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エロイカこそ僕の宝である

2015 DEC 29 0:00:41 am by 東 賢太郎

今年ほど壮絶に戦って終える年というのも記憶になく、事業としては大勝利だったのだがどういうわけかそんなに喜びや達成感というものもなく、むしろ体も精神もぼろぼろだ。安息が要る。1か月半ぶりに二子玉川まで走ってみたが、途中猫のいる橋あたりで息が切れはじめ、軽いめまいもあり結局普段の倍の2時間を要した。

僕の仕事というのは数字だけで成り立っているといって過言でない。数字はメカニックで無機的なものだ。囲まれていると疲れる。だから正月は心の内から数字を消したい。そういうときこそ、音楽の出番となる。なにか劇的な効能があるというよりじわりと左脳をしずめ、左右をバランスしてくれるから心の漢方薬みたいなものだ。

では、こういうときにすっと心に入る音楽はなんだろう?

これがどういう質問か、クラシックをたくさん知っている方はお分かりと思う。冬には、春には、うれしいとき、かなしいとき、それぞれの心境に寄りそってくれる「マイミュージック」をみな持っているからだ。僕にとっては憂鬱なときにウィンナワルツはうるさいだけだ。第九のバリトンの歌い出し、O Freunde, nicht diese Töne!おお友よ、このような旋律ではない)!なのだ。

ではどんな Töne  がぴたっとくるのか?今回のような心持ちの経験はありそうでないので実は今知ったことなのだが、小包が届いていたオッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス3,4,6、7番とテンペスト、これは琴線に響いた。第九は最後まで nicht diese Töne!  であったことを告白しなくてはならない。演奏のせいではない。曲が響かないのだ。

そうしていまさっき聴いた、買いおいていたワルターのエロイカだ。もう確信に至った。これほど僕に勇気とエネルギーを与えてくれる音楽は他にない。起業のころ、苦しかった時期に第1楽章をピアノで弾いてどれだけチャージしてもらったか!もし意識不明になったら家族はこれを耳元で聞かせてほしい。この曲で生き返らなかったらお陀仏ということだ。

エロイカという曲は何かと因縁を感じる。実演は特に印象に残るものがあって、ドイツにいた94年1月15日のネヴィル・マリナー/ AOSMF、同12月6日のウルフ・シルマー / バンベルグ響、95年2月4日のロペス・コボス/ シンシナティ響、そして96年1月26日スイスでのゲオルグ・ショルティ / チューリヒ・トーンハレ管だ。2月4日生まれの僕としてその周辺で名演に当たるのもなにか因縁を感じる。ちなみにクラウス・テンシュテット/ ロンドンPOで二度も聴いているが印象にない。84年と86年のどっちも9月のことだった。

さっき魂を吸い込まれるように聴き入っていたのがこれだ。

ブルーノ・ワルター / シンフォニー・オブ・ジ・エア

64698892これのLPは音が悪くて長らく地団太をふんでおり、それ故にブログで推薦に入れなかった。このオタケンのCDは渇望を満たす実に素晴らしい復刻だ。これは僕の知るあらゆるソースの中で最高のエロイカの一つである。人間の精神の高貴な作用が音楽という形で刻印された奇跡の記録だ。1957年1月16日にトスカニーニが亡くなり追悼演奏会をワルターが振ったものである(オケは実質NBC響)。コロンビア盤で第1楽章のテンポに異議があると書いたがこれを聴いて考え直す。有無を言わせぬ気迫と重量感でありそれが牽引するルバートが意味深い。ワルターという稀有の名人が咀嚼したベートーベン演奏の叡智が友人であったトスカニーニを見送るために結集したようだ。まったく惜しいことだが第2楽章のCの方のティンパニがどうしたことか半音近く調律が低く聞き苦しいのを除けば、これほど今の僕を揺さぶる演奏はない。このカーネギーホールでの演奏会が57年2月3日というのも奇縁だ。自分は2才とはいえそんなに昔から生きていたのかという感慨でもあるが。

もうひとつ、これも心に響いた。

ゲオルグ・ショルティ / シカゴ交響楽団 (1989年新盤)

zaP2_G2632626W亡くなる前年、96年スイスでのショルティのエロイカはまぎれもなく僕が聴いたベストだった。第2楽章のヘ短調からのクライマックスへの展開はオーケストラ演奏でかつて目撃した最も壮絶なドラマであり、もう人生でああいうものを経験することは多分ないだろう。あれを思い出すにはこれを聴くしかない。ショルティの決然としたリズムは曖昧さが皆無でまるでパルテノン神殿の円柱みたいに整然と強固な調和を生み、シカゴの弦はトーンハレ管に増して厚み、音圧、キレ、すべてが凄い。そして管のクラリティ、音程、タンギングは音楽の至福であり、第3楽章のフルート、オーボエ、ホルンなどもはや神技の域にある。その技量と合奏力は、例えば第5交響曲の終楽章でほかのオケには演奏不能だろうと思わせる快速テンポに具現する。そんなことを競ってどうするんだという気がしないでもなく全集としてどうかというのは別の議論となるが、だからといって下手なオケの方がいいのだというわけはどこにもない。指揮者がそれをどう使うかということが問題なのであって、ベートーベンの音楽は、第九の歌の見事なピッチの扱いを見てもショルティの目指す大理石のように確固としたものが音楽の本質にストレートに資すると思う。少なくとも(ピアノ)スコアを自分の手指で音にしようと悪戦苦闘した者としてこの解釈と演奏は満点答案のようなものであり、このエロイカにケチをつける自信など僕には到底ない。第1楽章コーダのトランペットの扱いなどショルティは無用、恣意的な付加を回避しておりその姿勢は全曲一貫している。テンポもフレージングもダイナミズムも「歌舞く」ことは一切なく、だから無個性だ力づくだ無能だと切り捨てる聴き手もいるが、ベートーベンのスコアに何を求めているのかという差異だ。

 

(追記、3月17日)読響定期、サントリーホール

今日の読響のエロイカはだめでした。そもそもあれだけホルンがとちると聞く気が失せますわ。トリオの和音もだめ。何百回も聞いてる上になんでこれ聴くのって。ハーリ・ヤーノシュの金管セクションもぜんぜんだめ。申しわけないがプロなんだから問答無用。終わるのを待ってすぐ出ました。

 

カール・シューリヒト / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 (64年10月8日ライブ)

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20世紀前半型の遅いエロイカのうち僕がワルターとともに敬愛する特別の演奏。遅い?それは木管の対旋律を浮き出させて歌わせ、ホルンの和音を轟かせ、重いトゥッティでffのくさびを打ち込むためだ。ティンパニのリズムひとつが見事に意味深い。それらが最高度に音楽に奉仕しているのだからたまらない。展開部からコーダへのメリハリとコクは最高。第2楽章の木管のチャーミングな歌、うねるような弦。合奏はすべてが聞きとれ彫りが深く最後は止まりそうな歩みになる。スケルツォは木管をスタッカートにするなどシューリヒトの語法は一筋縄でなく、それにこたえるBPOの上手さも効いている。終楽章は特に素晴らしい。この弦楽器の強いボウイングによる「発音の良さ」をお聴きいただきたい。コーダのヴァイオリンは不意にスタッカートになる。全曲にわたって録音ではわかりにくいが、指揮者の意志の力とオーケストラのカロリーのある音圧を感じる。フルトヴェングラーでは指揮の個性が勝った気がしてならずそのバランスが僕は好きでないが、この演奏は両者のエロイカ演奏のエッセンス、常識が緊密に均衡してぎっしり詰まっている。こういうのは若いおにいちゃんが一朝一夕でできるものではない、老舗の逸品、一期一会の大名演と思う。

 

断食が変えたモチベーション

 

モーツァルト ピアノ協奏曲第22番変ホ長調 k.482

 

 

(参考)

ベートーベン交響曲第3番の名演

クラシック徒然草-ベートーベン交響曲第3番への一考察-

クラシック徒然草-ベートーベンと男性ホルモン-

 

 

 

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Categories:______ベートーベン, クラシック音楽

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