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カテゴリー: ______ベートーベン

プレゼンの極意はベートーベンにある

2015 JAN 12 2:02:41 am by 東 賢太郎

先週は海外へのプレゼンテーションで会社の説明資料を作っていて、僕は英語を読むのは好きでもないが書くのはいいなと思った。別にうまいわけではなくネイティヴには変なものを書いているに違いないが、それでもこうして日本語を書くよりも心地がいい。

何かを「正確に」伝えようとすると日本語は長くなる。くどい。法律を読んでみればわかるが、挿入文があると実にわかりにくい。そういうのを複文というが英語だと文中の単語を別途説明する文を入れるルールがあって、例えば関係代名詞がそれだが、慣れればすいすいと頭に入ってくる(青字部分がまさにそれだ)。

現代国語という科目があって下線の「それ」は何をさすかなんていう設問ができるのは、元来日本語が複文のような入れ子構造に向いていなくてわかりにくいせいだと思う。誰でもわかるなら入試問題の用をなさない。法律のような説明的文章を正確に読み書きするには必要な能力だから役人、法律家を作る官立大学用のものだったろう。

僕は外国語は英語しかわからないが、西洋語は文の構造が説明に向いていて複雑な物事を文中で明確に定義しながら隅々まで誤解なく浮き彫りにできると思う。だからややこしいコンテンツを先週書きながら、ちょっと切れる包丁を手にいれた板前の気分を想像した。

こういう所で爽快感を味わうというのはなかなか説明がしづらい。言語、特に文法は思考回路そのものだから使う人間の思考に影響する。そういう言葉を長く使っていれば、そういう人になってしまうという感じがする。長い間英語でビジネスしてきた僕の脳みそがそういう切れ味を「おいしい」と感じるようになってしまっている可能性は大いにある。

英語といっても僕には仕事に使う道具にすぎない。だから映画に出てくる軽い会話とか奥さんの井戸端会議みたいなのはよくわからない。英語はペラペラでしょうと時におだてられても、僕はそのペラペラの語感に近いやつが一番苦手だから困惑するばかりだ。英語が代表選手の西洋語とは僕にとって何かと問われれば、「ロジック言語」だ。

英語で株をオックス・ブリッジ卒の人たちに電話ですすめる。これは即興プレゼンだ。これをロンドンで6年間毎日やった影響は大きい。英語で何か説明文を作るのは楽しい域にある。「知っている語彙を、適確な語感で、正しいロジック(文法)で並べてプラモデルを作っている感じ」が最も近い。composeという語感そのものだ。できた文章が良い英語かどうかは知らない。でもほぼ正確に意図が通じることだけは自信がある。ロジック言語はそれでお役御免だ。

意図が通じる正確さ、これは段階がある。ドイツ時代の部下で「わかりました」というときに必ず「ゲナウ(Genau)」のKさん(女性)と必ず「シュティムト!(stimmt!)」のB君がいた。僕は彼を「ヘル・シュティムト」と呼んでいた。stimmen(これが原形だ)はいろんな意味に分化しているが根っこの意味は聞こえてきた何かと何かが「ぴったり合う」である。「あんたの言ったこと、俺の頭にぴたっとハマったぜ」ということだ。

ゲナウもドンピシャという意味で、「あんたの投げた球、ド真ん中!」と言ってもらっている。気持ちはいいがだいぶストライクゾーンが広めであるのが僕としては気に食わない。stimmt!にはかなわない。こっちはど真ん中じゃなくキャッチャーが構えた外角低めぎりぎりに速球がパーンと決まってハイタッチする感じだ。僕はシュティムト君が気に入った。

ある時、週末に行きたいところがあって彼に地図を描いてもらったことがある。そのとおり行ってみると実に正確である。思わずこっちもstimmt!が口から出た。それ以来僕は新人の面接試験で駅までの行き方を地図に描かせることにした。株式みたいな形の見えないものを高学歴のインテリ投資家に売るのはそういうことにアバウトな頭の構造の人は無理だ。だから適性がよくわかった。

地図作成は空間認識力がいるが、抽象的な言語を適宜配置してロジック回路で構文化して説明文を書くのも似ている。頭に浮かんでいる空間(景色や道順)を口(言語)で言えなければ地図という記号化された図面は書けない。そしてそれは、頭に浮かんでいる音を口(音階)で歌えなければ譜面という記号化された図面を書けない作曲とも似ているだろう。思えば作文も作曲もどちらも英語はcompositionだ。

ドイツ人の入社面接に限った話だが、女性の描いた地図はわかりにくいのがあった。さすがに丸文字や♡マークは出てこないがよくわからない。トヨタの5年後の利益成長性の要因分析をコンサイスに言語化するのは困難だろうという判断をせざるを得なかった。ちなみに彼女は同学年の7%しかいない大卒だったから超高学歴だ。このことはバッハやベートーベンの国でも大作曲家に女性がいないことと関係があるのだろうか。

説明文というのは散文や詩ではない。意味不明のぼわっとした言葉や必要ないことは書かない。だから必要十分なコンテンツを極限まで切り詰めるべきである。つまり短い方が絶対にいい。B to Bのプレゼンはそれだ。聞く方はプロで忙しい。早く終えたい。冗長なプレゼンはコンサイスな文章を書く能力のない事をプレゼンするようなものである。少なくとも金融では、そういう人から物は買わない傾向が強い。

銀行の人というのは真面目なのか何なのか知らないが100頁もあるプレゼンを作ったりする。資料が厚くないと負けると思ってるらしい。プレゼンは相手にstimmt!を言わせないとテーブルにも乗らない。買うかどうかの吟味はそこからだ。ある時、ワン・オン・ワン(訪問対面式)のプレゼンなのに途中で目の前のお客さんが舟をこぎ始めた。坊主のお経に居眠りする檀家の図だ。しゃべる方は100頁を国会答弁みたいに読むのに一生懸命で顔もあげないことを知った練達の技だった。

stimmt!はやっぱりいい。これの名詞形がStimmeで「声」という意味になる。魔笛でタミーノが Was höre ich, Paminens Stimme? (いま聞こえたのはパミーナの声か?)というあれ、バッハの『目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声』は Wachet auf, ruft uns die Stimme だ。つまり、stimmenの本来の意味は「音が聞こえて来て自分の内部で意味を形成して共鳴する」ということで、楽器の調律が「合う」という意味もあるし、市民の声という転意からvote(投票)になったりもする。

ところで、いまパソコンで書きながらベートーベンのピアノソナタを流しているが、この音楽はその模範答案、理想形だとつくづく思う。コンサイスで、無駄が皆無で、言いたいことが高密度でギュッと詰まっている。小さいけど固く質量があって運動エネルギーは巨大になるゴルフボールみたいだ。これに比べるとマーラーは運動会の「たまころがし」のボヨボヨの球に見える。100頁のプレゼン資料みたいに物量だけで中身はスカスカなものは僕の理性は万事拒否してしまう。

ベートーベンの曲はプレゼンの王様だ。第5交響曲をきいてホールからぞろぞろ出てくる人たちはみんな元気な顔になってる。「みなさん、辛い日は誰だってある。でも信じることです。明るい未来だって誰にも来るのです!」というベートーベンのプレゼンに全員がstimmt!している。驚くべきことだ。こんな凄いものを書いたから、だからベートーベンは人類史に格別の地位で聳え立っている。

stimmen 、Stimme、composition、こういう言葉の本来の根っこの語感がピタッとくるようになるとベートーベンはすっとわかる。彼の音楽のemotion(情緒)に訴求する側面にかたよった解釈は完全な間違いだ。それは巧みな政治演説がメッセージは希薄にもかかわらず大衆を扇動できるのに似る。感情に直結する仕掛けや盛り上げで聴き手を鼓舞するのはプレゼンではない、単なる娯楽である。ベートーベンをそういう演奏で知っている人は最晩年の作品の意味を聴きとれないだろう。

僕は時々彼のピアノソナタ32曲を通して全部きく。たかがCD10枚だ。そうすると知の巨人のメッセージが心にずっしり堆積して何かマグマのように内面を突き動かしてくれる。こんな精神的衝動を生んでくれるものは他に一切ない。他人に行動を促すのがプレゼンとするなら、それは百万分の一でいいからこういうものを秘めていなくてはならない。音楽演奏もプレゼンである。こういう状態で内面から溢れ出たものに忠実にやってこそ、ベートーベンの音楽になると思う。

分量膨大、内容スカスカ、メッセージ希薄の娯楽は聴衆のstimmt!を誘発しない。快楽追求型の「ベートーベン・ヒット・パレード」みたいな7番、9番演奏を何万回聞いてもベートーベンは何もわからない。彼の音楽の本質的部分を占める「西洋言語的特性」は快楽とは何の関係もない。僕が言っている「プレゼンの極意」も快楽とは何の関係もない。もしそれを体感したければドイツ語のstimmenという動詞を研究して深く知ることを一つの方法としておすすめする。

愛すべき部下だったシュティムト君に感謝したい。

(こちらへどうぞ)

ポミエのベートーベン ピアノ・ソナタ全集

 

 

 

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ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(原題・ブラームスはマザコンか)

2014 OCT 8 21:21:47 pm by 東 賢太郎

本稿は原題が

クラシック徒然草-ブラームスはマザコンか-

であり、自分で好きなブログの一つです。原文には手は加えず、「ピアノ協奏曲第1番ニ短調」の部分を書き加えます(2016年1月31日~)。

・・・・

ブラームスの音楽がどういうものか、それを知るには伝記や評論を読むことも大事だが、なによりその音楽にどっぷりとつかってみることだ。もちろんそれはモーツァルトでもベートーベンでも言えることだが、彼らの音楽は伝記で知った生き様や性格からくる印象とそうずれることはない。モーツァルトは恐らくあの音楽どおりの男だったろうし、ベートーベンの生きるための信条、ステートメントは9曲のシンフォニーにだけでも雄弁に語られていると思う。

ブラームスの人となりはどうもつかみにくい。彼の生涯についてはガイリンガー著『ブラームス 生涯 と芸術』など多くの著作があるが、書かれているような人だったかどうかはわからなくなることがある。それが、音楽を聴くことを通してなのだからいよいよややこしい。どこか優柔不断であり、寡黙な節度と奔放な振幅、繊細でいて無頓着、情熱的でいてシャイ、頑迷なのに優しく、神のように高貴でいてジプシーの様に粗野という本質的矛盾をたくさん秘めている。どっぷりつかると五里霧中になるという迷彩のようなものがブラームス・ワールドの入り口だ。

僕は彼はアレグロやプレストを書くのがへただと思っている。音楽が軽やかに滑らかに一直線に走らない。主題がハイドンやモーツァルトのように細身でしなやかでなく、紆余曲折をたどって快速で走りだすと機関車の疾走みたいにモメンタムがつく。ソナタ形式の外形としてのアレグロは書いても本音は遅い部分に聞こえる。宗教曲以外で神や自然をストレートに暗示、賛美、模倣することもない。ドラマティック(劇的)であからさまな感情の吐露を忌避しているのも顕著だ。だから合唱曲はたくさんあって声楽の作曲に非常に長けているのに、劇的そのものであるオペラがない。

それはマーラーがオペラを書いていない(未完に終わった)のとはわけが違う。マーラーという人はプロのオペラ指揮者だ。オペラをメディアとして知り尽くしており、人生を劇的に理解する性向があり、恐らくそれが故にストーリーのあるオペラは自己を投影し感情を吐露することに向かないことを知っていた。白いキャンバスである交響曲こそ彼の「私の履歴書」に好適のメディアであったのだと思う。最晩年のベートーベンがそれを弦楽四重奏曲に見いだしたのと同じ意味で。交響曲を4つ書いたブラームスは、しかし、どうだったのだろうか。

彼はロマン派の時代に生まれながら古典の枠組みに本質的な音楽美を見出そうとしたように見えるし、多くの伝記や著作がそういう意味のことを書いている。たしかにソナタ、変奏、シャコンヌなど鋳型に執拗にこだわっており、その作りが堅牢巧緻きわまりないことは譜面から理解できる。一方、先輩のシューマンは反対に自由でファンスティックな発想に長け、ピアノ協奏曲が元々は幻想曲であり後から第1楽章の鋳型に入れられたことが象徴するように、彼の交響曲や室内楽にあるのはソナタ形式であるための必要条件としての鋳型であって、それ自体がブラームスの場合のごとく絶対無比の意味合いを持って我々を説得するとはいいがたい。

そうしたブラームスが頑強に形式論理が情緒に流されることを拒否する姿勢は新古典主義と呼ばれ、ストイックであることを是とする人々にポジティブに評される場合もあるが、それをもって彼の主義とするほど自己の吐露を全面的にそれに依存したものだとは僕は思わない。それは彼のいわば鎧(よろい)のようなもので、同時代の他人にも後世にも開示したくない何物かを覆い隠すすべだったのではないかと思っている。この点は本稿でもっとも強調しておきたいことだ。

彼の4つの交響曲、それが彼の押しも押されぬ代表作であり、彼自身もそう考えており、現に僕自身もっとも聴きこんだクラシック音楽がどれかといえばその4曲であるわけだが、マーラーの場合の様に彼の「私の履歴書」がその4つの交響曲かというと、どうも違うという気がしてならない。「名刺」ではあってもそうではないかもしれないと思ってしまう。ここのところこそが、ブラームスという作曲家を知れば知るほど五里霧中となってしまう要諦なのである。なにか僕は彼の二重三重にはりめぐらされた用意周到な煙幕にまかれているような感覚を禁じ得ないのだ。

鎧を纏っているブラームスの生身、その本質はロマンティックどころか非常にセンティメンタルである。27歳で書いた弦楽六重奏曲第1番変ロ長調の第2楽章がその例だ。

これはなんだったか映画にも使われていた。音楽の方から映画ができてしまいそうなほど耳にまとわりつく感傷的なメロディーだ。

彼がシューマンの奥さんであるクララに好意を寄せていたことはすべての伝記作家が慎ましくあるいは積極的に肯定しているが、この曲やピアノ協奏曲第1番の第2楽章は、彼の好意というものがそんな淡くて生やさしいものではなかったことを物語っているように思う。この曲の最後の方、チェロが沈黙して高弦だけでひっそりとハーモニックスのような音を奏でる部分は、恋人たちが死んで魂が浄化されるかのようなイメージを僕は持つ。晩年のクラリネット五重奏曲にもそれを見るが、ワーグナーの作り物だけの愛の死などよりずっと危険なにおいがする。

そのブラームスが20歳で書いてシューマンに意見を求めたピアノソナタ第3番ヘ短調は、はじけんばかりの情熱と挑戦意欲に満ちた5楽章の大作である。アレグロ・マエストーソで開始するこのパッションは、しかし若者の雄叫びのようなどこか外形的なものだ。僕にはそう聞こえる。そして第2楽章Andante espressivo には「若き恋」という詩が冒頭に置かれている彼の本質はここにひっそりと姿を見せている。彼が本音をソナタ形式の鎧で包むという、それこそ本音の人間性を構造的に見せてしまっているという意味で、この曲はまさに若書きである。

そういう本質を見抜かれたくなく、あえて隠すための古典主義の鎧だったのかもしれない。そうだとするとなぜだろう。何を隠したかったのだろう?シューマンが亡くなってからのクララとの関係にそれを解く鍵があるのかもしれないとの指摘は多いだろう。彼の両親が結婚したとき、父親は24歳、母親は41歳だった。17歳上の姉さん女房である。思うに、彼自身がその24歳前後になったころの理想の恋人像がクララ・シューマンという14歳年上の現実の女性に一気に収斂していったということはここで指摘するまでもなく多くの人の想像や下世話な憶測をも呼んでいる。

以下、法学者、ピアニスト、音楽評論家であられた藤田晴子氏の著作を参考にさせていただいたことをお断りする。

クララの長女マリーが記したところによると、ブラームスとクララは1886年にお互いに相手からもらった手紙を返しっこしたそうだ。クララはそれを廃棄し始め、マリーが子供たちのためにそれを残してほしいと懇願して全部の廃棄は免れた。そうして残っているのだけでも約800通もある。チャイコフスキーのフォン・メック夫人のように手紙だけのつき合いとは違い、一緒に過ごした時間に交わされた生の会話はもっと重要だったろう。なにせ1853年から96年までの44年分だ。それはクララにとっては35歳から77歳までの後半生だがブラームスにとってはシューマンの尽力で楽団に登場した20歳から死ぬ前年の63歳まで、つまり作曲家としての全ての期間をカヴァーしてしまう。

ここからは私見になるが、17歳年上の女性と結婚した彼の父親は女性依存の強い人、今でいわゆるマザーコンプレックスだったのではないだろうか。そしてその家で育った息子の方も。彼はクララからお金持ちのお嫁さんを早くもらいなさいと母親のように言われており、間にすきま風が吹いていた期間も何度かある。クララの娘に恋情をいだいたこともある。それでも彼は生涯にわたって新作をクララに送って意見、批判を仰ぐことをやめていない。「作曲家ブラームス」は精神的にクララに依存していたといって間違いではないだろう。彼が同時代の他人に、後世に、決して知らしめたくなかったことはそれに関わることではないかと思うのだ。

晩年のクララが音楽的に頑固な保守主義者となり、ワーグナーやリストに背を向けたという事実は注目に値する。それはブラームスという後継者が現れたことを心から喜び、それを広く紹介してから世を去っていった夫ロベルト・シューマンの音楽の敷いた路線でもある。その夫の音楽を各地で演奏して広めていくという献身的な活動は、クララの生涯にわたることになる。そのことをブラームスが内面においてどう受け止めていたかは大変に興味深い。その女性の精神的支配下にブラームスがあったから、彼の音楽性がロマン主義的であるにもかかわらず常に古典主義の衣装を纏い続けたという説明はもっともらしいが皮相的だろう。事はもっと深層心理的なものだ。

マザコンという言葉が奇矯に響くかもしれないが、誰しも子供時分は母親の強力な影響下にあるのが一般的だろう。それがどう残るかということであって、それは程度の問題ではないだろうか。僕の母は「男子厨房に入らず」を頑として貫徹して育ててくれた。家事能力はなしで今も家庭においては全面的に女性依存となったが、そのおかげで好きなことばかりを伸び伸びとできていっぱしに食えるようになったのだから感謝以外の言葉もない。しかし、もしそれが仕事でも女性依存となれば僕はもたない。男としての精神的基盤が崩壊してしまうだろう。

th6いくらクララが当代きっての名ピアニストではあってもシューマン未亡人ではあっても、彼女がブラームス以上の作曲家であの4つの交響曲以上のシンフォニーを書く能力があったわけではない。自己を存立させる基盤である仕事、人生をかけている作曲というものにおいてそれが女性依存に支えられたものだったかもしれないというのは僕にはとうてい信じられないが、ブラームスにおいてはそうだったのかもしれない。彼はチャイコフスキーやショパンがフォン・メック夫人やジョルジュ・サンドにもらっていたものとは違う何かかけがえのないものをクララから得ていたのだと思う。1896年、77歳で彼女が亡くなった翌年、ブラームスも後を追うように世を去った。63歳だった。

ピアノ協奏曲第1番 ニ短調作品15はシューマンが亡くなった翌年、ブラームス24歳の大作だ。父親が結婚した年齢である。ブラームスはクララへの手紙でその第2楽章アダージョについて、「あなたの穏やかな肖像画を描きたいと思って書いた」 と綴っている。これは音楽のラヴレターにほかならない。秋の夜長、じっくりとお聴きいただきたい。

・・・・

ピアノ協奏曲第1番ニ短調ニ短調作品15

ブラームスが24才で書いた最初のピアノ協奏曲である。ご参考までに、大作曲家たちが最初のピアノ協奏曲を書いた年齢はおおよそこのようになる。

モーツァルト11、メンデルスゾーン13、ラフマニノフ18、ショパン20、プロコフィエフ21、サンサーンス23、グリーグ24、リスト24、ウエーバー24、ベートーベン25、ショスタコーヴィチ27、ガーシュイン27、シューマン31(完成稿)、フンメル33、ハチャトリアン33、チャイコフスキー35、ドヴォルザーク35、バルトーク45、ラヴェル55

ブラームスは比較的若くに随分重い曲を書いたものだと思う。交響曲を書こうとしてベートーベンの壁に当たり、2台のピアノのソナタが発展してこの協奏曲になったとするのが通説だ。壁の存在は第1交響曲を書くまでの年数が明らかにしているわけで事実だが、それとともに影響したのはクララの存在の重みではないか。

そう思いあたったのはロンドンに赴任して間もないころ、ロイヤルフェスティバルホールでのことだった。スティーヴン・ビショップ・コヴァセヴィッチのピアノが何かを訴えかけ、アンタール・ドラティの伴奏に何かを見た。そういうことというのは音楽鑑賞においてそうあるわけではないが、そのとき僕は1番を初めて知った。

その前か後にやった交響曲第1番は残念ながらちっとも覚えがなくて、これだけが残っている。ドラティという大指揮者を聴いたのはその一度だけなのだけれど、あの演奏は不思議な律動があって、それが自分の奥底に響き、記憶に焼きついている。ひょっとして1番には若いブラームスの恋の熱でも封じ込められていて、やる方も聴く方もそれに共振できるかどうかなんじゃないかと思ったりもした。

これが第2楽章のピアノの入りだ。第1楽章の入りも憂いと慕情に満ちているが、これは自分で弾いたらわかる。恋してない男が書けるものではない(第1ピアノのほう)。

brahmsPC1

もうひとつ、非常に印象的なシーンがこれだ。終楽章のコーダの入り、ホルンが期待と憧れに満ちた上昇音型をppで吹く。それが木管に広がり、最後はフルートが受け取って感動的な至福の場面をつくる。

brahmsPC2

交響曲第1番の第4楽章に出てくるアルペンホルンを模したホルンの主題は、クララの誕生日を祝う手紙の中で「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」という歌詞が付けられている。ラブレターなのだ。そして読者はその場面で、ホルン主題をフルートが受け取ることをご存じのはずだ。

 

名曲ゆえおすすめCDは数多あるが、①意外に女性が弾いてない②名手でもミスタッチのまま録音をOKしているケースが多い、ことで不思議な曲だ。要は技術的に難しいのだろうが、もっとそうである2番は女性がけっこう弾いている。テンペラメントの問題なのだろうか。

 

アルトゥール・ルービンシュタイン / ズビン・メータ / イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

941ルービンシュタイン(1887-1982)の1976年の録音だ。24才の恋の曲と書きながらなぜ89才のピアニストの演奏なのか?聴いていただくしかない。僕の父も91で達者至極だが、記憶力はともかくこの指の回りはイメージできない。終楽章コーダはさすがに苦しいが、だからこそメータもオケも深い敬意をもって老ピアニストを支えているのがわかる。ルービンシュタインというと何とかの一つ覚えでショパンとなるが、彼自身は好きな作曲家はときかれ、ブラームスと答えている。

 

ジュリアス・カッチェン /  ピエール・モントゥー / ロンドン交響楽団

41DNVH0H64Lピアノの素晴らしさでは僕はこれがいちばんと思う。どこがどうではなく、こういうものだという感じを最も受ける。モントゥー(1875-1964)84才の録音だ。モントゥーによると、ブラームスはウィーンで彼がヴァイオリンを弾く自作の弦楽四重奏を聴き、「私の音楽をうまく弾くのはフランス人なんだね。ドイツ人はみんな重すぎてだめだ。」と言ったそうだ。モントゥーというとこれまたフランス物となっているが、彼自身は最も敬愛する作曲家はときかれ、ブラームスと答えている。

 

ウイルヘルム・ケンプ / フランツ・コンヴィチュニー / シュターツカペレ・ドレスデン

POCG-90123ゆっくりと始まる。ピアノを導くオケの律動は誠に見事。上記2盤にない古色蒼然たるドイツの味わいをコンヴィチュニーが存分に聴かせて魅力が尽きない。ホルンや木管を聴いてほしい。このオケはもはやこういう音はしないが、法隆寺を近代建築法で改装するような愚をなぜ犯したのか理解に苦しむ。ケンプのピアノは時にメカニックの弱さを感じることがあるがここでは立派で、第2楽章は誠に滋味あふれる名演だ。良い1番を聴いたという充足感がずっしりと残る。

 

ラドゥ・ルプー  /  エド・デ・ワールト / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

uccd-4561_rPH_extralarge出だしのオケの序奏部から彫が深く引き込まれる。理想的なテンションとテンポ、こくのあるティンパニ、この著名な録音、ピアノニストばかり誉められるが指揮の方もこのまま交響曲をやって欲しいほどで全録音中でもトップクラス。僕はこれが一番好きだ。そこにそっと寄り添ってくるルプーのデリケートなピアノ、この剛毅と抒情の対照は実に捨てがたく、この曲の本質を見事についている。ルプーはモーツァルトの17番k.453をフィラデルフィアで聴いたが、第2楽章のppなどライブでもこういう音がしたのを思い出す。

 

ルドルフ・ゼルキン / ジョージ・セル / クリーブランド管弦楽団

71fhCaNeR7L__SL1077_入試合格直前の74年11月末に1、2番の入ったLP(右のジャケットだった)を買って熱中していたが、これで落ちたら馬鹿の余裕だったからいい度胸だった。久しぶりに聴きかえし、各所でああなるほどこれだったとひざを打つ。2番で書いた通り、オケが楷書的で2台ピアノ版を想起させるほど競奏の味わいに満つ。オン気味に録られたゼルキンの技は切れているが上記②のミスタッチはあってなぜかそのままだ(終楽章冒頭など)。セルの指揮はアンサンブルの精度に絶句。こんなに研ぎ澄まされたオケの音はもうどこからも聞けない。襟を正して聴くしかない、立派の極致。

 

伊藤恵 / 朝比奈隆 / 新日本フィルハーモニー交響楽団

asahinaなにやら指揮者の気迫のこもったものものしい開始。どっしりした重心の低いオケがたっぷりしたテンポでロマンティックに歌いこむ。大変にブラームスにふさわしく絶賛したい。そしてひそやかに入ってくる伊藤のピアノがやがて高揚し、オケに添ってバスを効かせつつもロマンの味をたっぷり湛える。朝比奈が「伊藤君は男ですから」と冗談めかして誉めたピアノは心のひだをとらえて本当に素晴らしい。男と並べても当曲ナンバーワンクラスの名演であり、ライブの熱さもあり、僕はこのCDが大好きである。

 

ヤコブ・ギンペル/ ルドルフ・ケンペ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ginpel昼休みだった。会社の裏通りをなにくれとなく歩いて鄙びた雑貨屋にふらっと入った。そこにこれが、捨てられたようにあった。17.95マルクの安売り。その時の喜びったらない、今でもはっきり覚えてるぐらいなんだから。94年あたり、フランクフルトでのことだ。欲しいと思っていたディスクだった。聴いてみるとなんとも硬派だ。これがドイツのブラームスでなくてなんだろう。ケンペとBPOのごつごつ角ばった音作り、ホルンの重い音。白眉の第2楽章は遅めのテンポでロマンを語りぬく。昔の恋の述懐のようだがギンペルのピアノは媚のかけらもなく硬質で辛口。それゆえに上記楽譜のホルンの上昇音型がなんと感動的に響くものか!男のブラームス。音楽は弾く者の人生を語るのだ。ごつごつした木目もあらわな千年杉の一刀彫のような風情。僕はこのCDに浸るのが無上の喜びだ。きれいに表面の整ったつるつるのプラスチックみたいな現代の演奏。テクニックがどうの、ミスなく弾くことがどうのなどくそくらえである。

 

 

 

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テツラフ・カルテットを堪能(ベートーベン弦楽四重奏曲第15番イ短調作品132)

2014 OCT 8 1:01:57 am by 東 賢太郎

紀尾井ホールにて。現代屈指の実力派であるドイツのヴァイオリニストのクリスティアン・テツラフ、チェロに妹のターニャ(ドイツ・カンマーフィル首席)、第2ヴァイオリンにエリーザベト・クッフェラート(バンベルク響元コンマス)、ヴィオラにハンナ・ヴァインマイスター(チューリヒ歌劇場管コンマス)という豪華カルテットである。もちろん常設団体でないからやるときでないと聴けない。どうしても聴いてみたかった。彼らへの興味、そして大好きなベートーベンの15番がプログラムにあったので。

まずモーツァルトのハイドンセットから第15番ニ短調K.421だ。面白い。この曲は隣りの部屋でお産をしているコンスタンツェの悲鳴を聞きながら書いたという説がある。初めは俗説と思って無視していたが、この音がそれに比定されているのかな、モーツァルトの潜在意識にあったかなというフレーズはあるようにだんだん思えてきた。しかしこの演奏はそういうこととは無縁な純音楽的アプローチだ。

波打つような抑揚、深い呼吸で音楽に立体感があり音に透明感がある。第1楽章提示部の終わりの部分、第2VnとVaの細かい同音三連符は、僕の好みだが、もう少し音をスタッカート気味に粒だたせて弾いてほしかったが(フィガロにつながる天才的な音なんだから・・・)。終始気に入ったわけではないが、終ってみて良いものを聴いたなと体が満足しているのに気づいた。いつでもそうなるわけではない。

次はびっくりした。イェルク・ヴィトマン(1973~)の弦楽四重奏曲第3番「狩りの四重奏曲」だ。弦から出るありとあらゆる特殊奏法音、キーキー、ギーギー、ピーピー、ガリガリ、ゴリゴリ、パチパチというノイズと奏者のかけ声、弓を振る風の音を駆使して狩りを活写したリズミックで快速の曲だ。きれいな楽音はほとんどない。それで音楽になるのだから驚きだ。音楽ってなんだろう?少々考え方に変革を迫られる強烈な体験であった。

最後のベートーベンの第15番イ短調作品132が今日の目当てだ。この曲の第3楽章「リディア旋法による、病が癒えた者の神に対する感謝の歌」はベートーベンが書いた最も崇高な音楽の一つとして有名だが、そればかりではない。第1楽章も深遠だ。このチェロの開始こそバルトークの弦チェレ冒頭に結実したと僕は思っているし、第2Vnによる第2主題はブラームスに展開部はシューマンにこだましている。

難聴の精神的危機を乗り越えたベートーベンは弟の死、最後の失恋、腸カタルなど再度、再々度の危機に直面し、第9、最後の3つのピアノソナタ、ミサ・ソレムニスを完成した。その後、ピアノ、管弦楽ではなく依頼されたカルテットによる作曲に集中した彼は、最後にたどり着いた晩秋の透明な境地を無心にスコアに書きつけた。その澄んだ青空のごときものを含んだ作品群が12番以降の後期の四重奏曲である。

その5曲に思うことは、明確な旋律、和声、リズムはもはや彼の主眼にないことである。多楽章形式、対位法、フーガを採用し、美しい音楽ではなく心の真実の吐露を委ねた。ロマン派への一里塚となったと同時に主題は抽象化の度合いを高め、ブラームスを経て新ウィーン楽派、バルトークへの水脈も用意した。15番は4楽章で着想されたが腸カタルにより作曲が中断、3か月での回復の喜びと感謝をこめる意味でモルト・アダージョ~アンダンテ(第3楽章)が加えられた。5曲のうちでは旋律が明確なものに属する。

この15番はまぎれもなく過去聴いた最高のものだった。ターニャのチェロ(1776年グァダニーニ)の音は究極の美音といえ、同質の音であるヴィオラと完璧に一体化して2丁のヴァイオリンの織りなす音の綾にからみ、第1楽章の音のタペストリーの陰影が4人のソリストによって立体感をもって提示される。こんな上質の音楽はめったに聴けるものではない。

ノンヴィヴラートで調和する第3楽章アダージョは神秘的に美しいばかりでなく、未曾有の求心力で会場を包み込み息をのむばかり。本来は第9の終楽章だった第5楽章は堅固な構築感と推進力でもって堂々と閉じられる。感服。アンコールはハイドンのト短調作品20の3からメヌエットであった。

こういう見事なカルテットは音楽の王道だ。聴衆は音や旋律の美しさに酔うわけではない、4人の奏者の「気」に引きこまれ彼らの発するオーラに打たれるのだ。ひとりでは出ないが100人もいる必要もない。ぎりぎりに切り詰めた必要十分なアンサンブルこそ最も心を揺さぶることを今日教わった。

 

(補遺、16年2月7日)

15番の好きな録音としてまずこれだ。

カペー四重奏団 ( Capet Quartet )

312このフランスの名カルテットのベートーベンは傾聴している。一点の曇りもない明晰なアプローチで1928年(昭和3年)録音とはとうてい信じられない。ブラームスが自作のカルテットの演奏を聴いて「フランス人がいい、ドイツ人の演奏は重すぎる」と評したとピエール・モントゥーが述懐している(このフランス人とはモントゥー自身のことだが)。これはあくまで趣味の問題ではあるが、ベートーベン演奏においても僕は事大主義的に深刻で重くないtransperentなアプローチが好きだ。

 

イタリア四重奏団 (Quartetto Italiano)

4988005885135こちらのアンサンブルの透明度もすばらしい。この四重奏団の演奏はモーツァルトも全曲あって、得も言えぬ流れの良さが魅力だ。個々の奏者の完成度というよりも合わせ、合奏の熟成に重きがあって近年はあまり聞かないタイプとなってしまったが、弦楽四重奏の面白さは元来がこういうものだと思う。これだけ力まずごつごつもせず流れるベートーベンも希少で第3楽章も深遠というより不思議な温かみがある。この見事な弦の調和は簡易なPCではだめでオーディオ装置とそれなりのスピーカーで味わいたい。

 

(こちらへどうぞ)

モーツァルト 弦楽四重奏曲集 「ハイドン・セット」

シューマン弦楽四重奏曲第3番イ長調作品41-3

バルトーク 弦楽四重奏曲集

 

 

 

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クラシック徒然草-悲愴ソナタとショパン-

2014 SEP 21 1:01:40 am by 東 賢太郎

 

悲愴ソナタのアダージョ・カンタービレが、一か月の空白状態で乾ききった心に昨日すっとしみいってきた。これは言うまでもなくベートーベンの書いた名旋律だ。ビリー・ジョエルがThis Nightでパクっているほど。

弾いてみるものだ。いろいろ気がついた。まずこれだ。

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ここに来て、あれっと思った。ショパンの前奏曲作品28 のホ短調( No.4)じゃないか。こういうのは目や耳じゃなく指が見つける。

ここにだって、 エチュード第3番 「別れの曲」が見え隠れする。

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そうだろう、ショパンがこのソナタを知らなかったはずはない。その2曲はこのアダージョの子供みたいなものではないか。

この冒頭の第3小節の4つ目の8分音符、このシ♭をショパンはどう弾いたのだろう?

何故そんなことを考えるかというと、目をつぶって弾いていて僕はどうしても、そのシ♭にルバートをかけたい誘惑にかられてしまうことに気がついたからだ。理由はない。単に感覚的に。しかし正統派のピアノの先生はおそらくそれを戒めるだろう。これはドイツ音楽だ、ショパンじゃないと。確かに、僕が最も敬愛するバックハウスはルバートがないのだ。

この楽章を甘く、ロマンティックに弾くことは僕も反対だ。この旋律は4小節+4小節をひとフレーズとして西洋音楽の規範通りに書かれている。素晴らしい古典の均整と格調がある。それを壊してはいけない。しかし、である。第4小節の4拍目でメロディーラインのミ♭が半音上がる。バスもミ♭なのに!これが不協和音に聴こえないのは対位法的な音楽でないからだ。弦楽四重奏の譜面の様に見えるが、これは歌謡性の高い、メロディー(歌)と伴奏というピアノ的なものである。

第3,4小節とも、4拍目にサプライズが仕掛けられている。この意外性!

そして第5小節だ。A♭⇒F7 というベートーベンが好きな3度転調がやってくる。そこからバスは4度の上昇を3回重ねてトニックの変イ長調に回帰する。この意外性!

こういう目に見えない巨匠の意匠に目が向かないようであれば、僕はその人の芸術家としての資質を疑うしかない。ベートーベンはそれに気づいてくれる人に向けて音楽を書いている。それに気づいたというサインがテンポ・ルバートになるのであれば、それに気づいた聴衆にしかとキャッチされることになり、そのことをベートーベンが戒めることはないと思う。ピアノの先生がどう言おうと。

このアダージョはバッハの最上の音楽にだけある、澄み切った抒情に満ちている。しかし、それでいて宗教音楽ではない。教会を出た人間の音楽である。繊細に神経に触れてくる和声の色合い!これに魂が敏感に感じ、深く呼吸し、反応しなくて何があろう。

僕のまったくの空想であるが、ショパンはもちろんルバートし、そこからああいう曲想を得ていったと思う。彼の曲の和声の精妙さ。あんな音楽を書く人がこれを見逃したはずはない。第3小節でa♭、g、f と下がったバスがオクターヴ上がり、次のe♭が今度はオクターヴ下がる。こういうところもショパンにエコーしている。もちろんこれは前述の e♭と e♮ の不協和音を隠すためだ。

ところがである。残念ながらほとんどのピアニストがこれをほぼインテンポで弾く。ポリーニなどメトロノームのようで、彼は一体この楽譜に何を読んでいるのか、まったくもって信じ難い。ケンプもさらさらと小川のように流れてしまう。ぜんぜん魅力がない。一方で、何人かの人が僕の思うようにやってくれている。シュナーベル、リヒテル、ギレリス、アラウ、ホロヴィッツ、リルなど。

僕が何が言いたいかはこのギレリスの大家の芸で味わっていただきたい。シ♭のルバートはほんのかすか。しかしそれがまったく自然で、魂を天空に放つようにひっそりと、ふわっと宙に広がる。こういうところにピアニストの真の技量が出る。

ギレリスは録音が数種類あるがどれも似ている。唯一、後半のトリプレット(三連符)を強めにスタッカート気味にするのがやや僕は趣味に合わないが、それをのぞけばこの1968年12月モスクワライブは全曲にわたって名演である。もうひとつ、イギリスのジョン・リル。彼はチャイコフスキーコンクール優勝者だが僕は独墺系を評価している。これはもっと沈静感があり深い安息にひたれる。旋律の深い呼吸と間(ま)をよく聴いていただきたい。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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クラシック徒然草-1か月ぶり弾いたベートーベン-

2014 SEP 19 22:22:19 pm by 東 賢太郎

 

僕の唯一の迷信

これが当たったのか来週に大きなプレゼンテーションの予定が入り、今週は準備でちょっと気が立っていました。ところがそういう時に限っていろんなことがバタバタとおこって、音楽など聞く気にもなりません。

グローフェを書いてからだから今月は音楽断ちの異例事態でした。

今日帰ってきて、何の気もなくネットを見ていたら、ゾウの前で男性がピアノを弾いている映像が出てきて、つい見てしまいました。

ゾウはあまり反応してなくてつまらないのですが、彼が弾いていたのがベートーベンの悲愴ソナタの第2楽章でした。

これがゾウよりも僕に響きました。

そういえばピアノは1か月ぐらい触ってもいません。まずいもうだめかもしれない。昨日の英語の件もあったものですから。

楽譜を引っぱりだしてそれを弾きました。1時間ぐらい。

これは初めてでしたが、もう最高。満足です。高貴という言葉しかうかびません。

 

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クラシック徒然草-破格のピアニスト、H. J. リム賛-

2014 AUG 31 1:01:41 am by 東 賢太郎

先日、ベートーベンの18番のソナタのブログを書いていて、最近の演奏家はどうかなとyoutubeをのぞいていて初めてこの人を知った。この18番、尋常ではないものがあり、勢いに乗ってスパークするかと思えばすっと力を抜いて息をついたりする。中でも第1楽章の終わりをpにする版で弾いているのが気になった。

誰も知らない24歳がいきなりベートーベンを全部録音するというのはまったく破天荒である。ところが、調べるともう一枚ではラヴェルを弾いているではないか。こうなると僕としては聴かないわけにはいかない。そこで金曜日にベートーベンの2枚(5,6,7,16,17,18,28番)、それからラヴェルとスクリャービンの入ったCDを買って帰った。

雑誌や評論のようなものは一切読まないので、ピアノ愛好家で知らなかったのは僕だけのようだ。調べるとこうあった。

12歳で韓国から単身フランスに留学、パリ国立高等音楽院ではアンリ・バルダ教授に師事し首席で卒業。韓国の家族に演奏を見せるためにyoutubeに動画をアップしたところ、たちまちネットユーザーからの熱い支持を受け注目を集める。2011EMIクラシックスと専属契約し、昨年ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集(8枚組)で異例のCDデビュー。同CDは、発売後、全米ビルボード・クラシック・チャートの1位を獲得し、ニューヨーク・タイムズや英テレグラフ紙でも高い評価を得た。

いよいよネット時代の申し子みたいな人が出てきた。コンクールで優勝なんかしなくても、ネット検索数が多ければ天下のEMIがCDにしてくれるのだ。そんなことはクラシック業界史上初である。リムは「ベートーヴェンのことは、考えると眠れなくなるほど好きでたまりません」と言っているが、好きかどうかより伝統流儀に長けた人がコンクールを通る。僕は流儀は立派でも心酔していない人より、眠れなくなるほど好きな人に弾いてほしい。彼女自身が自分の考えで数曲ずつグルーピングしていてその意味はよくわからないが、大事なのは「この曲が好き」という人が弾くことだ。御託はどうでもいい。「ラヴェルは子どもの悪夢とか妖精、ファンタジーの世界」とも言っている。そうもいえるが、それだけではない。でもそういうことは彼女はこれから見つけていくだろう。

僕はこのベートーベンは好きだ。御託に塗り固まったクラシックの殿堂をバズーカ砲でぶちこわしてくれて実に気持ちがいい。全部聴いてみたくなった。この「全部弾いてしまう」というのが特にいい。この奔放さは若い頃のアルゲリッチを思い出すが、彼女は選曲については決して奔放ではない。ところがこのリムは自分の信念と流儀で全曲をねじふせてしまっている。それが我流に聴こえないというところが最大のポイントである。テンポは総じて速いが、それに確信を持って弾いているのがわかるからタッチの浅い音があっても軽卒に聞こえない。

つまり、自説に絶対の自信があってオーラがある人がやるプレゼンなのだ。半年後の株式相場など誰もわからないが、話をきくやぐいぐい引き込まれて、なるほど確かに相場は上がるんだろうと全員が思わされてしまうスピーチのようなものだ。そういう人の話は、たとえちょっとぐらいのキズがあっても誰も気にしない。ところが用意した紙を読み上げるだけのスピーチだと、たちまち攻撃されて撃沈されてしまう。僕は仕事上そういうものをたくさん見てきているが、音楽の演奏でそんなことを連想するのは初めてである。

僕はピアニストでないが、聴衆として聴きたい音という観点からすると、彼女のピアノは非常にうまいと思う。これはラヴェルでわかる。こんな技術があるからベートーベンの難所を軽々となぎ倒していて痛快でもあるのだ。そういう部分が難しげに、あたかもピアノとの闘争みたいに弾かれると「ああベートーベンらしい」と思うように僕らは慣らされてきていて、それが御託の壁を高々と築いているとさえ思ってしまう。

彼女のテンペラメントは「ラヴァルスをこういう風に弾く人」ということで僕の中では一応規定されている。今の所。ベートーベンもそういう風に弾いているとみている。それが特に好きではないが、技術がないとそんなことはやりたくてもできないのだからどんどん思うことをやったらいい。彼女が「クープランの墓」を弾いても好きにならない可能性は感じつつも、25歳の彼女こそクラシック音楽の虚構をぶち壊そうに書いたことを「する」側からやってくれそうな人だ。だから好きである。

 

(追記)

この平均律第1集はたまげた。ハ長調前奏曲、なんだこれは?フーガは主題がやたらと浮き上がって対位法に聞こえない。しかし、だんだんと彼女のペースにハマり、耳が慣れ、これはグールド以来の名演じゃないかと思えてくる。とにかくうまいのだ。このテンポでこれだけ闊達に弾けるということ自体半端なことではなくラフマニノフ3番もブラームス2番も、要は何でもできる人だなあと思っていたが、バッハをこれだけ弾ければこそだ。何でも弾けることが価値ではなく、そのどれもがユニークであることが驚くべきことだ。大変な才能であり僕はこの破格の平均律を心から楽しんでいる。

 

 

 

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ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31-3

2014 AUG 24 22:22:14 pm by 東 賢太郎

バッハの平均律をピアノの旧約聖書、ベートーベンの32曲を新約聖書という人がいます。ベートーベンが「キリストは単に磔(はりつけ)にされたユダヤ人」と言い放ったからではありませんが、僕は彼の音楽に宗教的な辛気臭さを感じません。第九の歌詞からも彼は天上の神を信じていたと思いますが、自分の生の声を天上ではなく地上の民へ向けて書きました。聖書に関係のない我々にも、なん百年たっても色褪せることなく開かれた音楽と思います。

この変ホ長調ソナタが大好きな僕は9曲の交響曲の第8番に当たるものという感じで聴いています。ビールのCMではないですが「深刻度ゼロ%」。ベートーベンの書いた音楽でこんなに明るい、全曲にわたってノリまくってはしゃいでいるものはひとつもありません。いったい彼に何起きたんだと心配になるほど。どうしてといって、陽性の交響曲第7番の後に書かれた8番と違い、この18番はハイリゲンシュタットの遺書を書いたころに出来ているのです。謎めいています。

18番は04年に完成しました。エロイカの初演が1804年12月、ワルトシュタインも1803-4年に書かれており、18番もそのグループである可能性があると思います。第1楽章でF3、F2、F1と2オクターヴをフォルテでの下降。これはまるで低くてよく響くF1を書きたかったかのようです。速い音型を軽々と弾きまくる第2楽章、第4楽章の左手。冒頭の精妙な和音。まったくの私見ですが、これはワルトシュタインと同じくフランスのエラール社のピアノを得た嬉しさで作った曲ではないでしょうか?

だとすると18番はワルトシュタインに献呈されなかったワルトシュタイン・ソナタだったかもしれません。16番と17番(通称テンペスト)と一緒に作品31、1-3とくくられたのは何か出版等に関わる事情があったのではないでしょうか。また、あの遺書が本当に遺書なのかどうかは議論がありますが、躁状態で書いたということは少なくともなかったでしょう。うつ状態から苦難の道を経てエロイカが生まれた。これなら納得がいくのです。ところが同じあたりでポツンと躁状態の極みみたいな18番ソナタが出てきた。

これは交響曲でいうと第4番がワルトシュタイン・ソナタと近親性があってということをここに書きました( ベートーベン交響曲第4番の名演)。遺書を書くまでの重たいことは全部エロイカにぶちこんで、その「重たいこと」は純化して第5番運命に結晶化していく。そうじゃない脇道の部分、もっと人間的なものは別な入れ物に盛っていく。空想ですが、彼を聴覚を失うという恐怖のどん底から救ったのは女性かもしれませんね。それは上記のブログに書いた。そうでもなく彼がひとり部屋に閉じこもってこんなソナタを書くに至ったとは僕にはどうしても思えないのです。

17番(テンペスト)第3楽章が一貫して「運命リズム」(タタタターン)で出来ているのは有名ですが、18番第1楽章にもそれが出てきます。第3-6小節です。最初の2小節、同じ音型を2度繰り返して幕を開けるのは運命と同じ、しかしリズムは第9交響曲の第2楽章のはじめを思い出しませんか?このソナタ、猫と思ったらライオンの子だったという存在と思います。

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いきなり遭遇するサブドミナントの五六の和音。これが序奏ならともかく、第1主題なのに肝心のトニックは第6小節まで現れません。それも開始のバスはド(a♭)なのにこっちのバスはド(e♭)でなくソ(b♭)。どうも煮え切らない主役の登場です。交響曲でいきなりトニック(あるいはその根音)が鳴らないのは1番だけです。剛球を封じてまず初球は変化球。18番は1800年ごろ書いた1番の実験精神も継いでいる、いろいろな側面で初期と中期のブリッジとなった興味深い曲です。

ターンタターン、ターンタターン、この5度下がる頭出し、僕にはルートヴィッヒ、ルートヴィッヒと聞こえてなりません。彼はまだベッドでまどろんでいて、誰かが起こしてくれる(交響曲第4番の稿に書いたあの人か)?第3小節、うーん、まだ眠い、彼は不機嫌。第6小節のトニックでやっと目が開くとまぶしい朝日が。いい天気だ!起きろ!変ホ音の連打に乗った軽快なアレグロは朝の浮き浮きです。

変ホ・変ロ・二の長7度のワサビの効いた和音を作る左手の動き。これは17番までのソナタからこの曲が突然変異的にエロイカよりの存在になった印。よし今日もやるぞという活力がこんこんと湧き出ている音楽ですが、そういうひそやかな和音の色合いが誰かの深い愛情にも包まれているという感じも添えています。これが大好きなんです。こんなに幸福なベートーベンが他のどこにいるでしょう?

この曲、全編にわたって会話が聞こえてきます。居間のおしゃべりの声があちこちから飛び交い、笑い、皮肉、冗談のオンパレード。第2楽章のおどけたスケルツォ。タターンタターンタターン、単音が中断してシーンとする、それが意味深に半音上がるとまた同じどたばたが始まる。爆笑。どこに聖書が出てきます?3拍子でなく2拍子のスケルツォ、それもソナタ形式でトリオを持つ三部形式でないというのも珍しいです。

一転してたおやかに始まる第3楽章は Menuetto, Moderato e grazioso と記されています。スケルツォというのは彼がメヌエットをやめて置き換えたものですから、第2楽章がスケルツォ、第3楽章にメヌエットというのは実は変なんです。その変なことを後でもう1回やっている。それこそが交響曲第8番です。8番もメトロノームをからかってみたり、歌って踊って笑ってに満ちあふれた突然変異的なシンフォニーでした。

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そして、どちらのメヌエットも名品です。18番の方、これはやがて第九のアダージョに繋がっていく高貴さです。ここを弾いてみてあれっと思ったのは8小節目です。ここの真ん中の音のc、d♭、dの半音階上昇は交響曲第8番のメヌエット(下)の青枠のf、f#、gを想起させます。ちょっとしたことですが何か血のつながりを感じます。ピアノ・ソナタでさえメヌエットはこれを最後にもう書いていません。それがどうして最後から2番目の交響曲に出てくるのか不思議じゃありませんか?

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この楽章はモデラートですが、アダージョ楽章がないせいか遅めに弾くピアニストが多いようです。「中ぐらいの速さで」とはアンダンテ(歩くような速さで)より速く、アレグレット(やや快速に)より遅いということですが後者により近い。フリードリヒ・グルダのテンポが適当だと思います。

第4楽章のPresto con fuoco 非常に珍しい。火のように情熱的に急速に弾けということです。ベートーベンではこんな表示は他にないんじゃないでしょうか。バックハウスは自身最後となった1969年6月28日の演奏会で18番を弾きましたが、心臓発作を起こしました。そのため第3楽章まで弾いたのですがこの第4楽章はシューマンの幻想小曲集より2曲に変更してコンサートを終えました。その7日後に彼は亡くなったのです。彼は26日の第1回目演奏会ではワルトシュタインを弾いていますが、第2回目には18番を選んだということは興味深いものです。

演奏ですが、youtubeで初めて聴いたべラ・ダヴィドヴィッチをお借りしましょう。これをUPしていただいた方には感謝です。

第1楽章の出だしの呼吸がいいですね。全体に構えの大きなベートーベンではないですが、とにかくピアノが素晴らしくうまいです。ショパンコンクール優勝者ですからうまいのは当たり前なのですが、それが売り物に感じないところがよろしいです。京料理の名店の懐石という風情で、何もとがったものはないですが良いものをいただいたという手ごたえがじんわり残る。こういう演奏が好きです。彼女の録音が全部欲しくなって探してみましたがほとんど廃盤のようです。もったいない話です。

もうひとつ、リチャード・グードの見事な演奏を。これもうまいです。

200x200_P2_G3022270W僕はフランクフルトで彼のベートーベンを聴きましたがこれは興奮ものでした。一緒に行かれた娘のピアノの先生に「いかがでした?」ときかれて「これはマーラーが弾いたベートーベンです」とわけのわからないことを口走ったのをなぜか覚えています。全曲バックハウスばかり聴いていましたが、今いちばんよく聴く全集はグードです。特にベートーベンが嫌いな人こそぜひ。好きにしてくれる可能性のある全集と思います。

そのバックハウスの晩年のスタジオ録音はこの18番も立派な造形のものですが、ちょっと重たく指もまわっていない感じの部分があります。クラウディオアラウは僕の好きなピアニストですが18番は曲の持ち味とやや合っていない感じがします。素晴らしいのはアルトゥル・シュナーベルでしょう。テンポもニュアンスも最高ですが、録音がやや古いのが気になる方は同じ路線の名演を聴かせてくれる上記のグードが良いと思います。ブルーノ・レオナルド・ゲルバーもお薦めです。彼のショパンをスイスで聴きましたが美しいレガートと強い打鍵が印象的でした。この曲ではそれが活きています。マレイ・ぺライアもいいです。この曲を覚えたのはロンドンで買ったこのCDで、これのおかげですぐ曲が好きになりました。彼のモーツァルトは大変な美演で一世を風靡しましたが、その路線にあるベートーベンであり18番ではプラスに出ています。リヒテルはこれが簡単な曲に聞こえるほど。腕前でいうならこれが一番でしょうが、曲のニュアンス(特に第1楽章)は今一つ。終楽章は凄い、降参です。マリア・グリンベルグは大変に素晴らしい。これはお薦め。女性ながら実に豪腕でもありますがちょっとしたトリルなどソプラノ声部のニュアンスなど血が通っています。アニー・フィッシャーは男勝りでややごつごつしますがその分造形がしっかりしていて僕は嫌いではありません。ウィルヘルム・ケンプは技術が弱いですね。この曲は満足できません。ペーター・レーゼルは何一つ不足のない正統派の演奏ですが、もう一味のニュアンスが欲しいという贅沢をいいたくなります。アルフレート・ブレンデルの冒頭はニュアンスがいっぱいでおっこれはいいぞと名演を期待しましたが、どうも品を作りすぎで後半は飽きました。ラザール・ベルマンは80年ごろ剛腕で鳴らしたロシア人でここでも技術は冴えていますが、味わいには欠けます。フリードリッヒ・グルダは時々聴く演奏で興がのった快演ですがAmadeoの録音のせいかタッチが冴えません。惜しいです。ウラーディーミル・アシュケナージの磨かれた美音は千疋屋の1万円メロンのよう。技術も文句なし。モーツァルトの協奏曲録音の路線にあり、それはそれで魅力的ですが買ってでも聴きたいかというとどうもという困ったもの。曲の破天荒なところが常識化した観があるのが理由かもしれません。エミール・ギレリスはメヌエットの中間部の強奏や終楽章の低音の強打などこの曲の精神とやや離れている感じがします。エリー・ナイは第1楽章が遅い、これじゃあ朝の浮き浮きにならない。主張の強い面白い演奏ですが技術の衰えが気になり僕はダメです。アンドラーシュ・シフは巷の評価の高かったモーツァルト・ソナタ全集を買ったらちっとも面白くなくちょっとイメージが・・・。18番も綺麗ですが、美演なんですが・・・So what?。ダニエル・バレンボイム(EMI)は若い割にまとまった演奏。第2楽章の左手のスタッカートが甘いなどエッジがないのが不満。ハンス・リヒター・ハーザーはカラヤンとのブラームスPC2番の打鍵の強さに驚きましたがその路線の18番というレア物です。そういう曲じゃないですがもしもベートーベンがスタインウエイを与えられたらこう弾くかもしれないと思わないでもないです。クン=ウー・パイクのベートーベン・ソナタ集は非常に素晴らしいです。自信を持ってお薦めします。18番は特筆するほどではなくワルトシュタインがベスト3級の名演です。ゲルハルト・オピッツはドイツ時代にラインガウでベートーベンを聴きました。残響が多くて遠目の録音ですが現代のドイツ人による演奏としてトップレベルでしょう。ポール・ルイスは全般にテンポが遅く趣味でありませんがその速度でやるだけの個性は感じます。ジャン・ベルナール・ポミエは曲想によく感じていていいですね。メヌエットのテンポ、右手のトリルのセンスなど最高です。H.J.リムは第1楽章が気まぐれでまとまりがないと思ったら第2楽章はもの凄く速くてうまい。よくわからない演奏ですがひょっとして天才的かも。ラヴェルも聴きました。青臭くて荒削りですが、小さくまとまる感じでないのはいいですね。ソナチネの第2楽章などそれが即興的で良い方に出ています。

(こちらをどうぞ)

http://シューベルト ピアノ・ソナタ第18番ト長調 「幻想ソナタ」D.894

ポミエのベートーベン ピアノ・ソナタ全集

 

 

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ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14

2014 JUL 28 14:14:41 pm by 東 賢太郎

220px-Henrietta_Smithsonほれた女にふられるならまだいいが、無視されるのは堪え難いというのは男性諸氏は共感できるのではないか。まだ無名だった24歳のベルリオーズは、パリのオデオン座でイギリスから来たシェイクスピア劇団の舞台に接し、ハムレットのオフィーリアを演じたアイルランド人の女優、ハリエット・スミッソン(左)に夢中になってしまった。熱烈なラブレターを出すがしかし彼女は意に介さず、面会すらもできない。激しい嫉妬にさいなまれた彼はやがて彼女に憎しみを抱いてゆくことになる。

間もなく劇団はパリを去ってしまい、ハリエットをあきらめた彼はマリー・モークというピアニストと婚約した。ところが、踏んだりけったりとはこのことで、ローマ賞の栄冠に輝いてイタリア留学に行くとすぐに、モークの母から娘を別な男に嫁がせることにしたという手紙が届く。怒ったベルリオーズはパリに引き返し女中に変装してモーク母子を殺害して自殺しようと企んだ。婦人服一式、ピストル、自殺用の毒薬を買い馬車にまで乗ったのだから本気だった。幸いにして途中(ニース)で思いとどまったが彼は危ないところだった。

しかし、この事件の前に、彼はすでに殺人を犯し、自殺していた。

それは1830年にできたこの曲の中でのことである(幻想交響曲)。恋に深く絶望し阿片を吸った芸術家の物語だが、その芸術家は彼自身である。彼はおそらくハリエットを殺しており死刑になる。ギロチンで切られた彼の首がころがる。化け物になったハリエットが彼の葬儀に現れ奇っ怪な踊りをくりひろげる。これと同じことがモークの件で現実になる所だったわけだ。ベルリオーズが本当に阿片を吸ったかどうかはわからない。阿片は17世紀は医薬品とされ、19世紀にはイギリス、フランスなどで医薬用外で大流行し、詩人キーツのように常用した文化人がいた。ピストルと毒薬を買って殺人を企図したベルリオーズが服用したとしてもおかしくない。

そう思ってしまうほど幻想交響曲はぶっ飛んだ曲であり、「幻想」(fantastique、空想、夢幻)とはよく名づけたものだ。これが交響曲という古典的な入れ物に収まっていることが、かろうじてベートーベンの死後2年目にできた曲なのだと信じさせてくれる唯一の手掛かりだ。逆にその2年間にベルリオーズは入れ物以外をすべて粉々にぶち壊し、それでいてただ新奇なだけでなくスタンダードとして長く聴かれる曲に仕立て上げた。そういう音楽を探せと言われて、僕は幻想と春の祭典以外に思い浮かぶものはない。高校時代、この2つの音楽は寝ても覚めても頭の中で鳴りまくっていて受験会場で困った。

この曲のスコアを眺めることは喜びの宝庫である。これと春の祭典の相似は多い。第5楽章の冒頭の怪しげなムードは第2部の冒頭であり、お化けになったハリエットのEsクラリネットは第1部序奏で叫び声をあげる。練習番号68の後打ちの大太鼓のドスンドスンなどそのものだ。第4楽章のティンパニ・アンサンブル(最高音のファは祭典ではシに上がる)なくして祭典が書かれようか。第4楽章のファゴットソロ(同50)の最高音はラであり、これが祭典の冒頭ソロではレに上がる。第3楽章のコールアングレがそれに続くソロを思わせる。「賢者の行進」は「怒りの日と魔女のロンド」(同81)だ。第5楽章のスコアは一見して春の祭典と見まがうほどで僕にはわくわくの連続だ。

この交響曲の第1楽章と第3楽章は、まことにサイケデリックな音楽である。第1楽章「夢、情熱」の序奏部ハ短調の第1ヴァイオリンのパートをご覧いただきたい。弱音器をつけpからffへの大きな振幅のある、しかし4回もフェルマータで分断される主題は悩める若者の不安な声である。交響曲の開始としては異例であり、さらにベートーベンの第九のような自問自答が行われる。gensou1

感情が赤の部分へ向けてふくらんでfに登りつめると、チェロが5度で心臓の高鳴りのような音を入れる。そこで若者は同じ問いかけを2回する。青の部分、コントラバスがピッチカートでそれに答える。1度目はppでやさしく、2度目はfで決然と。まるでオペラであり、ワーグナーにこだまするものの萌芽を見る思いだ。

若者は納得し(弱音器を外す)、音楽は変イの音ただひとつになる。それがト音に自信こめたようにfで半音下がると、ハ長調でPiu mosso.となり若者は束の間の元気を取り戻す。この、まるで夢から覚めていきなり雑踏ではしゃいでいるような唐突で非現実的な場面転換、そこに至る2小節の混沌とした感じは、まったく筆者の主観であるが、レノン・マッカートニーがドラッグをやって書いた後期アルバムみたいだ。両者にそういう共通の遠因があったかどうかはともかく、常人の思いつく範疇をはるかに超え去ったぶっ飛んだ楽想である。

この後、弦による冒頭の不安な楽想と木管によるPiu mossoの楽想が混ざり、心臓高鳴りの動機で中断すると、再び第1ヴァイオリンと低弦の問答になる。ここでの木管の後打ちリズムはこの曲全体にわたって出現し、ざわざわした不安定な感情をあおる。やがて弦5部がそのリズムに引っぱられてシンコペートする。これが第2のサイケデリックな混沌だ。ここから長い長い低弦の変イ音にのっかって変ニ長調(4度上、明るい未来)になり、しばし夢の中に遊ぶ。フルート、クラリネットの和音にpppの第1ヴァイオリンとpのホルン・ソロがからむデリケートなこの部分の管弦楽法の斬新さはものすごい!これはリムスキー・コルサコフを経てストラヴィンスキーに遺伝し、火の鳥の、そして春の祭典のいくつかのページを強く連想させるものである。

この変イ音のバスが半音上がり、a、f、g、cというモーツァルトが偏愛した古典的進行を経てハ長調が用意される。ここからハリエットのイデー・フィックス(固定楽想)である第1主題がやっと出てきて提示部となる。つまりそこまでの色々は序奏部なのだ。この第1主題、フルートと第1ヴァイオリンが奏でるソードソーミミファーミミレードドーシである。山型をしている。ファが頂上だが、ミミファーと半音ずり上がる情熱と狂気の盛り上げは随所に出てくる。第2主題はフルートとクラリネットで出るがどこか影が薄い。しかしこの気分が第3楽章で支配的になる大事な主題だ。これはすぐに激した弦の上昇で断ち切られffのトゥッティを経て今度は深い谷型のパッセージが現れる。すべてが目まぐるしく、落ち着くという瞬間もない。ここからの数ページは、やはり感情が激して落ち着く間もないチャイコフスキーの悲愴の第1楽章展開部を想起させる。

展開部ではさらに凄いことが起こる。練習番号16からオーボエが主導する数ページの面妖な和声はまったく驚嘆すべきものだ。第381小節から記してみると、A、B♭m、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Csus4、C、Bsus4、B、B♭sus4、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Dm、D、D#m・・・・なんだこれは?何かが狂っている。和声の三半規管がふらふらになり、熱病みたいにうなされる。古典派ではまったくもってありえないコードプログレッションである。ベルリオーズは正式にピアノを習っておらず、彼の楽器はギターとフルートだった。この和声連結はピアノよりギター的だ。それが不自然でなく熱病になってしまう。チャイコフスキーは同じようなものを4番の第1楽章で「ピアノ的」に書いた。それをバーンスタインがyoung peoples’でピアノを弾いてやっている。

ところで、ハリエットは第4楽章でギロチンに首を乗せると幻影が脳裏に現れてあの世である終楽章でお化けになることになっているが、僕は異説を唱えたい。最初から殺されていて、全部がお化けだ。第1楽章の熱病部分に続くffのハリエット主題はG7が呼び覚ますが、そこでイヒヒヒヒと魔女の笑いが聞こえ終楽章の空飛ぶ妖怪の姿になっている。そこからもう一度ややしおらしくなって出てくるが、それに興奮して騒いだ彼の首がギロチンで落ちるピッチカートの予告だってもうここに聞こえているではないか。しかしそれはコーダの、この曲で初めてかつ唯一の讃美歌のような宗教的安らぎでいったん浄化される。だからとても印象に残るのだ。本当に天才的な曲だ!このC→Fm(Fではなく)→Cはワーグナーが長大な楽劇を閉じて聴衆の心に平安をもたらす常套手段となるが、ここにお手本があった。この第1楽章に勝るとも劣らないぶっ飛んだ第3楽章について書き出すとさすがに長くなる。別稿にしよう。

第2楽章「舞踏会」。ここの和声Am、F、D7、F#7、F#、Bm、G・・・も聞き手に胸騒ぎを引き起こす。スコアはハープ4台を要求しているが、この楽器が交響曲に登場してくるのがベートーベンをぶっ壊している。第3楽章のコールアングレ、終楽章の鐘、コルネット、オフィクレイドもそうだ。ティンパニ奏者は2人で4つを叩きコーダで2人のソロで合奏!になる。ラ♭、シ♭、ド、ファという不思議な和音を叩くがこのピッチがちゃんと聴こえた経験はない。同様に第4楽章の冒頭でコントラバスのピッチカートが4パートの分奏(!)でト短調の主和音を弾くが、これもピッチはわからない。これは春の祭典の最後のコントラバス(選ばれた乙女の死を示す暗号?)のレ・ミ・ラ・レ(dead!)の和音を思い出す。

この交響曲の初演指揮を委ねられたのはベルリオーズの友人であったフランソワ・アブネックであった。彼についてはこのブログに書いた。

ベートーベン第9初演の謎を解く

幻想交響曲はハリエットという女性への狂おしい思いが誘因となり、シュークスピアに触発されたものだが、音楽的には彼がパリで聴いたアブネック指揮のベートーベンの交響曲演奏に触発されたものである。ベートーベンの音楽が絶対音楽としてドイツロマン派の始祖となったことは言うまでもないが、もう一方で、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーを経て標題音楽にも子孫を脈々と残し、20世紀に至って春の祭典やトゥーランガリラ交響曲を産んだことは特筆したい。そのビッグバンの起点が交響曲第3番エロイカであり、そこから生まれたアダムとイヴ、5番と6番である。このことは僕の西洋音楽史観の基本であり、ご関心があれば3,5,6番それぞれのブログをお読み下さい(カテゴリー⇒クラシック音楽⇒ベートーベンと入れば出てきます)。

最後に一言。男にこういう奇跡をおこさせてしまう女性の力というものはすごい。我がことを考えても男は女に支配されているとつくづく思う。そういえばモーツァルトもアロイジア・ウェーバーにふられた。彼が本当にブレークするのはそれを乗り越えてからだ。彼はアロイジアの妹コンスタンツェを選んだ。姉の名はマニアしか知らないだろうが天才の妻になった妹は歴史の表舞台に名を残した。しかしベルリオーズの方は後日談がある。幻想の作曲から2年して再度パリを訪れたハリエットはローマ留学から帰ったベルリオーズ主催の演奏会に行く。そこで幻想交響曲を聞き、そのヒロインが自分であることに気づく。感動した彼女は結局ベルリオーズと結ばれた。彼女の方は大作曲家の妻という名声ばかりか、天下の名曲の主題として永遠に残った。

 

シャルル・ミュンシュ / パリ管弦楽団

406僕はEMIのスタジオ録音でこの曲を知ったしそれは嫌いではない。ただし彼の演奏はかなりデフォルメがあり細部はアバウト、良くいえば一筆書きの勢いを魅力とする。それが好きない人にはたまらないだろうということで、どうせならその最たるものでこれを挙げる。鐘の音がスタジオ盤と同じでどこか安心する。幻想のスコアを眺めていると、書かれた記号にどこまで真実があるのかどうもわからない。そのまま音化して非常につまらなくなったブーレーズ盤がそれを物語る。これがベストとは思わないが、面白く鳴らすしかないならこれもありということ。フルトヴェングラーの運命の幻想版という感じだ。EMI盤と両方そろえて悔いはないだろう。

 

ジェームズ・コンロン/  フランス国立管弦楽団

gensouこの曲はフランスのオケで聴きたいという気持ちがいつもある。マルティノンもいいが、これがなかなか美しい。LP(右、フランスErato盤)の音のみずみずしさは絶品で愛聴している。演奏もややソフトフォーカスでどぎつさがないのは好みである(音楽が充分にどぎついのだから)。パリのコンサートで普通にやっている演奏という日常感がたまらなくいい。料亭メシに飽きたらこのお茶漬けさらさらが恋しい。終楽章のハリエットですら妖怪ではなく人間の女性という感じだからこんなの幻想ではないという声もありそうだが。

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

4118SYQZ5PL__SL500_AA300_ロンドン時代にLPで聴き、まず第一に音が良いと思った。音質ではない。音の鳴らし具合である。この曲のハーモニーが尖ることなく「ちゃんと」鳴っている。だからモーツァルトやベートーベンみたいに音楽的に聞こえる。簡単なようだがこんな演奏はざらにはない。第2楽章にコルネットが入る改訂版をなぜ選んだかは不明だが、彼なりに彼の眼力でスコアを見据えていておざなりにスコアをなぞった演奏ではない。ご自身かなりぶっ飛んだ方であられたクレンペラーの波長が音楽と共振している。第4楽章の細部から入念に組み立ててリズムが浮わつかない凄味。終楽章もスコアのからくりを全部見通したうえで音自体に最大の効果をあげさせるアプローチである。こういうプロフェッショナルな指揮は心から敬意を覚える。

 

(補遺、2月29日)

ダニエル・バレンボイム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

51iMEuehZVLベルリン・イエス・キリスト教会の広大な空間を感じる音場で、オーケストラが残響と音のブレンドを自ら楽しむように気持ちよく弾き、良く鳴っていることに関して屈指の録音である。音を聞くだけでも最高の快感が得られる。第1楽章は提示部をくり返し、コーダは加速する。第2楽章はワルツらしくない。第3楽章の雷鳴は超弩級で、どうせ聴こえない音程より音量を採ったのか。第4楽章のティンパニの高いf がきれいに聞こえるのが心地よい。終楽章コーダは最も凄まじい演奏のひとつである。たしかBPOのCBSデビュー録音で、僕は89年にロンドンで中古で安いので買っただけだが、バレンボイムの振幅の大きい表現にBPOが自発性をもって乗っていて感銘を受けたのを昨日のように覚えている。ライブだったら打ちのめされたろう。彼はつまらない演奏も多いが、時にこういうことをやるから面白い。

 

(補遺、2018年8月25日)

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

第2楽章の快速で乾燥したアンサンブルはパレーの面目躍如。これだけ内声部が浮き彫りに聞こえるのも珍しい。第3楽章も室内楽で、田園交響曲の末裔の音を感知させる面白さだ。ティンパニの音程が最もよくわかる録音かもしれない。指揮台にマイクを置いたかのようなMercuryのアメリカンなHiFi概念は鑑賞の一形態を作った。終楽章の細密な音響は刺激的でさえある。パレーは木管による妖怪のグリッサンドをせず常時楷書的だが、それをせずともスコアは十分に妖怪的なのであり、僕は彼のザッハリッヒ(sachlich)な解釈の支持者だ。

 

 

クラシック徒然草―ミュンシュのシューマン1番―

 

 

 

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音楽にご関心のある方

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

クラシック徒然草-田園交響曲とサブドミナント-

フランク 交響曲ニ短調 作品48

女性にご関心のある方

「女性はソクラテスより強いかもしれない」という一考察

日本が圧勝する21世紀<女性原理の時代>

 

 

 

 

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クラシック徒然草-「つぐない」はモーツァルトでもあった-

2014 JAN 17 15:15:50 pm by 東 賢太郎

ピアノ協奏曲20番のことを書こうと、第1楽章をおさらいした。

さていよいよピアノ様のご登場。

これだ。

20番

 

 

 

 

あれ! 手が止まった

まど~ににし~びが~

ではないか・・・しかもニ短調(Dm)だし・・・

こう書いちゃったが・・・

テレサ・テン「つぐない」はブラームス交響曲4番である

おそれいりました

もういちど「つぐない」をプレイバックしてみる

すると、な、なんということだ・・・・またあったぞ

カデンツァべーとーべん

 

昨日のブログに書いた箇所だ。

最後の方に2度繰り返される、バスが「悪魔の音程」増4度の降下をするE♭、A、Dmの和声連結などは・・・・

これはベートーベンさんのカデンツァだと思ってたら

あすはた~にんどうしに~

の和音じゃないの

コナン

 

(推理)・・・・

オーグメントを導くcis(C#)が犯人でした

「つぐない」 おそるべしです。

 

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ベートーベン ピアノ協奏曲第5番作品73「皇帝」

2013 NOV 23 17:17:29 pm by 東 賢太郎

万博

 

大阪万国博覧会は1970年のことだった。日本国にとって一大イベントだったが我が家にとってもそうで、東名を飛ばして大阪まで行った。日にちは正確に覚えてないが、高校に上がる前の春休みだったはずだ。

 

三菱未来館は東宝の特撮による火山や海底や宇宙の360度視界の映像で話題沸騰だった。背景に流れる伊福部昭 のBGMと音響空間の効果も大きかったように思う。アポロが持ち帰った「月の石」で長蛇の列ができたアメリカ館に対し、ドイツ館は「音楽の国」がテーマだった。パビリオンは国のプレゼンの場でもある。アメリカがアポロならドイツは音楽。ベートーベン生誕200年ということもあり、ベートーベンが聴けるものと勝手に思った。

当時はモーツァルトもベートーベンもよく知らない。だから聴きたくて仕方なく、家族はたぶん興味はなかったろうがわがままを言って列に並んだのだろう。ところがいざ入ってみるとがっかりだ。ドイツ館のメインパビリオンはシュトックハウゼンという現代作曲家の実験的な音楽ドームの様相だった。高い天井部を奇妙な音が走り抜ける。今と未来がテーマの万博という舞台なのだから後になって考えればたしかにそれは正解だったのだが、何も知らなかった僕は失望した。

写真 (45)写真 (46)しようがなく出口で記念品にレコードを買った(右と下がその裏と表だ)。するとウィルヘルム・ケンプの弾くベートーベンの皇帝が入っていて、少し渇望が満たされた感じがした。しかしあるのは第2,3楽章だけで第1楽章があるべきところにカラヤン指揮のコリオラン序曲が入っている。B面は「蚤の歌」と「接吻」、そして八重奏曲だ。これがドイツ国家勅撰の国威の象徴であり、そのプレゼン資料ということだ。皇帝をこれで初めて聴いた僕はぴんと来なかった。そりゃあそうだ。あの雄渾で気宇壮大な第1楽章がないんだから。これはうぶな少年に罪なおみやげとなった。なんとなく僕は第5協奏曲がつまらないと思いこんでしまったのだ。こんなごった煮で大ベートーベンを、いやドイツ国家を語ろうなど誰が思いついたのだろう?

そのせいで、結局しばらく僕はこの曲のレコードを買いそびれてしまった。中途半端ながら持ってしまっていて、それもどうも面白そうでもない。当時LPは2000円もしたし、聴きたい曲はわんさとあったからだ。ケンプの演奏のせいではない。彼の名誉のために書かなくてはいけない。もうひとつ大きな理由があった。これだ。

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この主題が少年の未開拓な耳にはわからなかった。この楽譜を見て歌えるならあなたは立派なミュージシャンだ。僕はこれが読めなかったし、読むどころか聞いてもリズムすらとれなかった。

3拍子、6拍子というのはそもそも日本人になじみが薄い。歌謡曲にも民謡にも校歌にもほとんどない。ちなみに我が九段高校の校歌は3拍子だが、音楽教師がそれを自慢にするほど例外的だ。童謡は西洋音楽を勉強した日本人が洋風を意識して作曲したからだろうか「象さん」や「赤とんぼ」など3拍子がある。しかしテンポは遅い。東洋人は快速の3拍子に慣れていないのだ。速いのはみんなイッチニ―イッチニ―のマーチや軍歌になってしまう。

だからベートーベンの3拍子のアレグロというものはいわば「鹿鳴館現象」であり、日本人には浮いたものだ。今だって、クラシックを初めて聴く人の耳にそれは起きている。どうもよくわからない、しっくりこない・・・当たり前なのだ。いくら洋モノを聴いたところでロック、ポップス、ジャズにもほとんどないのだから。しかし3拍子系なしにクラシック的な音楽というものは成立不能といえるほど当たり前のものだ。アメリカ合衆国の国歌を思い浮かべてほしい。

もしクラシックを、ベートーベンを極めてみようという方がおられれば、皇帝の第3楽章は最高の「耳の練習曲」だ。楽譜はいらない。このものすごく速い6拍子がちゃんと6拍子に聴こえるまで、合点がいくまで、何回でもリセットして聴いてみてほしい。左手伴奏の1,2,3,1,2,3がワンセットで6つだからちっとも難しくない。そうすると上にのせた楽譜がな~んだと簡単に読めるようになる。確実に耳が良くなる。だまされたと思ってやってみてほしい。

僕は音大卒でもミュージシャンでもない。しかしこうやって「耳を作る」のがクラシック攻略の強大な武器になることは自分で実験済みだ。四則計算ができなければ微積はできない。「耳の練習曲」は自信を持っておすすめできる。そうするとシューマンやブラームスやシェーンベルグの、もっと複雑で錯綜した音楽が面白く聴けるようになる。やがてはスコアもある程度は読めるようになる。J.S.バッハとベートーベンの音楽を聴きこむことは最高のドリルなのだ。

CDだが4番でご紹介したパネンカがここでも素晴らしい。挙げたいのだが、最後の最後でどういうことかティンパニが間違った音をたたいている。なぜ録り直していないのか不思議で仕方ない。あれで名演ぶちこわしだ。

 

ウィルヘルム・バックハウス/ ハンス・シュミット・イッセルシュテット/ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

uccd9164-m-01-dl今年のパ・リーグのベストナイン投手に田中将大を選ぶようなものだ。あまりに順当なチョイスで面白くも何ともないが、これを聴いておかないと話にならないだろう。そういう演奏である。これとブラームスの2番だけは鍵盤の獅子王バックハウスを動かし難い。皇帝の称号は曲ではなく彼にさしあげたくなる。録音は数種類あってこれが最晩年のものだから普通には気がつかない程度の微細な不出来がある。しかしこれがライブであったならどんなに圧倒されたことか。ザ・皇帝とでもいうべきツボを心得た指揮者とオケ。そのテンポと起伏に乗って盤石の安定感で堂々たるドラマを繰り広げるピアノ。本物のベートーベンの音楽がこんこんとあふれ出る泉であり、ぜひ心してお聴きいただきたい。

 

エレーヌ・グリモー / ヴラディーミル・ユロフスキー/ ドレスデン国立管弦楽団

41kBt0faJyL._SL500_AA300_グリモーは大学で動物生理学を学び、ニューヨーク・ウルフ・センターを設立してオオカミと一緒に住んでいる。著書に『野生のしらべ』(講談社)がある。ユダヤ系フランス人で両親とも大学教授。13歳でパリ国立音楽院に入学した神童で、共感覚の持ち主としても知られる。面白い女性だ。一度会ってみたい。ピアノは野性的どころか正反対で実に知的刺激に富む。発想が清水の如く新鮮でみずみずしく、デリケートでありパッショネートでもあり誰からも聞いたことのない音がする。ソナタ28番も同じで、一気に僕の愛聴盤になってしまった。チューリヒでラフマニノフ2番を聴いたが指揮者(ジンマン)とあわずにぜんぜんダメだった。この女性を御すのは無理だ、普通の男には。オオカミかライオンが必要だろう。

 

(補遺)

ユーリ・エゴロフ / ウォルフガング・サヴァリッシュ / フィルハーモニア管弦楽団

5099920653125特筆に値する立派な皇帝である。エゴロフは僕と同じ学年だが34歳でエイズで夭折してしまった。正真正銘の天才であり、彼の高音の硬質な煌めきはミケランジェリに匹敵すると思う。ものすごく上手いがそれがそう聞こえず、音楽だけが響いてくる。ことばのプレゼンで、やさしいことを難しく言うのは馬鹿であり、難しいことを難しく言うのは凡人であり、難しいことをやさしく言うのは達人とされる。エゴロフは達人の域にあった。第1楽章カデンツァで短調でpになると音色がふっと変わる。魔法のように。豪気な中に青白いデリカシーが光るというのは並みのピアニストには求めようもないことで、緩徐楽章に無機質な音がないのは大変なことだ。オケはやや荒っぽいのが玉にきずだが、ピアノに触発されたかサヴァリッシュがいつになく張り切った伴奏をしており花を添えている。i-tunesにある。

 

(補遺、24 June17)

ディーター・ツェヒリン / クルト・ザンデルリンク / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

これは今の僕にとって最高の皇帝であると断言してしまうべき名演である。ディーター・ツェヒリン(1926-2012)は有名でないのはDDR出身者の宿命だが、共産圏に隔離されたおかげで19世紀の古式床しい演奏様式のタイムカプセルとして希少な価値を有しており、知名度の低さはまったく不当なものであると言うしかない。ピアノはライプツィヒのBlüthnerで、木質感のある見事な美音で古典派に誠にふさわしい美音だ。現代人がこの曲に期待する華麗さには目もくれずテクニックをひけらかす風情もなく、では何がいいのかと問われれば、これこそオーソドックスなベートーベンなんだと答えるしかない。ピアノ演奏のテクニックというのは大道芸人の曲芸みたいなくだらないショーマンシップのためにあるのではない。そんなもので心ある聴衆の関心など得ようがないのだ。テクニックは音楽の求めるものを「あるべき風」に弾くためにあるのであって、それを獲得するには何が「あるべきもの」かを知っていなくてはならないのは自明の理だ。ツェヒリンのピアノの何が僕の心をとらえているのか説明できるなら是非してみたいものだ。一方で伴奏のLGOの渋く重たい音色がまたいい。ザンデルリンクの指揮も重厚そのものでエネルギーに満ちあふれ、これぞ皇帝だという絶対の風格を見せてくれる。このピアノは指揮者の求める「あるべきもの」と完璧に合体しているのである。燻んだ音を包むホール残響がうまくとらえられまさに東独の音がする録音であり、万事僕の趣味に合致する演奏にぞっこんである。

 

 

 

 

 

 

 

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