ブルックナーとオランダとの不思議な縁
2014 FEB 13 1:01:10 am by 東 賢太郎
11日時点でのソチのメダル数はノルウエーが11個で1位、日本は2個の17位であります。ノルウエーの人口は500万人で世界の114位であり、北海道の550万人より少ない。考えさせられます。山と雪があればいいというものでもないようです。これも驚いているのがオランダの3位です。スケートはできてもオランダは山がないです。一番高い山でも322.5mしかありません。考えさせられます。
今回はそのオランダにまつわる思い出です。
僕の母方の祖母は長崎人です。いうまでもなく開国前の長崎というのは西洋への窓口でしたし、明治になっても中国(上海)への窓口でした。彼女が嫁いだ家は横浜の生糸貿易商、天下の糸平こと田中平八の傍系でした。長崎、横浜とくれば神戸ですが、僕の家内はその神戸人です。そしてソナーの取締役である僕のパートナーは英国人です。そしてもう畏友と呼ばしていただく神山先生は上海人です。長崎、横浜、神戸、英国、上海。そうしようと意図したわけでない、成り行きにまかせての結果なのですがそれが僕の人生をとりまく諸都市でありなにか強い運命の糸を感じます。
長崎とくれば出島のオランダでもありますが、僕は野村ロンドン時代に2年ほど「オランダ担当」をやらせていただき、この国には数々のかけがえのない思い出があります。そのひとつ、僕の16年の海外生活でも最高に痛快だったエピソードがこのブログにありますのでよろしければお読みください( オリックスのロべコ買収)。
オランダは米国留学中1983年夏休みに家内と欧州旅行したとき、イギリスからホーヴァークラフトで人生初めて上陸した欧州大陸の国だったという意味でも僕にとっては特別です。あの時は28歳と25歳の夫婦でした。身なりは完全なバックパッカーで、安宿のトイレもない屋根裏部屋に泊まりました。アンネ・フランクの家、ゴッホ美術館、それからフォーレンダムというオランダ情緒ある港町へ行って食事したり、とにかく失礼ながらアメリカの文化と歴史の乏しさに辟易していた僕にとって心のオアシスみたいに感じたことを覚えています。
そしてここで文化といえばなんといっても世界に冠たる名ホールであるアムステルダム・コンセルトヘボウがあるのです。
レコードでここの音にぞっこん惚れこんでいた僕がわくわくして訪れたのは言うまでもありません。しかし残念ながらここのレジデント・オーケストラは海外演奏旅行中とのこと、コンサートにはありつけなかったのです。よく考えるとその数日前にロンドンのロイヤル・アルバート・ホール(プロムス)でハイティンク指揮の同オケの演奏会を聴いていたわけで、当然でした(それは僕がヨーロッパで聴いた初めてのコンサートであり、曲目はブルックナー交響曲第9番ニ短調、素晴らしい高貴な演奏でした)。
ホールの音が聴けないのが悔しくて、正面ゲートの扉を押すとスッと開きました。やったぞ、しめしめ、と中へ侵入してみると、もぬけの空で誰もいません。こんなチャンスは2度となし。家内の制止をふりほどいてスタスタと舞台へ登り、撮ったのがこれです。31年前のことゆえなにとぞ時効ということでお許しください(なお、良い子の皆さんはぜったいにまねしないでくださいね)。
ま、これで「コンセルトヘボウの指揮台に立つ」と履歴書に書けます。偽ハイティンクですが。それにしても28歳のわが身、細かったです。この翌年、84年にオランダ担当者になったのも運命の糸の続編という気がします。そしてその末に上記の拙稿に書いたことが起きたわけです。
ちなみにこのいたずら写真の貧乏旅行は、このアムスからベルギーの友人宅へ行って荷物を預けて、まずは鉄道で家内と2人で「シューマン交響曲第3番」の稿に書いたライン下りを経てザルツブルグで音楽祭(カラヤン、アバド)を聴き、あこがれのウィーンでパルシファルを聴き、ベルギーに戻って今度は友人一家と車でパリからフランスを南下してカンヌ、ニース、モナコを経てミラノはスカラ座で蝶々夫人を聴き、ベニス、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ポンペイまで行きました。都合1か月のことでした。
ずいぶん優雅ですが実は大変な「コスト」を払っていたわけで、この間に他のウォートンスクールの日本人留学生は皆さん真面目にサマーコースを受講して2~4単位の貯金をします。夏休みなし。それが日本人にとって過酷なMBA取得の「常道」でした。しかし若さとカネとヒマの3拍子そろうなんて人生2度とないと、僕は落第するリスクを取ってサマーコースは放棄して1か月「丸遊び」したわけです。会社人事部には国内旅行と届け出、学校の教務課にはそういう人間は後にも先にもいないといわれましたが無視。そのツケで2年目は9単位取ることが必須ですが物理的に9科目しか受講は無理なので「1科目も不可を取れない」つまりサドンデスの状態になり、1つでも落としたらMBAを取れずに帰国した留学生という恥ずかしい汚名を一生きせられるというのは覚悟の上の旅行だったわけです。
それでも僕はのんきに2年目は80万円ぐらいでチェロを買って、フィラデルフィア・オペラカンパニー管弦楽団で目立っていた美人でグラマーの首席チェリストのお姉さんに個人レッスンを1年間受けて音楽をみっちり教わりました。楽譜がよく読めるようになったのはこの時です。しかも最後のセメスターは日本人が怖がって避けて通るウォートン最難関科目である「中級会計学」に日本人ただひとり挑戦。自信満々だったところが、受講生50人中15人が米国公認会計士資格者だったことを知り愕然とし、10%つまり5人は必ず不可がつく仕組みなので、最後の3か月はそれこそ死ぬほど勉強しました。ラストスパートでなんとかゴールインできたのですが、ファイナル(期末試験)がおわって数日後のパスできたかどうかの発表は東大の合格発表より緊張しました。それでもあれから30年が経過して、鮮烈に記憶に残って人生の糧になっているのは会計学よりもヨーロッパ旅行の1か月なのです。リスクは取ったもん勝ちです。
さてその翌84年に晴れてMBA(経営学修士号)を取ってロンドン現法の一員となってからは、そのヨーロッパは音楽の都ではなく戦場と化しました。それでも息抜きにはよく遊びました。男は若い時分は仕事よりも遊びで育つと勝手解釈してましたっけ。思い起こせば、ロンドン-アムスのフライトは1時間ぐらいであっという間でした。午後おそい便でヒースローを発って夕方にスキポール空港に着くと、まずは定宿のホテル・オークラの「山里」で日本食を食べます。そこからやおら先輩といっしょにタクシーを1時間飛ばして海辺のザンフォードという街まで繰り出し、カジノでひと勝負というのが毎度のパターンでした。勝ったり負けたり、ほんとうに元気でした。ゴルフもずいぶんやりました。オランダにはスコットランドやアイルランドに劣らない素晴らしいコースがたくさんあるのです。我が国を代表する名指揮者、コバケンこと小林研一郎さんとも2~3回ほどやりましたか。マエストロは54歳から始めたのに腕前はシングル級で、強いはずのベットはコテンパンにやられました。
コンセルトヘボウの話に戻りましょう。このホールの音の美しさは何度も書きましたが、一度行って聴かれたら二度と忘れないでしょう。だから僕は自宅のオーディオルームの設計はここの音をレファレンスにして部屋の縦横比率を工夫して黄金分割にしましたし、さんざんとっかえひっかえ試聴したパワーアンプの音色の選択もそれを意識しました。写真撮影に来た「ステレオ」誌のインタビューでは「コンセルトヘボウで鳴ったウィーンフィルが僕の理想の音」と答えました。ただしそのコメントは「その方がより面白い」というだけで、ここのオーケストラも世界最高水準の音と腕前を誇ることは疑いありません。そういえばコバケンさんは僕らとヒルバーサム・ゴルフクラブで1ラウンド回ってから急ぎコンセルトヘボウに駆けつけて演奏会を振るなんていうこともありました。もちろんチケットをいただいていて、リストとチャイコフスキーの名演を堪能させていただいたものです。
この名ホールで聴いたたくさんの演奏会の中でも最も鮮烈な記憶として残っているものが、オイゲン・ヨッフムが亡くなる3か月前、人生最後に登場したものでした。曲目はこれまたブルックナーの交響曲第5番変ロ長調で、1986年12月4日のことでした。その日の演奏会の録音(左)が素晴らしい音でCD化されているのを見つけた時の喜びは大変なものでした。これは僕の人生の宝物であり、オランダ国との深いご縁からいただいた天の贈り物でもあると思っております。なぜこの日にアムスにいたかというと無粋な理由でして、僕の同期がロンドンに転勤でやってきたために、「東、お前はロンドンの大手顧客をやれ」という上司の命が下って彼への引き継ぎに来たのです。クラシックに無縁な彼は誘っても来なかったので、一人でこれを聴いたのでした。アムスは卒業という記念すべき日でもありました。これがその録音です。
この録音を5番の最高峰とされる方も多いので覚えていることを書きますと、僕の席は第1ヴァイオリンの横手で、ヨッフムさんの指揮姿を左斜め前やや上方から見る位置でした。出だしからオーケストラの馥郁たる音は神々しいばかり。指揮者と作品への楽員たちの敬意がオーラのようにひしひしと感じられて客席は息をのみ、一期一会でもあるかのような只事でない雰囲気にホールごと包まれました。あんな経験はありません。皆さん、これでヨッフムとはお別れということを悟っていたと思います。このホールは客席後方からの反響が僕の位置だと聴こえてきます。膨大な空間を感じるのです。信じていただけないでしょうが、そのエコーのために音響が広い宇宙に鳴りわたっているようで、ブルックナーの混淆がえもいえない効果を醸し出しました。まるでご高齢で動きが小さいヨッフムさんの後光か霊力のようなものがオーケストラを動かしているように感じていました。テンポが落ちた終楽章のコーダの大地の鳴動は一生忘れません。ヨッフムさんは足元があぶなくて舞台のそでで立ち止まって拍手をうけていて、鳴りやまぬ拍手にこたえて第4楽章をもういちど演奏しました。
この日のブルックナー体験から、音楽を非常に微視的に聴く傾向のあった僕は、
「体と精神で聴く」
という聴き方があるということを初めて教わりました。今でも近代音楽を聴くときはものすごく細部まで耳がいっているのですが、ことブルックナーだけはその対極に位置していて、全身で音の波長と振動を感じながら聴いているのです。ドイツの森のなかのようであり、母の胎内に感じたかもしれない波動みたいでもあります。楽典についても、スコアを見たりシンセで再現したりということもなく、7番の第2楽章をピアノで弾いてみるぐらいです。何番が特に好きということもなく、彼が書いた楽章はすべて一様に宇宙の森羅万象を感じ、それが味わいたければどれでもいいのです。とにかく、そんな付きあい方をしてきた作曲家は他に一人もいません。
ブルックナーは曲の完成後も弟子の進言によってスコアを改変しており、優柔不断で自信家ではなかったように言われていますが、僕はすこし違うイメージを持っています。彼にとって交響曲を書くことは「神と宇宙の体現」であり、そこに「一つだけの回答」というものはなかったのだと思います。書こうと思うたびに異なった世界が眼前に現れ、そのどれもが正解であり、どれもが正解ではなかった。だからそれは改変ではなくてもっと正解に近づこうとする「もがき」だったし、何度もがいても近づけずに9番まで書く途上で亡くなってしまった。僕はそう思っています。ブルックナーは何番がいいのですか、誰の演奏を聴いたらいいですかという質問を受けたことがありますが、「何番でもいいから、誰のでもいいから、ちゃんと演奏したのを聴きなさい」とお答えしました。その「ちゃんと演奏する」のは難しいのですが成功している指揮者はたくさんいます。それに身をひたしていればいい。ブルックナーは頭で聴くものではなく、「体験」するものだからです。そういう音楽を前にしてやれ何番のどこのテーマがどう、誰の指揮の何楽章がどうというようなことは皮相的でふさわしくなく、僕はあまりしたくありません。
ブルックナーというと思いだすことがあります。東京からフランクフルトに92年夏に転勤が決まった僕は、まず一人で赴任して近郊のケーニヒシュタインという高台の美しい街に新居を探しました。家族が来るまではさびしく、毎日が長く感じられ我慢の限界でした。やっと家内と2人の小さな娘が来てくれた時の嬉しさは忘れません。毎週末、4人で石畳のこじんまりした街を散歩して食事をし、森を歩いたりお城へ登ったり。ドイツ語はわかりませんでしたが今振り返ると夢のように幸せな日々でした。翌年にドイツ現法社長になってフランクフルトの大きな社長宅に引っ越す必要があり、そこで今年成人した長男が誕生することになるのですが、大好きなケーニヒシュタインを去るのにはとても後ろ髪をひかれたものです。
そのケーニヒシュタインから車でほんの5分ぐらい丘を下ると牧草地の中にバート・ゾーデンというかわいい村があります。フェリックス・メンデルスゾーンはそこに住んでいた姉ファニーの家に避暑にきて、あの天下の名曲「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」を書いたのです!僕は毎朝そのバート・ゾーデンを車で通りぬけて出勤していましたが、メンデルスゾーンもケーニヒシュタインの森やお城を散策したに違いないでしょう。フランクフルトと反対方向に丘を下っていくとライン川のほとりにそってヴィースバーデンに着きます。ブラームスが交響曲第3番を書いた場所も思えばわが家のすぐそこでした。そんな聖地のような場所に4人で住んだ1年間は、もしかして僕の人生最高の幸福な年だったのかもしれないと思います。
あの家の近所の丘や森や高台や商店街を娘たちの手を引いて散策した風景、変わりやすいお天気、ぱらつく雨、霧に湿った空気、小川のせせらぎのかすかな音、森の木々の匂い、石畳の古びた細い路地、そういう懐かしいものが次々と、使い古された言葉ですが「走馬灯のように」フラッシュバックするのが僕にとってのブルックナーの音楽なのです。とても大切なものであり、他の作曲家の音楽を聴くときとは心の持ちようが明らかにちがっています。あえていいますと、僕は5番が大好きです。アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で体感したブルックナーの真髄。それが5番と9番だったことは僕の音楽人生で大きな啓示となりました。これも僕とオランダ国との見えない糸の導きだったのかもしれません。
お知らせ
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ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
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ベートーベン交響曲第7番の名演
2013 AUG 17 9:09:45 am by 東 賢太郎
この曲について記すところは特にありませんが、僕がこの曲で印象に残っているのは83年にオイゲン・ヨッフムがバンベルグ響とフィラデルフィアでやったもの。第4楽章の第1主題でヴァイオリンのボウイングを各プルトでスラーが「あり」と「なし」で弾きわけさせてフレーズをくっきりと描き出すなど、頑固なすし屋の親父がコハダの酢具合にこだわるみたいな仕事ぶりが通好みで感心したのです。これは86年にロンドンでマゼールのピンチヒッターで登場してフィルハーモニアを振った時も踏襲されていて、頑固親父ぶりは健在でした。しかし何種類かあるのですが録音で聴く限りそういう各所での絶妙な「仕事」があまりマイクに入っていない。残念です。
もうひとつは86年に山田一雄が東京交響楽団と文化会館でやったもの。僕は熱演、演歌型のベートーベンは好きでありませんが、これはそれを超越した大熱演で、あそこまでやられると立派というしかありません。英国人のお客さんと聴いたのですが、かなりうるさ型の彼が感動していてちょっと鼻が高かった。故ヤマカズさんの実演はこれしか知りませんが、もっと聴くべきでした。この曲はどういうものが名演なのか自分でもスタンスが固まっていないので、聴き終わってみてその時に感動したかどうかという刹那的な判断しかありませんが以下のようになります。
(補遺、12June 17)
これは米国留学中にFM放送を1984年4月20日にエアチェックしたもの。ギュンター・ヘルビッヒ(またはヘルビヒ, Günther Herbig, 1931年11月30日 – )は録音に恵まれず日本ではメジャーと思われていないがチェコ生まれでへルマン・アーベントロートに師事し、ワイマール歌劇場でデビューし、1957年、同劇場の楽長、1972年からドレスデン・フィルの音楽監督、1977年ベルリン交響楽団首席指揮者・音楽監督を歴任しました。1983年まで君臨したベルリン交響楽団は西のベルリン・フィルに対抗する東のトップですから彼は旧東ドイツ楽界の王道を歩いた人です。
その彼が1984年にドイツを離れ渡米した理由は「東独統一党の政策に嫌気がさした」という情報しかありませんが89年までいたらどうなっていたか。東独指揮界で西側に出て出世したのはクルト・マズアぐらいで、ヘルベルト・ケーゲルはピストル自殺したしオトマール・スイトナーも実力のわりにはポストに恵まれなかった。国が消滅するというのはそういうことなのです。エリートだった人ほど厳しい。岡目八目でそう書くのではなく、僕自身、ベルリンの壁崩壊直後の92年からの激動の3年間をドイツで過ごし、業界こそ違うが金融の世界でたくさんの悲劇を目撃しています。
ヘルビッヒはそれを待たず5年も前にドイツを飛び出し渡米したのだから幸運でした。1984年からデトロイト交響楽団の音楽監督に就任、FM放送のアナウンスによるとこの7番は1983年9月に、翌シーズン(4月から)第10代音楽監督に就任すると発表されたヘルビッヒの披露目演奏会のオール・ベートーベン・プログラムのトリでした。オーケストラも聴衆も期待に満ちた「ハレ」の雰囲気に満ちているではないですか。そして、そういう場にこそ7番という交響曲はふさわしいと感じるのです。今となるとこの記念すべき一期一会の演奏がたまたま録音できたのは奇跡の気がします。
ゲオルグ・ショルティ / シカゴ交響楽団
このコンビはカラヤン/ベルリンフィルと並んで20世紀の演奏史に刻まれるでしょう。そう思ったのは85年2月2日に聴いたモーツァルトの39番とチャイコフスキーの4番です。ロ
ンドンで1日だけロイヤル・フェスティバルホールで開いたこの演奏会は最近DVDになって発売され、懐かしいかぎりです。特に後者のアインザッツ、音程、音量、音色・・・すべてに圧倒され、オーケストラというのはこんな凄いものなのかと思い知りました。ショルティはその後もチューリヒで壮絶なエロイカや亡くなる前の最後の登場となったマーラーの5番を聴くなど忘れられない指揮者の一人です。この7番はシカゴとの旧録音全集で、彼の良さがストレートに出た演奏です。猪突猛進というイメージとは違い、両端楽章はたっぷりしたテンポで入念に彫琢されてオーソドックスながら強い説得力があるのです。快速でぶっとばして興奮を誘うという軽薄さは全くなく、スコアを信頼してそれを十全に鳴らすということでしょう。それでも聴く者を熱くしてしまう。世界をうならせたこのコンビの絶頂の姿をぜひ味わっていただきたいと思います。
ウォルフガング・サヴァリッシュ / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
レナード/バーンスタイン/ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
カルロ・マリア・ジュリーニ / スカラ座管弦楽団
パブロ・カザルス / マールボロ祝祭管弦楽団
ギュンター・ヴァント / 北ドイツ放送交響楽団
オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団(60年6月4日ウィーンでのライブ)
カール・ベーム / バイエルン放送交響楽団(73年5月3日ライブ)
カルロス・クライバー / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
以上が所有リスト54枚のうちで、初めて聴いた時に「2つ星」をつけたCDです(3つ星はなし)。その時どうしてそう思ったのか理由は記憶にないので今回はコメントは割愛させていただきます。
(補遺、2月7日)
カール・ベーム / バイエルン放送交響楽団 (73年5月3日ライブ)
もし7番をいまどうしても聴くならまずこれだ。70年代のベームは最晩年の輝きを見せており、ライブ録音に素晴らしい遺産を残した。別稿のシューベルト9番などその例だ。この7番は音楽が鋼のように剛毅でテンポがゆるぎなく、巨匠の棒にオケの全奏者が渾身の力でついていっている情景が眼前に浮かぶ。といって力任せの音は一切なく、指揮者の体現するベートーベン像に渾身の共感を持って奉仕するオケの磁力のようなものに巻きこまれて聴く者も熱くならざるを得ないという稀有な名盤だ。録音もライブとしては非常に良い。
フリッツ・ライナー / シカゴ交響楽団
高校3年の5月に買ったLP(右のジャケットはCD)で、この演奏で曲を覚えた。当時ピアノもチェロも弾けなかったくせに、「なんだこんなのギターで弾けるコード進行じゃないか」と下に見てしまった。「舞踏の聖化」だリズムの祭典なんだと言われたって、もうそのころ僕は春の祭典を全曲暗記していたのだ。そういう出会いだったからだろうか、後々この曲にエロイカや5番や8番ほどの敬意を持てていない。僕は48種の7番の録音を持っており、そしていま本当に久しぶりにこれを聴きかえしてライナーの指揮は懐かしくも立派であり、オーケストラ演奏の極致の領域に立ち入る名演であると思う。しかし、大変な暴言とは思うが自分に正直に書かなくてはならないので書くが、ベートーベンの名誉になる曲ではないという思いを新たにする。
(続きはこちらへ)
クラシック徒然草-エミール・ギレリスの天上の音楽-
2013 AUG 1 18:18:13 pm by 東 賢太郎
僕の拍手が作曲家90、演奏家10という意味はもうすこし説明が要るでしょう。これは演奏家の価値について云々しているわけでもなければ、感動的な演奏会を聴かせてくれたパフォーマーの才能や努力にあえて少ない敬意しか払わないということを言っているのでもありません。作品が演奏家なしに聴かれることはないように、演奏家も作品の力なしに感動を与えることはできません。それはいかにも当たり前のことですが、作品のクオリティと演奏家の演奏能力がここで問題にするようなレベルに達しているものという前提において、いよいよ最後に、その両者の関わり具合というものが聴衆に与える感動の大小というものを決定づけているのだという僕の経験を述べさせていただく必要があります。
神童といわれる子がリストを弾くリサイタルがあったとして、それを大家の弾くシューマンのそれと同じ興味を持って僕が会場に赴くことは100%ありません。まず、僕にとっては、リストは誰がどれを弾こうと食指の動く相手ではありません。それがリヒテルだろうと。だから感動の総量はおのずと知れていて、「90部分が満点」であっても僕は満足して帰りの電車に乗らないだろうことを自分で知っています。次にそれを小学生の子が完璧に再現したからといってリヒテルに勝るはずもないでしょう。あるとすればこんな子がという意外性だけです。でもそれは、僕の中においてはサーカスで犬が数字を当てましたというのと何もかわらない。では、子供がシューマンを弾くというなら? 聴いてみるかもしれませんが、そしてそれがリヒテル並のものなら、それは評価しないはずがありません。ですがそれは「90が満点だ」ということです。鐘が十全に鳴ったということ。突き手の年齢に反比例して鳴りが良くなる、という風に聞こえるようにはあいにく僕の耳はできていないのです。眼が不自由な辻井 伸行さんのピアノ。実演に接したのは1度だけですが、それは純度の高いクリスタルのようなタッチと明敏なリズム感で非常に印象に残っている見事なラフマニノフの協奏曲2番でした。彼が身体的ハンディキャップを圧(お)して完璧なテクニックを披歴しているという観点から幾分でもその演奏を高く評価するなら、それは真の芸術家に対して大変に失礼なことです。そういう彼の音楽創造プロセスの因果関係などとは一切かかわらず、彼の生み出した音は非常に美しいと僕は思いました。
演奏会でXの感動をいただいたとして、そこに演奏家のプレゼンスがX/10ぐらいしか感じられないケースというのが、実はあまりありません。弾き手の存在が神のようにほぼ消えていて、鳴っているのはベートーベンやモーツァルトそのもの、その純粋無垢な音楽美のエッセンスだけを感じさせてくれるというケースです。僕はこれが音楽演奏というだけではなく、それを必然的に内包している音楽創造というものの理想ではないかと信じています。井上直幸さんのモーツァルトは、おそらくそういう風に聴き手に届けることを目的として弾かれています。僕にはそう聞こえるのです。彼がリストの「超絶技巧」やラフマニノフの3番を弾いたかどうかは知りません。きっと弾けたのだろうけれど、だからといってそういう曲を彼がモーツァルトと同じ姿勢で弾いたということは到底考えもできないことです。彼は、僕の想像する限り、X/10を良しとする演奏家です。だからモーツァルトのような音楽を演奏してXを最大化することができるのです。逆に見れば、彼はモーツァルトの天才の深奥まであまねく見抜いているという知性と感性のおかげで、10の力で100の感動をそこから引き出しているともいえるのです。これが名人の技でなくて何でしょう。一方で、そういう性質の音楽というのは、「彼の存在」がX/8になりX/6と大きくなるにつれて、Xは反対にどんどん値を低くする関係にあると僕は感じています。派手なアクションで汗だくになって飛び跳ねる指揮者の運命交響曲が別にだから素晴らしいわけでも何でもないように。マルタ・アルゲリッチがモーツァルトを弾くのはこわいと言ったのは、何らの技術的な問題をはらんだことであろうはずもなく、彼女の演奏家としての信条や持ち前のスタイルがひょっとするとXを逓減させてしまうのではないかということを、僕とは全く異なった角度や論理や本能から彼女が感知したからではないかと思っています。
僕がリストやパガニーニの類の音楽に関心を抱いた経験がないのは、仮に井上さんのような真の芸術家が弾いたとしても「彼」がX/10でとどまっていることがどうしたってできない、要するに、曲の方がそういう風に書かれていないからです。リスト自身が公衆の前で目立つことを目的として書かれた曲だからX/2ぐらいがいいところ(最適解)であって、がんばってX/10でやってみたらXを減らすだけ、つまり聴衆を退屈させるだけの曲なのです。そして、なんとか最適解を得たところで、僕には何の感興も引き起こしません。自分はそうではないという方がたくさんおられるはずですし、そういう方はここでこのブログを閉じていただきたいのですが、僕にとっては大半のイタリアオペラのアリアも同類であります。X/1.2ぐらいに書かれているのもあるように思う。へたすると初演した歌手でないともうだめなんじゃないかというぐらいの数値をもった曲、例えばユーミンやらカレン・カーペンターの曲がきっとそんなものだろうと推察できるレベルまで特定の演奏家の声が作曲の前提だったんじゃないかと見えるようなのもあります。実はモーツァルトもまったくもってそうやって、服を仕立てるように特定の歌手に合わせたアリアを書いたのですが、彼の声楽書法の非常に器楽的な側面が救ったのと、何よりいかように何をどう仕立てたとして結果が紋切型に終わらなかったという、彼の天才を説明するに欠くことのできない顕著な特性があいまって、時代を超えてユニバーサルな音楽となっています。今日の魔笛は良かったね、ところであのパミーナは何という歌手だったっけ?ということがありうる。X/10が成り立つのです。ヴェルディやドニゼッティのプリマでそういうことはあまり想定できないように思います。
では、その日の演奏会の感動のほぼすべてを演奏家が占めてしまう、つまりX/1に限りなく近いようなことは起こりえないのでしょうか?僕はそういう経験は2度だけしかしていませんが、あり得ます。ただしきわめて稀なことであり、いくら熱心なコンサートゴーアーであってももし人生で一度でもめぐり会えば幸運とするような、ゴルフならホールインワンぐらいの頻度のことかもしれません。ひとつは ヴラド・ペルルミュテールがウィグモア・ホールで開いたリサイタル。これはいずれどこかでご紹介します。ここで書くのはもうひとつの方、ロイヤル・フェスティバルホールでエミール・ギレリスがチャイコフスキーの協奏曲第1番を弾いたときのことです。このとき、僕は自分がいったい誰のためにapplause(拍手)を送っているのかという馬鹿馬鹿しいぐらい酔狂なことを初めて真剣に自覚したという意味でも、忘れられない重要な経験になっているのです。
1984年10月14日。それはチャイコフスキーの第1楽章が開始して間もなくの速いパッセージにさしかかって、かつて鋼鉄と評されたギレリスの指がもうほとんど回らなくなっているという悲しい現実にロンドンの聴衆が息をのんだ日でした。音楽が進むにつれ、誰よりも、巨匠自身が深く傷ついているであろうことを聴衆がとても恐れている、そういう空気がだんだんと会場そこかしこで醸成されてきているように感じられました。終楽章の最後の一音がすべてをかき消さんとばかりに堂々と鳴り終わるや万雷の拍手とブラヴォーがロイヤル・フェスティバル・ホールを包みこんだのです。老ピアニストの健闘をいたわり、目の前の演奏の是非ではなく、彼のこれまでの輝かしい栄光を満場の一致によるapplauseで一心不乱に称えたのです。その時です。立ち上がって会場に一礼したギレリスは両手で拍手を制し、もう一度ゆっくりとピアノに向かって、静かに、何かに祈るように独奏を始めました。信じられないぐらいとても静かに。そして、その時に彼が弾いた曲を、僕はどういうわけか覚えていないのです。そのときのあまりに静謐な情景、指揮者ベルグルンドもオーケストラも聴衆もすべてが凍りついた人形みたいに微動だにせず、耳をそばだてて息をひそめている中で、どこからともなく天上の調べが降りそそいでくるかのような神々しい情景に我々は飲みこまれていたのです。
僕はギレリスのチャイコフスキーの協奏曲1番のレコードを愛聴して生きてきた人間のひとりです。それは彼の十八番でもあり、最も輝かしくドラマティックな演奏として僕のレコード棚に今もひっそりとあります。ベートーベンのハンマークラヴィールソナタ、ブラームスの協奏曲やお嬢さんと弾いたあの優しいモーツァルトだって。アルトゥール・ルービンシュタインに「彼がアメリカに来るなら、私は荷物をまとめて逃げ出す」と言わしめた鋼鉄のタッチ。あの日に涙をこらえながら力の限り送った僕の拍手というものは、長年かけて彼からいただいてきたすべての音楽の喜びに対してのまぎれもない僕の精一杯の感謝、返礼でした。それを届ける機会が得られたなんて、何と幸せなことだったろう。そして、おそらく、あの最後にどこからとなくひそかにおごそかに響いてきた音楽には、もはやそれを奏でている大ピアニストの己の投影は微塵もなくて、彼自身の人生をかけた音楽への愛情と感謝が音となって流れ出ていたものにちがいないと信じているのです。あれはシューベルトやシューマンの音楽だったのだろうか?いや、そうではなく、誰の作品でもなくて、天上の音楽だったのに相違ないと。
マーラー交響曲第1番ニ長調 「巨人」
2013 JAN 23 23:23:37 pm by 東 賢太郎
堂々と宣言します。僕はマーラー嫌いです。理由は簡単で、彼の「私小説風音楽」にどうしても共感できないからです。
これだけ世の中に好きな人がいるのですから、こっちが変なのです。それはわかっています。そう思って全曲を何度も聴きました。どこかのオケの定期会員になれば嫌でも聴かされもします。それでもだめなのですから、もう相性なのでしょう。
僕は日本食では煮物類がだめです。食べられはしますが、自分で注文はしません。それを言うとキミは日本人じゃないねというような目で見られることがあります。もしマーラーよりチャイコフスキーの方がいいなどとクラシック好きの前で言おうものならきっとそういう目で見られるでしょうね。
しかし、東京生まれ東京育ちなのに小学校2年でアンチ巨人、カープファンになった僕ですからその程度は朝飯前です。さらに、偉人伝は好きでも私小説、自伝的小説には皆目興味が湧かない性格ときますと、マーラーの音楽美に感銘は受けても、CDを毎日取り出して聴くのははるか遠い世界というのはおわかりいただけるでしょうか。
そんな僕が唯一全曲そらで暗記している曲が、交響曲第1番ニ長調です。これだけは巨人ファンなのです。
この曲には忘れられない思い出があります。大学時代に友人とレンタカーで米国西海岸を旅行した時のこと。サンフランシスコで友人2人はSFジャイアンツの試合、僕はコンサートと別行動になりました。郊外の野外音楽堂で僕を降ろし、車は彼らが乗っていきました。コンサートが終わると音楽堂は人っ子一人いなくなり、電気も消えて、僕は丘の上の野原にぽつんと一人残されました。周囲は民家もない寂しい場所で、おまけにSFは夏でも肌寒く、新聞紙を背中に入れて耐え忍ぶほどでした。1時間は経過したと思います。ふと見ると、5~6匹の大型の野犬の群れがやってきます。暗闇のなかで犬の目が何かに反射して不気味に光って見えました。この時だけはもう命がないと覚悟しました。脇にあった土管のようなものにじっと身をひそめ、いなくなってくれることだけを祈りました。群れの吐く息と足音がすぐ近くを通り、どういうわけだったのか、犬たちは僕には目もくれずやがて闇の中に消えていきました。
こういう思いをして聴いたのがマーラーの1番でした。巨匠ウイリアム・スタインバーグ(右)がサンフランシスコ交響楽団を指揮したその演奏は衝撃的なもので、野球でいうと左翼ポールぎわ打楽器の後ろの「外野席」だったのですが、米国一流オケのものすごさを目近で初体験したという意味でも強烈なインパクトを受けました。僕がわがままでこっちに来たのですから友人にはかえって心配させてしましましたが、メジャーの野球を蹴ったぐらいですから、当時からこの曲が好きだったのだと思います。
これを覚えたのは名盤の誉れ高かったブルーノ・ワルター/ コロンビア交響楽団のLPでした。バーンスタイン、アバド、テンシュテットの録音もいいし、実演で言えばフィラで聴いたムーティー、ロンドンで聴いたハイティンク(LSO)、フランクフルトでのシャイ―(ACO)もすごい演奏でしたが、シノーポリ、メータ、マゼールは今一つでした。今となると家で聴くならワルター1枚で充分です。これ以上に曲を自然に、必要十分に味わわせ、素晴らしい手ごたえの感動を約束してくれるのはこの曲以外まで見渡してもあまり思い浮かばないという稀有の出来ばえです。あまりにオーソドックスな選択になってしまいましたが、マーラー嫌いのアンチ巨人ということで、今回はご容赦ください。
(補遺)
これは米国留学中にフィラデルフィアのFMから録音したショルティ/シカゴ響のライブ(1984年4月)です。
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クラシック徒然草-カッコよかったレナード・バーンスタイン-
2013 JAN 18 18:18:50 pm by 東 賢太郎
バーンスタインのリハーサルに立ち会ったのも、やはり、カーチス音楽院でした。
チェリビダッケが1984年2月、バーンスタインは同じく4月。これも前回と全く同じで古沢巌さんのお手引きを得て、すべてをすっぽかして駆けつけました。もう歴史上の人物になってしまった2人の大指揮者のミュージック・メーキングの光景は、眼にも耳にもはっきりと焼きついているのですが、なにか夢か幻のようでもあります。
バーンスタインはカーチス音楽院の卒業生であり、母校の創立60周年記念コンサートを振るためにやってきました。その時のプログラムがこれです。
その日のリハーサルは最初の「チチェスター詩編」。知らない曲でした。当時ネットという便利なものがなく曲について予習も復習もできませんでした。今になってWikiで調べてみると、「英国南部の ”チチェスター大聖堂” のために書かれた曲」とありました。
ところで、さきほど上掲のプログラムを探すため物置にある昔の資料をひっくり返していると、このリハーサルの4年後のロンドン時代に行った教会のパンフレット(右)がポロっと出てきました。お客さん宅のX’masパーティーに招待されて、彼の所属する教会のクリスマスミサに参加した際の記念ですが、この厳粛なすばらしいミサは僕のロンドン駐在を通して最も忘れがたい体験の一つになっています。
ふとピンときて、よもや、まさか、と思いパンフの教会の名を見ると、やはり “チチェスター大聖堂” とあり鳥肌が立ちました。何かの因縁でしょうか。

Leonard Bernstein speaking with Curtis students in a rehearsal break in 1984, when he returned to his alma mater to conduct his Symphony No. 2 (“Age of Anxiety”)
バーンスタインは小走りに舞台に現れるとまずコンマスの女の子と長々とハグして頬にキス。 チェリビダッケとの落差にいきなりカウンターパンチを食らいます。練習が始まってもムードは明るく、ジョークも飛んで和気あいあい。チェリが「ダメだし派」とすると彼は「いいね派」で、10代の子たちをノセるのがうまかったです。写真がこの時のものです。
「コントラバスのピッチカート、もう一回。」 演奏 「いや、ちがう、もう一回」 演奏 「なんでもっとソフトにできないかなー?リーダーのキミ、そうキミだよ。キミ彼女いるでしょ?」 「はい、います」 「うん。彼女におやすみの投げキッスするだろ?」 「はい」 「やってみて」(バーンスタインに投げキッスする)(全員、おお笑い) 「それそれ、それだよ。できるじゃないか。そういう感じでもう一回」 演奏 OK
こんなことも起こりました。
速い箇所で急に両手を広げて演奏をストップ。「ティンパニ!キミ、それちがうだろ?」 「???」 「ロングノート(Wrong note)だ」 「先生、意味がよく理解できません・・・」「キミ、F#打ったでしょ?」 「はい」 「そりゃDだ」 気まずい沈黙 「先生、でも・・・」「よく楽譜を見なさい」 「F#ですが」 「キミ。この曲の作曲家の名前知ってるかい?」 「はい、あなたなんですが、でも・・・」 そこでバーンスタインは指揮台を降りてティンパニのところへつかつかと行き彼の譜面台をのぞきこむ 「いや、ゴメン!」 (I’m sorry, you are right.) (爆笑と拍手)
万事こういう感じでした。細かい指示は徹底しながらも、全く飾らないお人柄とオーラでぐいぐい人を引っ張ってしまう。心底、カッコいいなあと惚れ込んでしまいました。
先日のブログに書いたロンドンでの「キャンディード」はDVDになっていますが、1989年12月13日だったようです。この客席に僕もいました。
この終演後にホールのボウルルームでパーティーがあり、彼と話ができましたがあのリハーサルそのままの気さくな人でした。
「おー、カーチスのあれか、あそこにいたのね。覚えてるよ。若い子たちと音楽やるのはいいね。僕も若がえってね。」 こう言って僕が差し出したプログラムの写真をしげしげと見る。これです。
「あれ、こりゃだめだ。こんなジイさんをのせちゃいけないね。」 笑いながら、即、却下。そして、彼は自分でパラパラとページをめくってこっちを探しだしました。「そう、これこれ。これが僕だよ。そう思わない?やっぱり若いほうじゃなくっちゃ」 少し震える手でその写真にサインして、僕の眼を見ながら人なつっこく笑い、大きくて柔らかい手でしっかりと握手してくれました。それがこれです。
彼はこの会話の10か月後に亡くなりました。目の前のバーンスタインは彼が嫌いだった方の写真でも若いぐらいの姿でしたが、眼の輝きは若者のようでした。彼のハートはあの「マリア」の音符を書いた頃のままだったと思います。
この世で最後に私たちを救うのは,おおきな夢を唱え,育み,拒み,歌い,そして叫ぶことのできる,思索家,感覚家,つまり芸術家です。芸術家だけが”かたちのないもの”を”実在”に変えることができるのです。
Leonard Bernstein (1918 – 1990)
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カルロス・クライバー指揮ベルリンフィルの思い出
2012 NOV 24 12:12:13 pm by 東 賢太郎
1994年6月28日にカルロス・クライバーがベルリン・フィルハーモニーを振るらしいと聞いたのはその半年ほど前だった。そんなものが買えるはずがないと思い、チケットを4枚申し込んだらなんと4枚当たった。強運だった。

クライバーは当時から生きる伝説だった。何年に1度指揮台に立つかどうか。それを世界中が常に注視していた。あの帝王カラヤンが「あいつは冷蔵庫が空になった時だけ出てくる」とやっかんだ。ギャラと練習時間は御意のままという帝王の上を行くローマ皇帝状態だったのだ。親父はこれも大指揮者のエーリヒ・クライバー。ということになっているが、容貌があまり(あまりに)似てない。そう思っていたところ、ドイツの業界の人から「実は・・・・」という衝撃的な話を聞いてしまった。これは書かない。まあ親父が偉いからといって息子がそれだけで楽な人生を送れるというのは日本の政治家をのぞくとあまり聞かない。皇帝の地位は彼のたぐいまれな能力のたまものだったことは疑いがないということを僕はこの演奏会で確信した。
「クライバーがどこかのオーケストラを指揮するというだけで大ニュースになり、首尾良く演奏会のチケットを入手しても当日、本当に彼が指揮台に立つまでは確かに聴くことができるか保証の限りではなかったが、多くのファンが彼の演奏会を待ち望んでいた」(ウイキペディアより)。ことにベルリンフィルを振ったことは1回しかなく、これが2回目、そして結局は永遠に2回ということになってしまった。この演奏会は「ボスニア救済のため連邦大統領の主催による特別演奏会」兼「リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー連邦大統領告別演奏会」というものものしい政治的なオケージョンでもあった。
この日の午後、フランクフルト空港からベルリンへ飛んだのは僕とお二人。そのお一人が実はSMC運営管理委員長であられるドイツ明治生命社長(当時)甘田豊隆さんだった。そして残りの1枚のチケットだが、予定していた友人が急な用事で来られなくなったためそれを当日に会場で売ることになった。カラヤンサーカスとあだ名されたフィルハーモニーザールに到着すると、入り口は「Ich suche Karte!(チケット売ってくれ!)」のプラカードを掲げた群衆で、まるでディズニーランドの入り口みたいにごったがえしていた。聞くところチケットはダフ屋で凄い値段になっていて、こっちが誰に売ってあげようか迷って立ち往生してしまった。
そこに響いた「どうせなら日本人の女性に」という甘田大兄の愛国心あふれる鶴の一声。そりゃあこのチケットは隣の席だからむさ苦しいおっさんはかなわんなと僕も思っていた。そこで近くにいた日本人と思しきうら若き女性に声をかけた。「本当によろしいんですか!?」 お譲りした時(もちろん定価で)の彼女の驚きに、なにかすごく特別なことをしたようでかえってこっちが恐縮した。下の写真が当日のプログラム。ベートーベンのコリオラン序曲、モーツァルトの交響曲第33番K.319、そしてブラームスの交響曲第4番だ。
前半が終わって、隣の席の彼女に「ベルリンにお住まいですか?」ときくと、「ベルリン芸術大学にピアノ留学中です」とのこと。ああ、音大の学生さんかと納得。ところがいろいろ話してみると、来週はプロコフィエフの3番を弾くだのCDを何枚も録音しているだので、どうもただ者でない。ピアニストの田部京子さんということがわかった。
我々4人の席はクライバーを左側上方から見おろす席(写真の左上方)だったが、このホールは
舞台を360度ぐるりと聴衆が囲むため音の志向性が全方位型で、どこで聴いても特に良くもないが外れの角度もないようだ。見た目は似ているが死角が多いサントリーホールとは全く違うのである。ここではポリーニのベートーベンのソナタ(ハンマークラヴィール他)、ブーレーズ指揮でダフニスとクロエ他も聴いたが、巷で言われるほど音響にネガティブな印象はない。むしろ割と好きな部類である。
開演時間を待つ周囲のガヤガヤは当たり前だが全部ドイツ語だ。これから鳴るのもドイツ音楽の濃縮スープみたいなプログラム。それをザ・ドイツであるベルリンフィルが弾き皇帝クライバーが振る。ドイツに駐在していた幸運を音楽の神様に感謝した(会社にもか)。大統領の演説(これは早く終わらんかというもの)があり、オケがチューニング。ホールが指揮者登場を今か今かと待ちわびる静寂に包まれた。
お断りしなくてはいけないが、なにせ18年前のことだからクライバーの指揮のディテールまで全部覚えているわけではない。しかしもはや伝説であり歴史上の出来事と化してしまっているこの「ベルリンコンサート」の証人として、記憶しているだけのことはここに書き残しておきたいと思う。
まずコリオラン序曲の出だしから尋常でない熱気をはらんだ音圧。こんなことは普通の演奏会ではまずない。ベルリンフィルがいきなり本気になっているのがばしっと伝わってきた。腰は重いドイツ流だがゴツゴツせず、流れがいい印象だった。指揮姿はダンスを踊るよう。彼は手だけでなく目や表情で指揮をする人だ。このベートーベンは彼が何をやりたいか、なぜこの曲なのかがオケに良く伝わっていると感じた。
なぜこの曲なのか、オケはともかくこちらはよくわからなかったのがモーツァルトだ。この曲は僕も好きだ。でもなぜ33番なのか。ドレファミのジュピター音型かななどと考えながら聴いていた。だから集中できなかった。因果なことだ。弦のレガートが強弱緩急で流動的、自由自在でスマートかつエレガントだったぐらい。今でも不思議なのだがなぜ彼はモーツァルトは33番と36番しか振らなかったのだろう?
さて休憩後はいよいよブラームスの4番。僕の音源コレクション数で第1位、つまり結果的に一番好きだったという曲だ。まず肝心の出だし。無用に「泣き」がない。テンポももたれがなくサラサラと流れる。しかし展開部あたりからコクのあるドイツ保守本流の重心の低い音が奔流のようにうねりだし、こちらの心拍数も上昇してきた。ティンパニの打ち込みの効いていること!オケに信じ難いほどの生命力とパッションが吹き込まれ、コーダは(あの猛烈なアッチェレランドこそないが)同じオケを振ったフルトヴェングラー48年盤のすさまじい追い込みと甲乙つけがたい高揚感に達した。フルトヴェングラーのは練習したものではなくライブの一発勝負だったと思うが、ここで目撃したのもそれだろう。あれを会場で聴いた人がうらやましいとずっと嫉妬していたが、自分もこんなものをライブで聴いてしまうなんて!
第2楽章。耳のほうは艶やかなクラリネット、音を割るホルンぐらいしか覚えていないが、視覚のほうではクライバーが(おそらく)顔で細かい表情づけを指示していたのだろうということを記憶している。ただ座席の距離がやや遠く、オケ(特に弦)がそれにどう反応したのかはよく聴き取れなかった。そして第3楽章。CDを含めてどの演奏よりインパクトがある空前の、まさしく壮絶な演奏であった。ここの速いトゥッティの縦線の合い方、音響のブレンド具合でオケの合奏力が如実に出てしまうが、世界に冠たるベルリンフィルの底力を知ってしまったのはこの時だ。本気の天才指揮者に本気の名人オーケストラ!一期一会の火花散る真剣勝負とはこのことだった。
第4楽章。オケのメンバーから前楽章のテンションと熱が消えていないのがわかる。出だしから異様な緊張感がホールを支配。地獄の鉄槌でもこんなに激しくないだろうと思うほどの強烈、苛烈なff、怒涛のようなトゥッティの嵐!テンポは自在に伸縮し、金管、ティンパニの最強奏の凄まじさはオケからこんな音がするのも知らなかったしこの曲にこんな演奏があり得たのも知らなかった。雪崩が滑り落ちるような速いテンポに引きずり回され、打ちのめされ、あっという間にあの光明も救いもない峻厳なコーダの崖っぷちに立ってしまっていた。もう言葉などなし。あれ以上のブラームス4番を聴くことはもう僕の人生でないだろう。
クライバーは舞台のマイクを全部はずさせたのでこの演奏会の良い録音は存在しない。だからこの演奏の海賊版CD(誰かのかくし録り、下の写真)を秋葉原の石丸電気で見つけた時にはまさに狂喜した。今久しぶりに聴いてみたが、残念ながらあのオケの熱いうねりと高揚感は聴き取れない。しかしそれでもこのブラームスがいかに空前の名演であったかはわかってもらえるだろう。現在、世界が宝物にしているフルトヴェングラーの録音がどういうものなのか、僕はこの経験で肌でよく理解した。会心の出来だったのだろう、クライバー自身もこのCDを自宅でよく聴いていたらしい。
終演後、田部京子さんは「クライバーを聴けるなんて思ってもみませんでした。まるで夢みたいです。」とおっしゃり、後にお礼ですという手紙を添えてご自身のCDをフランクフルトの僕の自宅に送ってくださった。あれから18年、日本を代表するピアニストに成長された田部さんが最近ブラームス(右)を出されたので聴いてみた。後期のピアノ作品集だ。とてもいい。すこしうれしい気がした。
これが当日の録音。
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クラシック徒然草-ユージン・オーマンディーの右手-
2012 OCT 20 0:00:33 am by 東 賢太郎
「チャイコフスキーの交響曲第5番、バルトークの管弦楽のための協奏曲、ガーシュインのパリのアメリカ人とラプソディー・イン・ブルー、コダーイのハーリヤーノシュ、シベリウスの交響曲第2番、サンサーンスの交響曲第3番、メンデルスゾーン・チャイコフスキーのバイオリン協奏曲」
以上の名曲を僕はオーマンディー/フィラデルフィア管弦楽団のレコードによって初めて聴き、耳に刻み込みました。高校時代のことです。10年のちにそのフィラデルフィアに留学し、2年間この名門オケを定期会員として聴くということになり、不思議なご縁を感じざるをえません。そのオケに42年君臨したのが、ユージン・オーマンディーさんです。
はじめは名前も知らず、誰のユージンだ?ぐらいに思っていました。あとになって、友人だったかどうかはともかく、シベリウス、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチ、バルトークなど大作曲家との交流があったことを知りました。また、「ファンタジア」や「オーケストラの少女」で有名な大指揮者ストコフスキーの後任であり、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ゼルキン、アラウ、ロストロポーヴィチ、スターン、オイストラフなど音楽史を飾るソリストと競演した、20世紀を代表する大指揮者のひとりです (写真はSony Classical Originalsより、左・オーマンディー、右・ショスタコーヴィチ)。
僕がフィラデルフィア管弦楽団の定期会員だった1982-84年はリッカルド・ムーティーに常任指揮者のポストを譲ったあとで、すでにご高齢だったオーマンディーさんは定期に数度しか現れませんでした。もう一回指揮予定があったのですが、たしかベートーベンの田園とシベリウスの5番だったか、ドタキャンになりました。残念でなりませんでした。しかし、その理由は、その1回だけ実現した演奏会の終演後に知ることとなりました。
その演奏会、プログラムは前半がチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、後半が交響曲第5番。あいだにインターミッション(休憩)が入ります。前半も後半もオケが鳴りきった立派な演奏で、このコンビがチャイコフスキーを長年オハコにしてきた様子がよくわかりました。ただ、休憩が終わっても後半がなかなか始まらず、30分以上遅れてしまったことがどこか気になっていました。
証券マンの図々しさで、僕はいろいろな演奏会で終演後の楽屋に侵入しています。この時ももちろんです。係員の女性に止められましたが、
「どうしてもマエストロに会いたいのです。日本で彼のレコードで5番を覚えたので。」
などと随分身勝手なことをいうと、そこはアメリカ人の懐の深さで 「そうですか、それはいい機会ですね。ではどうぞ (OK,come in ! ) 」 となりました。このとき、歩きながら彼女が開演が遅れた理由をこっそり教えてくれました。
「でも先生も困ったもんですわ。今日はコンチェルトが終わると、それで終わりと勘違いして家に帰っちゃうんですもの」
なるほどそうだったんですか。でも先生、後半の5番の指揮は完ぺきでしたね。すべてのフレージングやポルタメントが、そうこれこれ、とうなずくほど僕の耳にこびりついている、まさにあなたのものでした。チェロの前の最前列から見させていただいたかくしゃくとした指揮姿、忘れることはありません。
おそらくこれが最後からン回目ぐらいの指揮だったでしょう。先生が亡くなったのはその2年後の1985年でした。

楽屋で先生は奥さんとご一緒で、突然の闖入者も意に介さず上機嫌。オー、よく来たなという感じでした。「僕は日本が大好きなんだよ。みんな優しいし、ごはんもおいしいしね。」 とお茶目で元気いっぱい。僕と握手した時間の5倍は僕の家内の手をしっかり握っていました。そのかたわらから僕は「先生のレコードで・・・・」、 これはあまり聞こえておられなかったようです。サインをもらって満足してしまいました。ああ、もっと話を聞いておけばよかった・・・・。
先生の右手はコロッとしていて肉厚で、西洋人としては小さめでした。今でも感触をはっきりと覚えています。
この写真を見ると、すごい、俺はシベリウスやラフマニノフと握手したんだ!
いや、AKB握手会になってしまいました。
(こちらをどうぞ)
クラシック徒然草-チェリビダッケと古澤巌-
2012 OCT 4 15:15:09 pm by 東 賢太郎
アメリカの2大音楽学校にジュリアードとカーチスがあります。
僕がウォートンでフィラデルフィアにいたころ、今は大御所であられるバイオリニストの古澤巌さんがそのカーチス音楽院に文部省国費留学生として学ばれていました。僕は27歳、彼は20歳ぐらい。こっちは音楽がメシより好き、彼は日本メシが食べたい(たぶん?)で拙宅に名誉家族待遇でご自由に出入りされてました。よくバイオリンも弾いてもらいました。リクエストしてモーツァルトの3番とかイザイのソナタとか。
ある日の朝、彼から電話。「東さん、今日チェリビダッケが来ます。来れますか?」「何!」 行かないわけありません。講義は急きょ全部すっぽかし。彼の手引きで校長(元フィラデルフィア管弦楽団のオーボイスト)のデ・ランシ-先生にご挨拶。お許しを得てカーチス音楽院に出席となりました。チェリ先生の講義を一日聴講しました。これが本当に講義だけで楽器なし。音楽というより哲学。ピアノをポーンと1音鳴らしてWhat is the differnce between tone and music? なんて聞く。10代の学生たちはぽかーんとしています。やばい、俺があてられたらどうしようと身構えてしまうほど緊張感がただよいました。
翌日は楽器あり。オケは舞台にスタンバイ。僕は誰もいないホールの特等席で世界のチェリビダッケを独り占め。夢見心地とはこのことです。ところが、現れた先生とあろうことかばっちり目が合ってしまった。「なんやお前は、出ていかんかい!」一喝されそうな空気。心臓がばくばくになりました。しかしスコアを持っていたのが幸いしたのか関係者かなにかと勘違いされたのか、何事もなく先生は指揮台へ。よかった。
ドビッシーのイベリアでした。学生たちはピリピリ。こわもてオヤジ
の圧倒的な威圧感で笑顔もジョークも一切なし。ちょっと流してすぐ止まる。トロンボーン三重奏が気に食わなくて何度も何度も繰り返し。まだ駄目。3人立って吹け!まだ駄目。どうしてできないんだ(怒り)!3人楽器を置いて口で歌え!OK、できるじゃないか。それを楽器でやるんだ。こういう練習風景でした(その時の写真、ウイキペディア)。
実演はカーネギーホール。これは聴けませんでしたが、幻の大指揮者チェリ先生のこの公演は全米で有名になり、そのときの様子はウイキペディアにも載っています。古澤さん、ありがとう。
(以下、「チェリビダッケ」より引用)
「アメリカには、1984年に、フィラデルフィアのカーティス音楽学校の校長だったジョン・デ・ランシーの要請で、当校で指揮を教えた。そして、当校学生オーケストラを連れてカーネギーホールで開いたコンサートは、あまりにも素晴らしく、ニューヨークの音楽界に衝撃を与えた。ニューヨーク著名の音楽評論家ジョン・ロックウェルは「いままで25年間ニューヨークで聴いたコンサートで最高のものだった。しかも、それが学生オーケストラによる演奏会だったとは!」とのコラムを掲載した[2]。」
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