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クラシック徒然草-モーツァルトは怖い-

2014 JAN 15 3:03:47 am by 東 賢太郎

彼の音楽を美しい、快活だ、典雅だ、明朗だ、悦楽だ、かわいらしい、デモーニッシュだ、絶望だ、悲しみだ、などと評した人たちは歴史上にたくさんいます。しかし、怖いといった人はいるのでしょうか?

僕にとって、モーツァルトの音楽は怖いものです。

たとえばピアノ協奏曲の20番、24番、レクイエム、これらは短調曲だし、ドン・ジョバンニの地獄落ちの音楽などはいかにもでしょう。それらも充分に怖い。しかし協奏曲25番、ジュピター交響曲、ハフナー交響曲、ピアノ・ソナタヘ長調など長調で明朗に聞こえる作品もそうです。フィガロの結婚も戴冠式ミサも。

それはホラー映画のような怖さではありません。そういう恐怖感というのは、子供のころのお化け屋敷もそうですが、ここはそういう場所だ、出るぞ出るぞという心の準備があります。本当に怖いのは、そういうはずがないシチュエーションで出会ってしまう、「そこにあるはずのない何か」なのです。

不思議の国のアリスが井戸をのぞきます。これはもちろん勝手な想像ですが、落ちる前に彼女はそう感じたんじゃないだろうか。日常のなかでふと足元を見ると地面にぽっかり穴があって、それは中をのぞいても真っ暗で底の見えない無限の洞(ほら)であって、僕の場合そこに入るわけでもなく、何か見てはいけないものを見た気になって背筋が寒くなる。

こういう恐怖は日常にあるわけでもなく、本当にそんな穴を見たわけでもありません。あくまで「そういう感じ」なのです。動物はお化けのようなものを見て、危険と思って逃げるかもしれないが「ぞっとする」ことは多分ないでしょう。サルに暗がりでお岩さんを見せて悲鳴をあげるとは思えない。でも人間にはそれがある。人間が本能的にもっている固有の感情であって、ふつうは一生に何度も感じないが、モーツァルトを聴くと僕の場合それを何度も味わうことになるのです。

誤解していただきたくないのですが、もちろんモーツァルトの音楽をお化け屋敷に入るような気持ちで僕が聴いているわけではありません。例えば20番のコンチェルトを聴くと、その時の精神状態によるのですが、とてつもない変化が心に起きて、それが何か僕の耳が普通でないもの、異形なもの、時に異様なものまでをそこから聴き取ってしまった結果としか思えなくて、それ以外の原因でそんなことが起こるはずがないから「怖い」という言葉で表現するしかなくなってしまうという感じなのです。そんなことがモーツァルト以外のいかなる音楽で起きたこともなく、起こるとも思えません。

どんなジャンルであれ音楽好きの方は、理由もなくある曲が、あるいはその曲のある部分が、楽しい、気持ちいい、ずっと聴いていたいというような経験がおありと思います。クラシックをそういう風に聴いて悪いはずもなく、僕はベンチャーズ以来いまでもそうやって楽しんでいます。シューベルトの歌曲のもつ文学性とか、ベルリオーズの狂気とか、そういう文学的なコンテクストを読み取ろうとする聴き方は性に合いません。同様に小林秀雄のようにモーツァルトに「走る悲しみ」を聴き取るなど、とうてい無理であります。

モーツァルトの音楽の魅力が、あるいは彼の人生の晩年の悲劇が、聴く者にそういう情緒的、文学的な感興をもよおさせるのはどこかわかる気もします。自分自身もし彼がハッピーエンドの人生を送っていたら、あのレクイエムに同じ気持ちで接したかどうかの自信はない。しかし、それゆえに、彼の音楽は後世の信奉者によって無用に情緒的、文学的に美化されている気がしています。まるで老いらくの恋のラブレターの嵐であり、その結果として相手の女性がどんな美女だったかということばかりに世の中の想像や関心が偏っているようです。

ラブレターは嬉々としてふざけて羽目を外す彼に向けられることはあまりなく、ほとんどがその陰にある悲しさや辛さや寂しさ、忍び寄る死の影へのおそれなどという負のベクトルの方に向けて書かれます。日本人に彼のファンが多いのは、辛さ苦しさに耐えて表面は明るくつとめながら健気に生きる人間を好きな国民性があると思います。いわば「おしん」のような姿です。だから彼のあまり多くない短調曲こそ「おしん」の本音がぽろりと漏れ出た感極まる泣かせのセリフであり、そこに尋常ならぬ清らかな美、すきとおった涙を聴き取ろうとするかのように僕には思えます。

そういう方々を否定する気はありません。しかし僕は彼の手紙と自筆譜を見て思うのですが、彼は非常に頭のいいプラグマティックな職人であって、作曲という行為は有能なインベストメント・バンカーが手慣れたプレゼンを10分で作ってしまうのと似て、とても技術論的なものに立脚していると思うのです。プロのバンカーもビリヤードをしながら素晴らしいプレゼンを書けてしまいます。そうやってドン・ジョバンニの序曲を書けたからモーツァルトは天才なのではなく、そういう実務的な書き方の天才であったわけです。ですから、彼は悲しいから涙を流して短調曲を書いたわけではなく、必要だから、何かの動機で書きたいから書いたのだと思います。

例えばピアノ協奏曲23番は両端楽章がイ長調で、まんなかの第2楽章は物悲しげな嬰へ短調です。20番は両端がニ短調、まんなかは変ロ長調のロマンツェです。もちろん書いてる途中で気分が変わったからではなく、全体のバランスをとる必要を感じたからでしょう。三大交響曲も39、41番と両端が長調で、まんなかの40番がト短調であるのは、別に「走る悲しみ」の衝動に襲われたのではなく、あくまで冷静に3曲で一括りという当初からの設計があって、バランスを考えたに違いありません。

彼はパリでお母さんをなくしてもウィーンで故郷の父の死を聞いても、それをうかがわせる葬送行進曲のような曲は書いていません。彼にとって作曲というのは生活や感情を映す鏡とは別のものだったようです。どんな歌手でもその個性にぴったりのアリアを書くのが得意でした。まるで洋服の仕立て人のようです。世の中には「悲しげな洋服」があるわけではありません。悲しいならばそのシンボルである喪服というものを淡々と仕立てればいいということでした。彼の短調はきっとそういうものです。

即興が得意ということは、弾きながらリアルタイムで作曲できるわけですが、彼の場合は楽器すら必要なかったようで頭の中で弾いた即興がバチカンの秘曲のようにメモリーされ、あとはそれを譜面に落とすだけでした。だから自筆譜はまるでいきなり清書のようで、41番などほんの一部を除いて小節を削除したり後から加えたりした痕跡すらないのは驚くばかりです。それは作曲のミクロ部分を行いながら別の知性がマクロ的なプロポーションまで設計しているということであり、あらゆる作曲家のなかでも特別な能力だったと思います。

そういう作曲のなかで、どうしてああいう「怖い」ものが混ざってくるのだろう?それは子供時代の曲にはないのでやはり彼の精神の成熟と関わっていると思います。古典的な音楽に耳が飽き足らなくなってきて、どこかで境界を踏み越えてしまう。ドン・ジョバンニの地獄落ちのシーンにつけた音楽はそういう性質のものであって、彼はあそこを書きたくてあのリブレットが気に入ったんじゃないか、そう思います。そしてあれを書く予行演習はピアノ協奏曲の20番、24番で積んでいるのです。それはそれらがすべて短調曲だから、デモーニッシュだから怖いのではなく、怖いものを書くための小道具に短調という喪服が欲しかっただけです。

ピアノ協奏曲20番の第3楽章のピアノソロ譜です。5小節目から耳鳴りのように鳴り続けるA(ラ)の音を起点にオクターヴ上のAまで音が半音ずつずり上がっていく。すると今度はD(レ)を起点に半音ずつずり下がり始める。12音音楽の萌芽を見ます。大変恐ろしい音です。この部分を、より抽象化された方法で、同じだけの怖さをもってそっくりに書いたものがバルトークの弦楽四重奏曲第5番の終楽章に現れます。彼がこれをベースにしたことを僕は確信します。

モーツァルト20番

長調曲では喪服はいりません。それでも彼は恐ろしい音を書き記している。例えば下のピアノ譜はジュピター交響曲の第2楽章です。枠内の和声は古典派の規則性で動いてきた帰結として当然のような顔をして現れますが、出てくる音は凄まじい。

 

これらはほんの一例にすぎません。

彼の音楽を美しい、快活だ、典雅だ、明朗だ、悦楽だ、かわいらしい、デモーニッシュだ、絶望だ、悲しみだ、と人々が評するのは、日常のなかでふと足元を見ると地面にぽっかり穴があって、それは中をのぞいても真っ暗で底の見えない無限の洞(ほら)であって、それが及ぼした作用を無意識に感知したからなのではないでしょうか。誰もがそういう普通でない何かを感じるからモーツァルトをくりかえし聴くのであって、そうやって培われてきた深い愛情を、人それぞれが自分の方法で表現したものがそれなのではないかと僕は思っています。

 

 

(こちらにどうぞ)

 

モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466

バルトーク 弦楽四重奏曲集

 

 

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クラシック徒然草-どうして女性のオーディオマニアがいないのか?-

2014 JAN 8 1:01:10 am by 東 賢太郎

一昨日は仕事始め、昨日は弊社で日本料理「くろぎ」さんにて本年一番乗りのランチをさせていただきました。鯛めしがうまかったですが、これも縁起ものです。オーディオの話になり、いま持っている装置に落ち着くまでの長い道のりをいろいろ思い出しました。そこから一気に飛んで、どうして女性のオーディオマニアがいないか、という話になりました。いるんでしょうが、あまり聞いたことはないですね。

わが家でも、あんなものにあんなに使って・・・と白い目で見られており、スーパーで1円単位の値札を見ている主婦感覚では買わないでしょうと僕も納得なのです。でも、それだけなんだろうか。

自分の幼時を思うに、僕のおもちゃは鉄道模型、妹は着せ替え人形であって、一時たりともそれを交換してみたいと思ったことはありません(あったらこわいですが・・・)。いや、人形が陶器みたいに精巧にできていれば思ったかもしれませんが、リカちゃんはどう想像をたくましくしても人間と思い込むことはむりで、鉄道模型とそこがちがうのです。

電車であれ船であれ男の子はそれを「いかに本物っぽくするか」(というか、そう思い込むかですが)に興味の大半があると思います。女の子は人形のリアリティよりかわいさ、着せ替えた時のトータルなイメージチェンジが楽しんじゃないでしょうか(勝手な想像です。ちがってたらごめんなさい)。そう考えるとオーディオというのはまさに「本物っぽさ」の追求だから男の子的な部分が大きいオモチャなのだというすっきりしたお答えになるのですが・・・。

オーディオで追いかける本物らしさというのが「ハイファイ(High Fidelity)」というものです。高忠実度ですね。しかし僕の感覚ですと、マニアの追っているのは本当は本物じゃない気がします。なにか別の「ハイファイっぽい音」のような。これは盆栽に似ています。ああいう植物は自然界にはありません。あくまで盆栽の鉢の中だけの人工的な世界ですが、その限界の中でギリギリの本物っぽさを競っているように思えます。

ハイファイっぽい音がコンサートホールで鳴ることはありません。盆栽の木が庭に生えないのと同じです。嘘の美なんです。嘘の本物っぽさって、いったいなんでしょう?最初っから庭に木をなぜ植えないんでしょう?これはアニメの女の子の「星目」を連想します。とてもデフォルメされた、現実離れした日本独特の顔です。それを「かわいい」と愛でる感性は女の子っぽい、あのリカちゃん人形の世界につながります。めざすものが可愛さになると、もうぜんぜん別世界です。

ハイファイの本物っぽさ追求という男の子的世界に、実は女の子的世界が混ざっている。これは日本製のアンプやスピーカーにいつも感じる特徴です。きれいなんですが。

ところで話しても信じてもらえないのが、スピーカーケーブルを替える効用です。僕もドイツでそういわれて半信半疑で替え、初めて納得しました。システムが中級未満であればあるほど効きます。高価なものである必要はありません。アンプやスピーカーを替えるよりはるかに安価であり費用対効果は大であります。是非お試しください。

 

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男の脳と女の脳

「女性はソクラテスより強いかもしれない」という一考察

 

クラシック徒然草-モーツァルトのピアノ協奏曲-

2014 JAN 2 3:03:03 am by 東 賢太郎

僕にとって人生に欠くことのできない、いわば至高の楽しみというものがいくつかありますが、モーツァルトのピアノ協奏曲を聴くことはその最右翼のものです。

僕が人並みにモーツァルトを楽しめるようになったのは遅くて大学時代です。ロシア物と近代音楽からクラシック入門したため、それまでは全然だめでした。入学してすぐフェレンツ・フリッチャイ指揮のウィーン交響楽団の3大交響曲を買い、そこそこ気にいりました。しかし決定的にモーツァルトの魅力を知ったのはオットマール・スイトナー指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の交響曲集(パリ、ハフナー、リンツ、プラハ)でした。そして、ピアノ協奏曲の方でそれに当たるのはエリック・ハイドシェックとアンドレ・ヴァンデルノート指揮パリ音楽院管弦楽団による20、23、25、27番でした。

そこからだんだん好きになって、弦楽四重奏曲「不協和音」、クラリネット協奏曲、オペラ「魔笛」、「コシ・ファン・トゥッテ」を全曲暗記するまでハマってしまいました。会社に入るとそういう時間はなくなりましたが、3年目に留学生に選ばれたので悪いことにまた時間ができてしまったのです。若かったので真綿にしみ込むように音楽が頭にはいりました。MBAを取ると即ロンドン赴任でしたが、これがまた僕にはラッキーで、モーツァルト大好きの街ロンドンでさらに深く深く彼の音楽にのめりこむことになりました。

ロンドンの郊外にあった家では毎日寝ても覚めてもクラシックを聴いていたのは当然で、土曜日は家内と車で街に出てLP、CDを買い中華料理かイタリアンを食べるのが日課ならぬ「週課」でした。一時期、モーツァルト、ベートーベン、ブラームスばかり聴いていて、そういう時期に生まれてきた長女は言葉を話す前にブラームスの4番を覚えました。そんなに聴いたら飽きるか?飽きないからクラシックはいいんです。確かに新世界交響曲を聴いても昔の感動はもう得られませんが、この3人の音楽を飽きるには人生は短かすぎます。

そういう中でも、モーツァルトのピアノ協奏曲はどうにもならいほど魅力があって、ブラームスの第1交響曲は今日は結構という日はあっても、そっちにそういう日はありません。これから彼の曲を聴いてみようという方はピアノ協奏曲から入るのがお薦めです。オペラは長いし交響曲は彼の代表作というほどではありません。シンガーソングライターみたいな存在だった彼が自分を売り込むコンサート・ステージ用に最も気合を入れて書いたシグナチャーピースは何といってもピアノ協奏曲なのです。

僕の場合、どれが好きかというのはなかなか難しくて、やはり最後の方の20-27番がいいのですが、27番よりは9番をよく聴いたりもします。10、14,17,19番もよく聴きます。いや12,15,16,18もいい。こういうことになって結局選べないのです。それでも、最高峰が24番であることはことあるごとに公言していて、ただしそれはそのジャンルということではなく、彼の626曲の全作品中で「レクイエム」「魔笛」などと並んで僕が重要な音楽と捉えているからです。

ハイドシェックどうしてもその次を挙げろと強盗にでも脅されれば、しかたなく25番です。それから僅差で20,23番です。この3つは上記のハイドシェック盤(右2枚)があるのが有難いことで、P協だけでなくモーツァルト入門という意味でも強力にお勧めします。この23番など愉悦感の極みで、これがつまらなかったらモーツァルトとは縁がなかったと思っていただくしかないでしょう。ただ、どういうわけかこのEMI録音の名演はCD屋でもi-tuneでも見かけません。このピアニストが再録音したからでしょうか。そっちはだめです、あくハイドシェック25まで若かりしころのヴァンデルノート・パリ音楽院Oの方を探してください。25番もこれが僕のトップ3に入りますし、20番はいろいろな解釈があるのですがこれの変幻自在な表現はやはり一級品です。27番もいいです。モーツァルト好きでお持ちでないかた、これはマスト・アイテムです。こういうスタイルがお好きでない方も納得されるでしょう。ハイドシェックは有名なシャンペン酒蔵エイドシークの御曹司です。彼も年を取って、最近の録音は僕はあまり好きではありません。しかし1962年録音のこのころは、まさに天才的な演奏をしていたのです。

レコード会社は何をやっているのかと思いますが、探してもないものはないのかもしれませんし、海外にお住まいの方はより手に入れにくいでしょう。今年はモーツァルトの名曲を多めに取り上げてみようと思っていますので、その都度、現在市販されているものの中からお薦めのCDは書くつもりです。

クラシック徒然草-テレサ・テン「つぐない」はブラームス交響曲4番である-

2013 DEC 15 14:14:52 pm by 東 賢太郎

きょうTV でたまたま今年のカラオケで歌われたランキング上位曲でテレサ・テンの「つぐない」をやっていました。この曲は昔からちょっと気になっていました。

つぐない1984年の曲のようです。だから僕はロンドンにいてこれもテレサ・テンもたぶんあまり知らなかったし、そもそも興味がなかった。東京本社に転勤になった90-92年のどこかです。僕の課の忘年会か何かでカラオケに行き、部下の女性がこれを歌ったのは。「えっ、Fさんなに償うの?」ときいてしまうような明るい人で、不思議な笑顔でひょうひょうと彼女が歌った意味ありげな歌詞にみんな爆笑でよく覚えているのです。92年にドイツへ転勤になり、2000年に帰るまでこれを聴く機会はほぼなかったと思います。

海外生活16年の僕にとってカラオケで知ってあとから本人の歌をきくなんてことは日常茶飯事。これもそのひとつで、「つぐない」はテレサでなくFさんの曲だったのです。聴いていきなり気になったのは、とてもstickyでsoulfulな和音です。何ともいえず体にまとわりついてくる。「優しすぎたのあーなたー」のところのバス!これはすごい。弾いてみたい。と思いつつ、いつもカラオケで誰かのを聴いていつもそれっきりで忘れてしまっていたのでした。

ということで家でこれを聴けて思い出したのは僥倖であり、さっそくピアノに向かい、そして驚きました。

これが今も歌われている。なるほど。納得です。耳コピですが和音をコードネームでふってみました。

(Aaug)窓に(Dm9)西陽があたる部屋(Gm)は                      いつも(A7)あなの 匂る(Dm)わ                         (Aaug)とり(Dm9)暮らせば (D)お(Daug)もい(Gm9)出すから         壁の傷(Dm)も 残したま(A7)ま おく(Dm)わ

愛をつぐ(Gm7)なえ(Gm6)ば (A7)別れな(Dm9)けど
こんなおん(Gm9)でも (C7)忘れないで(F)ね
(F7)優し(D7)すぎの (Gm9)なた
(A7)子供みたいな(Dm9) なた
(B♭)あすは人(E7)志に(A7)なる(Aaug)けれ(Dm)ど

コードネームの所で和音を変えます。太字はaug(オーグメント、増三和音)というコードが現れる部分です。augが四か所ではっきりと鳴りますが、ご覧のように、メロディーの通り道でも各所で一瞬だけ鳴っています。augの哀調が全曲を染めあげているのです。それから、下線はメロディの頭が倚音といって三和音からはずれた非和声音の部分ですが、ご覧のように、7度、9度の倚音があちこちに散りばめられています。主音をめぐってさまよいながらフラフラと落ち着くことがない。あーなたー、あーなたー、と2回もあーに倚音でアクセントがつくのは男心にグッと響きます。うまい。もうニクイかぎりです。

この曲はニ短調(Dm)なのに「まーどーにーにしーびがー」という出だしで主音の「レ」が出てくるのは「びがー」からです。そこまでにまずラーファード#-と来て(この部分がaugです)じらされる。さてやっと「レ」が出るかと思いきやまたまたミミ-(倚音)に飛んで、それからやっとレレーが出ます。このうじうじして主音になかなかたどり着かない様は主人公の迷い、切なさでしょうか。彼女が何をつぐなっているのかは明かにされませんが、詩と音楽が見事に融合して女心の葛藤を描いていると思いませんか。

そのぐらいはまだかわいい。この曲を大名曲にした決定打はご覧のようにaugに始まりaugに終わることでしょう。augで終わる曲は?ほとんどないですが、クラシック好きならまず一つ浮かびます。J.S.バッハの最高傑作である「マタイ受難曲」です。曲の最後の最後、ハ短調Cm主和音(ド・ミ♭・ソ)に無理やりシを食い込ませ、あえて強烈な不協和音として血のにじむような苦しみ、心に突き刺さるような痛切な音でマタイ受難曲は幕を閉じます(だから厳密に言えばCm+7であってGaugではないが、バスがcかgかの違いです)。「つぐない」の最後は僕にこの音を思い出させます。

しかし「つぐない」の救いようのない哀調、失っていくものへの後悔のような感情をもっとよく表している曲があります。ブラームス4番第1楽章です。曲頭のシソー、ミドー、ラファ#ー、レ#シーの最後のシーにレ#が残る形でaugがすぐ出てきます。「愛をーつぐ(Gm7)なーえ(Gm6)ばー」の部分も非常にブラームス4番的であります。「明日は他人同士にー」の「同志にー」の所のE7も、ブラームス(ホ短調なのでF#7)にまったく同じ和声的脈絡で出てきます。そして、コーダではまぎれもないBaugが3回痛烈にたたきつけられ、有無を言わさぬ悲痛な終結となる。これもaugで終わる曲なのです。

作曲家の三木たかしさんがそれを意識したのかどうか。亡くなったのでお聞きすることはできないのが残念でなりませんが、(F7)優し(D7)すぎたの(Gm)あーなたー、こんな素晴らしいメロディーを書かれる作曲家にそんな想像はかえって失礼な話かもしれません。三木さんには「津軽海峡冬景色」という名曲もあって、やはりマイナーキーの哀調を生かし切っています。今時のテレビで短調の曲が流れることはまれではないでしょうか。これがもう戻ってこない昭和なんでしょうか。しかし平成の世でも、「つぐない」が日本の女性に広く歌われ愛されているのはなにかほっとする気もいたします。ちなみに娘も好きだそうです。

最後に、 これを歌ったテレサ・テンさんは外省人であった軍人の娘で4種の中国語、日本語、英語、マレー語、フランス語を話せたそうです。台湾の国民的歌手、アジアの歌姫として国内外で一世を風靡したのに気取りのない人柄だったそうです。彼女をほとんど知らず、95年に亡くなったときもニュースとして淡々と聞いただけ。今初めてじっくりと聴きました。透明なのにあたたかくて癒される声です。何となくずーっと聴いてしまいました。何とも気の毒なことに旅立たれたのは42歳だった。

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クラシック徒然草-ユリア・フィッシャーのCD試聴記-

2013 NOV 29 23:23:16 pm by 東 賢太郎

ハチャトリアンのヴァイオリン協奏曲は高校時代にダヴィッド・オイストラフと作曲者の指揮によるLPをすり切れるほど聴きました。いつぞや書いた「遺伝子の記憶」だったのかどういうわけだったのか、初めて聴いた時からこの曲にはゾクゾクして魅かれるものがあり、コーガン、シェリング、ヘンデル、エルマンなども愛聴してきました。アラム・ハチャトリアンはアルメニア人です。つい先日のブログに書きましたがいま僕は仕事で旧ソ連CIS(Commonwealth of Independent States、独立国家共同体)を調べています。アルメニアはCIS加盟国であり、たまたま、しばらくご無沙汰だったこのコンチェルトが気になり始めていたところでした。

先日N響で聴いたトゥガン・ソヒエフはチェチェン共和国も含まれる北カフカース連邦管区の北オセチア出身で、CISではないが地域的にはしごく近い。カフカースとはいわゆるコーカサスのことであり、アルメニアは南コーカサスである。僕がクラシックに入った曲がそのコーカサスを描いた「中央アジアの草原にて」だったことはブログに何度も書きました。そうしたら、不勉強で申し訳ないが最近気にいっているユリアのCDデビュー曲がそのハチャトリアンだったことを知りました。彼女は11歳でこれを聴いて好きになったそうです。このコンチェルトを指揮者クライツベルグとやった演奏会がすばらしくて、そのことが録音のきっかけとなったそうです。その演奏会の場所がフィラデルフィアであったそうで、これまた僕の留学先です。どうも縁を感じてしまいます。

ブルッフというわけで彼女のCDを2枚買って聴きました。まずは新しいブルッフとドヴォルザークです。期待しましたが、どうも音が奥に引っ込んで散漫な感じがする。このチューリヒ・トーンハレというホールで僕はこの管弦楽団を2年半聴きました。そのこけら落としだったでしょうかブラームスが来て自作を振ったそうで、その100周年のブラームスシリーズもここで聴きましたし、感動的だったショルティの最後の演奏会もここでこのオケでマーラーの5番でした。当時小学生でチューリヒ日本人学校にいた長女がここの舞台で和太鼓を叩いたりもして、けっこう思い出の深いホールなのです。

しかし、どうも見かけほどは音がよくない。音が拡散気味でコクがない。コンセルトヘボウやムジークフェラインとは比ぶるべくもなし、オケもそこの2つのオケとは比ぶるべくもなし。大吟醸と清酒ぐらいの差。ジンマンという指揮者は器用でうまいが好みではなく、自然とやや足が遠のきました。チューリヒ湖畔で会社から歩いてたった10分の所だったのですが・・・・。このCDは忠実にあの音ですね、残念ながら。ホールトーンを多めに独奥系の音を狙って遠目のフォーカスにしたかもしれないが、あの音を2階席奥から聴く感じです。ブルッフは特にオケが重要な音楽です。

これが老舗の名門Deccaの音だと主張されるならそれはそれで構わないが、平板でつまらないものは正直に仕方ない。ブックレットのクオリティも含めてどうも感心しない。クラシックレーベルの経営が楽でないことは重々承知だが安易な感じがします。灘の剣菱という赤穂浪士が討ち入り前に飲んだという清酒の老舗が商業化して味が落ちたことがある。ああいうことにはなってほしくない。マイナーレーベルのPentaToneは大事に作っていたが、ユリアもFA移籍で読売ジャイアンツに行った大物選手みたいにならないように切にお願いしたい。

ユリアの演奏は彼女らしい張りと緊張感があります。しかしこの遠い位置の録音だと彼女の室内楽的なオケとの交歓がよく察知できない。ライブは確かにこう聞こえるが視覚情報がない録音ではもっと聞こえてほしいものがたくさんあります。このCDはユリアよりも全体ポリシーが勝ったもので、ソリストは彼女でなくてもいいという性質のもの。それにしてもブルッフの第2楽章の高音は音楽に没入して彼女にしては珍しくやや甘い。ライブならこれでもいいが・・・。ブラームスの第1楽章コーダもそうですが、そういう部分を彼女は重視していて(それは大賛成だが)、知情意のバランスが動く。基本的にそのバランスがきっちりしている人だけに、そういう部分では若さが顔を出すように思われます。

ロシア41CP9FNWEEL._SL500_AA300_次にいよいよハチャトリアンです。これは良かった。この曲の最高級の演奏と太鼓判を押します。オイストラフに比べるとローカル臭は希薄であり、エルマンの訛り(なまり)もヘンデルの色香もなく、中央アジアの草原をスポーツカーで走る観なきにしも非ずですが、こういう方向の演奏でこれほどの完成度のものはなかったでしょう。ロシア国立管弦楽団が小味で繊細な音を出しており、クライツベルグは非常に良くつけています。この曲の伴奏としてトップクラスの名演です。彼は11年に51歳で癌で亡くなりましたがユリアとは実に音楽的気質が合っていたことがこのCDで分かりました。

プロコフィエフの1番。第2楽章はN響ライブで聴いたイザベル・ファウストと双璧の名演です。透明な叙情がいくばくかの妖しさを秘めた和音が印象的な第3楽章には彼女の感情移入を感じます。よく聴かないとわかりませんが。そうした密やかなエモーションがクールな知性と細部まで神経の通った研ぎ澄まされた技巧でラップされているのが彼女の演奏の個性で、ここでは成功していますし、ハチャトリアンでもそれは一貫しています。これと2番とどっちを弾くかで性格が分かりますがユリアがこっちを採ったのはわかる気がします。僕はどっちも好みなので、いずれ2番もお願いしたいですが・・・。

PentaToneの録音につき一言。SACDの効能はオーディオ通ではないのでわかりませんが、よろしいですね。情報量、クリアネス、弦の質感ともいい。これはモスクワのスタジオのホールトーンとオケの優秀さにかなり由来していますが技術者の耳の良さ、音楽性、良心も感じます。この会社は旧PhilipsのエンジニアらがMBOして設立したそうで、少なくともこのCDは僕の好きだったPhilips系のオケの音がします。この業界のMBOではおそらくキャッシュフローが楽ではないはず。看板のクライツベルグがいなくなったのも不運です。頑張ってもらいたい会社です。

グラズーノフ、これはロマン派の残り香がある名曲ですがあまり演奏されなのが不思議です。是非広く聴かれるようになってほしい。ハイフェッツ、オイストラフの名演がありますが、ユリアは彼女の個性で大家に対抗できていますね。G線の色香もなかなかで、彼女はけっして音程が良くて、左手が動いて、清楚なだけのヴァイオリニストではない。こういう表現は若くないと、逆に大家ではできないでしょう。クライツベルグのオケがここでもよく支えています。9年前の録音ですが、いやはや凄い才能を再確認いたしました。

 

ハチャトリアン ヴァイオリン協奏曲ニ短調

 

ユリア・フィッシャー演奏会を聴く

クラシック徒然草-おふくろの味だったティーレマン指揮ウィーンフィル-

2013 NOV 12 0:00:04 am by 東 賢太郎

今日はウィーンフィル演奏会でベートーベンの7番と5番を聴きました。サントリー・ホールでのD社ご主催の日で、小泉元首相はじめ僕の古巣である両社の元社長などもおられ(久しぶりにお会いしましたが)全部招待客だったようでうす。ご隆盛をきわめるD社のH会長、Y常務には大変お世話になっており、弊社をこのような席にお招きいただき心より感謝申し上げたいと思います。

さて演奏ですが、多言を弄するまでもなく実に良いものでした。クリスティアン・ティーレマンは名前は聞いておりましたが聴くのは初めてです。前半が7番、後半が5番でしたが、伝統的かつ保守的そのもののベートーベンです。このオケが100年前から営々と演奏してきた流儀を損なうことのない、悪く言えば創意工夫のないものでしょう。

しかし、この流儀、僕らの世代がフルトヴェングラー、ベーム、イッセルシュテットらで聴きなじんできた昔のウィーンフィルの音を思い出すのです。なんとも懐かしい「おふくろの味」!堪能しました。漬物と佃煮にご飯とみそ汁なんだけど、どれもが極上品で舌鼓を打つばかり、とでも申しましょうか。ティーレマンの棒もあまり細かい部分にこだわらず、7番は奏者たちの伝統にまかせ、それを要所要所で盛り立てるという風情です。

古楽器だベーレンライターだという世の風潮ですが、ではヨハン・シュトラウスのワルツがそんな風にできますか?ニュー・イヤー・コンサートを古楽器でやりましょうか?そんなとんがったことしなくてもこれで充分でしょう?だって我々はウィーンフィルなんですから、とでもいう感じです。参りました。その通りでございます。

ふっくらした芳醇な弦(特にヴィオラ!)、あでやかな花園のような木管、木質で浮き出ない金管、革張りのティンパニ、特筆すべきはフルートの見事な縁取りと完璧なピッチ、上質のクリームのように滑らかなクラリネット、木管・ホルンのアンサンブルの天国的美しさ。まさに極上のウィーンフィルの音であり、これ以上は何も要りません。同行した長女もそれを楽しんだようです。

5番は名演でした。拍手が終わらぬうちに開始。リズムが生き、音色に見事なコクのある第1楽章。古雅な音がする第2楽章。ウィンナホルンが魅了する第3楽章、そして圧巻の加速で閉じる終楽章。ティーレマンはテンポのうねりで大きな波を作り、金管群をあおりにあおるなど自発性に任せながらムチはしっかりと入るという指揮であり、カラヤンよりはフルトヴェングラーを思わせるものがあります。期待の大器ですね。

今どきこんな古風なベートーベンが聴けるとは思いませんでした。ブラヴォー!

 

 

クラシック徒然草-ユリア・フィッシャーと楽天マー君-

2013 NOV 6 13:13:28 pm by 東 賢太郎

ユリア・フィッシャーさんについては書きたいことがたくさんある。驚いたことにこれが8歳の彼女だ。

まず少女の堂にいったうまさに唖然とするわけだが、それだけではない。もっと驚いたのは彼女の音への厳しさだ。音というものが音楽を生成し、人のこころを打つのがどういうことか、この少女は知っている。そのために耳元でどういう音が響かなくてはならないかを。僕はそのようなことをカーチス音楽院できかせていただいたチェリビダッケの講義で知った。しかし彼女には生まれつき当たり前のこととして備わった感性のように見える。あえてそれを音楽哲学と呼ばせてもらうなら、この8歳の子には哲学があるのだ。驚くしかない。

このブラームスの凛とした入りを聴いてほしい。

この揺るぎのないフレージングとピッチ。高原の山肌に湧きでる清冽な泉だ。それも軟水ではなく硬水の。先日N響で聴いたライブとは雲泥の差だ。腕前ではなく演奏者の音楽観や哲学がである。彼女のソロが出るやオケのおじさん方に電気が走り、スイッチが入っていくのがわかる。ほんとうにすごい。

ユリアは pp にも電気を持っている。みな今日はいっちょうやるしかないなという空気になる。第1楽章コーダの静かなところを聴いてほしい。なんという見事な高音だろう。西の天空をオレンジにそめる夕陽。人生のたそがれの慕情をぎりぎりゆっくりのテンポで歌う彼女の眼はどこか「入って」しまっている。第3楽章の全奏がバシッと決まると彼女はオケににこっとする。「いいね」のサインだ。オケはまたその笑顔がほしくて燃え、いい音を出してしまう。指揮者もオケも彼女のしもべだ。なんという大器、大物だろうか。

こちらで同じブラームスをヤコブ・クライツベルグ指揮ネザーランド・フィルでより良い条件で聴ける。

http://youtu.be/S8EfvCqf7gs

ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流 で「同曲トップを争う名演」と紹介したチャイコフスキーと指揮者は同じだ。残念ながらここではオケがやや硬くて小じんまりしており、フィッシャーもさすがにブラームスでは表情がまだ若くて同曲トップとはいかない。しかしいずれ彼女はこの曲にふさわしい大人の奥深さと風格をまとった演奏を聴かせてくれるに違いない。

話は飛ぶが、先日、楽天のマー君がなぜ負けないか考えていた。日本シリーズの投球を見ていてわかった。技術だけではない、彼の「気」だ。160球投げても翌日志願して敵をやっつけに出てくる。この「気」がナインにもベンチにも伝播する。ナインはみんなもと野球少年である。野球好きの血が騒ぐ。彼が投げたら変な試合はできないぞという電気がみなに走る。「勝てる」「勝つぞ」となる。だから勝てるのではないか。球の速い投手はいくらもいるのにどうして彼だけ連勝したかというと、そういう「気」を発することができる人がほとんどいないからだ。そしてそれはユリアの持っているものと、とても似た気がするのである。

そう考えるにつけ、日本の演奏家やオケというのはどうしてあんなにクールにお仕事みたいに弾くのだろうと思う。うまいのだが「気」が出ていない。楽しくないのだろうか。女の子にはピアノというのが本邦の定番だ。女性がピアノを弾けるというのはいいものだが、別に音楽にジェンダーはない。ピアノが弾けないと嫁にいけないわけでもないし、ピアノがうまくなっても音楽好きになるとは限らない。一流音大ピアノ科に入ったが田園交響曲を聴いたことがない子に会ったこともある。僕が驚いたら「そうなんですか?周りも似たもんですよ」と逆に驚かれた。

なぜ驚くかというとそういうことは野球では絶対にないからだ。草野球だってやってる子はすべからく野球が飯より好きだ。外野手だからピッチャーのことは知りませんなどということはない。だからその頂点にまで行き着いたプロ選手が、実は親にいわれてやっただけです、本当は興味ないんですがなどということは100%ない。彼らは勝ちたくて試合している。だからいいプレーが出る。グラウンドで客を感動させようとショーを演じるわけではないが、野球の好きな客はいいプレー、自分ではできないプレーが見たい。だからそれを見て感動するのだ。 先日行った日本料理「くろぎ」の黒木氏は「舌が鈍るから夜は食べない」という。自分が感動できないものは客に出したくないということだ。人を感動させることを職業とするプロいうものはそういうものだ。

ピアニストだから交響曲は知りませんというのはどうもおかしい。練習が忙しくて聴く暇がない?そんなことはないだろう。今どきはi-phoneで移動中でも聴ける。要は興味がないということだろう。田園交響曲に感動しない子が悲愴ソナタには感動できるとは、どうしても思えないのだ僕には。好きでもない子が弾いたピアノが人を感動させるのだろうか?よくそこまで練習したね、お上手お上手と感心はされるだろう。しかしそれは芸術創造というよりもミスのないことを良しとする銀行やお役所の仕事に近い。

これはモーツァルトのk.364(ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲)だ。

オケの前奏部分をユリアは一緒に弾いている。楽しそうに!もうソロが出る前から「気」が出ているではないか。ヴィオリストもそれを受け取って同じオーラの波を立てる。彼がちょっとしたミスをしたらユリアが「あっ、やっちゃったね」と笑いかける。彼女がリーダーなのだ。それがまたいい「気」を出す。そしてそれがオケに伝わっておおきな波となっていくのだ。楽員はみんなオンガク少年、少女だった。ハートに火がともっていく。見ているだけでこちらも楽しくなる。モーツァルトの喜びが伝播しているのだ。これが音楽というものだ。

マー君も並ぶもののない投手として金字塔を立てたが、ユリアさんはどうだろう。まだ若いが、僕は彼女が21世紀のハイフェッツになると固く信じている。

 

 

 

クラシック徒然草-イザべラ・ファウストのヴァイオリンー

2013 NOV 1 22:22:30 pm by 東 賢太郎

以前にユリア・フィッシャー、イザべラ・ファウスト、ヒラリー・ハーンが気になる3大ヴァイオリニストだと書きました。実は昨日そのひとりイザべラ・ファウストさんがサントリー・ホールでチェコ・フィルとベートーベンを弾いていて、さんざん迷ったが日本シリーズが気になって失礼してしまった。罪滅ぼしに今日は某CDショップでの彼女のプロモーション演奏を聴きに出かけました。

J.S. バッハを弾きましたが、パルティ―タ3番のプレリュードなど彼女の音楽は非常に人を集中させ、惹きつけるものがあると感心しました。トークもあって、バルトークを11歳から弾いていた話、その1番の協奏曲は校訂が進んでいないため自分でブダペストのアルヒーフまで行って初演時の手稿まで研究した話など面白かった。本当に音楽が好きで没頭しないとプロとはいえ普通はそこまでしませんね。大変知的だがお人柄もよろしい純真な方という印象でした。

このCDを買って、普通そこまでしないのですがあまりに気に入ったので列に並んでサインまでもらってしまいました。

写真 (42)

このJ.S. バッハ無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティ―タBWV1004-1006は愛聴しそうです。僕の愛聴盤はシェリングなのですが、彼女のきりりともぎたてのレモンのような、それでいて聴き手をまきこむ強い求心力のある演奏は実に新鮮です。

近くで聴いて深みのある楽器でもあったのでおたずねすると「ストラディヴァリウスです」とのこと。これだけひとことお礼を言いたかったので「以前きいたN響とのプロコフィエフが良かった。ありがとう。」と伝えると、驚いたようににっこりされました。

 

クラシック徒然草-鑑賞する側の作法-

2013 SEP 19 17:17:45 pm by 東 賢太郎

鑑賞する側にもそれなりの研鑽とまでは言わないが、作法がある。

ブログ九月花形歌舞伎における西室兄の指摘は正鵠を得ている。歌舞伎を知らない僕は、歌舞伎にそういうものがあるかどうかもよくは知らない。それでも、「見得の時に大向うから掛かるかけ声」というのは、単なる本能的な歓喜の雄叫びであるブラヴォーなどとは違ってタイミングを失するとアウトだということぐらいはわかる。

クラシックの演奏会というのは1時間も黙って同じ姿勢でいるのだからちょっとつらい。だから子供は入れないことになっている。しかし、おしゃべりこそする人はいないが、プログラムをペラペラめくる人は多い。あめ玉をむこうとしてセロファンのパリパリ音を延々と立てる人もいる。あまり長いので、むいて差し上げましょうかと声をかけたくなる。イビキをかいて寝る人、時計のタイマーを鳴らす人。いろいろある。

日本人は一般的に拍手の入りが早い。フライング拍手というそうだ。最後の音を待ってましたと間髪入れずに出る。ドイツやイタリアでそういうことはあまりない。余韻も音楽のうちだし、休止符で終わっている曲もある。田園交響曲などしばし誰も出ない時があって、その不意にぽっかり空いた時間がとても良い感じだった。たいしたことない演奏には拍手はそれなりにしか続かない。聴衆はとても厳しいのだ。ところが日本はそういうのでもブラヴォーが飛びまくる。あれは花束の女性とセット割でもあるのかななどと考えててしまう。

チャイコフスキーの悲愴は、第3楽章の終わりで拍手が出てもああ来たなと受け流せるだけのたゆまなき精神の鍛錬を必要とする交響曲である。しかし消えいるように終わる第4楽章の勘違いブラヴォーだけは心の防御のしようがない。一度など、やはりそれを恐れている指揮者がわざとまだ棒をおろしていないのをあざ笑うかのように見事に出た。それも、すわっ、誰かニワトリを持ち込んで首をしめたか!とびっくりするようなのがだ。あまりのフライングだったのでまさかブラヴォーと思わず本当にニワトリを心配してしまった。翌日のオケの人のブログに「光栄ですがもう少しいい声でお願いできれば」とあった。さすが紳士だ。

これもチャイコフスキーだが、5番の第4楽章だ。コーダに入る前に大音量で終止する。和音はドミナントだから「終わった感」はどう考えてもまるでない。ところが何とここで後方座席の一角を占める一群から轟音のような大拍手がおこった。それもけっこう確信をこめて思いっきりだ。100%想定外の不意打ちを食らってそこから先は僕は音楽がわからなくなってしまった。指揮者もびっくりしたろう。何とかという音楽好きの芸能人が弟子かなにかたくさん引き連れてきていたという話を後で知った。

新世界の第2楽章でイングリッシュホルンが切々とあのメロディーを吹いていると、2階席でピロピロピッピッピーと間の抜けたケータイの着メロとおぼしきものが鳴った。怒った1階の前の方の中年の男性が楽章が終わると2階に向かって大声で怒鳴った。それを見た指揮者(外人)が彼にThank you very much, sir. と笑顔で最敬礼したので場が和んだ。

まあこういうのは聴く側の研鑽というより、それ以前のマナーの話だろう。こればかりはどうしようもないので、ホールやオケを選んで出かけることになる。招待券をばらまいているようなのは概してだめだ。室内楽など好きな人しか来ないようなのはまあいい。ただ静かならというものでもなく、周囲の聴衆が感動して聞き入っているとこちらにもそれがわかる。演奏者にもわかるのだろう。そうすると名演奏になったりする。やっぱり研鑽は皆でした方がいいのかなとも思う。

 

クラシック徒然草-愛器アウグスト・フェァシュター社ピアノを調律してもらう-

2013 SEP 8 0:00:14 am by 東 賢太郎

写真 (19)今日は1時からピアノの調律をお願いしました。ご近所にお住いの本邦調律界の大御所U先生にうかがったところ、ウチのアップライト(右)は旧東独のAugust Förster社製のものなのですが、日本にはあまりないとのこと。ぜひ見てみたいと初回は大御所本人が来てくださいました。その時に「将来を嘱望する若手のポープなので勉強させてやって下さい」と同伴されたのが白田先生でした。

写真 (17)今日は先生の2回目でした。これともう一台ヤマハのグランドをお願いし、いろいろうるさい僕のわがままを聞いていただいて終わったのは6時すぎでした。このアップライトは確か85年にロンドンのマークソン・ピアノで購入したものです。何台か弾いてみて、ひと目惚れで即決したのがこれでした。長女がロンドンで生まれたのが87年だからはるか先輩格に当たりますね。別に高級品ではないのですが、それ以来、我が家と一緒にロンドン→東京→フランクフルト→チューリッヒ→香港→東京と長旅を共にした家族としての絆を強く感じています。

調律は時間とともに少しづつ狂ってきます。それが耐えられなくて僕は調律用のハンマーをスイスで買って、自分で微調整などしてきました。しかし調律はピッチだけの問題でないのです。それが最近わかってきました。そこで今日は先生が「どんな風にしますか?」と聞くので「ラヴェルの音でお願いします!」とわけのわからんことを依頼しました。まるで床屋の会話です。「うーん、ラヴェルですか、クープランの墓?そうですね・・・・」だいぶお悩みの様子。「やってみましょう、でもこのアウグストのせっかくの音をいじるのはやりたくないですね。ヤマハの方でやりましょう」ということになりました。

写真 (18)そこから休みなしで3時間半。隣の部屋のヤマハは見事にベーゼンドルファー寄りの音に生まれ変わりました。それに感動し、先生に感謝の意をこめてこのブログを書くことになったのです。クープランの墓の一部、ショパンのワルツ、グリーグのコンチェルトのさわりなどを弾いて聴いてもらい、ほぼ音は問題なしとなって残り時間でアウグストを仕上げてもらいました。そっちではシェラザードの第1楽章を全曲、ダフニスとクロエの夜明けのところ、ドヴォルザークの8番などを。ミスタッチだらけでとても人様に聴いていただく水準には遠いのだけど本人だけは指揮者気分で満足。これがあるから僕は生きていけるのです。

先生から「ピアニストのどこで演奏を評価してますか?」というご質問。「指の回りではなく①フレージング②和音のバランスです」と答えました。「意外に好きな人が少ない。アラウだけ別格です。ミケランジェリはいいですがポリーニもアルゲリッチもリヒテルも今は聞く気がしない」とも。「ラヴェルはフランソワはどうですか?」ときたのですが、「録音がひどい。EMIの音にボディがない」ということで意見が一致しました。先生のイメージではラヴェルはベーゼン。楽器の音色のイメージをきくと「カワイは円筒、ヤマハはその円筒の中に円錐が入っていて2重、スタインウェイはさらにその円錐が2重になっているイメージを持っているんです。だからベーゼン。」と素人にはまったく理解不能の答えが返ってきました。「チッコリーニがファッツィオーリでベートーベンを弾いたのがなかなか良かった」という感想で、かなりお好みのイメージがわかってきましたとのことでした。

写真 (16)最後に先生に、「だんだんこういう音にして欲しい」と言って、ラヴェルを2つ、①アンヌ・ケフェレックの「水の戯れ」と②イヴォンヌ・ルフェビュールのト長調協奏曲の第2,3楽章をリスニングルーム(右)で僕の装置でじっくりと聴いていただきました。両者の音色の比較をああだこうだとプロの視点から詳しく教えていただき、大変勉強になりました。それなのに、「これはたぶんベーゼンだろうなあ・・・・ただ調律が特別ですね・・・・こういう音が出せるんですね。勉強になりました」と謙虚に語ってお帰りになりました。いやピアノひとつとっても音楽は奥が深いものです。この装置は1人で聴いていてももったいないし、先生のような方にお役にたてるのであればうれしい限りと思いました。楽器の方もヘタの横好きにばかり弾かれていてもかわいそうです。プロをお招きしてミニコンサートをやっていただくこともSMCで考えようと思っています。

 

ファツィオリ体験記

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