芥川也寸志さんと岩崎宏美さん
2017 FEB 21 1:01:09 am by 東 賢太郎
成城学園初等科にいたのですが、金持ちの坊ちゃんではありません。お嬢で育ったお袋の趣味だったんでしょうがお品が良すぎてなんとなく肌には合わなかったですね。制服が帽子に半ズボンで軟弱っぽくて、公立の子とちがってて嫌だなあと思ってました。あの反動だったんでしょうか、なんちゃって硬派、バンカラ、アンチ・ブルジョアのほうにいってしまい、振ったのがゲバ棒ではなくバットだったのは救いでした。
勉強はした記憶がないというか、僕の勝手解釈によればしなくていい雰囲気であって、クラスも塾に行く者など皆無で考えたこともなし。あまりの出来の悪さを知った親父がエスカレーターは勉強せんし遊び人になりそうだこいつはだめだとなって中学で外を受けさせられてぜんぶ落ちましたが、親父はそのころから東大へ行けと存外なことを言いだして五月祭に連れていかれたりしました。だからなんとなく当然入れるもんと信じこんでました。
そのかわり映画とか劇とか舞踊とか彫塑なんて授業があって、そういうのはとんと興味ありませんでしたがアートは生活のそこらへんにごろごろところがっていて当たり前という感覚にしてくれました。こういうのは文部省指導要領じゃどうしようもない。このあいだ銀座で卒業生の女の子がいて、40才ぐらい後輩とわかり彫塑室の粘土の穴ぐらの描写をしたら「いやだ、それそのまんまですよ~」と、その子も成城っぽい「アートはあって当たり前」感をただよわせながらびっくりして、年の差などものともせず共感しあったりできてしまう。不思議なもんです。
いま思うとまわりはすごかったですよ。ラグビーの松尾兄弟や、3つ下の妹のクラスには歌手の岩崎宏美さんもいました。彼女がスター誕生という番組でデビューしたてのころ食事したりしましたが、あれ、この頃でしたかね、この歌はずいぶんヒットしましたが。
同じ学年の桜組、橘組の父兄には黒澤明さん、三船敏郎さん、東大総長の加藤一郎さんなどがおられ、僕の桂組には芥川也寸志さんがおられました。龍之介の次男で日本を代表する作曲家で家もお邪魔しましたが、当時はY子ちゃんのお父さんというだけで誰だかよくわかってませんでしたね。
成城は学校劇なるものがあり、まあ子供ミュージカルみたいなもんで面白かった。その音楽を芥川さんが作られ指揮もされた。生のオーケストラも指揮者というものも、その時初めて見たのですね、そしてその子供の祭りという劇で主演をして主題歌を歌ったのが岩崎宏美さんで、めちゃくちゃうまいなあと感動した記憶が残ってます。
NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」の音楽は芥川さんでこのメロディーはいまでも鮮烈に覚えてます。えらいかっこいいなあと思ってましたが、調べてみるとこれも昭和39年、東京オリンピックの年の放映だったようで僕は小4です、あのころだったんですね。
Y子ちゃんちは成城の高台で見晴らしの素晴らしい場所にあり、もちろんピアノがあって、子供心に素敵だなあと俺もああいう家に住むぞと憧れました。高台というとバーデンバーデンのブラームスの家も崖の上で、どうも僕の「崖好き」はお二人の作曲家の趣味から来ているようで、いざ自分で建てるとなったときに成城~田園調布を走る国分寺崖線の崖の上ありきになりました。なかなか出てこないので出たら即決で買った。家族は高いと大反対でしたが、三つ子の魂みたいなもんでかなり執念に近かったです。
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「ライヴ・イマジン」の皆様と会食
2017 FEB 6 11:11:47 am by 東 賢太郎
昨日はアマチュア音楽演奏集団「ライヴ・イマジン」の皆様とお会いしました。
リーダーのチェリスト西村様が一昨年末に僕のブログをご覧になったのが事のきっかけです。すぐにご連絡をくださったのでお会いすることになり、さらに話が進んで今回は神楽坂のフレンチでピアニストの吉田様、コンサートマスターの前田様をご紹介いただくランチとなった次第です。
「ライヴ・イマジン」についてはご存じのかた、ファンの方も多くおられると存じます。西村様から今後詳しくご説明いただく機会がありますが、腕達者のアマチュア有志の楽団で室内楽からモーツァルトの交響曲まで幅ひろいレパートリーをもっています。
ランチをとなったのは、一昨年のブログに僕が書いたモーツァルトに関わる「ある仮説」があり、それを読まれたイマジンの皆様がご賛同下さってそれを次回コンサートの演目に決めたとうかがったからです。この日、ご趣旨を拝聴し、それでは文責者として何かお手伝いしないといけませんねという運びとなりました。
演奏家の方々と話すと楽しいですね、楽譜上の話がちょっと歌えばすぐわかっていただけます。これは僕のような者には代え難いことです。運命作曲中のベートーベンのメモ帳にモーツァルト40番の終楽章のテーマが書いてありそれが第3楽章になったなんてものです。
第3楽章はそれにホルンのタタタターが続くわけですが、その運命動機がピアノ協奏曲第25番から来ていてもおかしくない理由もご説明しました。次回コンサートはその25番が入っており、ソリストをされる吉田様がすぐわかって下さったのは楽しみです。
コンマス前田様は最近入会した一橋中クラスメート野村くんの日比谷高校オケの後輩でもあることがわかり、世の中狭いと再認識です。ジュピターのスコアをきちっと解析した文献が意外にないというお言葉がありましたがさすが某省現役官僚でそこまで子細にリサーチされている姿勢には感服です。
ただ弾くのではなくアナリティカルな関心も持って自発的、意欲的な演奏会を組まれるというのはプロではやりにくくアマチュアの強みです。ライヴ・イマジンの皆様の音楽への愛情と熱意には可能性を感じました。5月の公演までに少々準備をいたします。
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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(5)
2017 JAN 30 2:02:18 am by 東 賢太郎
たしか朝比奈の著書に、指揮者が振りたくない名曲として田園とラインがあがっていました。どちらもエンディングがそっけなく聞こえるからです。たしかに運命のくどいばかりのそれに比して田園はあっさりですし、シューマンの1,2,4番に比してラインは簡潔な終わりですね。
それは田園、ライン、どちらも自然を満喫する交響曲であるためです。楽しかった遠足です、解散!の前に先生の説教やら「良かっただろ」のだめ押しは不要なのです。
これはライン第5楽章のうきうきする主題です。
fp からの弾むような第2主題はライン地方の民謡、「So leben wir, so leben wir alle Tage」です。それをおききください。
これを知ったうえで4年前の僕のブログ、
シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第5楽章)
を読み返していただければ、シューマンが第5楽章に抗いがたい愉悦感の下地をしっかりと織り込んでいることがお分かりいただけると思います。この曲は喜びのエネルギーを内に秘めているのです。それを開放すればシューマンの心の喜びは聴き手にまっすぐ伝わります。指揮者が余計なことをすればデリケートなそれは無残に壊れます。
僕がなぜコーダのアッチェレランドを蛇蝎のように嫌っているか、理屈ではないのですが、細部をリサーチすればこうして理由があることもわかってまいります。エンディングがそっけなく、キーが鳴りにくい変ホ長調でもある。指揮者は何かやりたくなるだろうし、マーラー版で壮麗に化粧をし、地味なエンディングは加速でブラボーを取る。しかし美人に化粧はいらないわけで、厚化粧を必要としているのは指揮者のほうである。別に実力不足は構わんのですが、そのだしに最愛の音楽であるラインを使うのだけはやめてくれよと嘆願するのみです。
フルトヴェングラーのように曲を大掴みに俯瞰して作曲家の意図の方向にデフォルメをかけるタイプは、シューマンに聴き手を誘導するメッセージがなく、自然への賛美と喜びを共有しましょうというだけなものだからすべきことがない。彼がラインを手掛けなかったのは大指揮者の証明でした。その彼を師と仰ぐバレンボイムは全集を作るためでしょう、振ってしまって下記のようになってしまった。必然ですね。今後もできるだけ聴いて、だめなのは本ブログにボロカスに書くことになるでしょう。
朝比奈の挙げた理由からでしょうかラインを演奏会で聴く機会はあまりありません。僕は3回しかなくてジンマン(チューリヒ・トーンハレ)、ヤルヴィ息子(N響)、マリナー(同)です。マリナーがあまりに素晴らしくて忘れられません。第1楽章は自分でシンセでMIDI録音して、原典版でしっかり鳴ることは自分の手で確認してます。これは結構出来が良くて満足で、やはりラインを愛する長女が気に入ってくれてます。
ハンス・フォンク / ケルン放送交響楽団
やや弦が荒くテンポが速いが原典版スコアの地味な音色が好ましいです。マーラー版のスコアは持ってないので原典版を見ての限りですが、63小節の木管の対旋律のホルンの重複はなく、432小節の第1,2ヴァイオリンのd、e♭の短2度はそのまま。シューマンのスコアへの敬意を感じます。下手だから俺様が直してやるなどという不届き者が決まってアッチェレランドするコーダも盤石のテンポ。いいですね。
クリストフ・フォン・ドホナーニ / クリーブランド管弦楽団
マーラー版でないのは評価。しかしドホナーニのオケの鳴らし方はブラームスやシューマンでも1,4番向きで各楽器群のソノリティがリッチで外交的あり、63小節はむしろホルン重複がないと物足りないという悲しいジレンマを感じます。オケをこうマーラー風に鳴らす後期ロマン派の視点からシューマンの管弦楽法が冴えないという流派が出たわけで、それは元から視点がおかしいというしかありません。第2楽章は明るくてお気楽。終楽章コーダは過剰な加速がないのはいいが陽気丸出しのトランペットが興ざめ。
ポール・パレー / デトロイト交響楽団
付点音符を弾ませ弦のボウイングによるアクセントを明確にしながら快適なテンポで豪快に始まる。ホルンの補強あり。コーダは加速まったくなく立派です。第2楽章もスタッカート気味の弦は結構だがアンサンブルがずれる。第3楽章冒頭は対旋律の音程があやしい。第4楽章はケルン大聖堂の暗さと湿度が不足。終楽章の出だしはオケの明るさが生きるがタッチが軽く陽気すぎてなじめない。とくに聴きたいとは思いません。
ダニエル・バレンボイム / シュターツカペレ・ベルリン
強いパッションで開始。おそらくマーラー版に近い。このオケはウンター・デン・リンデンの歌劇場で聴くと古雅な良い音がします。ここでは弦の fが荒く無用な金管、ティンパニの強奏がうるさく美質が出ず。中間楽章もデリカシーを欠き、第4楽章の終結のティンパニ強打など論外でこの人なにを考えてんのと言うしかない。終楽章はテンポがぬるく愉悦感なし。ここでもおかど違いで音程の悪い金管、打楽器に閉口。コーダの加速とお祭り騒ぎは失笑しかなし。彼は日本人にブルックナーはわからんとのたまわったらしいが彼にラインがわかることもないだろう。
エドリアン・ボールト / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
ロンドンで89年に買ったCDでなつかしい。史上最速の第1楽章でしょう。いったい何がおきたんだと驚くうちに一陣の風のように過ぎ去ります。ところが第2-4楽章は普通のテンポで文句なし。ラインのエッセンスを掴んでいます。終楽章がまた速いが史上最高ほどではなく、この愉悦の気分は決して曲の精神から逸れてはおらず、納得します。両端楽章、この速度ではアッチェレランドのかけようはありません。かけられるよりは速すぎの方が僕はずっとましです。
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クラシック徒然草《ニコライエワの平均律クラヴィーア曲集 第2巻》
2017 JAN 25 1:01:06 am by 東 賢太郎
ギターでは出せない和音があると知ったのは高1の時でした。それはストラヴィンスキーの火の鳥の終曲です。どうしても自分の手で鳴らしてみたかったのです。仕方なく小遣いを貯めて1万円以上する指揮者サイズの原典版オーケストラスコアを神保町の洋書店で買って、その部分の音符をピアノで弾いてみてわかったのです。
そこからしばらく見よう見まねで練習し、弾けたのはバッハのインヴェンション1番と火の鳥終曲だけでした。それがきっかけでピアノはすごいということに目覚め、自分でハノンをやっていい加減な指使いでモーツァルトやベートーベンも適当にさらったりしました。
結局、習ってないわけですからそれ以上は上達せずです。ただ、だんだんそうするうちに自分は弾くことより音楽の構造分析の方に興味があるということがわかってきました。長調が明るい、短調が暗いと感じるのはなぜか?そんなことが解明できないのだから第九を聴いてどうして人が感動するのかなど遠い道のりです。それを解明したいと思ったのが音楽にのめり込むきっかけでした。
オーケストラスコアをピアノ譜にリダクションしたり、ピアノ的な眼で見るというのが面白くて熱中し、シンセでオーケストラを演奏するようになりました。ダフニスとクロエの夜明けが相当音を落としてもそれらしくピアノで弾けることに感動したし、そういうことを通して楽曲のストラクチャーや和声構造がわかるようになって音楽がちょっと違う次元で聞こえるようになったかもしれません。
ピアニストにはハマりました。彼らは演奏家であると同時に指揮者でもあります。つまり自己完結した完璧な音楽家です。指揮者がどう音楽を作りたいかはオーケストラという他人の手を借りてしか音にできませんが、ピアニストはどんな複雑な曲でも自分だけの手で思うままに表現できます。その人のソウル(魂)にふれるという意味で、大変完成度の高い表現形態であることに惹かれました。
畏敬するピアニストは何人かいますが、ピアノ演奏の深遠さを学んだのはタチアナ・ニコライエワのバッハ平均律クラヴィーア曲集 第2巻です。
これはなにか犯し難い人間の尊厳を漂わせ、ひたすら高貴な音で訥々と綴られた一編のドラマなのです。バッハがどうしてこんなに生き生きと歌えるのか、レガートで弾けるのか、オーケストラのようなソノリティが出るのか、現代のコンサートグランドのバッハでどうしてこんなに深みのある低音が響くのか?高度な技巧なのにまったくそれを感じさせない。聴くたびに何かいただいて、少しだけバッハの精神に近づけるような気がする僕には特別の存在です。
若いころショーペンハウエルの幸福論をむさぼり読んで人生が少しだけ分かった気になった。いまや恥ずかしいばかりの甘酸っぱい思い出なのですが、それでも「本はばかになるから読むな」、「孤独こそ人生の理想の姿」など僕の精神にストレートに入って深く影響する言葉が残っているのは驚くばかりです。ワーグナー、ニーチェ、R・シュトラウスが傾倒した哲学はとくに難解ではなく、「腑に落ちる」から残ったのだと思います。ニコライエワの平均律はどこかそれに似て、お腹にずしっと響いた感じでしょうか。
なぜ第2巻かといって意味はなくたまたま聴いていただけで、第1巻も同等に素晴らしい演奏です。音楽に人生を求める必要はありませんが、ピアノ音楽の深みを知る意味ではこれはショーペンハウエルの滋味に似たものがあります。
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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(4)
2017 JAN 24 1:01:41 am by 東 賢太郎
フルトヴェングラーのブラームスに話が飛んでしまったのは、ラインを聞き進むとほとんどの演奏がテンポの問題で暗礁に乗り上げてしまうからです。テンポを論じるとどうしてもフルトヴェングラーを引き合いに出さざるを得ません。
スコアをシンセで演奏してみて、テンポ設定とフレージング、アーティキュレーションの難しさを体験しました。管弦楽といえども演奏するものは「歌」です。歌というのは音楽の醸し出す意味や感情にそった呼吸の脈動であり、音の漸増・漸減があり緩急があって言葉の発音がある。テンポはそれらを 統合した結果、最も自然なところに落ち着くべきものと感じました。テンポが先にあって、それに他のものを合わせるというものではないということをです。
例えばallegro moltoと指定があるがそのテンポで演奏したその音楽に共感が持てない場合は歌として呼吸が合いません。自分の持つパルスと音楽のパルスが共振しません。するとそのしわ寄せが上記のパーツのどこかに物理的に出て、説得力のないオーラの薄い演奏になってしまいます。
ベートーベンのメトロノーム問題が好例です。ベーレンライター版ですごく速いテンポになって、「共感はしないがオリジナルです」という主張の指揮者による演奏は、博物館の資料としては、あるいは好事家のコレクションとしては価値があるでしょうが、奇天烈な速度のコーダで終わる第九のようなものを僕はあんまり歓迎はしません。
これはあくまで主観ですが、フルトヴェングラーのブラームス交響曲は1番と4番なのです。そしてそれはテンポに深く関わっておりましたことは前2回の稿で書かせていただきました。それを導き出した彼のテンペラメントが1,4番に合っていたということと思われます。特に1番の52年盤については既述の通りですが、しかし、2番となると一転してこう感じました。
僕は別にフルトヴェングラーのファンではなく、ブラームスのファンです。彼の書いた音楽の崇拝者であって、ファンとして「こう演奏すべし」があって、それに近ければ是、遠ければ非というだけです。彼は2番にはうまく共振できていないという結論になりました。
一方、シューマンについてはテンペラメントの合う1番、4番しか残しませんでしたが賢明な判断でした。2番の歪んだ狂気の軋みは彼に似合わないし、3番に至っては彼の秘術、至芸の通じる部分はどこにもないでしょう。
以下、すべてyoutubeで音を聴けます。
ルネ・レイボヴィッツ / インターナショナル交響楽団
スコアにマーラー以上の改竄があり、第1楽章のせっかくの良いテンポがコーダで瞬時に崩壊するのはがっかりです。再三の指摘ですが両端楽章のコーダに欲求不満を覚えてか加速する指揮者が多くいます。マーラーを始祖とし、肥大化した後期ロマン派のオケ目線から「シューマンの管弦楽法は下手くそ」とする人たちと源流を一にします。レイボヴィッツのベートーベンの読みが同じアプローチで一貫しているのは評価するのですが、時代がシューマンまで下るとワーグナーに発したブルックナー、マーラー路線とクララ、ブラームス路線の分岐の起点がやってくるのであって古典派のようにはいきません。
セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
僕にはテンポが遅いのですが、盤石でゆるぎないラインの流れです。深々したオケの響きがなにかを語りかけ、意味深く神判のように鳴るティンパニに宗教的なものさえを感じる不思議な第1楽章。細部まで一点もゆるがせぬ神経で支配する彼の世界です。実に濃い。コーダの雄大なこと!テンポの不満を言うこちらが稚拙に感じてしまう。第2楽章も遅く、スケルツォでも舞踊でもないレガートの美しい絶対音楽。第3楽章はさらに遅い、春の森の陽だまりの夢想。第4楽章はテヌートのかかった各声部のまとわりが教会にこだまする交唱。こういう音の作り方、只者でないです。終楽章、やや遅めですが第1楽章と同様にこの速度でないと見えない音楽あり。コーダに向けて熱と密度が上がりますがテンポはそのまま。感服。こういう器量がない指揮者が曲の終結感に自信が持てず、アッチェレランドをかけるのです。マーラー版ではないが彼なりの変更があります。
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー / エストニア国立交響楽団
オケの音がシューマン的ではないが理想的なテンポで開始し、インテンポのまま第2主題に至っても揺らぐことなしです。エネルギーもテンションも見事であり、非常に満足感あるコーダで締めくくります。但しスコアはかなり改変あり。踊れる第2楽章を経て深みある第3楽章へ。ここは録音が貧しくて惜しい。第4楽章は金管の音がやや異質ですが重たい時が流れています。一転、明るい終楽章はやや弦が荒い。速すぎず良いが、このテンポだと第2主題でやや緊張を欠くようです。コーダもほぼインテンポで僕は満足。おそらくこれは多くの人を満足させないでしょうがこの指揮者のスコアの読みの深さは何を聴いても敬意を覚える水準にあります。
オトマール・マーガ / ボーフム交響楽団
チェコ出身のドイツ人マーガの名前は懐かしい。オケが二流ではあるがティンパニをアクセントに気骨あるインテンポで通した立派な第1楽章です。スコアはオリジナルのようで中間楽章もロマンに背を向け淡々と進みます。終楽章もなんの細工もないが、管が厚みを欠く分ティンパニがモノを言い、充実のコーダに至って何の不足もない満足感を与えます。こう書けているスコアを二流の感性とテクニックで味付けして出す。素材の味がわからぬ二流の料理人だが、そもそもそういう人がどうして料理人をしているのかが僕にはよくわかりません。
ひとつ面白いものを。第4楽章をオルガン編曲した人がおられます。
この楽章を宗教的と書く意味を感じていただけると思います。J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第24番ロ短調の前奏曲、聞こえてきませんか?
(ご参考)
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フルトヴェングラーの至芸の解明(その2)
2017 JAN 23 13:13:51 pm by 東 賢太郎
フルトヴェングラーの指揮は「即興重視で厳格な練習はせず棒も不明瞭」というイメージが固定化しているように思われます。毎回ノリが違っていて、いざやるまでわからないぞ、でも燃えた時は凄いぞというニュアンスですね。理知的な人間を嫌う日本では彼のスタイルはトスカニーニの機械的に対し人間的とされ、人間味=義理・人情という思考回路で浪花節的な人気さえ得ている印象がありました。ドイツ人は日本人に似ている、一緒に戦った同胞と思ってくれているという、事実とかけ離れた片想いにどこか通じたものを感じます。
前回書いた箇所のテンポや音量の一糸乱れぬ劇的変化がその場の「人間的な」思い付きや即興でできるはずはないのであって、彼は周到な計画と練習であれをやっています。もしそこに即興的な要素があったとすると、それは弾いている楽員やひょっとして彼自身もがそれを即興と感じながら演奏しているというパラドキシカルな現象が起きていたかもしれないということにすぎません。
彼はわざと棒を不明瞭に振ってアインザッツがきれいに揃わないようにしたそうです。おそらく奏者も聴衆も「即興を聴いている」と思いこませるためです。彼が日本人の大好きな「理知的でないおおらかな人」だからそうしたのではなく、非常に理知的な人であってベルリン・フィルという一流オケはそう振らないと縦線が揃ってしまい即興風にならないという計算からです。
そうやって今日は練習にはなかった「何か凄いこと」が起きているという緊張感がオーケストラに走ります。それが聴衆に音だけでないオーラとなって伝わります。客席にいた多くの音楽家、カラス、アシュケナージ、カラヤン、バレンボイムらが称賛したように、今度はそれを受け取った聴衆の期待がオーラとなって舞台にフィードバックされる。それが混然とあいなってあの尋常でない興奮を生んだのではないでしょうか。
目の前で創造行為が行われている「一期一会」に人が酔い、会場に満ちた空気は色が変わる。チェリビダッケが自身の演奏の録音を拒んだのは会場にいないとシェアできない空気の存在が音楽の音楽たる必須の要素と考えたからですが、それは彼の弁によれば崇拝したフルトヴェングラーの演奏会にそれを感じ取っていたからです。つまりそこにはそれが「在った」のでしょう。
フルトヴェングラーは作曲家であるため「音楽」を記号に封じ込めきれないことを悟っており、スコアという記号から作曲家の「スピリット」を読み取る姿勢が徹底していました。それは厳格な練習によるメカニックなアンサンブルで得られるものではなく、創造行為への参加によって現れる「演奏家と聴衆の醸し出すオーラ」が生むもの、チェリビダッケ曰く「超越的でメタフィジック(形而上的)なもの」という哲学であって、彼はそれを醸し出す類いまれな精神と技術を持った職人であったというのが僕のイメージです。
フルトヴェングラーのブラームス交響曲第1番の「痺れる箇所」の2つ目ですが、第4楽章の比較的後ろの方、第2主題が再現する直前の部分にございます。
その個所にいたる数小節(273小節から)を、よく聞こえる第1ヴァイオリンの譜面で示します。e-d#-e はこの楽章冒頭に提示した音型で ♪♪♪♩ の運命動機とリズム細胞を共有しており、この部分で暗示的に執拗に繰り返して興奮を高め、第2交響曲の冒頭主題にもなっていくのです。運命だよという暗示をこめながら。下のビデオの42分10秒からです。
音楽は苦しみの色を見せながらもぐんぐん興奮の度合いを高め、ff(marcato、音をはっきり弾け)に至ってついにアルペンホルン主題が顔を出し、「頭欠けリズム(8分休符で強拍をずらす)」で息も絶え絶えの様相になる。そしてとうとう N の ff で音楽は減七和音の苦味ある絶頂に至り、アルペンホルン主題を絶叫するのです。この楽章の、いや全交響曲の感情のピークはここにあると言って過言でないでしょう。
アルペンホルン主題はクララの誕生日祝いに書いた旋律である、千回もキスを送りますと書き添えて。なんと意味深長なのだろう。僕はこのヴァイオリンの譜面を眺めているだけでブラームスの気持が何となく心に浮かんでしまう、彼はクララと叫んでいるのです。
ff で叫んだわずか2小節後に p にまで一気に音量が落とされる。これも異様である。ああ、ここはブラームスのトリスタン前奏曲なんだな、ここに至るまでの興奮の道のりはそういうことだったんだなと大人の理解をしてます。もちろん真偽はわからないし、ブラームスという用意周到な人がそんな風に見透かされるへまを犯すとも思えない。しかしフルトヴェングラーの演奏はそういう風に聞こえてしまうのです。
上掲スコアがヴァイオリン譜に続きます。
ここでどの指揮者もテンポも落とします。しかしフルトヴェングラーの落とし方は尋常でなく、アルペンホルン主題(クララ主題)をやさしい憧憬をこめて慈しむように歌いながら、もういちど mf を経て f に感情が高まります。心臓の高鳴りのようなティンパニの律動を伴いながら・・・。
そのドミナント(g)を p でたたいていたティンパニがトニック(c)を f でたたく印象的な瞬間は、シューマンの3番の第1楽章展開部でやはりティンパニが p のドミナント(b♭)からトニック(e♭)を f で打つ、まさに天才の筆による陶酔的な場面(271小節、第1主題がロ長調で回帰する前)とそっくりです。ここに夫のシューマンが顔を出している。しかし音楽はまた静まっていき301小節の第2主題の直前で完全に停止してしまう。
フルトヴェングラーの至芸はこの部分なのです。
シューマンであるティンパニをくっきり大きめに叩き、それが弱まると音楽は後期ロマン派の森の中をどんどん遅く、小さくなって、愛への希求を訴えつつ身も溶けるような深淵に到達します。やさしく愛を語りながら体は弛緩して完全停止してしまう。もうエロティックとしか表現できません。フルトヴェングラーはそう解釈したわけです。何度聴いても僕はここでノックアウトを食らいます。
このアルペンホルン主題は楽章の構造からすれば序奏に現れただけの、正規の家族である第1、第2主題からすれば「他人様」の存在なのです。他人である人妻への誕生日祝いに書いた旋律である。それが再現部になって第1、第2主題の間に衝撃的な登場をし、有無を言わさぬ存在を示して全曲のピークを形成する。
変でしょう?
僕のように理屈好きの人間に、死んだ後にでも気づいてもらいたかったのだろうか、やはり理屈っぽかったブラームスはそう語りかけている気がします。いやいや、でもソナタじゃないんだよ、キミ、それは考えすぎだよという迷彩もほどこしながら。
第4楽章になぜ展開部がないのか僕は長年わからなかったのですが、ははあ、そういうことですかね、ドクトル・ブラームス、さすがですねなんて思ってもいるのです。21年かけて書いた初の交響曲。緻密に構想して43才にしてとうとう発表したブラームスですが、彼の伝記からもそんな隠喩が秘められていて不思議ではないと考えています。
このアルペンホルン主題による痺れるドラマ、いかがですか?フルトヴェングラーの解釈がそうだったかどうかは知りませんが、他の誰の演奏もこうは聞こえず彼のだけが僕を打ちのめす音楽となっているのは、ブラームスの意図を、真相を、ぐさりと突いて共鳴しているからではないかと感じるのです。
上掲のビデオは前回と同じく僕が最も評価するBPOとの52年盤(右)ですが、ほかのオーケストラ(VPO、NDRSO)との録音もコンセプトはまったく同じです。フルトヴェングラーの至芸は即興の結果ではないのです。ただNDRSO盤は「愛の完全停止」がほんの少し短いなど他流試合だからかどこか煮え切らない観があります。こういうことは即興というよりライブの面白さでしょう。
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クラシック徒然草《フルトヴェングラーと数学美》
2017 JAN 20 22:22:02 pm by 東 賢太郎
シューマンの3番聴き比べをお読みの方は僕がいかにテンポにうるさいかお分かり(というか辟易?)でしょう。しかし仕方ないのです。世の音楽評論はそれに触れるのが稀ですが僕にはそれは文系的感想文であってグルメ日記と変わらない。音楽には計量的な要素が多くそれを明示しないと同じ好き嫌いでも根拠が不明です。
指揮者のすべき最大の仕事はテンポ(timing)設定だと僕は思います。たぶんほとんどのプロの指揮者にも同意していただけると思う。テンポの変わる音楽は基本的にクラシックだけで、指揮者がいるのもクラシックだけだという事実にそれは現れています。
アレグロ、ラルゴのように楽曲全体の基本となるテンポは指定されていても、それ以外に細かくは楽譜に書いてありません。楽曲を構成する複数の主題、経過句、変奏さらにそれらを構成するひと塊りの音符群(フレーズ)にもテンポという可変的要素はあって、さらにそこからピッチを除いたものをリズム細胞と呼べば、それにもあります。
有名な例ではウィンナワルツの1・2・3というリズム細胞で1が短い。3つが等価でも青きドナウは演奏できますがそれらしくならないわけです。記譜するなら1:2:3の数値比を示せばいいがシュトラウスはそれをしていません。そういうものが総じて伝統であって、同じことは世界の古典芸能、雅楽にも歌舞伎にもあるでしょう。
主題や曲想に合わせて場面場面の速度をどうとるか、緩急の継ぎ目において時々刻々の速度の変化率をどうとるかで演奏の印象は千差万別となります。フルトヴェングラーはその達人でした。ブラームスの交響曲第1番には彼しかできない痺れるような、多くの指揮者がそれをまねているが一向に様にならない至芸と僕が思う部分が2箇所あります。
今日はそのひとつ目をお話しします。
第1楽章展開部の最後のところ、293小節で一旦音楽は静まり返り、ppのコントラファゴットの低い呻吟のようなf#・g・a♭からだんだんクレッシェンドが始まりますがスコアにはちゃんとpoco a poco cresc.とありますからこれはブラームスの指定です。それが頂点に達するのが下のスコアの K(321小節)です。
フルトヴェングラーの演奏を僕のイメージで書くと、まずコントラファゴットに向けてテンポも音量もだんだん減衰してきて、呻吟のppのところで世界は冷え込んで奈落の底で時が止まります。そこから今度はテンポも音量も徐々に上がって音楽が延々と加熱していき、トランペットの運命動機 ♪♪♪♩ が鉄槌のごとく鳴り響き、ついに K の直前で音楽は灼熱のピークに達して一瞬のタメをつくりつつ Kに至って一気にすべてのエネルギーを放出する大爆発を起こします。するとぐぐっとテンポの腰が落ち、弦のユニゾンの音色が吹きすさぶ突風のように驚くべき急変を見せ(!)、ティンパニの ♪♪♪♩ が地獄に落ちるかのような恐ろしい審判を聴く者に告げるのです。実に凄い。
以上のことが下降、ボトム、上昇という美しいV字のループ状の曲線を描いて展開するさまは一個の芸術品をみるようで、音量を形(shape)と感じたバランスかと思われますが、実は音量に伴って速度も同じ方向に変化しているのです(それはスコアにない)。Kに至る上昇過程で、音量および速度をY軸に、時間をX軸にとってグラフ化するとxで微分した速度、音量の値は常に合致しているのではないかと感じており、計測してみたい衝動に駆られます。彼にそういう意識があるとは思いませんし天性の直感なのだと思いますが、フルトヴェングラーの演奏にはいくつかこうした神懸ったものがあって、その裏には何らかの数学的な美が隠れている気がしてなりません。
お聴きください(コントラファゴットが8分45秒です)。
9分48秒から再現部ですが、その直前の「ティンパニ ff 強打」が鳥肌のたつ激烈さで、こんな凄まじい音がする演奏は彼の他に聴いたことがない。
これは伏線があって、フルトヴェングラーは3小節前の第1ヴァイオリンの c、c#、d にスコアにはないトランペットを重ねて f で吹かせているのです。この部分、展開部前の8小節はブラームスがスコア改定後に挿入したもので、オリジナルのままの主題再現で物足りず Bm、Dm、Fm、G7 を入れて第1主題回帰へのエネルギーを和声の進行推力で増幅しようというものでしょう。
それに加え、ブラームスはその個所で低弦にそこまでの1拍3つの音価を2つにしてリズムに「つんのめり効果」まで作って ff で弾かせている。つんのめりの姿勢が g⇒c のティンパニ ff 強打の強烈なドミナント回帰の勢いで持ち直して、その反動の加勢も得てどかんと第1主題にエネルギーをぶつけようというものです。
トランペット追加、ティンパニ ff 強打(スコアは f)ともスコアにはないのですがあたかもブラームスが書いたかのように自然である。上述のように分析すれば、彼自身がスコアに追加までして補強したかった方向にベクトルが合致しているのだから当然でしょう。フルトヴェングラーのデフォルメは「ワタシを見て!」ではない理にかなったものがあり、その場合は余人の及ばぬ名演奏を成し遂げていると思います。
彼の1番は優れた有名なものが2つあって①52年2月10日(BPO)と②51年10月27日(NDRSO)です(どちらもライブ)。②の美も認めつつ、僕はここに挙げた①を選びます。例えば再現した第1主題は②では挿入した8小節のままの速度で進みますが①では少し戸惑ってから速くなります。その速度が僕は好適と思うからですが、この辺はもう好き好きの領域です。
もう一つの至芸は第4楽章にありますが、次回に述べます。
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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(3)
2017 JAN 17 12:12:58 pm by 東 賢太郎
エリアフ・インバル / フランクフルト放送交響楽団
この録音が実演で聴くこのオケの音に近いのですが、アンサンブルの力は高いですがドイツにしては幾分軽く深みがありません。インバルは耳がよくピッチと楽器のバランスはいい、ただテンポは作為的で第1楽章第2主題後の減速はクレンペラーのような至芸は感じず人工的です。コーダはややテンポが動いて盤石感も興奮もなく中途半端。終楽章のテンポはいいですね、これは理想的だ。そのまま行けばいいのにコーダは加速、それがインバルの感性ということですね。採れません。
リッカルド・ムーティー / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
えらく元気がいい出だし。この変ホ長調の音楽はVPOの美質と得意技がほとんど効かないということがわかる意味で面白い演奏です。ドレスデン、ライプツィヒのドイツ的重厚感のほうがずっとフィットするのですね。第1楽章はムーティの悪い面が出てうるさいだけに終始しますが、加速はなしであり、彼はいけいけのイメージがあるがそういう安っぽいことには控えめなのがここにも出てます。第4楽章は教会の厳粛な空気が良し。終楽章のテンポはとてもいいですね、コーダの前のホルンは生きてます。コーダは既述の誉め言葉が許すぎりぎりの加速がありますが、まったくない方が感動的でした。
ギュンター・ヴァント / 北ドイツ放送交響楽団
ティンパニを強打してどっしりと速めの出だし。アンサンブルは緊張感のなかで大変に緊密で筋肉質です。しかしほかの3つの交響曲はそれが生きますが、3番は引き締めがきついとポエジーがなくなる難しさがありますね。以前は骨っぽさが良いと思った演奏ですが、こっちも年をとったのかいまはドラムと金管のリズムの強調が軍楽のようにきこえます。ほぼインテンポで一貫する第1楽章、終楽章の頑固な潔癖さは好みですが、似た路線ではセルの方が芸格が上ですね。
クリストフ・エッシェンバッハ / 北ドイツ放送交響楽団
上記と同じオケで音の質感はヴァントと似ますが指揮の性格と録音の違いからこちらのほうがしなやかな柔軟性、流動性を感じます。アンサンブルも横の線に目配りがあり残響のブレンドが美しいのはこちらの強力な美点です。テンポは微妙に曲想に合わせてゆらぎますが不自然でなく、エッシェンバッハの指揮はドイツで何度か接しましたがピアニストの余技の域ではありません。終楽章の快活はほんの少し速いし軽い。コーダのテンポは手が込んでますが効果は薄いですね。
ダニエル・ガッティ / マーラー室内管弦楽団(2014年6月9日)
素晴らしい演奏です。ドレスデン音楽祭のクラウディオ・アバド追悼演奏会。オケの自発性が見事で、木質の響きは上質でまことにシューマンにふさわしく、リズムは心地よくふっくらとはずみ、弦の中声部が厚みをもって鳴り切り、トゥッティも音楽に感じきった強弱が実に美しい。音楽心と詩情に満ち、大きな室内楽のようなアンサンブル。もう良いことづくめです。第1楽章はガッティを祝福したい名演で、このテンポは全面的に支持します。第2主題への移行がうまく、ホルンの音色美は抜群で要所のトランペットも品格をもって存在感を見せ、コーダは微動だにせぬ不動の威厳、これでなきゃ。第2楽章はスケルツォに聞こえるテンポですが木管がうまい。第3楽章は耽美的で花園のようなマーラー的世界。音色のブレンドと変化がデリケートで、ガッティが縦線にこだわらず個々の奏者の感性から詩情を引き出してます。この楽章を極点として、全曲をシンメトリーととらえるアプローチでしょう。第4楽章、ホルンとトロンボーンの横の線を出しつつ管弦のレガートの絶妙のブレンドで暗めのオルガン的な音色を出し、終結の2度の不協和音への深い呼吸からの持っていき方も痺れます。オケのピッチがいいからこそできることですね。終楽章のテンポもagreeです。出だしの弦は羽毛のように軽く、フルートを浮き立たせて、いいですねえ。コーダは、僕は「もっとインテンポ」を望みますが、決して浮ついたアッチェレランドはなく、これもぎりぎり有りでしょう。最後の和音が鳴って、皆さん、舞台の顔、客席の顔をご覧ください。団員は抱きあってます。この交響曲にどれだけ人を幸せにするパワーがあるか!こんなものがそんじょそこらにあるでしょうか?人類史に残るかけがえのない名曲、ただただロベルト・シューマンにこうべを垂れるのみです。
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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(2)
2017 JAN 17 1:01:58 am by 東 賢太郎
オットー・クレンペラー / ニューフィルハーモニア管弦楽団
古老がゆったり人生を回顧するように、されど雄大なスケールで開始します。第2主題に悲しい陰りがありメンデルスゾーンのスコットランドを思い出す、これは本当にユニークな表現で敬服です。第2ヴァイオリン、ビオラの内声部が生き、木管も意味深い。ホルンはここではライン河畔の古城を強く想起させます。コーダは一切の加速なし、そんな小技には目もくれない大人の芸格ですね。第2楽章もダンスには遅く中間部は愁いを帯びる。第3楽章は情緒綿々たる真にシューマネスクな世界です。第4楽章は一転して峻厳なバッハの宗教世界。そして死のにおいのするそこから人間界の生の喜びに回帰する終楽章。ここも人生急がず一歩ずつでこんな遅いのはめずらしい、僕はもっと速くしたいがクレンペラーなりのユニークの極み。極く少し速くなるコーダに至り、そこからまた減速してどっしりと終る。このスコアはこうも読めるのかという印象です。
カール・シューリヒト / シュトゥットガルト放送交響楽団
冒頭からいきなり弦がなよなよのヴィヴラート、レガート、ポルタメント攻めで絶句です。実に薄気味が悪い。マーラーより対旋律の楽器を増やしてそっちの方が目立って奇異な音が鳴るというのは、もういったい何が始まったんだというレベル。コーダの加速にヴァイオリンのオクターヴ上昇など怒りすら覚えます。しかしそんなのは序の口。第3楽章の木管への楽譜の漫画的改変はひどい、なんだこりゃディズニーか?第4楽章、最後の厳粛な和音に能天気な弦をかぶせるなんてシューマンの意図台無し、勘弁してくれよですね。終楽章はいいテンポで始まったと思ったら弦のままのはずが突如木管に切り替わり、悪いジョークかと笑うしかない。ストコフスキーも改悪と言われましたが、こんな珍妙で下品なのはない、まさに空前絶後である。シューリヒトは敬愛する指揮者ですが、彼にしてラインはこんなゲテモノになってしまう。いかに特殊な、特別な音楽かということが逆にお分かりになっていただけると思います。
アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団(1949年)
開始のテンポは堂々たるものですがトゥッティのオケが乾いた音でシューマン的とはほど遠いです。トスカニーニのカンタービレの技が生きないしピッチもNBCにしては甘い。そういう曲ではないのですね。コーダを加速しないのはさすがですが、オーケストレーションも耳慣れない楽器バランスがありどうもひたれません。第4楽章は暗めの音で雰囲気をつかんでいますが金管のフォルテはやはり外面的に響きます。終楽章の弦はNBCと思えぬほどがさつ。指揮者の共感がないんでしょう、コーダの金管の合いの手も下品であり、加速こそないがどうしてこれを振ったのか不可思議であるかなりずれた演奏ですね。
フランツ・コンヴィチュニー / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
LGOの弦は4番ニ短調では良く鳴ってますが変ホ長調のこれはくすんでます。ドイツのホルンの古色蒼然の音色がまたそれに合っていて、ティンパニも響かず、全体にどことなくヌケの悪いのがこの曲調にはいいんです。そして、何といってもテコでも動かないテンポ。これですよ、コーダはこうでなきゃ。第2楽章も朴訥な農民のダンスです。第3楽章の暖かみあるクラリネットも昔の風情。第4楽章は暗い森の中のような色調。終楽章もあか抜けない田舎の村の集いの風情で、たぶんシューマンが指揮してもこうなるんだろうと連想します。彼は田園交響曲を書いたんです。再現部まで来ると音楽が暖まってきます、そしてコーダは少しだけ快活なテンポになりますがそのまま終わる。これですね。
ディミトリ・ミトロプーロス / ミネアポリス交響楽団
「耳の化け物」の興味深い録音です。やや遅めの出だしで第2主題は大きく減速。ロマンティックな表現です。展開部前のパウゼ、デクレッシェンドはユニーク。コーダの減速!はすごいですねえ、しかし悪い印象はなしです。第2楽章の加速、なるほどこれはスケルツォだったんだ、驚きますが見識です。こうなると音は悪いがきいてしまう。第3楽章もテンポは絶え間なく伸縮。終楽章はやや速めですがいい。恣意的のようですべてが手の内にはいった自在さで名人芸ですね。
パーヴォ・ヤルヴィ / NHK交響楽団(2005年6月11日)
これはいい演奏です。この演奏会はNHKホールにて聴いておりました。基本的に動かず盤石な全曲のテンポ設計、弦のくっきりしたフレージング、デリカシー、金管のリズムの嬉しげなはずみ、どれも一級品。指揮者が音楽に共感しないとこうはいかないだろうという場面が連続です。オケの音もいつもより暖色系でシューマンにはまことに良し。終楽章のコーダ前に速度を落として見えを切ってから加速するアプローチだけがリザベーションで当日も失望したのを覚えています。そんなことをしなくても曲がいいのだからと思います。
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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(1)
2017 JAN 16 17:17:43 pm by 東 賢太郎
ラインガウのことを思い出していると、どうしてもこの曲に気持ちが向かいます。
第1楽章はローレライに近いこのあたりのラインの船旅で霊感を得たとされますが本当のことはわかりません。調性が同じだからシューマンの英雄だという人もいて、たしかに彼の先人でEs durというとハイドン103番、モーツァルト39番、ベートーベン3番ぐらいしかないのですが、しかしエロイカとはちがいますね。発想の根源が。外面はともかく霊感の根っことしては6番の田園のほうがずっと近いだろうと僕は思います。
あのあたりというのは僕にとってたんに旅行しましたという多くの外国の場所とは一風ちがっていて、家族との大事な思い出の舞台なものだからもう自分のなかではいわば「ふるさと」に近いものになっています。ロンドンやチューリヒもそうではあるのですが、そちらはむしろ苛烈なビジネスの「戦場」という色彩がつよく、ドイツのような幸福の縁取りはありません。38才で我ながら輝いていた時分の心の軌跡が、まるで後光がさすように投影されて見えるのがシューマンの3番であって、クラシック音楽で一番好きなものはといえば迷わず、他に何ら理由もなく、これということになります。
しかし、これを書いたころ、シューマンの精神疾患はすでに進んでいたそうです。このすぐ前に書いたチェロ協奏曲にそれが悲痛な兆候として出ているのでわかります。ところが、デュッセルドルフに引っ越してライン河畔の素晴らしい風景や気候風土や人々の歓待に接し、その気分を音楽に書き取ってみようと思い立った。そこでいっとき神様が病気を遠ざけたのでしょうか、心にそよ風が吹きこんで、微塵も病を感じさせないこの奇跡のような交響曲が彼に降りてきたのです。
だからこの曲は、人間の精神の奇跡でもある。人工知能がいくら進化しようと、疲れ気味のコンピューターにラインの船旅をさせたらこんな曲が書けましたという光景は想像しづらいでしょう。シューマンの精神に効用をもたらした何ものか、その目に見えない何ものかを僕は僕なりに、この曲とは関係のない所でものすごく愛してる気がします。それは言葉や形にはならない、何万年よりずっと遠い先祖がここに住んでいたのかもしれないぐらいの微弱なものだけれど、僕の精神には甚大な作用を持っている、そういう性質のもののようです。
こういう気分の時しかできない作業のため、以前に書きましたこれ( シューマン交響曲第3番「ライン」 おすすめCD)の続編として数ある3番の演奏につき数回のブログでコメントを加えます。非常に悔しいが自分で演奏ができないので、失敬ながら他人様の演奏にああだこうだ言わせていただくことで間接的に自分の思う3番の姿を残したいという努力であります。そのために、思いと違う姿の演奏はあえてばっさり否定しておりますが、私見をクリアにするためであり演奏のほうはその鏡であって価値を論ずるつもりはありません。ご不快があれば何卒ご容赦お願い申し上げます。
なるべくyoutubeで音を確かめられるものからやってまいります。
カルロ・マリア・ジュリーニ / フィルハーモニア管弦楽団
ジュリーニの1958年録音、3回の録音の2番目です。第1楽章の雄大なテンポ!これはヴィースバーデンのワーグナーがマイスタージンガーを書いた家からのライン川の景色だ。フィルハーモニア管がやや即物的でオーケストレーションもマーラー版をベースにかなりいじってるのが気になり、終楽章のレガートの入りも気に食わないしコーダの加速は全く余計である。同じスタイルでさらに大人の表現となっているロス・フィルを採るべきでしょう。ただこの恰幅良さ、些末事に委細構わぬ悠揚としたテンポは指揮者の3番への強い思い入れと愛情なくてはオケにここまで伝わらない。その思いには共感があります。
ジョージ・セル / クリーブランド管弦楽団
大学1年の6月に初めて買ってラインを覚えた思い出の演奏です。セルは3番を指揮できる人だったというのが重要な情報ですね。即物的で冷たいといわれたが、そういう人にこの曲はできないのです。レコードだけ聞いて批評してる人にはCBSの音作りの印象があったと思います。オーマンディの演奏会での音は日本の批評家のいうイメージではなかったですが、同じことはセルにもあったでしょう、彼はアンサンブルには非常に厳しいがとてもヨーロッパ的な感性だった。この3番にアメリカ的なものはかけらもなく第1楽章の終結も安っぽい芝居は一切なし。マーラー版で金管を補強してますが、どこを微細に聴いても立派な音が鳴っていて熟達の表現です。終楽章の冒頭主題のフレージング!!すばらしい呼吸、コーダの盤石なテンポ、最高です。これで曲を覚えたのは幸運でした。
ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
彼はベートーベン、ブラームスは良くてシューベルトはいまひとつ、シューマンもなぜか4番以外はだめです。第1楽章、このオケと思えぬガサツな弦でほとんど練習してないかと思わせるひどい始まりですが、その後もヴィヴラートは過多だし、悪趣味なポルタメントはかかるわ、第2主題はぬめぬめレガートをかけるわ、ホルンのパッセージは意味ありげに安手のリタルダンドするは、再現部は第1主題に意味ない盛り上げの努力をするは、すべてが人工的、表面的で彼はラインガウでゆったりシュタイゲンベルガーなんか味わったことないんじゃないかと訝ってしまう。これが好きな人がいても構わないが僕とは極めて異質な感性であります。第1楽章で充分不合格で後は聞く気なし。
レナード・バーンスタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
VPOの音で始まるがやや力こぶが入りすぎで、テンポが頻繁に無用に伸縮してジュリーニのようなラインの風景が浮かびません。コーダの加速は意味不明で趣味が悪い。第4楽章のマーラーのごときロマン的な解釈は彼の個性としては良しで終結の悲痛さから第5楽章への場面転換は見事ですが、そのアプローチで全曲を劇的に構築しようというのはそぐわないでしょう。終楽章終結へのリタルダンド、アッチェランドは暴力的ともいえるひどいもので、VPOもこの曲がうまいわけでは全然なく、指揮者ともども感性にお門違いも甚だしいものを覚えます。
ブルーノ・ワルター / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
音が悪くて敬遠してましたが前半は悪くはないです。ワルターのラインはこれだけです。第1楽章はややテンポの弛緩はあるがコーダで無用に興奮しておらず、第2楽章の暖かさはワルターらしい。第3楽章はちょっと速いですがこれがスコアの指示でしょう。オケにデリカシーがなく雑然と鳴るところがあるのは惜しいです。問題は終楽章のテンポと弦のフレージングです。これはマーラー版でもなく彼の主張ですがついていけませんし、再現部直前のルフトパウゼにはひっくり返ります。最後も微妙ですがアッチェレランドしてます。向いてません。ワルターファンのためのものでしょう。
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