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夏目漱石の日本語

2013 OCT 5 20:20:59 pm by 東 賢太郎

日本語というのはむずかしい。社会人1年目のとき、同期入社3人で先輩の家で夕食をごちそうになった。奥様の手料理でシメは鍋だった。美味であって3人とも若気の至りで満腹を通りこすまでいただき、非常にノドが渇いてしまった。仕上げの水を飲みほして、そこでS君がひとこと、

「いやー、水がうまいですねー。」

そんなこといちいち言わなくてもいいのに、しかも「水が」というのがミスだった。なによ、料理はまずかったってこと?とはおっしゃらないもののお茶目な奥様がややふくれてしまったことはわかった。

「いやー、水__うまいですねー。」

下線部が問題だ。S君はどう言えば安全だったのか?

①は ②こそ ③も ④まで

①:どうしてその場面であえてそういう客観的な言葉が出るか奥様はあなたの真意と精神状態をうかがおうとするだろう。奥様の虫の居所次第で危険である。よって×。

②:あなたの顔にアザができずに帰宅できたらラッキーと思うべきだ。ちなみにS君の「が」は、これがアザ2つなら1つぐらいに値する。よって×。

③:一見正解に見えるが、水はどこで飲んでも同じだ。お宅は水もうまい?そんなはずないでしょ。それなら料理の方は何でほめないのよとなる。よって×。

④:正解。どこでも同じはずの水までうまく感じるほど今日のお料理は良かったです、というニュアンスになる。とりあえず安全である。

単なる「が」と「まで」の違いだ。こんな微細なニュアンスの使い分けで天国と地獄が分かれてしまうなんて、何ともおそろしい。外国人の方でこれがわかったら大変な日本語上級者だ。次はもっとシンプルな例だ。

「前田投手が先発です」 vs 「前田投手は先発です」

ぜんぜん違う意味になるが、これは中国人は苦手で韓国人は容易に理解する。「は」と「が」は助詞であり、中国語にはなく韓国語には同じものがあるそうだ。日韓語はどちらも助詞のあるウラル-アルタイ語起源という説もある。そのせいかどうか面白いのは、韓国語で

「目が高い」「鼻が高い」「口が悪い」「耳が痛い」「顔が広い」「腹が黒い」「胸が痛い」・・・

と言うと日本語とまったく同じ意味になるということだ。お目が高い英米人を Your eyes are high.  と誉めてみよう。即座にあなたはアブナイ人になる。I have a pain in my ears. などと言おうものなら耳鼻科へ連れて行かれてしまうにちがいない。

逆もある。It rains cats and dogs. 土砂降りの雨だという意味だ。なんで猫と犬なんだろう?しかし日本語だって土と砂も降るわけではない。それよりもっと不思議なことがある。rainは自動詞だ。するとcats、dogsという目的語であるはずのない名詞がなぜ前置詞もコンマもなしに連結するんだろう?こういうのを気持ちが悪いと感じるようにならないといけません、ガチャンという衝突音が聞こえないといけません、と脳内現象を見事な即物的表現で教えてくれた駿台予備校の伊藤先生なら言うだろう。大変な名教師だった。ガチャンが聞こえるようになったら一気に英文法ができるようになった。

現国という科目で伊藤先生のようにロジカルに即物的にものを教わった記憶は皆無だ。日本語もロジカルな文章はいくらもあるが、それだと全員正解で入試問題にならないのだろう。やけに情緒的なのやひねくった表現のばかり出題文になる印象だった。その挙句「この時の『私』の気持ちを100字以内で述べよ」なんてくる。知らねえよ書いたやつにきいてくれよ、といつも思っていた。あるとき模試で梶井基次郎の冬の蠅というのが出題文で、その筋を知っていたものだから答えがすらすら書けた。そしたらそこだけは満点だった。文学同好会なんかにつき合ってられんという気分になった。

僕は自分に語学や文学の才を感じない。子どもの頃「埴生の宿」という歌の題の意味が分からず、歌になるほどハニワが出るのか、すごい宿屋があるもんだと思っていた。うさぎ追いし~でデパートの屋上のうさぎは食用と信じていた。夕焼け小焼けの赤とんぼのほうは「追われ~て」と、とんぼの気持ちをこめて歌っていた。三つ子の魂だろうか今もオペラは筋をほとんど気にかけない。音楽がまずいのに劇として立派というのは一抹の意味も感じない。魔笛は筋がまずいと言われるがぜんぜんどうでもいい。

ところがこの一年、こうして雑文をしたためる習慣ができてからまた読んでみた夏目漱石の「こころ」には大いにショックをうけた。ストーリーにではない、文章にだ。なんとも実に日本語がうまい。含意が深い。美しいというのとは違う。写実的なのに乾いておらず、スリムで無駄がない。一見のところ達人の一筆書きのようにスピード感とリズムがあるが、よく読むと隅々まで理性が吟味してすこぶる合理的である。視点はどこか外科医のように覚めていて、自殺した友人の描写まであるドロドロな素材なのにどこかクールである。「坊ちゃん」など読みようによってはジェームズ・M・ケインの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」なみのハードボイルドに見えてくる。

こういうことはただ漫然と読んでいた時分にはちっともわからなかった。書くというのも習うより慣れろなのかと思い知った次第。文学同好会に入れる自信はまだないが、今なら大嫌いだった現国の試験でもうちょっとはいい点が取れるというものなのかもかもしれない。

 

野球ロスという憂鬱

Categories:______気づき, 徒然に, 若者に教えたいこと

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