ヴァンスカ・読響のシベリウス5-7番を聴く
2015 DEC 5 0:00:52 am by 東 賢太郎
シベリウス生誕150年だった今年のご利益でしょう、札響・尾高、ラハティ響・カム、そして今日の読響・ヴァンスカと「交響曲第5,6,7番」というプログラムを3度聴けました。リントゥ指揮でも5,6,7を聴いてますから各曲を1年で4回、特にあまり舞台にかからない6番を4回聴けたのは幸運でした。もうこういうことは人生二度と望めないでしょう。
ヴァンスカの指揮は雄渾でメリハリがはっきりと付きます。ロマン的な表現の対極といえましょう。5番はピアノとフォルテの振幅が大きく、第1楽章のファゴット・ソロの部分のppからコーダへ向けてのオーケストラのパースペクティブの拡散は見事。彼は音の霧を作るより精緻に音符を刻んでスコアに語らせるタイプでしょう。低音の響かないサントリーホールのせいかコントラバスだけ指揮したりする場面もあり、木管の大事な旋律が金管に埋もれて聞こえなかったり、バランスにはやや問題があった。しかし5番を構造的にどう解釈するかという点においては第1楽章の終結へのアッチェレランドが過度でないこと、終楽章の終結へ向けてはたっぷりした遅めのテンポをとり安易な興奮をかきたてないのが好感を覚えました。
6番の開始は音量をことさら抑えずあっさりと入ります。こういうところがロマン的でない。この曲は主題の論理的な発展、展開というよりエピソードごとのエモーション(感情)の動きを辿るところにエッセンスがありますが、ヴァンスカのいわば楽譜追求再現型のザッハリヒな表現は的を得ていたと思います。終楽章は激情ともいえる強い表現で、失った人の追想がしめやかさでなく激しい感情の吐露で語られます。いままで聴いたことのない表現であり、今日の白眉でありました。
7番は6番のような表現があまり適さない。幻想曲の趣のある曲ですが、あまり理性が勝つと感動が削がれます。トロンボーンソロに至る和声、クレッシェンドはワーグナーを踏襲する観がありますが、ヴァンスカの音作りの感触はリングにおけるブーレーズのやり方を連想しました。それはそれで説得力あるものなのですが、僕の趣味としては先日のオッコ・カムとラハティ響の方が好みであります。
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オッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス5-7番を聴く
2015 NOV 30 2:02:08 am by 東 賢太郎
シベリウスの交響曲という7つの高峰を順番に全部、それも4日間で一気に聴くというのはワーグナーのリング体験に匹敵します。今回の生誕150年、本家本元のラハティ交響楽団と名匠カムによるそれは一生ものの音楽体験であり、日本にいながらよそ行きの手抜きがない渾身の演奏に接することができたのは夢のような幸運でありました。
ベトナム出張まえからくすぶっていた風邪がこじれ体調は音楽鑑賞できるぎりぎりの線でありました。昨日は帝国ホテルで安倍首相来賓の某家結婚式に出席しましたが2次会は失礼せざるを得ず、今日も咳き込むようなら断念するつもりでした。幸いなんとかなりそうで、周囲の方にご迷惑をかけないよう装備して初台まででかけました。
まず5番です。ライブですから金管の音程など些細な傷はありますが、この拙文に述べた効果をじわりとかみしめた演奏でした(シベリウス 交響曲第5番 変ホ長調 作品82)。4番の病苦を脱したシベリウスの回帰の喜びはまだ留保があって、それは緩徐楽章の主音の増4度上のトライトーンの不安な響きが象徴します。彼は16羽の鶴が舞って天空に消えるのを見て神に感謝し、この交響曲の終楽章の主題を書きますが、そうした素材のもたらす生への光明と明るさに焦点を当てるのかより内在的な効果に基点を置くかは指揮者の主張です。
カムは後者を強く感じさせ、第1楽章で虚ろなファゴットの部分からコーダへ向けて一直線に音楽は微光を発しつつ熱をおびます。おそらくこの音楽を作曲者と同じ血脈(vein)で理解しないとできないものであり、傷に不満を唱える僕の理性を体が知覚するその熱が圧倒してしまいます。こういう音楽体験を後から文字に書き残すのは難しいことであるのは記憶は頭で考えて再生し言語に変換するからです。聴き終って全身が覚えた感動はもっと原初的なものであって、稚拙なヴォキャブラリーで恐縮ですがサウナ効果とか記しようのない肉体的性質のものです。
6番はこのラハティ響を振ったヴァンスカ盤の直截的な解釈が素晴らしくオケの性能、表現力は証明済です。カムの演奏はさらにおおらかでヒューマンな感情をもりこんだものでした。冒頭の第2ヴァイオリンからヴィオラがからみチェロが加わって悲しい和音が響く。ここに記しましたが、この悲しみという感情の素材は別な音型ながら同じ弦の合奏で交響曲の最後に円環形に回帰するのです。「文字にするそばから陽の光を浴びてどんどん消え去ってしまう悲しみという雪の結晶」です( シベリウス 交響曲第6番ニ短調作品104)。曲尾の虚無感はマーラーの9番に通じるかもしれないという発見を与えてくれる熟達の解釈でした。
7番は今回シリーズ最高の感動的な名演であり、これを聴くことができたことを僕は今年の僥倖の一つとします。ところが残念だったのは、よりによってあの至高のトロンボーンにいたるクレッシェンドで、なんとしたことかあめ玉のチャラチャラが始まってしまい前列の心ある方が咄嗟に後ろを向いて注意された。オケの音が大きくなれば構わないだろうというのはまさしく大迷惑の誤解であり、本当に勘弁してほしい。ホール、主催者はアナウンスするなりチラシを挿むなり、おかしな話ではあるが事前に厳しくウォーニングをすべきでしょう。
この音楽はあらゆる交響曲の中でも、ベートーベンを加えても、人間の精神の営みとして最高度の充足感を与えてくれるものであり、これを書くに至ったシベリウスの心と頭脳のなかで何が起きていたのかは我ら凡人にはかり知れません。この超俗の、しかし我々凡俗の心の奥底まで深く共鳴する奇跡的な音楽!カムとラハティ響の造り出した純度の高い有機的な凝縮された音楽は見事としか書きようもなく一生の思い出となりました。
同じ5-7番のプログラムを組んだ尾高さんもアンダンテ・フェスティーヴォをアンコールにしましたが、シベリウスが自演の録音を残している愛奏曲で7番のあとにそぐわしいと思います。「ある情景のための音楽」も良し。フィンランディアはファンサービスでした。こんな平明な音楽を書いてた人が7番を書くまでの軌跡。そこに4番が在ったわけです。その4番と7番がずっしりと心に残る3日間でした。
シベリウスを愛する聴衆の方々の鳴りやまぬカーテンコールにカムがひとり呼び戻され、いったん楽屋に去った団員を全員舞台に集合させる場面もありました。フィンランドの演奏家の皆様のシベリウスへの真摯な献身には感動しました。心からの敬意と感謝の念に堪えません。
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オッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス3、4番を聴く
2015 NOV 28 1:01:48 am by 東 賢太郎
連日のカム指揮ラハティ響でした。今日の席は1階15列の端っこ(壁ぎわ)でしたが、不思議なものでこれが予想外によかったのです。2階席が上部にかぶさっており壁の反響もあったのでしょうか、これなら楽しめる。発見でした。
3番、ヴァイオリン協奏曲、4番の順番。シベリウス交響曲全曲演奏でなければ4番のほろ苦いエンディングでコンサートを締めくくるなんてありえません(我が国においてはですが)。到底ミーハーが近寄る曲目でなく聴衆もシベリウス好きばかりだったのでしょう、客席の集中力は大変ありがたい。
2番で愛国の思いのたけをぶちまけた反動でしょうか、7曲のうち3番ほど上機嫌のシベリウスもありません。マーラーの重めのラインナップに占める4番の位置に近似しています。ただし和声は一聴すると明快ですがプログレッションは一筋縄でなく、5番にエコーしていく萌芽があります。終楽章のヒロイックな主題の展開など特に。僕の愛聴曲であり書けばきりないので後日にします。
演奏ですが昨日の1,2番はやや金管のトゥッティに粗さを感じ、木管合奏の音程がいまいちで弦は美感を欠く所がありました(正直、一流オケの音ではなかった)。ところがどういうわけか今日はこの3番からしてぐっとグレードアップした印象です。特に弦の練り絹のような中低音は日本のオケには望めない触感!モーツァルトが理想と手紙に書いた「バターのような」とはこのことかというクオリティです。
Vn協のソリストはペッテリ・イーヴォネン。うまかったですね。技巧で押すタイプではなく第2楽章の愛の描き方がなかなかで、終楽章もメカニックにならずひたすらこの曲を弾ける幸福感が伝わってきました。シベリウス演奏では大事なことと思います。アンコールのイザイでは、しかし彼の技巧の卓越ぶりが明らかになり、シベリウスにそれをひけらかさなかったことにさらに好感を持ちました。
さて、僕が最も楽しみの4番です。最高の名演でした。冒頭バスの倍音に満ちた音圧からして別世界に引き込まれます。低音域の長2度の軋み。不安げなチェロのソロの幽玄な美しさは絶品。彼岸のようなヴィオラ、チェロのセクションの中音域のとろけるような音色はからんでくるクラリネットと同質で完全に融和!こんなニュアンスは日本のオケからは絶対に聴けません。
この死の淵をのぞいたような交響曲、シベリウスは喉の腫瘍が悪性(ガン)である覚悟もあったのではないでしょうか。第1楽章で曲想がやや明るめになって出てくるモーツァルトの「ジュピター音列」、あれは何なのかずっと考えてましたが、これが絶筆の可能性も意識したのではないでしょうか。第3楽章にはブラームスの弦楽6重奏曲第2番の冒頭旋律が現れる、これは偶然なのだろうか?僕は本当に最後の交響曲になったショスタコーヴィチの15番、あの先人のコラージュをなんとなく連想しております。
不意に立ち現れてクレッシェンドする予想外の調の金管の和音。シベリウス以外に断じて聞くことのない世界です。背後から死がふりかかってくるかのよう。これと似たインプレッションを与えるものが5番では、雨をぱらつかせた雲の切れ目からうっすら差し込んでくる陽光を感じさせるのですが、それは一転して生の喜びと確信に満ちています。4番で得た暗示が5番で逆の位相で存在感を出す例はこれだけでなく、4番こそ彼の語法の巣です。
シベリウスは癌への恐れと不安で生のどん底をさまよい、何か未知のものを見て帰ってきた。それが5-7番に深く投影されているのを感じるということです。僕がインスパイアされるのはそれであり、ロマン派の延長にあってそれを欠く1、2番はどうも物足りない。3番はそのはざかいの音楽です。やはり、「それ」そのものである4番こそ僕の関心を最も強くそそるスコアであり一音節一音符たりとも見過ごせるものはありません。
いくつか、ここはこういうものだったかと教わるフレージングがあり、フィンランド語なのか?と思いました。弦が内声部まで重いボウイングで弾ききっており実に意味深いニュアンスの合奏になるのです。例えば第2ヴァイオリンだけだと何をやらされてるのかわからない音型が総体を組み上げるとわかる。弦5部のトレモロでごそごそ細かく弓を動かす部分も軽いボウイングだと雰囲気は出てもインパクトが弱いのですが、このオケは深い絨毯のような重い音が出せます。これが正調ということでしょう、勉強しました。
終楽章はグロッケンでしたね、僕はチューブラーベル派なので残念でしたが、それを除けば文句なし。かつて実演での最高の4番でございました。アンコールがこれまた困ってしまうほどの逸品。「悲しきワルツ」、リズムの裏を支えるヴィオラのビロードの音色には身震いです。クリスチャン2世の「ミュゼット」、最後は「鶴のいる風景」、素晴らしい音詩であり、ほのかに暖かい光で心を満たしてくれました。今日で一気にラハティ響が好きになりました。あさっての5-7番が楽しみで眠れないなあ。
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オッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス1,2番を聴く
2015 NOV 27 0:00:55 am by 東 賢太郎
オッコ・カム指揮ラハティ響を全部買ったので明日の読響は行けなくなりました。ご当地のオケで全曲聴ける機会はシベリウスイヤーの特典で、もうあまりないでしょうから仕方ないですね。
今日は交響曲1,2番でしたが一番印象に残ったのはアンコールの組曲テンペストよりミランダ(Miranda)、行列(Cortège )、ペレアスの間奏曲(Entr’acte)です。これはすばらしい!まるでウィーン・フィルのヨハン・.シュトラウス。弦の精妙なフレージングは曲を知り尽くしてないと絶対にできない性質のもので、管も含め全員が確信をこめて弾いている説得力には感服するしかございません。標題音楽はシベリウスの出発点として非常に重要なのですが、初めて真価を教えてもらったかもしれません。
1番ですが、時に聞こえる後期への萌芽と、スケルツォのご当地オケでなくては出ないだろう思いのこもった弦のアタックが秀逸でした。ただ、この曲はまだチャイコフスキー時代のロマンが濃厚に残っているわけで、5番、7番あたりから入門した僕としては昔から何度かは耳にしているはずなのですが、どうも居ずまいが悪い。シベリウスをロマン派とは思ってないもんで・・・。第2楽章の主題が「もーいーくつねーるーとー」に聞こえたりして。苦手です。
2番はこのオケにして日常のメニュー、定食なんでしょう、練習もなく弾けてしまう感じでしたね。カムの解釈も、ベルリンPOやヘルシンキ放送OとのCDと大きくは変わりありませんでした(後者に近いですが)。ただ客席はカムを呼び戻すほど熱狂しており、それをいつくしむような目で見ていた団員の笑顔が良かったですね。日本とフィンランドはいい関係になれると思います。
ところでホールは東京オペラシティで1階15列目中央の最高にいい席でしたが、何度聴いてもここは楽器のナマ音が前面に出てきます。だからピアノ・ソロには向いており好きなのですが、オケはいまひとつですね。ハリウッドボウルのような野外音楽堂に似た音響成分を感じます。意味もなく天井を高く造って、せっかく形状はシューボックスにしたのに美点を消してしまったと思います。
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マリナー/N響のブラームス4番を聴く
2015 NOV 26 0:00:30 am by 東 賢太郎
ベトナム出張まえからやや風邪ぎみで今朝はノドがガラガラで酷い声でした。帰国が火曜で一日つぶれたので仕事がたまってしまい、結局昼間は自宅で9時―15時は相場を見て、同時に電話とメールで大詰めに至って神経を使う案件を進めることに。
ところが気がつくとサントリーホールでN響の日でありました。迷いましたが、午後になって少しは体調も回復したしもったいなくもあり、出かけることになりました。そして着席してプログラムを見ると救われました。
指揮:ネヴィル・マリナー
ピアノ:ゲアハルト・オピッツ
モーツァルト/ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491
ブラームス/交響曲 第4番 ホ短調 作品98
幸いでした、行って良かった。ピアノはもともとボザール・トリオのメナヘム・プレスラーがモーツァルトの17番を弾く予定だったようで、オピッツに替わって24番になったようです。結果的に短調のまま終わる2曲が、それも最も敬愛する2曲が並んでしまい、両曲とも終楽章が変奏曲というのも不思議なものでした。24番と4番、何か書きたいといつも思っているのですが、怖くてなかなか勇気が出ません。
オピッツはフランクフルト駐在時代にたくさん聴いたおなじみのピアニストです。ケンプの弟子で彼の美音とタッチは継いでますが、僕はベートーベンよりブラームスを評価しています。今日もアンコールに弾いた作品116の第4曲間奏曲は見事でした。
さて24番ですが、この曲はクラリネット入りでフルート以外の木管が2本、トランペットも2本という大編成ですが、旋律線を吹きそうなフルートだけ1本しかなくて副次的、装飾的な役しかなくモーツァルトの音色趣味を伺えます。第2楽章などこの「活躍しなささ」は例外的なほどと思います。
N響の木管は好演でした。大学時代からモーツァルトを教わったマリナーの指揮に注目しましたが、この曲にはややシンフォニックであり、CDになってるブレンデル盤もモラヴェッツ盤も終楽章が速めです。91才の彼がどうなっているか、興味があったのです。
第1,2変奏はCDよりやや遅い。これはいいぞと期待したら、なんとオピッツがオケよりもかなり速めのテンポで第3変奏を弾きはじめました。これはないだろう、びっくりだ。そこからはオピッツのテンポになり、この速度ではどうあがいてもモーツァルトがわざわざハ短調で曲を閉じてまでコーダに込めた重要なメッセージが言い切れません。マリナーが納得してたのか知りませんが、ただの快適なピアノコンチェルトになってしまいました。
オピッツがそう読んでいるということですが、この解釈には全く賛同できません。師匠のケンプはそういう妙なことはしていない。それどころかライトナーの指揮もピアノと波長が合っていて含蓄のある伴奏をしておりオケの音色もうまく録音されていて、ケンプ盤はお薦めできるもののひとつです。
最後のブラームス4番は名演でした。マリナーのブラームス、シューマンは時々家で聴きます。ことさらテンポを煽るでもなく、こってりと歌うでもなく、趣味の良い中庸の美に終始しますがブラームスのスコアはそれでうまく鳴るようにできていて、近頃はこういうのが好みです。第1楽章は全12音の長短調和音がちりばめられており、リズムは精巧に組み立てられており、終楽章冒頭の音を割るホルン、くぐもった低音部にまで下がるソロフルートなど音色の工夫にも満ちている。
つまり立派なスコアなんだから余計なことをしてくれなくてもいいよという気分です。もう40年もかけてなん百種類も聴いてきて、ごてごて意匠を尽くしたり張りきって悲劇性を盛り上げたりする演出には僕はあきあきしているのです。異様に頑張っていたブロムシュテットのように老境の情熱をブラームスの老いらくに託さない趣味が大変結構です。マリナーは昔からそういう誇張をしない傾向の人でしたが、ドイツものに本領発揮できる老い方をしましたね。彼のブラームス、ひょっとしてこれが最後かもしれないがいい4番を聴けて幸せでした。
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オスモ・ヴァンスカ/読響のシベリウスを聴く
2015 NOV 22 1:01:59 am by 東 賢太郎
きのうは北の湖のニュースでショックを受けてしまい、コンサートの感想どころではありませんでした。
こういうプロでした。
指揮=オスモ・ヴァンスカ
ピアノ=リーズ・ドゥ・ラ・サール
シベリウス:交響詩「フィンランディア」 作品26
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18
シベリウス:交響曲 第2番 ニ長調 作品43
東京芸術劇場は日本へ帰って来てから6年ぐらいずっと読響の定期(マチネ)をきいていましたが、N響に移って以来8,9年は行ってません。改修もしたようで楽しみでした。
結果として、このホールは東京ではベストと思います。残響が適度にあるわりに後方の楽器まで分離よく細部が聞こえ、低音楽器は倍音が豊かです。ヨーロッパ的な音がしますが欧州の有名ホールに似たものはないかもしれません。よく似てるのは香港文化中心(Hong Kong Culture Center)大ホールではないでしょうか。
さてラフマニノフを弾いたリーズ・ドゥ・ラ・サールですが、冒頭鐘の音の響かせ方から個性があります。ソノリティをじっくり聴き分けながら和音をならす。主張を持ったピアノでとても良かった。ただテクニックではやや苦しい所もあり、こういう曲がいいのかどうか・・・。アンコールのドビッシーは非常に高雅で、彼女の音響、ソノリティへの趣味が良く出た名演でした。低音の弦の微細な振動まで聞こえる芸劇の音響、いいですねえ。彼女はフランス物を聴きたいです。
余談ながら、この人、ビジュアルで得してますね。むかし(今もあるか?)フランス人形というのがありましたが、まっさきにそう思いました。これはオジサン族はイチコロですね。
シンフォニーの2番。ヴァンスカはCDでもそうですが、ザッハリヒなシベリウスをやります。無味乾燥ということではなく、原典主義というか。第4楽章の第1ヴァイオリンのフレージングなど彼の読みへのこだわりでしょうが耳慣れないのがややわずらわしい。音量があがると速度も増す傾向があり、音楽のテンションは非常に高いです。第2楽章はppへのブリッジの休符が長く緊張感が増幅します。大きな起伏にオケがついていけずにバスとずれがあったり、完成度を求める指揮でありながら熱量の方に耳が行ってしまう演奏でありました。ひとつの強い主張を持った解釈であり感銘は受けましたが、僕の好みの2番ではないというところです。
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リントゥ指揮フィンランド放送響のシベリウス5・7番を聴く
2015 NOV 3 1:01:00 am by 東 賢太郎
土曜日の近松門左衛門がそうでしたが、ご縁のなかったものをおすすめにしたがって見聞きしてみるというのは非常にいいものです。予期しない出会いがある。もっといえば、おすすめがなくたっていい。たとえば本屋が好きなので2時間も3時間もいることが多く、買ったのを家で見返すといつもおんなじようなジャンルになってしまうのです。だから30分と時間を区切って、題名と目次で面白そうと思ったらぱっぱっと5,6冊適当に買うとけっこう新しくていい選択になってます。
食い物でもそうで、鮨屋はまず光り物と貝を1貫ずつぜんぶ、あとおまかせ。これがスタイルです。ねたの良し悪し、わかりませんからね。「今日のおすすめ」という注文はだめです。大将に従うという意思表示になる。うまくないぞといったって、でもおすすめはおすすめですがね、だ。「おまかせ」はそうでないんです。俺を満足させてくれって、それをまかせる。おすすめかどうかは問わないよ、そんなことはあんたの都合。俺が食うんだからね、俺。そう、大して変わらんが大将にちょっとした緊張がでるんですね。
コンサート。これがけっこう難物で、選ぶとだいたい本屋とおなじ羽目になる。定期会員になると「おまかせ」になりますが、こんどはへたすると毎回お子様ランチを食わされるリスクがある。運命、新世界、未完成・・・おい勘弁してくれ。だから会員といってもコースを選ぶ必要があります。気に入ったのが読響定期。マチネとか名曲シリーズとかあるが、そうではなく「定期演奏会」。これはオケのシグナチャーなんですね、来期もデュティユーの交響曲第2番、メシアン「彼方の閃光」なんてのがある。このレベルのおまかせならまちがいない。
ただ僕の場合、その日の気分で今日はやめってのがあって、これがいけない。マーラーなんて書いてあるともうあかん、と欠席したことが何度もあります。そこで、しばらくすれば忘れるので、今日のプロを見ないでとにかく出席する。そうして初めて「おまかせ」になるんです。だから今年は読響とN響と、おまかせ2つでほとんどでした。例外が先日のモーツァルトのオペラと生誕百年でにぎわうシベリウス。特にシベリウスは狙いを定めて気合いを入れて買いました。
ところがバカなんですね、同じ日のをダブって買ってる。ひとつはウィーン・フィルと、仕方ないこれは家内に、もうひとつはシベリウス同士のがちゃんこ(ほんとバカだ)。ええい、こっちは息子でということに。行けなかった方が良かったんじゃないかと思わないでもなく、なんともお騒がせなシベリウス・イヤーでありました。家内が行ったリントゥの2,3,4番、これはリハーサルは聴いたものの、痛かったですね・・・。
リントゥの全曲の最後が今日ありました(すみだトリフォニーホール)。
ハンヌ・リントゥ[指揮]
フィンランド放送交響楽団[管弦楽]
曲 目:シベリウス/交響詩「タピオラ」、交響曲第7番、交響曲第5番
でした。オケが新日フィルでなく上記に。感じるものが多くありました。団員の入場で拍手は好きでないが、団員がそれを意気に感じてる風情なので加わりました。みなさん客席に正対して(こっち向きに立って)応えてる。なんとなく客席と一体感がありましたね。
タピオラはマゼール盤(ウィーンフィルの方)が好きなのはマゼールの稿に書きましたが、あの冬空の冷めた緊張感がぴりぴりした演奏で覚えてオーマンディーのを聴いたらあまりにフツーの曲になっていてずっこけたり。面白い曲です。リントゥではこんなに激烈な曲だったんだとまたまた感心。氷と雪景色より雷鳴の印象が強いかな。
7番は感動しました。音楽が熱して行って9度のレではいってくる素晴らしいトロンボーン、良かったです。この楽器のソロとしてあらゆる曲で最高の場面ですね。いつもレード-ソードレーミーと音名を耳が追ってしまいますが今日は我を忘れて聞き惚れました。リントゥの指揮は、筋肉質というとやや語弊があるが引き締まった質感のボディで、リズム、フレーズの隈取は明瞭。音をなめらかにするより多少ザラついてでも情感とメリハリを高めることを優先しているようで、この曲ではそれが見事にはまりました。
5番は第1楽章の最後の速さにびっくりです。ネーメ・ヤルヴィも速いが負けてます。セゲルスタム(デンマーク国立響)に近い。しかし楽譜の速度表示はPiu prestoですからね、これでいいんでしょう。スケルツォ部分のヴィオラの疾走も耳に残ります。最後のコーダ、鶴の平原で底冷えしていた音楽が徐々に熱くなるとテンポがアップしていって、これまた大変速くなり、激烈なFFがふくれあがり、最後に至ってリタルダンド!いやあ最高の5番、大変な名演でございました。
会場は3連休にして中日の人も多かったんでしょう、8割ぐらいの入りでしたが、シベリウス・プロの会場はオペラと違ってミーハーがおらず、一体感があって喝采も半端でありません。昔はブルックナーもこういう感じでしたが今は猫も杓子もになってしまいました。シベリウス好きは、僕もそうですが、本当に熱狂的に好きなコアな人が多いんです。一日中シンフォニー7曲流しっぱなしで飽きない。あんまり庶民的な曲でもないから変な奴だと思われたりするが、われ関せずですね。ほっといてくれって。
5番の感動があって、アンコールがペルシャザールの饗宴(ノクターン)と悲しきワルツでしっとりした弦をきく。甘すぎずのデザートもセンス満点でした。オケの団員さんは起立、正対。北欧らしい美しい金、白のブロンドの女性も多い。出し切った満足感の笑顔。シベリウスはフィンランドのお国物じゃないですね、シグナチャー・ピース、国歌です。それを東の果ての国民がスタンディング・オベーションで喝采する。オケが退場して誰もいなくなったステージなのに拍手が鳴りやまず指揮者がひとり呼び戻される。久々に大満足で帰路につきました。
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ワルシャワ室内歌劇場の「フィガロの結婚」への一考察
2015 OCT 18 1:01:30 am by 東 賢太郎
今日は先日の魔笛をきいたワルシャワ室内歌劇場の「フィガロの結婚」でした。場所はオーチャードホール、席は1回中央25列目でした。
魔笛もそうでしたが、ヨーロッパの地方オペラハウスの普段着の演奏という風情であり、コマーシャリズムの毒に染まってないモーツァルトを聴けるのは心からの喜びであります。クラシック音楽の本当の喜びは音楽、楽譜に詰まっているのであって、スター歌手やヴィルトゥオーゾ・ピアニストのお出ましを願わなくとも充分です。
妙な例えにはなりますが、蕎麦通によると蕎麦屋は「もり」で味がわかるそうです。もりがだめなら何を食べてもだめ。ところが蕎麦屋の経営側からすると、もりだけではやっていけず「天ぷらそば」や「なべやきうどん」を食べてもらいたい。つまりトッピングで利益が出るのです。これがクラシック音楽の現状をわかりやすく示唆しているということをご説明します。
現代の蕎麦屋は大変な矛盾をかかえています。
人口一人あたりでいうと、蕎麦屋の数は江戸時代の江戸には今の東京の10倍もありました。国民的ファストフードであって、安くておいしい「もり」と「かけ」を主食のように毎日食べる人が多くいたので薄利でも経営がなりたっていたと思われます。江戸前の鮨も当時は同じく安価なファストフードであったのですが、ネタに付加価値を見つけて現代では3万円も取ったりする。蕎麦はそれができないのです。
現代の蕎麦は主食でも国民食でもなく、好きなほうである僕も週に1,2度蕎麦屋ののれんをくぐるかどうか、そして注文はもりと玉子と冷酒ぐらいでせいぜい単価は2千円です。これだけ客数が減って単価を上げないと経営にはならないにもかかわらず。つまり蕎麦通はちっとも儲けさせてくれず、蕎麦の味のわからない人をトッピングでたくさん呼び込まないとつぶれてしまうのです。しかし肝心の蕎麦に舌鼓を打たない客はリピーターにはなりにくい。そうして、その結果として蕎麦屋が減って困っているのは蕎麦好きの人たちなのです。
クラシックの世界でいいますと、カラヤン、バーンスタイン、カラス、ドミンゴ、ホロヴィッツらの巨匠たちは申し分ないトッピングとしてレコード産業が演出した「名演奏家の時代」を飾ったのであり、フルトヴェングラーはその時代には間に合わなかったが、時がたつほど味がでる(とされる)ヴィンテージワインなのだとしてトッピング(いや天ぷら)の付加価値を高めることに使われたのでした。
クラシック音楽産業はいま完全に蕎麦屋のジレンマに瀕しています。ワルシャワ歌劇場のモーツァルトは通に本源的な音楽の喜びを与えてくれるに不足はありません。立派な老舗の蕎麦屋なのですが天ぷらやなべやきは供さない。素人にはそっけないもりそばだけと思われてしまう。誰もそう宣伝しないからです。
メットやスカラ座が引っ越し公演で来日すると豪華で著名なキャストにゴージャスな舞台と演出、そして御用評論家の美辞麗句でハレの華やぎが演出されます。同じフィガロなのに、ワルシャワのS席1万5千円がメットなら5万円で売れる。差額の3万5千円で食ってる人がたくさんいるということです。喜びの源はモーツァルトのスコアなのに!
この関係がもりそばと天ぷらそばの関係でなくてなんでしょう?ワルシャワの歌手たちは確かに技術も華も超一流ではないが、なんら不足のない演奏を聴かせてくれる。それがどうしたというんだろう?天ぷらが食いたいならミュージカルや宝塚など、いくらもある天ぷら屋に行けばいいのです。
どうしてそうなるかというと、旧東欧圏はペレストロイカ後も西欧の生活水準には追いつけていません。ベルリンの壁がなくなったといっても西の人間が特に東に住みたいということはない。ポーランドがGDPで欧州上位に登るということはなく、たぶん今後もないでしょう。
だから東欧の音楽家やオペラハウスはコストをかけずに呼べるという構図が背景にあります。トッピングにカネをかけないもりそばだから舞台は簡素だしスター歌手もいない。しかし、そんなものはなくともモーツァルトの音楽は光り輝くのです。
その良さを愛でられる人が「通」だというのも妙なことで、それがなければ音楽の喜びなどそもそもないのであって、妙な権威主義的音楽教育と、トッピングに利益を見出した英米の音楽産業マフィアの戦略で作曲家の偉業をだしに金儲けする輩が音楽鑑賞の本質をゆがめてしまった。音楽好きには由々しきことが起きているのです。
NAXOSという香港のレーベルが廉価で比較的良質なCDを販売し始めたのが90年代前半で、トッピングの見せかけの付加価値で利益を食んでいたメジャーレーベルの売上が激減を始めました。これは当たり前に良い音楽を当たり前の価格で津々浦々に送り届けるという革命で、音楽にとってはプラスの事態でした。
ところがそのNAXOSもレアなレパートリー供給で企業として延命しましたが、すでに飽和感が出ている。なぜならネットの無料音源配信の勃興には勝ちようがないからです。それはそれで悪いことではなく、さらに音楽が広まって真の音楽好きが増えるはずなのですが、世の中は理屈通りに動きません。タダのものは所詮タダなりの価値しかなく、駅で流れる発車メロディ程度の扱いで馬耳東風に聞き流せばよいという位置づけになってきているのかもしれません。
ワルシャワ室内歌劇場は音楽好きにはこたえられない珠玉の存在であって、これの良さが値段が安いだけでは世も末です。このまま時代が進めば真の音楽好きは減っていくでしょう。これは日本だけではない。ドイツですら劇場は年寄りが目立ったし、若年層がどれだけクラシックに金を使ってくれるかという観点でいうなら日本と同じく危機的です。メジャーなレコードレーベルはみなユニバーサルに買われてしまったし、クラシック専門誌の経営は破たんしつつあり、とどのつまりは音楽家の生活にだってひびいてくる。演奏家のインセンティブやクオリティが下がれば、我々はいいモーツァルトが聴けなくなるのです。
これはトッピングに利益を見出した英米の音楽産業マフィアのまいた悪しき種であり、「名演奏家の演奏でなければ価値がない」と洗脳されてしまった聴衆が真の音楽を聴く耳を放棄してしまった結果なのです。「名演奏家の時代」を飾った名演奏家がみな死んでしまい、次世代を生み出そうにもネットの無料演奏でいいやという聴衆を洗脳して高い入場料やCDを買わせようという戦略がワークしなくなったのです。それを喜んで買ってくれるのはウィーンフィルやスカラ座を三ッ星のフレンチレストランと同じ基準で考える人たちばかりになりつつあります。
僕が音楽ブログを書く原動力は、何度も申しましたが、音楽の価値はトッピングにあるのではなく、作曲家の書いた楽譜にあるのだということを分かって下さる人を増やしたいから、それだけです。それは演奏家の才能や努力を軽視することではなく、そういう聴衆が増えてこそ演奏家の真の価値も正しく認識されるのです。そして、それこそ音楽産業も繁栄できる道なのです。聴衆こそが彼らの唯一の顧客なのですから。
ということでコンサート評からだいぶそれてしまいましたが、今日も充分に楽しませてもらいました。ちなみに今回の指揮者ルペン・シルヴァは06年来日時に後宮、魔笛、レクイエムを振って堪能させてくれたのは忘れません。帰りに上野駅でドン・ジョバンニを熱演してくれたクリムチャックら歌手の一行が山手線に乗ってきて、ひとしきりがやがやとやって池袋で降りていった。この庶民性もなんとも好きになりましたね。
これがご当地ワルシャワの劇場です。何千人も客を呼んで儲けようなどという商魂とは無縁なサイズの劇場。くだらない自己顕示に満ちた現代風演出など目もくれないオリジナルで古典的なステージ、ワーグナー時代のステージ下のオーケストラピット、心から楽曲を楽しんでいる聴衆。これぞヨーロッパのまことの音楽原風景であり、資本主義に芯までは毒されていない東欧にこそ古き良きものが残っているのです。
別に押し売りする気はありません。これは質素すぎてもの足りない、やっぱりメットやスカラのゴージャスさが好きという方もおられるでしょう。それは出し物にもよるし、僕がイタリア物を好まないのもあるでしょう。しかし、そうではあっても、モーツァルトの喜びを知らないで音楽を聴くというのも寂しいものだと思います。だから、本稿で縷々述べてきたことですが、現在の音楽界の危機的状況には自分なりに何かできないかと強く思っております。
僕にできることはブログで一切の虚飾なく、 クラシック音楽の虚構をぶち壊そう の精神で、自分の耳で聴いたものを忠実にわかりやすく文字にしてお伝えするのみです。音楽界の誰とも利害関係はありませんから、良い物は良い、だめなものはだめとストレートに書くのみです。僕が50年楽しんできてこういうものと思っているクラシック音楽がどういうものなのか自分では評価できませんが、少なくとも僕にとって良い音楽はどういうものであるか、それだけでもお伝えできれば何かしたことにはなろう、勝手ですがそう思っております。
(追記、16年1月23日)
ピアニストでもそういうことがあります。オルガ・ルシナ(Olga Rusina、1955—2013)という素晴らしいロシア-ポーランドの女流を僕はyoutubeで知ったのですが、なんと英語情報が皆無なのですね。彼女は教職にあったためメジャーレーベルのアンテナから漏れたのでしょうか、「西側」(もはや古語だが)に知られぬままでした。ワルシャワ室内歌劇場と似た立ち位置にあったわけですが、本当に上質の演奏家です。
誰でも知ってる「乙女の祈り」です。ポーランドの女流作曲家テクラ・バダジェフスカの作品ですが、このなんのことない旋律と左手のテンポ・ルバート!ショパンが右手は(ルバートしても)いいが左手はするなと言ったお手本がここにあります。
ショパンのアンダンテ・スピナート(作品22)です。澄んだ秋空のような右手が実に素晴らしい。彼女のショパンは座右に置きたいです。
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パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響のR・シュトラウスを聴く
2015 OCT 16 0:00:53 am by 東 賢太郎
今日はパーヴォ・ヤルヴィのR・シュトラウスで、コンマスが伊藤亮太郎。
9月のエロイカにこれを書いていますが、N響・ブロムシュテットのエロイカ 席もオケも同じというのが信じられないほどの差でした。指揮者なのかコンマスなのか?
N響は伊藤亮太郎の時はOKです。彼はソロの場面で木管とのアンサンブルでも高音まで浮き出ず、木質の響きで溶け込んでいます。
第1ヴァイオリンの音が汚いオケなど何ら聴く意味がありません。僕には拷問ですらある。伊藤の都度のチューニングは音楽に誠実であると思います。
ヤルヴィは音の透明感、パースペクティブが良いのは何度か書きました。音響の冴えないロイヤル・フェスティバルホールでのロンドン響の牧神の午後で感嘆しました。今日のばらの騎士組曲でそれを追体験しました。
ドン・キホーテは曲があまり好きでないのでコメントは控えますが、オケの音が一新されていたのは驚きました。モルクのチェロは惚れ惚れする音でした。ティルは見事。上記の美点に加えて、音の「間の伸縮」がいいですねえ。単なるリズムではなく。これが絶妙なので音楽に生気が宿ります。ばらの騎士は演奏会形式でいいので全曲聴きたくなりました。
R・シュトラウスを生で聴くのは耳の贅沢です。極上のフレンチのフルコースです。今日のようにシェフがいいと特に。僕は若い頃は苦手で、たとえばドン・キホーテの冒頭の主題がいきなり転調してしまうのについていけませんでした。
それを当時の友人に言うと、何を言う、それがいいんじゃないとくる。こればっかりは生理的なものだから今でも同じですが、それに慣れてしまうとゴージャスな音響の魔力に負けてしまいます。
R・シュトラウスのティル、デュカの魔法使いの弟子、似たイメージのモチーフですが現れた音はあまりに違います。シュトラウスの音彩の描写のほうがアメリカにわたってハリウッドのムービーになったように思います。映画音楽の元祖という側面がありますね。とにかくオーケストラを極彩色で豊穣に鳴らす術にかけてはナンバー1でありましょう。
ヤルヴィが振ればN響は変われるかもしれません。コンマスは伊藤亮太郎に長くお願いしたいものです。
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ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場の魔笛を聴く
2015 OCT 15 8:08:46 am by 東 賢太郎
人類の創った最高の音楽はモーツァルトの「魔笛」である。
20代の身空で生意気にも多くの人に、もちろん家族にも、そう言い切って生きて参りました。以来30余年、たくさんの素晴らしい音楽に出会ってきましたが、この若気の前言を覆えすものは未だありません。
それを文字でご説明するのは宇宙の真理を10文字で解き明かすぐらい無理であって、体験するしかございません。この神品は僕を何度もウィーンに呼び寄せています。全曲は21セット持っていて、聴くたびにパパパ・・・で感涙にむせび、モーツァルトの御魂にいつも合掌しています。
このオペラの楽譜は僕には聖書、仏典であり、総譜、ピアノ伴奏譜、自筆譜のファクシミリと3つ持っていて、まさに1頁1頁、写経をするように眺め、ピアノで鳴らしてきました。奇跡のような音符がいくつもあって、それを書いておきたいのですがたくさんありすぎ、今はその元気がありません。いつか、モーツァルトが許してくれたら、書きます。
二つだけ挙げると、まず管弦楽です。バゼットホルン2本が入って幽玄な和音を響かせ、モーツァルトが嫌いだったフルート(2本)とトランペット(2本)まで入ってる。これらがどこで使われているかということです。序曲の3つの和音の上声の重ねはフルートです。Wie? Wie? Wie?の9小節目!これはフルート以外にありえない。神がかり的に凄い音符で、彼がこういう風な色彩でフルートを使った例は他に知りません。1791年、死の年のモーツァルトには何かが間違いなく取り憑いてましたね。
もうひとつ、調性の設計です。変ホ長調で始まり、終わる。第1幕のフィナーレはザラストロの太陽王国の讃美、そしてタミーノの試験合格シーンですがともにハ長調で前者はまぎれもないジュピター終止で幕を閉じる。そしてこのオペラの白眉であり最も重要な悲しみの箇所であるパミーナのアリア「Ach, ich fühl’s」と、パパゲーノの自殺の歌がト短調である。つまり「E♭、Gm、Cの三大交響曲の調性」が骨格を成しており、パパゲーノのト長調、夜の女王のニ短調が人格描写になっている。
今回はそのぐらいにしておきます。
ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場は2006年にたしかドンジョバンニ、魔笛、フィガロ、後宮を観ました。これが実によくて、貴重なメモリーとして心に残っており、今回も真っ先にチケットを入手しました。残念なのはドンジョバンニが今回はないことで(どうしてだ?)、前回のアンジェイ・クリムチャックのタイトルロールが僕がかつて見た誰より良かったのに・・・。
さて今日ですが、またまたこちらの頭が回転が鈍く音楽に乗りきれません。席は9列目で最高でしたが東京文化会館は音が来ないせいもありましたか。また、どういうわけか歌手たちのテンポ、特に第1の侍女とパパゲーノが前のめりで指揮が統制できてない。あれあれ、今日はハズレかなと集中力が落ちました。夜の女王もやや苦しくテンポは控えめで、まあライブはこういうハラハラが楽しいといえば楽しいのですが。
しかし、女性3人のハーモニーとは天上の美しさでオペラにこのアンサンブルを持ち込んだのは作曲家の卓見です。3人の童子は女性で、僕は子供の方が好きであんまり歓迎しませんが、今日の3人は良かった。侍女より良かったぐらい(特に1番のアレクサンドラ・ビスコット)。こんなことは珍しい。パミーナのマルタ・ボベルスカは前回も印象的でしたが今回も(歌も美貌)も良かったですね。この人はNAXOSから出ているアントニー・ヴィット指揮ワルシャワ国立フィルのマーラー8番で聴けます(これは名演)。
あとのキャストはSo soでしたがとにかく音楽のパワーが十万馬力だから普通に歌ってくれればいいのです。まったく文句ありません。この歌劇場はモーツァルトのオペラを全作品随時上演できる世界で唯一の団体ということです。もちろん僕は全部はきいたことがありません。たてつづけにやってくれるならポーランドに半年ぐらい住みついてもいいなあとさえ思います。
魔笛のストーリーについてはコメントを避けます。支離滅裂と僕も思うし、フリーメイソンの入会儀式かなとも思うし、陰と陽、光と闇、善と悪、聖と俗、生と死、規律と堕落、知性と野生、火と水、男と女、という二軸対立の物語でもある。しかしメインテーマは2つのカップルの誕生であり、特にモーツァルトが自己を投影したと思われるパパゲーノとパパゲーナのカップルである。
だから魔笛の真のフィナーレはpa-pa-paなんです。魔法の鈴のハ長調に童子のD7のブリッジが入って(これが感動的だ!)、ト長調でいそいそとはじまる。人間の、愛の、優しさの、生きることの、喜び。万国、何国人だろうと何人種だろうと、これはわかる。人間ならば。この音楽を涙なく聴きとおすのは僕には無理です。物語は架空のおとぎ話で荒唐無稽でも、音楽の方は深い深い人間の真実をえぐりだしていて、心の中でパパゲーノとパパゲーナのカップル誕生に絶賛の嵐がおきる。きっと誰でもそうだと信じます。
これを聴いてホールから出てくると、皆さん優しくいい顔になってるんですね。不思議です、世界のどこでもそうでした。心の中に住む一番いい人が表情に出ていますね。タミーノが魔笛を吹いて野獣を踊らせてしまう場面がありますでしょう、笛の魔法は聴衆にも効くのです。もっともっと聴いてもらえば戦争もなくなるだろう、犯罪も自殺も減るだろう。僕はまじめにそう思っています。音楽というものにいかにすさまじい霊力があるか、魔笛を何度も聴いて覚えてしまえば、必ずわかります。すべての音楽ファンに、ぜひその境地を味わっていただきたいと願っています。
(追記)
魔笛のCDをひとつというかた。上記歌劇場の東独路線のままでさらに上質のクオリティを体現した宝のような録音がひとつだけ現存します。
オトマール・スイトナー / ドレスデン・シュターツカペレ
テオ・アダム、ペーター・シュライヤー、シルヴィア・ゲスティ、ヘレン・ドナートという珠玉のキャスティング!欠点があるとすると二人の武士が弱く、第2幕の大事な「私のタミーノ!」の四重唱がまことに貧弱である。コストセーブだったなら同情するが武士は合唱団員なので二重唱にしか聞こえない。これは来日公演のビデオを聴いても同じであり肝心中の肝心であるのテナーのFroh~などぜんぜん聞こえないのだから論外というしかない。スイトナーの考え方がまったく不味い。モーツァルトの書いた天才的な、おそらくワーグナーがそれでマイスタージンガーの五重唱を書いたあの音符が聞こえないのだから。しかしそれだけ我慢すれば、他はおおむねクリアしております。もちろんもっと上手のザラストロや夜の女王たちの貫録の名唱を聴ける録音はあるのですが、例えばこの録音のレナーテ・ホフ(Renate Hoff)のパパゲーナは実にカワイイ。パパゲーナに大物なんか起用されると僕はげっそりで逃げ出したくなるのです。ホフはスイトナーが好きだったとみえ東京公演にもパパゲーナで連れてきたし「ヘンゼルとグレーテル」のグレーテルにも起用していますがその後は聞きません。僕も大好きなので残念でならず探しだしたいぐらいです。そういうことまで含めてトータルなコンセプト、個々のキャストの凹みのなさ、音程の良さ、三人の童子の上手さ、DSKという最高級のオーケストラ、スイトナーのテンポ、録音の良さ、と総合点は高く、全教科合計点の偏差値が最高であるこれをファースト・チョイスに太鼓判を押すにまったく問題などございません。値段も不当なほど安く、迷わずこれを手にして全曲を記憶されることを強くお勧めします。これとクレンペラー盤。この二つを聴かずして魔笛を語る勿れです。
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