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カテゴリー: ______ベートーベン

ベートーベン ピアノソナタ第29番変ロ長調「ハンマークラヴィール」 作品106

2016 MAY 9 2:02:43 am by 東 賢太郎

このソナタは音楽であるか否かという範疇を突き抜けて、人間の精神が造りだしたあらゆるものでも最高峰のひとつであると思います。

そのような音楽がすぐ楽しめるものではなく、僕は10年はかかりました。現代音楽が耳慣れない音でもって「難しい」のとちがって、音としては奇異でもないのに何がいいのかわからなかったのです。94年にベルリンでポリーニのを聴いたのですが、それでもさっぱりでした。

この曲の第4楽章はベートーベンの讃美者だったワーグナーすら理解できず懐疑的だったそうで、20世紀まで真価は知られなかったという説もあります。僕にとって言葉がそうでしたが、日本語はニュースのアナウンサーが何を言ってるかが突然わかるようになり、英語は留学して3か月ほどして、やはりTVのCMが急に聞き取れるようになったのですが、ハンマークラヴィールソナタはそういう風にある日に急にやってきて、理解した音楽でした。

ひとことでいうと、とてもリッチな音楽です。独奏曲で40分もかかるものは作曲当時はなく、特に長大な第3楽章(アダージョ・ソステヌート)は異例だったでしょう。人間の最高の知性のすべてが結集した様はそれだけで畏敬の念をもよおすもので驚くべき輝きと建築美を放射するのですが、かといって決して無機的ではないのです。あらゆるアミノ酸が溶けこんだスープのようなもので、その養分が聴き手の精神の深いところまで届いて究極の満足感を与えてくれる。そんな曲は世の中にそうはありません。

いまこの曲の譜面を前にした心境は、ローマへ行ってパンテオンや水道橋の精緻な構造を知って感嘆するに似ます。仮にそれらを造った人が目が不自由だったとしてなんのことがありましょう。ハンディに打ち勝ったからそれが優れているのではなく、誰の作であれそれは地球上の工作物として一級品である。ベートーベンにとって聴覚疾患はそういうものです。彼は頭の中で音が聴けたのであり、それでこんな曲が書けた。聞こえたらもっといい曲が書けたわけではないでしょう、なぜならこのソナタ以上のものは想像もつかないし200年近くたっても誰も書いていないからです。

耳の聞こえる僕らはただきいて楽しめばよいのですが、どうしてもそれで済ますことはできない、耳だけではわからない何かがある、だから細部までストラクチャーを研究してみたいという僕の欲求をかりたてるという点でこのソナタは数少ない特別の音楽の一つなのです。だから何年も僕は暇をみてそうしてきており、それを書き残したいのですが膨大な分量になってしまいます。

どうするか考えますが、僕にとってこの曲がかけがえのないもの、オペラなら魔笛、シンフォニーでいえばエロイカに匹敵するものであるということを残せばとりあえず目的は達します。

冒頭です。第1主題は2つの部分からなっています。

hammer

強烈な動機を2回たたきつける。第5交響曲と同じであり、ダダダダーンの直前に休符があったのをご記憶と思います。ここではその休符を、新たに手にした楽器(ハンマークラヴィール)の強靭な低音bが埋めています。この動機は第2楽章スケルツォ主題、および後述する重要な3度下降を含んでいます。

続く部分は p でレガートが支配する女性的なメロディーで第九の喜びの歌を思わせ、同様に見事なバスラインがついています。これが9小節目のフェルマータで止まってしまうのは第6交響曲の冒頭を思わせます。作曲時点で彼は交響曲は8番まで書いていました。ステートメントとしての冒頭動機のぶつけ方は5番より8番に近いです。

この動機はブラームスが自分のピアノソナタ第1番ハ長調の冒頭にそっくり引用しているのは有名で、以前のブログでも紹介しました。

しかし、ブラームスが交響曲第4番の冒頭主題をハンマークラヴィールの第3楽章Adagio sostenutoから引用したのはあまり有名ではないでしょう。誰かが指摘したかもしれませんが僕は知りません。もしなければ東説ということです。

beethPS29

3度下降のブラームス4番主題はソナタの第4楽章にもはっきりと現れますが、既述のように、元をただせばソナタ冒頭動機にすでに3度下降の萌芽は現れています。

ブラームス4番の終楽章はJ.S.バッハのカンタータ第150番、BWV 150, “Nach Dir, Herr, Verlanget Mich” – Meine Tage In Dem Leid の引用であることも、これまた有名です。一聴瞭然であります。

ブラームスは自身の最後の交響曲となるかもしれなかった4番を、第1楽章第1主題にベートーベン、そして終楽章のシャコンヌ主題にJ.S.バッハを引用し、敬愛する先人の延長として位置付けようとしたというのが僕の仮説です。グレン・グールドの第3楽章を聴くと彼もそう考えていたのかと思うほど4番主題を際立たせている(上の楽譜で♭3つになる部分が7分26秒から。7分40秒から4番主題が鳴る。7分55秒からは誰が聴いてもおわかりになるでしょう)。

第2楽章スケルツォは冒頭動機の子供です。コーダで変ロ長調の主音bが半音上のhになり、d-f#(二長調)が闖入し、ついにhに居座ってしまうのは驚きます。B♭→Dの3度転調は第1楽章冒頭主題にも適用されますが、モーツァルト「魔笛」断章(女の奸計に気をつけよ)に書きました通り当時は珍しい転調です。

主音が半音上がるクロージングの例はあまり記憶にありませんが、シューベルトの弦楽五重奏曲 ハ長調D.956の最後の最後でドキッとさせられるc#の闖入ですね、僕はあれを思い起こします。シューベルトがこのソナタを知っていたかどうか、ウィーンの住人でベートーベンの信奉者だった彼が1819年にアリタリアから出版されたこの曲の楽譜を見なかったという想定は困難ではないでしょうか。

第4楽章のコーダでg、a、b、c、dに長3度が乗っかって順次あがっていくなどのベートーベンのプログレッシブな部分はやはりブラームスの第4交響曲終楽章コーダの入りの部分で、またこれは空想になりますが同楽章冒頭ラルゴでのf の4オクターヴの上昇はショパンが第3ソナタの終楽章の冒頭で採用したかもしれません。ショパンはベートーベンの友人フンメルと知己であり、1830年から1年ウィーンに住んでいたのです。

第4楽章の序奏部の最後のあたりで、これについてはどこがどうということはないのですが、僕はいつもブラームスのピアノ協奏曲第1番の響きを思いだしています。彼がこのソナタ冒頭を引用するほど親しんでいたのは事実であり、しかも、クララは事実これを弾いていたのです。PC1番はクララへの愛の曲であり、交響曲第4番は締めくくりの曲だった。ピアノソナタ第1番ほど確信犯的にではなく、ほのかに、しかしクララが聴けば分かるに違いない程度にハンマークラヴィール・ソナタを縫い込んだという想像は、そう的はずれでもないような気がするのですが・・・。

20世紀まで誰も理解できなかったかもしれないこの巨魁なソナタ。しかし数名だけは真価をわかって自作に引用までしたかもしれない。何か不可思議な磁力があるということ、僕如きが主張するより彼らが雄弁に語ってくれていると思います。

では最後に、ハンマークラヴィール・ソナタ全曲を。スビャトスラフ・リヒテルの75年のプラハでのライブです。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

 

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エロイカこそ僕の宝である

2015 DEC 29 0:00:41 am by 東 賢太郎

今年ほど壮絶に戦って終える年というのも記憶になく、事業としては大勝利だったのだがどういうわけかそんなに喜びや達成感というものもなく、むしろ体も精神もぼろぼろだ。安息が要る。1か月半ぶりに二子玉川まで走ってみたが、途中猫のいる橋あたりで息が切れはじめ、軽いめまいもあり結局普段の倍の2時間を要した。

僕の仕事というのは数字だけで成り立っているといって過言でない。数字はメカニックで無機的なものだ。囲まれていると疲れる。だから正月は心の内から数字を消したい。そういうときこそ、音楽の出番となる。なにか劇的な効能があるというよりじわりと左脳をしずめ、左右をバランスしてくれるから心の漢方薬みたいなものだ。

では、こういうときにすっと心に入る音楽はなんだろう?

これがどういう質問か、クラシックをたくさん知っている方はお分かりと思う。冬には、春には、うれしいとき、かなしいとき、それぞれの心境に寄りそってくれる「マイミュージック」をみな持っているからだ。僕にとっては憂鬱なときにウィンナワルツはうるさいだけだ。第九のバリトンの歌い出し、O Freunde, nicht diese Töne!おお友よ、このような旋律ではない)!なのだ。

ではどんな Töne  がぴたっとくるのか?今回のような心持ちの経験はありそうでないので実は今知ったことなのだが、小包が届いていたオッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス3,4,6、7番とテンペスト、これは琴線に響いた。第九は最後まで nicht diese Töne!  であったことを告白しなくてはならない。演奏のせいではない。曲が響かないのだ。

そうしていまさっき聴いた、買いおいていたワルターのエロイカだ。もう確信に至った。これほど僕に勇気とエネルギーを与えてくれる音楽は他にない。起業のころ、苦しかった時期に第1楽章をピアノで弾いてどれだけチャージしてもらったか!もし意識不明になったら家族はこれを耳元で聞かせてほしい。この曲で生き返らなかったらお陀仏ということだ。

エロイカという曲は何かと因縁を感じる。実演は特に印象に残るものがあって、ドイツにいた94年1月15日のネヴィル・マリナー/ AOSMF、同12月6日のウルフ・シルマー / バンベルグ響、95年2月4日のロペス・コボス/ シンシナティ響、そして96年1月26日スイスでのゲオルグ・ショルティ / チューリヒ・トーンハレ管だ。2月4日生まれの僕としてその周辺で名演に当たるのもなにか因縁を感じる。ちなみにクラウス・テンシュテット/ ロンドンPOで二度も聴いているが印象にない。84年と86年のどっちも9月のことだった。

さっき魂を吸い込まれるように聴き入っていたのがこれだ。

ブルーノ・ワルター / シンフォニー・オブ・ジ・エア

64698892これのLPは音が悪くて長らく地団太をふんでおり、それ故にブログで推薦に入れなかった。このオタケンのCDは渇望を満たす実に素晴らしい復刻だ。これは僕の知るあらゆるソースの中で最高のエロイカの一つである。人間の精神の高貴な作用が音楽という形で刻印された奇跡の記録だ。1957年1月16日にトスカニーニが亡くなり追悼演奏会をワルターが振ったものである(オケは実質NBC響)。コロンビア盤で第1楽章のテンポに異議があると書いたがこれを聴いて考え直す。有無を言わせぬ気迫と重量感でありそれが牽引するルバートが意味深い。ワルターという稀有の名人が咀嚼したベートーベン演奏の叡智が友人であったトスカニーニを見送るために結集したようだ。まったく惜しいことだが第2楽章のCの方のティンパニがどうしたことか半音近く調律が低く聞き苦しいのを除けば、これほど今の僕を揺さぶる演奏はない。このカーネギーホールでの演奏会が57年2月3日というのも奇縁だ。自分は2才とはいえそんなに昔から生きていたのかという感慨でもあるが。

もうひとつ、これも心に響いた。

ゲオルグ・ショルティ / シカゴ交響楽団 (1989年新盤)

zaP2_G2632626W亡くなる前年、96年スイスでのショルティのエロイカはまぎれもなく僕が聴いたベストだった。第2楽章のヘ短調からのクライマックスへの展開はオーケストラ演奏でかつて目撃した最も壮絶なドラマであり、もう人生でああいうものを経験することは多分ないだろう。あれを思い出すにはこれを聴くしかない。ショルティの決然としたリズムは曖昧さが皆無でまるでパルテノン神殿の円柱みたいに整然と強固な調和を生み、シカゴの弦はトーンハレ管に増して厚み、音圧、キレ、すべてが凄い。そして管のクラリティ、音程、タンギングは音楽の至福であり、第3楽章のフルート、オーボエ、ホルンなどもはや神技の域にある。その技量と合奏力は、例えば第5交響曲の終楽章でほかのオケには演奏不能だろうと思わせる快速テンポに具現する。そんなことを競ってどうするんだという気がしないでもなく全集としてどうかというのは別の議論となるが、だからといって下手なオケの方がいいのだというわけはどこにもない。指揮者がそれをどう使うかということが問題なのであって、ベートーベンの音楽は、第九の歌の見事なピッチの扱いを見てもショルティの目指す大理石のように確固としたものが音楽の本質にストレートに資すると思う。少なくとも(ピアノ)スコアを自分の手指で音にしようと悪戦苦闘した者としてこの解釈と演奏は満点答案のようなものであり、このエロイカにケチをつける自信など僕には到底ない。第1楽章コーダのトランペットの扱いなどショルティは無用、恣意的な付加を回避しておりその姿勢は全曲一貫している。テンポもフレージングもダイナミズムも「歌舞く」ことは一切なく、だから無個性だ力づくだ無能だと切り捨てる聴き手もいるが、ベートーベンのスコアに何を求めているのかという差異だ。

 

(追記、3月17日)読響定期、サントリーホール

今日の読響のエロイカはだめでした。そもそもあれだけホルンがとちると聞く気が失せますわ。トリオの和音もだめ。何百回も聞いてる上になんでこれ聴くのって。ハーリ・ヤーノシュの金管セクションもぜんぜんだめ。申しわけないがプロなんだから問答無用。終わるのを待ってすぐ出ました。

 

カール・シューリヒト / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 (64年10月8日ライブ)

494

20世紀前半型の遅いエロイカのうち僕がワルターとともに敬愛する特別の演奏。遅い?それは木管の対旋律を浮き出させて歌わせ、ホルンの和音を轟かせ、重いトゥッティでffのくさびを打ち込むためだ。ティンパニのリズムひとつが見事に意味深い。それらが最高度に音楽に奉仕しているのだからたまらない。展開部からコーダへのメリハリとコクは最高。第2楽章の木管のチャーミングな歌、うねるような弦。合奏はすべてが聞きとれ彫りが深く最後は止まりそうな歩みになる。スケルツォは木管をスタッカートにするなどシューリヒトの語法は一筋縄でなく、それにこたえるBPOの上手さも効いている。終楽章は特に素晴らしい。この弦楽器の強いボウイングによる「発音の良さ」をお聴きいただきたい。コーダのヴァイオリンは不意にスタッカートになる。全曲にわたって録音ではわかりにくいが、指揮者の意志の力とオーケストラのカロリーのある音圧を感じる。フルトヴェングラーでは指揮の個性が勝った気がしてならずそのバランスが僕は好きでないが、この演奏は両者のエロイカ演奏のエッセンス、常識が緊密に均衡してぎっしり詰まっている。こういうのは若いおにいちゃんが一朝一夕でできるものではない、老舗の逸品、一期一会の大名演と思う。

 

断食が変えたモチベーション

 

モーツァルト ピアノ協奏曲第22番変ホ長調 k.482

 

 

(参考)

ベートーベン交響曲第3番の名演

クラシック徒然草-ベートーベン交響曲第3番への一考察-

クラシック徒然草-ベートーベンと男性ホルモン-

 

 

 

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第九交響曲- like(好き)とlove(愛してる)

2015 DEC 27 17:17:48 pm by 東 賢太郎

きのうチョン・ミュンフンが言っていたのだが、like(好き)とlove(愛してる)は違う。一目で好きになることはできても、愛するようになるには時間をかけてよく相手を知らなくてはならない。東京フィルハーモニーもソウル・フィルハーモニーも、自分はそうしてどちらも等しく愛するようになったのだと。そして、そうして、自分も両オーケストラの楽員も、その音楽を知れば知るほど全員がみなベートーベンを深く愛しているのだと。

1989年11月9日にベルリンの壁が崩れて「新しいドイツ」ができた。いま自分史を振り返ると、フランクフルトに赴任したのはそれから2年かそこらのことだった。ヨーロッパ史に残る激動の時に歴史の証人の端くれになったような気がしないでもない。企業の合併程度の話ではない。同じ民族とはいえ法律も思想も国家の屋台骨そのものを異にして長年を経てしまった東西ドイツという別の国がひとつになった。ドイツには殺伐とした緊張と不安と、その裏腹の期待に満ちた特別な時間が流れていたように思う。

それを待っていたかのように、1989年12月25日に東ベルリン シャウシュピールハウスでユダヤ系米国人のレナード・バーンスタインが東西ドイツ、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の6ヶ国からなる混成オーケストラを臨時編成してベートーベンの第九を演奏した。終楽章は、本来の「Freude(歓喜)」を、「Freiheit(自由)」に変更して歌われた。後述するが、その変更はオーセンティックな背景がある。第九は作曲家がそう意図したかどうかはともかく、そういう場にふさわしい祝典的な色彩をもった音楽である。演奏する者も聞く者も一つにする特別の力があるように思う。

きのう日韓合同オーケストラの見事な第九を聴きながら、ふと、ここに中国と北朝鮮のオーケストラや歌手も加えてしまったらどうなるんだろうと考えていた。モランボン楽団はともかく第九を演奏できる水準の楽人たちは、ベートーベンをよく知り、愛することができる人たちだろう。そこには曲の「特別な力」が作用でき、舞台でひとつの強いオーラとなり、聴く者を包み込むことができるのではないか。

音楽に政治が関与することを好ましいとは思わないが、音楽が政治のシンボルとして機能することはあり得るのだ。イスラエルは長年ワーグナー演奏を許さなかった。2001年7月にユダヤ人のダニエル・バレンボイムがエルサレムでベルリン国立管弦楽団を指揮してワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の一部を初めて演奏したが、大きな物議をかもした。

10年の歳月が過ぎた2011年7月26日、バイロイト音楽祭にイスラエル室内管弦楽団が招かれ「ジークフリート牧歌」を演奏した。国内ではホロコーストを生き延びた人たちから怒りの声が上がったし与党議員から楽団への予算支出差し止め要求も出た。しかし2001年時点で自国の楽団が敵地の祝典で敵性音楽を奏でるなどということは夢想だにされなかったであろう。時は日々確実に流れていることを我々他国人はシンボルによって知るのだ。

といって音楽によって日、中、韓、北朝鮮が一つになれるなどと青くさいことを思っているわけではない。バーンスタインの試みで6つの国が一つになったわけでもない。ただ、音楽がアジテーションや国威発揚の道具ではなく、その本源的な価値である「特別な力」の作用で、それを感じ取ることができる多くの人たちを一つにすることはできると信じる。それが国家が道を誤ることに対する歯止めになれればいいのではないか。

ベートーベンが第九交響曲においてあの有名なメロディーをつける欲求を抑えられなかったシラーの詩の当初の題は「自由に寄す」だった。官憲の弾圧を避けて「歓喜に寄す」となったが、底流にあるのは人間解放であり、快楽大好きのエピキュリアンの「よろこびのうた」ではない。星の彼方にいる父(神)のもとでは平等(兄弟)だと歌っているのであって、人類愛といわれるのは新興宗教のお題目ではなく支配の抑圧からの解放というコンテクストでの意味である。

僕がベートーベンはせっかく思いついた「あの有名なメロディー」で、しかも一旦は合唱と全管弦楽でそれを高らかに感動的に歌い上げておきながら、それで曲を終えなかったのはなぜだろうと思ったのは、チョン・ミュンフンがアンコールで第4楽章コーダのprestossimoをくり返したからだ。そこには歓喜、快楽、勝利、英雄という「歓喜に寄す」の部分にあった単語はもう出てこない。合唱は、

創造主(の存在)を感じるか? 世界よ。
星空の彼方に求めよ!

星々の彼方に彼の御方(神)がおられるはずだ

とラストメッセージを投げかけ、全曲の幕を閉じるのである。

僕はこれがシラーの詩を借りたベートーベンのメッセージだろうと思う。そしてそれに心からの理解と共感を覚えるし、そのためにキリスト教徒である必要は感じない。アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と述べたのと同じコンテクストでの神の存在を信じているからだ。そのもとで全人類は相互にloveを持つべきだし、そのためには指揮者の言うように「時間をかけてよく相手を知らなくてはならない」のだ。

(参考)

ベートーベン交響曲第9番に寄せて

ベートーベン交響曲第9番の名演

 
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チョン・ミュンフンの第九と濃かった師走の一日

2015 DEC 26 23:23:34 pm by 東 賢太郎

長女と一緒に外苑前駅から午前10時前に神宮球場へ向かうとかつて見たことのない延々長蛇の行列でびっくりしました。秩父宮ラグビー場でジャパンラグビー トップリーグ 2015-2016 が11:40からあったのです。五郎丸選手のヤマハ発動機がキヤノン とやるのがお目当てなんでしょう、彼はラグビー人気に火をつけましたね。南アフリカ戦の歴史的金星は今年日本人を最も勇気づけた大事件でした。

その五郎丸さんに関係するお話を頂き、某会社さんと10時半からお会いしました。ラグビーは素人どころかルールも知らず、いろいろ教えていただきました。五郎丸はカレンダーはもちろん切手まで出てしまうのだからもはや国民的英雄です。その両方の写真を撮ったCさんが間に入ってこの出会いがあったのです。彼女は日ハムの大谷投手の写真集も撮っており、今年最も熱い二人の男を独占。いいですねえ、持ってますねえ。

終了後青山3丁目サバティーニでランチして今度は渋谷のオーチャードホールへ。チョン・ミュンフン指揮の第九をききました。オケは日韓国交正常化50周年記念でソウル・フィルハーモニー管弦楽団と東京フィルハーモニー交響楽団の合同オーケストラ。福田元首相、駐日全権大使はじめ日韓財界トップご臨席の華やかな演奏会でした。

終演後のレセプションでは東フィルの副理事長である黒柳徹子さんがスピーチされましたが、N響のコンマスだったお父上は第九の公演で合唱団にいた母上を見初めて結婚したので自分がいるのは第九のご縁で、お母さんの子守唄も第九でしたという話を披露されました。チョン・ミュンフンの指揮は熱が入り、両オーケストラの息もあった素晴らしいベートーベンとなりました。

そこからKさんと某航空関連会社社長Hさんと銀座「田舎屋」さんへ。お店は5時前で準備中だったがオーナーが一緒ということで開けてくれました。炉端焼きとはいえ外国著名人が訪れる名店でキンキなどお味は最高。おすすめです。今日は娘にはいい勉強になりました。

 
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クルト・マズアの訃報

2015 DEC 21 1:01:46 am by 東 賢太郎

クルト・マズアさんが亡くなった。クラシックに熱中しはじめた高校時代におなじみの懐かしい名前だ。アズマの反対だけどスペルはMasuaで、ドイツ語ではSを濁ってズと読むことを初めて知った。クラスのクラシック仲間がふざけて僕をケント・マズアと呼んだが、さっき調べたら氏の息子さんはケン・マズアさんだった。

mazua1だからというわけじゃないが、彼のベートーベン交響曲第5番、9番(右)は僕が最初に買った記念すべき第九のレコードとなった。だからこれで第九を記憶したことになる。なぜこれにしたかは覚えてない。ひょっとしてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(以下LGO)に興味があったかもしれないが、2枚組で3600円と少し安かったのが真相という気もする。

mazur感想は記録がなく不明だが、音は気に入ったと思われる。というのは第九を買った75年12月22日の4日後に同じマズア・LGOのシューマン交響曲第4番を購入しているからだ(右)。大学に入った75年はドイツ音楽を貪欲に吸収していた。5月病を克服した6月に買ったジョージ・セルの1,3番のLPでシューマンを覚え、4番にチャレンジしようと7月に買った同じLGOのコンヴィチュニー盤があまりピンとこなかったのだ。それはフォンタナ・レーベルの詰めこみすぎた冴えない録音のせいだったのだが・・・。ということはシューマン4番もマズアにお世話になったのだろう。

マズアはドイツ人にしてはモーツァルト、シューベルト、ワーグナー、ブルックナー、R・シュトラウス、マーラーのイメージがないのが不思議だ。モーツァルトはシュミットとのP協全集はまあまあ、ブルックナーは4番を持っているがいまひとつだ。東独のオケ事情、レコード会社との契約事情があったかと思われる。

mazurそこで期待したのがブラームスだ。76年録音。ロンドンで盤質の最高に良い79年プレスの蘭フィリップス盤で全集(右)を入手できたのはよかったが、演奏がさっぱりでがっくりきたことだけをよく覚えている。4曲とも目録に記しているレーティングは「無印」だ。当時はまだ耳が子どもで激情型、劇場型のブラームスにくびったけだったからこの反応は仕方ない。とくに音質については当時持っていた安物のオーディオ装置の限界だったのだろうと思う。今年の4月現在の装置で聴きかえしてこう書いているからだ。

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(9)

mazua2ところでここに「フランクフルトでフィデリオを聴いたが、まさにこの音だった」と書いたが記憶違いだった。プログラム(左)を探したところ、1988年10月3日にロイヤル・フェスティバルホールであり、しかもオケはロンドン・フィルであったので訂正したい。ケント公エドワードご来臨コンサートで英国国歌が演奏されたようだが記憶にない。当時のロンドンでドイツ人指揮者というとテンシュテット、ヨッフム、サバリッシュぐらいでカラヤンが来たのが事件だった。そこに登場したマズアはきっと神々しく見えたんだろう、響きも重くドイツ流ですっかりドイツのファイルにメモリーが飛んでしまっていたようだ。この4年後に言葉もできないのに憧れのドイツに住めたのが今となっては信じ難い。

この記憶はこっちと混線したようだ。

ブルックナー交響曲第7番ホ長調

94年8月28日、フランクフルトのアルテ・オーパー。これがマズア/LGOの生の音だったがこれよりもフィデリオの方がインパクトがあった。

マズアの録音で良いのはメンデルスゾーンとシューマンのSym全集だ。これはLGOというゆかりのオケに負うところもあるが低重心の重厚なサウンドで楽しめる。ブラームスもそうだが、細かいこと抜きにドイツの音に浸ろうという向きにはいい。ベートーベンSym全集はマズアの楽譜バージョン選択の是非と解釈の出来不出来があるが現代にこういうアプローチと音響はもう望めない。一聴の価値がある。

なにせLGOはモーツァルトやベートーベンの存命中からあるオーケストラなのであり、メンデルスゾーンは楽長だったのだ。61才までシェフとして君臨したコンヴィチュニーに比べ70年に43才で就任したマズアはメンゲルベルクと比較されたハイティンクと同じ境遇だったろうと推察する。若僧の「カブキ者」の解釈などオケが素直にのむはずもないのであって、正攻法でのぞむ。それが伝統だという唯一の許されたマーケティング。だからそこには当時のドイツ古典もの演奏の良識が詰まっているのである。

意外にいいのがチャイコフスキーSym全集で、カラヤン盤よりドイツ色濃厚のオケでやるとこうなるのかと目からうろこの名演だ。悲愴はすばらしく1-3番がちゃんと交響曲になっているのも括目だ。ドイツで買ったCDだがとびきり満足度が高い。そしてもうひとつ強力おすすめなのがブルッフSym全集で、シューマン2番の第1楽章などその例なのだが、LGOの内声部にわたって素朴で滋味あふれる音響が完璧に音楽にマッチして、特に最高である3番はこれでないと聴く気がしない。

エミール・ギレリス、ソビエト国立響のベートーベンP協全集は1番の稿に書いたとおりギレリスを聴く演奏ではあるが時々かけてしまう。お好きな方も多いだろう、不思議な磁力のある演奏だ。76年ごろのライブでこれがリアルタイムでFMで流れ、それをカセットに録って擦り切れるほど聴いていた自分がなつかしい。以上。ニューヨークに移ってからの録音が出てこないのは怠慢で聞いていないだけだ。

こうして振り返ると僕のドイツものレパートリー・ビルディングはLGO時代のマズアさんの演奏に大きく依存していたことがわかる。師のひとりといえる。初めて買った第九は、彼との出会いでもあった。75年12月22日のことだったが、それって明日じゃないか。40年も前のだけど。

心からご冥福をお祈りしたい。

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

(こちらをどうぞ)

ベートーベンピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15

ベートーベン ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37

メンデルスゾーン交響曲第4番イ長調作品90 「イタリア」

 

 

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クラシック徒然草-津軽海峡冬景色の秘密-

2015 NOV 5 1:01:48 am by 東 賢太郎

石川さゆりさんのファンではありますが、天城越えも名曲ではありますが、それはそれとして、津軽海峡冬景色という曲にはどうにも僕を惹きつけるものがあります。それは何なんだろう?

やっとわかりました。やっぱりあああ、あ~~~なんですね。

たぶんあああは地声、あ~~~は裏声でしょう。この段差。すごく男心をくすぐるのです。音名で言えばミファミ、ド~~~です。ミからドへの6度のジャンプ。しかも声の色まで変わる。ここにこの曲の勝負どころ、頂点があると思うのです。

この6度ジャンプ。どっかできいたことがあるぞ。え~~と・・・

ありました。これです。

tristan

おわかりでしょうか?ワーグナーのトリスタンとイゾルデの冒頭です。ラファ~~ミはチェロが弾きますがラファは6度ジャンプです。この音程、ちょっと悲痛な感じがするのは僕だけでしょうか。チェロのラは解放弦でファでクレッシェンドして緊張感ある音に色が変わります。ppで聴こえるか聴こえないかでそっと入って、音程と音色で聴衆の耳をそばだたせる。非常に印象的な幕開けです。

この6度跳躍って、すごいインパクトがあって耳に残るというか、こびりつくのです。きのうショスタコーヴィチの15番を聴いたと書きましたが、あの第4楽章にワーグナーの引用が出てきて、ジークフリートの葬送行進曲のあとですが、まさにこのトリスタンの最初の4音が鳴ります。どきっとします。

津軽海峡が三木たかしさんの作曲なのはまったく知りませんでしたが、彼は「つぐない」の作曲家でもあったのでびっくりです。

クラシック徒然草-テレサ・テン「つぐない」はブラームス交響曲4番である-

クラシック徒然草-「つぐない」はモーツァルトでもあった-

津軽海峡のフシはこれまた似たものがクラシックにあります。

tugaru

シューベルトの「白鳥の歌」からの4曲目二短調「セレナーデ」です。たいていの人が知っている音楽の授業でおなじみのメロディーでしょう。

楽譜はチェロ用にト短調になってるので津軽海峡と同じイ短調で書きますと、出だしの「上野発の夜行列車」ミミミミファミララララシラが「秘めやかに( 闇をぬう) 」ミファミラ~ミ、「静けさは~果てもなし」ミファミド~~ミに「あああ、あ~~」のミファミド~~と全く同じ音素材とリズムで6度跳躍が現れます。

もうひとつ、和声です。

「わ~たし~も~ひとり~~、れんらく~せんにのり~」 にはDm6、Am、F、B7、E7susu4、E7というコードがついてますが、バスがfからhに増4度上がって「せんに」のB7、これはドッペル・ドミナントといいます。ドミナントのドミナントです。

実に劇的、激情的でロマンティックな効果がありますが、これの元祖はベートーベンだと思っています。上記ブログに書いたモーツァルトの20番のカデンツァがそう。そして、あまり指摘されませんがエロイカにも出てきます。

eroica1

第2楽章の冒頭、5小節目のf#です。この音符、なくてもいいんです。というより、凡庸な人は入れないでしょう、バスのgと長7度の不協和音になるんで。実際の音は鳴りませんが、ベートーベンの耳にはD7のドッペルドミナントが聞こえていたわけで、そのソプラノだけをひっそりと鳴らした。凡夫と天才の差はこういうところにあります。

「つぐない」もそうですが三木さんの和声はこういう隠し味に満ちていて、何度聴いても飽きないのだと思います。クラシックがクラシックたるゆえんをおさえている。津軽海峡冬景色をピアノで弾くのは快感です、なんたってよくできたクラシックですから。

 

 
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N響・ブロムシュテットのエロイカ

2015 SEP 18 2:02:43 am by 東 賢太郎

N響をサントリーホールで聴くのは初めてでした。NHKホールが嫌だから換えたのです。申し込みが遅くてあまりいい席が空いてなくS席ながら1階後方、このホールは席の当たり外れがあるのでどうかと思っていましたがやっぱり外れでした。

しかしこの前ワーグナーを堪能し、まったく音響的にも文句なかった(読響)のと比べ、舞台からほぼ同じ方向のたった4列後ろなのに、どうしてこんなに違うのか首をひねるばかり。常識的にはオケの違いによるということになるでしょう。

とにかく低音が来ていない。マスの音がハイ上がりでヴァイオリンの高音がひりひりしてもうだめ。CBSのアメリカ盤LPでのフィラデルフィア管を安物のステレオで音量を上げるとこんな感じでした。部屋で聴く風呂で鳴ってるラジオという感じでもあります。

世界のコンサートホールについてはだいぶ前にランキングをつけましたが、僕はホールには不運でフィラデルフィアのアカデミー、ロンドンのRFH、フランクフルトのアルテ・オーパーで長年聴かされ辟易してました。実にひどいのです。アムスやウィーンやニューヨークの人がどんなにうらましかったか。

そしてまた東京がこれです。トゥッティでも隣の人とひそひそ話ができそう。最近必ずいるアメむきのチャラチャラ音がオケよりよく聞こえる。倍音が来ないからそういうことになります。

聴感というのは人によって様々のようだから僕の耳においてだけのことかもしれませんしそのように読み流していただきたいですが、正直を書きたいのです。とにかくこの音だと苦痛でしかなく、この会員券は誰かにあげてしまおうかというところ。

というわけでせっかくのベートーベンも1番から戦意喪失。以前NHKホールでさっぱりだった同じ指揮者のブラームス4番の音ですね、まさに。休憩でもう帰ろうと思ったが、後半がエロイカであったというのが唯一の理由で残りました。随分元気のいい活力ある筋肉質の3番でしたが管がいけません。

ブロムシュテットは齢をとっても一向にいわゆる巨匠風にならないのが彼らしい。ひとつだけ好きなドレスデンSKとのドヴォルザーク8番の路線をいまだ変えていないのは立派といえば立派、しかし結局はもう結論とするしかないが、僕は性が合いません。

こういうエロイカならトスカニーニやレイポヴィッツのオケを聴きまくってしまっているのでN響であれを上回るのは到底無理です。申しわけないが、終わるとすぐ出ました。

 
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クーベリックのベートーベン3番、8番を聴く

2015 SEP 12 2:02:15 am by 東 賢太郎

今日は午前の会議とランチをやって、名古屋でひとつプレゼンを済ませてとんぼ返りして別件を片付けるという一日でした。頭が常時こういうモードにあるものですから、せっかく先日すばらしいワーグナーを聴いたのに気持ちが音楽に戻れません。

noi35帰宅して思いっきりワインを飲んで、かなり回ってしまい、そこからは記憶がないのですがノイ(ねこ)を連れて地下に降りてピアノを弾きまくりました。このねこは弾いているとおとなしく寝るくせに、曲が終わるとニャーニャーとなきます。僕の猫語の解釈では「次たのむわよ」なんですが、「うるさいから終わってよ」だという意見もあります。

すぐネタ切れになって、今度はレコードをかけます。なんの脈絡もないですが、ベートーベンがいいよなとなって、なんとなくクーベリック指揮ベルリン・フィルの交響曲第3番「エロイカ」が鳴りはじめます。

さてしばらくして展開部あたりに来ると、こりゃ並み尋常じゃないなという気がしてきて、だんだん酔いがさめます。ノイはスピーカーの後ろで前足をたたんでペタッと座りこみます(これを僕は「おかみさん座り」と呼びます)。これはここに書いた、僕の最も好きなエロイカの一つなのですが、いやはや酔った耳にこんなに素晴らしいとは!

ベートーベン交響曲第3番の名演

第2楽章のおしまいのあたりの意味深いティンパニの音色。終楽章のテーマを弦楽合奏が引き取って、強くなって、最後にふっと力を抜いてpになる、そこの絶妙な間合いとホールの残響!全曲にわたってリズムに細心の彫琢が施され、対向配置の弦が精妙に聴き取れ、木管は見事なピッチとデリカシーに満ち、重心が低く古き良きドイツの音を残すベルリン・フィルの音が活き、浅薄な自己主張が一切ない。

この演奏を形容するとなると、言葉が語弊を呼びそうですがそれしか浮かばないのでご容赦いただきたが、「貴族的」ということになりましょう。アリストクラティックです。風格と気品は音楽に秘められているわけで、クーベリックは全身全霊をもって、ベートーベンへの限りない敬意をもって、それを音にすることに奉仕しているのです。

フルトヴェングラーとは対極にあります。こちらは彼の意識と情動のフィルターを通して描いたエロイカであって、とても人間くさい。ヒューマニスティックなのです。エロイカにそういうロマン派に接近した実験的要素がないとは言い切れないので、これはこれで、そういう路線の代表格です。

貴族が選良と言うわけではないが、クーベリックを支持する人のほうが数はずっと少ないでしょう。フルトヴェングラーのほうが人を泣かせ、感情をあからさまに掻き立て、英雄の絶頂と悲嘆をドラマティックに描ききっています。今やそこまでやる指揮者は絶滅したほど、彼の顔がくっきり見えます。

ドイツにいた頃に話をしたお客さんや聴衆でフルトヴェングラーを神と崇める人はひとりもいませんでした(名前は知ってるが)。彼がほとんど日本だけでいまだ熱狂的なファンにCDが大量に売れているというのは、演奏がなにか国民的に訴えるものがあるんでしょう。これも語弊ある言葉かもしれませんが、浪花節的と思います。

我が国では熱く盛りあがって頂点に達し、カタルシスを解消するような曲や演奏が一般の聴衆には人気を得ていると思います。第九がそうだし大方のマーラーもそういう側面を持った音楽ですし、個性を見せないと手堅い中堅指揮者だなどと貶められる。

クーベリックがそういう評価ということはないですが、浪花節をしない、頂点で沸騰させることを目的としない指揮ですからあまり本質を理解されていない。チェコ音楽のスペシャリスト的に思っている人も多いように思います。

最後に、同じく高く評価している8番もききました。こっちはクリーブランドO.ですが、同じく圧倒的に貴族的ですばらしい。ここに書きました。

ベートーベン交響曲第8番の名演

音楽のリズムの美しさ!こういう演奏はすべてのジャンルでなかなか聴けるものではありません。ぜひプロの演奏家の方にこそ耳を傾けていただきたい。指揮者がうなり声を上げたりジャンプしたりの「熱演」がいかに安っぽく聞こえてくることか!こんな素晴らしい音楽に芝居などまったく必要ないのです。

ところが、指揮者は芝居して個性を見せないと売れない。有名になれない。もしそういう動機が微塵でもあるならそれはもう猿芝居であって、一部のファンを熱狂させたとしても短期に滅びます。ホンモノの音楽家はそんなことはしない。スコアに秘められた美を抽出して、そのまま彫琢して提示するだけ。だから演奏は曲が忘れられない限り永遠に聴き続けられます。それこそモノの価値というもの。それ以上何が必要なんでしょう?

実はそれが一番難しいと思います。何も足さない、何も引かない、それで人を感動させるのは至難であって、だからお手軽に軽薄なパフォーマーになったほうが現世的には成功してしまう。世の中は受容する側もそういう性質の人がマジョリティーだからです。僕はホンモノと信じるものだけを支持し、ご紹介したいと思っています。

kubelik1クーベリックの全集はCDも持っていますが、主にLP(写真)を聴いています。LPの方が格段に音が良くて、このドイッチェ・グラモフォンの独プレス盤はうまく再生すれば音に深みがあり演奏の奥義まで聞こえます。評論家の評はさほどでもなく9つのオケを振ったという話題性だけで語られますが、この全集は音の再生が難しいですね。みなさんどんな装置で批評をされてるのか。youtubeなんかの平板な音じゃあ魅力はわからないのであえて貼りません、ご興味ある方は少なくともCDで聴いてみて下さい。ノイだけじゃもったいない、SMCのメンバーにいつか我が家の音でホンモノを味わっていただきたいと考えております。

(ご参考:8番です)

 

 

 
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クラシック徒然草-ホロヴィッツのピアノ-

2015 JUN 17 0:00:55 am by 東 賢太郎

クラシックのジャンルで僕が長く付きあっているのはピアノ曲です。習ったわけでもないし理由は自分でも明らかでないですが、好きな楽器の最右翼であるのです。

ピアノの名曲はかなりしぼりこんで少なめに見ても50-60曲、ベートーベンのソナタを全部数える程度の広さでいえば150-200曲ほどでしょう。50-60のほうあたりはぜひ聞いていただきたいものですが、その中でも主要なレパートリーを占めるショパン、リストは僕の守備範囲でありません。ほとんど聞き知ってはいるがなじまないという点でマーラーと等しいものかもしれません。

220px-HorowitzBainそのショパン、リストを主要レパートリーとする系統のピアニストは、従って僕には感性の合う人ではない場合が多いわけですが、ひとりだけウラディミール・ホロヴィッツ(1903-89)は別格的に思える人です。好きではないですが気にはなる。それはひとえに彼の超人的な技巧が現代ピアノという楽器の表現力の極限をフロンティアのように拡大したからにほかなりません。

ホロヴィッツは、自分よりひと世代(30才)上のラフマニノフが「君の方がうまい」と椅子を譲った伝説のピアニストです。しかもそれが自作の協奏曲第3番でのことというのですから、ロマン派を弾きこなす当代最高峰の技術をもったピアニストであったといってよろしいでしょう。

しかし彼の演奏ビデオを見ると、指を曲げずに平べったい手のままで弾いている。今の日本ならこういう子どもはたちどころに先生に矯正されるでしょう。それが彼の出す音にどう現れているのかはピアニストの方におききしたいものですが、それにもかかわらず彼の紡ぎだした音は誰にも真似できぬ特別の個性を誇っており、その個性によって歴史に名が残っているのです。

彼のショパンやシューマンやスクリャービンについては多くの人が語っており、屋上屋を重ねる意味もありますまい。そこでは彼の個性が正面から作品の扉をたたき、それが正統派の演奏ではないにしても有無を言わさぬ成果を示していること議論の余地はありそうもありません。そこで、俎上に上げてみたいのはモーツァルト協奏曲第23番のジュリーニとの演奏です。

なんとも共感なさげな雑然とした開始の第1楽章がジュリーニのテンポなのか?たぶんそうではないでしょう。速いです。物理的にではなく、なにか拙速な感じであり、遅めにするとこの音楽を語りきれないかのような速さです。ジュリーニはこういうことをしない人だから、これはピアニストの感性なんだろうという感じがします。

ピアノはバスが常に強すぎ、ショパン風にトニック、ドミナントでの強調グセがあるのは滑稽なほどで、ときおり現れる左手の意味不明の強調は僕には神経に触るばかりです。フレーズ切り上げの見栄はまことにモーツァルトらしくなく、オケがそうしたホロヴィッツ風アクセントをなぞってみせるのも健気なものですが、お笑い芸人のモノマネを想起しないでもない。

第2楽章、感じてないインテンポに皮相なルバートがのる。音価に対する節操はなし。デリカシーゼロのピアノに合わせてオケも各パートが野放図に鳴りっぱなし。終楽章、モーツァルトのアレグロだけにある、軽さの中に飛翔する精神の高貴さはきっぱり消し飛んでいます。こんなモーツァルトを堂々とやったのはあとにも先にも彼だけです。

技術の難点を探すのは無駄です。そういうことはほとんどない。しかし、ファンにはお許し願いたいが僕にとってはまことに聞くに堪えないモーツァルトになっているのです。センス、テーストが別物だということでしょう。終楽章で興が乗って指揮までしている彼がモーツァルトが好きなのはわかるのですが、それでもなぜこれを弾いているのかまったく釈然としません。

ところが、ベートーベンとなると話は変わってきます。フリッツ・ライナーとの協奏曲第5番「皇帝」です。

実に豪放磊落。早いパッセージがグリッサンドに聞こえるほどの名技が似つかわしいかどうかはともかく完璧に弾ききっており、間然とするところなし。モーツァルトで気に障る強靭な左手が生き、終楽章のバスは補強され、オケが気迫にあおられてこれまた強靭に受けて立つ。

先のジュリーニと反対にライナーはこういう気風の人であり、ピアノとがぶり四つの横綱相撲になっています。5番は元来こう弾かれるべき曲ではないかもしれませんが、ベートーベンが現代ピアノのバスを聴けばこういう解釈を許容してしまうのではと思わせる説得力を持っているように思います。

ホロヴィッツの師はセルゲイ・タルノフスキー(1882-1976)とフェリックス・ブルーメンフェルト(1863-1931)というロシア系ピアニストです。ウィーン直伝のモーツァルト、ベートーベンを師から仕込まれたということは考えづらく、ロシア系ないしは自分流の解釈でしょう。

現代のコンクールで頭角を現したピアニストがホロヴィッツのような23番や皇帝を披露するということはないでしょう。これは19世紀の伝統の脈絡に深く根ざした、おそらく最後期の演奏であります。20世紀半ばまでこういう演奏はコンサートホールに響いたでしょうが、ホロヴィッツの名をもってして初めてレコードに刻まれたでしょう。

クラシックというのは音楽そのものを形容する言葉ですが、こういう歴史的遺産を聴くにつけ、「録音のクラシック」というものもあるのだと思えてきます。今のクラシックの風潮はなにやらポップス化してきて、美形の演奏家がもてはやされ気味のようです。なにもイケメン、美女でいけないことはないのですが、世を去ればどんな大家も忘れられてしまうというのでは寂しい。

僕の世代のファンが聴いて育った名演奏家の訃報、それも若手と思っていた人のそれに接することが多くなってきましたが、彼らが受け継いで残していった19世紀の伝統のうえに現代の演奏家は立っているのです。聴く側の我々もその立脚点をそれなりに知った上で耳を傾ける、そういう伝統へのリスペクトが新しい文化創造への架け橋になるということではないでしょうか。

ホロヴィッツの演奏はまさにそういう、世紀をまたいだパースペクティヴで今も聴き継がれるべきですし、僕が彼のモーツァルトをまったく支持しないのは既述の通りなのですが、それでも彼が学び、吸収した19世紀の音楽界の息吹というものを極上の技術で再現してくれることの価値はpricelessとしか表現できません。

その最たるものの一つ、作曲家がお前の方が上手いから自分は弾かないと言ったラフマニノフの協奏曲第3番。最も弾くのが難しいと言われる3番のこのオーマンディーとの演奏は歴史の証言であり、人類文化遺産と言って過言でないと考えます。

 

(こちらもどうぞ)

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30(N響Cプロ感想を兼ねて)

 

 

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ベートーベン 「ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲ハ長調」作品56

2015 APR 21 7:07:36 am by 東 賢太郎

 

  1.  ワルトシュタイン・ソナタ
  2.   ピアノ・ソナタ第22番
  3.   交響曲第3番「英雄」
  4.  三重協奏曲
  5.  熱情ソナタ
  6.  ピアノ協奏曲第4番
  7.  ラズモフスキー・カルテット1~3番
  8.  交響曲第4番
  9.  ヴァイオリン協奏曲

 

ベートーベンの作品番号53から61までを順番に並べるとこうなります。これを野球の打線に見立てましょう。1番ワルトシュタイン、長打力もそなえた俊足です。2番のPS・22番、これいいですね。小柄で小技のきくチャンスメーカーです。3番と5番の「英雄」と「熱情」、こりゃ文句なしの重量級ホームランバッターでぴったりですね。6番は小兵ながら技のあるPC4番。7番は調子次第でクリーンアップありの強打者ラズモフスキー。8,9番は捕手とDHだけどここもホームラン30本級です。

いやあ、監督いらずの最強チームですね。さてところで肝心の4番打者は?これがなぜか、どうして君なんだっけと不思議な三重協奏曲(ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲)であります。4番はおろかベンチ入りも難しいだろうというのが一般のこの曲の評価でしょう。

野球で遊べるぐらいここは連番で名曲が目白押しなんで、三重協奏曲は昔から甚だしく見劣りして悲哀をかこっています。これまたピアノソナタ第27番と交響曲第7番にはさまれて不遇の身である「戦争交響曲」とともに「楽聖にも駄作はある」という例に引かれてしまうことでむしろ有名になった観すらありましょう。

判官びいきの僕としてここはなんとか美点凝視でほめてあげたいと思うのですが、このラインナップで並べられるとこりゃどう逆立ちしても無理であります。第1楽章の展開部の最後のあたりピアノ協奏曲第3番を思わせるフレーズがあり、作曲年代も番号より少し若いのかなと思わないでもありません。

あんまり音楽的に特筆することはなく、第1楽章再現部のオケなどいやになるほど空疎であります。書きたいと思うのは第2楽章(変イ長調)が主調(ハ長調)の長3度下で弦の合奏で始まると、同じ関係にある第5ピアノ協奏曲(変ホ長調-ロ長調)の同じ部分を耳が連想するということぐらいです。これはとってもベートーベンらしい響きであります。

主題自体の魅力はエロイカより劣るとは決して思いませんが、ベートーベンをベートーベンたらしめるマニアックなまでの主題の削り込み、変奏、展開という点においてほとんど何もしていないという感は否めません。労を惜しんだというより、作曲がそういう目的ではなかったのかもしれません。

ピアノ・トリオにオケ伴がついたイメージで、ピアノ奏者に想定したパトロンのルドルフ大公の腕前のレベルに合わせるとトリオでは弱い。だから全体をオケでラッピングして協奏曲仕立てとし、名技的部分は2人の下僕(弦楽器奏者)がお勤めを果たし、大公はひたすらやさしいパートを弾きながら気持ちが良いという作りにしたと僕は見ます。駄作なのではなくサラリーマンとして合目的的に巧みに創られた曲であろうと想像します。

素材だって第3楽章の第1主題なんか悪くないですね。まずチェロで出てヴァイオリンが入ってすぐ転調するる部分などこりゃいいぞ!と期待させる上質感のある音楽なんですが、ズンタタタッタのポロネーズ、どうしてなんだ?と怒りとともに悲しくなります。アラ・ポラッカとはポーランド風にという意味ですが、ルドルフ大公さんそっちに彼女でもいたんかいとくだらん想像までしてしまいます。

ですからピアノはどうしても添え物という風情になる事は避けられず、この曲はヴァイオリンとチェロの名技のみが救いなのであります。もしどうしても美点を挙げろとなれば、独奏チェロとオケが合わせるベートーベン唯一の曲であり、この書法がブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」の下敷きになったかもしれないということがあげられるでしょう。

ということで、これは特にチェロがうまくないと引立たない曲と思います。ムーティがフィラデルフィアで同オケの首席二人を起用してやりましたが、そのクラスの名手でも曲の深みのなさを救うには至らなかった印象です。

866オイストラフ(Vn)・ロストロポーヴィチ(Vc)・リヒテル(Pf)という名手3人揃い踏みという右の録音がこの曲の代表盤とされています。まあ掛布・バース・岡田のバックスクリーン3連発トリオに匹敵する重量級だからそれもむべなるかなですが。しかもほぼお飾りの伴奏楽隊がカラヤン/ベルリン・フィル。そこまでやっちゃいますかっていう歴史的壮挙であります。 クラシック音楽産業の利潤率が1969年当時は高かったことの決定的証左であり、なにしろこんなつまらないピアノ・パートを天下のリヒテル様に弾かせてしまうEMIのイヴェント企画力には電通も驚きでしょう。なるほど資本家は特権で高利回りでもなんでも達成できちゃうのかなとピケティ教授を評価したくなってしまうほど。もちろん皆さんとても上手いですが、「牛刀をもって鶏を割く」の好事例として推挙はできても、これでこの曲が名曲に聞こえるということは期待できないように思います。そういう見地から一度は耳にしたいCDであります。

こういう訳アリの曲なんですが、申しましたようにチェリストが救ってしまうというめったにない例がひとつあります。僕はこの曲というよりピエール・フルニエという貴公子といわれた名チェリストを聴くためにこのCDを時々取り出しております。フィラデルフィアで彼を聴くチャンスを逃したのですが(遅刻!)、クラウディオ・アラウのリサイタルを聴かなかったのと僕のクラシック歴の2大悲劇であります。

ウォルフガング・シュナイダーハン(Vn)、ピエール・フルニエ(Vc)、ゲザ・アンダ(Pf)、フェレンツ・フリッチャイ/  ベルリン放送交響楽団

954このチェロの上手さはこの楽器を触った者として初心者でもわかるウルトラ級で、a線の音程の見事さ、羽毛のように柔らかい音色の美しさはそれだけでもずっと聞いていたくなります。多くの部分でヴァイオリンの旋律の内声部に回るのですが、その刹那に音楽がふわっとふくらむ絹のような感触は絶品としか評しようもありません。ヴァイオリンのシュナイダーハンもウィーン・フィルのコンマスをつとめた名手ですがフルニエに一緒に弾かれると格の違いを感じてしまうというのは恐るべきことです。技術うんぬんをいうならロストロポーヴィチが上ですが音楽はそれだけではないという見本のようなもの。フルニエのチェロの気品というのは別格で他の誰からも聴いたことはありません。それに加えてフリッチャイのオケがとにかくいいのです。重心の低い深みとコクのある弦、くすんだ管、ドイツの暗い森を思わせるずっしりしたトゥッティ、最高に素晴らしい。あまりにオケが良いのでブラームスも非常に聴きものであり(チェロはシュタルケル)、全部聴き終るとそれに押されてやっぱりベートーベンが割り負けているという困ったCDであります。

(こちらもどうぞ)

クラシック徒然草-フィラデルフィア管弦楽団の思い出-

 

 

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