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カテゴリー: ______ベートーベン

クラシック徒然草-ホロヴィッツのピアノ-

2015 JUN 17 0:00:55 am by 東 賢太郎

クラシックのジャンルで僕が長く付きあっているのはピアノ曲です。習ったわけでもないし理由は自分でも明らかでないですが、好きな楽器の最右翼であるのです。

ピアノの名曲はかなりしぼりこんで少なめに見ても50-60曲、ベートーベンのソナタを全部数える程度の広さでいえば150-200曲ほどでしょう。50-60のほうあたりはぜひ聞いていただきたいものですが、その中でも主要なレパートリーを占めるショパン、リストは僕の守備範囲でありません。ほとんど聞き知ってはいるがなじまないという点でマーラーと等しいものかもしれません。

220px-HorowitzBainそのショパン、リストを主要レパートリーとする系統のピアニストは、従って僕には感性の合う人ではない場合が多いわけですが、ひとりだけウラディミール・ホロヴィッツ(1903-89)は別格的に思える人です。好きではないですが気にはなる。それはひとえに彼の超人的な技巧が現代ピアノという楽器の表現力の極限をフロンティアのように拡大したからにほかなりません。

ホロヴィッツは、自分よりひと世代(30才)上のラフマニノフが「君の方がうまい」と椅子を譲った伝説のピアニストです。しかもそれが自作の協奏曲第3番でのことというのですから、ロマン派を弾きこなす当代最高峰の技術をもったピアニストであったといってよろしいでしょう。

しかし彼の演奏ビデオを見ると、指を曲げずに平べったい手のままで弾いている。今の日本ならこういう子どもはたちどころに先生に矯正されるでしょう。それが彼の出す音にどう現れているのかはピアニストの方におききしたいものですが、それにもかかわらず彼の紡ぎだした音は誰にも真似できぬ特別の個性を誇っており、その個性によって歴史に名が残っているのです。

彼のショパンやシューマンやスクリャービンについては多くの人が語っており、屋上屋を重ねる意味もありますまい。そこでは彼の個性が正面から作品の扉をたたき、それが正統派の演奏ではないにしても有無を言わさぬ成果を示していること議論の余地はありそうもありません。そこで、俎上に上げてみたいのはモーツァルト協奏曲第23番のジュリーニとの演奏です。

なんとも共感なさげな雑然とした開始の第1楽章がジュリーニのテンポなのか?たぶんそうではないでしょう。速いです。物理的にではなく、なにか拙速な感じであり、遅めにするとこの音楽を語りきれないかのような速さです。ジュリーニはこういうことをしない人だから、これはピアニストの感性なんだろうという感じがします。

ピアノはバスが常に強すぎ、ショパン風にトニック、ドミナントでの強調グセがあるのは滑稽なほどで、ときおり現れる左手の意味不明の強調は僕には神経に触るばかりです。フレーズ切り上げの見栄はまことにモーツァルトらしくなく、オケがそうしたホロヴィッツ風アクセントをなぞってみせるのも健気なものですが、お笑い芸人のモノマネを想起しないでもない。

第2楽章、感じてないインテンポに皮相なルバートがのる。音価に対する節操はなし。デリカシーゼロのピアノに合わせてオケも各パートが野放図に鳴りっぱなし。終楽章、モーツァルトのアレグロだけにある、軽さの中に飛翔する精神の高貴さはきっぱり消し飛んでいます。こんなモーツァルトを堂々とやったのはあとにも先にも彼だけです。

技術の難点を探すのは無駄です。そういうことはほとんどない。しかし、ファンにはお許し願いたいが僕にとってはまことに聞くに堪えないモーツァルトになっているのです。センス、テーストが別物だということでしょう。終楽章で興が乗って指揮までしている彼がモーツァルトが好きなのはわかるのですが、それでもなぜこれを弾いているのかまったく釈然としません。

ところが、ベートーベンとなると話は変わってきます。フリッツ・ライナーとの協奏曲第5番「皇帝」です。

実に豪放磊落。早いパッセージがグリッサンドに聞こえるほどの名技が似つかわしいかどうかはともかく完璧に弾ききっており、間然とするところなし。モーツァルトで気に障る強靭な左手が生き、終楽章のバスは補強され、オケが気迫にあおられてこれまた強靭に受けて立つ。

先のジュリーニと反対にライナーはこういう気風の人であり、ピアノとがぶり四つの横綱相撲になっています。5番は元来こう弾かれるべき曲ではないかもしれませんが、ベートーベンが現代ピアノのバスを聴けばこういう解釈を許容してしまうのではと思わせる説得力を持っているように思います。

ホロヴィッツの師はセルゲイ・タルノフスキー(1882-1976)とフェリックス・ブルーメンフェルト(1863-1931)というロシア系ピアニストです。ウィーン直伝のモーツァルト、ベートーベンを師から仕込まれたということは考えづらく、ロシア系ないしは自分流の解釈でしょう。

現代のコンクールで頭角を現したピアニストがホロヴィッツのような23番や皇帝を披露するということはないでしょう。これは19世紀の伝統の脈絡に深く根ざした、おそらく最後期の演奏であります。20世紀半ばまでこういう演奏はコンサートホールに響いたでしょうが、ホロヴィッツの名をもってして初めてレコードに刻まれたでしょう。

クラシックというのは音楽そのものを形容する言葉ですが、こういう歴史的遺産を聴くにつけ、「録音のクラシック」というものもあるのだと思えてきます。今のクラシックの風潮はなにやらポップス化してきて、美形の演奏家がもてはやされ気味のようです。なにもイケメン、美女でいけないことはないのですが、世を去ればどんな大家も忘れられてしまうというのでは寂しい。

僕の世代のファンが聴いて育った名演奏家の訃報、それも若手と思っていた人のそれに接することが多くなってきましたが、彼らが受け継いで残していった19世紀の伝統のうえに現代の演奏家は立っているのです。聴く側の我々もその立脚点をそれなりに知った上で耳を傾ける、そういう伝統へのリスペクトが新しい文化創造への架け橋になるということではないでしょうか。

ホロヴィッツの演奏はまさにそういう、世紀をまたいだパースペクティヴで今も聴き継がれるべきですし、僕が彼のモーツァルトをまったく支持しないのは既述の通りなのですが、それでも彼が学び、吸収した19世紀の音楽界の息吹というものを極上の技術で再現してくれることの価値はpricelessとしか表現できません。

その最たるものの一つ、作曲家がお前の方が上手いから自分は弾かないと言ったラフマニノフの協奏曲第3番。最も弾くのが難しいと言われる3番のこのオーマンディーとの演奏は歴史の証言であり、人類文化遺産と言って過言でないと考えます。

 

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ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30(N響Cプロ感想を兼ねて)

 

 

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ベートーベン 「ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲ハ長調」作品56

2015 APR 21 7:07:36 am by 東 賢太郎

 

  1.  ワルトシュタイン・ソナタ
  2.   ピアノ・ソナタ第22番
  3.   交響曲第3番「英雄」
  4.  三重協奏曲
  5.  熱情ソナタ
  6.  ピアノ協奏曲第4番
  7.  ラズモフスキー・カルテット1~3番
  8.  交響曲第4番
  9.  ヴァイオリン協奏曲

 

ベートーベンの作品番号53から61までを順番に並べるとこうなります。これを野球の打線に見立てましょう。1番ワルトシュタイン、長打力もそなえた俊足です。2番のPS・22番、これいいですね。小柄で小技のきくチャンスメーカーです。3番と5番の「英雄」と「熱情」、こりゃ文句なしの重量級ホームランバッターでぴったりですね。6番は小兵ながら技のあるPC4番。7番は調子次第でクリーンアップありの強打者ラズモフスキー。8,9番は捕手とDHだけどここもホームラン30本級です。

いやあ、監督いらずの最強チームですね。さてところで肝心の4番打者は?これがなぜか、どうして君なんだっけと不思議な三重協奏曲(ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲)であります。4番はおろかベンチ入りも難しいだろうというのが一般のこの曲の評価でしょう。

野球で遊べるぐらいここは連番で名曲が目白押しなんで、三重協奏曲は昔から甚だしく見劣りして悲哀をかこっています。これまたピアノソナタ第27番と交響曲第7番にはさまれて不遇の身である「戦争交響曲」とともに「楽聖にも駄作はある」という例に引かれてしまうことでむしろ有名になった観すらありましょう。

判官びいきの僕としてここはなんとか美点凝視でほめてあげたいと思うのですが、このラインナップで並べられるとこりゃどう逆立ちしても無理であります。第1楽章の展開部の最後のあたりピアノ協奏曲第3番を思わせるフレーズがあり、作曲年代も番号より少し若いのかなと思わないでもありません。

あんまり音楽的に特筆することはなく、第1楽章再現部のオケなどいやになるほど空疎であります。書きたいと思うのは第2楽章(変イ長調)が主調(ハ長調)の長3度下で弦の合奏で始まると、同じ関係にある第5ピアノ協奏曲(変ホ長調-ロ長調)の同じ部分を耳が連想するということぐらいです。これはとってもベートーベンらしい響きであります。

主題自体の魅力はエロイカより劣るとは決して思いませんが、ベートーベンをベートーベンたらしめるマニアックなまでの主題の削り込み、変奏、展開という点においてほとんど何もしていないという感は否めません。労を惜しんだというより、作曲がそういう目的ではなかったのかもしれません。

ピアノ・トリオにオケ伴がついたイメージで、ピアノ奏者に想定したパトロンのルドルフ大公の腕前のレベルに合わせるとトリオでは弱い。だから全体をオケでラッピングして協奏曲仕立てとし、名技的部分は2人の下僕(弦楽器奏者)がお勤めを果たし、大公はひたすらやさしいパートを弾きながら気持ちが良いという作りにしたと僕は見ます。駄作なのではなくサラリーマンとして合目的的に巧みに創られた曲であろうと想像します。

素材だって第3楽章の第1主題なんか悪くないですね。まずチェロで出てヴァイオリンが入ってすぐ転調するる部分などこりゃいいぞ!と期待させる上質感のある音楽なんですが、ズンタタタッタのポロネーズ、どうしてなんだ?と怒りとともに悲しくなります。アラ・ポラッカとはポーランド風にという意味ですが、ルドルフ大公さんそっちに彼女でもいたんかいとくだらん想像までしてしまいます。

ですからピアノはどうしても添え物という風情になる事は避けられず、この曲はヴァイオリンとチェロの名技のみが救いなのであります。もしどうしても美点を挙げろとなれば、独奏チェロとオケが合わせるベートーベン唯一の曲であり、この書法がブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」の下敷きになったかもしれないということがあげられるでしょう。

ということで、これは特にチェロがうまくないと引立たない曲と思います。ムーティがフィラデルフィアで同オケの首席二人を起用してやりましたが、そのクラスの名手でも曲の深みのなさを救うには至らなかった印象です。

866オイストラフ(Vn)・ロストロポーヴィチ(Vc)・リヒテル(Pf)という名手3人揃い踏みという右の録音がこの曲の代表盤とされています。まあ掛布・バース・岡田のバックスクリーン3連発トリオに匹敵する重量級だからそれもむべなるかなですが。しかもほぼお飾りの伴奏楽隊がカラヤン/ベルリン・フィル。そこまでやっちゃいますかっていう歴史的壮挙であります。 クラシック音楽産業の利潤率が1969年当時は高かったことの決定的証左であり、なにしろこんなつまらないピアノ・パートを天下のリヒテル様に弾かせてしまうEMIのイヴェント企画力には電通も驚きでしょう。なるほど資本家は特権で高利回りでもなんでも達成できちゃうのかなとピケティ教授を評価したくなってしまうほど。もちろん皆さんとても上手いですが、「牛刀をもって鶏を割く」の好事例として推挙はできても、これでこの曲が名曲に聞こえるということは期待できないように思います。そういう見地から一度は耳にしたいCDであります。

こういう訳アリの曲なんですが、申しましたようにチェリストが救ってしまうというめったにない例がひとつあります。僕はこの曲というよりピエール・フルニエという貴公子といわれた名チェリストを聴くためにこのCDを時々取り出しております。フィラデルフィアで彼を聴くチャンスを逃したのですが(遅刻!)、クラウディオ・アラウのリサイタルを聴かなかったのと僕のクラシック歴の2大悲劇であります。

ウォルフガング・シュナイダーハン(Vn)、ピエール・フルニエ(Vc)、ゲザ・アンダ(Pf)、フェレンツ・フリッチャイ/  ベルリン放送交響楽団

954このチェロの上手さはこの楽器を触った者として初心者でもわかるウルトラ級で、a線の音程の見事さ、羽毛のように柔らかい音色の美しさはそれだけでもずっと聞いていたくなります。多くの部分でヴァイオリンの旋律の内声部に回るのですが、その刹那に音楽がふわっとふくらむ絹のような感触は絶品としか評しようもありません。ヴァイオリンのシュナイダーハンもウィーン・フィルのコンマスをつとめた名手ですがフルニエに一緒に弾かれると格の違いを感じてしまうというのは恐るべきことです。技術うんぬんをいうならロストロポーヴィチが上ですが音楽はそれだけではないという見本のようなもの。フルニエのチェロの気品というのは別格で他の誰からも聴いたことはありません。それに加えてフリッチャイのオケがとにかくいいのです。重心の低い深みとコクのある弦、くすんだ管、ドイツの暗い森を思わせるずっしりしたトゥッティ、最高に素晴らしい。あまりにオケが良いのでブラームスも非常に聴きものであり(チェロはシュタルケル)、全部聴き終るとそれに押されてやっぱりベートーベンが割り負けているという困ったCDであります。

(こちらもどうぞ)

クラシック徒然草-フィラデルフィア管弦楽団の思い出-

 

 

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クラシック徒然草-ベートーベンと男性ホルモン-

2015 JAN 14 1:01:35 am by 東 賢太郎

またベートーベンですいません。年末から仕事が攻めモードにあるのです。こういうときは、どういうわけかベートーベン漬けになるのが僕の常です。理屈じゃありません、今日はカレーが食いたい、そういうノリです。

もともと彼の音楽に波長が合うというのはあります。ただ聴かないときはまったくご無沙汰にもなります。音楽のバイオリズムといいますか「**期」(ばっかりの時)というのがあって、モーツァルト期、バッハ期、ブラームス期、ラヴェル期など、今ははっきりとベートーベン期がきています。

ロンドン時代は車通勤だったので早朝から「運命」などのカセットを大音量で鳴らしながらの出社でした。証券営業というのは毎日が戦闘モードでしたから軍艦マーチのかわりですね。相乗りされていた先輩がびっくりし、その洗礼のせいでしょうかいまや大変なクラシック通になっておられる。ベートーベン・パワーです。

2010年に会社を作るとき、ロンドンまで資金集めにすっとんで行ったりの大変な日々でしたが、毎日ピアノでエロイカの始めのところをガンガン弾いてました。あれでどれだけ勇気が出たか。スコアを眺めてるだけで元気になるから漢方薬より不思議です。ベートーベン・パワーさまさまです。

モーツァルトは精神をにぎやかに、軽やかに、しなやかにはしてくれますが背中を押してくれる音楽ではありません。ブラームスはいいんですがちょっと女々しいところがまだるっこしい。バッハはああいうときは逆効果ですね、ブルックナーもそうですが敬虔な気持ちになって精神が落ち着いてしまう。チャイコフスキーは禁止です。悲愴なんかきいた日にゃロンドン?飛行機落ちたらどうすんのみたいになっちゃう。

気分を明るくしてほしいならヘンデルでもきいた方がずっといい。ワーグナーも効果あります。でも「背中押し効果」はないんです。これは古今東西、ベートーベンしかない。あくまでこれは僕の感じ方ですが、なんといっても作曲家で一番「男」を感じるのはベートーベンだからです。

それも一度どん底に落ちた男です。そこから意志の力で這い上がる。彼の人生そのものがハイリゲンシュタットの遺書からの復活だし、音楽も暗い楽章からの歓喜の爆発へ、これは株なら「底打ち」ですね。今に見てろの忠臣蔵、健さんのヤクザ物、今なら半沢直樹。倍返し、10倍返しのカタルシス解消エネルギーこそ背中押しの原動力です。

音楽語法がまたごつごつして推進力に満ちて男っぽい。悲愴ソナタ第1楽章のテーマの左手、あのオクターヴでタカタカタカの律動の興奮、ダダダダダダと歩兵の進軍みたいなワルトシュタインの出だし、凱旋将軍の帰還みたいなハンマークラヴィールの出だし。男性ホルモン、テストステロンの勢いで書いたみたいなフレーズ満載です。

冬空のような澄んだ静けさはあってもなよなよ、うじうじはかけらもなし。竹を割ったように直線的で論理的で明快でストレート。中期だけじゃない、枯れたと思われている後期だって大フーガ変ロ長調作品133、あれは女性的とはかけ離れた極北の世界で、女性作曲家が書くかもしれない作品リストの堂々最下位に位置するものでしょう。

だからベートーベンは硬派でダサくて女にモテず薄幸というイメージが強いですがあれは後世の学者の嘘でしょう。「不滅の恋人」って誰?といってすぐ10人も候補名があがってくるわけです。同時期に10人ですよ!われわれのような並の男は羨望こそあれ想像すら及ぶところでございませんこれは。実は女にもてたし完全にプレイボーイの部類です。

ピアノがうまかったのだから当然だろうとよくいわれますが、うまいというのも並みじゃない、書いたハンマークラヴィール・ソナタはその当初は彼以外の誰も弾けなかったというレベルのうまさです。ついにそれを弾けるフランツ・リストというハンガリーの男が現れ、彼はコンサートでたくさんの女性を失神させました。

テレビも映画もない時代のヴィルチュオーゾ・ピアニストは今ならロックスターです。それも彼らはビートルズ、ストーンズ級でしょう。ダサかったというのは、学者や文人が彼を神格化したいがゆえの虚構が多分にあると思います。モーツァルトに続いてこっちの神様までプレイボーじゃまずかったのです。僕はリアリストなんで、そういう嘘は徹底的にぶち壊したくなります。

だけど実際のところ、彼はどの女性とも最後はうまくいかなかった。これもダサかった派の証拠とされます。秀吉と一緒で成り上がり者の貴族女性好きでした。だからいつも身分違いの恋だった。耳のせいで会話もうまくいかなかった。でもそういうことは初めからわかっていますから、それが理由ならカノジョが10人もできるはずないんです。

あんな規格外の音楽を書く人間です。むしろ相当な「変人」でないはずはありません。それも癇癪持ちだ引っ越し魔だ程度の変人ぶりじゃぜんぜん普通すぎます。音楽から見た超人ぶりとはとてもバランスがとれない。ジョン・レノンはヨーコと素っ裸ベッドイン記者会見までするぶっ飛び男でしたがそのぐらい、それでも足りない感じすらします。

そんな、キミ、天才に向かって不敬罪だそれはなんていわれそうですね。僕は逆にそういう人こそ彼の音楽に対する不敬罪に問いたいのです。あれは普通の人間が書く曲じゃありません。だったらその人間性の方も、とてつもなく世の中の平均値からの標準偏差が大きかったと考えることこそ平均的な結論だと思うのです。

モーツァルトはその作品偏差値の高さを「スケベだった」という俗人的エピソードでうまいこと中和して平均値の人々の間で市民権を得るという複雑な回路を経て後世の人気を得ました。ところがベートーベンは中和剤の迫力がない。難聴はむしろ偏差値を高める方向に働いたのは佐村河内事件の示した通りです。

作品偏差値が90もあって中和剤なし。だったらいっそ神様にしてしまおう。そうやって「楽聖」になっちゃった。本人も唖然でしょう。あのモーツァルトが神でも聖人でも父でも母でもありません。でもそれがある意味良かった。モーツァルトは作品の方にもちゃんとしたスポットライトが当たっているように思われるからです。

ところが楽聖のほうはちょっと変なんです。三大ピアノソナタで悲愴、月光、熱情なんてくくりがあります。32のソナタでこの3つが代表だなんて思ってる音楽通はたぶん誰もいないでしょう。ハンマークラヴィールという名称も「作品101以降をそう呼べ」と出版社に指示したから最後の5曲は全部そう呼ぶべきなのになぜか作品106の名前になってる。

第14番、「月光の波に揺らぐ小舟のよう」と、この曲の千分の一も有名でない誰かが言ったというくだらない命名はもちろん作曲者の知る所でありません。マクベスの魔女の宴会の音楽だったとか幽霊が出そうだとかで「幽霊」にされちゃった不幸なピアノ三重奏曲第5番。こんな低次元の「名曲認定JISマーク」に基づいてセンセイはおろか聖人に祭り上げっている。「楽聖」はいらんから曲をちゃんと聞いてくれという彼の声が聞こえてきそうです。

つまり、神になっちゃったベートーベンにいっとき俗人界に降りていただくのはいいとして、それを作品の次元でやるのはやめてくれということがいいたい。そんなことをせずとも、「超人」であった生身の彼は間違いなく「大変人」でもあったはずなので、学者の思い入れや美学は排して素直にそれを認めてあげればいいだけです。

かれは女にモテた、だけど結婚はできなかった。どうしてでしょう。ホモだったかとんでもない性癖があったか。わかりませんが、文科省公認皇室御用達の教条主義でなく、超人にして何でもアリと包容力のあるスタンスで見るべきでしょう。そういう可能性はチャイコフスキー、ブラームス、ブルックナーなどにもあります。

僕はベートーベンの場合はそうではないと思う。なにせジョン・レノンですからね、そんなことで女が逃げるでしょうか。むしろ、だからこそ剛腕の姉さん女房あたりが押さえつけて一気に解決でしょう。ジョンはベッド記者会見につきあってくれて剛腕で賢いヨーコ・オノという女性がいたからのびのびと「超人」でいられたと思います。

女の親が反対したとか女の方がふったとかびっくりして逃げたとか、大変人ですからそういうこともあったでしょうが、あのソナタを書くパワーと情熱で押し切ればどうにでもなったと思うのです。モーツァルトみたいに庶民の娘を選べば何の問題もなかったでしょう。でも結果としてそういうことは起きなかった。

僕の空想は、彼の超絶的な「超人」ぶりにつきあえる女性がいなかったということです。意中の人はたくさんいたんですが、あとで胸に手を当てて考えるとこりゃ成田離婚だな、やっぱりやめとこうと。彼は幸せな結婚より超人であることを選んだ、というよりも、そうでなくては自殺せずに生きてきた意味がないということだったんじゃないでしょうか。

ここで思い浮かぶのはクララ・シューマンです。彼女はすごいですね。シューマンとブラームス、超人二人が参っていたんですから美貌とかそんな程度のもんじゃない。当時ハンマークラヴィール・ソナタが弾けたのはリストと彼女しかいなかったそうです。シューマンは相手の親父と裁判までして娘を勝ち取っています。

ベートーベンにはクララやヨーコが現れなかった。そういうことではないでしょうか。特にどうということもない二番手三番手だったイメージのコンスタンツェも、滅茶苦茶なモーツァルトから離れなかったというのは天才を守ったという意味で天賦の才能ですし、それに彼も満足してた。でもベートーベンはそういう男にもなれなかった。

たしかに一市民としては気の毒ですが、そのおかげで彼はいつも男性ホルモンがドライブする戦闘モードにあってああいう男気質の音楽ができたと僕は思っています。しかも聴覚の喪失でどん底の精神状態を味わってこそ、十倍返しのインパクトの曲が書けた。まさしく「人間万事塞翁が馬」だったのではないでしょうか。

「エリーゼのために」のエリーゼさんと仲睦まじい家庭でも持っていたら?

我々の知る渋面のベートーベンはいなかったのでしょう。甥っ子の面倒は熱心に見ましたからね、子育てにめざめて保育士資格とったかも。よき夫、父親という言葉は彼のバイオグラフィーに加わったでしょうがハンマークラヴィール・ソナタは書かれなかったかもしれません。リストもクララも違う運命になっていたかもしれませんね。

 

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ポミエのベートーベン ピアノ・ソナタ全集(追記あり)

2015 JAN 13 0:00:36 am by 東 賢太郎

昨日のブログを書きながら聴いていたベートーベンのピアノソナタ全集はこれだ。僕の愛好曲である第18番変ホ長調のブログを書いたときにいろいろ聞き比べ、このジャン・ベルナール・ポミエ盤が印象に残った。ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31-3

61qrsb2XK6L__SX425_この全集はときどき気の向いた曲を聴いていたが通しては初めてだ。これがなかなかいいのだ。初期の方はもぎたてのレモンみたいにさわやかであり、中期はそれにシンフォニックな華やかさと重さが加わるが独特の生命力と流動感がみなぎり、後期はそれにさらに意味深さと奥行きが加わって立体感のある音楽となる。

これは僕の知っている過去の名盤と比較してもレゾンデトールがあると思う。何より音楽に溌剌とした自発性がある。テクニックの切れ味できかせるというよりも、速い楽章は良い指揮者が小型のオケをうまくのせて成し遂げた即興性に満ちた名演という感じだ。そういう演奏は得てして緩徐楽章で失敗していることが多いが、ポミエはだれていないどころか後期などは強みになっている。音楽とは時間を支配するものだ。緩徐楽章にこそそれが出るが、彼の深い呼吸がとても心地よい。

悲愴ソナタとショパン に書いたルバートがその例である。この曲がロマン派の音楽でないのは明白だ。これを名手たちがどう感じどう処理しているかは大変に興味深い。ポミエは(先生のイヴ・ナットも)ひとつ前のasでほんの微かに(気をつけないとわからない)ルバートをかけるという解決をとっている。これを僕が論じるのは解釈論としての是非をいいたいためではない。演奏家の「時間支配」への意識が重要と考えているからだ。彼の解決は節度と知性を感じる好ましいものと思う。

ひとつコメントすると29番のハンマークラヴィールだ。作曲当時ベートーベン以外誰も弾けなかったこの巨大なソナタをどうするか?僕はクラウディオ・アラウの演奏に畏敬をもっている。技術的なことではもの言いをつける人もいるだろう。しかし本当にすぐれた演奏は完全主義者の手から生まれるとは限らない。彼によって第1楽章の意味が分かったし、嬰ヘ短調の第3楽章Adagio sostenuto、僕はブラームスは交響曲第4番の冒頭主題をここからひっぱったと信じているが、本当にそうかどうかはともかく、そういう思索を許してくれるような音を縫いこんであれを弾く人というのはアラウしかいない。

ブラームスの第2協奏曲の稿で僕はアラウのことを書いた。あれ以上にあの曲のエッセンスを汲みつくした滋味あふれるピアノは聴いたこともなければ今後聴けるとも思っていない。すべての声部の音色の使い分けとバランス、和音のブレンド、フレージングと間とルバートがあまりに絶妙で、ブラームス自身以来あれを弾くためのコモンセンスというものがあるなら、そういうものがぎっしり体中に詰まっている人でなければ生まれない性質の感動を覚える。

アラウのハンマークラヴィール・ソナタが同じだ。こういう巨大な先人たちがひしめく中で、フランス人ポミエのこの曲へのアプローチは初期の曲から連綿とつながるずっとさっぱりしたものだ。明るめの高音部ですっきりと隈取りされた、風通しの良い音楽になっている。しかし音楽の輝きが彼の中で化学反応して放射したものをすくい取ったという感じがするという点、アラウと全然異質の弾き方なのに同質の満足を与えてくれる。音楽とは面白いものだ。

微細なミスタッチがそのままだが仕方ない。ライブのような感興を優先したのは正解と思う。新鮮な聴体験であり、一気に10枚を聴きとおしてしまった。全集の穴埋めにお仕事で弾いた感じの曲がないのもいい。全部の曲に対して彼がやろうというモードに入って機が熟したものなのだろう。演奏家のメッセージを感じるのは、これが非常に優れたプレゼンでもあるということだ。

(追記)

「嬰ヘ短調の第3楽章Adagio sostenuto、僕はブラームスは交響曲第4番の冒頭主題をここからひっぱったと信じている」と書いたのはこの部分です 。beethPS29

ブラームスは第1番のピアノソナタハ長調の冒頭にハンマークラヴィール・ソナタを引用しています。この通り。

僕の仮説ですが、ブラームスは交響曲第4番ホ短調で、まず第1楽章第1主題にベートーベンを、そして終楽章のシャコンヌ主題にJ.S.バッハを引用し、自作を自らが敬愛する先人の延長として位置付けたのではないでしょうか。

(カンタータ第150番、BWV 150, “Nach Dir, Herr, Verlanget Mich” – Meine Tage In Dem Leid )

 

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プレゼンの極意はベートーベンにある

 

 

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プレゼンの極意はベートーベンにある

2015 JAN 12 2:02:41 am by 東 賢太郎

先週は海外へのプレゼンテーションで会社の説明資料を作っていて、僕は英語を読むのは好きでもないが書くのはいいなと思った。別にうまいわけではなくネイティヴには変なものを書いているに違いないが、それでもこうして日本語を書くよりも心地がいい。

何かを「正確に」伝えようとすると日本語は長くなる。くどい。法律を読んでみればわかるが、挿入文があると実にわかりにくい。そういうのを複文というが英語だと文中の単語を別途説明する文を入れるルールがあって、例えば関係代名詞がそれだが、慣れればすいすいと頭に入ってくる(青字部分がまさにそれだ)。

現代国語という科目があって下線の「それ」は何をさすかなんていう設問ができるのは、元来日本語が複文のような入れ子構造に向いていなくてわかりにくいせいだと思う。誰でもわかるなら入試問題の用をなさない。法律のような説明的文章を正確に読み書きするには必要な能力だから役人、法律家を作る官立大学用のものだったろう。

僕は外国語は英語しかわからないが、西洋語は文の構造が説明に向いていて複雑な物事を文中で明確に定義しながら隅々まで誤解なく浮き彫りにできると思う。だからややこしいコンテンツを先週書きながら、ちょっと切れる包丁を手にいれた板前の気分を想像した。

こういう所で爽快感を味わうというのはなかなか説明がしづらい。言語、特に文法は思考回路そのものだから使う人間の思考に影響する。そういう言葉を長く使っていれば、そういう人になってしまうという感じがする。長い間英語でビジネスしてきた僕の脳みそがそういう切れ味を「おいしい」と感じるようになってしまっている可能性は大いにある。

英語といっても僕には仕事に使う道具にすぎない。だから映画に出てくる軽い会話とか奥さんの井戸端会議みたいなのはよくわからない。英語はペラペラでしょうと時におだてられても、僕はそのペラペラの語感に近いやつが一番苦手だから困惑するばかりだ。英語が代表選手の西洋語とは僕にとって何かと問われれば、「ロジック言語」だ。

英語で株をオックス・ブリッジ卒の人たちに電話ですすめる。これは即興プレゼンだ。これをロンドンで6年間毎日やった影響は大きい。英語で何か説明文を作るのは楽しい域にある。「知っている語彙を、適確な語感で、正しいロジック(文法)で並べてプラモデルを作っている感じ」が最も近い。composeという語感そのものだ。できた文章が良い英語かどうかは知らない。でもほぼ正確に意図が通じることだけは自信がある。ロジック言語はそれでお役御免だ。

意図が通じる正確さ、これは段階がある。ドイツ時代の部下で「わかりました」というときに必ず「ゲナウ(Genau)」のKさん(女性)と必ず「シュティムト!(stimmt!)」のB君がいた。僕は彼を「ヘル・シュティムト」と呼んでいた。stimmen(これが原形だ)はいろんな意味に分化しているが根っこの意味は聞こえてきた何かと何かが「ぴったり合う」である。「あんたの言ったこと、俺の頭にぴたっとハマったぜ」ということだ。

ゲナウもドンピシャという意味で、「あんたの投げた球、ド真ん中!」と言ってもらっている。気持ちはいいがだいぶストライクゾーンが広めであるのが僕としては気に食わない。stimmt!にはかなわない。こっちはど真ん中じゃなくキャッチャーが構えた外角低めぎりぎりに速球がパーンと決まってハイタッチする感じだ。僕はシュティムト君が気に入った。

ある時、週末に行きたいところがあって彼に地図を描いてもらったことがある。そのとおり行ってみると実に正確である。思わずこっちもstimmt!が口から出た。それ以来僕は新人の面接試験で駅までの行き方を地図に描かせることにした。株式みたいな形の見えないものを高学歴のインテリ投資家に売るのはそういうことにアバウトな頭の構造の人は無理だ。だから適性がよくわかった。

地図作成は空間認識力がいるが、抽象的な言語を適宜配置してロジック回路で構文化して説明文を書くのも似ている。頭に浮かんでいる空間(景色や道順)を口(言語)で言えなければ地図という記号化された図面は書けない。そしてそれは、頭に浮かんでいる音を口(音階)で歌えなければ譜面という記号化された図面を書けない作曲とも似ているだろう。思えば作文も作曲もどちらも英語はcompositionだ。

ドイツ人の入社面接に限った話だが、女性の描いた地図はわかりにくいのがあった。さすがに丸文字や♡マークは出てこないがよくわからない。トヨタの5年後の利益成長性の要因分析をコンサイスに言語化するのは困難だろうという判断をせざるを得なかった。ちなみに彼女は同学年の7%しかいない大卒だったから超高学歴だ。このことはバッハやベートーベンの国でも大作曲家に女性がいないことと関係があるのだろうか。

説明文というのは散文や詩ではない。意味不明のぼわっとした言葉や必要ないことは書かない。だから必要十分なコンテンツを極限まで切り詰めるべきである。つまり短い方が絶対にいい。B to Bのプレゼンはそれだ。聞く方はプロで忙しい。早く終えたい。冗長なプレゼンはコンサイスな文章を書く能力のない事をプレゼンするようなものである。少なくとも金融では、そういう人から物は買わない傾向が強い。

銀行の人というのは真面目なのか何なのか知らないが100頁もあるプレゼンを作ったりする。資料が厚くないと負けると思ってるらしい。プレゼンは相手にstimmt!を言わせないとテーブルにも乗らない。買うかどうかの吟味はそこからだ。ある時、ワン・オン・ワン(訪問対面式)のプレゼンなのに途中で目の前のお客さんが舟をこぎ始めた。坊主のお経に居眠りする檀家の図だ。しゃべる方は100頁を国会答弁みたいに読むのに一生懸命で顔もあげないことを知った練達の技だった。

stimmt!はやっぱりいい。これの名詞形がStimmeで「声」という意味になる。魔笛でタミーノが Was höre ich, Paminens Stimme? (いま聞こえたのはパミーナの声か?)というあれ、バッハの『目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声』は Wachet auf, ruft uns die Stimme だ。つまり、stimmenの本来の意味は「音が聞こえて来て自分の内部で意味を形成して共鳴する」ということで、楽器の調律が「合う」という意味もあるし、市民の声という転意からvote(投票)になったりもする。

ところで、いまパソコンで書きながらベートーベンのピアノソナタを流しているが、この音楽はその模範答案、理想形だとつくづく思う。コンサイスで、無駄が皆無で、言いたいことが高密度でギュッと詰まっている。小さいけど固く質量があって運動エネルギーは巨大になるゴルフボールみたいだ。これに比べるとマーラーは運動会の「たまころがし」のボヨボヨの球に見える。100頁のプレゼン資料みたいに物量だけで中身はスカスカなものは僕の理性は万事拒否してしまう。

ベートーベンの曲はプレゼンの王様だ。第5交響曲をきいてホールからぞろぞろ出てくる人たちはみんな元気な顔になってる。「みなさん、辛い日は誰だってある。でも信じることです。明るい未来だって誰にも来るのです!」というベートーベンのプレゼンに全員がstimmt!している。驚くべきことだ。こんな凄いものを書いたから、だからベートーベンは人類史に格別の地位で聳え立っている。

stimmen 、Stimme、composition、こういう言葉の本来の根っこの語感がピタッとくるようになるとベートーベンはすっとわかる。彼の音楽のemotion(情緒)に訴求する側面にかたよった解釈は完全な間違いだ。それは巧みな政治演説がメッセージは希薄にもかかわらず大衆を扇動できるのに似る。感情に直結する仕掛けや盛り上げで聴き手を鼓舞するのはプレゼンではない、単なる娯楽である。ベートーベンをそういう演奏で知っている人は最晩年の作品の意味を聴きとれないだろう。

僕は時々彼のピアノソナタ32曲を通して全部きく。たかがCD10枚だ。そうすると知の巨人のメッセージが心にずっしり堆積して何かマグマのように内面を突き動かしてくれる。こんな精神的衝動を生んでくれるものは他に一切ない。他人に行動を促すのがプレゼンとするなら、それは百万分の一でいいからこういうものを秘めていなくてはならない。音楽演奏もプレゼンである。こういう状態で内面から溢れ出たものに忠実にやってこそ、ベートーベンの音楽になると思う。

分量膨大、内容スカスカ、メッセージ希薄の娯楽は聴衆のstimmt!を誘発しない。快楽追求型の「ベートーベン・ヒット・パレード」みたいな7番、9番演奏を何万回聞いてもベートーベンは何もわからない。彼の音楽の本質的部分を占める「西洋言語的特性」は快楽とは何の関係もない。僕が言っている「プレゼンの極意」も快楽とは何の関係もない。もしそれを体感したければドイツ語のstimmenという動詞を研究して深く知ることを一つの方法としておすすめする。

愛すべき部下だったシュティムト君に感謝したい。

(こちらへどうぞ)

ポミエのベートーベン ピアノ・ソナタ全集

 

 

 

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ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(原題・ブラームスはマザコンか)

2014 OCT 8 21:21:47 pm by 東 賢太郎

本稿は原題が

クラシック徒然草-ブラームスはマザコンか-

であり、自分で好きなブログの一つです。原文には手は加えず、「ピアノ協奏曲第1番ニ短調」の部分を書き加えます(2016年1月31日~)。

・・・・

ブラームスの音楽がどういうものか、それを知るには伝記や評論を読むことも大事だが、なによりその音楽にどっぷりとつかってみることだ。もちろんそれはモーツァルトでもベートーベンでも言えることだが、彼らの音楽は伝記で知った生き様や性格からくる印象とそうずれることはない。モーツァルトは恐らくあの音楽どおりの男だったろうし、ベートーベンの生きるための信条、ステートメントは9曲のシンフォニーにだけでも雄弁に語られていると思う。

ブラームスの人となりはどうもつかみにくい。彼の生涯についてはガイリンガー著『ブラームス 生涯 と芸術』など多くの著作があるが、書かれているような人だったかどうかはわからなくなることがある。それが、音楽を聴くことを通してなのだからいよいよややこしい。どこか優柔不断であり、寡黙な節度と奔放な振幅、繊細でいて無頓着、情熱的でいてシャイ、頑迷なのに優しく、神のように高貴でいてジプシーの様に粗野という本質的矛盾をたくさん秘めている。どっぷりつかると五里霧中になるという迷彩のようなものがブラームス・ワールドの入り口だ。

僕は彼はアレグロやプレストを書くのがへただと思っている。音楽が軽やかに滑らかに一直線に走らない。主題がハイドンやモーツァルトのように細身でしなやかでなく、紆余曲折をたどって快速で走りだすと機関車の疾走みたいにモメンタムがつく。ソナタ形式の外形としてのアレグロは書いても本音は遅い部分に聞こえる。宗教曲以外で神や自然をストレートに暗示、賛美、模倣することもない。ドラマティック(劇的)であからさまな感情の吐露を忌避しているのも顕著だ。だから合唱曲はたくさんあって声楽の作曲に非常に長けているのに、劇的そのものであるオペラがない。

それはマーラーがオペラを書いていない(未完に終わった)のとはわけが違う。マーラーという人はプロのオペラ指揮者だ。オペラをメディアとして知り尽くしており、人生を劇的に理解する性向があり、恐らくそれが故にストーリーのあるオペラは自己を投影し感情を吐露することに向かないことを知っていた。白いキャンバスである交響曲こそ彼の「私の履歴書」に好適のメディアであったのだと思う。最晩年のベートーベンがそれを弦楽四重奏曲に見いだしたのと同じ意味で。交響曲を4つ書いたブラームスは、しかし、どうだったのだろうか。

彼はロマン派の時代に生まれながら古典の枠組みに本質的な音楽美を見出そうとしたように見えるし、多くの伝記や著作がそういう意味のことを書いている。たしかにソナタ、変奏、シャコンヌなど鋳型に執拗にこだわっており、その作りが堅牢巧緻きわまりないことは譜面から理解できる。一方、先輩のシューマンは反対に自由でファンスティックな発想に長け、ピアノ協奏曲が元々は幻想曲であり後から第1楽章の鋳型に入れられたことが象徴するように、彼の交響曲や室内楽にあるのはソナタ形式であるための必要条件としての鋳型であって、それ自体がブラームスの場合のごとく絶対無比の意味合いを持って我々を説得するとはいいがたい。

そうしたブラームスが頑強に形式論理が情緒に流されることを拒否する姿勢は新古典主義と呼ばれ、ストイックであることを是とする人々にポジティブに評される場合もあるが、それをもって彼の主義とするほど自己の吐露を全面的にそれに依存したものだとは僕は思わない。それは彼のいわば鎧(よろい)のようなもので、同時代の他人にも後世にも開示したくない何物かを覆い隠すすべだったのではないかと思っている。この点は本稿でもっとも強調しておきたいことだ。

彼の4つの交響曲、それが彼の押しも押されぬ代表作であり、彼自身もそう考えており、現に僕自身もっとも聴きこんだクラシック音楽がどれかといえばその4曲であるわけだが、マーラーの場合の様に彼の「私の履歴書」がその4つの交響曲かというと、どうも違うという気がしてならない。「名刺」ではあってもそうではないかもしれないと思ってしまう。ここのところこそが、ブラームスという作曲家を知れば知るほど五里霧中となってしまう要諦なのである。なにか僕は彼の二重三重にはりめぐらされた用意周到な煙幕にまかれているような感覚を禁じ得ないのだ。

鎧を纏っているブラームスの生身、その本質はロマンティックどころか非常にセンティメンタルである。27歳で書いた弦楽六重奏曲第1番変ロ長調の第2楽章がその例だ。

これはなんだったか映画にも使われていた。音楽の方から映画ができてしまいそうなほど耳にまとわりつく感傷的なメロディーだ。

彼がシューマンの奥さんであるクララに好意を寄せていたことはすべての伝記作家が慎ましくあるいは積極的に肯定しているが、この曲やピアノ協奏曲第1番の第2楽章は、彼の好意というものがそんな淡くて生やさしいものではなかったことを物語っているように思う。この曲の最後の方、チェロが沈黙して高弦だけでひっそりとハーモニックスのような音を奏でる部分は、恋人たちが死んで魂が浄化されるかのようなイメージを僕は持つ。晩年のクラリネット五重奏曲にもそれを見るが、ワーグナーの作り物だけの愛の死などよりずっと危険なにおいがする。

そのブラームスが20歳で書いてシューマンに意見を求めたピアノソナタ第3番ヘ短調は、はじけんばかりの情熱と挑戦意欲に満ちた5楽章の大作である。アレグロ・マエストーソで開始するこのパッションは、しかし若者の雄叫びのようなどこか外形的なものだ。僕にはそう聞こえる。そして第2楽章Andante espressivo には「若き恋」という詩が冒頭に置かれている。彼の本質はここにひっそりと姿を見せている。彼が本音をソナタ形式の鎧で包むという、それこそ本音の人間性を構造的に見せてしまっているという意味で、この曲はまさに若書きである。

そういう本質を見抜かれたくなく、あえて隠すための古典主義の鎧だったのかもしれない。そうだとするとなぜだろう。何を隠したかったのだろう?シューマンが亡くなってからのクララとの関係にそれを解く鍵があるのかもしれないとの指摘は多いだろう。彼の両親が結婚したとき、父親は24歳、母親は41歳だった。17歳上の姉さん女房である。思うに、彼自身がその24歳前後になったころの理想の恋人像がクララ・シューマンという14歳年上の現実の女性に一気に収斂していったということはここで指摘するまでもなく多くの人の想像や下世話な憶測をも呼んでいる。

以下、法学者、ピアニスト、音楽評論家であられた藤田晴子氏の著作を参考にさせていただいたことをお断りする。

クララの長女マリーが記したところによると、ブラームスとクララは1886年にお互いに相手からもらった手紙を返しっこしたそうだ。クララはそれを廃棄し始め、マリーが子供たちのためにそれを残してほしいと懇願して全部の廃棄は免れた。そうして残っているのだけでも約800通もある。チャイコフスキーのフォン・メック夫人のように手紙だけのつき合いとは違い、一緒に過ごした時間に交わされた生の会話はもっと重要だったろう。なにせ1853年から96年までの44年分だ。それはクララにとっては35歳から77歳までの後半生だがブラームスにとってはシューマンの尽力で楽団に登場した20歳から死ぬ前年の63歳まで、つまり作曲家としての全ての期間をカヴァーしてしまう。

ここからは私見になるが、17歳年上の女性と結婚した彼の父親は女性依存の強い人、今でいわゆるマザーコンプレックスだったのではないだろうか。そしてその家で育った息子の方も。彼はクララからお金持ちのお嫁さんを早くもらいなさいと母親のように言われており、間にすきま風が吹いていた期間も何度かある。クララの娘に恋情をいだいたこともある。それでも彼は生涯にわたって新作をクララに送って意見、批判を仰ぐことをやめていない。「作曲家ブラームス」は精神的にクララに依存していたといって間違いではないだろう。彼が同時代の他人に、後世に、決して知らしめたくなかったことはそれに関わることではないかと思うのだ。

晩年のクララが音楽的に頑固な保守主義者となり、ワーグナーやリストに背を向けたという事実は注目に値する。それはブラームスという後継者が現れたことを心から喜び、それを広く紹介してから世を去っていった夫ロベルト・シューマンの音楽の敷いた路線でもある。その夫の音楽を各地で演奏して広めていくという献身的な活動は、クララの生涯にわたることになる。そのことをブラームスが内面においてどう受け止めていたかは大変に興味深い。その女性の精神的支配下にブラームスがあったから、彼の音楽性がロマン主義的であるにもかかわらず常に古典主義の衣装を纏い続けたという説明はもっともらしいが皮相的だろう。事はもっと深層心理的なものだ。

マザコンという言葉が奇矯に響くかもしれないが、誰しも子供時分は母親の強力な影響下にあるのが一般的だろう。それがどう残るかということであって、それは程度の問題ではないだろうか。僕の母は「男子厨房に入らず」を頑として貫徹して育ててくれた。家事能力はなしで今も家庭においては全面的に女性依存となったが、そのおかげで好きなことばかりを伸び伸びとできていっぱしに食えるようになったのだから感謝以外の言葉もない。しかし、もしそれが仕事でも女性依存となれば僕はもたない。男としての精神的基盤が崩壊してしまうだろう。

th6いくらクララが当代きっての名ピアニストではあってもシューマン未亡人ではあっても、彼女がブラームス以上の作曲家であの4つの交響曲以上のシンフォニーを書く能力があったわけではない。自己を存立させる基盤である仕事、人生をかけている作曲というものにおいてそれが女性依存に支えられたものだったかもしれないというのは僕にはとうてい信じられないが、ブラームスにおいてはそうだったのかもしれない。彼はチャイコフスキーやショパンがフォン・メック夫人やジョルジュ・サンドにもらっていたものとは違う何かかけがえのないものをクララから得ていたのだと思う。1896年、77歳で彼女が亡くなった翌年、ブラームスも後を追うように世を去った。63歳だった。

ピアノ協奏曲第1番 ニ短調作品15はシューマンが亡くなった翌年、ブラームス24歳の大作だ。父親が結婚した年齢である。ブラームスはクララへの手紙でその第2楽章アダージョについて、「あなたの穏やかな肖像画を描きたいと思って書いた」 と綴っている。これは音楽のラヴレターにほかならない。秋の夜長、じっくりとお聴きいただきたい。

・・・・

ピアノ協奏曲第1番ニ短調ニ短調作品15

ブラームスが24才で書いた最初のピアノ協奏曲である。ご参考までに、大作曲家たちが最初のピアノ協奏曲を書いた年齢はおおよそこのようになる。

モーツァルト11、メンデルスゾーン13、ラフマニノフ18、ショパン20、プロコフィエフ21、サンサーンス23、グリーグ24、リスト24、ウエーバー24、ベートーベン25、ショスタコーヴィチ27、ガーシュイン27、シューマン31(完成稿)、フンメル33、ハチャトリアン33、チャイコフスキー35、ドヴォルザーク35、バルトーク45、ラヴェル55

ブラームスは比較的若くに随分重い曲を書いたものだと思う。交響曲を書こうとしてベートーベンの壁に当たり、2台のピアノのソナタが発展してこの協奏曲になったとするのが通説だ。壁の存在は第1交響曲を書くまでの年数が明らかにしているわけで事実だが、それとともに影響したのはクララの存在の重みではないか。

そう思いあたったのはロンドンに赴任して間もないころ、ロイヤルフェスティバルホールでのことだった。スティーヴン・ビショップ・コヴァセヴィッチのピアノが何かを訴えかけ、アンタール・ドラティの伴奏に何かを見た。そういうことというのは音楽鑑賞においてそうあるわけではないが、そのとき僕は1番を初めて知った。

その前か後にやった交響曲第1番は残念ながらちっとも覚えがなくて、これだけが残っている。ドラティという大指揮者を聴いたのはその一度だけなのだけれど、あの演奏は不思議な律動があって、それが自分の奥底に響き、記憶に焼きついている。ひょっとして1番には若いブラームスの恋の熱でも封じ込められていて、やる方も聴く方もそれに共振できるかどうかなんじゃないかと思ったりもした。

これが第2楽章のピアノの入りだ。第1楽章の入りも憂いと慕情に満ちているが、これは自分で弾いたらわかる。恋してない男が書けるものではない(第1ピアノのほう)。

brahmsPC1

もうひとつ、非常に印象的なシーンがこれだ。終楽章のコーダの入り、ホルンが期待と憧れに満ちた上昇音型をppで吹く。それが木管に広がり、最後はフルートが受け取って感動的な至福の場面をつくる。

brahmsPC2

交響曲第1番の第4楽章に出てくるアルペンホルンを模したホルンの主題は、クララの誕生日を祝う手紙の中で「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」という歌詞が付けられている。ラブレターなのだ。そして読者はその場面で、ホルン主題をフルートが受け取ることをご存じのはずだ。

 

名曲ゆえおすすめCDは数多あるが、①意外に女性が弾いてない②名手でもミスタッチのまま録音をOKしているケースが多い、ことで不思議な曲だ。要は技術的に難しいのだろうが、もっとそうである2番は女性がけっこう弾いている。テンペラメントの問題なのだろうか。

 

アルトゥール・ルービンシュタイン / ズビン・メータ / イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

941ルービンシュタイン(1887-1982)の1976年の録音だ。24才の恋の曲と書きながらなぜ89才のピアニストの演奏なのか?聴いていただくしかない。僕の父も91で達者至極だが、記憶力はともかくこの指の回りはイメージできない。終楽章コーダはさすがに苦しいが、だからこそメータもオケも深い敬意をもって老ピアニストを支えているのがわかる。ルービンシュタインというと何とかの一つ覚えでショパンとなるが、彼自身は好きな作曲家はときかれ、ブラームスと答えている。

 

ジュリアス・カッチェン /  ピエール・モントゥー / ロンドン交響楽団

41DNVH0H64Lピアノの素晴らしさでは僕はこれがいちばんと思う。どこがどうではなく、こういうものだという感じを最も受ける。モントゥー(1875-1964)84才の録音だ。モントゥーによると、ブラームスはウィーンで彼がヴァイオリンを弾く自作の弦楽四重奏を聴き、「私の音楽をうまく弾くのはフランス人なんだね。ドイツ人はみんな重すぎてだめだ。」と言ったそうだ。モントゥーというとこれまたフランス物となっているが、彼自身は最も敬愛する作曲家はときかれ、ブラームスと答えている。

 

ウイルヘルム・ケンプ / フランツ・コンヴィチュニー / シュターツカペレ・ドレスデン

POCG-90123ゆっくりと始まる。ピアノを導くオケの律動は誠に見事。上記2盤にない古色蒼然たるドイツの味わいをコンヴィチュニーが存分に聴かせて魅力が尽きない。ホルンや木管を聴いてほしい。このオケはもはやこういう音はしないが、法隆寺を近代建築法で改装するような愚をなぜ犯したのか理解に苦しむ。ケンプのピアノは時にメカニックの弱さを感じることがあるがここでは立派で、第2楽章は誠に滋味あふれる名演だ。良い1番を聴いたという充足感がずっしりと残る。

 

ラドゥ・ルプー  /  エド・デ・ワールト / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

uccd-4561_rPH_extralarge出だしのオケの序奏部から彫が深く引き込まれる。理想的なテンションとテンポ、こくのあるティンパニ、この著名な録音、ピアノニストばかり誉められるが指揮の方もこのまま交響曲をやって欲しいほどで全録音中でもトップクラス。僕はこれが一番好きだ。そこにそっと寄り添ってくるルプーのデリケートなピアノ、この剛毅と抒情の対照は実に捨てがたく、この曲の本質を見事についている。ルプーはモーツァルトの17番k.453をフィラデルフィアで聴いたが、第2楽章のppなどライブでもこういう音がしたのを思い出す。

 

ルドルフ・ゼルキン / ジョージ・セル / クリーブランド管弦楽団

71fhCaNeR7L__SL1077_入試合格直前の74年11月末に1、2番の入ったLP(右のジャケットだった)を買って熱中していたが、これで落ちたら馬鹿の余裕だったからいい度胸だった。久しぶりに聴きかえし、各所でああなるほどこれだったとひざを打つ。2番で書いた通り、オケが楷書的で2台ピアノ版を想起させるほど競奏の味わいに満つ。オン気味に録られたゼルキンの技は切れているが上記②のミスタッチはあってなぜかそのままだ(終楽章冒頭など)。セルの指揮はアンサンブルの精度に絶句。こんなに研ぎ澄まされたオケの音はもうどこからも聞けない。襟を正して聴くしかない、立派の極致。

 

伊藤恵 / 朝比奈隆 / 新日本フィルハーモニー交響楽団

asahinaなにやら指揮者の気迫のこもったものものしい開始。どっしりした重心の低いオケがたっぷりしたテンポでロマンティックに歌いこむ。大変にブラームスにふさわしく絶賛したい。そしてひそやかに入ってくる伊藤のピアノがやがて高揚し、オケに添ってバスを効かせつつもロマンの味をたっぷり湛える。朝比奈が「伊藤君は男ですから」と冗談めかして誉めたピアノは心のひだをとらえて本当に素晴らしい。男と並べても当曲ナンバーワンクラスの名演であり、ライブの熱さもあり、僕はこのCDが大好きである。

 

ヤコブ・ギンペル/ ルドルフ・ケンペ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ginpel昼休みだった。会社の裏通りをなにくれとなく歩いて鄙びた雑貨屋にふらっと入った。そこにこれが、捨てられたようにあった。17.95マルクの安売り。その時の喜びったらない、今でもはっきり覚えてるぐらいなんだから。94年あたり、フランクフルトでのことだ。欲しいと思っていたディスクだった。聴いてみるとなんとも硬派だ。これがドイツのブラームスでなくてなんだろう。ケンペとBPOのごつごつ角ばった音作り、ホルンの重い音。白眉の第2楽章は遅めのテンポでロマンを語りぬく。昔の恋の述懐のようだがギンペルのピアノは媚のかけらもなく硬質で辛口。それゆえに上記楽譜のホルンの上昇音型がなんと感動的に響くものか!男のブラームス。音楽は弾く者の人生を語るのだ。ごつごつした木目もあらわな千年杉の一刀彫のような風情。僕はこのCDに浸るのが無上の喜びだ。きれいに表面の整ったつるつるのプラスチックみたいな現代の演奏。テクニックがどうの、ミスなく弾くことがどうのなどくそくらえである。

 

 

 

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テツラフ・カルテットを堪能(ベートーベン弦楽四重奏曲第15番イ短調作品132)

2014 OCT 8 1:01:57 am by 東 賢太郎

紀尾井ホールにて。現代屈指の実力派であるドイツのヴァイオリニストのクリスティアン・テツラフ、チェロに妹のターニャ(ドイツ・カンマーフィル首席)、第2ヴァイオリンにエリーザベト・クッフェラート(バンベルク響元コンマス)、ヴィオラにハンナ・ヴァインマイスター(チューリヒ歌劇場管コンマス)という豪華カルテットである。もちろん常設団体でないからやるときでないと聴けない。どうしても聴いてみたかった。彼らへの興味、そして大好きなベートーベンの15番がプログラムにあったので。

まずモーツァルトのハイドンセットから第15番ニ短調K.421だ。面白い。この曲は隣りの部屋でお産をしているコンスタンツェの悲鳴を聞きながら書いたという説がある。初めは俗説と思って無視していたが、この音がそれに比定されているのかな、モーツァルトの潜在意識にあったかなというフレーズはあるようにだんだん思えてきた。しかしこの演奏はそういうこととは無縁な純音楽的アプローチだ。

波打つような抑揚、深い呼吸で音楽に立体感があり音に透明感がある。第1楽章提示部の終わりの部分、第2VnとVaの細かい同音三連符は、僕の好みだが、もう少し音をスタッカート気味に粒だたせて弾いてほしかったが(フィガロにつながる天才的な音なんだから・・・)。終始気に入ったわけではないが、終ってみて良いものを聴いたなと体が満足しているのに気づいた。いつでもそうなるわけではない。

次はびっくりした。イェルク・ヴィトマン(1973~)の弦楽四重奏曲第3番「狩りの四重奏曲」だ。弦から出るありとあらゆる特殊奏法音、キーキー、ギーギー、ピーピー、ガリガリ、ゴリゴリ、パチパチというノイズと奏者のかけ声、弓を振る風の音を駆使して狩りを活写したリズミックで快速の曲だ。きれいな楽音はほとんどない。それで音楽になるのだから驚きだ。音楽ってなんだろう?少々考え方に変革を迫られる強烈な体験であった。

最後のベートーベンの第15番イ短調作品132が今日の目当てだ。この曲の第3楽章「リディア旋法による、病が癒えた者の神に対する感謝の歌」はベートーベンが書いた最も崇高な音楽の一つとして有名だが、そればかりではない。第1楽章も深遠だ。このチェロの開始こそバルトークの弦チェレ冒頭に結実したと僕は思っているし、第2Vnによる第2主題はブラームスに展開部はシューマンにこだましている。

難聴の精神的危機を乗り越えたベートーベンは弟の死、最後の失恋、腸カタルなど再度、再々度の危機に直面し、第9、最後の3つのピアノソナタ、ミサ・ソレムニスを完成した。その後、ピアノ、管弦楽ではなく依頼されたカルテットによる作曲に集中した彼は、最後にたどり着いた晩秋の透明な境地を無心にスコアに書きつけた。その澄んだ青空のごときものを含んだ作品群が12番以降の後期の四重奏曲である。

その5曲に思うことは、明確な旋律、和声、リズムはもはや彼の主眼にないことである。多楽章形式、対位法、フーガを採用し、美しい音楽ではなく心の真実の吐露を委ねた。ロマン派への一里塚となったと同時に主題は抽象化の度合いを高め、ブラームスを経て新ウィーン楽派、バルトークへの水脈も用意した。15番は4楽章で着想されたが腸カタルにより作曲が中断、3か月での回復の喜びと感謝をこめる意味でモルト・アダージョ~アンダンテ(第3楽章)が加えられた。5曲のうちでは旋律が明確なものに属する。

この15番はまぎれもなく過去聴いた最高のものだった。ターニャのチェロ(1776年グァダニーニ)の音は究極の美音といえ、同質の音であるヴィオラと完璧に一体化して2丁のヴァイオリンの織りなす音の綾にからみ、第1楽章の音のタペストリーの陰影が4人のソリストによって立体感をもって提示される。こんな上質の音楽はめったに聴けるものではない。

ノンヴィヴラートで調和する第3楽章アダージョは神秘的に美しいばかりでなく、未曾有の求心力で会場を包み込み息をのむばかり。本来は第9の終楽章だった第5楽章は堅固な構築感と推進力でもって堂々と閉じられる。感服。アンコールはハイドンのト短調作品20の3からメヌエットであった。

こういう見事なカルテットは音楽の王道だ。聴衆は音や旋律の美しさに酔うわけではない、4人の奏者の「気」に引きこまれ彼らの発するオーラに打たれるのだ。ひとりでは出ないが100人もいる必要もない。ぎりぎりに切り詰めた必要十分なアンサンブルこそ最も心を揺さぶることを今日教わった。

 

(補遺、16年2月7日)

15番の好きな録音としてまずこれだ。

カペー四重奏団 ( Capet Quartet )

312このフランスの名カルテットのベートーベンは傾聴している。一点の曇りもない明晰なアプローチで1928年(昭和3年)録音とはとうてい信じられない。ブラームスが自作のカルテットの演奏を聴いて「フランス人がいい、ドイツ人の演奏は重すぎる」と評したとピエール・モントゥーが述懐している(このフランス人とはモントゥー自身のことだが)。これはあくまで趣味の問題ではあるが、ベートーベン演奏においても僕は事大主義的に深刻で重くないtransperentなアプローチが好きだ。

 

イタリア四重奏団 (Quartetto Italiano)

4988005885135こちらのアンサンブルの透明度もすばらしい。この四重奏団の演奏はモーツァルトも全曲あって、得も言えぬ流れの良さが魅力だ。個々の奏者の完成度というよりも合わせ、合奏の熟成に重きがあって近年はあまり聞かないタイプとなってしまったが、弦楽四重奏の面白さは元来がこういうものだと思う。これだけ力まずごつごつもせず流れるベートーベンも希少で第3楽章も深遠というより不思議な温かみがある。この見事な弦の調和は簡易なPCではだめでオーディオ装置とそれなりのスピーカーで味わいたい。

 

(こちらへどうぞ)

モーツァルト 弦楽四重奏曲集 「ハイドン・セット」

シューマン弦楽四重奏曲第3番イ長調作品41-3

バルトーク 弦楽四重奏曲集

 

 

 

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クラシック徒然草-悲愴ソナタとショパン-

2014 SEP 21 1:01:40 am by 東 賢太郎

 

悲愴ソナタのアダージョ・カンタービレが、一か月の空白状態で乾ききった心に昨日すっとしみいってきた。これは言うまでもなくベートーベンの書いた名旋律だ。ビリー・ジョエルがThis Nightでパクっているほど。

弾いてみるものだ。いろいろ気がついた。まずこれだ。

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ここに来て、あれっと思った。ショパンの前奏曲作品28 のホ短調( No.4)じゃないか。こういうのは目や耳じゃなく指が見つける。

ここにだって、 エチュード第3番 「別れの曲」が見え隠れする。

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そうだろう、ショパンがこのソナタを知らなかったはずはない。その2曲はこのアダージョの子供みたいなものではないか。

この冒頭の第3小節の4つ目の8分音符、このシ♭をショパンはどう弾いたのだろう?

何故そんなことを考えるかというと、目をつぶって弾いていて僕はどうしても、そのシ♭にルバートをかけたい誘惑にかられてしまうことに気がついたからだ。理由はない。単に感覚的に。しかし正統派のピアノの先生はおそらくそれを戒めるだろう。これはドイツ音楽だ、ショパンじゃないと。確かに、僕が最も敬愛するバックハウスはルバートがないのだ。

この楽章を甘く、ロマンティックに弾くことは僕も反対だ。この旋律は4小節+4小節をひとフレーズとして西洋音楽の規範通りに書かれている。素晴らしい古典の均整と格調がある。それを壊してはいけない。しかし、である。第4小節の4拍目でメロディーラインのミ♭が半音上がる。バスもミ♭なのに!これが不協和音に聴こえないのは対位法的な音楽でないからだ。弦楽四重奏の譜面の様に見えるが、これは歌謡性の高い、メロディー(歌)と伴奏というピアノ的なものである。

第3,4小節とも、4拍目にサプライズが仕掛けられている。この意外性!

そして第5小節だ。A♭⇒F7 というベートーベンが好きな3度転調がやってくる。そこからバスは4度の上昇を3回重ねてトニックの変イ長調に回帰する。この意外性!

こういう目に見えない巨匠の意匠に目が向かないようであれば、僕はその人の芸術家としての資質を疑うしかない。ベートーベンはそれに気づいてくれる人に向けて音楽を書いている。それに気づいたというサインがテンポ・ルバートになるのであれば、それに気づいた聴衆にしかとキャッチされることになり、そのことをベートーベンが戒めることはないと思う。ピアノの先生がどう言おうと。

このアダージョはバッハの最上の音楽にだけある、澄み切った抒情に満ちている。しかし、それでいて宗教音楽ではない。教会を出た人間の音楽である。繊細に神経に触れてくる和声の色合い!これに魂が敏感に感じ、深く呼吸し、反応しなくて何があろう。

僕のまったくの空想であるが、ショパンはもちろんルバートし、そこからああいう曲想を得ていったと思う。彼の曲の和声の精妙さ。あんな音楽を書く人がこれを見逃したはずはない。第3小節でa♭、g、f と下がったバスがオクターヴ上がり、次のe♭が今度はオクターヴ下がる。こういうところもショパンにエコーしている。もちろんこれは前述の e♭と e♮ の不協和音を隠すためだ。

ところがである。残念ながらほとんどのピアニストがこれをほぼインテンポで弾く。ポリーニなどメトロノームのようで、彼は一体この楽譜に何を読んでいるのか、まったくもって信じ難い。ケンプもさらさらと小川のように流れてしまう。ぜんぜん魅力がない。一方で、何人かの人が僕の思うようにやってくれている。シュナーベル、リヒテル、ギレリス、アラウ、ホロヴィッツ、リルなど。

僕が何が言いたいかはこのギレリスの大家の芸で味わっていただきたい。シ♭のルバートはほんのかすか。しかしそれがまったく自然で、魂を天空に放つようにひっそりと、ふわっと宙に広がる。こういうところにピアニストの真の技量が出る。

ギレリスは録音が数種類あるがどれも似ている。唯一、後半のトリプレット(三連符)を強めにスタッカート気味にするのがやや僕は趣味に合わないが、それをのぞけばこの1968年12月モスクワライブは全曲にわたって名演である。もうひとつ、イギリスのジョン・リル。彼はチャイコフスキーコンクール優勝者だが僕は独墺系を評価している。これはもっと沈静感があり深い安息にひたれる。旋律の深い呼吸と間(ま)をよく聴いていただきたい。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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クラシック徒然草-1か月ぶり弾いたベートーベン-

2014 SEP 19 22:22:19 pm by 東 賢太郎

 

僕の唯一の迷信

これが当たったのか来週に大きなプレゼンテーションの予定が入り、今週は準備でちょっと気が立っていました。ところがそういう時に限っていろんなことがバタバタとおこって、音楽など聞く気にもなりません。

グローフェを書いてからだから今月は音楽断ちの異例事態でした。

今日帰ってきて、何の気もなくネットを見ていたら、ゾウの前で男性がピアノを弾いている映像が出てきて、つい見てしまいました。

ゾウはあまり反応してなくてつまらないのですが、彼が弾いていたのがベートーベンの悲愴ソナタの第2楽章でした。

これがゾウよりも僕に響きました。

そういえばピアノは1か月ぐらい触ってもいません。まずいもうだめかもしれない。昨日の英語の件もあったものですから。

楽譜を引っぱりだしてそれを弾きました。1時間ぐらい。

これは初めてでしたが、もう最高。満足です。高貴という言葉しかうかびません。

 

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クラシック徒然草-破格のピアニスト、H. J. リム賛-

2014 AUG 31 1:01:41 am by 東 賢太郎

先日、ベートーベンの18番のソナタのブログを書いていて、最近の演奏家はどうかなとyoutubeをのぞいていて初めてこの人を知った。この18番、尋常ではないものがあり、勢いに乗ってスパークするかと思えばすっと力を抜いて息をついたりする。中でも第1楽章の終わりをpにする版で弾いているのが気になった。

誰も知らない24歳がいきなりベートーベンを全部録音するというのはまったく破天荒である。ところが、調べるともう一枚ではラヴェルを弾いているではないか。こうなると僕としては聴かないわけにはいかない。そこで金曜日にベートーベンの2枚(5,6,7,16,17,18,28番)、それからラヴェルとスクリャービンの入ったCDを買って帰った。

雑誌や評論のようなものは一切読まないので、ピアノ愛好家で知らなかったのは僕だけのようだ。調べるとこうあった。

12歳で韓国から単身フランスに留学、パリ国立高等音楽院ではアンリ・バルダ教授に師事し首席で卒業。韓国の家族に演奏を見せるためにyoutubeに動画をアップしたところ、たちまちネットユーザーからの熱い支持を受け注目を集める。2011年EMIクラシックスと専属契約し、昨年ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集(8枚組)で異例のCDデビュー。同CDは、発売後、全米ビルボード・クラシック・チャートの1位を獲得し、ニューヨーク・タイムズや英テレグラフ紙でも高い評価を得た。

いよいよネット時代の申し子みたいな人が出てきた。コンクールで優勝なんかしなくても、ネット検索数が多ければ天下のEMIがCDにしてくれるのだ。そんなことはクラシック業界史上初である。リムは「ベートーヴェンのことは、考えると眠れなくなるほど好きでたまりません」と言っているが、好きかどうかより伝統流儀に長けた人がコンクールを通る。僕は流儀は立派でも心酔していない人より、眠れなくなるほど好きな人に弾いてほしい。彼女自身が自分の考えで数曲ずつグルーピングしていてその意味はよくわからないが、大事なのは「この曲が好き」という人が弾くことだ。御託はどうでもいい。「ラヴェルは子どもの悪夢とか妖精、ファンタジーの世界」とも言っている。そうもいえるが、それだけではない。でもそういうことは彼女はこれから見つけていくだろう。

僕はこのベートーベンは好きだ。御託に塗り固まったクラシックの殿堂をバズーカ砲でぶちこわしてくれて実に気持ちがいい。全部聴いてみたくなった。この「全部弾いてしまう」というのが特にいい。この奔放さは若い頃のアルゲリッチを思い出すが、彼女は選曲については決して奔放ではない。ところがこのリムは自分の信念と流儀で全曲をねじふせてしまっている。それが我流に聴こえないというところが最大のポイントである。テンポは総じて速いが、それに確信を持って弾いているのがわかるからタッチの浅い音があっても軽卒に聞こえない。

つまり、自説に絶対の自信があってオーラがある人がやるプレゼンなのだ。半年後の株式相場など誰もわからないが、話をきくやぐいぐい引き込まれて、なるほど確かに相場は上がるんだろうと全員が思わされてしまうスピーチのようなものだ。そういう人の話は、たとえちょっとぐらいのキズがあっても誰も気にしない。ところが用意した紙を読み上げるだけのスピーチだと、たちまち攻撃されて撃沈されてしまう。僕は仕事上そういうものをたくさん見てきているが、音楽の演奏でそんなことを連想するのは初めてである。

僕はピアニストでないが、聴衆として聴きたい音という観点からすると、彼女のピアノは非常にうまいと思う。これはラヴェルでわかる。こんな技術があるからベートーベンの難所を軽々となぎ倒していて痛快でもあるのだ。そういう部分が難しげに、あたかもピアノとの闘争みたいに弾かれると「ああベートーベンらしい」と思うように僕らは慣らされてきていて、それが御託の壁を高々と築いているとさえ思ってしまう。

彼女のテンペラメントは「ラヴァルスをこういう風に弾く人」ということで僕の中では一応規定されている。今の所。ベートーベンもそういう風に弾いているとみている。それが特に好きではないが、技術がないとそんなことはやりたくてもできないのだからどんどん思うことをやったらいい。彼女が「クープランの墓」を弾いても好きにならない可能性は感じつつも、25歳の彼女こそクラシック音楽の虚構をぶち壊そうに書いたことを「する」側からやってくれそうな人だ。だから好きである。

 

(追記)

この平均律第1集はたまげた。ハ長調前奏曲、なんだこれは?フーガは主題がやたらと浮き上がって対位法に聞こえない。しかし、だんだんと彼女のペースにハマり、耳が慣れ、これはグールド以来の名演じゃないかと思えてくる。とにかくうまいのだ。このテンポでこれだけ闊達に弾けるということ自体半端なことではなくラフマニノフ3番もブラームス2番も、要は何でもできる人だなあと思っていたが、バッハをこれだけ弾ければこそだ。何でも弾けることが価値ではなく、そのどれもがユニークであることが驚くべきことだ。大変な才能であり僕はこの破格の平均律を心から楽しんでいる。

 

 

 

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