管弦のレガートの絶妙のブレンドで暗めのオルガン的な音色を出し、終結の2度の不協和音への深い呼吸からの持っていき方も痺れます。オケのピッチがいいからこそできることですね。終楽章のテンポもagreeです。出だしの弦は羽毛のように軽く、フルートを浮き立たせて、いいですねえ。コーダは、僕は「もっとインテンポ」を望みますが、決して浮ついたアッチェレランドはなく、これもぎりぎり有りでしょう。最後の和音が鳴って、皆さん、舞台の顔、客席の顔をご覧ください。団員は抱きあってます。この交響曲にどれだけ人を幸せにするパワーがあるか!こんなものがそんじょそこらにあるでしょうか?人類史に残るかけがえのない名曲、ただただロベルト・シューマンにこうべを垂れるのみです。

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(4)

 

 

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(2)

2017 JAN 17 1:01:58 am by 東 賢太郎

オットー・クレンペラー / ニューフィルハーモニア管弦楽団

200x200_P2_G1606500W古老がゆったり人生を回顧するように、されど雄大なスケールで開始します。第2主題に悲しい陰りがありメンデルスゾーンのスコットランドを思い出す、これは本当にユニークな表現で敬服です。第2ヴァイオリン、ビオラの内声部が生き、木管も意味深い。ホルンはここではライン河畔の古城を強く想起させます。コーダは一切の加速なし、そんな小技には目もくれない大人の芸格ですね。第2楽章もダンスには遅く中間部は愁いを帯びる。第3楽章は情緒綿々たる真にシューマネスクな世界です。第4楽章は一転して峻厳なバッハの宗教世界。そして死のにおいのするそこから人間界の生の喜びに回帰する終楽章。ここも人生急がず一歩ずつでこんな遅いのはめずらしい、僕はもっと速くしたいがクレンペラーなりのユニークの極み。極く少し速くなるコーダに至り、そこからまた減速してどっしりと終る。このスコアはこうも読めるのかという印象です。

 

カール・シューリヒト / シュトゥットガルト放送交響楽団

11_1101_01冒頭からいきなり弦がなよなよのヴィヴラート、レガート、ポルタメント攻めで絶句です。実に薄気味が悪い。マーラーより対旋律の楽器を増やしてそっちの方が目立って奇異な音が鳴るというのは、もういったい何が始まったんだというレベル。コーダの加速にヴァイオリンのオクターヴ上昇など怒りすら覚えます。しかしそんなのは序の口。第3楽章の木管への楽譜の漫画的改変はひどい、なんだこりゃディズニーか?第4楽章、最後の厳粛な和音に能天気な弦をかぶせるなんてシューマンの意図台無し、勘弁してくれよですね。終楽章はいいテンポで始まったと思ったら弦のままのはずが突如木管に切り替わり、悪いジョークかと笑うしかない。ストコフスキーも改悪と言われましたが、こんな珍妙で下品なのはない、まさに空前絶後である。シューリヒトは敬愛する指揮者ですが、彼にしてラインはこんなゲテモノになってしまう。いかに特殊な、特別な音楽かということが逆にお分かりになっていただけると思います。

 

アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団(1949年)

783開始のテンポは堂々たるものですがトゥッティのオケが乾いた音でシューマン的とはほど遠いです。トスカニーニのカンタービレの技が生きないしピッチもNBCにしては甘い。そういう曲ではないのですね。コーダを加速しないのはさすがですが、オーケストレーションも耳慣れない楽器バランスがありどうもひたれません。第4楽章は暗めの音で雰囲気をつかんでいますが金管のフォルテはやはり外面的に響きます。終楽章の弦はNBCと思えぬほどがさつ。指揮者の共感がないんでしょう、コーダの金管の合いの手も下品であり、加速こそないがどうしてこれを振ったのか不可思議であるかなりずれた演奏ですね。

 

フランツ・コンヴィチュニー / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

706 LGOの弦は4番ニ短調では良く鳴ってますが変ホ長調のこれはくすんでます。ドイツのホルンの古色蒼然の音色がまたそれに合っていて、ティンパニも響かず、全体にどことなくヌケの悪いのがこの曲調にはいいんです。そして、何といってもテコでも動かないテンポ。これですよ、コーダはこうでなきゃ。第2楽章も朴訥な農民のダンスです。第3楽章の暖かみあるクラリネットも昔の風情。第4楽章は暗い森の中のような色調。終楽章もあか抜けない田舎の村の集いの風情で、たぶんシューマンが指揮してもこうなるんだろうと連想します。彼は田園交響曲を書いたんです。再現部まで来ると音楽が暖まってきます、そしてコーダは少しだけ快活なテンポになりますがそのまま終わる。これですね。

 

ディミトリ・ミトロプーロス / ミネアポリス交響楽団

R-7955764-1452373254-5198.jpeg「耳の化け物」の興味深い録音です。やや遅めの出だしで第2主題は大きく減速。ロマンティックな表現です。展開部前のパウゼ、デクレッシェンドはユニーク。コーダの減速!はすごいですねえ、しかし悪い印象はなしです。第2楽章の加速、なるほどこれはスケルツォだったんだ、驚きますが見識です。こうなると音は悪いがきいてしまう。第3楽章もテンポは絶え間なく伸縮。終楽章はやや速めですがいい。恣意的のようですべてが手の内にはいった自在さで名人芸ですね。

 

パーヴォ・ヤルヴィ / NHK交響楽団(2005年6月11日)

これはいい演奏です。この演奏会はNHKホールにて聴いておりました。基本的に動かず盤石な全曲のテンポ設計、弦のくっきりしたフレージング、デリカシー、金管のリズムの嬉しげなはずみ、どれも一級品。指揮者が音楽に共感しないとこうはいかないだろうという場面が連続です。オケの音もいつもより暖色系でシューマンにはまことに良し。終楽章のコーダ前に速度を落として見えを切ってから加速するアプローチだけがリザベーションで当日も失望したのを覚えています。そんなことをしなくても曲がいいのだからと思います。

(こちらへどうぞ)

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(3)

 

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(1)

2017 JAN 16 17:17:43 pm by 東 賢太郎

ラインガウのことを思い出していると、どうしてもこの曲に気持ちが向かいます。

第1楽章はローレライに近いこのあたりのラインの船旅で霊感を得たとされますが本当のことはわかりません。調性が同じだからシューマンの英雄だという人もいて、たしかに彼の先人でEs durというとハイドン103番、モーツァルト39番、ベートーベン3番ぐらいしかないのですが、しかしエロイカとはちがいますね。発想の根源が。外面はともかく霊感の根っことしては6番の田園のほうがずっと近いだろうと僕は思います。

あのあたりというのは僕にとってたんに旅行しましたという多くの外国の場所とは一風ちがっていて、家族との大事な思い出の舞台なものだからもう自分のなかではいわば「ふるさと」に近いものになっています。ロンドンやチューリヒもそうではあるのですが、そちらはむしろ苛烈なビジネスの「戦場」という色彩がつよく、ドイツのような幸福の縁取りはありません。38才で我ながら輝いていた時分の心の軌跡が、まるで後光がさすように投影されて見えるのがシューマンの3番であって、クラシック音楽で一番好きなものはといえば迷わず、他に何ら理由もなく、これということになります。

しかし、これを書いたころ、シューマンの精神疾患はすでに進んでいたそうです。このすぐ前に書いたチェロ協奏曲にそれが悲痛な兆候として出ているのでわかります。ところが、デュッセルドルフに引っ越してライン河畔の素晴らしい風景や気候風土や人々の歓待に接し、その気分を音楽に書き取ってみようと思い立った。そこでいっとき神様が病気を遠ざけたのでしょうか、心にそよ風が吹きこんで、微塵も病を感じさせないこの奇跡のような交響曲が彼に降りてきたのです。

だからこの曲は、人間の精神の奇跡でもある。人工知能がいくら進化しようと、疲れ気味のコンピューターにラインの船旅をさせたらこんな曲が書けましたという光景は想像しづらいでしょう。シューマンの精神に効用をもたらした何ものか、その目に見えない何ものかを僕は僕なりに、この曲とは関係のない所でものすごく愛してる気がします。それは言葉や形にはならない、何万年よりずっと遠い先祖がここに住んでいたのかもしれないぐらいの微弱なものだけれど、僕の精神には甚大な作用を持っている、そういう性質のもののようです。

こういう気分の時しかできない作業のため、以前に書きましたこれ( シューマン交響曲第3番「ライン」 おすすめCD)の続編として数ある3番の演奏につき数回のブログでコメントを加えます。非常に悔しいが自分で演奏ができないので、失敬ながら他人様の演奏にああだこうだ言わせていただくことで間接的に自分の思う3番の姿を残したいという努力であります。そのために、思いと違う姿の演奏はあえてばっさり否定しておりますが、私見をクリアにするためであり演奏のほうはその鏡であって価値を論ずるつもりはありません。ご不快があれば何卒ご容赦お願い申し上げます。

なるべくyoutubeで音を確かめられるものからやってまいります。

 

カルロ・マリア・ジュリーニ / フィルハーモニア管弦楽団

PRDDSD-350135-260x260ジュリーニの1958年録音、3回の録音の2番目です。第1楽章の雄大なテンポ!これはヴィースバーデンのワーグナーがマイスタージンガーを書いた家からのライン川の景色だ。フィルハーモニア管がやや即物的でオーケストレーションもマーラー版をベースにかなりいじってるのが気になり、終楽章のレガートの入りも気に食わないしコーダの加速は全く余計である。同じスタイルでさらに大人の表現となっているロス・フィルを採るべきでしょう。ただこの恰幅良さ、些末事に委細構わぬ悠揚としたテンポは指揮者の3番への強い思い入れと愛情なくてはオケにここまで伝わらない。その思いには共感があります。

 

ジョージ・セル / クリーブランド管弦楽団

817大学1年の6月に初めて買ってラインを覚えた思い出の演奏です。セルは3番を指揮できる人だったというのが重要な情報ですね。即物的で冷たいといわれたが、そういう人にこの曲はできないのです。レコードだけ聞いて批評してる人にはCBSの音作りの印象があったと思います。オーマンディの演奏会での音は日本の批評家のいうイメージではなかったですが、同じことはセルにもあったでしょう、彼はアンサンブルには非常に厳しいがとてもヨーロッパ的な感性だった。この3番にアメリカ的なものはかけらもなく第1楽章の終結も安っぽい芝居は一切なし。マーラー版で金管を補強してますが、どこを微細に聴いても立派な音が鳴っていて熟達の表現です。終楽章の冒頭主題のフレージング!!すばらしい呼吸、コーダの盤石なテンポ、最高です。これで曲を覚えたのは幸運でした。

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

743彼はベートーベン、ブラームスは良くてシューベルトはいまひとつ、シューマンもなぜか4番以外はだめです。第1楽章、このオケと思えぬガサツな弦でほとんど練習してないかと思わせるひどい始まりですが、その後もヴィヴラートは過多だし、悪趣味なポルタメントはかかるわ、第2主題はぬめぬめレガートをかけるわ、ホルンのパッセージは意味ありげに安手のリタルダンドするは、再現部は第1主題に意味ない盛り上げの努力をするは、すべてが人工的、表面的で彼はラインガウでゆったりシュタイゲンベルガーなんか味わったことないんじゃないかと訝ってしまう。これが好きな人がいても構わないが僕とは極めて異質な感性であります。第1楽章で充分不合格で後は聞く気なし。

 

レナード・バーンスタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

110VPOの音で始まるがやや力こぶが入りすぎで、テンポが頻繁に無用に伸縮してジュリーニのようなラインの風景が浮かびません。コーダの加速は意味不明で趣味が悪い。第4楽章のマーラーのごときロマン的な解釈は彼の個性としては良しで終結の悲痛さから第5楽章への場面転換は見事ですが、そのアプローチで全曲を劇的に構築しようというのはそぐわないでしょう。終楽章終結へのリタルダンド、アッチェランドは暴力的ともいえるひどいもので、VPOもこの曲がうまいわけでは全然なく、指揮者ともども感性にお門違いも甚だしいものを覚えます。

 

ブルーノ・ワルター / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

316音が悪くて敬遠してましたが前半は悪くはないです。ワルターのラインはこれだけです。第1楽章はややテンポの弛緩はあるがコーダで無用に興奮しておらず、第2楽章の暖かさはワルターらしい。第3楽章はちょっと速いですがこれがスコアの指示でしょう。オケにデリカシーがなく雑然と鳴るところがあるのは惜しいです。問題は終楽章のテンポと弦のフレージングです。これはマーラー版でもなく彼の主張ですがついていけませんし、再現部直前のルフトパウゼにはひっくり返ります。最後も微妙ですがアッチェレランドしてます。向いてません。ワルターファンのためのものでしょう。

(こちらへどうぞ)

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(2)

 

 

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クラシック徒然草《コンヴィチュニーの指輪全曲》

2017 JAN 15 17:17:00 pm by 東 賢太郎

年末に欧米の演奏会プログラムの整理をはじめましたが大量であって、あれこれ思い出してじっくり読んでしまうためまだ終わらないままです。ドイツ時代のを見ているとだんだんその気分になってきて、CDをひっぱり出してニーベルングの指輪を全部きいてしまったりちっとも進まないのです。

ところで先日、人工知能の専門家にこういう興味深い話をうかがいました。

もの忘れの正体

記憶はばらばらに倉庫に入っている。面白いですね、思い出すときは各ピースを海馬に持ち寄って、脳が自分で勝手な「思い出し画像」を作る。でもそれはフェイクですよね。だから過去はフェイクなんです。アインシュタインが過去も未来も実はないと言ったのに平仄が合いますね。

では音楽はと聞けばよかったのですが時間切れだったのでここからは想像になります。

最近、昨日の夕食もときに忘れます。地名やら人の名前がなかなか出てこない。先生のいわゆる「各倉庫からピースがすぐそろわない」わけです。ところが音楽においてそういうことはありません。15時間もかかるリングでジークフリートのあの辺というとパッと出てくる。このアンバランス、何なのか?

記憶は長期と短期があるらしく、それは長期記憶だから昨日の夕食とは倉庫が違うのでしょう。しかし、では昨日聞いた音楽を忘れるかというとそうでもないから変です。しかも音楽は時間とともに変化する記憶だから単発の情報でなく、倉庫は相当でっかくないと入らないと思うのです。

素人考えですが、それは写真と動画に対応するかもしれません。世の中、森羅万象を我々は動画として認識してるから、そっちの記憶の方が定着するのかなと。このトシでまだいくらでも新しい曲を覚えられそうな気がしますが、ひょっとして使ってない9割の脳細胞が少しは役に立ってるのでしょうか?

昔のプログラム、やっぱりドイツのインパクトが強いのです。あそこで聴いた音楽がドイツの記憶の倉庫にぎっしり入っていて、だからドイツの出来事も音楽もいっしょにどんどん蘇ってきます。それがダントツにワーグナーなのは、きっとそれまみれの生活をしてたんでしょう。いや、ワーグナーなんか思えば何も知らなくて、わかったのはドイツに3年住んで聴きまくってからだったと思います。

オケの音というものそうです。ドイツで普段着で通っていたアルテ・オーパーやヤーレ・フンダート・ハレ、あそこで日常に聴いていたドイツのオケの音というのはまったくおひさしぶりになってますね。日本のオケからはついぞ聞いたことがない。出せば出るかというと、これだけ長いこと聞いていてないのだからそれは考え難いことでしょう。

というと日本ではすぐ「音色」の話になります。くすんでるとか渋みとかですね。レコードばかり聞いてるとそういうことになりますが、実際の音ではそんなマニアックな差よりもっと子供でもわかることに誰でも気づきます。音量、ボリューム感ですね。フォルテの音がでかく、音圧が半端でない、それも力一杯がんばってではなく。簡単に言えばベンツの600ですね、あれでアウトバーン200キロで悠々軽々と走ってる、あの感じそのものです。

日本のオケはカローラで150キロ。頑張ってるのはわかるが・・。日本人は清貧で一生懸命好きだからそれで食えてます。それ言っちゃあおしまいよなんでしょうが、しかし、クラシック音楽というのは本来贅沢品ですからね、そこで清貧いわれても苦しい。日本で爆演、奇演が受けるのもそう、必死の形相でスピード違反してもらうと満足する。変態ですね。ベンツ600は出せば300キロ出ますがね、そんなの誰も期待してない。普通に余裕の200キロ、それがいい演奏です。

去年読響でエルザ・ファン・デン・ヘーヴァーという人のR・シュトラウス「4つの最後の歌」を聴きましたが、彼女の声です、あれは日本人には出ない。発声の知識はないですが、まずあの体格がないと難しいのでしょう。音量でもあるが、質的なものもふくんだトータルなボリューム感としか言いようがない。じょうずなお歌じゃない、あの絶対の安定、豊穣、聴きながらドイツの風景がさあっと脳裏に広がったですね、彼女の歌で。

ドイツのオケもいっしょです。例えばコンヴィチュニーのシューマン4番、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音をいい音でお聴きになるといい。質量の重い、重心の低い、強い、粘度のある、それでいて中高音にオルガンの質感のあるクリアネス、華やかさがあって、「トータルなボリューム感」がクオリアとなってずっしりと押し寄せるのです。ああこれだと、これがシューマンだと。

シューマンはあの音が念頭にあったはずで、日本のオケの細密でデリケートではあるがボリューム不足のクオリアで、しかもあのプアで痩せた音響のNHKやサントリーでやられても僕は耳にひりひりして不快か欲求不満になるだけです。アルテ・オーパーもヤーレ・フンダート・ハレもホールとしては二級ですが、オケの威力で聴けていたのだということを日本に帰ってきて知りました。

これがワーグナーとなると歌手とオケの両方のクオリアになります。どっちが欠けても、らしくなくなりますからダブルパンチでどうしようもない。

僕はアカウンティング(会計学)は法学部なんで日本では簿記すら知らず、全部アメリカで英語で覚えたから日本語の用語を知らなくて帰ってきて不便でした。ワーグナーはそれと似てます。ドイツは二級のオペラハウスでも歌手はでかいですからね、それで何となくサマになってしまう。歌はへたなんだけど。ボリューム不足を小技のうまさで補うというのは成り立たないんですワーグナーは。

068先日これを見つけて、前から気になっていたので買ってきました。コンヴィチュニー/LGOのワーグナーはあまり残ってなくて、これもコヴェントガーデンのライブですが、そこはカネがあるところ一級品集まるの法則どおり、これが凄いメンツなんですね。何といっても聴きたかったのはアストリッド・ヴァルナイのブリュンヒルデです(これは期待通り)、そこにヴォルフガング・ヴィントガッセン(ジークフリート)、ハンス・ホッター(ヴォータン)、クルト・ベーム(フンディング)とくるとですね、これはもうV9時代の巨人軍であります。これで負けたら仕方ないねという。

59年の録音ですから原音のクオリアは収録されてない。しかし、そこで冒頭の人工知能の先生の話になるんです。

頭の中でドイツ時代のワーグナーの記憶のピースが合わさって、アストリッド・ヴァルナイの声は耳にびりびりきてるクオリアを感じます。フェイクなんですけれどもね。しかし、いくら最近のいい録音でも、いえいえライブですらですよ、こんなことはめったにない。この録音に物理的に収録されているものは乏しくても、原音が宿していたクオリアは僕があのころ聴き覚えたそれに共振して、その倉庫から記憶をひっぱり出すのではないでしょうか。

 
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クラシック徒然草―最高のシューマン序曲集―

2016 OCT 9 0:00:32 am by 東 賢太郎

レコード芸術というものがジャズにもクラシックにもあるということを書いた。それは録音されたレコードやCDという媒体が「商品」という存在であることを製作側も消費者もが認めあった市場において成立、流通しているメディアの一形態のことだ。

演奏会も実は音楽や会場の空気、体験というものが商品であり、それを聴衆がカネを払って買っている。しかし、偽善とまでは言わないが、それはそうではない、オペラやリサイタル、ジャズのライブハウス等に行く自分、それを解する集団の一員である自分を肯定し芸術を賛美し擁護しているというプライドであって、サービスに対価を払うという野卑な商行為ではないという暗黙の了解が成り立っているように思う。

その意味では、オンラインショップやCD屋で録音を売りさばく行為としてレコード芸術はすっきりとわかりやすい資本主義の俎上にある。音楽家といえども仙人ではない。そしてモーツァルトもベートーベンもまったくもって仙人ではなかった。もしも彼らがレコード芸術というものを手にしていたならきっと売り上げを大いに気にし、ライバルと競っただろう。

グールドやビートルズは演奏会を否定したが聴き手がそうなる道理は特に見つからない。僕はコンサートやライブハウスで受けるサービスという商品に対価を支払って楽しんでいるし、同時にCDという商品を求める消費者でもある。しかしそうして資本主義原理によって決まるプライス(CDやチケットの「お値段」)を介することによって芸術は商品として市場に埋没し、流通しなくなる運命を背負っているということはもっと気づかれないといけない。

英国のグラモフォンという老舗の音楽誌がある。ここに執筆する評論家諸氏はさすがに資本主義の元祖であるジェントルメンで、録音(商品)の演奏ばかりでなく音質のクオリティや演奏様式の希少性などを総合的な価値としてプライス(単価、例えば何枚組か)が妥当かどうか、つまり商品価値としてgood value for moneyかどうかを推奨の判定基準とする人がいる。

これはレコード芸術はゲージュツであって商品などではないというスタンスが基本であるわが国ではあまりみられない。その割に「精神性」のような形而上的な要素が価値を膨らませて、雑音ばかりで音すら聴き取りにくい「巨匠の名演」が高値で取引されたりするわけだ。これは芸術はおろかゲージュツでもなく、神棚や仏具を選ぶのに近い。

僕は自分のLP、CDのコレクションの中に、神でも仏でもないから御利益は特にないが、その代わりに何度聴いても喜びを与えてくれる素晴らしい録音をいくつも知っている。それが英国の評論家なら激賞しそうな廉価盤だったりするから面白い。僕は証券マンだから good value for moneyには目がない。それを探すのがCD屋に出入りする理由の一つだったりもする。実にささいな動機だが、良いものを安く買った快感とは株や債券だけで味わうものではないと思っている。

何が良いかはひとえにその人の音楽趣味による。valueとは自分のそれに合うかどうかという相対的なものであって、世にいう「名盤」に絶対的価値があるわけではない。これまでいろいろ録音をご紹介してきたが、それはたんに僕が好きだというだけであって、食べ物、野球チームの好みや政治信条 みたいにプライベートなもので、音楽においてそれが何かは64種類のブラームスの交響曲第2番の感想文を書いたのでもはや白日の下に晒されただろう。

51o4ypbrhtl-_sx425_それを読んでいただいた方はどうして僕がこの「シューマン序曲集」が好きかはお分かりいただけると思う。これは最高に素晴らしい。何度聴いてもいい。秋にぴったりだ。演奏はなにも変わったこともとんがったこともない。大指揮者でも高性能オケでもなんでもない。録音も東欧的で地味一色である。だからどうしてこれが好きかと言われると困る。あえていうなら「普段着」。欧州でこういうのを気軽に聴いてたからだ。普通の人の普段着、それが映画になったり雑誌のグラビアになることはないだろう。つまり、DGやDeccaみたいなメジャーは商品化しないのだ。それがNAXOSという廉価レーベルだと、商品になっている。その希少性こそ、僕にとっては値千金なのだ。

これはPCなんかで聴いてもわからない、CDをしっかりとオーディオ再生してほしい。滋味あふれるくすんだオケの音色、日常から発揮しているに違いないシューマン演奏に水を得た魚の楽員の音楽性、包み込む見事なホールトーン。オーケストラを聴く喜びを心から味わえる。このコンビが同じホールと録音エンジニアによってベートーベン、ブラームスの交響曲全集を録音してくれたら僕は1枚2500円でも全部買うだろう。しかしこのシューマンは1枚1000円の廉価盤なのだ。レコード芸術の商品価値とはそうやって不可解に決まる。

 

 

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クラシック徒然草―ミュンシュのシューマン1番―

2016 OCT 2 15:15:41 pm by 東 賢太郎

アメリカに住んだ2年間(1982-84)というのは僕のクラシック・ライフにとって危機だった。フィラデルフィア管を聴いたりオーマンディーやバーンスタインやチェリビダッケに会えたりといいこともあったが、とにかくMBAの勉強というのは朝から夜中まで殺人的に激烈で、時間もないし心の余裕なんか微塵もない。最初は英語がさっぱりで授業についてさえいけず、発狂寸前だったと書いてちっとも誇張ではない。

野村證券は当時からハーバード、ウォートン、コロンビア、スタンフォード、シカゴ、MITなどのMBA取得者がごろごろいて、金融界最高峰であるウォートンの入試になんとか合格はしたものの渡米前にそういうこわい先輩がたに散々脅かされた。それも「お前、落第などしたら一生の赤恥だぞ」「また支店に戻すからな」なんてドぎつくだ。人事発令があった当初は、ビジネススクールなんてタイプライターの練習でもするんかいとお気楽トンボの無知であった僕は、それで一気にシベリア出征する兵士の悲愴な心境となっていた。

当時、社則で社費留学資格は独身ということになっていた。留学したいと挙手したわけではなく突然の社命だったのでこれは調子悪かった。梅田の寮生活が2年半あってそろそろと思っており、2月の結婚を決めてしまった。先日先輩のご令息の結婚式があって、イケメンの彼はコロンビア大学のMBA留学が決まって「アメリカに一緒に行こう!」がプロポーズだったそうだが、こっちはそんなカッコいいもんじゃない、家内には結婚して一緒に行ってくださいとお願いしたのであり、その先には人事部長へのお願いという難事が立ちはだかる綱渡りだった。このお願いが通ったので社則がかわり、野村の若手ホープであるご令息はプロポーズできた?ということになるのを彼は知らないだろう。

そんなドタバタだったからアメリカに送る荷物にLPレコードを入れようなんて発想は出ようもない。認めてやるから最初の半年は一人で行けという会社の妥協的お達しで新婚もへったくれもなく単身赴任、しかも大学院の寮で米国人とルームシェアだったから音楽なんてきけない。これは参った。授業はわからないし予習復習に追いまくられてマックで外食する時間も惜しく、毎日自炊?でラグーソースをぶっかけたスパゲッティで生きのびていた。心身ともに栄養失調でふらふらだった。

やっと半年たって家内が来てくれて生き返った。部屋は家族用の寮に引っ越した。しかし勉強はますますハードになってきて毎日図書館にこもって猛勉強で、深夜0時に来る校内警察のパトカーで帰宅していた(そんなに治安が悪かったのだ)。そうこうして、やっとなけなしの貯金で念願のオーディオ(安物のカセットプレーヤー)を買った。ダウンタウンのサム・グッディというレコード屋に毎週末しけこんで飢えた狼みたいにカセットテープを買いあさった。これと家内がつくってくれる日本食でなんとか発狂と餓死だけはまぬがれたというところだ。

しかしだ。店頭に並んでいるカセットのレーベルはというとCBSやRCAやVoxなど米国ブランドばかりで、英国のEMIとDeccaは少しあったがDGなどドイツ語圏レーベルはほぼ皆無だった。なるほど、これが「米国市場」というものなのか。指揮者はトスカニーニ、ストコフスキー、ミュンシュ、ライナー、セル、ワルター、オーマンディー、ショルティ、ラインスドルフ、スタインバーグ・・・おいおいドイツ人はどこだよ?おれはドイツ人がやったベートーベンが欲しんだ。

欧州から呼んだり亡命してきたりした彼らはいわゆる「外タレ」軍団で、彼らが振った米国のオーケストラのレコードを「本場もの」として付加価値をつけて売る。そうやって米国市場は「閉じて」おり米国資本が潤う仕掛けが出来上がっていた。それは英国もそうで、フルトヴェングラーやカラヤンに英国のオケを振らせたのだが米国は亡命ユダヤ人に強みを発揮していた。ドイツ語を母国語とするオーセンティックな巨匠がベートーベンやブラームスを本場流に聞かせる、そこに価値があったのである。

余談だが、そうやって拡大したクラシック米国市場は情報・メディア・テクノロジーを牛耳るユダヤ産業であり、外タレにドイツ人がいないのも道理であった。ナチだったカラヤン招聘など論外であり、真偽はともかく反ナチといわれたフルトヴェングラーはドイツ系に熱望されたがユダヤ勢力に潰された。クレンペラーは首尾よくシェーンベルグもいたロスに呼んだが、あいにく彼はチープな米国文化が大嫌いだった。そこで産業が熱望したのは米国国産のユダヤ人のスターだ。それがレナード・バーンスタインの正体である。

ふたりのユダヤ人、ワルターが持ち込みアブラヴァネルがユタで全曲録音したマーラーの交響曲はバーンスタインの伝道で新たな「旧約聖書」となった。ドイツ音楽産業の本丸DGはLPの恰好な長時間コンテンツとして無視できなくなったマーラーをおずおずとカラヤン、イタリア人ジュリーニ、はたまた極東の小澤に録音させた。遠巻き作戦を転換してウィーンフィルによるバーンスタインのマーラー録音に踏み切ったのは、バレンボイムがイスラエルでワーグナーを振ったぐらいの歴史的事件だ。僕はVPOのヴィオラ奏者から「マーラーはバーンスタインに教わった」との証言を得た。それがいい口実になったということだ。

英国EMIはフィルハーモニア管を人質に差し出して米国を逃げ出したクレンペラーを囲い込み、マーラーの弟子としてワルター、バーンスタインの向こうを張らせにかかったが、彼のマーラーは辛口で大衆うけせず、審美眼から駄作は振ろうともせず、結局は旧約聖書ビジネスとしてはうまくいかなかった。米国・ドイツの狭間でユダヤ資本を巧妙に抱き込んで立ち回る英国の政治経済でのずる賢さをここにも見るが、それがいつもうまくいくわけではないということだ。ちなみにその近年最大の失敗策がEU離脱国民投票実施の愚だったのである。

閑話休題。

ところがフィラデルフィアはイタリア系移民が多い街だ。ドイツ物の需要はさほどでもなくストコフスキー、オーマンディーに独墺のイメージは薄い。だからナポリ人のムーティ―が後任にうまくはまったがサヴァリッシュはいまひとつだったのだ。ムーティーはドイツ物音痴ではないが僕が定期会員だった2年間、あんまり取り上げなかった。「サム・グッディにドイツ語圏レーベルはほぼ皆無だった」のは理由があったわけだ。マーケティングの生きた勉強にはなったが、部屋のカセットは増えてもドイツ人によるドイツ物への渇望はちっとも癒えない。そうでなくても僕のチェコフィルやDSKを好む東欧趣味は既に確固としてできあがっていたものだから、ドンシャリのアメリカ流の安っぽいブラームスなど歯牙にもかけたくない上から目線ができてしまった。

51npsfxd1el-_sx425_そういう飢餓感のなかで、オイゲン・ヨッフム(!)がバンベルグ響(!)を連れてきてやってくれたベートーベンのPC4番(娘のヴェロニカのピアノ)と交響曲の7番、アカデミー・オブ・ミュージックの忌まわしいほどくそひどい音響にもかかわらず、かつてこんなに渇きをいやしてくれたコンサートはなく、まさしく絵にかいたような砂漠のオアシスであった。ドイツ物タイトルを買い揃えていたらシューマンのシンフォニーで、米国のオケではあるがとてもドイツ的な音と演奏の楽しめるものを発見した。セムコウ/セントルイス響の全集がそれだ。感涙ものだった。本当にお世話になった。

6700247そしてなんといっても毎日のように聴いて格別に思い出深いのはミュンシュ/BSOの1番「春」だ。これは本当に素晴らしい。ラッパがあっけらかんと明るいが、ミュンシュはそれを逆手にとって終楽章のトランペットの合いの手、パラパパパパの軽妙なリズムを浮き立たせて個性としてしまっているからしたたかだ。それが耳に残って離れないから作戦大成功だ。こういうきわめて特別(occasional)な思い出と一体となった音楽の記憶は一生ものなのだろう、聴くとちょっとしたフレーズの特徴にでもあの頃を思い出すが、それは昭和の歌謡曲で学生時代が目に浮かんでくるのとなんらかわりない。この演奏はアメリカのオケ=チープという、今思うと大きく見当はずれの偏見を根底から払しょくしてくれた恩人のような存在で、本稿に縷々書き綴った我が若き日の物語が詰まったものだ。いま我が家の装置で鳴らした堂々たるボストン・シンフォニーホールの音響は、当時のカセットの貧しい音からは想像もつかぬ、有無を言わせぬシューマンの音である。ミュンシュという人はスタジオ録音でもライブのような棒であったとみえ、アンサンブルはテンポの変化でやや乱れたりするがそれが魅力であったりもする。僕のような思い入れがなくとも、当時のボストン響は非常に優秀でありこの演奏も活気に満ちた名演となっている。これをぜひ聴きいただきたい。

 

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(2)

 

 

 

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シューベルト 交響曲第2番変ロ長調 D.125

2016 JUL 31 0:00:03 am by 東 賢太郎

7月のように大凶で気が滅入ったときに明るくしてくれる音楽の一つがシューベルトの交響曲第2番です。僕はシューベルトの交響曲でこれを未完成とザ・グレートの次に愛しています。なにせ17才の作品だから習作と思われているかもしれませんが、与えてくれる愉悦感と生命力は大きなものです。

17才前後の作品というとモーツァルトは交響曲第29番、メンデルスゾーンは真夏の夜の夢序曲、ビゼーは交響曲ハ長調です。いずれ劣らぬ天才の作ですが、中でもシューベルト2番は旋律美にあふれ、形式美、管弦楽の色彩とのバランスにおいて秀逸と感じます。ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの系譜のど真ん中に位置する立派な作品です。

シューマンは2番をザ・グレートに触発されて書いたとされますが、ブラームスはシューベルト2番に賛辞を残しており、年下の彼が知ることになったのだからシューマンがこれを知っていた可能性はあるでしょう。

2番の第3楽章はこうです。

これがシューマン4番の第3楽章です。

これをどう聴くかは皆様の主観ですが・・・。

第4楽章の展開部に不安定な短2度の緊張から転調に至る高揚があり、その頂点で弦のユニゾンで新しい動機が強い主張をする(ここ)、

schubert3

またはヘ長調から変ニ長調への唐突なものをはじめとする目まぐるしい転調など、ザ・グレートへの進化の種子を感じます。低弦のユニゾンが下がっていって転調するのは未完成の萌芽です。

 

ホルスト・シュタイン / バンベルグ交響楽団

51Ail1cpyyL._SX425_この曲の真価を教えてくれたばかりか、古典派におけるオーケストラ演奏の「究極」の美しさをさえ伝えてくれる最高の名演です。中欧系のオケの美質がどんなものか知りたい方は、この弦のスタッカートの入念でありながら生命力にあふれた音、管楽器の素晴らしいピッチと自発的なリズムの活力、出しゃばらないが見事な存在感でくすんだマストーンのインパクトを形成する金管と打楽器をお聴きになるといいでしょう。この2番は僕の宝物のひとつですが、オーケストラとは不思議な生き物で、この全集の未完成はまあまあ、ザ・グレートはかなり不満で終わっています。

 

ウォルフガング・サヴァリッシュ/ ドレスデン・シュターツカペレ

591古雅な味わいでバンベルグ響と双璧のDSKはこれとブロムシュテットがありますが僕の趣味はこちらです。第1楽章、ヴァイオリンが軽い弓で刻むスタッカートの合わせと見事なピッチ、第2楽章の室内楽的な沈静、第3楽章の活力(大変にシューマンを想起させる)、終楽章は無窮動的に走らず交響曲の威容と終結感を出しますが木管はチャーミングの極みです。総じて彼のシューマン全集に通じるものがあるので、それが好きな方はこちらも趣味に合うものを発見するでしょう。細かいことですが第2楽章第4変奏の4小節目でホルンのgとクラリネットのf#が短2度でぶつかる(おそらくシューベルトの意図せぬミス)のがはっきり聞こえています。

 

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英国人がドイツのオーケストラを振ると?

2016 JUN 27 2:02:12 am by 東 賢太郎

きのう父から電話があって、「癌が治った」らしい。去年の末に前立腺に見つかってこれはまずいということでホルモン剤の注射を3回うったのですが病院も「癌もトシよりですから」ということで様子見だったのです。

そういえば自分の健康のほうは忘れていて、体重はみごとにボトムを打って反転。腹囲もまずい。思えば今年は2回しか走っておらず、気がついたらもう半分過ぎてました。ということで天気もいいし二子玉川10キロコースへ。

途中、橋のところで猫をさがして寄り道。猫は好きな人がわかるので寄ってきて、腹を上にしてコロンとなる。しばし撫でて遊ぶ、これが効果絶大なヒーリングになるんですね。

そして、意外に問題なく完走。体は若いなとにわかに自信が出てきて、最近の相場の変調でへたってたのですが疲労が一気に吹っ飛びました。ふつう疲れるもんですが、体と心は別なんでしょうか。

途中で気のせいかもしれませんが、どこかのお家からシューベルトの即興曲・作品90-3変ト長調のメロディー?らしきシ♭ がきこえて、帰ってすぐ弾いてみるとやっぱりそのシ♭ みたいで、このところシューベルトづいてるもので不思議でした。この曲の美しさは尋常じゃない、練習しなきゃ。

モーツァルトより5才も若い31才で死んでしまってまだ世に多くを「発見」されていなかったシューベルトを見出したのはシューマンです。さすがの眼力ですね、このことはどんなに強調されても足りないでしょう。

面白いのは彼らドイツ(語圏)の音楽家がハイドン、モーツァルト、ベートーベンのソナタ形式、交響曲の血脈の真ん中にいた、それがEUがドイツ主導になってしまうのとどこかダブルフォーカスすることです。

彼らの根っこには大バッハがデンと鎮座していた。フーガを書く技法で彼はナンバーワン、オンリーワンの人です。それが後輩たちの精緻な主題労作や対位法になる。そして、ハイドンが現れてソナタ形式を完成する。

これはたとえば短歌の57577みたいなもので、ルールという縛りができると遊びは進化するのです。手を使えないサッカーとかですね。その2つが融合した集大成が交響曲だから後輩たちは強かったんでしょう。

そういう緻密さはラテン系、スラヴ系にはなさそうです。形式論理性というか。そして、その才能とまじめさが車や機械や重化学プラントを作ったりに発揮され軍事力につながった。

EUはもともと欧州石炭鉄鋼共同体でドイツを抑える意味あいがあったわけですが、それが反転してしまったのはお前らが怠け者なだけだというドイツ人の言い分は、そこに住んでいただけにその通りと言いたくなる気持ちもありますね。

英国に6年、ドイツに3年、こういう勤務経験のある日本人は多くないでしょうが、Brexitには少々複雑な気持ちを抱いてます。

596

 

たまたまなんですが、シューマンの第3交響曲を英国人ネヴィル・マリナーがシュトゥットガルト放送交響楽団を振った演奏を聴いて、う~んとうならされました。これがすごくいいんです。最高かもしれない。いま一番聴きたい指揮者はといえば、僕は迷うことなくマリナーです。しかも彼のドイツ物がききたい。

 

2010年だったかN響を振ったライン交響曲があって、これにいたく感動したのです。僕にとってこの曲は人生のひとこまであって重たい。良いと思うことなどめったにないのですがあれは本当に名演だった。

このCDは宝物です。シュトゥットガルトは気候はラインガウとは異なりますがアウトバーンを飛ばせばそう遠くはなく、このオケの楽員であそこに行ってライン川を高台で眺めながら葡萄畑の中の修道院クロスター・エバーバッハなんかでワインを飲んだことのない人はまずいないだろう。

その彼らが明らかに喜びを感じてmusizieren、音楽している、これってすごいことなんです。第5楽章の内側からわきおこる喜び!これに勝る演奏は知りません。どうやって楽員をここまでのせたんだろう?マネジメントの仕事を長いことしているとそういうことにまで関心がいきます、それほどのものです。

それを英国人がしている、そこがまた渋いですね。もと敵国だからね。しかも音楽は英国が後進国だ。マリナーさんという人はきっとひとかどの人物なんでしょう。そして、ところで、彼は大正13年(1924年)生まれ、うちの親父と同い年の92才だ。

いつまでもお元気で、もう一度、ドイツ物をきけたらいいなあ。

 

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アシュケナージ/N響のエルガーを聴く

2016 JUN 24 0:00:29 am by 東 賢太郎

 

指揮:ウラディーミル・アシュケナージ

シューマン/交響曲 第2番 ハ長調 作品61

エルガー/交響曲 第2番 変ホ長調 作品63

(サントリーホール)

このドイツで始まりイギリスが締めるプログラムは英国のEU離脱派にエールでも送るつもりかと思わせる。ジョークならタイムリーだ。

シューマンの曲には精神病の跡を感じるものがあって、2番はそのひとつ。第3楽章に多いが第1楽章にもある。バーンスタインやシノーポリがその軋みをえぐってつらい音をオケから引き出したが、アシュケナージにそれはない。平穏に通り過ぎて、音楽に語ってくれだ。といってドイツ的な堅牢さを追求するわけでもない。アレグロのテンポは中庸で沸き立つアンサンブルを聴かせるでもない。何がしたかったかよくわからないまま終わった。

これは前座なのさということか。

ドイツ語圏で生まれ育った「交響曲」なるフォーマット。フランス人、ベルギー人、チェコ人、ポーランド人、フィンランド人、エストニア人、スエーデン人、デンマーク人、イタリア人、ハンガリー人、英国人などが参加して作ったが、どれもマイナーでドイツ人のひとり天下。交響曲ワールドはまるでEUそのものである。

エルガーはそのワールドでの英国代表選手だろう。ヴォーン・ウイリアムズ、ウォルトンという好敵手もいるが、たった2曲だけで存在感を出している。その2番をN響はうまく演じたと思う。なんでも弾ける優秀な放送オケだ。

英国に6年間居住した者としてエルガーの音楽は機微に触れるものを感じるが、しかしEUチームのレギュラーポジションを取れるかという微妙かなとも思う。僕はお世話になった英国が好きだが、遠い先祖までたどってもDNAは共有してないなという感じがする。風土も食事も酒も国民性も女性も、そして音楽もだ。

エルガーは調性を捨てなかったがとても非論理的、非機能和声的、非ドイツ音楽的方向に進んだ。しかし、にもかかわらず、捨てなかったわけだ。どうも煮え切らず、曖昧模糊、メッセージがドカンと出ない。ドグマティックでない、理屈っぽくない良さを愛でるのは日本人に好かれる要素だが、僕のような理屈っぽい人間はそれならソナタ形式で書く必要ないんじゃないのと思ってしまう。

ロシア人でありユダヤ人であるアシュケナージはすべての挙動が謙虚でいい人だ。ピアノだって、ものすごい腕の良さだがメカニックにならず、何を弾いてもおっとり人間的で温和な気遣いが根っこに感じられる。技の鋭利なキレ味や豪放な盛り上げや神経質なピリピリとは無縁だ。指揮なんだからもっと大家然としていいと思うがしない。いまの時代のリーダーには向いているのかもしれないが。

 
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