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我が家の引っ越しヒストリー(4)

2021 OCT 9 15:15:48 pm by 東 賢太郎

留学と英国勤務を終えて、次の辞令は東京の本社勤務だった。1990年5月、8年ぶりの帰国である。ノムラ・ロンドンのために最後にした仕事がある。11月のこと、英国の歴史的建造物である旧郵便局ビルに引っ越しをした式典にジョン・メージャー新首相が臨席することになり、その様子を東京本社のスタジオから全支店に向けて実況中継するはこびになった。ロンドン帰りほやほやだったからだろう、そこで某局の女子アナとキャスターをやれということになったのだ。ビデオが手元にあるが冷や汗ものだ。ここにいきさつを書いた。

僕が聴いた名演奏家たち(ニコライ・ゲッダ)

東京へは出張で数えきれないぐらい何度も戻ってはいたが、ひと仕事終えてひとり成田空港の出国ゲートにやってくるのはいつも遅い午後だった。決まってもう薄暗いのが憂鬱である。すると親元を離れるのが無性につらくなってきて、毎度毎度かわりばえのないみやげ物売り場をあてもなくぶらついて、いつも必ず「行きたくないなあ」と後ろ髪を引かれるのだ。そしてとうとう搭乗開始のアナウンスがある。執行の時が来た死刑囚みたいに乗機するとスチュワーデスに頼んでワインをがぶ飲みしてしまい、気がつくと午後のロンドン・ヒースロー空港に降り立っている。すると妻子の待つ家があるという安堵か、なにやら故郷に帰ってきたような気分がしているのである。離陸の寂しさはなんだったのかとおかしなものだが、それは自分が旅人の人生を送っているからなのだといつも納得した。

そして、今度はいよいよ、それが東京になるのである。

今か今かと待ちかねていた両親がもろ手をあげて喜んでくれた。もうあんな寂しい思いはしなくてすむ。その時の父はいまの僕と同じ66才で、初顔見せになる次女は飛行機に乗せてくれるぎりぎりの生後2か月だ。最高の親孝行であった。「我々はマンションにでも住むからうちに住みなさい」と父がいってくれたが、ロンドンの一軒家でふくれあがった荷物は実家には入りきらない。たまたま、僕と入れかわりでロンドンに赴任することになった先輩が「転勤なんて思ってもみなかったよ。手狭なんで引っ越そうと契約しちゃった家があるんだ。お互いに手間が省けてちょうどいいじゃないか、そのまま引き継いでくれないか」という話があった。それが巣鴨の青い家だった。

文京区に住もうという考えは僕の場合は出ようもなかった。思い出の駒場で何軒か家内と探してはみたが魅力がない。三田線で通勤は10分だしまあいいかという気になって巣鴨の家を借りることに決めたのである。さしたる意味はなく単にご縁に乗っかっただけだったが、この決断が僕の人生航路の重要な分岐点になることは知る由もなかった。時は歴史的バブルの絶頂期だったことは書いておかねばならない。野村不動産からは社員優遇と銘うった一戸建て物件の抽選のお報せがあり、同期の連中は超低利のローンを組んで7,8千万円のマイホームを競うように買っていた。ゴルフ会員権もあがるぞと大ブームであり、業者がしつこく電話をかけてきた。しかし全然興味がわかなかったのは何故だろう?8千万は高いと思ったのはある。しかしそれよりも、誰に言われたわけでもないがいずれまた外国だ、今回の東京は仮住まいだと予感していた気もする。

8年もブランクがあると、日本はちょっとした異国である。地下鉄がわからない。カラオケは歌がなく、みんなが盛り上がっている飲み屋の話題についていけない。本社の女性総合職は存在していることすら知らず、まだ全社で10人ぐらいというのに配属になった課にその一人のHさんがいた。京大の学士入学に受かってしまう才媛でエース級である。男と一緒に呼び捨てにするのを良しとするカルチャーもあるにはあってそれでもよかったが、「さん」づけで呼ぶことになる。営業ならそうしなかったが、本社はそのそのムードではなかった。それを契機に処世術も人生観も大転換を迫られたことになる。さすがに男まで「くん」づけはしなかったが、机をたたいて怒鳴ることはできなくなったのである。

母親の強い影響で東京は西側しかないと思っていて、駒場は好きでも本郷は住める臨界点を超えており下宿するのさえ一種の思い切りが要った。だから母はきっと歓迎してなかっただろうが、巣鴨は住めば都だった。寿司屋、焼肉屋、ラーメン屋、蕎麦屋、お好み焼き屋、焼き鳥屋、洋食屋、街中華・・・ロンドンでも日本食レストランは増えていたがそうしたB級メシの類は二流で、ここでは夢のように美味だ。おばあちゃんの原宿といわれ、とげぬき地蔵で有名な「地蔵通り商店街」は情緒満点である。鰻の「八ツ目や にしむら」、すっぽんの「三浦屋」、江戸時代からある飴屋「巣鴨 金太郎飴」など素晴らしい。漬物、豆腐、納豆、佃煮、飴など江戸庶民の好物がここではオリジナルの風情で食せたからたまらない。父方は神田っ子であり、東京の東側だった江戸を愛する人間だという自分のルーツみたいなものがわかってきた。

巣鴨地蔵通り商店街

週末にはCD屋、本屋にどっぷり浸りこんでいた。何よりそれに飢えていた。秋葉原、神保町のコースはもちろんだが、もっと近い池袋のWAVEでCDを買ってそこから少し先の本のデパート、ジュンク堂書店へというコースにも抗しがたい魅力があって、日曜日の遅い朝に思い立つやふらふら出て行って丸一日を池袋で過ごすことになる。僕は本もCDも疲れて動けなくなるまであれこれ迷って買うのが飯より好きなのだ。これはすぐれてプライベートでピンポイントで趣味性の強いものだ。誰かと連れ立ってということはあり得ないが、特に女性でそういう人は見たことがない。家内や娘と本屋に行くというのはフレンチのフルコースを10分で食べてねと言われるに等しいのである。野球も飢えていたはずだが通勤途中にあった東京ドームに行っていない。テレビで足りるからで、それより書物と音楽を心ゆくまで自由に迷いまくるほうがずっと大事だったと思われる。

巣鴨時代の勤務地はというと、最初は日本橋1丁目1番地のいわゆる軍艦ビルで、やがて部ごと新しかった大手町のアーバンネットビルに引っ越すことになる。これが初の大手町勤務であり大いに気分は新鮮だったが、メシがまずいのは閉口した。和洋中なんでもお好みをセルフで手軽にいける巨大な地下食堂が評判で、部下にひっぱられて行ってみたが、まるで寮の食堂だ。といって周囲にもロクなのがない。外国帰りにこれはない。大手町は2度目の帰国後にも野村で4年、みずほで4年半と10年も働く場所となるが、見事に最初から最後まで一貫してメシはまずかった。数少ない例外が旧興銀の食堂の「鯛めし」と農中ビル地下の和食屋と大手町ビル地下街のうなぎ屋という具合である。独立して今度は皇居の反対側の紀尾井町の住人になるが、重視したのはもちろんそれ。ランチの質が雲泥の差なのである。思えばそっちは11年となり、中高時代を入れると千代田区生活は27年になった。

アーバンネット大手町ビル

拝命した仕事は国際金融部コーポレートファイナンス課長だ。営業職しかやってないのにいきなり引受部門の課長ポストだった。何もわからなかったが、Hさんら7、8名いた課員が優秀で先生にもなってくれ、僕は毎日彼らから案件のブリーフィングを受け、東証上場させたいボーイングのCEOが田淵社長と会食するから同席しろ、営業企画部に支店で株を売ってもらうよう説得しろ、大蔵省にワラント債を認めさせろ等の仕事に責任者として駆り出される。つまり、少し偉そうにいわせてもらえば課員が官僚であるのに対して大臣みたいな役回りが求められていたのかもしれない。まだ課長に昇格して間もなかったから本社でそんなに幅がきくわけでもなく、大した役には立てなかった。

海外出張は度々したが、メキシコに2度と、南米(ブラジル、アルゼンチン、チリ)に行ったのが思い出深い。ブラジルの往路はバンクーバー、帰路はニューヨーク経由のヴァリグ航空で飛ぶが、ビジネスクラスでもフルコースのステーキが出るサービスは大変結構だった(それが祟ったか後に経営破綻)。着いてみると事前に勉強してきた通り年300%のインフレで、ホテルの宝石売り場を日々チェックしたが売値は毎日ちゃんと1%上がっている。もちろん国の財政がボロボロだからそうなるわけで、驚くべきことに私企業の社員より公務員の数の方が多かった。スペックを見る限り明日に破綻しても不思議でない見るも悲惨な国家だったが、国民はどこ吹く風のケセラセラである。人間それでいいし国もそれでも成り立つのかと、たった1週間の衝撃の光景で人生観まで変わった。ここに書いてある。

イリアーヌ・イリアス- Made in Brasil

メキシコでも学ぶものがあった。といっても仕事は世界のどこでも同じようなもので、旅や遊びから学ぶことの方がずっと多い。可愛い子には旅をさせよというが、この2年間の出張がなければこういうことは思いつかなかったろう。

宇宙人の数学的帰納法

それやこれやが起こっていた2年を過ごしたのが下の写真の巣鴨の家だ。引っ越しは子供の荷物と僕のピアノ・音楽グッズが増えて大変だったはずだが、忙しくて覚えていない。当時の写真が見つからないのでGoogle Earthで探したらその家はいまこうなっていた。ガレージは当時はなかったが「青い家」はそのままだ。建物は3世帯に仕切られており、我が家はその真ん中でここに両親が何度も足をはこんでくれた。この景色を見て毎朝出社していたのが懐かしい。

長女はここで初めて幼稚園生になり、1度だけお遊戯を見に行った記憶がある。その後も子供の学校は家内まかせでほとんど見てやれなかった。次女はというと、どこへ行っても乳母車に積んだ赤ちゃん用の竹網みの籠ですやすやと眠っていた。近くの焼肉屋や中華料理店でも、ドライブして富士山の五合目まで登ってもそうだ。歩く時はいつも僕の担当で、危険のないように必ず利き腕で持ったので重みは右腕が覚えている。彼女もこの家ですくすく育ち、よく遊び、しっかり歩けるようになった。

ここでシンセサイザーを買った。先輩が簡易なのを持っていて、そういう芸当ができることを知った。何の知識もなかったが情熱先行だ。秋葉原でマックPCとその他の器材を買ってきて数日間の悪戦苦闘。ついにオーケストラの音が出た時の感動たるや筆舌に尽くし難く、ぱーっと光り輝く未来が眼前に開けた気がしたのである。ところが、それからほどなくしてフランクフルトに異動という辞令が出る。たった2年でまたヨーロッパか、親元を離れるのか。光は消えた。そのころ、このブログにある戦いのど真ん中にあり、ゴールドマンに敗北を喫して国内営業に予約させた300億円ぐらいが宙に浮くという事件があった。その詰め腹なのか左遷なのかという被害妄想まであって大いに複雑だった。

失われた20年とは何だったか(奪った者編・1)

だからである、この時、野村を辞めようかという気がむくむくと頭をもたげてきていた。もちろん誰にも相談などできない。会社でそんな気配を見抜かれただけでサラリーマン人生は終わるし、家内や両親に言っても無用な心配をかけるだけだ。特に妻にとってせっかく落ち着いた日本からまた海外に出る、しかも今度は言葉もわからないドイツである。亭主の気持ちががふらついていては家庭がもたなくなるかもしれなかった。辞めても大丈夫と思ったのは根拠があった。1985年、ロンドンの2年目にあるハプニングがあって、7年も前の自分の値段を具体的に知っていたからだ。それが今や実績をあげた37才の絶頂期である。野村での年収は1千万円ちょっとだが、外資系の東京現法に何倍かで売り込めるのではないかと思案したのだ。試す価値は充分にあった。

ハプニングとは何かというと、担当先だった大手スイス銀行SBCのヘッドから「秘密裡に会いたい」と電話があったのだ。ロンドンの冬の夕刻で、外は真っ暗だった。先方のオフィスへ行ってみると役員室のような部屋で幹部が二人待ち構えており、いきなり予想外の展開になった。「ロンドンの日本株部門のヘッドを探している。理由は言えないが君がリストの筆頭だ。年俸25万ポンドを保証するので来る気はないかというオファーがあったのである。30才の小僧に当時の為替レートで7千万円のギャランティーだ。びっくりした。どう反応したか覚えがないが、” I’ll think about it.(考えさせてください)” とだけ答えて帰った気がする。やたらと首をぽきぽき鳴らす人だったのと部屋の照明がやけに暗めだったのを覚えている。しかし当時の僕の辞書に転職の二文字はない。むしろ「そんなに軽く見られているのか」という気持もあって断ってしまったが、後々までこのご評価は心に留まっていた。頼んでもいない第三者の評価だ。俺は自信をもっていいと思うようになっていた。

だから青い家でさんざんひとりで悩んだのだ。そして最後に「大人しくフランクフルトへ行こう」と腹をくくった。たくさんのお世話になった方々との人間関係もあったが、西洋のああいう人達、あんまり好きになれない金融界の餓鬼たちの奴隷になるのが虫が好かなかったのもある。思えば自分だって仕事では同類の餓鬼なんだ、西洋に何の違和感もないしウォートンのMBAでもあったし、外資系で10年も我慢すれば米国人が理想とする40半ばの悠々自適の引退ができたのではないかとも思う。しかし僕はジョン万次郎の能力は認めるけれど生き方としては勝海舟だという人間であり、そう教育されていた。だから父に「ドイツだ」というと「頑張っておいで」とだけ言われ、そうだなと吹っ切れたのだった。さらにもうひとつ重要なことがある。先輩のご縁で巣鴨の借家に入ってしまったので「マイホームの勧誘」に乗らなかったことだ。もし同期と一緒に家を買ってしまっていたら?年収1千万の身でローンを返済しながら、せっかくの新居には他人が住んで我が家はドイツの借家で慎ましく暮らすのだ。あまりにアホらしく、東京に居ようとなったに相違ない。

どっちの道が良かったかというと何とも言えない。若くして外資だったらどデカいことができたかもしれない。神様がタイムマシンであの日に戻してくれるならば、今度はもちろん辞める方を選んでみたい。でも、そうなると一つだけ困ることがある。ドイツで生まれた長男がこの世にいないからだ。

 

(つづく)

我が家の引っ越しヒストリー(5)

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我が家の引っ越しヒストリー(3)

2021 SEP 26 23:23:00 pm by 東 賢太郎

ロンドンに着任した。1984年、入社5年目の夏である。家が決まるまでホテルに逗留したが、テレビでロス五輪をやっていたのを覚えているから7~8月のことだったろう。

そんなのを見ている場合ではない。配属先のインスティテューショナル・セールス・デパートメント(機関投資家営業部)は海外はもちろん全野村の拠点の稼ぎ頭のひとつで、そうそうたる先輩方がしのぎを削るウルトラ激務の部署として名が轟いていたからだ。株式営業は経験していたが、それは梅田支店の国内リテールの話である。2年のブランクで留学ボケもしているだろう。ここは世界の金融ビジネスの頂点、お客は誰もが知る著名な金融機関や機関投資家なのだ、そのまんま通用するとは思えない。武者震いは大いにしたが、できるというほどの自信はなかった。

ロンドンの「ロイヤル・エクスチェンジ」(旧王立取引所)

ヒースロー空港にはK課長が出迎えて下さった。車で会社へ向かう道すがらあまり会話はなく、はっとするようなストレートな物言いが幾つかあった。推奨する銘柄の情報取得ルート云々の話だったと記憶するが「どうすれば?」ときくとお前アホかという視線で「自分で調べろよ」の一言が返ってきた。ここで生きるには自助しかないなと感じた。数日たってそれを話すと「おまえ、Kさんが迎えに来てくれるなんてありえねんだぞ」と別の先輩が諭してくれた。そりゃあこちとら実績もない新参者だ。K課長と1対1で会話できるのはそれが最初で最後だよという意味だったが、もっと深い意味があることがだんだんわかってきた。

当時のオフィスは上掲写真にほど近い、金融街シティの中心であるバンク駅の東に徒歩数分のグレースチャーチ・ストリートにあった(後にモニュメント、チープサイドに移る)。Kさんは課長である。外人を入れて20人ぐらいの部なのに課長が仕切ってる。車中で会話しながら凄いなあと感じていたが、そういう敬意なんて甘ちゃんなものが成り立つ世界でないことをその日に知ることになった。オフィスに着くなり営業場の全員が軍隊みたいに起立する。僕の紹介など数秒で終わり、「やるぞ」の号令で全員が狭い会議室になだれこむ。夕刻の反省会・営業会議のようだ。普段通りの激烈な “詰め” が眼前で始まって度肝を抜かれた。目を疑う営業数字の話ではない、Kさんの詰めのキツさである。朝は6時半に集合して東京本社株式部と会議のようだ。そこでその日の営業目標を決め、夜までかけてそれを必達する。これこそがロンドンの掟(おきて)だと知って震え上がった。トヨタをしのぐ経常利益5千億円、ノルマ証券と揶揄された野村の営業現場で楽な所はなかったろうが、トップをひた走るロンドンはまさに戦場、修羅場だったのだ。

オフィス前のレドンホール・マーケット

時は日本株ブームの発端だ。グローバル投資のメッカであるロンドンのシティは煮えたぎるほど熱かった。僕が野村に入社した79年の日経平均株価は6,000円、このころが1万円ぐらいである。そこから87年1月に2万円の大台を超え、その後の3年弱でほぼ倍になった。その最後が1989年12月29日、年末最後の取引となった大納会でつけた3万8915円の史上最高値だ。1984~90年だった僕の「ロンドン時代」はその上昇とシンクロしているからラッキーだったと言われれば本当にそうだ。ただ、お天気と一緒で、雨の日は全員に雨、晴れの日は全員に晴れである。ブラックマンデーを除けば「快晴続き」だったこの業界は参入者がごったがえし熾烈な競争が展開される。その好例がここで書くノムラロンドンだったと考えていただければと思う。なにせ、掟だから部の商売が目標に達しないと誰も帰れない。現地社員は帰すが日本人は9時10時はざら、時に深夜にもなり、そんな時刻に英国人の自宅に電話していいのかと仰天すると「ばか、相手はプロなんだよ。大事な話は聞きたい」が現場の常識だった。たしかに我々が相手にする顧客はファンド・マネージャーである。運用成績に出世がかかっている。寝ている間に東京市場で大事があれば知らなかったでは済まないのだ。3年後のブラックマンデーでまさにそれが起きた。お客さんが夜中の2時3時に我々のオフィスにやってきて保有株を売るか売らぬか決めた。彼らにとって我々は不可欠の情報源、羅針盤であり、野村はやりすぎだという声はなく、こちらが日々緊張感ある仕事につとめればそれなりの注文をいただけるというウインウイン関係にあった。

だから何もなくても夜9時10時はざらなのである。上がだらだらいるから帰れないとかサービス残業なんて悠長なものではない。課員は会議室に集められ、その日の反省と明日の営業計画をK課長を相手にひとりひとりプレゼンさせられるのである。この時間は地獄だ。言ったことは翌日 “実現” する必要があるから生半可なことは言えないが申告が少ないと「お客さんをつかんでない」と怒鳴られる。「万事、大きく有言実行」が掟なのだ。野村でなければこんな理不尽は通るるはずもなく今なら完全にブラック、同じ証券界でも他社とは決定的に違う。しかし、本稿の最後にその理由を書くが、これを叩きこまれたのは後々の僕の人生にものすごく大きな影響を与えたのだ。Kさんは意気と度胸の営業マンなどとはほど遠いインテリで、コロンビア大学MBAであり、当時日本人は数名しかいなかったCFA(米国証券アナリスト)取得者でもある上に頭が抜群に切れる。プレゼンにびしびし鋭いツッコミが入り、あ~う~となってしまうと全員の前でさらし者になり、人間の尊厳を瞬間蒸発させるほどボコボコに叩きのめされてしまうのだ。別に殴られるわけではないが、言葉でビジネスをする我々にとって言葉でねじ伏せられるショックは殴られるより大きいのだ。しかし、ツッコミは理が通っていた。それを論破できないなら同様に頭が切れるファンドマネージャーに納得されるはずもなく、従って、翌日に注文はいただけず、言ったことは未達になるのである。有言実行できない者は野村で生き残れない。だからKさんと戦うことは自分のためになると考えるしかなかった。

それはウォートンのクラス討議など子供のお遊びに思えるほど実弾実装の戦闘訓練だった。知識・経験で最高峰にあるKさんを納得させられれば世に怖いものはない。当時は日々飛んでくる彼の銃弾をよけるのに必死だっただけだがそれで力がついたのだろう、何を薦めても無反応で発注皆無だったお客さん達にだんだん認められてきた。そのひとりが前回書いたケンブリッジ大学ダブル首席でリード・ステンハウス社の日本株運用首席デイビッド・パターソンさんだったのだ。彼の頭脳は当然の如く難攻不落で、一見とっつきも悪く、ケンと呼んでもらうのに半年かかったが、そうなってからは商売をしてもらえるようになった。すると先輩方も初めて仲間と認めてくれる。上司のヨイショやソンタクで身が持つのではなく万事が顧客の評価ありきだから極めてまっとうな組織だと思った。

Kさんだけでなく先輩方は皆さん個性あふれるつわもので多士済々である。そこで会社の重要なアカウントであるクェート投資庁、ロスチャイルド、モルガンなどを担当させてもらえることが「一軍選手」「レギュラー」のあかしだ。そこに至るまで2、3年はかかったが、慣れ親しんだ野球チームに似た感覚だった。課は4つあったが部の予算は全員で達成するから誰がその日のヒーローであってもいい。僕のホームランで達成しても大先輩含めて皆が喜んでくれる。逆の日もある。この喜怒哀楽の共有を6年も真剣勝負でやっていたわけだから、当時のメンバーはお互いの実力を熟知しており、今でも結束は固く「ロンドン会」と称していっしょに旅行したりしている(http://「野村ロンドン会」直島旅行)。仲間なんてもんじゃない、まぎれもなく「戦友」。第2の人生で上場企業の社長、役員の座を射止めた人がこのメンバーから5人も輩出されているが、Kさんの薫陶だから全く不思議に思わない(http://僕にとってロンドン?戦場ですね)。僕もその一人だが、それより何より、ソナー・アドバイザーズ株式会社がこのメンバーに出資していただいてできたことこそが人生を決した。同社はまさに「ウォートンから直にロンドンに赴任しろ」というあの嬉しくない辞令が生んだ人脈からできた会社なのだ。

若い方々に申し上げたいが、人脈はこうやってほんの偶然からできる。しかし転校や転勤や友人の紹介や飲み会で出会ったなどという「偶然」は、後に大きな実が成ってから振り返れば「小さなきっかけだったよね」というだけの話であって、何事だって、あなたが両親のもとに生まれたことだって、「偶然」なのだ。「大きな実」が成るには「大きなわけ」があったのである。百万回飲み会に出て偶然を求めてもそれがなければ何も起きないだろう。あると信じて求め続ける蜃気楼の名前が「人脈」なのだ。もっとはっきり言おう、求めるべきは「困ったときに助け合う仲間」なのだ。「コネ」といってもいい。あなたが困った仲間を救える「何ものか」がないと、困ったときに助けてももらえない。助けてもらえない人脈など、お店から来るお義理の年賀状の束みたいなもの。何枚あっても意味がない。「もっと大きなわけ」の正体はその「何ものか」なのである。僕は行きたくなかったロンドンで文句を言わずに6年働き、仲間と経験を共有して自然にそれができた。要するに、与えられた仕事を一生懸命にやったのが良かった。恋なら偶然からそのまま実が成ることはあるが、仕事でそれはまずない。

赴任3年目の1987年、4番打者とはいわないがクリーンアップに入れるぐらいの数字を僕はあげられるようになっていた。パターソンさんやクロウさんのような贔屓筋ができたからに他ならない、すべてはお客さんのおかげで仕事は順調だった。しかし私生活では子供がなかなかできなかった。だからその年に妻からきいた吉報は嬉しく、そこでさっそく、イースト・フィンチリーを出て一軒家に引っ越そうということになる。3階建てのタウンハウスでは階段の上り下りが多くて不安だからだ。クルマも安全第一でボルボに買い換えた。そう言いつつ夏休みは1週間の地中海クルーズに行ってしまっているのだが、そのチケットはアドバイスが成功して利益が出た旅行代理店の経営者が送ってくださったのだった。苦労して築いたお客さんとの人間関係から返すこともできず、会社には買ったことにして行かせていただいたものだ。

コリント海峡を抜ける船上にて

ロンドン~ヴェニスはフライト。そこでラ・パルマというクルーズ船に人生初めて乗りこんでアドリア海を下り、両岸が船幅ぎりぎりに迫る(写真)コリント海峡をしずしずと進んでからアテネを見物してエーゲ海へ出る。魅惑的だ。世界史で習った地名が次々と眼前に現れてわくわくの連続である。トルコに近いロドス島の東岸リンドスまで行って神話を聞きながら巡ったアクロポリスの遺跡の光景は僕の中にラヴェルの「ダフニスとクロエ」を呼び起こし、なぜだかこの地への強烈な憧憬が湧き起こってしまい、また来るぞという気持になった。帰路で寄港したクロアチアのドゥブロヴニクの美しさは衝撃的で、ずっとそこにいたいと思った。数千人は乗っていた船に東洋人の姿は我々しかなく、2か月後に出産予定でお腹の大きい家内はとても目立った。毎日同じテーブルで食事する3組の英国人カップルの皆さんがやさしくしてくれ、素晴らしい時を過ごした。皆さんご主人がリタイアされたご褒美旅行だったが、今は僕がその年齢になっているのだ。

そうこうあって見つけたのがフィンチリー同様にロンドン北部郊外に位置する住宅地ヘンドン・セントラルのこの家だった(左から2番目、奥にそこそこの芝生のガーデンがある)。ミルヒル、ヘンドン、PLというよくプレーするゴルフ場が近いのが魅力だった。引っ越しは87年のはじめあたりまでにしたと思うが覚えてない。同じ都市内で移動したことは後のドイツ、スイス、香港でもあるが、この時は会社の事情でなく出産のためと目的がはっきりしていたから苦痛でなかったのだろう。写真はGoogleにある今の姿だがちっともかわっていないのが感動的でさえある。長女は同年10月に、次女は日本に帰国する直前の1990年5月に英国ロンドン市で生まれ、この家で産湯を使った

ロンドン2番目の家

長女が生まれる直前に、前述のブラックマンデーがあった。その前日にロンドンを季節外れの台風が襲っていて、早朝にクルマで出ようとすると家から見て左にあった大木が道をまたいで根こそぎ倒れていた。写真の向こうの方へは車が行けず手前側に戻ったものだ。そうしたらその昼にニューヨークで株が23%の暴落となり、翌日の日本も蜂の巣をつついたような騒ぎである。僕らは会社で徹夜した。そうしたドタバタの木曜日の朝、妻が陣痛を訴え入院する。やむなくいったん出社して午後に病院に駆けつけた。寝ておらずふらふらだったので病院にお願いして隣の病室のベッドで仮眠させてもらった。誰やら女性の大声で目覚めると看護師さんだ。「何やってんのよ早く早く」と腕をひっぱり、問答無用の出産立ち合いとなる。頭がくらくらして椅子に倒れ込み、ひたすら名前を考えていると看護師さんが笑顔で寄ってきてドーンと娘のだっこになった。この時の重みは今でも腕が覚えている。かけてくれたおめでとうの言葉は ”It’s your daughter.” だ。そうかまだ ” it ”  なのか、はやく名前をつけてあげなくてはと思った。次女、長男の時は東京、ロンドンにいて申し訳なかったが、名前はこれだというのを事前に考えて決定は速かった。長女も次女も義母が来英してくれ、2、3日で妻は退院してこの家で水入らずになった喜びは忘れられない。1990年6月に東京に転勤となってここを去るとき、名残惜しいので庭の出てすぐ左に木を植えてきた。今はどうなっているのだろう。

Kさんは部長になられてたしかその前年に東京に転勤された。僕はボコボコは免れたもののたくさん叱られた。当時は若くて無謀。ある時、Kさんに言われたちょっとしたことでこっちが切れ、掃除用具の入ったロッカーを蹴倒してしまった。それでもついぞ関係が悪くなることがなく、常務になられても変わらず遊んでもらい、僕がスイスの社長になった1997年2月にはふたりでダボス会議に出席して昼夜ともに勉強させていただきスキーまで楽しんだ。最後に品のないカネの話で申しわけないが、証券の世界に身を置いた人間でそれ以外の成功の尺度は国際的にないと思うので感謝をこめて書いておく。ロンドンで彼の指揮下で約3年「頑張った」というより「耐えた」が、だんだんと、「ここでKさんならどうするだろう」と考えるようになった。そうして86年ごろ、今だから書くが、スイスのSBCのロンドン現法が秘密裏に会おうと言ってきて年俸7千万円で来ないかと誘われた。当時31才で破格のオファーだが断った。87年ごろには僕個人のサービスに対してお客さんがくださる月間の売買手数料は2億円ぐらいになった。年間で約20億円、6年で少なくとも100億円は稼いだろうから、僕にかけたウォートンMBA取得費用が1億円としても野村證券は充分にペイしたはずだ。そしてこちらも野村を卒業して億単位もらえるようになったからウインーウイン関係だった。キャリアの最後になって総括するなら、証券マンとして尊敬し一番の影響を受けたのはKさんである。7年上にああいう人がいたのだから野村という会社も凄いと思うし、あれだけ日本人離れした能力の高い人が社長になっていれば今ごろどうなっていただろうとも思う。

写真をGoogleで調べていたらサウスフィールズ44番のこの家が売りに出ていて値段が85万ポンド(約1億3千万円)だった。郊外だから5%として家賃が月50~60万円ぐらいか。香港、ニューヨークほどではないがロンドンの家賃は高い。

(つづく)

我が家の引っ越しヒストリー(4)

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我が家の引っ越しヒストリー(2)

2021 SEP 25 0:00:57 am by 東 賢太郎

1984年の5月、大変にきつかった最後の期末試験と卒論をきりぬけ、全米トップのビジネススクールであるウォートン・スクールのMBA(経営学修士)を取得した。僕はこれを最終学歴として書くべき所に書き、誇りを持っている。政治家がどっかのMBAと履歴書に書いて学歴詐称を問われたケースがあったが、ばれるばれない以前の問題としてMBAというのは日本であんまり勉強もしてないような人が語学留学のノリで取れるような代物ではそもそもないのである。しかし僕も彼らを笑えないことがあった。最後のセメスターで、有名な最難関科目で日本人がこぞって敬遠するIntermediate Accounting(中級会計学)を軽い気持ちで “記念に” 選択してしまったことだ。これはすぐに心底後悔することになった。授業が始まってみると50人のクラスでCPA(公認会計士)が15人もいることがわかり、1割がfail(不可)になる相対評価だから焦った。これを落としたらMBAは取れないという絶体絶命状態だったから試験前の数日間は徹夜で猛勉強し、単位取得発表の前日はへろへろで足腰が立たないのに興奮して眠れもせず、学生生活であれほど恐ろしかったことはない。

ウォートン・スクールのロゴ

なんの自慢にもならないが僕は万事が集中力勝負の人間なので一夜漬けというか直前の追い込み学習は自信があり、大学ではノートを借してくれた友人より成績が良かったりした。それで楽してごまかしてきたが、東大法学部の最後の期末試験とウォートンのこれだけはそんな付け焼刃は木っ端みじんに吹き飛ばされた。いま思えば大馬鹿者というしかないが、単に、どちらも当時考えていたほど甘い学校ではなかったのである。東大では二日連続徹夜(まさに一睡もせず、飯もぬき)で死力の限りを尽くしたはよかったが、あろうことか本番前の朝に力尽きてこたつで寝てしまい、あやうく試験を寝過ごすところだった。あぶないぞと案じていた友達が下宿の窓に小石をぶつけて起こしてくれ、事なきを得た。ただ、たしかその晩だったスビャトスラフ・リヒテルのリサイタルは、東京文化会館まで這うようにして行くには行ったが、席に座った瞬間に熟睡したと思われ一曲も覚えていない。

教室のあるヴァンスホール

ウォートンの生活はどんなだったかと問われれば、人智を超えた巨大物量のアサインメント(宿題)に圧倒され続けた2年間だったと答えるしかない。教科書とバルクパック(副教材)を毎日500頁ぐらいは読まないと教室でついていけない(日本語でやってすら地獄の物量)。たまに挙手して発言しないとクラス・パー

ペン大のキャンパスにて

ティシペーション(クラス討議への参加)で加点されず、ゼロだと単位をくれない先生もいる。それを鉄砲玉のようなアメリカン・イングリッシュでぶちかまされるのだから、ついていくどころか初めの3か月は何を言っているかすらわからなかった。日本人は帰国子女の人も多かったが、こっちは突然に辞令が出てTOEFLとGmatは何とか最低点をパスした程度。受験英語ぐらいでは歯が立たなかったのだ。しかも法学部で習った日本の法律はMBAには屁の役にも立たず、逆にキモである経済学、会計学は大学でやってないのだから参った。集中するため図書館にひきこもり、午前零時の閉館とともにユニバーシティ・ポリスのパトカーに乗ってアパートまで送られたことも何度かある(当時はキャンパスも危険だった)。乗り越えられたのはひとえに火事場の一夜漬けに慣れていたおかげだ。まあMBAの目的には学問の修得だけでなく実際のビジネス現場での即決即断力や胆力の涵養もあろうからそれでよかったと思うことにしている。ちなみに英語は不思議なもので3か月でテレビCMを見ていたらバーンと聞き取れるようになった。3才位で日本のテレビニュースがある日突然バーンとわかったのを思い出し、そこから何とかキャッチアップできた。

タンホイザー

中級会計学の期末試験が終わると、スペイン、スイスに留学した同期がやってきて車でナイヤガラの滝からカナダのモントリオール、ケベック・シティまでドライブした。楽しかったが試験の合否の発表はまだで、気になって生きた心地がしない。ついに2月に合格とわかり、19単位が満了し、晴れてMBA取得が確定した。そうなると遊ぶことしか頭にない。すぐニューヨークへ行きメットで人生初オペラだった「タンホイザー」を聴き、ハーバードにいた東銀の伊藤 (現・一橋大学院教授)の家に泊めてもらって小澤征爾/ボストン響をきいた。母を呼んで3月はワシントンDCへ行きチェコ・フィル、メットでフランシスコ・アライザのモーツァルト「後宮」、4月末に最後のニューヨーク訪問をしてカーネギーホールでアルゲリッチ/デュトワ/モントリオール響でプロコフィエフ3番と幻想交響曲を堪能した。

さて4月に卒業だ。いよいよ東京に戻るぞと引っ越しの荷造りを始めた頃、人事部から部屋に電話が入った。荷物は東京でなくロンドンに送れと言う。頭が真っ白だ。夏休みに勉強はすっぽかして1か月渡欧し、まさか赴任しようとは思ってもいないのでロンドンで記念写真をとりまくってきたワタシなのだ。ショックであり嬉しさはかけらもなかった。しかし人生は分からないものだ、それが6年を過ごすことになるあの素晴らしい英国とのご縁の始まりだったとは。その地で僕は証券業務の何たるかを猛烈に怖い先輩方とウルトラ級に要求の厳しい顧客たちによって骨の髄まで叩きこまれ、人生における最重要の人脈ができ、何が出てきても怖いものがなくなって今がある。この赴任がなければ今の僕の生活は絶対にない。しかもそこでふたりの娘に恵まれ、素晴らしく奥が深い大都市ロンドンを家族で堪能したのだから会社に感謝するしかない。

世界一の教育システムで厳しく鍛えてくれたアメリカは大好きだったが、僕が覚えた英語(米語)はシティのバンカー曰く a sort of English(英語のようなもの)で、「キミ、治した方がいいよ」と訛りみたいに言われ、欧米とは一概にいうが「欧」と「米」には抜きさし難い都鄙観があることを知る。ガーシュインの「パリのアメリカ人」は自虐ネタである。文化面では大いに米国に満ち足りないものがあった僕にとって文化の香りにあふれた英国は砂漠のオアシスだった。一回り年長だが最後は友達になったお客さん(ファンド・マネージャー)のデビッド・パターソン氏とデビッド・クロウ氏は英国の伝統的保守本流のジェントルマンであり、株式運用はもとより、英国風オトナ流儀、アッパーのクイーンズ・イングリッシュ、そしてクラシック鑑賞における僕の師であり、気のおけないコンサートの友でもあった。

ご両人とは東京と京都の会社訪問のお供をした。クロウ氏と立ち寄った美しすぎる紅葉の東福寺や高台寺の旅館でのあれこれなど忘れられない思い出だし、ロンドンでは郊外の広大な別荘に家族で泊りがけで招待して下さり、ご夫妻と素敵なイングリッシュ・ガーデンで食事、お茶、テニスと楽しい時間を過ごした。パターソン氏はアイザック・ニュートン以来のケンブリッジ大学のダブル・トップ(二学部首席卒業)で、英国の頭脳といえる。ただ日本食が子供並みにダメで、京都の料亭で半ば無理やり食べさせたらついに日本食ファンになってくれた。転勤でお別れした3年後のある朝のことだ、僕が野村ドイツの社長になったという知らせをきいてロンドンの彼から突然の電話があった。「今日はいるか?」というや、電光石火でその日のお昼にフランクフルト国際空港までやって来てハグしてくれ、お祝いの本をくれてクイックランチをご一緒すると「会議なんで御免よ」と急いでロンドンに帰られた。こんな人、日本にいるだろうか。僕が英国ファンになったのはこういう深い深い事情があるのだ。

ロンドンで住んだのはイースト・フィンチリーという郊外の静かで小さな町だ。会社のあるバンク駅(シティ)まで地下鉄で40分ぐらいの駅(写真)で、そこから徒歩5分ほどの3階建ての庭付きのタウンハウスを家内と選んだ。米国は留学だけのつもりだったから東京からも生活に必要な荷物を送ったはずで、よく覚えてないが大変だったのだろう。

2010年に再訪した

建物の写真を見て気がついたが、どことなく壁面が最初のフェアファックス・アパートに似ているので気に入ったのかもしれない。さっそくタンノイの中型スピーカーを買い、ほどなくして流行りだした新フォーマットであるCDなるものを聴くためDenonのプレーヤーもそろえ、念願のアップライトピアノもその家にいる時に70万円ぐらいで買った。毎週末に都心に愛車アウディ(オンボロ中古だ)でくり出して必ずイタリアンか中華を食べ、ああフィラデルフィアではこれが恋しかったなあと感慨にふけり、妻とは別行動で僕はソーホーの中古レコード屋と、レ・ミゼラブルが長年かかっていたクイーンズ・シアターの対面の角にあった中古CD屋を漁っていた。僕の厖大なクラシックLP・CDコレクションはここから始まっている。

この家にはアメリカでバーンスタイン、チェリビダッケに会わせてくれたヴァイオリニストの古澤巌がコンクールのため来英して何日か泊まった。オランダのデルフト大学で講義した時に仲良くなった学生たちも、僕の母、家内の両親や親族も泊まった。一人前に所帯を持った気になった思い出の家だ。

1 Oakview Gardens(手前のドア)

事件もあった。空き巣が入ったのだ。1階にあったビデオプレーヤーを盗まれたが、警察の捜査で「侵入路は天井に近い横長の天窓で子供を使った」ことがわかった。なるほどお国物のシャーロック・ホームズみたいだなと思った。しかし痛かったのは機械ではない、挿入しっぱなしだったイングマール・ベルイマン監督の「魔笛」のビデオだ。お気に入りだったこれはロンドンで売っていなかったのである。この家もそうだが、周囲も中産階級のホームタウンというところで雰囲気はとても良かったが記憶があまりない。庭でときどき猫が来たかなというのと、隣の老婦人が「あなたブラームスの1番弾いてたわね」と言ってくれたぐらいだ。当時のピアノはとても下手であり、そういう意味だったかもしれない。覚えているのは、朝の暗いうちに妻に見送られて星を見あげながら駅まで歩いたことと、星を見あげながら日付の変わるころその道を戻って妻に出迎えられたことだけだ。ウォートンの拷問が終わったと思ったら一難去ってまた一難。全社に名が轟く鬼軍曹のK課長が率いる栄光のロンドン株式営業部は、「MBA?あんなのかわいいもんだったよ」と後に僕が語ることになる超絶的激務と人智の及ばぬ強烈プレッシャーがのしかかる “男の仕事場” だったのである。

 

一番手前が我が家

(つづく)

ウォートン留学中にこれがあった

米国人医師に救われた我が家の命脈

世界のうまいもの(その3)-フィラデルフィアのホーギー-

クラシック徒然草-チェリビダッケと古澤巌-

クラシック徒然草-フィラデルフィア管弦楽団の思い出-

我が家の引っ越しヒストリー(3)

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我が家の引っ越しヒストリー(1)

2021 SEP 23 22:22:13 pm by 東 賢太郎

片づけ、掃除、旅行のパッキングには明らかにうまいへたがある。誰でもできると思う人が多数派だろうから、普通にできる多くの人と、とても下手くそな少数の人がいるということかもしれない。どうして自分が下手なのかはわからない。小学校ではボーイスカウトの子供版(カブスカウトという)に入っており、キャンプなど実地で色々教えられたはずだが、それでもだめだった。教室の掃除では女の子に邪魔物あつかいされて苦手意識が焼きつき、そのまんま大人になってしまった感じがある。

ちなみに引っ越しというものは片づけ、掃除、パッキングの複合競技みたいなものである。生まれてこのかたそれを21回も挙行したというのは、だから大変なことだった。はじめの5回は国内移動だったが、結婚して海外へ出てからの16回、とくに子供ができてからの11回は大作業だった。ピアノも12回移動しており家が大きくなるにつれ雪だるま式に荷物が増えてくる。その帰結である今の家ではついに僕のものだけで4部屋分にもなってしまった。しかし偉そうなことは言えない。すべては家内が取り仕切ってくれたからだ。

日本人の生涯の平均引っ越し回数は3.04回(国立社会保障・人口問題研究所、2018年)だから僕はすでに7倍もやったことになる。21回のうち国内は9回で、子供のころ親が引っ越したのが3回、転勤が3回、香港から帰国して借家が2回、ついにマイホームに移ったのが1回だ。日本の移動はどうということはないが、残りの海外12回に尽きぬ苦労と思い出があるのは海外族か商社マンならわかってくれるだろう。転々としたからマルコ・ポーロかジプシーの域である。ちなみにやっぱりそうだったモーツァルトは14回引っ越しをし、人生36年の28%が旅先だったが、僕は36才時点で29%と彼を上回っている。

ここまでの人は海外にもあまりいないが、東インド会社の社員や英国海軍の軍人ならありだろう。アガサ・クリスティーの小説には中東、アジアに赴いた考古学者や軍人がよく出てくるが、あの感じである。植民地がたくさんないとああ自然にはならないが、当時のノムラの海外拠点は当地で圧倒的にドミナントな存在で、言い方は悪いが植民地の司令官みたいなものだった。そのせいか大人になるにつれ僕はだんだん英国人の気質や哲学に共感を覚えるようになった。実体験なのだから気取っているわけではないし、ロンドンに6年いたからというわけでもないのだが、世界各地で長い時間を過ごした五感がそうさせるのかと思う。

さて、本稿は引っ越しのドタバタを主題に海外で住んだ家をふりかえろうというものだ。ひとつの家に長くて2年、つまり1,2年で悪夢の引っ越しになるのだから気ぜわしかったが、今だから書ける楽しみがいっぱいだった。海外に留学したり勤務するとまず不動産屋に頼んで貸し家を自分で探すわけだが、こいつは骨が折れるけれどもエキサイティングな作業なのである。なにせ海外の家はでかい。若いみそらには豪邸で、あちこち見て歩くだけでも楽しい。それを新居に選ぶワクワク感を12回も味わえたんだからジプシー万歳だ。

シェアルームにて

始めは留学である。当時、野村證券には留学は単身者のみという規則があったが、辞令が出てから人事部に無断で結婚してしまった。さんざん部長に叱られ「いいな、おまえ、許してやるけど半年は単身で行くんだぞ」と厳命され(注)、仕方なく学生寮でアメリカ人とルームシェアする羽目になった。部屋は壁で分かれていたがドアがなくカーテンだ。相棒はハーバード卒の秀才でいい奴だったが女を連れこむのにはまいった。しかもこっちは片づけ、掃除の劣等生でベッド以外は滅茶苦茶。自炊など到底無理で栄養失調気味である。英語はわからんし勉強は地獄で、こりゃかなわんということで秘密裏に3か月で家内を呼んでしまった。

つまり再び人事部長命令を破ったことになるが、情報が漏れていたかどうかはともかくお咎めはなかった。そこでまず夫婦用の学生寮であるグラッドタワーに移った。しかしいまひとつ代り映えせず、さらに引っ越したのが学校に近いローカスト・ストリートにあるフェアファックスというアパートである(写真)。百年たってそうなおんぼろだったが中庭があるのが良かった。10階建てのレンガのファサードは立派で、10階の景色の良い角部屋があいていた。これが趣味に合った。映画で見知ってあこがれたアメリカの住まいは大いに気に入ったのである。この写真、当時とかわってない、40年も前なのに今そこにいるようだ。ここが東家のスタートになったことは子孫には伝えておかねばならない。

Fairfax Apartments

なにせマックが買えないぐらい生活は劇貧状態だったが、さっそく家内と古道具屋で100ドルの品の悪いガラステーブルやランプを思い切って買ったりした。それが高級品に見えていたのだ。思えば部屋のお隣さんはメイフラワー号のピルグリム・ファーザーズの末裔のお嬢さんだったし、そう安アパートというわけでもなかったかもしれないが。近くのアクメというスーパーで買い物し、週末は教会の黒人霊歌で目がさめ、家内の作る日本食を目あてにクラスメートがガヤガヤ集まって酒宴となる。現・日本産業パートナーズ社長である畏友・馬上英実(当時

古澤巌

は興銀)はじめメキシコ、インド、ケニア、スイスの連中など国際色豊かであり、ゲームで盛りあがり僕がギターでビートルズを歌いまくった。仲良しだったヴァイオリニストの古澤巌も我が家の常連でこの家でモーツァルトの3番の協奏曲を弾いてもらっている。とにかく、若かった。卒業してここを去るときに、荷物を送りだしてがらんとしたリビングがとても寂しかったのを覚えている。

 

(注)「いいな、おまえ、許してやるけど半年は単身で行くんだぞ」

こう言われて会社に送り出され、家族、友人たちが成田で見送ってくれ、最初に入ったのがコロラド大学のエコノミック・インスティテュート(語学学校)だ。そこで早々に予期せぬ大事件がおこる。それがこれであった。

野村證券・外村副社長からの電話

我が家の引っ越しヒストリー(2)

 

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河野発言の「天皇の存在と日本語」について

2021 SEP 16 17:17:47 pm by 東 賢太郎

総裁候補の河野太郎が「日本を日本たらしめているものは何かと問われれば、私は天皇の存在と日本語だと答えます」と公式サイトに書いている。彼の最終学歴はジョージタウン大学卒業だが、この発言が出るだけで「なんちゃってアメリカ留学のチャラ男」との格段のモノの違いを感じる。良い意味で日本人じゃないものまで身につけていると思われるからだ。

「日本人じゃない」と「日本的じゃない」は異なる。カタカナ言葉でフリをする西洋かぶれが後者。ただのカブキ者である。前者は思考回路にいたる話であって、英語を少々かじればなれるというものでない。言語は思考回路なので、英語の使い手になれば西洋的な回路の人に近くなる。英語ペラペラ、そんなものはない。そういう風に見える人はそれがわかってない、それだけのことである。

使い手になって日本に帰ってくると、知らず知らず日本人にはあれっというところが出る。すると「変人」といわれる。99%の日本人は群れて生きており、群れの保全のため異分子は排除するから仕方ない。「群れ」の変化語が「村」であり、村社会では同質性を確認し合うため同調圧力がある。それがいじめ問題になり自粛警察にも忖度にもなり、自民党の総裁選のドタバタにもなるのである。

ということは逆も真で、日本語の使い手になれば外国人でも日本的な回路の人になる。それで天皇への敬意を具有すれば日本人が出来上がる。河野発言は思うにそういう意味で、現に “日本的な” 外人はテレビで何人もが好感を得ている。しかし彼らは国籍が日本でないからという理由ではなく、靖国参拝はしないし君が代は歌わないし「天皇」の部分は欠けるから日本人ではない。

16年海外から日本を眺めて、日本人になるのは大変だと思った。日本語人になれば仕草も日本風になりいい塩梅に同調もでき、田舎の爺ちゃん婆ちゃんの目にも「いい人」になれる。しかし日本でそれが大事なのは個性や人権の尊重でなく村の保全のためでしかない。だから村の精神的支柱である天皇への敬意は要件であり、これを求められると改宗に近いからほとんどの外国人には難儀だろう。

「日本語と天皇」という国の個性を薄めても日本が存続するだろうか?という視点は海外生活を長くして西洋的な回路になった日本人は大なり小なり持つと思う。自国を相対化して観る眼が生まれる。それは日本が滅んでも世界は何ら困らないことを知るからだ。その危機感から、日本にいた頃より愛国的になり、右翼と呼ばれる人たちと表面的には似た主張にもなる。総論的にはそれでいい。

しかし帰国して各論になると「人の個性より村の存続」の壁に当たるのだ。夫婦同姓は長らく村の掟だから守る。同性婚は和を乱す。そしてその統合的象徴である天皇は男系というオーセンティシティを守れ。そうなる。困るのは西洋回路人になると個の尊重が大事と思うようになり、それの終点である民主主義と、村の存続の終点である日本国の存続とが自分の中で乖離してくることなのだ。

実はそれはアジアすべての国の抱える矛盾でもある。それを謳わないと地球を支配する西洋序列に入れない。キリスト教国家の軍事力が優位で、その宗教的価値観による序列だから存続には改宗か服従しかない。前者で蹂躙・同化され滅んだ文明は数多あるから後者を選択する。それに必須な「衣装」が民主主義による法治国家という体裁の確立であり、その急ごしらえバージョンが明治政府だった。

しかし非西洋のイスラム教国の民主主義はもっと衣装でしかなく、パレスチナ、アフガンを見るまでもなく対立軸であり続けるだろう。西洋の軍事的優位を覆す戦略の中国はいずれそれも脱ぎ捨てる日が来るかもしれない。その隣りで日本が平穏無事に生き延びる道は、蹂躙・同化されぬ尊厳を身にまとい、一定の経済力・軍事力を持つこと以外に客観的に存在しないのではなかろうか。

明治の元勲が幕末動乱の制約下で国家存続の選択をして倒幕した。お蔭で日本は国になり民族は生きながらえた。天皇ありきの王政復古なくして廃藩置県も廃刀令もなかった。徳川慶喜は幕府の存続・尊重の原理を捨て、日本という島の住民の命を守ったことにはなる。それが国家と呼ばれ結局は西洋と戦火を交えて破れはするが、それでもあそこで植民地化していれば我々の今はなかった。

いま自民党総裁選を見て古い体質だというが、あれは日本国の縮図である。投票という民主主義メソッドを借りて村の存続を図っているだけで、精神は江戸時代と違わない。彼らを選んだ国民も江戸時代と変わっていないのである。村は長老が治めて村民の命運を握り、いちいち村民に子細な説明などしない。菅さんはその意味でとても村の長老的な総理であった。

いま自民党で起きていることは村長の交代か、せいぜい若返りでしかない。内在的エネルギーによるレジーム破壊ではなく、「すぐ総選挙だ」という外圧が事を動かしているに過ぎない。コロナと五輪で国民の怒りが見えた時に、僕は戦前なら二・二六事件かなと、そういうきな臭さの発端ぐらいを嗅いだが、そのエネルギーは横浜市長選で往時の千分の一ほど垣間見えたが些細なもので終わった。

くりかえすが、日本が未来に平穏無事に生き延びる道は、蹂躙・同化されぬ尊厳を身にまとい、一定の経済力・軍事力を持つこと以外にない。①尊厳は天皇・皇室の存在・維持、そして②強靭な経済成長力と国富③相手の行動を抑止する最低限の軍事力だ。河野は②が弱い。法人減税で再分配促進は結構だがマクロの視点の経済政策が見えない所に再分配率なる言葉が出るのは違和感がある。30年株が上がってない唯一の先進国をどうやって成長させるの?ということだ。

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僕の「人生重大事件」リスト

2021 AUG 29 18:18:25 pm by 東 賢太郎

前にどこかに書いたが、もう欲しいものがない。もともと世俗的な欲はあまりなくて、子供の頃の “2つの夢” のひとつ「なにかで日本一になりたい」は駿台公開模試でやったし、もうひとつの「プロ野球選手になりたい」は「巨人の一軍選手の年俸を超えたい」にゴールポストを動かして達成している。しかし女房子供に自慢してもあっそうで終わり。役員になったとかMBAを取ったとか起業に成功したみたいな方がうける。でも世俗的な欲があまりない人間にとってそういうものは重大事件でないのだ。

僕の「人生重大事件」を時系列で書くとこんな感じだ。どれも他人様には何ら響かないだろうが人間形成に深い影響があったから重大だった。音楽については既にあちこちに書いたので省く。起業後は人間形成完了後なので割愛。

小学校時代

① 近所の野球仲間M君のお父さんに球が速いとほめられた

② いじめっ子から逃げながら小石を投げたらおでこに命中した

③ 祖父が灯篭に乗って天に昇る夢を見た

④ 先生のクイズ「西島君が鉄棒まで何歩で行くか」をあてた

人生重大事件とはこういうものだ。②は校外で遊んでいたらデカい年上の奴らにからまれ友達が殴られた。全力で逃走しながらとっさに石を拾って振りむいて投げたらそいつのおでこに見事に命中。当たる瞬間までスローモーションみたいに見えた。そいつはうずくまり、ふたりで「ざまあみろ~」と罵声を浴びせた。デカい野良犬に追っかけられた時も石を投げて額の真ん中に命中している。なにせ多摩川で毎日石を投げて鍛えていたのだ。①と②は絶大な自信となり、高1で硬式野球部のエースに選ばれた時も当然と思っていた。③は泣いて目が覚め、ほどなく祖父は亡くなった。手相を見て大器晩成だと太鼓判を押してくれた祖父がずっと見守ってくれていると信じて生きてきたから窮地に追いこまれても焦らなかった。④は「153歩」と確信をこめて紙に書き、西島君が校庭の向こうの鉄棒に到達する最後の数歩を自信をもってカウントしながら見守り、やっぱりなと賞品のシャープペンシルを予定されていたようにもらった。そういう能力があると信じて疑わぬ性格になり、腹がすわったビジネスマンになった。そのシャープペンシルは1学年上で後にテレビで有名人になるワルに脅し取られた。この手の種族の奴らには以後絶対に負けないと心に誓った。

中学時代

① パーカーの万年筆をもらった

② エラリー・クイーンにはまった

③ 気に入ってる女の子がクラスにいたが口もきけなかった

①は万年筆に憧れがあって天に昇るほどうれしく英語を勉強する気になった。くれたのは先の友達のお父さんで洋行帰りでカッコよく、叔父がフランス車 “シムカ” に載ってヴァイオリンを弾いてカッコいいのとダブって西洋に行くぞという気になった。②は夏休みに読みふけり「ロジックというものは美しい」と感嘆。論理=言語になりこのような文体になり数学的思考力がついた。③1年生のクラスの女の子に興味はあったがからっきし勇気がなく、ついに一度もまともに話したことがなく精神的には男子校状態だった。そうだった情けなさから勉強か野球でモテるしかないと思い野球に行ってしまった。

高校時代

① 現国の授業でプレゼンをやって予想外にうけた

② 肘と肩を故障して背番号14に降格された

③ 駿台の模試を受けたら偏差値40代だった

④ アジャンタのチキン・カレーに衝撃を受けた

人生初めて大勢の前で足が震えながら教材の好き勝手自己流解釈をしゃべり大拍手を受けた①は偉大な経験(故酒井先生のおかげ)。後のビジネス成功の絶対のルーツであり、ブログもその流儀で書いて既読7百万回に驚きもない。②で野球をあきらめ女の子にもてるには勉強だとギアチェンジした。そこで③という峻厳なる天の審判が下るが背番号14の屈辱よりましだと屁のカッパであった。失ったものがデカいので大学は東大文Ⅰにするしか自分を納得させられなかった。④で「食」の世界の深さに目覚めた。後に世界中で珍味を食べ歩く原点になる。

浪人時代

① 駿台予備校の根岸先生の授業で突然に数学に開眼した

② 公開模試で数学満点、総合点7番で記念品をもらう

③ ミステリーを書いた

④ 3匹の猫に遊んでもらった

①は天恵。これなしに今の自分なし。②で日本一は意外に大したことないと思った。だから現役で受かった私大に進んでいたら①②は存在せず、今の境遇はあり得なかった。③はクイーンをまねた答案。夏休みに熱中。④家族の協力とチビ、チャー、クロ(+トモ)との遊びは絶大な支援だった。

大学時代

① 2度アメリカ旅行した

② 家内と広島で知り合った

③ 自分の頭は大したことないと知った

④ スキー、麻雀を覚えたが下手だった

⑤ テレビに出たが失敗した

①④のように遊びを覚えたに尽きる。勉強は常にそうだが一夜漬けですぐ忘れた。②カープファンでなければ家内とは会えなかった。③そう思ったが勉強以外の頭は別だと正体不明の自信があった。⑤野村に就職が決まって出演させられたNHKの番組で失敗をやらかしたのにお車代を4万円ももらえてうれしかった。

会社時代

① 大阪の個人営業で仕事のすべてを教わった

② コロンビア大学ベイカー・フィールドで9回を投げて野球人生を終えた

③ ロンドンで外資に7千万円で誘われ自分の値段を知った

④ 香港の地下鉄公社オープンに出場して優勝(ゴルフ)

⑤ 野村を辞めたら年俸が億単位になった

すべては野村證券のおかげ。本当にいい会社に入って幸運だった。ゴルフは大阪で初めてやり香港でシングルになり香港金融界80社代表のコンペで個人優勝したがそれ以上は成長しないと悟った。サラリーマンは31年やったが下積み時代は上に忖度しないので苦痛であり、自分が上になると管理業務が苦痛になった。死ぬまでプレーヤーでいるためには起業しかないと悟ったが、最初は銀行口座の資金が尽きるのが恐ろしくて地獄の日々であった。ほんの最近になって、誰のカネであれ100億も動かせれば自分の口座残高はあまり気にしなくていいことを学んでいる。それでもうかる案件は勝手に来るし人も寄ってくる。周囲の皆さんには不思議だろうが今年は一回も家から出ないで黒字になるだろう。なぜそうなれたかという答えは自分でも見つからないが本稿の「人生重大事件リスト」のどこかにあることは確かだ。

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昭和的思考をぶっ壊した大谷翔平

2021 JUL 9 13:13:48 pm by 東 賢太郎

大谷翔平が高く高く翔んでいる。メジャーで活躍した日本人選手は何人もいるが大谷は一味違う。体格も見劣りしないし成績も破格だが、そういうフィジカルな事ではない。あそこまでメジャーリーガーにあっけらかんと同化した選手はいなかったという意味で、僕の目にはとても新しく、すがすがしく写るのだ。

英語をペラペラ操るわけでないのに愛され方が半端でない。野茂もイチローも松井も図抜けた野球選手だったが、あっ日本人が混じってやってるな、頑張ってるなという感じがあった。それが大谷にはまるでないのである。アメリカ人になりきっていて、観る方だって日本人として誇らしいという感情を超えている。

彼の性格の良さも大いにあるが、やはり二刀流だろう。渡米の年に「投手はやめた方がいい」と書いたし今でもそう思っているが、懸念は吹っ飛ばした。「エースで4番」は全ての野球少年の夢だ、否定するすべはない。最高峰まで昇りつめてそれが叶ったのは世界にベーブルースと大谷だけ。尊敬されるのは当然だ。

そんなことを考えたのも、アメリカ人のフェアな素晴らしさに何度かジーンときたことがあったせいだ。特に、たかが野球、されど野球だ。あの国で野球をやったことない男子はまずいない。昭和の日本もだったが、到底その比ではない。だから野球をすれば何国人であれ、男にも女にも認めてもらえたと思う。

ニューヨークの企業対抗野球大会。アメリカ人たちとのチームワークは一生忘れない。5番を打った。高校では6番だったから ”エースで4番” 気分を何となく味わえたのはこの時だけだ。大会45チームのMVPに選ばれたから運もあって、子孫に何で記憶して欲しいかというとこの受賞だ。我が人生のぶっちぎりNo1だ。

色々思い出がある。名捕手で名リードしてくれたドン。ただ、カーブのサインでミットを左右にビシッと構えられるのが困った。あの球はタイミングを狂わすドロップで曲がりは計算しない。そこでお願いして全部ド真ん中に構えてもらい、無視してぜんぶ彼の顔をめがけて投げたら面白いほどうまくいった。

練習でチームメートがあの球はなんだ?とカーブの握りをききにくる。5本の指で深めにベタに握って親指と人差し指の間から抜く。抜き具合はアバウト。直球もスピンのかけ具合で伸びが変わる。球種は2つでも多種になる。これで草野球レベルならぜんぜん打たれない。試合でやってみせたらみな激賞してくれた。

ああして野球少年に帰ったら日本人もへったくれもない。僕もタイムリーを打ってくれたアンディやトムをぶっ叩いてやった。こうやって初出場だったチームは準決勝まで勝ち進み、知らぬまに誇り高い日米連合軍となり、comradery(戦友)という言葉を教わった。自衛官になってもやってけたかもなあと思った。

大谷に戻る。オールスターでオリックス・仰木彬監督の「ピッチャー、イチロー」のコールに「打者(松井秀喜)に失礼だ」と代打に投手高津で応酬したノムさん。もしそうなら大谷は投手にも打者にも失礼ということになってしまう。最高峰の選手にそれこそ失礼だ。こういう思考はとっても昭和的で狭隘だと思う。

大谷に「投手はやめた方がいい」と思うのは、自分が高2で肩を壊して投手人生を断たれてしまったからだ。昭和思考ではない。高校野球の投手がプロの打者を打ち取ったら「失礼だ」なんてどう考えてもおかしいし、このエピソードはノムさんほどの知恵者でも昭和思考から抜け出せなかった、根深いぞという教訓だ。

日本の政治はお見事なほどに、セピア色の写真みたいに “昭和” 一色である。そんなことをしているうちに国はどんどん世界に遅れてしまう。敏感でなくてはいけない企業すら、もう遅れ始めている。やがて世論は鎖国に傾くだろう。そこで焦っても遅い。また御一新をめざすことになるが、その先は暗いと思う。

東京五輪。なんともいえない不毛の悲しさが漂う。僕は世間の反対派の一員ではない。でもコロナに勝つ確率ゼロという “科学” は世界の誰にも変えられない。五輪があってもなくてもゼロ。「負けでも万歳突撃だ」と昭和思考むき出しで進む光景は戦争から何も学習していない姿と写る。そう思ってなくてもそう写る。

どこか明治維新の前の「ええじゃないか」騒動に似てきた。あれは民衆だったがいまや政府が追いこまれてやってる。それ見て民衆も「ええじゃないか」と街に踊り出る。まずい。開催中の宣言発出は致命傷だと早々に飲食が犠牲になる。協力金に税金が投入され、みんな五輪のせいだと選手にまで怒りが向いかねない。

もう今回は国民の生活も気持ちも持たないだろう。金メダル幾つ取ったでどうなるものでない不幸なスパイラルが歴史に刻まれる。僕は野球で育ち、野球で子孫に覚えておいて欲しいという人間だ。スポーツが政治や金銭欲のネタになる愚行はこれでもう勘弁していただきたい。政権にもIOCにも等しくそう言いたい。

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拙稿の閲覧数700万回の御礼

2021 JUN 3 1:01:23 am by 東 賢太郎

アメリカの歌手、B・J・トーマスが亡くなった記事を見てバート・バカラック「雨にぬれても」をYahooで検索したら拙稿が出てきた。

http://バート・バカラック「雨にぬれても」の魔力 | Sonar Members …

この曲も古くなっちまったってことだ。気がついたら拙稿のPVは7,000,000回をこえていて僕もけっこう古手ブロガーに数えられており、古い者が古い物をほめているという図式を古い人が面白がってくれてるということが背景なんだろう。

そう思ったがGoogle Analyticsを見るとそうでもない。以前からその傾向があったが現在の僕の読者は43%が44才以下、うち22%が34才以下だ。ざっくり半分が40半ばより若い学生、働き盛りということになる。とても嬉しい。SMCは50才以上をイメージして始めたが老人クラブではない、若年層に知恵と勇気をつけてあげたいという思いだけでやってきたから本望だ。僕はインフォメーションを書く気はさらさらない、そんなのは自分でググりなさい。書くのはインテリジェンスのみだ。僕自身それしか興味ないからそうなるしかない。勉強や世渡りを教えることはできないが、拙文に長くつきあってくれれば思考回路は似てくるという気がしてならない。現にそう言った若者がいた。そうなれば自分でユニークな思考ができるようになる。ただし普通で平穏な人生が良い人にとっては害かもしれないとも思う。そういう方はここでやめたほうがいい。

ちなみに、誰に会っても「若いですね」といわれる。66はないですね、50ぐらいですと。お世辞半分としても、精神年齢は若いと自分でも思う。たとえば去年はコロナ環境に適合した会社「アルカ」を作って今年は利益が出るし、先月はある会社の買収に成功した。金融とは程遠い業界の顧問にもなる予定で、もはや僕にとってビジネスは金儲けより好奇心の充足である。面白いと思わないと儲かってもやらない。だってそんなものに憂き身をやつすのはカネに隷属するということで人生の空費以外の何物でもない。若者は「面白いこと」に時間を使いなさい。そしてそれを極めなさい。仮にそれで食えず、やむなく一時の隷属生活になってもめげないことだ。そうしていれば、極めてない周囲より評価される日が来る。そこでまたそれを極めなさい。これが成功のスパイラルになる。

面白いと思う事柄は年齢と共に変わっていくが、そこに節操なんてものはかけらもない。持つ気もない。心の移ろいというのは自然の摂理だと思っている。自然に逆らってもいいことはない。「不動心」とか「軸がぶれない」なんてのは、変化する能力も勇気もない者があみだした念仏である。そんなもので戦争には勝てないし、なによりダサい。人間その時々にやりたい事をやれば集中力もパフォーマンスも上がるのであって、業績もお金も自然についてくる。だからそれに徹するのが幸福な人生であり、やりたくもないくだらない仕事に時間を使うのは奴隷である。英語でドンキー・ワーク(ロバの仕事)というものをくだらないと思うかどうかはあなたのセンスとポリシーによる。僕は絶対に奴隷にはならない。なぜならみっともないし格好悪い。格好悪いのは耐えられない性格だからだ。

女性読者は30~40%だったのが45%に増えている。これもとても誇らしい。男は何才になっても女性にもてたいのである。僕は先祖が九州と能登で陽と陰、動と静、アバウトさと緻密さ、気まぐれと集中、飽きっぽさとねばり強さが同居した珍しい人間だ。「南国君」と「北国君」のどっちでもある。でも自分でどっちが好きかというと北国君であって、実は僕の内なる南国君も彼には一目置いている。おカネを増やしたのは南国君なのに北国君はあまり評価しない。困ったのは若いころだ、女性とデートすると優位に立つ北国君が出てくるが話題がさっぱりないのである。で、すぐふられる。ぜんぜんもてない。それはもはやトラウマになっている。

しかしである。なんということだ。実はブログ執筆は、もてない北国君がもっぱら引き受けているのである。彼を女性が45%も支持して下さっているとは天変地異の予兆でないことを祈るばかりである。そうなるとできれば80%ぐらいにしたいと欲も出るが、北国君にそういう才覚はない。なぜなら、彼は昔も今も変わりがなく、何がうけてるかさっぱり見当もつかないからだ。

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東大生が注目する就職企業ランキングに驚く

2021 APR 3 11:11:35 am by 東 賢太郎

【東大生が注目する就職企業ランキング1位は?–2位アクセンチュア、3位ソニー】

オープンワークは3月23日、「就活生が選ぶ、就職注目企業ランキング(大学別編)」を運営する就職・転職のためのジョブマーケット・プラットフォーム「OpenWork」で発表した。

同サービス内で22卒の学生ユーザーが検索した企業を集計したもの。今回は、東京大学2,656名、京都大学1,762名、早稲田大学5,272名、慶應義塾大学4,453名、MARCH(明治大学・青山学院大学・立教大学・中央大学・法政大学)1万2,450名を対象にそれぞれランキングにした。

(以上、2021/03/23付のマイナビニュースをコピペ)

 

「検索数多い」=「就職注目企業」かどうかは知らないが今どきの世の中だからそうと仮定するなら、野村総研の1位はともかく野村證券の東大5位というのは信じ難い。驚異だ。僕の頃、野村證券は早慶が各々3,40人の会社で東大の同期は5人しかいなかった(1人はすぐやめた)。狭き門ではない、証券はいまの言葉ならブラックのイメージがあって(現に入るとそうだったが)非常に、極めて、東大生には人気がなかったのだ。「銀行から証券への時代になる」と口では言っていたが言ってるそばから信じてなかったし、駒場時代のクラスでも金融に行くとなるとほとんどが安全第一で世間体も良い銀行にという時代である。かくいう僕も銀行員の親父にそう説かれて羽交い絞めされかかっていた。それが今や銀行は20位に入ってもいない。おそらく本筋の官僚志望にもその傾向が出ていると思料する(とするなら、政治に起因する国家の質を揺るがす問題の可能性がある)。なぜなら官僚の母体である法学部の人気に異変が起きている。2019年の入試で開闢以来初めて文Ⅰ(法学部)と文Ⅱ(経済)で合格最高点も最低点も文Ⅱが上だったと聞いて仰天したが、そんなことは当時あり得ない。この事実は東大生の方が「変質」していると解釈する余地がある証左だろう。

本ブログは東大生がかなり読んでくれているそうなので、以下先輩の親心で書いておく。大事なメッセージはというと就職は人気で決めるなよに尽きる。君ら株なんかやったことないだろうが、経済現象を理解するに株ほどいい教材はないし、そんな経験すらないのがいっぱしに経済を語ってコンサルですなんていわれてもね、僕なら5秒で坊やおとといおいでになるね。学校で教えないことが実は一番大事でしたというのが日本の悲劇の根源なのよ。騙されたと思って小遣いで好きな銘柄を買ってごらん。ランダムではなくちゃんと理由を考えてね。誰もが「いいね」「安心感あるね」「時流だね」という銘柄は見事にすっ高値だという確率が高いことをやがて悟るだろう。むしろショート(空売り)した方がいいと。就職もまったくもって、そうなわけだ。これは会社の問題ではなく、より重要な意味で、「株価」(valuationという概念での株価)の問題なのだと書いてわかるだろうか。例えば “超優良企業” が株価1000円なら「買い」でも、2000円なら「売り」になる。これが相場というものだ。その間に会社は何も変わってないのにである。相場においては会社でなくvalueを買っている。これが腑に落ちない人は民間への就職はやめておいた方が無難だよ。value、valuationとは何か?こんなのはその辺の本にいくらも書いてあるから説明は省く。

しかし普通の人は(東大生でも)そんなことすら知らない。ウブでオボコいとしかいいようもない。政府はもっと知らない。だからニーサをやれば国民の株式保有が進むと思ってる。自分が株を持ってもいない役人の考えることだ、あまりの能天気に笑うしかないが、株がこんなに上がると株保有の有無で国民のディバイドが歴然としてしまうから笑える問題ではない。簡単に書けば、みんなが良いと思えば当たり前の需給関係の結末で相場は上がるわけだ。しかし相場という概念が脳にインプットされてないからそれを見てますます確信をこめて2000円でも高い”超優良企業” 株を3000円で買う人がいる。驚くべき現象と表現するしか僕にはすべがない。我が国の就職戦線はそうやって動いている。人気があるから?そういう100%イロジカルかつ非本質的な情報で大事なことを決めるのはインテリジェンスがない人間だけだ(はっきりいえばバカ)。僕はいたるところでそう書いたり言ったりしてきた。でもね、それで気がついたんだが人間ハタチにもなっちゃうと知らず知らず自分の思考回路が確立していて、そこからはみ出した意見は理解はしても取り入れなくなる。頭がいいとかえって間違って固まるからもう始末に負えない。教えても無駄なのだ。勉強は大秀才だったのにそういう人は驚くほどたくさんいるよ、昔の超優良企業にね。

株を買うとは株主になることだ。就職するとは社員になることだ。株主になっていい事がない会社に人生預けるか?株は損切りできるが人生はできないよ。つまり、10年後には株価が10倍ぐらいになってるだろうと思う会社に入りなさいということだ。10年前のGAFA、Teslaがまさにそうだ、実感としてわかるでしょ。もっと言えば、その会社の成長の原動力を学んで盗んで、自分で会社作って儲けなさい。そのぐらいの気概じゃないと中国人にいい所をぜんぶ持っていかれるぞ。中国の学生トップレベルの受験戦争は日本の比じゃない。北京大、清華大に入れないセカンドランクの高校生がハーバード、スタンフォードに行ってる(日本と逆だ)。米中対立でアメリカ留学できなくなったからそれがどんどん日本に来てる。親はみんな富裕層で、カネを持ったら次は教育であり、マンションをぽんと買ってやる。高田馬場に10ぐらいVIP中国人用の受験予備校があって大盛況だ。昼は数学やって夜は日本語をやる(我々の英語に相当、ハンディじゃない)。猛勉強してすでに東大に何人も合格してる。院や留学生じゃないよ、我々とおんなじ入試で正面突破だよ、中国語で受けられるからな、ちょろいと思ってるんじゃないか。

君たちが30ぐらいになるころ、断言するが、日本国内ですら最強のライバルは中国人エリートになる。当然だ。あと7,8年で中国はGDPでアメリカを抜く。その世の中でそうならない理由などあるはずがない。そこで彼らは英語、日本語、中国語の完璧なトリリンガルなのである。需要がないはずがない。アジアで日本人だけが優秀なんて思ったら大間違いである、英語、中国語はおろか日本語の読み書きもまともにできない日本人なんて需要はまったくない。だから僕はこれから日本在住の30代の中国人たちと戦略的業務提携をすることに決めた。そしてもっと若い中国人エリートをどんどん高給でスカウトする。つまり、すでに彼らは君たちのライバルなのだ。株価の予測なんて習ってないしできない?ジョークだろ、それはとてもまずい。僕の周囲にいる中国の若者にそんな子は一人もいない。株式に対する興味は凄まじく、日本の難関大学卒で日本語は敬語を完璧に使いこなすレベルであり、ビジネスは僕の門下にいる。ゼミみたいなもんだが題材は実際に金が動く投資であり億円単位の企業買収である。「君は僕が30の時より優秀だ」と言っているY君は親御さんがスコットランドにお城を持ってるが、彼はそんなのなんとも思ってない(ここが日本の金持ちのボンと決定的に違うのよ)。40のころ彼の資産は1000億円にはなってるだろう。

そもそも君らはハタチにもなって失敗を知らないうえに世間でとーだいせーってちやほやされて、ものすごくそういうことにオボコいのだ。だからそのノリで就職して世間に出て社内の手練れのワル(どこでもいっぱいいる自分だけかわいい狼みたいな奴らだ)にひっかかるといいように手足にこき使われてしまう。受験で鍛えてるから仕事早いし正確だし徹夜する耐久力もあるし、なによりド真面目だ。学力の著しく劣る国会議員のアンチョコ書かされて貴重な時間を空費する官僚の諸君など本当に気の毒でならない。そこまでしても人間は可愛くなければ往々にして使い捨てにされて終わる運命にあるのは昨今の某省の事例でお気づきだろう。東大卒はプライド高いし一般にあんまり可愛くない。下手すると他大卒からいじめにもあう。だから賢い者は戦略的忖度という策に走る。それは方便として間違っていない。ところがそれが諸刃の剣で、バカが上に来て下手に迎合でもすると想定外である便利屋の評価が固まってしまう。そうするとそのまんまトシとってスーパー総務課長代理みたいになって人生を終わるなんてこれまた気の毒な運命になる。企業は東大生を一応は幹部候補生として採るわけだが、うまく育たずハズレになっても構わない。仕事はリライアブルでステイブルで給料は安い中間管理職の存在はありがたいからである(役員が楽できるからだ)。それも見込んで一定数は必ず採用する構図が出来上がっている。別に頭がいいからではない。つまり実はそうなっちゃう人が多いということの裏返しでもあり、出れば安泰なんて時代は僕の頃ですらとっくに終わっていた。

東大卒の肩書は爺ちゃん婆ちゃんが鼻が高いと喜んでくれる程度のもんで何の足しにもならん。世の中は甘くないと心得ろ。ハズレになりたくなかったら三国志を熟読することをお薦めする。古今東西共通、人類永遠普遍の「修羅場の原理」が書いてあるよ。君たちのアンチテーゼの元東大生による本ブログは人生をかけて書いてきて2500タイトルぐらいにはなった。東西の証券ビジネス最前線で40年戦ってきた思考のエッセンスだ、くだらない本に2000円も払うよりはましと思うよ。ところで、検索数5位の野村證券だが、ニューヨークでヤクザな韓国人が運用してるファミリーオフィスでマージンコールがひっかかって2200億円の損失計上するらしい。ゴールドマンら米系はうまく逃げた。記事の情報しか知らないが、アルケゴス・キャピタル・マネジメントのこいつは昔タイガー・マネジメントにいて大博打を貼るので有名な手練れの男だ。所詮は証券業はヤクザな商売なんだ、アホなヤクザはケツの毛までむしられるだけだよ(こういう手合いは手数料はくれるが危ないから僕は絶対に商売しない)。しかしまあ野村ともあろうものがプライムブローカーなんてフェイクで安直な金融業もどきでこんな奴のクレジットとるとはなあ、いい会社というかずいぶんオボコい普通の会社になったもんだのう。勘違いの東大卒だらけになって沈没しないといいが。

 

情報と諜報の区別を知らない日本人

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印度カリー子さんと神保町の深い関係

2021 MAR 29 1:01:55 am by 東 賢太郎

ユーチューバーである印度カリー子さんの番組はとても人気らしく、娘がそれを見て作ったチキンカレーはなかなかだ。市販のルーではこういう味は出ないし、それをカレーと思って生きてきた世代からするといろいろ感慨深いことがある。

(1)キッチン南海

インド料理店というと今はそこかしこにあって不自由しないが、昭和40年辺りに家庭にない味のカレーとなると新宿の中村屋と神保町のキッチン南海の2つだった。南海は洋食屋だがカツカレーの元祖であり、においにつられていつもそれになってしまうから他のメニューは食ったことがない。神保町のすずらん通りは一橋中学の目と鼻の先でいつも好奇心で横目に眺めていたのが懐かしい。なにせ校則が厳しいので有名な学校で、制服で学校の目を盗んで入る勇気はなかったからあのなみなみと盛られた黒っぽい名品にはまって通ったのは後の駿台時代のことである。どうしても解けない数学の問題を考えながら、このスパイスはなにやら頭が冴えるなあ試験直前に食いたいものだと思った。コロナのせいかどうか、昨年に閉店と聞き驚いたが再開の報にほっとしている。

(2)新宿中村屋

新宿中村屋のほうはと調べると1901年創業の老舗で高野フルーツパーラーのとなりだ。どっちで食べたのか、子供心にチョコレートパフェやフルーツポンチの方が大事でありカレーはというと南海の病みつきになるインパクトに比べるならあんまり際立った印象はなかったように思う。ただ、ここでは「カリー」というのか、なんか変だなとは思った記憶がある。その疑問が解けたのは河出文庫の「インドカレー伝」を紐解いてのことだ。著者リジー・コリンガムによるとこの食べ物は18世紀あたりの東インド会社の現地駐在員だった英国人たちが香辛料のきいたベンガル料理の美味を忘れられず、インド人コックを連れ帰って作らせたことでロンドンで広まったものだ。だからインドにカレーという料理はなく、実はれっきとした「英国メシ」である。語源はポルトガル人が香辛料を呼んだカリル(Karil)であり、それが英語化してCurryになった(同書183ページ参照)。英国の発音はカァリィである。したがって、日本語のカタカナという極めてアバウトな表記法においては「カリー」が最も近似的だと結論されてしかるべきである(カリー子さんは正しくコリンガムの本の標題は失格ということになるが、日本ではカレーなのだから方便だ。ビートホーフェンじゃ誰もわからないからベートーベンになるのとおんなじ。ベンかヴェンかは目くそ鼻くそ。本稿もそれでいく)。中村屋は銀のソースポットで麗々しく供するのが当時はいかにもそれっぽくステキで、英国メシのルーツを正しく体現していたと評することができるがその割にライスは白米である。英国人はソーホーでこんな食い方はしない。印度式を和の食文化に同化させたはしりと言うのが正しい評価だろう。ほかにも、ハンバーグ、グラタン、ナポリターノなどの洋食メニューがあって、南海が洋食屋である源流のようなものでもあるかもしれない。クリームパン、中華まんじゅう、月餅までがメインストリームの売れ筋であって、そこまでくると戦前の輸入食材のごった煮の観がなきにしもあらずであり、親はファンだったが僕としてはカリーの本格感にやや不満があった。

(3)アジャンタ

こんなものだったらしい、覚えてないが

そこでいよいよ本場物となると、老舗中の老舗アジャンタの登場だ。創業は昭和29年。今は麹町にあるが以前は九段下にあって母校のすぐ近くだった。外観は高校生には敷居が高く、なにやら異国感があって謎めいた存在だった。いまだインドに行ったことはないが、九段にはインド大使館があったしここに連れていかれて恐る恐る味わったのが初のホンモノだったのだろう。その料理とお味だけは鮮烈に覚えているが、相手が誰だったかは申しわけないが忘れてしまった。「チキンカレー」と注文して何が来るかと思ったら骨付きが真ん中にごろんとあって、カレーは黄色くてやけにスープっぽい。なんだこれはと思ったが、口に含むと味も辛さも衝撃のうまさだった。たしか千円ぐらいで高くて二度と行けなかったが、それから半世紀たって九段から移転した麹町本店へ行ってみた。まだこんなに覚えているんだからと期待値が高すぎたんだろう、あの衝撃はもう訪れなかったが充分に一級品のお味ではあった。

(4)神田神保町

僕が大学の頃の神保町

外食のカレー文化はちょっと取りすました九段からすぐお隣のごちゃごちゃした神保町へ伝播していく。すると一気に庶民派の日本食になってしまうのだから実に面白い。神保町については以前も書いたが僕の庭であり心の故郷でもある。この地に満ちている内外文化のぎりぎり下品に陥らない「ちゃんぽんな感じ」は他所に類がない。それはあそこが200件近い古書店の街だからであり、それも古本屋でなく古書店であるという凛としたたたずまいがそうさせていると思われる。東洋系、西洋系、理系、文系の多様なジャンルに各店ごとの個性があって、学者が店主というわけでもなさそうなのに大変にアカデミックだ。後に諸国の大都市はほとんどめぐったが、ああいう街は世界のどこにもない。明治以来の外国の文物への渇望が渦巻くようで、それが役人や学者だけでなく庶民レベルでのことだから商売が成り立って古書店街が形成されたわけである。日本ってすごい国でしょ。外人を案内すると必ずここに連れてきたものだが、みんな納得してくれた。

神保町交差点からすぐの、今は新世界菜館が建っているあたりに洋書店があって、そこで春の祭典と火の鳥の指揮者サイズの管弦楽スコアを買った。ホンモノを手にした感動の瞬間である。高校生にとってなんて知的刺激に満ちた街だったんだろう。中・高とここのちゃんぽん文化にどっぷりつかって育ったので、野球に明け暮れて勉強はお留守だったが精神だけは乗り遅れないですんだ。そればかりか西洋は遠い所という感じがなくなっていたと思われ、それが後に海外勤務になる無意識の端緒だったのだろうかと思わないでもない。そう考えるようになったのはつい先日のことで、「行きたかったわけではないよ」と子供にいうと家内に「ちがうでしょ。だって留学したいから野村に行くって言ってたわよ」と直撃を食らったからだ。なに?そんなの記憶にございませんよ(株が好きだったからと思ってる)。言った言わないは家内に負ける。欧米に強烈に憧れちまったのは確かだ、そういうのもあったかもしれない。そうだとすると入社の動機はやや修正が迫られるから一大事だ。人生航路まで決めていたとなると神保町の影響力は破格で、「くびき」とでも呼ぶしかない。

(5)石丸電気

神保町のくびき。実に根深く強い。三つ子の魂なんてもんではない。今でもあのあたりを歩くと古書店が知の殿堂に見えてくる。僕には東大やペンシルベニア大の図書館よりそう見えるのである。そして三省堂から神田方面に10分も歩くと秋葉原で、そこには今はなきクラシック音楽の殿堂、石丸電気が鎮座していた。2号館の隣りのビルはいつも正露丸の匂いがぷ~んとたちこめており、もとより終戦後のバッタ屋街だったアキバなる場所柄からしてクラシック音楽にふさわしいとはお世辞にも思えないのであるが、でも、そうなのだ。それって、まるで神保町がカレー激戦区になったみたいなもんではないか。古書店街は輸入洋書のメッカでもある。火の鳥のスコアも洋書だ。ということは、プラットホームの神保町とコンテンツであるストラヴィンスキーのイメージがかけ離れていても問題ないのだ。アキバの電気屋がスピーカーやアンプを扱うのは自然で、ハード売り場にソフトがくっつくのもこれまた自然であり、しかもそこには膨大な数の輸入盤が並んでいた。石丸で買ったのはほとんどがそっちだったが、値段や音のこともあったがその辺の深層心理が働いたのかもしれない。国内盤の帯に「カラヤン入魂の第九」やら「フランスのエスプリ、クリュイタンス」なんてくさい言葉が躍るのがいかにもチープで、俺は中村屋でも南海でもない、アジャンタ派だぜというもんでせっせと輸入レコード、CD、レーザーディスクを買い集め、家に石丸の売り場みたいな部屋がひとつできてしまった。それも深淵を辿ると神保町の古書店の書架のたたずまいに似ていないでもない。やはりくびきに発していたのかと恐るべしの心境である。

(6)印度カリー子さん

印度カリー子さん

その威力はいまやカレー渉猟にまで達していて、普通のでは満足しない。漢方薬みたいな正露丸の薬味が混じっていてもいいとさえ思う。印度カリー子さんはスパイス料理研究家で東大院生でもあるらしく、肥満症とスパイスの関係についての研究もしていますとネットに紹介されている。youtubeの動画を拝見すると料理は実に手際よく無駄のない合理主義者のようであり、何事もこういうタイプの人に習うのが近道である。ヒマになったら弟子になってスパイス研究してみたいなと思わせるものがある。

(7)エチオピア・ビーフカリー

最近気にいってるのはエチオピア・カリーだ。エチオピアにカレーはたぶんないだろうが、たしか元はエチオピア・コーヒーのお店だったのが、出してみたら好評でそうなったときく。珈琲店がカレーに転身するのはアジャンタもそうで正統派ともいえよう。店では0辛から70辛まで選べるが、辛さが売りというよりスパイスの調合が独特で味がユニークでクセになることを評価したい。写真のビーフはまさに激辛だから苦手な人はマイルドな方をすすめる。場所は明大から三省堂へ下る途中の右側ですぐわかる。カリー子さんのご評価を伺ってみたいものだ。

 

学生街回想-いもやと鶴八の閉店-

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