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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その4)

2017 NOV 1 22:22:16 pm by 東 賢太郎

ユリアン・フォン・カーロイ(pf)/ ロベルト・へーガー / バイエルン放送交響楽団

ハンガリーのピアニスト(1914-93)の滋味あふれる名演である。得意のショパンも持っているが、このシューマンはいっそう素晴らしい。自家薬籠中の表現は詩情もコクもあり最初のソロのクララ主題提示から唸らせ、随所のルバートや間は自在に取りながらも何一つ違和感を覚えさせるものがない。これぞこの協奏曲が求めているものだということであって、オケと競奏したりなにか奇矯なことをしようというピアニストとは根本から器の差を感じる。指揮もオケのフレージングもがピアノと呼吸が合い、感情レベルの高い次元で和合している。このクラスの演奏になると録音技術の進化やピアニストのスタイルの流行り廃りで古びてしまうというなどということとは無縁だ(評点・5)。

 

マウリツィオ・ポリーニ / クラウディオ・アバド / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

89年録音。ポリーニは絶頂期にあった。このイタリア人コンビのブラームス2番は聴きごたえがあるが、同じ透明感あるタッチのピアノもここではもうひとつ心に届かない。クリアなゆえにレガートが欲しい所で粒だって聞こえ曲想の転換でfになると低音が耳につくし、アバドの指揮も模範解答の域を出ずちっとも内側から燃えてこない。技術的な水準は大変高いのにあっそうで終わってしまう。美麗な博多人形を見ているよう(評点・2)。

 

リリー・クラウス / ヴィクトル・デザルツェンス / ウィーン国立歌劇場管弦楽団

指揮もオケも誠に二級だがピアノが入ると格調が増す。ゆっくりしたテンポの冒頭はユニークで、クラウスはクララ主題など歌う部分はたっぷりとレガートで弾くが、速いパッセージやカデンツァはスタッカート気味でペダルも控えf部分は男性的でさえあるから好みを分かつだろう。自分の音楽をやっているのだが聞かせてしまうのは曲想に強い共感があるからだ。彼女のソロ録音は名品が多いがコンチェルトとなるとモーツァルトでも伴奏者に恵まれない。このシューマンも何とかならなかったのか(評点・3)。

 

ウィルヘルム・バックハウス / ギュンター・ヴァント / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

出だしの「滝」からよいしょよいしょという感じでミスタッチもあり、オーボエの音程も低い。なんだこれは、これがVPOか。しかしだんだん調子が出るとさすがバックハウスという黒光りのタッチになってきてうなる。クラリネットの第2主題あたりからはオケも悪くはないが、残念ながら拍節感を守るヴァントの指揮が何とも杓子定規だ。第2楽章もロマンに酔わせてくれない。カデンツァはあまり弾き込んだ感じはなく、もつれている。バックハウスの貴重な記録だが、どうも僕の耳にはやっつけ感を否定できない(評点・2)。

 

サンソン・フランソワ / パウル・クレツキ / フランス国立放送管弦楽団

フランソワの右脳型のピアノについていける人には面白く、オーボエもクラリネットも思いっきり「おフランス」でどこか違うでしょの空気が漂う。ピアノは第2主題で没入したと思えば一気に展開部で激してみたり。この人のテンペラメントを僕はあまり得意としないが、例の楽譜の部分の弾き方など実にユニークであって、そうでなくてはいけない必然は何ら感じないがまあそれもいいねと言わせてしまうものがある不思議なピアニストである。第2楽章のオケとのずれまくりはすごい、クレツキは大変だったろう。しかし終楽章のオケは健闘しており指揮者の力量を見せつけて満足感をくれる。それにしてもだ、バックハウスはあまり練習してないのが正直に欠点となっているがフランソワはそれって味があるねという風に薬味にしてしまう。得な人だ(評点・2.5)。

 

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その5)

 

 

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天才演奏家はもう出ない

2017 OCT 7 15:15:20 pm by 東 賢太郎

このブログに野村君がくれたコメントは大変考えさせられるものがあった。

チェコ・フィルハーモニー演奏会を聴く

欧米のクラシック界ではかつてより日本は大市場であって、減ったとはいえいまだにCDが売れている有難い国だ。野村君の看破する通り「島国根性」あり、大衆には薄れたとはいえまだ根強い「欧米への憧れ」もあり、セレブを気取りたい新興富裕層にはハワイの別荘、高級フランス料理とならぶ洋モノ必需品としてバカ高いオペラのチケットが昔の高島屋の商品券みたいな価値を有している。

僕はグローバルホールセール証券界で38年飯を食ってるから世間の諸事の本質はすべてカネで読み解くことができると英国経験論的に確信を持っている。どんな複雑怪奇な出来事も紐解けばカネであって、もしそれでもわからないことがあればイロが原因だと考えてほぼハズレはない。イロもほとんどカネで片が付くのが冷たい現実だから、ほんのおまけではあるが。

その程度のことは口だけの評論家でも多少知恵が回ればわかるだろう。しかしカネというのは自分で千億円単位を動かしてみないとわからないものなのだ。百万円単位と一億円単位では性格が違う。千億円になるとまた違う。どっちが重い軽いではない、カネは動かす単位によって「性格」があるのである。

この野村君の教えてくれたリストを僕はそういう回路で理解するのであって、実に様々なことが浮かんでくる。明らかにカネが見えてくる。面白い。

http://www.harrisonparrott.com/artist#all

カネが誘因でヒトが動き、日々のニュースとなり、その集大成が歴史と呼ばれている。ニュースの段階でイメージ2,3割、歴史になったあかつきには5割ぐらいウソがまじっているが、それをくそ真面目に学校で暗記させられているから「私はそうは思わない」という声が出ない。大ウソはばれないから、99%の人々は自分が実は自分には関係ない、自分の懐には絶対に入ってこないカネの渦に巻き込まれて人生が決まっていることに気づかないのである。

大ウソの先入観の中で生きているから人々は毎日のニュースにある小さなウソを見抜けない。「先生とお巡りさんは悪いことはしない」「大企業に入れば安泰だ」「人生お金だけじゃない」・・ほんとにそうだろうか?そうやって疑って毎日のテレビのニュースを見ていれば少し目が覚めて、「先生やテレビの言うことは正しい」が大ウソだということもわかってくるだろう。

クラシックの有名な作曲家で天才でない人はいないが、演奏家で天才はほとんどいない。天才というのは歴史上の天皇の諡号のようなもので大体が事後的に業績の評価の絶対値が定まってから与えられる称号に等しい。作曲家の評価は作品だけであって作品は死後も残るから諡号がつくが、生きていないと聴けない演奏家に諡号がつくのは例外的なのだ。

しかし、それを認めたとしても、天下の形容詞を伴ったヘルベルト・フォン・カラヤンの名が死後30年足らずでこんなに忘れられようとは思わなかった。演奏家が天才でいたいなら、彼らも録音という作品を残すべきなのだが、それでも、それにしても、当時あたうる限りの最上の音とオーケストラでそれを最も大量に残した一人であるカラヤンにしてこの有様なのだ。では演奏家の天才とは誰なんだろう?

もちろん野村君のリストにある演奏家は当代世界一流の技術を持つ名手たちだ。クラシックを楽しむならこの人たちのチケットとを買うことに異論などはさみようもない。しかしではどの人がいいのか、そこに名のない日本人にそういう人はいないのか、この人なら平均よりもっと楽しめるのかとなると別な話だ。そして、天才とはそこに名のある世界の最上級のレベルの人達の中でもさらに格段に図抜けている人のことなのだ。

皆さんこのリストにカラヤンやカルロス・クライバーやチェリビダッケが「タレント」「売り物」っぽく並んでいる光景を想像できるだろうか?

証券取引所に上場すると株式会社は俗にチップと呼ばれる。カジノでおカネ代わりに使う丸いプラスチックの札で、優良株は「青札」(ブルー・チップ、blue chip)、香港上場の中国株はレッド・チップなどと呼ぶ。ポテトチップもchipである。企業の個性はいろいろでも上場したら規格製品であることは証券取引の法制面では重要だが何とも安っぽい印象をもたらすのも事実だ。リストは音楽家がチップ化した印象を僕に与えるのである。

こうなるとそこで誰かを選別して答えを探すことに僕はあんまり情熱を持ちえない。AKBの女の子の誰と握手したいですかという問いとかわらない。演奏家は生身の人間だ。好不調もあろう、まあここにいる人はうまいんだろうから誰でもいいんじゃないと思考停止する。僕は神だったピエール・ブーレーズがニューヨーク・フィルを率いて日本でやった春の祭典を聴いて、なんてことないフツーの演奏で幻滅した経験がある。いやあれは猿も木から落ちるであって何かの間違いだろうとフランクフルトでロンドン響のをまた聴いたが、やっぱりフツーだった。

ということは彼のレコードの方が特別なのであって、録音技師やミキサーらの合作効果だったと思うしかない。後のDGとの同曲録音はこれまた見事にフツーなのだから、あの奇跡のような69年のCBS盤は録った時点でのあらゆる要素がうまくかみ合った録音作品なのだ。高倉健がマンションとベンツを売って凍傷にまでなって撮った映画「八甲田山」みたいな一期一会の「作品」だったと評価したほうがいいのだろう。ブーレーズは天才であり続ける稀有な演奏家になれたかもしれない。

ところがネット社会化が進み音楽は「コンテンツ」となってばらまかれる世の中だ。春の祭典など無料で何十種類もyoutubeで聴けてしまう。そこにスタジオでコストをかけてもう1種の祭典を市場に放ったとしてどれだけの収益が望めるだろう?おカネで見るとはそういうことであり、それならyoutubeでコンサートを無料公開するかライブを安価にCDにして広く買ってもらい、次のコンサートに来て高いプログラムやグッズも買ってくださいというビジネスモデルになる。欧米はもう何年も前からそれが常識だ。

そういうおカネ環境の中だから、録音機会が減ったばかりか、あってもライブの一発取りばかりでスタジオ録音が激減している。俳優のブロマイドが消えてスナップ写真ばかりなったわけで、自撮りに毛が生えたような写真だけ残してレジェンドになれといわれるようのなものであって、現代のクラシック界で演奏家が天才として歴史に名を刻むのは至難なのだ。どんな名演をしてもライブの一発芸で消え去るなら会場にいたせいぜい2千人の聴衆の記憶に残る以上の拡散はない。その程度の拡散がネットの拡散に勝利する蓋然性は残念ながらほぼゼロであり、チケットをタダでもらったお兄ちゃんが「つまんね~」と書きこんだツイッターひとつで名演が葬られる危険だってある。

ネットが音楽家の録音機会を奪い、天才になる機会まで奪う。そんな時代におカネとリスクをかけて音楽家になろうという若者が続くのだろうか。先日、ある弦楽器屋の店員さんと話したら「音大の子の就職先がなくってね、困ったもんです」と嘆いていた。「だってオケの求人なんてほとんどないんです。定年まで辞めないし、定年になっても知った人をエキストラで使うんで」だそうだ。今は作曲家も演奏家もちゃらいゲーム音楽が食い扶持だそうで、「ベートーベンを真面目にやっても食えませんねえ、天才は別ですが」だった。

しかし、天才だって天才になるのが難しい時代なのだ。

 

クラシック徒然草-音楽のマクドナルド化-

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はんなり、まったり京都-泉涌寺編-

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クラシック徒然草《癒しのピアニスト、ケイト・リウに期待する》

2017 SEP 21 0:00:00 am by 東 賢太郎

癒しというと芸術家に失礼なニュアンスがあろうが、この人のピアノにはそれを感じるから仕方ない。このインタビューで語っているが、子供のころリストやラフマニノフをばりばり弾くのに夢中だったが、音楽が好きになってテクニックじゃないことに気がついた。音楽のソウルを感じ取るのが先だと。まったく同感だ。短調にかわるフレーズで彼女が音楽を止め、感じきっているもの、それだ。それは僕もソウルで感じているもので、そこで彼女と交信できる、それが究極の癒しと感じるのだ。

彼女のppはとても美しい、ちょっと他の人と鮮度のクオリティが違うものだが、技術を磨いて美しく弾こうということではなくソウルが感じたままに音にするとそうなるという性質のものだ。感じとる知性があり耳が良いのだろう。和声変化のような壊れやすくデリケートなものに敏感に反応している、それが伝わるのだ。いや、それなしの演奏って何なのだろうといったほうがいいか?

表情は自分だけの世界に入ってしまっている。それは感じたものがドミナントになって彼女を支配している姿であり、作曲家が音楽にこめたソウルと交信している瞬間だ。その瞬間を聴き手が共有することで聴き手も作曲家と交信できるのだ。そういうのが良い演奏だと僕は思っている。ショパンは苦手だが、この子の演奏なら何時間でも聴いていたいと思う、というより、ショパンと交信させてくれるピアニストがあまりいないから苦手になっているとさえ思う。

知性と書いたがIQのようなものではない、上のインタビューで彼女はリスト、ラフマニノフを「flashy pieces」と言っているがまず第一にそういうもの(「ケバい」という侮蔑的な感じだ)であり、第二にソウルを感じきって楽興の時に浸っている自分を知って、それを客観視して自分なりの言葉でしっかり表現できる力だ。インタビューを見ればわかる。音楽演奏はプレゼンテーションであり、音は言葉にできないがそれをしている自分のことは語れるのである。知性なき人にはできないし、できるならばいくら緊張しても飲まれるということはない。

前回のショパンコンクールのファイナリストの本選演奏は全部きいた。ジャッジ東は、ここに書いたが、彼女が一位である。

ショパン・コンクール勝手流評価

本選の第1協奏曲もその前の第3ソナタも、第1楽章の第2主題が白眉だ。減速するが全くわざとらしさがなく、そのテンポこそ彼女のオハコだから頗る説得力がある。マズルカと同様に悲しさや憧れが滲み出ており、これぞショパンだ。そして速い部分はばりばり弾いてた子供のころの腕前が発揮され、しかしflashyにはならない大人の知性が働いて、僕のようなうるさいオヤジにも納得感を与えてくれる。オケがまったくひどいが、一流の指揮者と凄い名演をいずれやるだろう。

ショパンだけかというとそうではない。僕のうるさいオヤジモードが倍加するモーリス・ラヴェル「夜のガスパール」のオンディーヌだ。

これが16歳となると将棋の藤井4段なみだ。テクニック(これも凄いが)じゃない、ソウルが完全にはいってるのだから。ちょっと指がもつれるがそこの和声(ダフニスってわかってるかな?)も感じてる。こういうのは先生に習う領域のものではない、それは「正しい文法が大事」と習って杓子定規になる三人称単数のSにうるさい日本人の英語とおんなじ。自分の言葉ではないからハートが伝わらない。正しいのがうまい英語とする英語の先生のための英語教育みたいな音楽教育は脱却しないといけない。

中国人、韓国人、ベトナム人が取っているショパンコンクール1位を日本人が取れないというのは何が原因なのだろう?僕の印象だが、これはピアノだけの話ではないと思う。世界大学ランキングをご覧になると、今年はなんと東大が過去最低の46位、京大74位で凋落傾向、かたやシンガポール大が22位、北京大学が27位、北京清華大学が30位、香港大学でも40位とアジア勢が急上昇だ。東大を東京芸大に置き換えればピアノの話になる、つまり同根の現象なのではないだろうか?

大学ランキングは英語圏のコンセプトで作った手前みそ評価だという声もあるが、その英語圏文明をいち早く吸収してアジアで唯一英語圏で優等生だったから日本国の繁栄があったのである。それが誇れることか良いことかが問題ではなく、その地位をアジア諸国にどんどん奪われている相対的地盤沈下こそが問題なのだ。それを直視しないのは敵に囲まれたダチョウが砂に頭を突っ込んで敵を見ないようにするようなものだ。

僕はケイト・リウさんが何国人であろうと、彼女が日本を好きであろうと嫌いであろうと100%何の関係もない(ちなみにシンガポール生まれでエスニックには中国系の米国人だ)。彼女と尖閣問題がクロスすることはないし音楽に国境はないというお仕着せの言葉の信者でもない。彼女の紡ぎだす美しいピアノの音色と、音楽に全身全霊をささげる姿勢が気に入ったまでで、どこに生まれようとどんなジャンルであろうと才能を神に与えられた人には等しく関心がある、それだけだ。

彼女は性格も明るそうだし、何よりもピアノを親にやらされました感がまったくない。ここが僕として最も共感できるところなのだ。この若さで好きなことを好きなだけやれば伸びしろは無限だ、本当に楽しみな人である。手前みそだがフィラデルフィアのカーチス音楽院というのがまたいいね、日本の心ある若手アーティストは海外赴任は嫌だという商社マンみたいにだけはならないでほしい。どんどん海外へ出て勉強し、オペラもシンフォニーもたくさん聴いて、音楽浸りになって本物を身につけてほしいと心から願う。

 

 

シューマン「子供の情景」(カール・フリードベルグの演奏哲学)

 

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ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(2)

2017 SEP 20 1:01:04 am by 東 賢太郎

ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1949年12月18日、ベルリン、ティタニアパラストにおけるEMIのライヴ録音。モットーのもっさりして音程の甘い入りから集中力がない。テンポは変幻自在やり放題でオケが懸命に棒について行っているのがわかる。展開部終結のホルン以下は最徐行となり再現部終盤で加速しまくりアンサンブルは乱れる。これをファンは変幻自在の妙と前向きに評価するのだろうが1番で見事に活きたその手は3番では構造的にワークしない。第2楽章の木管の音程、これは信者であるか骨董品収集家でもないと耐えられないだろう。終楽章最初の異様なテンポの遅さからアレグロでスコアにないティンパニを付加して大爆発、申し訳ないがチープだ。おそらく彼の気質から腕を振るう盛り上げ処がスコアにないと思ったのだろう。(総合点:1)。

 

ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

上記盤の後、1954年(死の年)の4月27日に同じ場所で録音。演奏は同工異曲で両端楽章をものものしく劇的にやりたい。彼流儀のブラームスのコンセプトは1番、4番でプラスに、2,3番でマイナスに出ている。彼はシューマンのラインを賢明にも振っていない。3番もやめておくべきだったがきっと魂に響く物がスコアにあって、必然的にそこのデフォルメになってしまうからこうなる。EMI盤より慎重であり音程はまし。第3楽章の歌はフレージングの細やかな呼吸と強弱が見事で、さすが女にもてた男である。終楽章で醜怪なティンパニの付加をやめたのは誠に賢明だがテンポの変化はいまだ勝手であり、再現部の前稿楽譜6の裏のホルンが鳴っていないなどとても評価できない。そもそもグランドデザインは何ら変わっていない。(総合点:1.5)。

 

レナード・バーンスタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

彼の教養は図抜けており20世紀の専業指揮者で作曲がまともにできたのはマーラー、ブーレーズと三人だけだ。演奏がテクニックだけでよいはずがない。第1主題伴奏のシンコペーションをビデオでの「解説通り」鳴らしているように彼の特徴は微視的な観察によるミクロの積み上げて耳は完全に作曲家だ。第1楽章はテンポ観に賛同できない(遅すぎ)が第2楽章はVPOの木管の第3楽章は弦の勝利、最高に美しい。終楽章はいい、終章への持っていき方が納得だ。短い交響曲であり4楽章個々の長さもバランスしている3番の造形は全体の構造と作曲の背景を俯瞰していないとうまくいかない。3番は教養と愛を問う。(総合点:4.5)

 

エヴゲ二・ムラヴィンスキー / レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

重戦車の走り出したような第1主題だがはミクロの造形に目が行っていることはヴァイオリンにスタッカートが入ることでわかる。終始辛口で硬派であり中間楽章も甘ったるさとは無縁、第3楽章のロシア丸出しのホルンソロは異質だがLPOの技術の高さはわかる。終楽章の出のテンポはこれだ。ff の爆発は僕の許容の限界に達するがそこに殊更の力点を置くわけでなくダイナミクスの脈動の範囲と我慢できないことはない。録音はffがやや混濁気味。総じて解釈は理性的でコンセプトとしてバランスがいい。(総合点:3)

 

アルトゥーロ・トスカニーニ  /  NBC交響楽団

1952年11月4日、 カーネギーホール録音で音はあまりよくない。第1主題を小節ごとに区切って個々のバスを強調する!ここの和声の意匠の真相を見抜いていない者にスコアにないその解釈は出ないだろう。後続のパッセージでふっと力を抜いてフェイントをかけ脱力していく準備を周到にしながらテンポを落として第2主題に至る間合いは見事。そこの割り切れない和声の混沌とした心情はまさにこれだ。展開部への移行でほんの気づかない程度の減速、理想的な管弦のバランス、再現部の第2主題の出現前の第1ヴァイオリンの歌の絶妙な切なさ。この第1楽章はベストのひとつ、こうべを垂れる。第2楽章のチェロの涙を浮かべた心の綾、第3楽章のヴィオラ、ホルン!カンタービレ、歌、歌、歌。ここにボエームを振っているトスカニーニがまざまざと重なってくる。彼は中間2楽章にそういうものを見たわけで、ここは男が人生でどんなロマンスを経験してきたが如実に出てしまうのだ。そういう引力のある音楽でありそれに重点を置きたくなる指揮者はいくらもいるが、ほとんどは両端楽章がそれに引きずられて崩れていき、こっちは何を聞いたのかわからなくなってしまう。トスカニーニはそんなことはまったく無縁で、4つの楽章がきりりと隈取りされ全曲の調和が珠玉のように保たれている。終楽章は金管がうるさく第2主題のチェロがやや薄いなどNBCと思われぬ瑕疵があってレベルが落ちるが、これだけ「わかってる」指揮者と時を共にするのに何の支障があろう。指揮が感じていないのにオケが馬なりに勝手にやりましたということはあり得ない至芸の連続であって、トスカニーニの読譜力が超人的であった何よりの証左だ。それがわかるプレーヤーの集団だったから専制君主制が成り立ち、NBCは全米トップのオーケストラに君臨したのだ。(総合点:4.5)

ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(3)

 

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ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(1)

2017 SEP 17 15:15:01 pm by 東 賢太郎

第2番と同じことを3番で。お断りすると僕にとってLP、CDの演奏は前稿に詳細に述べた「自分がスコアから読んだ3番」という偶像をレファレンスとした比較であって、それ以上でも以下でもないのも2番と同じだ。皆様のご愛好する盤で意見が異なるなら、それは偶像を共有していないということになる。次回に書くが、1番で激賞したフルトヴェングラー盤への評価など同じ人間の文章かと思う方もおられようが、フルトヴェングラーも僕も大真面目にやっている同じ人である。違うのは1番と3番という音楽がもっているものの方なのだ。

 

エール・モントゥー / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

モントゥーが最も敬愛した作曲はブラームスで死の床でドイツ・レクイエムのスコアを胸に抱えていたそうだ。これを聴くと彼が正規録音を2番しか残さなかったのは痛恨の損失と思う。第1楽章は理想的なテンポで感情の起伏も彫りが深い。第2,3楽章はやや速めだが後者の情緒纏綿たるロマンの綾は感動的だ。終楽章は弱音で出だしのテンポを抑えるが主部はまさにこれ。要所のティンパニのffが決まっている。ACOも良く鳴っており3番を熟知した棒は真打ちの名に値する。コーダも粘らない、これでこそスコアが生きる。感服。本質をぎゅっとつかむ解釈は彼のダフニスとクロエの読みに通じるものがある。(総合点 : 4.5)

 

ミヒャエル・ギーレン / 南西ドイツ放送交響楽団

93年5月にフランクフルトで聴いたこのコンビの3番は忘れえぬ至福の時でブラームスをドイツでドイツのオケで聴くのは感涙ものだった。インテンポで無表情のようだがオケの音程が良好で和声の透明感、アンサンブルの精度が素晴らしい(対位法処理!)。第3楽章の弦は実演で美しかったがCDでも良い。管楽器が時に強奏される硬派の両端楽章が筋肉質の中間楽章のロマンを包むアプローチは適正に思う。アルテ・オーパーで名演に拍手が鳴りやまず第3楽章をくり返したのが印象に残っている(総合点 : 4)

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

冒頭、誠に構えの大きい第1主題は雄大なライン川を彷彿させ第2主題は繊細な悲しみを湛える。クレンペラーの音楽歴はフランクフルトと縁が深く、僕が住んだケーニヒシュタインのサナトリウムで療養していたこともある。1924ー27年にヴィースバーデン歌劇場の音楽総監督を務めたが、あの地で3年居住してシューマンのラインとの近親性に感じるものがあったのではないかと思ってしまう名演である。第2楽章の暗い側面にも光が当たり解釈に底知れぬ深みを感じる。木管の音程が見事なのは彼のオペラでの歌手のそれと通じる。第3楽章は弦主体ではなく木管、ホルンが明滅するグレーがかったロマンが好ましい。終楽章は立派極まる。オケの彫が深く巨魁な建造物の如き威容を見せるが随所の醍醐味は万全に押さえているという名人の至芸。最も好きな演奏のひとつ。(総合点 :5)

 

オットー・クレンペラー / フィラデルフィア管弦楽団(1962年10月27日ライブ)

こちらはPHOとのアカデミー・オブ・ミュージックでのライブ。残響が少なくマイクがオンで各セクションの合奏がステレオで良く聞こえるが恐ろしくうまい。オーマンディー時代のPHOの高性能ぶりが味わえる。クレンペラーの指揮は5年前録音の上記正規盤のコンセプトと同一だが、その解釈がいかに緻密で微細なフレージングの呼吸まで整えた結果か奥義が伺えて興味深い。彼の解釈はライブだろうが他流試合だろうが揺るぎない(少なくとも3番においては)ことが証明されている。僕はこれを愛好している。(総合点 :4.5)

 

クルト・ザンデルリンク / ドレスデン・シュターツカペレ

東ドイツ人による3番である。第1楽章は遅い。ラインとの近親性とはかけ離れた読みだ。このテンポでは第2主題の仄かなロマンも対比として引き立たず平板になってしまう。第2楽章の木管は美しいが暗さに欠ける。第3楽章のしっとりした弦の味わいはさすがDSKであるが木管の歌が律儀だが四角四面だ。美しいが情念や彫の深さがない。終楽章はティンパニがまるで弱い。総じて、録音のせいとは言い切れずどうしてこういうスコアの読みになるのだろうという疑問に終始だ。ザンデルリンクとは3番ではまったく意見が合わないということでどうしようもない。(総合点 :1)

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

冒頭の2和音からずっとレガートだ。これは違う。第2主題の p のもひたすら耽美的方向に向かう。R・シュトラウス演奏なら完璧だが彼は3番にアルプス交響曲ほどのものしか読み取っていないということだ。まったく同じ路線でやったシューマン3番がひどいものであるのと軌を一にする。見事に弾かれた美麗な演奏だが何の滋味も醍醐味も感じない。こういうのを英語でbimbo(美人だが頭が空っぽの女)という。第3楽章は独立してムード音楽集には使う価値はあるだろう。僕はBPOというオケにずっとこのイメージがあって半ば馬鹿にしていたが94年のカルロス・クライバーで変わった。(総合点 :1)

 

ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(2)

 

 

 

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アルバン・ベルク「ピアノ・ソナタ 作品 1」

2017 AUG 26 2:02:21 am by 東 賢太郎

暇があればyoutubeで名前も知らない若い人のピアノ演奏を聴いている。年寄りや大家の録音はいくらもある。しかしそれは生身の演奏ではない「音の缶詰」であって、そのことを忘れて没入すればおいしく頂けるものの、微細な部分まで記憶するほど聴いてしまえばやはり缶詰なんだという現実に戻ることになる。

といって、ライブ演奏の「一回性」のみを重視する聴き手でも僕はない。一回の「あたり」には少なくとも十回の「はずれ」が必要で、そんな暇も根性もない。一回だけは新鮮だが繰り返すと飽きる演奏家はたくさん存在していて、それを言葉にすると「深みがない」とでもなるんだろうが、ではその深みの実体は何かを突き詰めた論評は見たことがない。「定義できないもの」が欠けている、というのは空虚な感想でしかない。

本稿はそのような言葉を使わず、主観ではあるが何を良い演奏と考えているかお示ししようというものである。それが一回性でも百回性でも構わないし、一度惚れた人がまったく合わなくなった例も多くあるが、人は変わる。音楽とは日々生きている人間の精神、感情を最もピュアに、何物の介在もなく、迫真のメッセージとして心の奥底に届ける唯一のメディアであると思う。だから「良い演奏」「名演」が絶対的価値としてあるわけではなく、演奏家(ひとり)と聴衆(多数)の組み合わせの数だけの価値があるし、時間とともに個々の価値は変わる。

僕にとって好きな演奏家の定義。これを説くには文豪夏目漱石が円覚寺に止宿して管長釈宗演老師に与えられた公案「父母未生以前本来の面目」に触れねばならない。面目とは顔つき、顔かたちだ。両親のまだ生まれる前の、あなたの本来の姿はどのようなものか、という禅における問いである。無限の過去から受け継いで、父母から授かった無量のいのちこそが本来の姿であって、それは座禅を組んで心を空(くう)にしないと知り得ないそうだが、僕は良い音楽は空の心持ちになって聴きたいといつも願っている。

好きな演奏家かどうかは、その空の心持ちに入った時に、その演奏家の心に超認識的な共感をする瞬間があるかどうかに尽きる。接触感と書いてもいい、それは演奏家との間の感性と感性の究極的にデリケートな触れ合いと和合であって、ミケランジェロ作「アダムの創造」(下)の神とアダムの指先が今にも触れようとしている、そこに流れる電流のようなものだ。この電流を感じるなら、その演奏家とは触れ合える何かを僕は共有したと感じることになる。

 

 

なぜ指揮者でないか?彼が音を出していないからだ。彼のコントロール下にはあっても音は奏者のものである。奏者(ひとり)と指揮者と僕(ふたり)がいる関係であり、彼も僕も同じ他人の出す音を聴いているだけだ。いえいえ、本日はベルリンフィルですから私の意図は完璧にリアライズされます、といっても他者介在という絶対的限界の前では説得力はない。百回に一度ぐらい完璧があったとして、そういう偶然が重なって今日は名演でしたというのを重んじるのが一回性の愛好家だが、それにはなりきれない。

僕がトスカニーニを好むのは、あれほどの専制君主であれば限界は最小値になっているだろうと信用する側面が大いにある。奏者のオーディションから音の微細なミクロまでだ。お友達内閣型指揮者は奏者をやる気にさせるプロではあるだろうが、限界突破をあきらめた2位狙いの妥協だ。指揮はマネジメントでもあろうが、他人のマネジメントの苦労を金を払って見てみようとは思わない。

ピアノは「ひとりオーケストラ」ができる楽器であり、ピアニストは訓練さえ積めば自分の肉体を完璧に支配できるだろう。そうなればその音楽は彼、彼女の感情、フィーリングそのもの、父母未生以前本来の面目であり、そこで初めて、その演奏家と超認識的な共感をする条件が整う。トスカニーニの指揮した音楽は、指揮者がピアノを弾いているのに最も近似したものだ。専制君主が是か非かは論点ではなく、近似させるにはそれしかないだろうと思う。

さて、アルバン・ベルクのピアノソナタに移る。この曲ほど「超認識的な共感をする瞬間」を求めるものはない。僕の最も愛好するソナタの一つであり、彼の最も優れた美しい作品のひとつであり、オーパス・ワンでありながら和声音楽の辿り着いた最終地点である。この驚くべき和声への、心の奥底での畏怖や感嘆がない演奏家と共感することは、僕には不可能である。明確にウィーンを感じるブラームス、シェーンベルクの系統に属するが、単一楽章で提示部、展開部、再現部をもちつつも冒頭のこの主題が素材となって統一感が与えられ、しかも主題が変奏されながら時間とともに変容するのはドビッシーをも感知させる。作曲された1907-8年は主題の時間関数的変容をもつ交響詩「海」の2年後だ。主題はいったん上昇してアーチ状の弧を描いて下降し、リタルダンドしてロ短調に落ち着いたように見えるが解決感はない。この主題の性格、そして曲の最後に初めて深い充足感を持ったロ短調の解決を見せている点がトリスタンの末裔であることも示している。まさに音楽史における和声音楽の解決点なのだ。

このソナタをうねるような情感と歌で表現した演奏がイヴォンヌ・ロリオ盤だ。各声部が各々見事にルバートする様、流れるような緩急、バスの効かせ方などウィーンの後期ロマン派を完璧に咀嚼、体感した上にしか築かれようのない表現であり、文化は知性であるとつくづく感服させられる。アンサンブル・オペラかカルテットのようで、和音が一切混濁しない。この曲でこれだけピアノピアノしない有機的なピアノ演奏は聴いたことがなく、何度聴いても琴線に響いてくる。最後のロ短調の悲しさはまさに迫真のものであり、超認識的なフィーリングを共感する瞬間の連続だ。ロリオはメシアンの奥さんでトゥーランガリラ交響曲のピアニストとしてしか認識がなかったが、これを聴くと大変な能力の方と拝察する、一度でいいから実演を聴いてみたかった。

次はまったく知らないお嬢さんだが良い感性をお持ちと思った演奏だ。この曲の展開部は激して ff がうるさかったり、内声部を鳴らし過ぎて和声が濁ったり、リズムやポリフォニーが雑になってつぶれる演奏が大変多い。それを「ピア二スティック」と思わせる誘惑が潜んでいるのはわかるがこのソナタはリストの延長線上にはない。そこを未熟ながら悪くない味で弾いているのがこのNefeli Mousouraだ。ロリオと比較しては気の毒だが後期ロマン派の様式感はまったく欠いており、逆にこんなカラフルなベルクがあっていいのだろうかと思わせるが、むしろそれは個性なのだ(国籍を調べるとギリシャだ)。下品な「ピア二スティック」を回避しつつドビッシーのようなピアノ的ソノリティで和声を感じ切っている。之を好む者しか通じ合えない繊細な神経の切っ先で共感するものを感じた。

最後に、全く対照的にモノクロで、和声の陶酔よりも主題の彫琢と論理構成の解きほぐしに技巧が奉仕している演奏がグールドである。彼はこれをベルク最高の作品として愛奏したが全く同感である。瞑想のように開始して後半で速度を落としpをppで緊張の極点をつくる異例の演奏だ。ピアニスティック志向の人達がffにそれを求める(まったくナンセンスだ)のとは真逆だが、よく聴き込めばピア二スティックという点でも彼らを圧倒している。それをどう使うかが芸術家の格の差ということであり、即物的でロリオとは同じ曲とすら思えないが、僕はこれにいつも悲愴交響曲と同質のエトスを見ている。

 

(こちらもどうぞ)

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

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トスカニーニはパワハラか?

2017 AUG 12 7:07:42 am by 東 賢太郎

昭和の昔にパワハラなどというものがあったら僕は真っ先に会社をクビになっていたろう。しかし仕事で罵倒したり罵声ぐらいはいくらも飛ばしたということであって、職場の地位・優位性を利用して人心にもとるよからぬことをしたことはないし、仕事では自分に対しての方がもっと厳しかったという苦しい言い訳ぐらいはある。

元々そういう性格だったわけではなく、中学あたりまでは他人には強くいえない弱っちい情けない子だった。そうでなくなったのは高校で体育会に入ったせいかと思っていたが、先輩の問答無用の命令と服従、あんなもんがそんなにいけないか?と疑問に思わないでもない。いかなる戦うための組織においても軍規は必要で、それがあそこでは長幼の序であっただけとも思える。

高校あたりから弱い子でなくなったのは、多分、早生まれで体が小さいコンプレックスがずっとあったのが身長が追いついて吹っ切れたからだと思う。要は喧嘩をしても負けない気がしてきて、しかもすぐエースになったから心持ちが大逆転もした。逆に投手はつきあう野手は捕手だけで周囲はあまり関係なく、上級生になっても後輩に命令した記憶もなければもちろん体罰などしたことはなくて、体育会だからパワハラ的性格になったということは多分ない。俺は弱くないと思えたことこそが大きかった。

ただ軍規は染みついた。「グラウンドで歯を見せるな」という相撲界みたいのがあったが、昨今の甲子園を見ているとよく選手が笑ってる。戦場感覚はかけらもなくなって、プロ選手が「いい仕事しましたね」などとほざく感覚に呼応している。昨日など打席でにやにやっとしたのがいて、「次のタマ、あいつの顔面狙うな、俺なら」と口にする。そんなの僕には条件反射である。すると「そんな時代じゃないわよ」と家内におこられる。そういうのまで今やパワハラまがいになっちまうんだろうが、軍規違反に対する制裁はこっちだってやられるから弱い者いじめとは全然違うのだ。

吾輩は化石のように古い男なんだろうし女性軍を敵に回すのは本意でもないが、パワハラにはどうもフェミニズムの男社会への浸食を感じるのだ。軍規の第1条でレディ・ファーストにせいみたいな感じで、母親目線でウチのかわいい子に規律は少なくしてちょうだい!なんて勢いでゆとり教育が出てきてどんどん子供をバカにしてしまう。そのうち軍規に人殺しはいけませんなんて書かれるだろうと隣のミサイルマニアが待っていそうな気がしてくる。

「職場の地位・優位性を利用」するのがパワハラの要件らしいが、それはそもそも、それ自体が男原理の本筋を踏みはずしているというものである。近頃は女も猛猛しくこのハゲなどと罵倒もするようだが、女の気持ちは代弁する自信がないのでここは男に限定させていただくなら、パワハラは地位や優位性を手にして初めて強くなった気がしているような、要は力のない恥ずかしい男がするものであって、モテない男がセクハラといわれやすいのとお似合いのものだろう。男の嫉妬は女より凄まじいとよく言うが、それの裏返しともとれる。男原理で動く男は地位があっても弱い者いじめなどしないし、嫉妬はするかもしれないが負けて悔しければ自分もやろうとするだろう。

横浜DeNAベイスターズは契約でそういうことにでもなってるんだろうか、負けても必ず監督のTVインタビューがある。あれは軍人に無礼極まりない。「敗軍の将、兵を語らず」は立派な大将の不文律であって、戦況をべらべらしゃべるような軽い奴に兵隊は誰もついてこないのは万国共通の男原理というものなのである。これは理屈ではない。アメリカは勝ったってしない、まして怒り狂っている敗軍の将にマイクなんか向けようものなら殴られるだろう。あのテレビ局のお気楽な「お茶の間至上主義」、「局ごと女子アナ感覚」は平和ボケニッポン独自のものであって、フェミニズムの浸食に力を貸している。

僕は指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの作る音楽を好んでおり、ミラノへ行った折、敬意を表して息子と墓参りをした。演奏家より作曲家がえらいと信じてる僕として、プッチーニ、ヴェルディの墓は参ってないのだから異例なことだ。彼のプローべは戦場さながらであり今ならパワハラのオンパレードである。これをお聞きいただきたい。日本のかたはどこか既視(聴)感があるが、「このハゲ~!!」ならまだかわいい、「お前ら音楽家じゃねえ~!!」だ、これを言われたらきついだろう。

この戦果があの音楽なのだ。プロとプロのせめぎあい。何が悪い?彼が指揮台を下りても楽団員を人間と思ってなかったかどうかは知らないが、棒を持ったらきっと思ってなかっただろう。こんな男の人間性ってどうなの?と女性やフェミニストに突き上げられそうだが、しかし、それと同じぐらいの度合いで、他の指揮者は僕にとってメトロノームとおんなじだと言いたいのである。ベートーベンの交響曲第1番は彼以外にない。ほかの指揮者のなど聞く気にもならず、全部捨ててしまってもいい。そんな演奏ができる指揮者がいま世界のどこにいるだろう?

僕はレナード・バーンスタインのカーチス音楽院のプローべを彼のすぐ後ろで見ていて、和気あいあいにびっくりした。客席にぽつんと一人だった僕がコーク片手に彼のジョークを一緒に笑っても問題なかった。同じ位置で見たチェリビダッケのピリピリはトスカニーニさながらで、目が合っただけで睨みつけられた彼にそんなことをしようものなら大変だったろう。そして、そこで緊張しまくった学生たちが奏でた音!あれは一生忘れない。カーネギーホールの本番で評論家が今年きいた最高の管弦楽演奏とほめたたえたドビッシーが生まれていく一部始終を見たわけだが、細かいことは覚えていないが、そういうテクニカルなことよりもあの場の電気が流れるような空気こそがそれを作ったのだろうと感じる。

トスカニーニは男原理の最たる体現者である。そういえば彼の時代のオーケストラに女性はいなかった。彼は理想の音楽を作るためにすべて犠牲にして奉仕し、だから、今日のボエームがお前の一つのミスで台無しになったと本番の指揮台を下りても怒りが収まらずにホルン奏者を罵倒した。立派なパワハラ事件になり得るが、ホルン奏者はそれで頑張って次はいい音を出して納得させた。ボスの完全主義と美に対する執念には団員の理解があり、そういう言動は彼の個性であり強権による侮辱やいじめと思ってなかったからだろう。それはきっと、トスカニーニの世紀の名演のクレジットはオケの団員だって享受して、名誉と生活の安定を手に入れられたからである。男原理の男はこうやって職場の地位・優位性ではないところで人を動かせるからパワハラ事件にはならない。人事権がないと何もできない男、女々しい奸計でポストを登った男はボスにはなれないのである。

クラシック徒然草-チェリビダッケと古澤巌-

ベートーベン交響曲第1番の名演

 

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ショパン 練習曲集 (作品10、25)

2017 AUG 11 2:02:25 am by 東 賢太郎

自分の音楽史を回顧するわけではないが、最近、若いころ聴いた録音を聴きかえす機会が増えている。そこにはおふくろの味のような、遠い記憶にそっとよりそってくる暖かいものがあり、どこか生き返った心持ちを覚えるのだ。

いまの僕がショパンの熱心な聞き手でないことは何度か書いたが、クラシック入門したてのころはもちろんショパンの門をくぐっている。ソナタ3番やスケルツォ2番に熱中もしたし、ほとんどの曲は耳では覚えているかもしれない。


初めて惹きこまれた、というより衝撃を受けたのはDGから出たマウリツィオ・ポリーニのエチュード集(Op.10&25)(72年盤)だ。大学時代か。この演奏を何と形容しよう?フィレンツェのアカデミア美術館でミケランジェロの最も完璧な彫刻と思う「ダヴィデ像」を見て、ポリーニ盤の印象とかぶってしまい、それ以来これ(右)が浮かんできてしまう。彗星のように現れた若手によるピアノ演奏として、これとグールドのゴールドベルク変奏曲55年盤は東西の横綱、人類史に残る文化遺産だろう。

一時期、これとホロヴィッツのスカルラッティ、リヒテルのプロコフィエフなどが僕の「うまいピアノ」のスタンダードを形成していた。といって僕がピアノを弾けるわけではないのだからそれは単なる印象だ。印象というものは時により変化するものであって、決して何かを判断する基準にはなり得ないと思う。だからメカニックな技術に耳を凝らしてみることもずいぶんやった。

今回、ポリーニのエチュードを聴きかえして、やはり「うまい」と思った。作品10の第1番ハ長調でいきなり脳天にシャワーを浴びる。第5番変ト長調(黒鍵)や8番ヘ長調の指回りは唖然とするしかないし、第7番ハ長調のクリアな声部の弾き分け、作品25の第6番嬰ト短調のトリル、第10番の両手オクターブなど、ピアノ演奏の技術を体感できるわけではない者にだって何か尋常でないものを悟らせる。しかし、ポリーニはもっと若いころの録音(1960年盤)があって、それと聴き比べると思う所があるが皆さんいかがだろうか?

彼は12年前からうまかったのだ。但し「革命」の左手など彼にしてはどうして?というレベルでもあり、72年盤に至ってすべての部分でテクニックはさらに凄味を増してくるのだ。しかし彼の進化のベクトルの方向性はそちらにあり、例えば「別れの曲」や第6番変ホ短調の抒情、哀愁、歌心において特に深みが増したようには思えない。

ちょっとちがう。純水のように磨かれているが無機的、無色透明であって、いまの僕は水に澱(おり)が欲しいなと思う。音楽の養分、有機物とでもいうか、そんなものだ。作品10,25を練習曲という側面から突き詰めるとここに行きつくだろうという意味でそれは長所でこそあれ何ら欠点ではないわけでミケランジェロに浪漫を求めても仕方ない、単にこちらが年齢を重ねてしまったということなのかもしれない。

もう一つ、僕がアメリカにいたころ聴いておなじみになった演奏がある。1976年録音のアビー・サイモン(左、1922-)の演奏だ(VOX)。試しにこれをかけると、やっぱりこれだ。技術のキレ味はポリーニと異なって誰の耳にも容易にアピールする鋭利な感触はまったくなく(しかし同じほどの妙技が秘められている)、さらには心にじんわりと迫る歌と抒情があって、こういうショパンならもっと聞こうかなとなる。アビー・サイモンが日本で知名度がないのは驚くべきことで、批評家は何を聞いていたんだろう。思うに彼が米国人でありVOXも廉価レーベルであり、スターダムに縁がなかったため安物の先入観に染まってしまったのだろうか。ホロヴィッツをあれほど神と崇め讃えた連中が、技術で劣ることなくひょっとしてもっと音楽的に神ってるサイモンを完全無視できた理由を僕はまったく考えつかない。

変ホ短調のグレーな世界を聴いてほしい。彼の演奏には特に遅めの曲に不思議な色調の変化を感じる。別れの曲の絶妙なテンポの揺らぎと心の深層にまで触れてくるタッチや強弱の変化(こんな素晴らしい曲だったのか)、黒鍵や7番ハ長調や10番変イ長調のペダルを控えたタッチの羽毛のような軽さ(こんなにペダルを使わず多彩なコクのある表現ができるなんて奇跡的)、11番の歌の指によるレガート、8番の指回りと高音の粒立ちの両立、革命の左手!

彼の技巧はニューヨークタイムズで辛口で有名な批評家ハロルド・ショーンバーグに「スーパー・ヴィルチュオーゾ」と評され、そういう外面にばかりフォーカスしがちな「外タレ好き」の米国聴衆の眼がロシア系で19歳上のホロヴィッツに向いたのはいたしかたない。カーティス音楽院でヨゼフ・ホフマンの弟子だったサイモンの美質はしかし超絶技巧ではない。詩的情感、音色、想像力にそれはあるのであってテクニックはそれに奉仕するものと感じられる。ちなみにホフマンはショパンの知己でチャイコフスキーの友人、同胞だったアントン・ルービンシュタイン(1829-94、チャイコフスキーの協奏曲初演を拒否したニコライは弟)の弟子だ。

この人が鍵盤上でしていることはおそらくピアニストにとって看過できないことでマルタ・アルゲリッチが師事したし、ニューヨークでリサイタルを開くと同業者がたくさん席を埋めたのは伝説である。僕がそれを目撃した例でいうとロンドンでリヒテルの会場に内田光子がいたしミケランジェリのにはブレンデルがいた。サイモンは優にそのクラスのピアニストなのである。しかしそうしたプロ目線を離れても、技術とコクが高次元で一体化した、いわば心技体のそろったピアニストとしていくら高く評価してもし足りない気持ちが残る。

テンポや間の取り方、バスの打ち込み方には個性があり人によって好き嫌いはあると思うが、ルービンシュタイン、ホフマンから伝わるショパン直伝のピアノであり、19世紀のロシアン・スクールの息吹がクリアな音で細部まで聴けるVOXの彼の録音は宝だ。耳の肥えたピアノファンはぜひ彼の録音に耳を傾けてみていただきたいが、彼の精妙なタッチはオーディオ装置を通してでないとわからない。CD(廉価盤だ)に投資することをおすすめしたい。

クラシック徒然草-悲愴ソナタとショパン-

 

 

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独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その3)

2017 JUL 22 9:09:51 am by 東 賢太郎

エフゲニー・キーシン / コリン・デービス / ロンドン交響楽団

一聴して惹きつけられた魅力的な第1楽章。詩心にあふれたキーシンのピアノは変幻自在なロマンを紡ぐ。自由なルバートが連続するが、音楽に感じ切っておりなるほどと思わせる。そういう表現はコンチェルトとしては焦点が定まらず散漫になりがちだが、それを見事に引き締めているのがデービスの伴奏だ。ティンパニを効かせて強いfを打ち込むが、雄渾でツボにはまっておりうるさくならない。緩徐楽章の感情も深く濃い。クララはきっとこうは弾かなかったろうが、やはりこれはロマン派の音楽なのだ。難を言えば終楽章が心持ち速いが、静謐で時間を止めるブリッジからの流れとしてそうなるしかないという一貫した見事なテンポ設計だ。(評点・4.5)

 

クリスチャン・ツィマーマン / ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

冒頭のオーボエの音がローター・コッホの音だ。懐かしい。トゥッティはあのカラヤンの豊麗な音がピアノを包み込みまるで交響曲だ。ツィマーマンのピアノは非常にきっちり弾かれカラヤンが彼を起用した理由がわかるが、あくまでオケのパートであり自由なファンタジーの飛翔は感じられず、カデンツァに才能の片鱗を見るだけだ。後に彼がカラヤンの支配を逃れたのはよくわかる。第2楽章のロマンはまったく平板。終楽章も大変な完成度できれいだが予定調和の域を出ず一向に面白くない。先が読めるのはファンタジーじゃないのだ。これをきくといったいカラヤンは何を目指していたのだろうと思う。一家に必携のブリタニカ百科事典みたいなものだろうか(評点・2.5)。

 

エレーヌ・グリモー / デイビッド・ジンマン / ベルリン・ドイツ交響楽団

なんともエネルギッシュなピアノだ。ここまであっけらかんと明るいと詩的な部分の陰影がさっぱり見えない。オケもffで単調でうるさい。展開部のおしまいの部分、精妙に再現部へ導く神がかったところでこれほど不感症はまずいしカデンツァもポエムがない。ジンマンはチューリヒ時代にトーン・ハレで毎週のように聴いたが、才人だが一度も感心したためしがない。別な指揮者だとうれしかった。終楽章はカプリッチオに聞こえる。(評点・2)

 

ルドルフ・ゼルキン / ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団弦楽団

これを先に聴けばグリモーがおとなしく思えたろう。これだけ豪壮なシューマンも珍しい。ゼルキンのブラームスは硬派の部類の名演だが完全にその勢いでこのまま皇帝だって弾ける。たおやかさや悲しみとは無縁で武骨ですらあり、オーマンディのオケはそれに輪をかけて詩情のかけらもない。最後まで聞きとおすのにひと苦労(評点・1)。

 

ベンノ・モイセイヴィッチ / オットー・アッカーマン / フィルハーモニア管弦楽団

モイセイヴィッチ、ため息が出るほど素晴らしい。この強弱とテンポの脈動、デリケートな詩情、呼吸、感情の揺らめき!楽譜にはないが音楽が秘めて求めているものはこれだと肌で納得だ。これはきっとシューマンもクララも誉めただろうという抗いがたい高質のものだ。3度も聴いてしまった。アッカーマンのオケがまた驚く。ピアノと精神が完全に親和、合体したオーボエの掛け合い、フルートのパッセージはエモーションの奥深いところまでシンクロナイズして語り掛ける。こんなインティメートな演奏はそうはない。第2楽章のppの深さ!こうでなくてはここのロマンは出ない。終楽章、物理的なことだけいえば僕にはやや速いがタッチが夢のように変わって軽いレガートでそういう気が全然しない。魔法の領域である、降参。まったくひけらかす風情はないがモイセイヴィッチの技術の凄味を見るばかりだ(ラフマニノフに「後継者」と言わしめた)。外へではなく、内へ内へ奉仕する。そういうスゴ技があざとい知恵や計算でなく音楽に合わせて変幻自在に現れる。小さなミスタッチはあり、猛練習で追い込んだりテープを切り貼りした感じはない、精神の深奥まで共感した音楽がいつも必要な音になって自然に流れ出てくる、若いピアニストの皆さま間違ってはいけない、ピアノがうまいとはこういうことなのだ。素晴らしいものをyoutubeで教えてもらった、オーディオで良い音で聴きたくすぐCDを注文だ(評点・5)。

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その4)

 

 

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独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その2)

2017 JUL 21 0:00:04 am by 東 賢太郎

アルトゥール・ルービンシュタイン / フランコ・カラチオロ / ナポリ・イタリア放送(RAI)アレッサンドロ・スカルラッティ管

1964年4月29日ライブ。これは素晴らしい。第1楽章の前稿楽譜部分(難しい)の感じ切ったデリケートさ!これが77才か?ルービンシュタインの技巧は凄かったのだ。それなくして描きようもない自在のファンタジーが横溢。テンポもこの曲の本来のものであり、文句のつけようなし。イタリアの放送オケが上手いと思ったためしがないが、これは初の例外だ。(評点・4.5)

 

アルトゥール・ルービンシュタイン / カルロ・マリア・ジュリーニ / シカゴ交響楽団

1967年3月8日だから上記の3年後、80才のスタジオ録音である。何の問題もなく弾けている。しかしオケがとても上手いもののマッチョ指向なのが僕の好みでない。ブラームスならそれでもいいがこっちはアウトだ。伴奏がそれだからピアノもどこかファンタジーに欠ける。醸し出そうとしているが中途半端なうちにオケに消されている。録音もHiFi指向で細部までクリアに聞こえるが、そういうことはこの曲には無用である。(評点・3)

 

エミール・ギレリス / カール・ベーム / ロンドン交響楽団

75年のザルツブルグ音楽祭ライブ。ギレリスの技巧は明らかに衰えている。少々のことは看過するが、前稿楽譜部分の事故は僕にはつらい(何故ここが難しいと書いたかわかるだろう)。84年にロンドンで聴いたチャイコフスキーP協は危険水域にあったが、もうこのころに兆候はあったわけだ。ただ、そのせいなのかどうか、ベームのテンポがいい。これが今の僕の趣味、このぐらい落さないと見過ごしてしまう道端の可憐なスミレみたいなものがこの曲にはたくさんある。それで弛緩するどころか、ギレリスは万感の思いをこめて、胸いっぱいの呼吸でそれを慈しむように弾いている。音楽の感動というのはなんと深いものだろう。(評点・3.5)

 

ワルター・ギーゼキング / ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ギーゼキングは現代曲を汽車の中で目で覚えて着いたら初見で弾いてしまう人だ。指の回りも尋常でない。モーツァルトやドビッシーの世評が高いと思えばラフマニノフを2番も3番も弾く(2曲の両刀使いは意外に多くない)。何でもできるのはわかるが、人間一つ二つ欠点あったほうがいいんじゃないのと、どうも好きになれないまま来てしまった。これも上手いなあとは思うがルバートの感覚が好みでないし終楽章はテクニックの展示会でご勘弁だ。フルトヴェングラーも第2楽章以外はあんまりポエジーを感じない。向いてないね。(評点・2)

 

アルフレッド・コルトー / ランドン・ドナルド / ロンドン交響楽団

コルトーのルバートには華がある。ショパンのワルツなどそれが活きる曲では水を得た魚の如く余人の及ばぬ名演をものしている。この曲でも抒情的な部分でいい味を出しているが、何分指が回らないとどうしようもない音楽だ。補おうとうわべの軽いタッチでパッセージを弾き飛ばすからコクがなくなったり唐突にフォルテになって感興を削いでしまう。鋼鉄のタッチだったギレリスが老いて枯れたのとは違う、申しわけないが元々ないものは仕方ない。ギーゼキングのように弾け過ぎても道を誤るし、ピアノ演奏とは難しいものだ。(評点・1)

 

独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その3)

 

 

 

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