モーツァルト ピアノ協奏曲第23番イ長調k488
2025 JAN 12 23:23:07 pm by 東 賢太郎

この協奏曲はモーツァルトが書いたコンチェルトのうちでも完成度が高く、結果としてその域に至った作品は幾つかあるが、意図してそこまで磨き上げたという意味で最高だろう。神品を最高の演奏で味わいたい人は1976年にリリースされたポリーニとベーム / ウィーン・フィルによるDG盤をお聴きになるがいい。この天国のように美しい演奏に加える言葉はない。極上のモーツァルトがどんなものか、ムジークフェラインのウィーン・フィルがどういう音か知りたい人、天上の調べに癒されたい人、疲れている人、ぜひこれをヘッドホンで目をつぶってお聴きになられるといい。
同一箇所(Mov1)の第一ホルンに微細な特徴があり、youtubeにあがったこのライブと同じ音源だろうと思われる。ポリーニが若い(34才)。日本ではテクニックだけ扱いされていたが節穴の耳としか言いようがない。ピアノはスタインウエイだ。
K.488のレコードを買ったのは大学2年のこと。4月に世評の高かったハスキル、パウル・ザッヒャー盤、5月に評論家宇野功芳氏が激賞していたハイドシェック、ヴェンデルノート盤だ。曲はすぐ好きになったが、最終的にジュピターを46種類、オペラである魔笛を19種類集めたことからすると21種類と特に多くない。ハスキル盤は悪くないが録音が貧弱、ハイドシェックのピアノはMov3の天馬空を行く快演ぶりは大いに気に入ったが、Mov1は伴奏(パリ音楽院管弦楽団)ががさつでテンポも落ち着かず、フランスの管のバランスがモーツァルトらしくなく、Mov2は速すぎ、なによりMov1のカデンツァを自作にしているのが意に添わない。
というわけで深入りすることはなくLPはのちにロンドンでブレンデル、マリナー盤とポリーニ、ベーム盤(左)の2枚を買っただけだ。ポリーニを聴いてるのだがリストでは無印で感動してない。ベームの穏健、盤石なテンポが凡庸に聞こえた。そうでないとこの曲の各所に散りばめられた短調の翳りは死んでしまうのだが、ハイドシェックの快速のMov3が耳に残っており、そういうものという固定観念ができてしまっていた。
K.488はアレグロ楽章にアダージョ楽章がはさまり、調性はイ長調-嬰ヘ短調-イ長調で何の変哲もない。しかし冒頭小節でいきなりⅠ⁷の和音(7thコード)が現れ、古典派らしからぬ佇まいで春風そよぐ朝のような第1主題が提示される。管弦楽の導入部で主題が4つ現れ、最後は憂いを湛えた嬰ヘ短調だ。ピアノが登場し4つをその順番で変奏するが、新しい主題がモーツァルトに珍しいホ短調で現れる。ここから再現部までずっと短調が支配するので第1主題が回帰するとほっとした気分になる。カデンツァは類のないほど緻密に書き取られており、他楽章にはなく、ソリストの遊びは限定される(冒頭はそういう意味だ)。コーダは徐々に脱力し最後は p で消え入るように終わり、興奮でなく静寂がやってくる。
第2楽章は虚空の中から立ち現れる。孤独を湛えたピアノのモノローグは、管弦楽が入るとクラリネットが悲痛な高音で歌い、なにやらとてつもない哀哭の涙に押し流される。ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調第2楽章を作曲者は「モーツァルトのクラリネット五重奏曲の助けを借りた」と述懐したが、私見では、借りたのはこの楽章だろう(長短調は逆転、彼一流の婉曲な真相ほのめかしと思料)。中間部は一抹の明るさを見せ、木管群のアンサンブルが饒舌だがやがてモノローグが戻り、6/8の律動が最後は2音符で断絶したように終わる。この終止は印象的だ。聴き手は再び虚空の闇に投げ出され、そこに第3楽章の煌めくばかりの陽光が不意に差し込むのである。これは魔笛でパミーナが悲嘆にくれて歌う “Ach Ich Fühls” の終結の2音を思い出す。この歌は前後をタミーノとパパゲーノのドタバタに挟まれて哀感が引き立つが、K.488第2楽章の配置も同様である(両者ともシチリアーナというリズムの共通項があることも特筆)。
第3楽章はオペラブッファのように明るく快活で心躍る。そこを短調の翳りがよぎり、何度聴いてもはっとさせられる。目にもとまらぬ展開に味の濃い和声が落としこまれるのに気づくが、一度や二度きいても何が起きたのか掴めない点、魔笛でモノスタトスがおどけて歌う快速のアリアのようだ。コーダにはアマデウスコードが繰り返されるが、これまた魔笛のザラストロ礼賛の合唱。魔笛の基調は変ホ長調、こちらはイ長調、同時に書いていた24番はハ短調でどれも♭か#が3つだ(メ―ソンの数字)。
逆転の発想だが、K.488を「フルート、クラリネット、ファゴット、ホルンが歌手でありクラヴィーアの賑やかなコンティヌオが付いているオペラ・ブッファ」と見ると同曲にトランペット、ティンパニが使用されない理由が想像できる。アントン・ヴァルター(1792年頃製作)モデルのピアノフォルテで弾くブッフビンダー、 アーノンクール盤だと、僕にはそう聞こえる。いかがだろう。
オーケストレーションの観点から興味深いのは、モーツァルトがピアノ協奏曲でオーボエの代わりにクラリネットを使っているのは第22番 K.482、第23番 K.488、第24番 K.491の3つだけという事実である。これについては別稿にしたい。
最近の愛聴盤はレオン・フライシャー / シュトゥットガルト室内管弦楽団(弾き振り)だ。フライシャーは16才でピエール・モントゥー / ニューヨーク・フィルと共演、シュナーベルに師事、ブルーノ・ワルターと同曲を録音しており、ジョージ・セルとの素晴らしいベートーベンなどで記憶に焼きついていた。ところが病で右手の自由を失い左手のピアニストになっていた。ここまで回復され素晴らしいモーツァルトを残して2020年に旅立たれたとは。フライシャー氏が偉大な先人たちから受け継いだ音楽がぎっしり詰まっているこれはポリーニ盤と双璧の大人の23番であり、オーケストラ、録音とも大変に素晴らしい。
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西村 淳
1/16/2025 | 11:39 AM Permalink
488は有名な第2楽章に涙するのもいいのですが、第3楽章の心躍る音楽は大好きですね。ベームの指揮は交響曲第29番の時もそうでしたが、今一つという印象です。
Hiroshi Noguchi
1/16/2025 | 11:19 PM Permalink
ようやく今日になって聞き直して、ベームの素晴らしさを再確認。僕はポリーニの1976年東京公演でディアベリと最後のソナタ、それにバガテルを聴いて、文化だったと思いますが呆然としながら帰路についたのは今でも良く覚えています。前を歩く二人連れの一人が、5万円でも安いと言った言葉で、そうだ値段に変換できると思ったものでした。この協奏曲を聴くと、ベームが 日本は気前が良い、1ステージで600万払ってくれたというのが、べらぼうというより妥当な値段だと改めて思います。フライシャーも実は好きで、病から戻ったtwo handsは愛聴版ですが、これを聴くと山崎孝さんが、復帰の演奏を聴いて、魂のこもった名演なのに、右手第5指の予後が不完全で、無惨で涙が出た、と書いていらっしゃるのも、それがここでも分かるのですが、大人の音楽と大兄は書いていらっしゃいますが、やっぱり名演でそれでもいい音楽なところが素晴らしい。お陰様でApple Musicを調べたら、シューベルトのBdur,D960の1956年の演奏があって、それこそ快演。手が悪くなる前はそれこそテクニシャン的な扱われ方をしていたような気がしますが、今の視点で見ればバックハウスやゼルキンとまっとうに比較できる演奏だったのではと発見しました。ての障害で音楽的な演奏になったわけではなくて、もともと素晴らしい音楽家だったのではと改めて聞き直したい気持ちです。有難うございました。
東 賢太郎
1/17/2025 | 1:58 AM Permalink
Noguchiさん、僕の痛恨のひとつはベームを聴けなかったことなんです。来日の時は受験で我慢し、いよいよとなったら亡くなってしまって。大学時代にVPOと初のブラームス交響曲全集のレコードが出て2、4番を何度きいたことか(本物のブラームスです)。そしてフライシャーですね、あのジョージ・セルがベートーベン全集に選んだ人で、ギレリスのが出てそっちが有名になりましたが僕はフライシャー派なんです(ぜひ4番を)。セルとのモーツァルト25番はきかれましたか?これ、いまきき返しましたが同曲のベストですね、こんな純度の高いモーツァルトがいま世界のどこで聴けるでしょう。
Hiroshi Noguchi
1/17/2025 | 10:15 PM Permalink
k503は、僕はゼルキンアバドという、超がつくのんびりボヤボヤな演奏を限りなく愛しているのですが、このセルとフライシャーの演奏、オケが、セルはゼルキンとのブラームスの時も言われている「切り詰めて」いるようにフレージングしているのがちょっと気になります。ピアノは立派で、特にカデンツアは魅惑的。第4は僕のベストはホルストシュタイン・グルダでしたが、確かにこれも見事。いわゆる楽譜通りという類の演奏なのですが、それでいて音楽的、このピアノ、この録音でもモノクロームでもなく、単純な音階をやっぱり誇張していると思うのですが、レヴィットのようにはっきりわかるところはないのが逆にスマートです。これが59年。最近のカントロフやソンジンの演奏を聴いて演奏も進歩している、と言えるのかなと思っていましたが。