第九交響曲- like(好き)とlove(愛してる)
2015 DEC 27 17:17:48 pm by 東 賢太郎
きのうチョン・ミュンフンが言っていたのだが、like(好き)とlove(愛してる)は違う。一目で好きになることはできても、愛するようになるには時間をかけてよく相手を知らなくてはならない。東京フィルハーモニーもソウル・フィルハーモニーも、自分はそうしてどちらも等しく愛するようになったのだと。そして、そうして、自分も両オーケストラの楽員も、その音楽を知れば知るほど全員がみなベートーベンを深く愛しているのだと。
1989年11月9日にベルリンの壁が崩れて「新しいドイツ」ができた。いま自分史を振り返ると、フランクフルトに赴任したのはそれから2年かそこらのことだった。ヨーロッパ史に残る激動の時に歴史の証人の端くれになったような気がしないでもない。企業の合併程度の話ではない。同じ民族とはいえ法律も思想も国家の屋台骨そのものを異にして長年を経てしまった東西ドイツという別の国がひとつになった。ドイツには殺伐とした緊張と不安と、その裏腹の期待に満ちた特別な時間が流れていたように思う。
それを待っていたかのように、1989年12月25日に東ベルリン シャウシュピールハウスでユダヤ系米国人のレナード・バーンスタインが東西ドイツ、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の6ヶ国からなる混成オーケストラを臨時編成してベートーベンの第九を演奏した。終楽章は、本来の「Freude(歓喜)」を、「Freiheit(自由)」に変更して歌われた。後述するが、その変更はオーセンティックな背景がある。第九は作曲家がそう意図したかどうかはともかく、そういう場にふさわしい祝典的な色彩をもった音楽である。演奏する者も聞く者も一つにする特別の力があるように思う。
きのう日韓合同オーケストラの見事な第九を聴きながら、ふと、ここに中国と北朝鮮のオーケストラや歌手も加えてしまったらどうなるんだろうと考えていた。モランボン楽団はともかく第九を演奏できる水準の楽人たちは、ベートーベンをよく知り、愛することができる人たちだろう。そこには曲の「特別な力」が作用でき、舞台でひとつの強いオーラとなり、聴く者を包み込むことができるのではないか。
音楽に政治が関与することを好ましいとは思わないが、音楽が政治のシンボルとして機能することはあり得るのだ。イスラエルは長年ワーグナー演奏を許さなかった。2001年7月にユダヤ人のダニエル・バレンボイムがエルサレムでベルリン国立管弦楽団を指揮してワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の一部を初めて演奏したが、大きな物議をかもした。
10年の歳月が過ぎた2011年7月26日、バイロイト音楽祭にイスラエル室内管弦楽団が招かれ「ジークフリート牧歌」を演奏した。国内ではホロコーストを生き延びた人たちから怒りの声が上がったし与党議員から楽団への予算支出差し止め要求も出た。しかし2001年時点で自国の楽団が敵地の祝典で敵性音楽を奏でるなどということは夢想だにされなかったであろう。時は日々確実に流れていることを我々他国人はシンボルによって知るのだ。
といって音楽によって日、中、韓、北朝鮮が一つになれるなどと青くさいことを思っているわけではない。バーンスタインの試みで6つの国が一つになったわけでもない。ただ、音楽がアジテーションや国威発揚の道具ではなく、その本源的な価値である「特別な力」の作用で、それを感じ取ることができる多くの人たちを一つにすることはできると信じる。それが国家が道を誤ることに対する歯止めになれればいいのではないか。
ベートーベンが第九交響曲においてあの有名なメロディーをつける欲求を抑えられなかったシラーの詩の当初の題は「自由に寄す」だった。官憲の弾圧を避けて「歓喜に寄す」となったが、底流にあるのは人間解放であり、快楽大好きのエピキュリアンの「よろこびのうた」ではない。星の彼方にいる父(神)のもとでは平等(兄弟)だと歌っているのであって、人類愛といわれるのは新興宗教のお題目ではなく支配の抑圧からの解放というコンテクストでの意味である。
僕がベートーベンはせっかく思いついた「あの有名なメロディー」で、しかも一旦は合唱と全管弦楽でそれを高らかに感動的に歌い上げておきながら、それで曲を終えなかったのはなぜだろうと思ったのは、チョン・ミュンフンがアンコールで第4楽章コーダのprestossimoをくり返したからだ。そこには歓喜、快楽、勝利、英雄という「歓喜に寄す」の部分にあった単語はもう出てこない。合唱は、
創造主(の存在)を感じるか? 世界よ。
星空の彼方に求めよ!
星々の彼方に彼の御方(神)がおられるはずだ
とラストメッセージを投げかけ、全曲の幕を閉じるのである。
僕はこれがシラーの詩を借りたベートーベンのメッセージだろうと思う。そしてそれに心からの理解と共感を覚えるし、そのためにキリスト教徒である必要は感じない。アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と述べたのと同じコンテクストでの神の存在を信じているからだ。そのもとで全人類は相互にloveを持つべきだし、そのためには指揮者の言うように「時間をかけてよく相手を知らなくてはならない」のだ。
(参考)
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チョン・ミュンフンの第九と濃かった師走の一日
2015 DEC 26 23:23:34 pm by 東 賢太郎
長女と一緒に外苑前駅から午前10時前に神宮球場へ向かうとかつて見たことのない延々長蛇の行列でびっくりしました。秩父宮ラグビー場でジャパンラグビー トップリーグ 2015-2016 が11:40からあったのです。五郎丸選手のヤマハ発動機がキヤノン とやるのがお目当てなんでしょう、彼はラグビー人気に火をつけましたね。南アフリカ戦の歴史的金星は今年日本人を最も勇気づけた大事件でした。
その五郎丸さんに関係するお話を頂き、某会社さんと10時半からお会いしました。ラグビーは素人どころかルールも知らず、いろいろ教えていただきました。五郎丸はカレンダーはもちろん切手まで出てしまうのだからもはや国民的英雄です。その両方の写真を撮ったCさんが間に入ってこの出会いがあったのです。彼女は日ハムの大谷投手の写真集も撮っており、今年最も熱い二人の男を独占。いいですねえ、持ってますねえ。
終了後青山3丁目サバティーニでランチして今度は渋谷のオーチャードホールへ。チョン・ミュンフン指揮の第九をききました。オケは日韓国交正常化50周年記念でソウル・フィルハーモニー管弦楽団と東京フィルハーモニー交響楽団の合同オーケストラ。福田元首相、駐日全権大使はじめ日韓財界トップご臨席の華やかな演奏会でした。
終演後のレセプションでは東フィルの副理事長である黒柳徹子さんがスピーチされましたが、N響のコンマスだったお父上は第九の公演で合唱団にいた母上を見初めて結婚したので自分がいるのは第九のご縁で、お母さんの子守唄も第九でしたという話を披露されました。チョン・ミュンフンの指揮は熱が入り、両オーケストラの息もあった素晴らしいベートーベンとなりました。
そこからKさんと某航空関連会社社長Hさんと銀座「田舎屋」さんへ。お店は5時前で準備中だったがオーナーが一緒ということで開けてくれました。炉端焼きとはいえ外国著名人が訪れる名店でキンキなどお味は最高。おすすめです。今日は娘にはいい勉強になりました。
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クルト・マズアの訃報
2015 DEC 21 1:01:46 am by 東 賢太郎
クルト・マズアさんが亡くなった。クラシックに熱中しはじめた高校時代におなじみの懐かしい名前だ。アズマの反対だけどスペルはMasuaで、ドイツ語ではSを濁ってズと読むことを初めて知った。クラスのクラシック仲間がふざけて僕をケント・マズアと呼んだが、さっき調べたら氏の息子さんはケン・マズアさんだった。
だからというわけじゃないが、彼のベートーベン交響曲第5番、9番(右)は僕が最初に買った記念すべき第九のレコードとなった。だからこれで第九を記憶したことになる。なぜこれにしたかは覚えてない。ひょっとしてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(以下LGO)に興味があったかもしれないが、2枚組で3600円と少し安かったのが真相という気もする。
感想は記録がなく不明だが、音は気に入ったと思われる。というのは第九を買った75年12月22日の4日後に同じマズア・LGOのシューマン交響曲第4番を購入しているからだ(右)。大学に入った75年はドイツ音楽を貪欲に吸収していた。5月病を克服した6月に買ったジョージ・セルの1,3番のLPでシューマンを覚え、4番にチャレンジしようと7月に買った同じLGOのコンヴィチュニー盤があまりピンとこなかったのだ。それはフォンタナ・レーベルの詰めこみすぎた冴えない録音のせいだったのだが・・・。ということはシューマン4番もマズアにお世話になったのだろう。
マズアはドイツ人にしてはモーツァルト、シューベルト、ワーグナー、ブルックナー、R・シュトラウス、マーラーのイメージがないのが不思議だ。モーツァルトはシュミットとのP協全集はまあまあ、ブルックナーは4番を持っているがいまひとつだ。東独のオケ事情、レコード会社との契約事情があったかと思われる。
そこで期待したのがブラームスだ。76年録音。ロンドンで盤質の最高に良い79年プレスの蘭フィリップス盤で全集(右)を入手できたのはよかったが、演奏がさっぱりでがっくりきたことだけをよく覚えている。4曲とも目録に記しているレーティングは「無印」だ。当時はまだ耳が子どもで激情型、劇場型のブラームスにくびったけだったからこの反応は仕方ない。とくに音質については当時持っていた安物のオーディオ装置の限界だったのだろうと思う。今年の4月現在の装置で聴きかえしてこう書いているからだ。
ところでここに「フランクフルトでフィデリオを聴いたが、まさにこの音だった」と書いたが記憶違いだった。プログラム(左)を探したところ、1988年10月3日にロイヤル・フェスティバルホールであり、しかもオケはロンドン・フィルであったので訂正したい。ケント公エドワードご来臨コンサートで英国国歌が演奏されたようだが記憶にない。当時のロンドンでドイツ人指揮者というとテンシュテット、ヨッフム、サバリッシュぐらいでカラヤンが来たのが事件だった。そこに登場したマズアはきっと神々しく見えたんだろう、響きも重くドイツ流ですっかりドイツのファイルにメモリーが飛んでしまっていたようだ。この4年後に言葉もできないのに憧れのドイツに住めたのが今となっては信じ難い。
この記憶はこっちと混線したようだ。
94年8月28日、フランクフルトのアルテ・オーパー。これがマズア/LGOの生の音だったがこれよりもフィデリオの方がインパクトがあった。
マズアの録音で良いのはメンデルスゾーンとシューマンのSym全集だ。これはLGOというゆかりのオケに負うところもあるが低重心の重厚なサウンドで楽しめる。ブラームスもそうだが、細かいこと抜きにドイツの音に浸ろうという向きにはいい。ベートーベンSym全集はマズアの楽譜バージョン選択の是非と解釈の出来不出来があるが現代にこういうアプローチと音響はもう望めない。一聴の価値がある。
なにせLGOはモーツァルトやベートーベンの存命中からあるオーケストラなのであり、メンデルスゾーンは楽長だったのだ。61才までシェフとして君臨したコンヴィチュニーに比べ70年に43才で就任したマズアはメンゲルベルクと比較されたハイティンクと同じ境遇だったろうと推察する。若僧の「カブキ者」の解釈などオケが素直にのむはずもないのであって、正攻法でのぞむ。それが伝統だという唯一の許されたマーケティング。だからそこには当時のドイツ古典もの演奏の良識が詰まっているのである。
意外にいいのがチャイコフスキーSym全集で、カラヤン盤よりドイツ色濃厚のオケでやるとこうなるのかと目からうろこの名演だ。悲愴はすばらしく1-3番がちゃんと交響曲になっているのも括目だ。ドイツで買ったCDだがとびきり満足度が高い。そしてもうひとつ強力おすすめなのがブルッフSym全集で、シューマン2番の第1楽章などその例なのだが、LGOの内声部にわたって素朴で滋味あふれる音響が完璧に音楽にマッチして、特に最高である3番はこれでないと聴く気がしない。
エミール・ギレリス、ソビエト国立響のベートーベンP協全集は1番の稿に書いたとおりギレリスを聴く演奏ではあるが時々かけてしまう。お好きな方も多いだろう、不思議な磁力のある演奏だ。76年ごろのライブでこれがリアルタイムでFMで流れ、それをカセットに録って擦り切れるほど聴いていた自分がなつかしい。以上。ニューヨークに移ってからの録音が出てこないのは怠慢で聞いていないだけだ。
こうして振り返ると僕のドイツものレパートリー・ビルディングはLGO時代のマズアさんの演奏に大きく依存していたことがわかる。師のひとりといえる。初めて買った第九は、彼との出会いでもあった。75年12月22日のことだったが、それって明日じゃないか。40年も前のだけど。
心からご冥福をお祈りしたい。
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クラシック徒然草-津軽海峡冬景色の秘密-
2015 NOV 5 1:01:48 am by 東 賢太郎
石川さゆりさんのファンではありますが、天城越えも名曲ではありますが、それはそれとして、津軽海峡冬景色という曲にはどうにも僕を惹きつけるものがあります。それは何なんだろう?
やっとわかりました。やっぱりあああ、あ~~~なんですね。
たぶんあああは地声、あ~~~は裏声でしょう。この段差。すごく男心をくすぐるのです。音名で言えばミファミ、ド~~~です。ミからドへの6度のジャンプ。しかも声の色まで変わる。ここにこの曲の勝負どころ、頂点があると思うのです。
この6度ジャンプ。どっかできいたことがあるぞ。え~~と・・・
ありました。これです。
おわかりでしょうか?ワーグナーのトリスタンとイゾルデの冒頭です。ラファ~~ミはチェロが弾きますがラファは6度ジャンプです。この音程、ちょっと悲痛な感じがするのは僕だけでしょうか。チェロのラは解放弦でファでクレッシェンドして緊張感ある音に色が変わります。ppで聴こえるか聴こえないかでそっと入って、音程と音色で聴衆の耳をそばだたせる。非常に印象的な幕開けです。
この6度跳躍って、すごいインパクトがあって耳に残るというか、こびりつくのです。きのうショスタコーヴィチの15番を聴いたと書きましたが、あの第4楽章にワーグナーの引用が出てきて、ジークフリートの葬送行進曲のあとですが、まさにこのトリスタンの最初の4音が鳴ります。どきっとします。
津軽海峡が三木たかしさんの作曲なのはまったく知りませんでしたが、彼は「つぐない」の作曲家でもあったのでびっくりです。
クラシック徒然草-テレサ・テン「つぐない」はブラームス交響曲4番である-
津軽海峡のフシはこれまた似たものがクラシックにあります。
シューベルトの「白鳥の歌」からの4曲目二短調「セレナーデ」です。たいていの人が知っている音楽の授業でおなじみのメロディーでしょう。
楽譜はチェロ用にト短調になってるので津軽海峡と同じイ短調で書きますと、出だしの「上野発の夜行列車」ミミミミファミララララシラが「秘めやかに( 闇をぬう) 」ミファミラ~ミ、「静けさは~果てもなし」ミファミド~~ミに「あああ、あ~~」のミファミド~~と全く同じ音素材とリズムで6度跳躍が現れます。
もうひとつ、和声です。
「わ~たし~も~ひとり~~、れんらく~せんにのり~」 にはDm6、Am、F、B7、E7susu4、E7というコードがついてますが、バスがfからhに増4度上がって「せんに」のB7、これはドッペル・ドミナントといいます。ドミナントのドミナントです。
実に劇的、激情的でロマンティックな効果がありますが、これの元祖はベートーベンだと思っています。上記ブログに書いたモーツァルトの20番のカデンツァがそう。そして、あまり指摘されませんがエロイカにも出てきます。
第2楽章の冒頭、5小節目のf#です。この音符、なくてもいいんです。というより、凡庸な人は入れないでしょう、バスのgと長7度の不協和音になるんで。実際の音は鳴りませんが、ベートーベンの耳にはD7のドッペルドミナントが聞こえていたわけで、そのソプラノだけをひっそりと鳴らした。凡夫と天才の差はこういうところにあります。
「つぐない」もそうですが三木さんの和声はこういう隠し味に満ちていて、何度聴いても飽きないのだと思います。クラシックがクラシックたるゆえんをおさえている。津軽海峡冬景色をピアノで弾くのは快感です、なんたってよくできたクラシックですから。
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N響・ブロムシュテットのエロイカ
2015 SEP 18 2:02:43 am by 東 賢太郎
N響をサントリーホールで聴くのは初めてでした。NHKホールが嫌だから換えたのです。申し込みが遅くてあまりいい席が空いてなくS席ながら1階後方、このホールは席の当たり外れがあるのでどうかと思っていましたがやっぱり外れでした。
しかしこの前ワーグナーを堪能し、まったく音響的にも文句なかった(読響)のと比べ、舞台からほぼ同じ方向のたった4列後ろなのに、どうしてこんなに違うのか首をひねるばかり。常識的にはオケの違いによるということになるでしょう。
とにかく低音が来ていない。マスの音がハイ上がりでヴァイオリンの高音がひりひりしてもうだめ。CBSのアメリカ盤LPでのフィラデルフィア管を安物のステレオで音量を上げるとこんな感じでした。部屋で聴く風呂で鳴ってるラジオという感じでもあります。
世界のコンサートホールについてはだいぶ前にランキングをつけましたが、僕はホールには不運でフィラデルフィアのアカデミー、ロンドンのRFH、フランクフルトのアルテ・オーパーで長年聴かされ辟易してました。実にひどいのです。アムスやウィーンやニューヨークの人がどんなにうらましかったか。
そしてまた東京がこれです。トゥッティでも隣の人とひそひそ話ができそう。最近必ずいるアメむきのチャラチャラ音がオケよりよく聞こえる。倍音が来ないからそういうことになります。
聴感というのは人によって様々のようだから僕の耳においてだけのことかもしれませんしそのように読み流していただきたいですが、正直を書きたいのです。とにかくこの音だと苦痛でしかなく、この会員券は誰かにあげてしまおうかというところ。
というわけでせっかくのベートーベンも1番から戦意喪失。以前NHKホールでさっぱりだった同じ指揮者のブラームス4番の音ですね、まさに。休憩でもう帰ろうと思ったが、後半がエロイカであったというのが唯一の理由で残りました。随分元気のいい活力ある筋肉質の3番でしたが管がいけません。
ブロムシュテットは齢をとっても一向にいわゆる巨匠風にならないのが彼らしい。ひとつだけ好きなドレスデンSKとのドヴォルザーク8番の路線をいまだ変えていないのは立派といえば立派、しかし結局はもう結論とするしかないが、僕は性が合いません。
こういうエロイカならトスカニーニやレイポヴィッツのオケを聴きまくってしまっているのでN響であれを上回るのは到底無理です。申しわけないが、終わるとすぐ出ました。
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クーベリックのベートーベン3番、8番を聴く
2015 SEP 12 2:02:15 am by 東 賢太郎
今日は午前の会議とランチをやって、名古屋でひとつプレゼンを済ませてとんぼ返りして別件を片付けるという一日でした。頭が常時こういうモードにあるものですから、せっかく先日すばらしいワーグナーを聴いたのに気持ちが音楽に戻れません。
帰宅して思いっきりワインを飲んで、かなり回ってしまい、そこからは記憶がないのですがノイ(ねこ)を連れて地下に降りてピアノを弾きまくりました。このねこは弾いているとおとなしく寝るくせに、曲が終わるとニャーニャーとなきます。僕の猫語の解釈では「次たのむわよ」なんですが、「うるさいから終わってよ」だという意見もあります。
すぐネタ切れになって、今度はレコードをかけます。なんの脈絡もないですが、ベートーベンがいいよなとなって、なんとなくクーベリック指揮ベルリン・フィルの交響曲第3番「エロイカ」が鳴りはじめます。
さてしばらくして展開部あたりに来ると、こりゃ並み尋常じゃないなという気がしてきて、だんだん酔いがさめます。ノイはスピーカーの後ろで前足をたたんでペタッと座りこみます(これを僕は「おかみさん座り」と呼びます)。これはここに書いた、僕の最も好きなエロイカの一つなのですが、いやはや酔った耳にこんなに素晴らしいとは!
第2楽章のおしまいのあたりの意味深いティンパニの音色。終楽章のテーマを弦楽合奏が引き取って、強くなって、最後にふっと力を抜いてpになる、そこの絶妙な間合いとホールの残響!全曲にわたってリズムに細心の彫琢が施され、対向配置の弦が精妙に聴き取れ、木管は見事なピッチとデリカシーに満ち、重心が低く古き良きドイツの音を残すベルリン・フィルの音が活き、浅薄な自己主張が一切ない。
この演奏を形容するとなると、言葉が語弊を呼びそうですがそれしか浮かばないのでご容赦いただきたが、「貴族的」ということになりましょう。アリストクラティックです。風格と気品は音楽に秘められているわけで、クーベリックは全身全霊をもって、ベートーベンへの限りない敬意をもって、それを音にすることに奉仕しているのです。
フルトヴェングラーとは対極にあります。こちらは彼の意識と情動のフィルターを通して描いたエロイカであって、とても人間くさい。ヒューマニスティックなのです。エロイカにそういうロマン派に接近した実験的要素がないとは言い切れないので、これはこれで、そういう路線の代表格です。
貴族が選良と言うわけではないが、クーベリックを支持する人のほうが数はずっと少ないでしょう。フルトヴェングラーのほうが人を泣かせ、感情をあからさまに掻き立て、英雄の絶頂と悲嘆をドラマティックに描ききっています。今やそこまでやる指揮者は絶滅したほど、彼の顔がくっきり見えます。
ドイツにいた頃に話をしたお客さんや聴衆でフルトヴェングラーを神と崇める人はひとりもいませんでした(名前は知ってるが)。彼がほとんど日本だけでいまだ熱狂的なファンにCDが大量に売れているというのは、演奏がなにか国民的に訴えるものがあるんでしょう。これも語弊ある言葉かもしれませんが、浪花節的と思います。
我が国では熱く盛りあがって頂点に達し、カタルシスを解消するような曲や演奏が一般の聴衆には人気を得ていると思います。第九がそうだし大方のマーラーもそういう側面を持った音楽ですし、個性を見せないと手堅い中堅指揮者だなどと貶められる。
クーベリックがそういう評価ということはないですが、浪花節をしない、頂点で沸騰させることを目的としない指揮ですからあまり本質を理解されていない。チェコ音楽のスペシャリスト的に思っている人も多いように思います。
最後に、同じく高く評価している8番もききました。こっちはクリーブランドO.ですが、同じく圧倒的に貴族的ですばらしい。ここに書きました。
音楽のリズムの美しさ!こういう演奏はすべてのジャンルでなかなか聴けるものではありません。ぜひプロの演奏家の方にこそ耳を傾けていただきたい。指揮者がうなり声を上げたりジャンプしたりの「熱演」がいかに安っぽく聞こえてくることか!こんな素晴らしい音楽に芝居などまったく必要ないのです。
ところが、指揮者は芝居して個性を見せないと売れない。有名になれない。もしそういう動機が微塵でもあるならそれはもう猿芝居であって、一部のファンを熱狂させたとしても短期に滅びます。ホンモノの音楽家はそんなことはしない。スコアに秘められた美を抽出して、そのまま彫琢して提示するだけ。だから演奏は曲が忘れられない限り永遠に聴き続けられます。それこそモノの価値というもの。それ以上何が必要なんでしょう?
実はそれが一番難しいと思います。何も足さない、何も引かない、それで人を感動させるのは至難であって、だからお手軽に軽薄なパフォーマーになったほうが現世的には成功してしまう。世の中は受容する側もそういう性質の人がマジョリティーだからです。僕はホンモノと信じるものだけを支持し、ご紹介したいと思っています。
クーベリックの全集はCDも持っていますが、主にLP(写真)を聴いています。LPの方が格段に音が良くて、このドイッチェ・グラモフォンの独プレス盤はうまく再生すれば音に深みがあり演奏の奥義まで聞こえます。評論家の評はさほどでもなく9つのオケを振ったという話題性だけで語られますが、この全集は音の再生が難しいですね。みなさんどんな装置で批評をされてるのか。youtubeなんかの平板な音じゃあ魅力はわからないのであえて貼りません、ご興味ある方は少なくともCDで聴いてみて下さい。ノイだけじゃもったいない、SMCのメンバーにいつか我が家の音でホンモノを味わっていただきたいと考えております。
(ご参考:8番です)
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クラシック徒然草-ホロヴィッツのピアノ-
2015 JUN 17 0:00:55 am by 東 賢太郎
クラシックのジャンルで僕が長く付きあっているのはピアノ曲です。習ったわけでもないし理由は自分でも明らかでないですが、好きな楽器の最右翼であるのです。
ピアノの名曲はかなりしぼりこんで少なめに見ても50-60曲、ベートーベンのソナタを全部数える程度の広さでいえば150-200曲ほどでしょう。50-60のほうあたりはぜひ聞いていただきたいものですが、その中でも主要なレパートリーを占めるショパン、リストは僕の守備範囲でありません。ほとんど聞き知ってはいるがなじまないという点でマーラーと等しいものかもしれません。
そのショパン、リストを主要レパートリーとする系統のピアニストは、従って僕には感性の合う人ではない場合が多いわけですが、ひとりだけウラディミール・ホロヴィッツ(1903-89)は別格的に思える人です。好きではないですが気にはなる。それはひとえに彼の超人的な技巧が現代ピアノという楽器の表現力の極限をフロンティアのように拡大したからにほかなりません。
ホロヴィッツは、自分よりひと世代(30才)上のラフマニノフが「君の方がうまい」と椅子を譲った伝説のピアニストです。しかもそれが自作の協奏曲第3番でのことというのですから、ロマン派を弾きこなす当代最高峰の技術をもったピアニストであったといってよろしいでしょう。
しかし彼の演奏ビデオを見ると、指を曲げずに平べったい手のままで弾いている。今の日本ならこういう子どもはたちどころに先生に矯正されるでしょう。それが彼の出す音にどう現れているのかはピアニストの方におききしたいものですが、それにもかかわらず彼の紡ぎだした音は誰にも真似できぬ特別の個性を誇っており、その個性によって歴史に名が残っているのです。
彼のショパンやシューマンやスクリャービンについては多くの人が語っており、屋上屋を重ねる意味もありますまい。そこでは彼の個性が正面から作品の扉をたたき、それが正統派の演奏ではないにしても有無を言わさぬ成果を示していること議論の余地はありそうもありません。そこで、俎上に上げてみたいのはモーツァルト協奏曲第23番のジュリーニとの演奏です。
なんとも共感なさげな雑然とした開始の第1楽章がジュリーニのテンポなのか?たぶんそうではないでしょう。速いです。物理的にではなく、なにか拙速な感じであり、遅めにするとこの音楽を語りきれないかのような速さです。ジュリーニはこういうことをしない人だから、これはピアニストの感性なんだろうという感じがします。
ピアノはバスが常に強すぎ、ショパン風にトニック、ドミナントでの強調グセがあるのは滑稽なほどで、ときおり現れる左手の意味不明の強調は僕には神経に触るばかりです。フレーズ切り上げの見栄はまことにモーツァルトらしくなく、オケがそうしたホロヴィッツ風アクセントをなぞってみせるのも健気なものですが、お笑い芸人のモノマネを想起しないでもない。
第2楽章、感じてないインテンポに皮相なルバートがのる。音価に対する節操はなし。デリカシーゼロのピアノに合わせてオケも各パートが野放図に鳴りっぱなし。終楽章、モーツァルトのアレグロだけにある、軽さの中に飛翔する精神の高貴さはきっぱり消し飛んでいます。こんなモーツァルトを堂々とやったのはあとにも先にも彼だけです。
技術の難点を探すのは無駄です。そういうことはほとんどない。しかし、ファンにはお許し願いたいが僕にとってはまことに聞くに堪えないモーツァルトになっているのです。センス、テーストが別物だということでしょう。終楽章で興が乗って指揮までしている彼がモーツァルトが好きなのはわかるのですが、それでもなぜこれを弾いているのかまったく釈然としません。
ところが、ベートーベンとなると話は変わってきます。フリッツ・ライナーとの協奏曲第5番「皇帝」です。
実に豪放磊落。早いパッセージがグリッサンドに聞こえるほどの名技が似つかわしいかどうかはともかく完璧に弾ききっており、間然とするところなし。モーツァルトで気に障る強靭な左手が生き、終楽章のバスは補強され、オケが気迫にあおられてこれまた強靭に受けて立つ。
先のジュリーニと反対にライナーはこういう気風の人であり、ピアノとがぶり四つの横綱相撲になっています。5番は元来こう弾かれるべき曲ではないかもしれませんが、ベートーベンが現代ピアノのバスを聴けばこういう解釈を許容してしまうのではと思わせる説得力を持っているように思います。
ホロヴィッツの師はセルゲイ・タルノフスキー(1882-1976)とフェリックス・ブルーメンフェルト(1863-1931)というロシア系ピアニストです。ウィーン直伝のモーツァルト、ベートーベンを師から仕込まれたということは考えづらく、ロシア系ないしは自分流の解釈でしょう。
現代のコンクールで頭角を現したピアニストがホロヴィッツのような23番や皇帝を披露するということはないでしょう。これは19世紀の伝統の脈絡に深く根ざした、おそらく最後期の演奏であります。20世紀半ばまでこういう演奏はコンサートホールに響いたでしょうが、ホロヴィッツの名をもってして初めてレコードに刻まれたでしょう。
クラシックというのは音楽そのものを形容する言葉ですが、こういう歴史的遺産を聴くにつけ、「録音のクラシック」というものもあるのだと思えてきます。今のクラシックの風潮はなにやらポップス化してきて、美形の演奏家がもてはやされ気味のようです。なにもイケメン、美女でいけないことはないのですが、世を去ればどんな大家も忘れられてしまうというのでは寂しい。
僕の世代のファンが聴いて育った名演奏家の訃報、それも若手と思っていた人のそれに接することが多くなってきましたが、彼らが受け継いで残していった19世紀の伝統のうえに現代の演奏家は立っているのです。聴く側の我々もその立脚点をそれなりに知った上で耳を傾ける、そういう伝統へのリスペクトが新しい文化創造への架け橋になるということではないでしょうか。
ホロヴィッツの演奏はまさにそういう、世紀をまたいだパースペクティヴで今も聴き継がれるべきですし、僕が彼のモーツァルトをまったく支持しないのは既述の通りなのですが、それでも彼が学び、吸収した19世紀の音楽界の息吹というものを極上の技術で再現してくれることの価値はpricelessとしか表現できません。
その最たるものの一つ、作曲家がお前の方が上手いから自分は弾かないと言ったラフマニノフの協奏曲第3番。最も弾くのが難しいと言われる3番のこのオーマンディーとの演奏は歴史の証言であり、人類文化遺産と言って過言でないと考えます。
(こちらもどうぞ)
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30(N響Cプロ感想を兼ねて)
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ベートーベン 「ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲ハ長調」作品56
2015 APR 21 7:07:36 am by 東 賢太郎
- ワルトシュタイン・ソナタ
- ピアノ・ソナタ第22番
- 交響曲第3番「英雄」
- 三重協奏曲
- 熱情ソナタ
- ピアノ協奏曲第4番
- ラズモフスキー・カルテット1~3番
- 交響曲第4番
- ヴァイオリン協奏曲
ベートーベンの作品番号53から61までを順番に並べるとこうなります。これを野球の打線に見立てましょう。1番ワルトシュタイン、長打力もそなえた俊足です。2番のPS・22番、これいいですね。小柄で小技のきくチャンスメーカーです。3番と5番の「英雄」と「熱情」、こりゃ文句なしの重量級ホームランバッターでぴったりですね。6番は小兵ながら技のあるPC4番。7番は調子次第でクリーンアップありの強打者ラズモフスキー。8,9番は捕手とDHだけどここもホームラン30本級です。
いやあ、監督いらずの最強チームですね。さてところで肝心の4番打者は?これがなぜか、どうして君なんだっけと不思議な三重協奏曲(ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲)であります。4番はおろかベンチ入りも難しいだろうというのが一般のこの曲の評価でしょう。
野球で遊べるぐらいここは連番で名曲が目白押しなんで、三重協奏曲は昔から甚だしく見劣りして悲哀をかこっています。これまたピアノソナタ第27番と交響曲第7番にはさまれて不遇の身である「戦争交響曲」とともに「楽聖にも駄作はある」という例に引かれてしまうことでむしろ有名になった観すらありましょう。
判官びいきの僕としてここはなんとか美点凝視でほめてあげたいと思うのですが、このラインナップで並べられるとこりゃどう逆立ちしても無理であります。第1楽章の展開部の最後のあたりピアノ協奏曲第3番を思わせるフレーズがあり、作曲年代も番号より少し若いのかなと思わないでもありません。
あんまり音楽的に特筆することはなく、第1楽章再現部のオケなどいやになるほど空疎であります。書きたいと思うのは第2楽章(変イ長調)が主調(ハ長調)の長3度下で弦の合奏で始まると、同じ関係にある第5ピアノ協奏曲(変ホ長調-ロ長調)の同じ部分を耳が連想するということぐらいです。これはとってもベートーベンらしい響きであります。
主題自体の魅力はエロイカより劣るとは決して思いませんが、ベートーベンをベートーベンたらしめるマニアックなまでの主題の削り込み、変奏、展開という点においてほとんど何もしていないという感は否めません。労を惜しんだというより、作曲がそういう目的ではなかったのかもしれません。
ピアノ・トリオにオケ伴がついたイメージで、ピアノ奏者に想定したパトロンのルドルフ大公の腕前のレベルに合わせるとトリオでは弱い。だから全体をオケでラッピングして協奏曲仕立てとし、名技的部分は2人の下僕(弦楽器奏者)がお勤めを果たし、大公はひたすらやさしいパートを弾きながら気持ちが良いという作りにしたと僕は見ます。駄作なのではなくサラリーマンとして合目的的に巧みに創られた曲であろうと想像します。
素材だって第3楽章の第1主題なんか悪くないですね。まずチェロで出てヴァイオリンが入ってすぐ転調するる部分などこりゃいいぞ!と期待させる上質感のある音楽なんですが、ズンタタタッタのポロネーズ、どうしてなんだ?と怒りとともに悲しくなります。アラ・ポラッカとはポーランド風にという意味ですが、ルドルフ大公さんそっちに彼女でもいたんかいとくだらん想像までしてしまいます。
ですからピアノはどうしても添え物という風情になる事は避けられず、この曲はヴァイオリンとチェロの名技のみが救いなのであります。もしどうしても美点を挙げろとなれば、独奏チェロとオケが合わせるベートーベン唯一の曲であり、この書法がブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」の下敷きになったかもしれないということがあげられるでしょう。
ということで、これは特にチェロがうまくないと引立たない曲と思います。ムーティがフィラデルフィアで同オケの首席二人を起用してやりましたが、そのクラスの名手でも曲の深みのなさを救うには至らなかった印象です。
オイストラフ(Vn)・ロストロポーヴィチ(Vc)・リヒテル(Pf)という名手3人揃い踏みという右の録音がこの曲の代表盤とされています。まあ掛布・バース・岡田のバックスクリーン3連発トリオに匹敵する重量級だからそれもむべなるかなですが。しかもほぼお飾りの伴奏楽隊がカラヤン/ベルリン・フィル。そこまでやっちゃいますかっていう歴史的壮挙であります。 クラシック音楽産業の利潤率が1969年当時は高かったことの決定的証左であり、なにしろこんなつまらないピアノ・パートを天下のリヒテル様に弾かせてしまうEMIのイヴェント企画力には電通も驚きでしょう。なるほど資本家は特権で高利回りでもなんでも達成できちゃうのかなとピケティ教授を評価したくなってしまうほど。もちろん皆さんとても上手いですが、「牛刀をもって鶏を割く」の好事例として推挙はできても、これでこの曲が名曲に聞こえるということは期待できないように思います。そういう見地から一度は耳にしたいCDであります。
こういう訳アリの曲なんですが、申しましたようにチェリストが救ってしまうというめったにない例がひとつあります。僕はこの曲というよりピエール・フルニエという貴公子といわれた名チェリストを聴くためにこのCDを時々取り出しております。フィラデルフィアで彼を聴くチャンスを逃したのですが(遅刻!)、クラウディオ・アラウのリサイタルを聴かなかったのと僕のクラシック歴の2大悲劇であります。
ウォルフガング・シュナイダーハン(Vn)、ピエール・フルニエ(Vc)、ゲザ・アンダ(Pf)、フェレンツ・フリッチャイ/ ベルリン放送交響楽団
このチェロの上手さはこの楽器を触った者として初心者でもわかるウルトラ級で、a線の音程の見事さ、羽毛のように柔らかい音色の美しさはそれだけでもずっと聞いていたくなります。多くの部分でヴァイオリンの旋律の内声部に回るのですが、その刹那に音楽がふわっとふくらむ絹のような感触は絶品としか評しようもありません。ヴァイオリンのシュナイダーハンもウィーン・フィルのコンマスをつとめた名手ですがフルニエに一緒に弾かれると格の違いを感じてしまうというのは恐るべきことです。技術うんぬんをいうならロストロポーヴィチが上ですが音楽はそれだけではないという見本のようなもの。フルニエのチェロの気品というのは別格で他の誰からも聴いたことはありません。それに加えてフリッチャイのオケがとにかくいいのです。重心の低い深みとコクのある弦、くすんだ管、ドイツの暗い森を思わせるずっしりしたトゥッティ、最高に素晴らしい。あまりにオケが良いのでブラームスも非常に聴きものであり(チェロはシュタルケル)、全部聴き終るとそれに押されてやっぱりベートーベンが割り負けているという困ったCDであります。
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クラシック徒然草-ベートーベンと男性ホルモン-
2015 JAN 14 1:01:35 am by 東 賢太郎
またベートーベンですいません。年末から仕事が攻めモードにあるのです。こういうときは、どういうわけかベートーベン漬けになるのが僕の常です。理屈じゃありません、今日はカレーが食いたい、そういうノリです。
もともと彼の音楽に波長が合うというのはあります。ただ聴かないときはまったくご無沙汰にもなります。音楽のバイオリズムといいますか「**期」(ばっかりの時)というのがあって、モーツァルト期、バッハ期、ブラームス期、ラヴェル期など、今ははっきりとベートーベン期がきています。
ロンドン時代は車通勤だったので早朝から「運命」などのカセットを大音量で鳴らしながらの出社でした。証券営業というのは毎日が戦闘モードでしたから軍艦マーチのかわりですね。相乗りされていた先輩がびっくりし、その洗礼のせいでしょうかいまや大変なクラシック通になっておられる。ベートーベン・パワーです。
2010年に会社を作るとき、ロンドンまで資金集めにすっとんで行ったりの大変な日々でしたが、毎日ピアノでエロイカの始めのところをガンガン弾いてました。あれでどれだけ勇気が出たか。スコアを眺めてるだけで元気になるから漢方薬より不思議です。ベートーベン・パワーさまさまです。
モーツァルトは精神をにぎやかに、軽やかに、しなやかにはしてくれますが背中を押してくれる音楽ではありません。ブラームスはいいんですがちょっと女々しいところがまだるっこしい。バッハはああいうときは逆効果ですね、ブルックナーもそうですが敬虔な気持ちになって精神が落ち着いてしまう。チャイコフスキーは禁止です。悲愴なんかきいた日にゃロンドン?飛行機落ちたらどうすんのみたいになっちゃう。
気分を明るくしてほしいならヘンデルでもきいた方がずっといい。ワーグナーも効果あります。でも「背中押し効果」はないんです。これは古今東西、ベートーベンしかない。あくまでこれは僕の感じ方ですが、なんといっても作曲家で一番「男」を感じるのはベートーベンだからです。
それも一度どん底に落ちた男です。そこから意志の力で這い上がる。彼の人生そのものがハイリゲンシュタットの遺書からの復活だし、音楽も暗い楽章からの歓喜の爆発へ、これは株なら「底打ち」ですね。今に見てろの忠臣蔵、健さんのヤクザ物、今なら半沢直樹。倍返し、10倍返しのカタルシス解消エネルギーこそ背中押しの原動力です。
音楽語法がまたごつごつして推進力に満ちて男っぽい。悲愴ソナタ第1楽章のテーマの左手、あのオクターヴでタカタカタカの律動の興奮、ダダダダダダと歩兵の進軍みたいなワルトシュタインの出だし、凱旋将軍の帰還みたいなハンマークラヴィールの出だし。男性ホルモン、テストステロンの勢いで書いたみたいなフレーズ満載です。
冬空のような澄んだ静けさはあってもなよなよ、うじうじはかけらもなし。竹を割ったように直線的で論理的で明快でストレート。中期だけじゃない、枯れたと思われている後期だって大フーガ変ロ長調作品133、あれは女性的とはかけ離れた極北の世界で、女性作曲家が書くかもしれない作品リストの堂々最下位に位置するものでしょう。
だからベートーベンは硬派でダサくて女にモテず薄幸というイメージが強いですがあれは後世の学者の嘘でしょう。「不滅の恋人」って誰?といってすぐ10人も候補名があがってくるわけです。同時期に10人ですよ!われわれのような並の男は羨望こそあれ想像すら及ぶところでございませんこれは。実は女にもてたし完全にプレイボーイの部類です。
ピアノがうまかったのだから当然だろうとよくいわれますが、うまいというのも並みじゃない、書いたハンマークラヴィール・ソナタはその当初は彼以外の誰も弾けなかったというレベルのうまさです。ついにそれを弾けるフランツ・リストというハンガリーの男が現れ、彼はコンサートでたくさんの女性を失神させました。
テレビも映画もない時代のヴィルチュオーゾ・ピアニストは今ならロックスターです。それも彼らはビートルズ、ストーンズ級でしょう。ダサかったというのは、学者や文人が彼を神格化したいがゆえの虚構が多分にあると思います。モーツァルトに続いてこっちの神様までプレイボーじゃまずかったのです。僕はリアリストなんで、そういう嘘は徹底的にぶち壊したくなります。
だけど実際のところ、彼はどの女性とも最後はうまくいかなかった。これもダサかった派の証拠とされます。秀吉と一緒で成り上がり者の貴族女性好きでした。だからいつも身分違いの恋だった。耳のせいで会話もうまくいかなかった。でもそういうことは初めからわかっていますから、それが理由ならカノジョが10人もできるはずないんです。
あんな規格外の音楽を書く人間です。むしろ相当な「変人」でないはずはありません。それも癇癪持ちだ引っ越し魔だ程度の変人ぶりじゃぜんぜん普通すぎます。音楽から見た超人ぶりとはとてもバランスがとれない。ジョン・レノンはヨーコと素っ裸ベッドイン記者会見までするぶっ飛び男でしたがそのぐらい、それでも足りない感じすらします。
そんな、キミ、天才に向かって不敬罪だそれはなんていわれそうですね。僕は逆にそういう人こそ彼の音楽に対する不敬罪に問いたいのです。あれは普通の人間が書く曲じゃありません。だったらその人間性の方も、とてつもなく世の中の平均値からの標準偏差が大きかったと考えることこそ平均的な結論だと思うのです。
モーツァルトはその作品偏差値の高さを「スケベだった」という俗人的エピソードでうまいこと中和して平均値の人々の間で市民権を得るという複雑な回路を経て後世の人気を得ました。ところがベートーベンは中和剤の迫力がない。難聴はむしろ偏差値を高める方向に働いたのは佐村河内事件の示した通りです。
作品偏差値が90もあって中和剤なし。だったらいっそ神様にしてしまおう。そうやって「楽聖」になっちゃった。本人も唖然でしょう。あのモーツァルトが神でも聖人でも父でも母でもありません。でもそれがある意味良かった。モーツァルトは作品の方にもちゃんとしたスポットライトが当たっているように思われるからです。
ところが楽聖のほうはちょっと変なんです。三大ピアノソナタで悲愴、月光、熱情なんてくくりがあります。32のソナタでこの3つが代表だなんて思ってる音楽通はたぶん誰もいないでしょう。ハンマークラヴィールという名称も「作品101以降をそう呼べ」と出版社に指示したから最後の5曲は全部そう呼ぶべきなのになぜか作品106の名前になってる。
第14番、「月光の波に揺らぐ小舟のよう」と、この曲の千分の一も有名でない誰かが言ったというくだらない命名はもちろん作曲者の知る所でありません。マクベスの魔女の宴会の音楽だったとか幽霊が出そうだとかで「幽霊」にされちゃった不幸なピアノ三重奏曲第5番。こんな低次元の「名曲認定JISマーク」に基づいてセンセイはおろか聖人に祭り上げっている。「楽聖」はいらんから曲をちゃんと聞いてくれという彼の声が聞こえてきそうです。
つまり、神になっちゃったベートーベンにいっとき俗人界に降りていただくのはいいとして、それを作品の次元でやるのはやめてくれということがいいたい。そんなことをせずとも、「超人」であった生身の彼は間違いなく「大変人」でもあったはずなので、学者の思い入れや美学は排して素直にそれを認めてあげればいいだけです。
かれは女にモテた、だけど結婚はできなかった。どうしてでしょう。ホモだったかとんでもない性癖があったか。わかりませんが、文科省公認皇室御用達の教条主義でなく、超人にして何でもアリと包容力のあるスタンスで見るべきでしょう。そういう可能性はチャイコフスキー、ブラームス、ブルックナーなどにもあります。
僕はベートーベンの場合はそうではないと思う。なにせジョン・レノンですからね、そんなことで女が逃げるでしょうか。むしろ、だからこそ剛腕の姉さん女房あたりが押さえつけて一気に解決でしょう。ジョンはベッド記者会見につきあってくれて剛腕で賢いヨーコ・オノという女性がいたからのびのびと「超人」でいられたと思います。
女の親が反対したとか女の方がふったとかびっくりして逃げたとか、大変人ですからそういうこともあったでしょうが、あのソナタを書くパワーと情熱で押し切ればどうにでもなったと思うのです。モーツァルトみたいに庶民の娘を選べば何の問題もなかったでしょう。でも結果としてそういうことは起きなかった。
僕の空想は、彼の超絶的な「超人」ぶりにつきあえる女性がいなかったということです。意中の人はたくさんいたんですが、あとで胸に手を当てて考えるとこりゃ成田離婚だな、やっぱりやめとこうと。彼は幸せな結婚より超人であることを選んだ、というよりも、そうでなくては自殺せずに生きてきた意味がないということだったんじゃないでしょうか。
ここで思い浮かぶのはクララ・シューマンです。彼女はすごいですね。シューマンとブラームス、超人二人が参っていたんですから美貌とかそんな程度のもんじゃない。当時ハンマークラヴィール・ソナタが弾けたのはリストと彼女しかいなかったそうです。シューマンは相手の親父と裁判までして娘を勝ち取っています。
ベートーベンにはクララやヨーコが現れなかった。そういうことではないでしょうか。特にどうということもない二番手三番手だったイメージのコンスタンツェも、滅茶苦茶なモーツァルトから離れなかったというのは天才を守ったという意味で天賦の才能ですし、それに彼も満足してた。でもベートーベンはそういう男にもなれなかった。
たしかに一市民としては気の毒ですが、そのおかげで彼はいつも男性ホルモンがドライブする戦闘モードにあってああいう男気質の音楽ができたと僕は思っています。しかも聴覚の喪失でどん底の精神状態を味わってこそ、十倍返しのインパクトの曲が書けた。まさしく「人間万事塞翁が馬」だったのではないでしょうか。
「エリーゼのために」のエリーゼさんと仲睦まじい家庭でも持っていたら?
我々の知る渋面のベートーベンはいなかったのでしょう。甥っ子の面倒は熱心に見ましたからね、子育てにめざめて保育士資格とったかも。よき夫、父親という言葉は彼のバイオグラフィーに加わったでしょうがハンマークラヴィール・ソナタは書かれなかったかもしれません。リストもクララも違う運命になっていたかもしれませんね。
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ポミエのベートーベン ピアノ・ソナタ全集(追記あり)
2015 JAN 13 0:00:36 am by 東 賢太郎
昨日のブログを書きながら聴いていたベートーベンのピアノソナタ全集はこれだ。僕の愛好曲である第18番変ホ長調のブログを書いたときにいろいろ聞き比べ、このジャン・ベルナール・ポミエ盤が印象に残った。ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31-3
この全集はときどき気の向いた曲を聴いていたが通しては初めてだ。これがなかなかいいのだ。初期の方はもぎたてのレモンみたいにさわやかであり、中期はそれにシンフォニックな華やかさと重さが加わるが独特の生命力と流動感がみなぎり、後期はそれにさらに意味深さと奥行きが加わって立体感のある音楽となる。
これは僕の知っている過去の名盤と比較してもレゾンデトールがあると思う。何より音楽に溌剌とした自発性がある。テクニックの切れ味できかせるというよりも、速い楽章は良い指揮者が小型のオケをうまくのせて成し遂げた即興性に満ちた名演という感じだ。そういう演奏は得てして緩徐楽章で失敗していることが多いが、ポミエはだれていないどころか後期などは強みになっている。音楽とは時間を支配するものだ。緩徐楽章にこそそれが出るが、彼の深い呼吸がとても心地よい。
悲愴ソナタとショパン に書いたルバートがその例である。この曲がロマン派の音楽でないのは明白だ。これを名手たちがどう感じどう処理しているかは大変に興味深い。ポミエは(先生のイヴ・ナットも)ひとつ前のasでほんの微かに(気をつけないとわからない)ルバートをかけるという解決をとっている。これを僕が論じるのは解釈論としての是非をいいたいためではない。演奏家の「時間支配」への意識が重要と考えているからだ。彼の解決は節度と知性を感じる好ましいものと思う。
ひとつコメントすると29番のハンマークラヴィールだ。作曲当時ベートーベン以外誰も弾けなかったこの巨大なソナタをどうするか?僕はクラウディオ・アラウの演奏に畏敬をもっている。技術的なことではもの言いをつける人もいるだろう。しかし本当にすぐれた演奏は完全主義者の手から生まれるとは限らない。彼によって第1楽章の意味が分かったし、嬰ヘ短調の第3楽章Adagio sostenuto、僕はブラームスは交響曲第4番の冒頭主題をここからひっぱったと信じているが、本当にそうかどうかはともかく、そういう思索を許してくれるような音を縫いこんであれを弾く人というのはアラウしかいない。
ブラームスの第2協奏曲の稿で僕はアラウのことを書いた。あれ以上にあの曲のエッセンスを汲みつくした滋味あふれるピアノは聴いたこともなければ今後聴けるとも思っていない。すべての声部の音色の使い分けとバランス、和音のブレンド、フレージングと間とルバートがあまりに絶妙で、ブラームス自身以来あれを弾くためのコモンセンスというものがあるなら、そういうものがぎっしり体中に詰まっている人でなければ生まれない性質の感動を覚える。
アラウのハンマークラヴィール・ソナタが同じだ。こういう巨大な先人たちがひしめく中で、フランス人ポミエのこの曲へのアプローチは初期の曲から連綿とつながるずっとさっぱりしたものだ。明るめの高音部ですっきりと隈取りされた、風通しの良い音楽になっている。しかし音楽の輝きが彼の中で化学反応して放射したものをすくい取ったという感じがするという点、アラウと全然異質の弾き方なのに同質の満足を与えてくれる。音楽とは面白いものだ。
微細なミスタッチがそのままだが仕方ない。ライブのような感興を優先したのは正解と思う。新鮮な聴体験であり、一気に10枚を聴きとおしてしまった。全集の穴埋めにお仕事で弾いた感じの曲がないのもいい。全部の曲に対して彼がやろうというモードに入って機が熟したものなのだろう。演奏家のメッセージを感じるのは、これが非常に優れたプレゼンでもあるということだ。
(追記)
「嬰ヘ短調の第3楽章Adagio sostenuto、僕はブラームスは交響曲第4番の冒頭主題をここからひっぱったと信じている」と書いたのはこの部分です 。
ブラームスは第1番のピアノソナタハ長調の冒頭にハンマークラヴィール・ソナタを引用しています。この通り。
僕の仮説ですが、ブラームスは交響曲第4番ホ短調で、まず第1楽章第1主題にベートーベンを、そして終楽章のシャコンヌ主題にJ.S.バッハを引用し、自作を自らが敬愛する先人の延長として位置付けたのではないでしょうか。
(カンタータ第150番、BWV 150, “Nach Dir, Herr, Verlanget Mich” – Meine Tage In Dem Leid )
(こちらへどうぞ)
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