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カテゴリー: ______歴史に思う

ルロイ・アンダーソン 「紙やすりのバレエ」

2023 DEC 24 7:07:00 am by 東 賢太郎

「トランペット吹きの休日」と同じく1954年の作品だ。これも聞き覚えのある方はたくさんおられるだろう。紙やすり(サンドペーパー)まで楽器にするアンダーソン流であり、人懐っこい和声進行は彼のトレードマークでもある。

紙やすりのバレエ(Sandpaper Ballet)は1999年にサンフランシスコ・バレエ団のために制作され、同年にウォー・メモリアル・オペラ・ハウスで初演された。バレエ化は著名な振付家、演出家のマーク・モリスであった。アンダーソンの作品11曲を使い、そりすべりは序曲になったが同曲はタイトルにはなったが、この動画(スペイン)のようなメイン扱いではない。

ジョン・ケージの居間の音楽(Living Room Music、1940)と思想を一にした庶民版と思えないでもない。アンダーソンはハーバード大学でウォールター・ピストンの弟子であり、ピストンもケージもシェーンベルクの弟子だ。

Sandpaper Balletが初演されたウォー・メモリアル・オペラ・ハウスでサンフランシスコ講和条約(1951)が調印されたのは周知だ。

The War Memorial Opera House

同条約は吉田茂が調印した。外交官だった彼は親米、親英であり、統制派である東條英機首相が国家社会主義体制を構築していく中、反主流派の真崎・宇垣連立内閣を構想し「英米ト和平ノ手ヲ打ツベキ方針」と対米戦反対を真崎に伝達し、真崎も同意していた。吉田の意に反し近衛、東條の内閣となり真珠湾攻撃に至る。この経緯と戦後処理を鑑みるに、このオペラハウスには特別な思いを懐く。

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キッシー息子くんの忘年会を叱る

2023 JUN 4 13:13:45 pm by 東 賢太郎

人間が受け取る情報の8割は目からで、写真(画像)のインパクトは大きい。キッシー息子くんの忘年会、その名と違ってこれは何年たっても国民から忘れられることはないだろう。そんな写真が流出したらヤバいぐらいの理性はあったんだろうが、それをかいくぐって出たわけだから只事とは思えない。出席者に猛烈なアホがいたか、確信犯がいたか、騙されて出しちゃったか? いずれにせよこういうワキの甘い家の人が総理やってるんだということになってしまう。世論は。

岸田総理は3世議員。息子くんは4世の予定。世間はみなその箔つけのための秘書官任命と思ってる。総理秘書官は官僚の体感だと事務次官より上らしい。それをどこ吹く風と適材適所で通してしまって適材でなかった。だから親父の自業自得になる。商社に6年いて社会経験だなどと思うまともな人はいない。しかし政界に入れば親の七光りで競争のない人生だろう。だからよほどの馬鹿でない限り誰でも適材なのである。その世間ナメ過ぎな親のエゴの犠牲になった息子くん。まだ若いのに気の毒としか申し上げようもない。だが今回はそこで終わらないだろう。この「よほどの馬鹿でない限り誰でも適材」というのが世襲議員の旨味だ。親バカの母ちゃんまで出てきて「うちの息子を」とやってる。あいつもこいつもやってる。子供はかわいい。だから議員はみんな世襲したい。歌舞伎の梨園状態だ。公職が世襲されるのは公私混同であると世論はなっていくだろう。

世襲議員が30~40%もいる日本は、明らかに、国際的に、異常だ。印象論ではない、数字で明々白々でありなかでも自民党が突出して高い。世界で日本に迫るレベルなのは政治後進国のイタリアだけであり(それでも日本より低いが)、英国で10%、米で5~10%、ドイツや韓国はほとんど無い。しかも英米は「親の地盤をそのまま引き継いで、同じ選挙区から出るケース」は1%程度でほぼない(神戸新聞・豊田真由子氏)。豊田氏は公職が特権的地位になってはいけないという不文律があるからとされるが、やったら大変なことになると考えた方が現実論として近い。フランクフルトの鮨屋でこういうシーンを目撃した。会計をしようとしたインテリ風のドイツ人客が「同じものを頼んだのに日本人と値段が違うのはなぜだ」と店員に質問し、親父が何か説明したが納得せず「訴訟する」と言いだした。現地で誰もが知る店だ。大した金額でもない。でも怒っていた。これが西洋人の「不平等」「差別」への反応だ。お得意さんと一見さんではサービスに違いが出て当然という常識は日本しかない。格別のサービスは構わないが余分に相応のカネを払う。それが「チップ」というものの正体なのだ。自分の子をうまいことやって議員にしたいなどという発想は鮨屋の親父なみなのであって、やったら即死。だからほとんどないのである。

経済的背景もある。相続税だ。誰でもそれなりの財産をもって死ねば国に半分召し上げられる。しかし例外がある。伝統芸能だ。襲名披露してご贔屓筋を引き継げば親父とかわらず食っていけるが、芸名というブランドに相続税はかけようがない。議員の「票田」(地盤や後援会システム)はそれと全く同じであって、田舎で庄屋の子は庄屋のノリで親父が息子をよろしくといえばそのまま票が受け継がれ、それには技術的に相続税の計算のしようがない。よって経済的にも政治的にも目減りなく子孫に継承できてしまい、贔屓筋も息子にたかればおいしい思いをずっとできるから誰も反対しない。歌舞伎や落語は公職でないからそれが許されるが、議員の身分は公職中の公職である。これがおいしいファミリービジネスになるなど論外であること、世界の常識など持ち出すまでもない、国益に尽くすべき議員という立場の憲法第1条、あまりに当然のことである。これが馬鹿息子が続々と当選し、世襲議員が続々と生まれてくる利権メカニズムである。

わかってはいたが、僕はこれ(安倍総裁の眼)で世襲を良しとしようと思った。大臣になるような議員には交渉力で相手を屈服させる能力が必須だ。しかしどう見ても外国の猛者相手にそれができる者は半分もいるとすら思えず国費の無駄である。だから国会議員は半分にしろと言っている。交渉は言葉でと言われるが、眼がものをいうことを何万回もビジネス現場でやってきた僕は知っている。しかしそういうことは練習してできるのではないかもしれない。そう納得してみた。しかしそれは安倍家だけの話であったのかと今回の件が愚考を粉々にしてくれたのである。依怙贔屓やり放題社会になって平等、機会均等を壊せば多くの才能ある若者のモチベーションを根底から削ぎ、やがて民度はさらに凋落して日本国というゆかしき存在は崩壊し、父祖の努力が灰燼に帰することは必定だ。そんな日本は見たくない。世間は「格差社会だ」「二極化だ」と騒いでいるがそれをいうなら「政治の貴族化」であって、対策を打ち出す立場の行政府や立法府の中枢がお血筋によって固定された貴族なのだ。貴族制を廃止して自ら平民になった貴族は歴史上いない。

だからこれを打破するには対抗できる強い野党が出るしかない。一党だけ貴族を辞めて清貧を見せても選挙に勝たなければ無意味だ。しかし、この人たちも同じ貴族を味わっちまった議員である。小ぶりでも地盤を利権として相続したい欲はあるだろう。「ビジネス野党」という、国会質疑でテレビに出られるタレントとして政治を家業としている万年二軍でいい人たちなのではないかという疑念が僕からは申しわけないがいつまでたっても抜けない。その証拠が、自民を倒すには野党共闘しかないのにその気配すら見えないことだ。民族問題と混線して理解されているのもいけない。そこだけは譲れない多種多様な中道右派の有権者をザトウクジラみたいに飲み込む自民党が、あれだけ派閥闘争して政策などわけがわからなくなってるのに勝利という構図はいつまでたっても変わらない。昨今は維新がいい線行ってるなと思っていたが、自らすすんでクジラに飲み込まれることで公明を追い出して後釜に座る路線だろうか。トロイの木馬作戦なんて言ってるがおいしい自民党員になって大臣ポストが欲しいのだろう。維新がくっついた自民の世襲率はやがて5割を超え、三等国だと世界の笑いものになるだろうがファミリービジネスに邁進する貴族の共同体という仮定が正しいのならば領地の農奴がどうなろうとどうでもいいだろう。

志のある若者たちは明治時代までで大半が足りてしまう日本史の受験勉強はいったん忘れて、明治以降、とくに大正~昭和から現代にいたる日本人が最も見たくない部分の生々しい歴史を虚心坦懐に学びなさい。それをせずに日本史を分かったなど、マル経だけで経済学を語るようなものである。

三等国になっていいはずがない。一等国の評価とプライドを勝ち取るのにどれだけ先人の血と汗と涙が流されたことか。これを忘れたり無視をするなら、君らは知覧の特攻平和記念会館へ行って涙一滴流さず帰ってこられる人だろう。きっかけはいうまでもなく下級武士が主体である明治の元勲の志が高かったからだ。アジアにそんな国は日本をおいて一個たりともなかったのは武士は日本にしかいなかったからだ。維新の十傑のうち七人が暗殺、刑死、敗北自決などの異常死を遂げており、結果論とはいえ文字通り命を懸けていたことを疑う者はない。だから元来は国家意識などなく諸藩に属していただけの民が王政復古の号令で天皇という求心力に目覚め、日本国のためと徹底奮起して二つの戦争に勝った。

しかし、大谷翔平選手がWBCのミーティングで選手に警鐘を鳴らした通り「憧れるだけ」で欧米を抜けなかった「科学技術の差」が致命傷になって三つ目に大敗するのである(なぜか日本の役所は文系が偉い)。国家資格まで失うという未曽有の屈辱の底の底まで墜ちた。そこで発足した自民党なる米国礼賛政党に明治の志があったかというと、米国の信託統治下ではもう何でも仰せのままにといいながら「立派な負け犬」になる根性を見せるぐらいでそんなものは到底あるはずもなかったのである。ここは卑屈になることはない。誰が悪いわけでもなく歴史の流れで仕方なかったと思うしかない。人間は失敗から学ぶ者が勝つ。取締役から臨時の見習いに降格にはなったが、また這い上がればよかったのである。

それは実現した。当時の日本人にはその気概があった。その時代に生まれ経済界で生きた人間のひとりとして声を大にして言わせてもらうが、朝鮮戦争の特需で利を得てそれを賢明にも資本に回していわゆる「高度成長期」(1955年~1973年までの19年間に年平均10%を達成した期)を焼け野原からわずか10年で実現して世界の度肝を抜き、しかもそこからたったの16年である1989年に株式時価総額が米国をぬいて日本は世界一になった。

証券市場に詳しくない人はピンと来ないだろうが心に刻んで欲しい。株式時価総額で米国を抜いたということはWBCで米国に勝ったことの1億倍ぐらい凄まじい快挙なのである。だって上場していて株交換で買収しかけられたらひとたまりもないでしょ?フェアプレーだから真珠湾と違ってやられても戦争仕掛ける理屈も立たないでしょ?つまり株価は経済のみならず国力の源泉、最強の武器なのだ。このことは米国が最もよく知っている。欧州も中国もよ~く知っている。日本の政治家、官僚、学者、メディアだけが知らない。頭はいいからわかっていても骨身にしみてないし策もない。

経済力で日本に負けた。これがあったから米国政府は日本の台頭を心底から恐れ、なりふり構わず貿易摩擦戦争を仕掛け、円高誘導を仕掛け、BIS規制(バーゼル合意)で日本経済を徹底的に叩き潰しに出たのである。これは凄まじかった。英国のシティで最前線で世界の金融界の目玉商品であった日本株ビジネスを戦っていた僕はその生き証人である。中国の時価総額はまだ半分だがやがて抜かれるのではないか。そうなれば合衆国は丸ごと買われる。中国が核戦争を仕掛けたり台湾を武力制圧するなんて実は考えてないのに、だから、いま必死に株式市場から中国資本と企業を閉め出し、インド太平洋圏構想で囲い込んで叩こうとしているのである。

これをわけもわかってない左翼やらメディアやらが「昭和末期の空前の馬鹿騒ぎ」だの「バブル崩壊で貧しくなった」だのと負の側面だけ誇張する。それこそ馬鹿も休み休みにしろである。だからその不条理を体感し、24時間戦えますかのリゲインを飲んでふざけんなとなった民間企業の兵士たち、おそらくは多くの皆さんのお父さんの世代が「企業戦士」「経済は一流、政治は三流」というサラリーマン川柳なみに鋭い言葉を職場で飲み屋で自嘲気味に大流行させたのである。戦うどころか戦地にいもしなかった政治家やジャーナリストが「経済も二流になった」などと軽々しくほざくのを見るにつけ、こいつら偉そうに何様なんだと怒りを覚えるしかない。

当時の戦士、戦友の名誉のために特筆しておくが、世界を驚嘆させ、地に落ちた敗戦国だった日本国の評価を一気に “一流国” まで高めた「高度成長」なるものは、民間企業が真面目に勤勉に知的に賢明に壮絶に、それこそ命を賭して頑張った成果物なのである(僕の勤務地では過労で2人が白昼に亡くなった。皆さん信じられますか?)。ひとこと付言しておくが官僚も国の利益と威信のために頑張った。僕はそういうポストではなかったが、共に戦ってくれた印象はある。しかしだ。断言するが、一流国になったのは政治家が優秀だったわけでも命を懸けてくれたからでも何でもない。

歴史をふりかえれば歴然だ。米国の策略は金融(カネ)と貿易(モノ)に国際ルール(のふりをした)改訂の足かせをつけて日本を叩き潰すことだ。仕掛けてきたのは政治レベルの脅しであった。そこで絵に描いたように宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山と冗談にもならない低レベルな政権が続く。結構まともな橋竜が失脚させられ、いよいよ小渕、森という妖怪水準のドツボにはまる。すでに日本潰しは完成しており米国はもうどうでもよかった、米国シンクタンクの幹部と何度か会ってそう感じた。次はポピュリズム巧者の芸を買って2001年に小泉を使い日本収奪の金儲けに出た。IPO幹事に米系を押し込んで唾をつけたNTTに始まり郵政がおいしかった。これがあからさまな米国利権政権の端緒だった。第二の敗戦でまたギブ・ミー・チョコレートが出た。安倍第1次政権がそれに続き、結果は辞任と情けなかったが2次では彼は多くを学んでおりましだった。少なくとも失業を減らし株価を上げた。何偉そうなことをほざいてもその2つができない総理は無能だ。しかし代償もあった。万年与党の自民党が地位に甘え、議員は勘違い貴族化して堕落し、意思決定には官僚人事という裏技まで弄する横暴が目に余るようになった。

このあたりの風景は二・二六事件の背景への教科書的説明である「青年将校たちは政治政党は財閥と結託して堕落している、軍部は利権を握って横暴を極めていると考え決起した」とそっくりだ。財閥を米国中国、軍部を自民党におきかえればほとんどそのままだ。我が祖母の旧姓は真崎である。僕は台湾の警察署長のおじさんとだけきいて育った。息子くんたち、この音声は知ってるかな?

重い。何十回聞いたかわからないが平静に眠れなくなる。こういうことは二度と起こしてはいけない。岸田総理がもしそう思ってるなら、ほぼ確実にそうは思ってない息子くんを怒鳴って制止するぐらいはしたんじゃないかと思いたいが、一緒に写真撮ってたようではある。そこがこれのあった場所だよ。他人も入れてたみたいだが昭和11年の技術でこんなに盗聴されてる。ごめんなさいじゃ済まないだろ、それ。

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拡大核抑止は米国のためにもならない(広島サミット)

2023 MAY 22 23:23:27 pm by 東 賢太郎

何度も書いたが、27才から米国で2年の教育を受けた。その間に多くの思慮深い米国人と知り合い、あの戦争のことまでを議論し、それまで学校で習った程度の認識しかなかった米国の民主主義、自由主義というものの一面的ではない奥深さに感動すら覚えた。母校ペンシルべニア大学病院の医師たちの尽力で難病だった家内の子宮筋腫を治していただき子宝にも恵まれた。英国では29才から35才まで勤務し、顧客であるジェントルメンとプライベートに至る付き合いに恵まれ、人間の根幹をつくる時期にたくさんの啓示をいただいた。

「それまで学校で習った程度の認識」というものがどういうものだったかははっきり覚えがない。ふりかえって整理してみると、

(1)日本も明治以降は立憲国家になったが、陸海軍の統帥権は天皇に直属するとして軍部が独走して過ちを犯した

と教わったように思う。それは世界史だか政治経済だったか、教科書には「統帥権干犯問題」とあったが、概ねのところ真実だろう。問題はそこからで、

(2)だから我が国はならず者・人殺しの本性のある国であり、300万人もの同胞が戦争で亡くなったのもならず者のせいであり、天誅を下してくれたアメリカ様のおかげで平和になった

という第2弾が続くのである。

恐ろしいことだが、どこで(2)を吹き込まれたか記憶にない。昭和30年生まれの僕は物心つくとテレビでアメリカ様のディズニー、ポパイ、マイティマウス、早撃ちマック、スーパーマン、コンバット、ベンチャーズなどに夢中になっていた。ポパイの缶詰ホウレン草やハンバーガーは一度でいいから食べてみたいと熱望していた。しかし、一方で、米軍の爆撃で片耳が聞こえなくなった父からは「鬼畜米英」という言葉を教わっており、鉄腕アトムや鉄人28号でも負けてしまったんだという理解をしていた。

子供心に何か変だった。

(2)を喩えるなら、悪事をした男がムショ入りし「心を入れかえて生きていくんだぞ」と看守に背中をポンとたたかれて娑婆に出る映画を見ている気分だ。なんで自分の国を守ったのに悪いんだ?殴られたら殴り返すのは当然だろう?でも、アメリカ様のいうことをきけば楽しい未来がありそうだ。コロロの矛盾をそう解決していた気がするが、その解決自体がさらなる矛盾をはらんでいた。

なぜなら、周囲の友達はギブ・ミー・チョコレート路線で「アメリカかぶれ」が続出していた。テレビに出てくる大人たちも長い物に巻かれ、サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ、すいすいス~ダララッタなんて歌が流行っていたからだ。本能的な正義感でそういうのを許せない性格に生まれついているから友達も嫌いになったりして悩んでいた。

いうまでもなく(2)はマッカ元帥様が占領民を洗脳すべく行使したWGIP(War Guilt Information Program)、すなわち、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画の骨子だ。戦争で焼け太った者が隷属し、見返りをもらって全国民に向けてこのプロパガンダ・ウイルスをたれ流していた。自民党もメディアもそのためにできた。知らず知らず僕もそれに感染していたわけだが、安保反対の学生運動は4、5才上のしている暴力沙汰と思っており参加する気はなかった。

日本には「ならず者」もいるしチョコレート野郎もいる。どこの国でもいる。そこで法律を作り、国家を安寧に秩序立てて運営するのである。軍部が独走してしまったのは、日本人がとりわけ「ならず者」だったからでもなく、サムライだからそんなことはしないわけでもない。大日本帝国憲法に「内閣」「総理大臣」の規程がないという構造的欠陥があったからである。英国式の責任内閣制度(元首が行政権を首相に譲る)は陛下がおられるのだからやめとけと独逸人にいわれ、自分が天皇を統御する前提が頭にあった伊藤博文がビスマルク憲法式にしてしまった。腹があった彼ら維新の元勲が死ぬと前提は溶解し、しからば改正すべきであったその憲法は「不磨の大典」と神格化されて欠陥は温存される。そこを突いて、天皇を奉って統帥権を掌握する内紛が起こり(五・一五、二・二六事件)、昭和の悲劇につながっていった。戦前は法治国家でなかったという者がいるが、見事に法治国家だったという皮肉な見方もできる。

そんな鬼畜米英に何年も居を構えることは僕にとって大きな矛盾、チャレンジであった。米国で学生生活をしていたころ、酔っ払うと議論を吹っかけては「日本は憲法改正して再軍備しろ」と言いまくっていたようで、仲間に恐ろしい奴だと言われた。右翼でも軍国主義者でもない。親を愚弄する者は許せず、WGIPの詐術に篭絡されてしまう自分の姿など身の毛がよだつからそうなったという帰結こそが招かれざる矛盾の産物だった。ドイツ時代にクライン孝子さんにぶったのもそれだったと思われ、スイス時代に日本企業の会合で議長をやって「なぜ防衛庁に入らなかったのですか?いい武官になられたのに」と大使館の同庁出向幹部の方に尋ねられた。文官でなく武官というのが自分らしく愉快だった。

40才までしていた主張はこういうことだ。いまだかつて自国を自分で守る権利のない国は地球上にカルタゴしかなかった。カルタゴは第2次ポエニ戦争でハンニバルで敗戦した戦後処理としてローマに武装解除、対外戦争の禁止を強要され、そこで平和主義を掲げ、貿易に専念して経済大国になった。ところがそれをローマに警戒され、隣国ヌミディアの侵略に反撃したところ「条約違反だ」と言い掛かりをつけたローマ軍に攻められ、総人口50万人は惨殺され、生き残った5万5千人は奴隷として売られて国家ごと消されてしまった。それと現代日本のアナロジーは多くの識者が語り、「アメリカ様の核の傘があるさ」で済んできた。カルタゴは敗戦で丸腰にされてから滅ぼされるまで、それでも55年はあった。我が国はここまで78年も無事だったが、これからもそうだろうか。

このたびの広島サミットは、岸田総理が「核なき世界」(核廃絶)を目指すという理念を掲げつつ、核爆弾使用国(米)、2つの核保有国(英仏)、米国に核依存する3か国(独伊加)が参集し、平和の希求を表に掲げながら核の傘(「拡大核抑止(Extended nuclear deterrence)」)が議論されたと理解している。仕組まれていたと思われるゼレンスキーの登場にバイデンが「F16を貸してやろう、核の傘を広げる必要もあるな」と応じる所定の落し所となったのだろう。G7の日本を除く6か国はNATO加盟国で、西側だけで核廃絶が決められるはずがなく「核なき世界」とは最初から水と油だ。広島市民が怒るのも道理である。

目下の一大事はプーチンに核を使わせないことだ。G20を巻き込む傘の拡大はやむなき一里塚とは思う。対して駐米ロシア大使は「米国は日本に謝罪していない」と批判する。原爆資料館の滞在はオバマの10分が今回は40分になったが様子は外部に公開せずだ。米国が謝罪する可能性は見えない。ということは、人殺しがプーチンに人殺しはするなと制する理は立たず「拡大」で脅すしかない。すると世界にチキンゲームが誘発され、核保有量競争が加速する。これ自体が人類を危機に陥れる。なぜなら原口議員によると核保有の危険性は意図的な攻撃のみではないからだ。ミスコミュニケーションによる錯誤、コンピューターの誤作動、ハッキングなどで発射されてしまうリスクは管理不能で、プログラムされた報復を誘発して人類は短時間に滅亡する可能性があるといわれている。大日本帝国憲法の構造的欠陥が昭和の悲劇を呼ぶことを明治の元勲は想定しなかったこと、福島原発の津波による事故もしかりだったことを熟慮すべきだ。「核なき世界」への一里塚に内在する人類滅亡リスクをG20で共有することが必要で、そのために、唯一の核兵器使用国である米国がその非を認めることで事は進む。DSと一線を画さない現状は自国のためにもならない。

冒頭に述べたように、英米に住んでみると、彼らはぜんぜん鬼畜ではなかった。本稿で書き分けてきた「アメリカ様」と「米国」は別物なのだ。前者は米国の姿をまとったDSで、全員が米国人とは限らず英国の影もある。武器、エネルギー、食物、鉱物、情報が主力商品であり薬もそうだ(麻薬と置き換えて阿片戦争を思い出せばいい。中国人が何万人死のうと廃人になろうと英国人は金儲けのために阿片を売ることを意に介さなかった)。原口一博議員の主張のようにワクちゃんも同じ精神構造の元に日本政府に免責条項付きで取引されたものと想像する。立派である米英の友人のためにも、米英の威信を守り人類を滅亡させないためにも、人間の心のある米国指導者が現れて歴史の殻を破ることを願いたい。

最後にSFっぽい話をひとつ。プラズマ理論物理学者ジョン・ブランデンバーグの論文によると、火星大気にはキセノン129という、自然には発生しないキセノンの同位体が不自然なほど多く含まれているという(左)。また、ウラン235の放射線量が多い地域は大きく2か所存在するが、このウラン同位体も自然にはできないものらしい。ブランデンバーグは、放射性同位体とそれらの堆積物から、火星ではかつて少なくとも2か所で核兵器が使用されたとし、その総エネルギー量は地球上の核兵器100万個分に相当するという。これは大規模な核兵器の使用であって、小規模の核兵器はさらに多く使用され、互いに多量の核兵器を撃ちあった痕跡も認められるという(以下の記事から抜粋)。

火星超古代文明は核戦争で滅亡した!? 大気中のキセノン同位体から考察する先代文明の終焉/嵩夜ゆう

東西冷戦時代、地球は自身を複数回破壊できるほど大量の核兵器を有していた。幸いなことにそれが使われることはなかったが、火星ではそれが現実のものになってしまったのではという興味深い説だ。これで思い出すのは月面で5万年前の人間の死体が発見される名作SF「星を継ぐもの」だ。無人どころか猿もいなくなった地球に来訪した宇宙人が5万年前の死体を発見したりしないことを祈る。

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清少納言へのラブレター

2022 SEP 10 18:18:21 pm by 東 賢太郎

前の稿に書いたが、最近、「枕草子」を通読した。なぜそういう気になったかというと、安倍元総理の暗殺事件で、彼の「戦後七十年談話」を思い出したからだ。僕は愛する両親の生まれた国を当たり前に愛する日本人である。談話は至極共感したし、これを総理として公言するに相応の覚悟を決めたはずだと、彼の器の大きさを評価した。したことに是としないものもあるが、万能の人間はいない。そのような部分があることを針小棒大に批判し、自国を当たり前に愛する者を「右翼」と呼び、それはおかしいだろうとする発議を「陰謀論」と切り捨てることがまかり通るようになった情けない世相を僕は大いに危惧する。

この危惧は、しかし、2020年の米国大統領選の時にすでに発していたことは、この稿を先ほど読み返して確信した次第だ。

バイデンが隠しトランプが暴き出す秘密

僕は今もこの選挙は八百長と思っている。「ウソ」をついておいて、「これをウソだと言う奴はウソつきだ」にすり替える手法がある。➀証拠はない ➁隠滅の証拠もない ③よってウソつきは君である、という攻めの三段論法である。次いで、そのウソを「百回言えば真実となる」とすべくメディアがたれ流し、大衆に擦りこむ。バレそうになると「そういうことが行われた証拠はない」を➀として、再度論法を作動させ、洗脳済みの大衆に「君が言っているのは陰謀論である」と言わせるのである。これは商売ならマーケティング、政治ならプロパガンダと呼ばれる。

こうやって1年、2年と世界はだんだん目が慣れ、あのおじいちゃんを大統領と思うようになった。そして、いよいよ化けの皮が剥がれかかって替えもないままに中間選挙の11月が迫り来た。日増しにトランプが脅威に映り始め、だからFBIがフロリダの別荘にガサ入れしたりしているのだろう。以下はまったくの憶測だが、トランプは➀➁をつかんでいたが、裁判所までグルでトラップしようと狙っているのを知り手を引いたと思う。すると代わりに議会襲撃事件をでっちあげられ、作戦どおり「無法者」にされる。オズワルドが現れやすくなる。SNS封鎖などかわいいもの、この脅しは強烈だ。その半年後に安倍氏もなんやかんやで悪人仕立ての動きがあったが、辞任理由は身の安全だったんじゃないか。

内閣総理大臣経験者の襲撃による死亡は二・二六事件の高橋是清、斎藤実以来という重大事件であるのに、本件はwikipediaに早々に「安倍晋三銃撃事件」と「評価の固定化」がなされ(海外はすべてassassination、即ち「暗殺」である)いつの間にか統一教会問題にすり替わっている。「銃撃事件」は平成からこれまでに4件発生しているが、被害者が死亡した例はひとつもなく、軽微に見せる印象操作だろう。銃創、弾道、弾数の物理的矛盾の説明を奈良県警はしないが、そうではなくできないのだろう。まるで国を挙げて「早くなかったことにしたい」だ。これはいったい何なんだろう?裏で物凄いものが蠢いている思いに背筋が寒くなるばかりなのだが皆さんはいかがだろう。

経験しないとお分かりになりにくいかもしれないが、海外で10年以上も生活すると「美しい国、日本」が身に染みる。だから、僕は益々自由人にはなったけれども、同時にナショナリストにもなって帰ってきた。移民で国がない、自国を愛せない人をたくさん見て、日本人に生まれた幸せをかみしめたからだ。もう何年ぶりになるのかも忘れるほど以前に読んだ「枕草子」を読み返すことになったことは前稿に書いた。なぜそうしたかというと、古典の中でかつて最もストレートに心に刺さり、現代の日本人も変わらぬ千年前の美意識に感動した本であり、日本民族であることの誇りを感じさせてもらったからだ。それを守ってくれる政治家が日本国には絶対に必要だし、それを選ぶ有権者の我々が日本国の誇りを忘れてしまう体たらくでは国家の存続すら危ういと思った。それを僕自身が読んでもいないのでは、お話にもならないからである。

18世紀ごろの人口はロンドン80万、パリ50万に対して100万いた江戸は世界一の都市であったとされる。海外で僕はこれをアピールして日本の宣伝に努めたが、文化度は人口だけで決まるわけではないという気持も同時にあった。手前味噌の感じが払拭できなかったのである。しかし、江戸時代の800年も前から日本文化が世界に冠たるものであったことは、実にシンプルであって、「枕草子」と「源氏物語」を示せば Q.E.D.(証明終わり)なのだ。相手がインテリであるほど反論がない。 同時代の西洋や中国がどんな悲惨な状況であったか皆が知っているので、見事に納得されるからお試しになればいい。

それはそうなのだが、しかし、日本人の誇りというのはそんなに肩ひじ張ったものじゃない、もっと身近で、誰でもわかりやすいものなんじゃないかという気がしてきたのだ。それを教えてくれたのが「枕草子」だったというのだから話がちょっとややこしい。「これが千年前に書かれたんだ、どうだ凄い文明国だろう」も正しいことは正しいのだが、それは進化論という西洋の鋳型に当てはめた理屈である。「別に俺たちそんなの自慢する気もないよ、鋳型自体がどうでもいいからね、それよりね、悪いけどこれ、英語にならないんだ、日本語じゃないとね、千年前から俺たち同じ言葉を喋っていてね、そのまんま『いいね』ってわかり合えるんだ」。ナショナリストになったというのは、こういうことじゃないのか。

こういうものは「日本人の心の共有財産」だ。例えば食事を「いただきます」といって始め、「ごちそうさま」で終える。お辞儀をする。軽い会釈が無言の挨拶になる。家で靴を脱ぐ。元旦の「あけましておめでとう」で清新な気分になる。神社で手水舎で手と口を清め、拝殿で手を合わせると心が洗われた気分がする。こうした行為は作法として外国人にも英語で伝えることはできるが、気分までご指導はできない。ところが日本人なら子供でも当たり前のようにわかるのだ。そのどれもしない外国に住んで初めて、僕はそれが素晴らしいことだと気がついた。いつどうやって身についたんだろう?父祖が千年も大事にしてきたことだからといわれれば確かにそうなのだが、親にそうやって教わったわけでもない。思うに、それは「日本語」だろう。日本語を母国語として育てば「軽い会釈」のように自然と身についてしまうようなものではないか。

三保の松原が世界遺産の認定で、富士山を入れるが三保は除外するとなってひともめあった話があった。抗議するとドイツの代表団が絶賛してくれて通ったそうだ。あれで行きつけの鮨屋を思い出した。「ウチのことはお客さんが知ってるんで」で、ミシュランお断りである。この一言をきかせてあげたいと思ったからだ。なんでわけもわかってない西洋人の判定なんかを気にするんだろう。こうやって浮世絵は欧米に買い漁られてしまったのだ、馬鹿じゃないのと思う。それから三保の松原に行く機会があったが、別に広重を知らなくたって、あの美しさは日本人なら誰でもわかる。世界なんたら遺産に認定してもらわないと観光客が来ないという地元の発想はこれも日本的なるものの代表選手なのだが、清少納言さんなら「卑しきもの」に入れるだろう。金で買えるモンドセレクションとおんなじ感覚ならば鮨屋みたいに突っぱねたほうがよっぽど評価されるよっていうことで。

日本語を母国語として育ったからわかるものは、日本語のわからない外国人には理解できない。だから評価してもらう必要などさらさらない。

春は曙

この3文字で、さっき書いたすべての「父祖が千年も大事にしてきたこと」と同じものがぱっと閃かないだろうか?

西洋にギリシャ、ローマ、イスラムの文献というものはあるが、中世暗黒時代で文化は断絶しており、まして現代の基準でも秀逸なアートといえる次元で、感情の機微や息づかいまで肌に触れるが如く伝わる繊細な言語で「心」を伝えてくれる形式の文学というものがそもそもない。それが日本にあるというのは世界の奇跡のようなもので、これが世界無形文化財の筆頭でないならユネスコなんてものは存在価値すら疑うべきである。後述するが、それは天皇、朝廷の存在に依っている。皇室がいかにありがたいものかを思い知る。他国にそれはないのだから自明といえば自明で、この格差を書くこと自体が差別というかお気の毒であって、「卑しきもの」にされそうだからもうやめておこう。

僕に文学を論じる資格がないことはわかっている。恥ずかしながら、通して読んだのは今回が初めてで、しかも読んだのは現代語訳であるから読破したとはいえない。ただ、あたかも初めてドイツで「ニーベルングの指輪」を4晩かけて聴き通した際に感じたずっしりとした重みのようなものが今回の読後感にあり、僭越ではあるが、自分の座標軸の中で、自分の言語で位置づけてみたくなった。それには同書の訳者・校訂者である島内裕子氏からお知恵を拝借できたことが大きかった。さほどに氏が解説で主張されていることは新鮮だ。「枕草子」の時代は随筆という概念がないのだから《三大古典随筆》のひとつとするのではなく、「枕草子」と「徒然草」は『散文集』とした方が適切ではないか(「方丈記」は両者と異質なので)というものだ。広くアートとして俯瞰するなら、そうした括りは一般に技法、作法に準拠したもので(括る有意性があるかどうかは兎も角)、「古典」は言葉の定義自体が曖昧であるし、「三大」に主意があるなら音楽のドイツ三大Bと変わらず、そういうものと十二音技法を同じ知的空間で扱おうという者はいない。我が国の教育は、「枕草子」の名前は子供に暗記させて試験で点は取れるようにしても、価値を正当に評価して「読んでみたい」と思わせる本来の教育になってはいないのではないかと懸念するのだ。これをしていたら国はなくなってしまう。

では、氏のいう「散文集」とは何か。以下、同書解説から引用しておこう。

三十一文字の定型詩の集合である「和歌集」に対して、散文は書かれた内容によって、日記・紀行・物語・説話・軍記・評論など様々なジャンルがあり、一般に、ある作品はある一つのジャンルに分類されることによって、書棚であれ、心の中であれ、居場所を確保できる。それに対して「散文集」と聞いただけでは、輪郭さえも朧げで、内容のイメージが湧かないかもしれない。しかし、そのような文学常識から一旦離れ(中略)、「散文集」を「ひとりの人物が書き綴った、長短さまざまで、内容も多彩な、散文小品の集合体」と定義することによって、「散文集」こそが「和歌集」に対置可能な文学概念であり、文学全般を二分する、きわめて重要なスタイルであることが見えてくる。

素晴らしいと思うのは、氏の二分法が学会のセクト主義、すなわち業界人の伝統・しきたり・忖度・諂い・前例主義のごとき狭隘な視野から出た、読み手には一文の功徳もないポジショントークではなく、「枕草子」を楽しもうというユーザー側の立場から発露したものだと思われる点であり、それが文学全般を二分する学術的な意味あいまで持つならこんなに良いことはない。ここで氏は「連続読み」によって通読してこそ、「枕草子」が生成してゆく時間を、作者である清少納言と共有できる。その体験が、「枕草子」を読むことにほかならない、としているので、実際のそれをして、体験してみることが必須だと考えた次第だ。それは以下のくだりで明らかになっていた。

「散文集」は、物語のように明確な筋立てがないので、頁をめくって、面白そうな所をあちこち気ままに読んでも、差し支えはなさそうだが、やはり書物としてひとまとまりのものとなって伝来してきた以上、最初から最後まですべての部分に目を通すことが重要で、「連続読み」してこそ、その作品の魅力も深みも実感できる。「枕草子」を読むということは、散文を書く行為がもたらす自由の実体を、しかとこの目で見届けることであって、そこにこの作品を読む楽しみもある。ページを繰るごとに眼前に広がる景色は、新鮮な空気に満ち、花の香りや草の匂い、雨の湿り気。風の強弱までも、さまざまに描き分けている。清少納言は自分が書きたいことを、自分の言葉で、散文として書き綴った。このことが何より大切である。

読書にいちいち方法論があるとは思わなかったが、僕はこのたびのトライでその重みを味わわせていただき、心からの同感に立ち至った。同書解説の「『枕草子』の諸本と内容分類」によると写本は複数あり、章段の数や配列が異なるらしい。詳しいことは措くしかないが、以下に書くことは「島内現代語版」を通読した僕の感想ということになる。とはいえ、これを読むことは利点があって、原文に注釈を付すスタイルの本ではとぎれとぎれになる通読のテンポが、あたかも執筆当時の宮廷の読者になったかのような軽やかさで得られる。時間もかからないから僕のようなビジネスマンでも気軽に入れる。枕草子には、純文学的というだけに留まらず、「時間のアート」とでもいうべき、まるで音楽のような楽しみが見え隠れしていることを僕は発見してしまった。予期せぬ新鮮な題材、切り替わり、短文の小気味よいリズム、めくるめく変転する場面や登場人物、決然とした帰結。まるでハイドンのアレグロのようなのである。そう、清少納言が『パリピ孔明』みたいに令和の世に来ちまったら、まっさきにコンサートに連れて行ってハイドンをきかせてあげたい。

清少納言の存命中、想像するに、この書はいわば、天皇の后(中宮)である藤原定子のサロンの空気のライブ中継であったろう。父である藤原道隆の死という不幸によって運命は下り坂となり、父の弟で新権力者となった藤原道長から定子はいじめにあった。周囲の雰囲気は暗くて当然である。しかし、彼女は定子の弱みを悟られるような不遇の気配を一切外に気取らせず、あたかも日々は明るく、権力や余裕があるかのような強気、自由闊達を雄弁に発信するニュース・キャスター役を務めた。そう考えれば、第182段「中宮に、初めて参りたる頃」の出現の意味が分かる。枕草子の巻頭に来ても良い初出仕の思い出がなぜ終盤にさしかかるここにあるのかは不可解とされてきたようだが、清少納言は日々の仕事をしながら、まるでブログを書くように「枕草子」を制作しているのだ。サロンを取り巻く政治の雲行きの影響下で、無意識に書きたいタイトルが左右されることは、仕事をしながらブログを書く僕にとって日常茶飯事、「あるある」のひとつだ。文字数の多い同段は(定子の段はいつもその傾向があるが)、戦っている自分がただの女房ではなく、いかに中宮様ご一家の寵愛を受ける格別の身であるかを、我が身を滅ぼさんと企図する対抗勢力に示威する意図をもってここにあえて置かれたものに思えてならない。これに「ドヤ顔が不愉快」(第183段)、「地位ほど結構なものはない」(第184段)が続くのだからこの推理には結構自信がある(注:この2つは筆者の意訳)。

更に言うなら、僕自身も、そういうことを31年にわたるサラリーマン宮仕えを生き抜く過程で経験しており、「おらおら、私が誰かわかってんの?」が真意である第182段を読ませてしまうとこちらの窮状を察するわけだから、実は敵を利するだけになるということまで心配してしまう。全体の4分の3の道のりの時点で、もう彼女は実は盤石でないように見える。それを悟って、千々に乱れた心をおさめようと、「風」に投影したのが第185段「風は」(第185段)、「秋の台風が過ぎた翌朝は」(第186段)である。この2段を原文で読めば、乱れていたからこそ研ぎ澄まされた感覚の凄みが文字をはみだして横溢しているかのようで、読むこちらの心までざわつかせる。なんと人間くさい。島内裕子氏はこの2段を「枕草子」の中でも屈指の名場面とされている。その通りと思うし、さらに僕流にいわせていただくなら、この心象風景は、ドビッシーの「西風の見たもの」(Préludes 1 “Ce qu’a vu le vent d’ouest” )でなくて何だろうと思う。

そして、何より衝撃的なのは、最後の最後、第325段に至って、様相が一変することだ。われわれは唐突な「終結宣言」を突きつけられるのである。前段「見苦しき物」で平素と変わらずの舌鋒で鋭く人物批判を展開していた人がなぜ、というやりきれない残念さと心の不協和音を残して、枕草子はひっそりと幕を閉じる。この寂寥感は意図されたものか、後日の編纂過程において偶発したものか、正確な所はわからないのかもしれないが、いずれにせよ来るものが不意にやって来たという居心地の悪さは払拭できない。この終末の微かにシニカルでほろ苦い味をどこかで僕は知っているが、それが何だったを何時間も記憶から引き出せず、ついさっきにやっと思いあたって留飲を下げた。交響曲の開始とは誰も思わないグロッケンシュピールの「ミ」の音で始まり、打楽器だけが無機質なリズムを刻んで交響曲の終わりとは誰も思わないやり方で虚空に消えていくショスタコーヴィチの交響曲第15番だ。

著作物というものは、いかなる時代・形態・ジャンルのものであれ、書き手のモチベーションと読み手の需要があって初めて成立し、両者の多寡に応じて書物ならば「発行部数」が、ネット上の作品ならば「ページビュー(PV)」という数値が確定する。このメカニズムは経済学における需要曲線・供給曲線の交点で、市場における商品の価格と数量が決まるのと同じと考えてよいと思う。また、ネットの特性を加味し「PVは新作の投入数、頻度が高いほど需要が喚起されて増える」とどこかで聞いたことがあるが真偽は知らない(経験からは、そうかもしれないと思う)。清少納言は最終段で「他人に読まれたくなかった」と本音を隠して見せるが、定子を守ることで活躍の場を開拓し、自らの居場所も安泰にしようとするモチベーションがあったことは人間のありさまとして至極当然なことだと僕は思う。その動機は彼女の筆のすさびの端々に見え隠れするのだが、僕は「人としてなんと健全なことか」と思うのである。そうして彼女の白紙はどんどん文字で埋まり、その行為が「枕草子」への需要を自ら喚起、増幅していったと考えるのは自然だろう。

もうひとつ考えたことは、いくら聡明とはいえ、いち女房の身でこれほど自由闊達に、公達まで登場させて歯に衣着せぬ奔放な書きぶりを披露できたのは一条天皇の寵愛を最後まで受けていた定子あってだろうということだ。定子の人生は激動どころの騒ぎではない。道長と後継争いで激突した兄伊周のスキャンダル、没落して出家、そして復帰はしたが、対抗馬として娘・彰子を同格の中宮とした道長から受けた壮絶ないじめ。早世した定子は今なら死因が疑われたかと思うほどだ。いわば共作のようなものではないか。最終段の結尾で「評価されるはずのない私の書いた本が素晴らしいと評価されてしまった」と本音と卑下を交えてみせているのは、権力の後ろ盾をなくしたことで襲ってくるものを覚悟のことで、「自分の心の中まで覗きこまれ、あれこれ論評されたりするのはひとえにこの本が他人の目に触れたからであり、そのことだけが口惜しい」と綴ってラストの一文を終えている。しかし本音で口惜しいのは、そのことではなく、定子の死と共に「枕草子なるコンセプト」はもはやこの世に存立できなくなったことではなかったのか。白紙が尽きたという体裁をもって「終結宣言」を取り繕うフィクションには彼女のプライドと悔し涙が滲んでいるように思えてならないが、もうそれを書く必要もなくなったのだ。清少納言がどんな動機で書いたにせよ、天皇、そしてその御所である朝廷という空間なくしてそれは成り立たなかっただろう。

一般のこととして、アートの評価に政治的事情は斟酌されにくく、時と共に忌避されるバイアスがあるように思う。何故かは不明だ。人類共通の心の運びだろうか、このことは西洋でも同じで、アドルフ・ヒトラーは政治家兼画家であったがそうはいわれないし、彼がフェルメールとベックリンを愛して収集し、ワーグナーをプロパガンダに用いたことはできれば歴史から消したいようなのが趨勢だ。ショスタコーヴィチに至ってはスターリンなくして交響曲の5番や10番はああはならなかったから、本人は不服だろうが消そうにも消せず、後世はそれもひっくるめて評価することになっていく(真贋論争まであった「ヴォルコフの証言」などを思い起こされたい)。枕草子は明らかに後者に近く、しかも千年もの時を経ているから存分にバイアスが働き、背景にあった藤原氏の壮絶な権力闘争とは無縁の精神世界として解釈が固定しているように思える。しかし、権力とは冷酷なものである。負けた側の筆者が去った後にどうして枕草子が残り、あるいは宮中では消されたが焚書は免れたか。彰子が定子の息子を引き取って育てたことで両人に対立はなかったとされるが、天皇の息子は世継ぎとしてどちらも大事なのだ、中宮(正妻)ひとりとなったあかつきで、それは必然のことだろう。僕はリアリストなのでバイアス・フリーに読み解きたい。

宮仕えを辞めた後の清少納言の悲哀に心を寄せようにも、その後の足取りは不明であり、没落し、耳をそむけたくなるようなくだりが『古事談』に記されている。女の才はかえって不幸を招くという中世的な思想が影響したとの説があるが、現代ですらジェンダーは連綿と社会問題になっている。女性は名前すらない千年前の世にこれだけのことを成し遂げた清少納言に、僕はいち社会人として心からの畏敬の念を懐く。10才ほど若くてまだ女房業では足元にも及ばなかった紫式部が、腹いせだったのか政治的意図があったのか、なくもがなの悪口を2つ日記に書き残して女を下げているが、それほど清少納言は際立っていたわけだろう。最晩年は阿波国で過ごしたと伝承もあるがすべては闇の中であり、没年も墓所も不明だ。

ところがだ。千年の時を経るうちに、その書が国民的人気を得てしまうのである。世の中わからないというが、何事であれ、作者が放置しておいてこれほどプラス方向の想定外がおきることはそうざらにはない。新作投入はもうなかったのだから、その理由はひとつしかない。枕草子には、当時の誰にも見えてない、巨大な「潜在需要」があったのである。

定子の死後、それが朝廷の外に流布して写本が作られていくのが拡散のスタートだ。そのころ、不遇だった定子の身の上は宮中で知らぬものはなかったはずで、権勢を誇る道長の陰でシンパがたくさんいたことは想像に難くない。枕草子を守り、保存し、外部に流布させる動機を持った者は多くいたのではないか。浅野内匠頭のそれがいたようにだ。しかし、それは忠臣蔵という人口に膾炙する「物語」になって膨大な数のシンパを得たのであって、本来可哀想だった赤穂藩に同情が寄せられてのことではない。枕草子はそうした復讐譚の物語付きで流布したわけでもなく、やはり文学としての卓越性があってこその流布だったと思う。庶民の目にまでふれるようになったのは、江戸時代になって木版印刷によって出版されてからだ。注釈書の刊行も盛んになって王朝文学への理解が進み、「春曙抄」は江戸時代に最も尊重され、多くの人々がこれによって「枕草子」を読んだ。「春は曙、やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」のインパクトは絶大だったのだ。この点について、国文学者・藤本宗利氏のとても興味深い説を見つけた。

「季節-時刻」の表現(春は曙など)は、当時古今集に見られる「春-花-朝」のような通念的連環に従いつつ、和歌的伝統に慣れ親しんだ読者の美意識の硬直性への挑戦として中間項である風物を省いた斬新なものである。

江戸時代初期に刊行された、古活字版

この説はまさしく「技法」に光をあてており、ワールドワイドなアートの進化論の地平に同作を位置づける試みと思う。斬新な技法に乗って、まさしく「美意識の革命」が行われたのだ。清少納言が意識して成したことではないかもしれないが、彼女の性格に起因するであろう文体の簡潔さ、ストレートな物言い、心地良いテンポのようなものが結果としてそれをもたらしている。単なる「朝」ではなく、「曙」として時刻の概念にスポットライトをあてたのはモネが「ルーアンの大聖堂をモティーフに制作した連作」でしたことであり、ドビッシーが交響詩「海」でしたことだ。かように、「春曙抄」の幕開けは非常に印象派風であり、「枕草子」執筆の冒頭にこれをぶつけて度肝を抜こうというのは、「春の祭典」の甲高いバスーンのハ音にこめたストラヴィンスキーの計略に共振しよう。

「枕草子」が国民的作品になるのは、単に面白いからでも、女性が書いたからでもない、一流のアートだからである。このたびの通読チャレンジでそう確信した。一般の読者にとって、著者がどこの何者かも、王朝の貴人たちの服装の品定めも、宮中の儀礼のあれこれも気苦労も、もっと言ってしまえば、春が曙だろうが夕暮れだろうが、ひとつも重要でない。読者が愛でたのは、独断と偏見であろうが何だろうが、決然と看破して判定を下してびくともしない清少納言の自由な精神のありさま、しなやかさ、潔さであろう。

皆さん、高校生に帰って、もういちど真っ白な気持ちで読んでみよう。

 

 

美しい。なんて美しい日本語なんだろう。西洋も中国も、いろんな所へ行かせてもらい、いろんな素敵な人とお会いして、すばらしい時間を過ごさせていただいた。でもこれを読むと、じーんときてしまうのだ。

そんな気持ちを国文学者・萩谷朴氏が、名文で代弁してくれる。

「次から次へと繰り出される連想の糸筋によって、各個の章段内部においても、類想・随想・回想の区別なく、豊富な素材が、天馬空をゆくが如き自在な表現によって、縦横に綾なされている」

「長い物」や「決めごと」に巻かれて生きる日本人にとってそれは、渇いたのどを潤す冷えたビールのように爽やかであったのだと思う。彼女が旧来の和歌が重んじる春夏秋冬、花鳥風月の価値観(決めごと)から外れたところに見出して、「いとをかし」と称賛して見せてくれた「新しい美」の目くるめく数々に楽しみを見出したのだ。たとえ退屈で鬱屈する時があったとしても、日々の現実世界に倦んでいない言葉を読めばそれを一掃する力が得られたのは、彼女が素のままで鎧を一切まとわず、感じたままを述べられる人間性の持ち主だからだ。人間が人間であるのは誰かを人間らしいと思ったときで、その時、その人も人間らしいのだ。彼女はそういう人間として愛されたのだと僕は思う。千年前のそれが文字を通して、文学として現代人に伝わる。日本人であるのは、なんて素晴らしいことだろう。

 

 

 

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「寄らば大樹の陰」は全く安心・安全でない

2022 AUG 20 17:17:27 pm by 東 賢太郎

野村とか昔の関係者がけっこう読んでますという。勉強になりますとか嘘つけと思うが、よほどのクラシック好きか東賢太郎で検索した人しかひっかかりにくいだろうから、PVの数字が本当ならそれも本当かなとは思う。こいつくたばったと思ったらまだしぶとく生きてやがってというところだろう。

証券業界でクラシック好きは見たことないし本当の野球好きも知らない。ジャンルが何であれそういう性質の人が少ない。「金融は浅いんです人が、そんなのばっかりですよ」(某公認会計士様談)。だから言うまでもなく、つまらないのである一言でいえば。「麻雀好きでなくてもいったんメンツに入ったら抜けられないよね」(某弁護士様談)。そもそも子供の頃から口数少なく、静かにアンドロメダ星雲の惑星系の想像でもしながらクラシック音楽をきいていたい僕は金儲けなんて本来全然興味ない。なのに長らくここにいることをこの説ほどシンプルに解き明かすものはない。

僕はテレビは見ないし新聞も見出しだけだ。情報の8割はネットからだが受け身でなく能動的に検索する方が多い。それで済んでしまうのは世の中の神羅万象に関し、宇宙物理から宗教から哲学から歴史から文化から芸術から猫の心理に至るまで、正しいかどうかはともかく自分なりの統一原理を持っているからだ。日々何がおきようとそれにあてはめて説明でき、自分が納得できる限りは変える必要を認めない。だから頑固といわれようと、必要ないことをする時間はない。人生一寸先は闇であるが、どんなショッキングな事件がおきようと原理から逸脱がなければ「あっそう」で終わり。その分だけ時間を他に使うことができるし、精神的にも気楽な人生となる。

せっかく書いたのでもう少しご説明する。思考というのは原理(骨組み)が必要である。それのない思考とは刹那の感情、思いつきを言うに過ぎず、カラスにもあることが知られている。原理は百科事典にもウィキペディアにも載ってない。なぜなら体系化された固有の思考回路だから自分で脳内に「造成」しないと絶対にできない。それを読書で補うことは悪くはないが、他人の借り物で思考することは洗脳であり、万巻の書を読破した読書家は思考回路があるなんてことは全然ないし、数学の訓練なしにそれができることはあり得ない(ショーペンハウエルは読書は馬鹿になるからするなといっている)。百万の賢人の意見を知っていても、馬鹿な人は相変わらず馬鹿なのである。

僕の原理は帰納法で導いている。以前述べたが僕はフランシス・ベーコン、ジョン・ロックのイギリス経験論者である。何故そうなったかというと、自分の眼で見た物しか信用できないという極めて慎重で臆病な性格だからだ。世の一般論を原理とみなす演繹法という考え方は、「一般論が原理なのは世が広く認めるからだ」という信じ難い理由だけで信じるなどアホでないかとしか考えない僕にとってはナンセンスだ。ではなぜ帰納的に僕の原理が成立するか、根拠となる実例は何か示せといわれても、それは経験的に会得した(自分の眼で見た)事実の数々であり、僕が位置していたような立場で味わってない人にはわからない。いくら言葉を尽くして親身になって説明しても、「一般の『一般論信奉派の人』」には理解できない(一部特例の人はいる)、なぜなら、できないから彼らは一般論信奉派になるような性質の人なのであって、よってすべきことだけ明示してやってもらった方が効率がいいというのが僕の経験則であって、困ったことに、このこともまた言葉で説明してもわからないというマトリューシカ構造になっているのである。帰納法は最初の反証がでるまで正しい。その原理にこそ僕は忠実だ。

先日にSTさんが下さった興味深いコメント(8/10/2022)に以下のように返答したが、そのまま再録する。これは大西洋憲章を起点とした現在に至る国際政治を統一して説明する僕の原理的史観の「あらすじ」をざっくり書いたものだ。それでも、いま巷で大騒ぎになっている某時事問題のようなことがおきているのはこの史観からは自明なことはご理解いただけるのではと思うからお読みいただければと思う。安倍さんの事件から突如として始まったこの騒動は、しかし、僕にとっては「あっそう」で終わりだ。まったくどうでもいい。今後どうなるかまで凡そ透けて見えてくるということもわかる人にはわかってもらえるだろうし、かような観察を複合することをもって僕は株式や為替相場の先を読んで、自分のリスクを取って投資することを業としており、ソナーという会社が12年存続できるだけの「的中率」が実証されていると書いて噓にはならないと思う。

お断りするが、以下が正しいとは微塵も思ってはいない。自信もないし僕の理解力が足りず誤りを含んでいるかもしれない。しかし、それでも新事実を当てはめて齟齬がない限りはOKなのだ。あくまで仮説というものは仮説以上でも以下でもなく、原理として未来の説明力がある限りにおいてのみ価値があるのである。大事なポイントは、反証があったら原理性は消えるから即座にポジションを解消し、変更することだ。これを僕は何度もしているが、それを見て東さんは朝令暮改だという部下に説明をしようというモチベーションが生じたことは一度もない。前稿に大きな組織が有利な時代は終わったという趣旨のことを述べた理由は、解消・変更手続きは組織の規模に相関して複雑化する傾向があることが知られており、近未来すら予見可能性が低減してきている現代において、「大きいことはいいことだ」「寄らば大樹の陰」として安心・安全とされてきた大組織ほどサステナビリティが危ういということをお示しして若者の未来への指針にしていただきたいからだ。

以下がコメント

大西洋憲章はUK、US両国が英米国際主義のヘゲモニーの法的体裁をとった固定が主意ですが、欧州の眼前の脅威であるナチを潰すためUSを引き込む意図が混入しています。逆に中立国USは自らの手を汚さず武器輸出をしたく、主意は貿易、海洋の自由を振興する民族自決でしたが、これは植民地立国UKにはよろしくない。しかし同床異夢の両国が一緒に見られた唯一の夢がありました。

USは1929年の株価大暴落から財政はぼろぼろでルーズベルト不況といわれてました。WW1で欧州各国に貸した金は回収する必要があり、対岸の火事に追い貸しをして武器を売りつける手はもうありません。だから中立主義をかなぐり捨てて自分もWW2に参戦して「莫大な軍需を創出する作戦」をとったのです。ナチは民族自決主義ですからね、ルーズベルトは矛盾してます。あいつはやり過ぎって裁定は法の世界にはないんです。

そうなるとUSの国内世論は割れますね。息子が死ぬかもしれない。予算が議会を通らないかもしれない。そこでナチのマブダチである日本をABCD包囲網でイジメてキレさせ、ハワイを空襲させるという邪悪な腹案の存在はあり得たと思います。日本の中国介入(満州国設立)は民族自決主義に反するからイジメは正当化され筋は通るからです。ここまで読んで憲章をもちかけたとするとチャーチルは結果的にUKの利益のために300万人も日本人を殺した札付きのワルですが、国際政治はこんな奴らが跋扈するのは当たり前でお人よしの首相なんて登場人物はいないんです。

チャーチルは憲章の会談に戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」で赴きましたがルーズベルトは「なぜお前なんだ、ジョージ6世を出せ」とは言わないんですね。これぞ市民革命の結果ですね。国王がいないUSはフランス革命でできた国です。人口の4分の1はエヴァンジェリカルですからね、聖書に手を置いて誓う人達で、離婚もLGBTも人工中絶もだめで神様がしてないマスクなんかできるかという。だからそれが支持母体のトランプが強いんです。離婚したいからカソリックやめようという宗派とは根本的に違う筋金入りですね。

だから英米国際主義のヘゲモニーってのはキリスト教連合体としてはいい加減なんです。欧州に戦費を貸したのはユダヤ資本だしヒトラーもキリスト教徒だし。しかし、非西欧のキリスト教化作戦では一致したと思います。ザビエルやコロンブスの時代からやってることです。最大の難物はイスラムですがこれは共通の聖書世界ではある。まったく異質な難物は日本とインドと中国です。中でも日本です。なぜか。皇室があるから。「ジョージ6世を出せ」と言えないのです。首相のTrust me!が嘘と判明しても天皇のTrustは消えない。これ大事なんですね。

マッカーサーは天皇を置いたまま対共産防波堤にする決断をしましたが、一方で日本は難物のままになった。だからCIAはロイヤルがない隣国にいま話題の勝共(共産に勝つ)教団を作ってキリスト教化前線基地とし、皇室のほうは婚姻によって中からそれを進めようとしたでしょう。隣国は総人口の約3割がキリスト教(最大宗教)となりそれに成功してます。まあ安倍家も自民党も出自からしてそういうことだと考えると分かりやすいのですね。USも最大宗教勢力エヴァンジェリカルは共和党支持だし選挙協力も献金もバンバンしてるし、このことと憲法の政教分離は違うというのをわかってないでTVで四の五の言ってるアホな人が多いですね。ちなみにウチは真言宗大谷派で、以上のことは岡目八目にすぎません。

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二胡の「ハナミズキ」になぜ涙が出るの?

2022 AUG 9 8:08:57 am by 東 賢太郎

ヴィヴァルディの「四季」って知ってるよね。たしかテレビCMで使ってたっけね。ああいう曲ね、昔は『名曲』っていったんだよ、知らないよね。いい曲のことかって?ちょっとちがう。じゃあベートーベンとかシューベルトとか?うん、それはそうなんだけど、でも彼らの曲が全部ってわけでもないのよ。面倒くさいね、じゃあどういう曲?そうね、クラシックなんだけどみんな知ってて、知らないとちょっとね・・みたいな感じかな。

今は音楽の教科書に米津玄師さんがのってる時代だね、そうそう、僕が大好きな一青窈さんの「ハナミズキ」もそうらしいね。この曲、サスペンスドラマのエンディングだったかな、初めて聞いた時にね、サビのところで、凄い!天才だ!って叫んじゃったんだよ。ほんとうに素晴らしい曲だ。

ラブソングかと思ったらぜんぜんちがうんだ。歌っているのはあの9-11で犠牲になった父親(僕)と子供(君)なんだね。「空を押し上げて」というのは瓦礫の下になったからなんだ。庭に咲く5月の花ハナミズキと共に蘇る君との幸せな想い出。「水際まで来て欲しい」は三途の川、「波」は戦争。庭にハナミズキが咲いて君の幸せが永遠に続くことを願う。

『名曲』は昭和のニッポンの定義なんだね。あの時代限定っていうか、あの空気を吸ってた人しかわからないんだろうなあ。どういう曲のこと?って孫に聞かれたらこう答えるしかないかな。

「名曲喫茶でかかってた曲だよ」

昭和生まれの僕らは音楽をそういうものだと教えられて育ったんだ。ちょっと違うんじゃないのって、ビートルズも好きだった僕はそう思ってたけどね。四季や運命をきいて、世の中にこんないいものがあるって知ってね、「だから名曲なんです」って学校で教わるの、でもそれはそれ、ほんとうに楽しかったよ。まだ見ぬ西洋への憧れがどんどんふくらんでね。僕だけじゃない、きっと、名曲喫茶で何時間も粘っていたあの人たちみんなそうだ。外国なんて知らない。どこも行ったことがない。でも、まだ未知の場所があるって、実はものすごく幸せなことなんだ。

もう僕はそれがない。昭和の『名曲』にどきどきもしない。

ちょっとちょっと、もっとわからないよ。名曲喫茶?なにそれ?そうだね、まずそれから説明しなきゃいけないね。

名曲喫茶ウィーン

僕がそれにお世話になったのは浪人・大学時代だから1970年代だけど、もっともっと前からあったんだ。有名だったのは御茶ノ水駅前の「名曲喫茶ウイーン」と渋谷道玄坂の「名曲喫茶ライオン」かな、ひと言でいえば「泰西名曲鑑賞専門珈琲店」ってとこだ。立派なオーディオ装置とレコードコレクションがあってね、コーヒー頼んで聞きたいレコードを紙に書いてリクエストすると、お姉さんが順番でかけてくれるんだ。そこでかかるのが、クラシック好きの人が金払っていい音で聴きたい曲、そう『名曲』なんだね。そういうものだから他のお客さんにそこそこ気をつかうんだ、これ注文して大丈夫かなってね。クラシックはポップスみたいに2,3分で終わらないの、平気で1時間かかるからね、皆さんのコーヒー冷めちゃうわけで、僕もそうだったけど新しい曲やら演奏家を発掘したいって人もいる。だから「あいつ、いいのかけてくれたな、ありがと」ってのが望ましいんだ。でも僕はそのころ変なの専門でね、シェーンベルクのピエロなんてそのスピーカーで思いっきり鳴らしてみたいの。そんなのやっちゃうと皆さんアウトだもんね、そういう配慮をくぐりぬけた、皆さん納得の集合知みたいなのが『名曲』だっていうことになるの。もし外国にあったらきっと『名曲』は違うものになってたね。

でも好きだったんだ。あれはひとつの文化でね、智の殿堂って雰囲気もあった。友達もよくひっぱっていったさ。いまはyoutubeあるもんね、ハイエンドのオーディオの味知らない人をお客にするには難しい時代になった。「名曲喫茶ウイーン」をググると漫画家ヤマザキマリさんのブログがあって、若いころここでバイトしてたらしい。僕は『テルマエ・ロマエ』で彼女のファンになったのでうれしい。レコードかけてくれたかもしれないしね。しかもあのアテネ・フランセでイタリア語やったって、僕も少しだけ英語で行ったことあるんでそれもうれしい。あの辺は中学から大学まで庭だったから地元愛みたいなのがあってね。ウィーンはビルはそのままに居酒屋・焼き鳥屋の雑居ビルになってる。ご時世だね。お世話になりました。ここで覚えた曲、けっこうあるよ。

名曲喫茶「ライオン」

もうひとつ、道玄坂の「ライオン」は嬉しいことに健在みたいだ。渋谷は渋谷でね、駒場の教養学部にいた2年間だけはこっちが根城だったからよく行ったっけ。まわりはストリップ小屋とラブホでいけない。ライオンは大正時代からあるからこれも世相なんだけどね。お値段的には貧乏学生にはなかなかハイソでね、ここでコーヒーは高いってすりこまれたもんだからアメリカ旅行に行ってずっこけたの。安いけど珈琲フレーバーのお湯だもんね。あんなのをこっちじゃアメリカンなんて気取って飲んでんだから気が知れない。名曲喫茶のは本格的だ。旨かったよ。で、その感じがクラシック音楽にコラボしててね、どっちも舶来品だしね、でっかいスピーカーだって高級品でとても手が届かないし、耳の穴かっぽじって聴かなくっちゃってなるよね。だから集中してるんで曲をすぐ覚えた。コーヒーはいい投資だったってことになるね。そこで「四季」が朗々とかかってる。いい音だったね、おお、これがストラディヴァリウスか、イ・ムジチかってね・・・

なんて麗しき昭和の世だったんだろう。

ファンの方のブログによるとこうだ。イ・ムジチの「四季」のレコード売り上げは、1995年時点の日本において6種の同曲録音の合計で280万枚を売り上げている。1976年に100万枚を突破し、その他のレコードを合わせると1977年のイ・ムジチ創立25周年には何と1000万枚を突破する大記録を達成した。1987年来日公演中に「四季」だけでクラシックのレコード界では空前の200万枚の売上を達成。カラヤンの運命もびっくりだ。

四季は立派なクラシックなんだけど堅苦しくなくって、昭和の日本人がややこしいことぬきで楽しめて、たくさんの人が癒されたと思うんだ。そういうのがいい音楽なんだね。イタリアっていいな、行きたいなと憧れたよ。イ・ムジチは一度だけライブで四季を聴いたんだ。香港時代にね、家族を連れて行ったよ。舞台が目の前の席だった。女性奏者のかたと目が合ってね、ウチの小さい子供3人を見つけてうれしそうに微笑みかけてくださったっけ。レコードのとおり、いい音だったよ。

僕はイタリアの弦が大好き。モーツァルトのカルテット全集で一番好きなのはイタリア四重奏団ってくらいでね。なんでかってのはいろいろ考えてみたけどやっぱりわからない。こういうのは食とか女性の好みと一緒で本能的なもんなんだろうね、とにかくぱっと明るくてしなやかでふくよかで、アンサンブル神経質にそろえようなんて雰囲気がなくってね、それでもちゃんとモーツァルトになっちゃう。ああこの気分の軽さとそれでもはずさない品格って、地中海気候で育ったラテン系の人たちだなって。僕はどうやら人も文物もそれが合うんだね、とにかく男も女もね、明るくて面白い人が好きだよ。自分はそれと真逆だからね、気がついてないものを引き出してもらえる感じがするからかもね。

やっぱり弦はいい。ピアノは何でも弾ける。オーケストラの曲だってね。だから僕の中ではシンセサイザーなんだ。では弦楽器はっていうと、ひとりじゃあんまり細かいことはできない。でも、絶対にピアノにできないことができるんだ。歌うことだ。ピアノもシンセも、人を泣かせるって容易じゃないよ。でも弦楽器はできる。泣かせるのは歌なんだ。そんなにうまくなくたって、それこそヨーロッパの街角でヴァイオリン弾いてる大道芸人だってね、ハートに飛び込んできて、感情をグイッとつかみとることができる人を何人も見たよ。

ここからその泣かせる弦楽器の話をしよう。『名曲』と何の関係があるかって、もうちょっとガマンして欲しい、おしまいになってわかるから。

二胡

弓で弦をこする弦楽器を撥弦楽器っていうんだ。西洋ならヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスだね。その起源の話をイギリスやドイツでしたことがあるけど、事ここになると西洋人はプライドがあるんだろうね、東洋から伝わったかもしれないは認めるけどやっぱり不明だってことにされる。素材はなんたって羊の腸、馬のシッポだよ、弦を糸巻で引っ張ってこするっていう音の出し方だってね、羊と馬といっしょに暮してたアジアの遊牧民が発祥でないと主張する方が大変なの。とすると、じゃあ欧州起源ですかってことになるけどね、スパゲティがイタリアで生まれてラーメンになるかって?そんなわけねえだろって。いっぽうで、遊牧民の文化は漢民族にもいろいろ伝わってて、そっちでは同じものが「二胡」という撥弦楽器になったんだ。素材はやっぱりおんなじ、音の出し方もおんなじ。張ってる皮は砂漠地帯にいるヘビだけど、胴体が共鳴板になってアンプ役をするって発想は東西でおんなじだよ。

内モンゴルの馬頭琴(モリンホール)

だから弦楽器の発明者はユーラシア大陸の真ん中を行き来してた遊牧民だ。僕はそう思ってるよ。とするとご本家は今ならモンゴル族がそのひとつってことになって、彼らには馬頭琴(モリンホール)というチェロぐらいの大きさの弦楽器があるね。彼らはよく飲んでよく歌う。有名な歌唱法にホーミーがあるよね、祖先の叙事詩も、戦勝も、酒も、男女の愛も、慶事も弔いも、モンゴル音楽は感情をのせた歌なんだ。楽器なら打楽器のピアノでなく弦楽器ってことになるよね。それが漢民族に渡っていく。遊牧民が作れるってことは複雑な工業製品じゃない、馬と羊がいれば庶民でもできる。どんどん広がる。そして歌も人の心に乗って広がる。それが二胡になるんだ。

二胡を聴いてごらんなさい。あの心に響く音色は一度耳にしたら絶対に忘れないよ。すごくオリエンタルで西洋にはないものだね、あれがモンゴルの歌から来た情感で、女真族から朝鮮半島を通るうちにそこの民族の情感もまとって日本に来ていると思うんだ。日本の伝統音楽は宮廷に残ってる雅楽ってことになってるけど、あれは楽器ごと古代中国宮廷からきた天上界の音らしい。中国の学者はもう母国にあの古代楽器は残ってないので、正倉院の御物と宮廷雅楽は宝だって言ってる。笙、篳篥の音ってたしかにどこか宇宙っぽいよね。でもキュンと泣かせるメロディーや唄なんかはないのね。ところが二胡は正反対でしょ、ヴィヴラートかけまくってとろけるみたいに訴えるメロディーはとっても人間くさい。あれはまぎれもなく庶民のもの、遊牧民起源のもので、思うにその唄バージョンの末裔が日本では演歌、艶歌になっていると思う。百済の都だった扶余に旅行した折に遊覧船に流れていた歌を日本の演歌だと思っていたんだ。なんでこんな所でって不思議でね。ところがよく聞くと韓国の唄だったんだ、同じルーツのものだろう。

ヴィオラ

で、今度は西側の話だ。弦楽器はシルクロードからペルシャと地中海世界に渡ったんだね。だからイタリアに名工がいたのは不思議じゃないんだ。思い出してごらん、2年前、中国の武漢で最初のコロナ患者が出て騒ぎになりだしたころね、春節で帰国した中国人労働者が陸路でヨーロッパにわっーと戻ってね、だからあっちで最初に感染爆発した国はイタリアだったんだ。いまは海路も入れて一帯一路って言ってるけど、絹の道だった昔からそういう地理的な関係なんだ。西洋で最初にできた弦楽器は「ヴィオラ」だったんだよ。ヒザにはさんで弾くのがヴィオラ・ダ・ガンバだね。ブランデンブルグ協奏曲第6番は2丁のヴィオラ、2丁のダ・ガンバが主役でヴァイオリンはなし。なんで?と思ったけど当時は不思議じゃなかったんだね。「ヴィオラ」と「二胡」。なんか因縁あるでしょ、ちなみに、二胡の音域は中央のレから2オクターブなんだけどね、これってヴィオラが気持ちよく歌える音域なんだよ。遠く離れた兄弟かもしれないね。

音楽喫茶と四季と弦楽器。『名曲』でつながってるね。そこにヴィオラと二胡がはいるって楽しくないかな、だって文化と歴史がね、国も時代も超えてシルクロードでつながった感じでしょ?それってなんか『テルマエ・ロマエ』だよね。ヴィオラがイタリアの楽器じゃないし、二胡が中国の楽器じゃないって、イメージふくらましてもらえたかな?頭の中がごちゃごちゃになったって?いやいや、だいじょうぶ、ゆっくり寝て3日もしてごらん、きっと君の凄い発想が時空を飛び交ってるからさ。

ハナミズキの作曲家、マシコタツロウさん。ありがとう。よくわかりました。『名曲』は昭和と共に去ったんだね。そして僕たちも古くなった。あるのは「いい曲」だけなんだ。心に寄りそってはなれず、知らないうちに涙が流れてる曲。それがいい曲でなくてなんだろう。マシコさんをヴィヴァルディやベートーベンと共に讃えたい。えっと思う人はまだ『名曲』の世界の人かもよ。

この曲に二胡の響きがいかにあうか、ピアノじゃないんだね、人の声もそうだけど、弦が歌うとね、9-11の歌になって魔法のように涙をそそる。僕はそんな自分がいたのかって不思議なぐらいやさしい人になってる。どうしてかな。この見事な演奏を聴いて考えてくださいね。おしまい。

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ローマ人はどこへ消えたんだろう?

2021 DEC 20 23:23:42 pm by 東 賢太郎

パルテノン神殿の廃墟に立って、こう思った人は多いだろう。

アテナイ人はどこへ消えたんだろう?

これは人類普遍の謎といっていいかもしれない。ひとパーツ10トンある石材を14メートルの高さまで持ちあげなくてはいけない。石材の総重量は2万2千トンだ。「クレーンは使うな」という条件で建てられる建設会社はたぶんないだろう。でも2,400年前には存在したのだ。では、彼らは今どこにいるんだろう。

ローマではパンテオンを見て、その倍ぐらいの衝撃を受けた。

円筒形に半球が乗った不思議な建物である。こちらも、総重量4,535トンの石材を43.3メートルの高さまで組み上げている。2,000年も前に!

驚くのは建築技術だけではない。ローマの都市建設の全般に言えることだが、幾何と物理の知識、斬新かつ合理的な着想、雄大なスケール、洗練された審美眼のどれもが現代においても一級品。その粋を結集した建造物がパンテオンだ。

球体がすっぽり収まる。高さ43メートルの鉄筋のない球形コンクリート建造物として現在でも世界最大である。

壁は円筒部の厚さが6.4メートルあり、半球上部に行くに従って組成する石材を図のように軽めに変え、厚さを1.2メートルまで漸減させ総重量をおさえつつ頂上に至って重量ゼロのオクルス(目)と呼ぶ直径9メートルの穴になる。

半球部の正方形のくぼみには重量を軽くする目的があるが、上に行くほど小さくして実際より高く見せている。数列的秩序、無駄のなさ、錯視、そして美。

イタリアはその後何度も仕事で行ったが、パンテオンを見てしまうとどの都市へ行ってもあれから2,000年たったローマだという感覚が持てない。英国の元首相チャーチルが「俺達こそローマ人の末裔だ」と言ったらしいがそうも思えない。

ローマ人の消失。人類普遍の謎は、ひょんなことで解けた。つい先日、「宇宙人は地球にいる、あなたの隣りに」という記事を読んだ時のひらめきだ。

ローマ人はどこへも消えていない。全人類が2,000年かけて、ローマ人もろとも「劣化」したのである。

現代人は誰もが「自分は古代人より進化している」と信じている。そうではない。進化したのは「道具」である。

人類の知能の進化 – Wikipedia

レオナルド・ダ・ヴィンチ級の人間が2,000~6,000年前のギリシャ、ローマにはごろごろいたかもしれない。そこから人類は徐々に劣化を始め、質実剛健なオリュンピア大祭が金儲けのオリンピック祭りになってしまった。まるで「猿の惑星」のラストシーンだ。

モーツァルトのジュピターを聴いて我々は「このような作品はもう誰も書けないだろう」と感嘆する。そりゃそうだ。現代人はパンテオンを造れない、その音楽版だからである。

 

(参考図書)

コンコルド、アポロがなくなることは一元的に知能劣化では語れないが視点として面白い本だ。以下私見だ。「食うか食われるか」の狩猟採取民時代は強く賢い男がいないと部族が滅びる。だからハーレムができその遺伝子が拡散する(ソロモン王は妻700人側室300人。漢民族の男系男子継承は名残り)。四大文明が揃うBC5千年ごろから「食われずに食える」農耕定住型となりハーレムは終わる(狩猟採取型遺伝子が希薄化)。狩猟採取型が農耕定住型を支配する時代が19世紀(絶対王政)まで続いたが科学の進化で終焉し、20世紀には道具が人間支配を始める(便利の代償で知性喪失)。そして21世紀半ばにシンギュラリティに至る(道具の人類支配完成)。

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アート・ブレーキー「チュニジアの夜」

2020 OCT 14 1:01:07 am by 東 賢太郎

アート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズはライブできいてます。ネットで調べると僕が留学中に彼がブルーノートかヴィレッジ・ヴァンガードで演奏したのは82年10月、83年2月だけでどっちもブルーノートでした。なぜ自分がニューヨークにいたのか記憶はないですが、2月は期末試験だからきいたのは82年の方だったでしょう。

血が騒ぐナンバーがいくつかありますがA Night In Tunisia(チュニジアの夜)は彼のドラムスがききものです。メル・テイラーは明らかにこれをパクってますね(ブレーキーはキャラヴァンもやってますが)。音の違うタムタムを乱れ打ちする土俗的な音は本能的に大好きで、春の祭典はいつもティンパニの音を追っかけてます。ブーレーズCBS盤を初めてきいてハマったのも、生贄の踊りの短三度のピッチが物凄く明瞭だったからです。

チュニジアは一度行きました。スイスにいた1996年の夏休みの地中海クルーズで首都チュニスに寄港しました。これがあるからこの航路を選択しました。そして憧れのカルタゴ遺跡を見ました。遺跡好きは筋金入りと自負しますが、掘ってみたいというのはなく、その地に立って歴史に思いをはせれば充分。至ってミーハーのレベルですが、そこで生活し、政治を行い、戦争をした人々と同じ目線になって時間を過ごせば「気」がチャージされます。地中海ではフォロ・ロマーノ、ポンペイ、クノッソス、リンドスなど何度でも行きたい場所です。ローマ史好きの方であればご理解いただけると思います。

カルタゴの遺跡

カルタゴはフェニキア人の植民都市ですが、彼らは元々いまのレバノンのあたりにいたカナン人で、鉄器でメソポタミアを統一支配した凶暴なアッシリアの重税を調達するため富を求めて地中海を西へ向かいます。それが結果オーライで、貝紫(染料)とレバノン杉を貿易財として海洋商人として大成功し、アフリカ大陸を周回したり表音文字のアルファベットを作ったりと知恵も行動力も破格で、ハンニバルのような武勇の男も出ました。

僕はなぜかローマ人より彼らにシンパシーがあります。カルタゴは3度のポエニ戦争でローマ軍の手で灰燼に帰し、男は皆殺し、残った5万人は奴隷に売られた。しかし兵士でない富裕な商人には逃げおおせた者も多かったでしょう。約千年後に現れた海洋都市国家ヴェニスは末裔が作った説があるし、遥か後世にその遺伝子を持った者が欧米に散ってロンドン、パリ、ニューヨークなどで活躍したのではないでしょうか(現にカルロス・ゴーンがいます)。フェニキア、ポエニは自称でなく、歴史を書いたローマが記してそういうことになってる。日本人がジャパニーズと呼ばれるのと同じです。千年後に日本がカルタゴになってないことを祈りながらここを後にしました。

そこから船に戻る道すがらのことです。真夏で半端な暑さじゃなく、遺跡から下ってくる道も舗装してなくてやたら埃っぽい。平地に降りたあたりでは、なにやら人がごったがえした猥雑な通りに店が並んでいます。僕はそういう超ローカルなものに目がなく、左側の一番手前の屋台みたいな土産屋を冷かしました。黒人のオヤジがいいカモが来たと思ったんでしょう、「ヘイ!このドラムどうだ、いい音がするよ、安くしとくぜ」と太鼓をポンポン叩きながら売り込んできたのです。それが写真です。ご覧のとおり、安物の陶器にアバウトに革を張っただけのシロモノです。しかし意外に高めのピッチで悪くなく、それに関心を見せたのがいけなかった。

チュニジアの太鼓

「どこから来た?日本?遠い国だな。10ドルでいいよ」とわけがわからない。「高い」「そんなことはない、お買い得だ」「いらん」「OK、じゃあいくらなら買うんだ?」手慣れたもんです。隣で家内が「そんなのスイスにどうやって持って帰るのよ、やめときなさい」と怒ってるし、断わるつもりで適当に「2ドル」と言ったらオヤジはがっかりの表情になり、「Jokin’!」とか何とかぐちゃぐちゃ文句を言いはじめた。そして数秒後にあっさりとまさかの2ドルになったのです。しまった、1ドルだったかと思ったが、そういう問題ではなかった。1週間のクルーズで荷物が山ほどあるうえに幼い子供が3人もいて、そこで結構デカいこいつをかかえて帰らざるを得なくなって、あきれた家内の非難ごうごうとあいなったのでした。でも、こんなもん日本で売ってないだろうし買う馬鹿もいないだろうし、今や愛着すらあって家宝に指定したいとすら思ってます。

こいつのお陰で楽しみができたという恩義もあります。脇に置いてムードを出しながら、地中海地図を見て古代オリエント世界を空想するのです。格好のエネルギーチャージであり、ストレス解消でもあります。大陸側のポルトガル、スペイン、フランス、イタリアの要所は車で、主な島とエーゲ海、アドリア海は2度のクルーズで、アフリカ側はモロッコ、そして今回のチュニジアへ行っており、空想はそこそこリアル感があります。

1年ほど前ですが、家でそういう事を話していたんでしょう、娘たちが3度目をプレゼントするよと言ってくれ喜んでいたのです。そうしたらクルーズ船は横浜のことがあって危ない存在になってしまった。困ったもんです。何故なら、数えきれないほど海外で旅行をして一部は行ったことさえ忘れてるのですが、ベスト1,2位は32才、41才で家族を連れて行った2度の地中海クルーズだった。はっきりと細かいことまで覚えてるのはあれしかないぐらい楽しかったからです。

「チュニジアの夜」をききながら決めました。もう一度行くぞ、マスクをして。

 

(おすすめ)

地中海にまつわるクラシック音楽はこちらにまとめました。音で旅行できますのでごゆっくりお楽しみください。

______地中海めぐり編

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太閤秀吉の完全犯罪(私説・本能寺の変)

2019 APR 26 1:01:04 am by 東 賢太郎

10年ほど前に福岡に行ったおり、秀吉が朝鮮出兵した「文禄・慶長の役」の折に諸大名を集結した基地である名護屋城跡を見に佐賀へ行った。韓国で秀吉は蛇蝎の扱いであって、平城まで攻め込んできた日本軍に立ち向かった李 舜臣(イ・スンシン)将軍は救国の英雄である。彼を知らない韓国人はいないから、ということは秀吉を知らない人もいないということだ。朝鮮出兵といわれ、結果的にはそういうことになってしまったが、本来の目的は「唐(明国)入り」であった。経路とされた朝鮮には迷惑至極な話だったが、逆に日本が侵略されかかった元寇もあるのだから秀吉の頭の中ではあいこの話だったかもしれない。

その時に名護屋城跡で眼下に見た玄界灘の光景が記憶に焼きついていて、のちに安土城址から眺望した琵琶湖の姿にそれが重なった。「唐入り」は周知のようにもともと信長のプランであり、重用したルイス・フロイスらイエズス会宣教師から得た地球の地理・地勢、天文学、航海術、宗教、交易の利、近隣国の政治情勢などに関わる知識とビジョンを彼は持っていて、それを若者に学ばせようと安土城の麓にセミナリオ(学校)まで造らせている。彼は神仏にすがらぬ唯物論的思考の人で、思考が合えば人種も宗教も一気に飛び越えられる。西洋人的であり、今流ならグローバルである。一方のイエズス会としてそれは無償のサービスであるはずがない。日本はもとより、強大な武力を有する信長を焚き付けて大国・明を攻め落とさせ、中国大陸に布教を進めようという下心があったと思われる。

しかし秀吉はというと信長の唯物論はかけらもない。やがてイエズス会を異質なものとして警戒し全面的に追放してしまうのだから、国内に焚き付ける者はもういなくなった。そこに「唐入り」プランだけが頑迷に彼の頭に残ったのは思えば奇異だ。それも病がちになる最晩年である。聚楽第から指揮しようというのではなく自ら朝鮮に渡るとまで言い放って名護屋に陣を構えた執着ぶりは生命を賭したもので、部下となった諸大名の心を外敵との戦さに向けさせる必要があったとはいえ、そこに勝算があると信じこめた彼のポジティブ・シンキングはビジネス的視点からすると誠に凄まじい。ただでさえ常軌でない日々を生きた戦国武将の心を平和ボケした現代人の常識や正義感で読み解くことには抵抗感を覚えるが、このケースはそうと知っていてもなお、凄まじい。

を囲む諸大名の陣形はこうだ。まさしくこの時点での戦国武将オールスターであって、徳川家康はもとより信長の次男、織田信勝、かつて三法師であった孫の織田秀信の名も見える。ルイス・フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記している。誰も来たくなかったし、まして荒海を渡って未知の土地で手の内の知れぬ異国人と斬りあいなどしたくなかったろう。全員が殿の乱心と見て取ったろうが、それが政権での仕事なのであり、権力には服従するしかない。秀長がなくなり、利休を切腹させ、鶴丸をなくし、母をなくし、秀頼が生まれ、そして後継含みの関白を譲ったはずの秀次を切腹させた秀吉がここにいた。老いのあがきや狂気と通解されるが、信長の残虐と同様に現代人の善悪観念では量り得ないものがあると思う。

後の関ケ原合戦での東軍、西軍の色分けを見ると、城周辺に東軍が多く、石田三成は離れて後方を固めているが、注目したいのは足利義昭の名がみえることだ。武力は期待できない征夷大将軍がなぜ陣を張ったのだろうか?

本能寺の変の真相、黒幕探しは諸説の百花繚乱だ。大体目を通したが、真犯人は秀吉という説が格段に面白い。文献資料がないため俗説扱いされるが、長年ビジネスの権謀術数でもまれた僕にはけっこうリアリティがある。ぜんぜん「あり」だ。なぜなら、秀吉は戦さもうまかったが、天下を取れたのは「調略」の達人だったからだ。「人たらし」という評判は、調略能力が上司に対して行使された場合のいち名称に過ぎないわけである。ビジネス界にもへたな調略だけで飯を食ってるしょうもない奴がいて僕は蛇蝎かゴキブリと思い成敗してきた。しかし達人の域のは手ごわい。逆に痛い目にあわされるし、誰が仕掛けているかわからない危うさがあって毛沢東が三国志を愛読したのはわかる気がする。そういう生々しい体験から本稿を書いており、もちろん僕も調略を試みたことがあるが、うまくいかなかったことを告白しておく。はっきりいって、へたくそである。そんなつまらん労力を使うなら集中力を高めて中央突破したほうがよっぽど早いし、痛快でもある。

調略は人知れず行うから調略なのであって、書面、書簡に残すような馬鹿はおらず、爾後に口を滑らすような相手は殺すか最初から輪に加えないのは常識である。秀吉がこんなこと言ってたぞと口が軽い奴、命令通りに動かない奴は一切信用せず、こういうお家の一大事には関わらせないのである。つまり「秀吉真犯人説は一級文献資料がない」という批判は、秀吉のクレバーさと完全犯罪を証明する言葉ではあっても、批判としてはまったくナンセンスである。むしろ資料がないからどれもが真相であり得るのであって、しかも誰でも推理ゲームに参加できる。若い頃は関心がわかなかったが、この年になってみて、この場面ではこう考えるだろう、こう動くだろうという読み方ができるようになって俄然面白くなった。そこへ岐阜に行って、関ヶ原古戦場のあちこちに立ってみて、戦国時代好きにまたまた火がついてしまった。歴史は本当に面白い。以下私見を書き連ねるが、まったく何の根拠もないからご笑納をお願いする域を出ない。ただ、ビジネス界の奥座敷では「あるある」だということだけは自信をもって申し上げられる。

明国に後陽成天皇を移す意図を持つ信長の専断は朝廷の度肝を抜いた。最後の抑止力であった武田氏が滅亡し止める者はなくなった1582年3月、天下の空気は一変し、朝廷による旧体制である室町幕府再興を旗印に反信長諸将がまとまる余地が垣間見えてきた。征夷大将軍・足利義昭にかわって信長を誅する大義をまっとうする武将は家格が問われ、それは毛利ではあり得たが力不足であった。しからば明智であろうという流れは光秀をくすぐるには自然である。その時点で義昭は毛利配下の鞆城に身を寄せており、室町幕府再興案が信長の排除になるなら高松攻めで追い込まれている毛利も、信長と敵対していた土佐の長宗我部(光秀の親類)も加勢することは目に見えている。その情勢を手に取るように読める位置にあったのが、中国攻めを拝命し高松城攻略を決行していた秀吉なのである。

この計画の最大のボトルネックは家督相続人である織田信忠だった。信州高遠で勝頼を深く追い詰め武田を皆殺しにした信長の長男だ。この戦いは織田家、武田家の跡取り息子同士による雌雄をかけた決戦という意味合いもあった。父の天下布武を固めるメルクマールとなった戦勝に武運を見て、信長後継の地位を固めたと諸将は理解した。信長を誅しても、信忠がとってかわる。従って、信長政権奪取という「調略」は信長・信忠を同時に葬ることが必須であったのである。その機を狙って練られたものであり、側近のみの知る父子の身辺情報とスケジューリングに関与できる者しかなし得ない。最重要の身辺情報とは、武田滅亡による信長の心の隙だ。護衛もなく富士を眺めに出かけて悦に入る。その隙が軍勢なく至近の二寺に二人が泊まるというあるまじき油断を呼ぶ。そうしたものは語られたり書かれたりはしない。空気で読むのであり、常に側近にあって最も信頼される部下しか機会はない。

秀吉が中国攻めのキーポイントである高松城攻略に信長の主力軍勢など3万を率いていた事実は、彼が信長の全幅の信頼を得ていたことを示す。高松城側の勢力は高々3000人でしかないが、そこで秀吉はなぜか信長に援軍要請をする。家康の接待役を務めていた明智光秀に急遽助太刀の命がくだり、さらには信長自身も加勢せんとして本能寺に逗留することになる。命にかかわらないビジネスでもここまで部下を信用したことがない。私心への疑念など微塵もない、驚くべき、最大級の信頼である。秀吉は情報操作でいくらでも信長を欺ける立場に昇りつめていたということがわからない人にはわからないだろうが、経験から申し上げる。こういう部下が一番危ないのである。3万の兵力でも苦戦して水攻めに切りかえた城に光秀と信長がさらに大軍で押し寄せて何ができよう?それを失態と責められず済ます自信があるから仕掛けられるのである。援軍要請は光秀に軍勢を与え、信長、信忠を安土城から丸腰でおびきだすための調略であり、帳尻合わせに高松城の難攻不落ぶりを誇張して流言させ、後世になって、奇想天外な戦法、彼一流の軍略であると尾ひれがついたのは流言がいかに多かったかを物語る。

事件は6月2日未明に起きたが、秀吉が「信長斃れる」の変報を聞いたのは3日夜から4日未明にかけてのことであった。太閤記は光秀が毛利氏に向けて送った密使を捕縛したとするが、この書は44年後に書かれた秀吉親派のよいしょ本である。密使は毛利でなく、秀吉に送ったものである。秀吉は5日に「上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れている」と大嘘の返書を「ただ今京都より下った者の確かな話」と更なる大嘘で塗り固めて摂津茨木城主・中川清秀に送っている。信長生存の煙幕は光秀をも疑心暗鬼にした。遺骸を見ていないのに光秀は「信長斃れる」と書けただろうか?仮に共謀がなかったとして、秀吉はそれを鵜呑みにしただろうか?では秀吉はどこで父子の死の確報を得たのだろうか?真実を知らぬ者に嘘はつけないのである。

明智光秀にいつどこで囁いたか知る由はない。胡散臭いが口八丁手八丁の手練れ坊主である安国寺恵瓊なら間者をできただろう。こういう手合いもビジネスではよく遭遇するが注意しなくてはいけない。「信長主力軍は我がもとにあり上様は本能寺、殿様は至近の妙覚寺にてどちらも茶会で丸腰である。かくなる好機がまたとあろうか。我が軍も高松より急行して貴殿に合流し御沙汰に従う」と焚き付け、呼応して意を決した光秀は万感の思いで「ときは今・・」を詠む。「ときは今」であったのは秀吉であり、配下の少数精鋭の兵で光秀に先立って深夜に本能寺に忍び込んでやすやすと無防備の信長、信忠を討ち、首級を京都の外に持ち去った。目的は達したがそこで終われば下手人はやがて発覚する。だから光秀に罪をきせる。騒然とする本能寺に討ち入った光秀は遺骸を探したが見つからず、火を放って事態を収める。討ち入った以上は勝どきを上げるしかない。光秀がダミーであることを知るのは秀吉だけであり、本人が勝どきを上げるわけであるから、秀吉は堂々と虚報、大嘘を流布して光秀を主犯に祭り上げることができた。

この手は1963年11月にケネディ大統領暗殺でオズワルドの単独犯行としておいて2日後にダラス警察署で彼を撃ち殺した主犯の手口と同じだ。どちらもダミーを殺した人間が主犯なのであり、どちらも首尾よくつかまっていない。そして秀吉が口実とした足利義昭による室町幕府再興は闇に葬られることになるが、「家格が大事」は光秀用のセールストークであって、天皇、公家からすれば信長の脅威を除いてさえくれればそんなことはどうでもよい。家柄が賤しい。だからこそ、それを逆手にとって光秀に「拙者でなく貴殿だ」をすんなり信じこませることができたのであり、秀吉は政権を確立すると徹底した親朝廷政策をとり、朝廷の官職にある足利義昭を奉じて自らは関白就任に成功する。それで朝廷の面目も立って恩が売れるという見事な計算であり、だから、実体は狂気である「唐入り」の国家による箔付けとして名護屋城に義昭の陣が張られたのである。

清須会議、賤ケ岳合戦、小牧・長久手の戦いは朝廷の関与がない武家の覇権争いであり、信長政権乗っ取りを計った光秀を討っただけでは正当性に欠ける。光秀が第1次なら秀吉は第2次の乗っ取り者であるにすぎず、武家の棟梁になっただけで朝廷を震え上がらせた信長の威信は自分にはないことを彼は知っていた。彼は頂点には向いてないNo2の男なのであり、調略能力は仕掛ける相手がないと持ち腐れなのだ。だから朝廷の威を借りつつ総大将として諸将を従え命令する「唐入り」という大イベントに賭けた。この戦さで大将に立てる者(立ちたい者)は自分しかいない。それは信長様もできなかった地位だ。明、朝鮮の知行地と戦利品を恩賞として与えれば部下はついてくると踏んだのである。これがポジティブ・シンキングの悲しい実相だ。それは数々の「あり得ない」で出来ている。そんなものを生煮えのまま常人に語って聞かせたところで馬の耳に念仏にもならない。まず自分を奮い立たせ、できると自らに信じ込ませ、酒で恐怖を追い払い、鬼気迫るオーラが漂ってきたら部下はついてくる。ビジネスはそういうものだ。調略の天才・秀吉を僕はあらゆる意味で尊敬するし、その彼ですら苦労した経営のもろもろはほろ苦いと思う。

さて最後になる。秀吉の「唐入り」が気になっているのは、もしそれがなかったならば僕はこの世にいないからだ。

おふくろの方のばあちゃんの旧姓は「眞崎(まさき)」である。二・二六事件の眞崎甚三郎陸軍大将の眞崎だ。常陸(茨城)の清和源氏、佐竹氏の分流だが、ばあちゃんは長崎(諫早)の人だ。なぜかというと眞崎氏は上掲陣形図にある佐竹義宣と共に「唐入り」で名護屋へ出陣し、秀吉の没後は鍋島藩によって諫早藩の監査のために当地にある城(眞崎城)に残った。つまりそれ、それを契機に420年前に九州人になったからだ。だから、もし唐入りがなければ、ばあちゃんは長崎港から上海に向かう三井物産社員のじいちゃんに出会うことはなく、つまり僕はこの世にいなかった。いっぽう、じいちゃんは武田が信州高遠で生き残った末裔。にっくき敵方総大将が話題の織田信忠であったのだから、秀吉と光秀が京都・二条城で敵(かたき)をとってくれたことに感謝しなくてはいけない。それで信長ファンというのも実に変だが、東京人なのにカープファンだというのとちょっと似ている。

 

秀次事件(金剛峯寺、八幡山城、名護屋城にて)

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道三と信長の破天荒を見たり

2019 APR 21 1:01:55 am by 東 賢太郎

県庁でとあるプレゼンテーションがあって、岐阜市に一泊した。ここに前から関心があったのは信長の城があるからで、安土山は登ったが金華山はまだだったからである。その程度でファンを語るのはおこがましいが、彼が企てていた(と思われる)プランは実に破天荒である。魅力的以外の何物でもない。日本の支配者にこんな男がいたためしはなく、まずもう出ない。秀吉は人たらしの天才だが、たらす相手がいなくなるとだめなNo2男だった。家康は相手が官僚タイプの光成だったから勝てたが、信長が生きていたらどこかで殺されたろうと僕は思う。

金華山の頂から信長が見た城下の眺望はこんなだ。周の文王の気分になったとしてそう不思議ではない。岐阜とはいい名だ。

この写真は実は前回訪問で撮ったもので、今回は城に登ったわけではなく、老舗の十八楼に宿をとってふもとの鏡岩水源地や護国神社あたりを歩いた。そして、常に信長に見張られているかのように、山のてっぺんに城を認めた。

東京から来ると、この感じは得も言えぬ奇妙なものだ。

思った。あそこに家を建てる奴はいないだろう。この感覚は、北京の北方で万里の長城を歩きながら懐いたものにまぎれもなく近い。

先人の道三もそうだったことになるが、破天荒ここに見たりだ。家臣や人夫の気など知ったことではない、防御と威嚇のためのラショナールを瞬時に貫通する電光のごとき発想。天下を取るとはそういうことなんだろうか。ふたりが息子や家来に襲撃されたのも世の中はちゃんとお釣りがくるようにできていたのかもしれないが、いつしかわが身も平穏になってしまったなとふと考えた。

 

安土城跡の強力な気にあたる

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